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婚約破棄の現場でワインを浴びた子爵令嬢は、染み抜き台帳で王子の嘘を落とす

作者: 入河 珈一
掲載日:2026/06/01

その赤い染みは、屈辱ではなく王子の嘘を落とす証拠でした。

赤いワインは、私の胸元で花のように広がった。


 夜会の音楽が止まる。


 王太子エドガー殿下の隣で、男爵令嬢セリアが空の杯を震わせていた。


「ひどいわ、ミレーヌ様。殿下との婚約を解かれたからって、わたくしを突き飛ばすなんて」


 突き飛ばしていない。


 そう言おうとした私の声は、殿下の大きなため息で消された。


「ミレーヌ。最後まで見苦しいな」


 殿下は、婚約者だった私を一度も見ずに宣言した。


「本日をもって、君との婚約を破棄する。王家に必要なのは、陰気に布を洗う女ではない」


 会場の視線が刺さる。


 胸元のワインは冷たい。けれど私は、泣かなかった。


 私は王宮衣装室の染み抜き鑑定士だ。


 汚れは、落とす前に読む。


「殿下」


 私は濡れた胸元に指を添えた。


「この染み、落としてもよろしいでしょうか」


 殿下が眉をひそめる。


「何を言っている」


「証拠は、乾く前に処置しないと変質します」


 近衛の列の後ろで、衣装係のテオが息をのむのが見えた。彼は私が衣装室で働くとき、いつも替え布を運んでくれる青年だ。


 私はセリアの手元を見た。


 空の杯。


 彼女の右袖。


 そして、私のドレスに広がる赤。


「まず、香りが違います」


 私は自分の袖口を軽く押さえた。


「王宮夜会の赤ワインには、保存用の月桂香を入れます。けれどこの染みには、白百合香が混じっている。これはセリア様が好んで使う香油です」


 セリアの顔から、血の気が引いた。


「そんなもの、誰でも」


「誰でも使えます。ですが、白百合香は油です。ワインだけなら布に丸く広がる。香油が混じると、縁に薄い輪が残る」


 私は胸元の染みを指で示した。


 赤い輪の外に、淡い金の線がある。


「つまり、杯は私に当たる前に、セリア様の袖に触れています」


 会場がざわめいた。


 殿下は苛立たしげに言う。


「偶然だ。君が暴れたから袖に触れたのだろう」


「それなら、ワインは下から上へ飛びます」


 私はテオへ目を向けた。


「布張り板を」


 彼は迷わず頷き、衣装室用の白い板を持ってきた。夜会場にそんなものを置いているのは、王宮衣装室が毎回、招待客の応急処置を請け負うからだ。


 私は濡れたドレスの上から、布張り板を当てる。


「この染みは上から下へ流れています。杯は私より高い位置から、まっすぐ傾けられた」


 セリアは唇を噛んだ。


「でも、ミレーヌ様がわたくしを睨んで」


「睨みました。婚約者を奪われた直後ですから」


 会場のどこかで、小さな笑いが起きた。


 私は続ける。


「ですが、睨んだことと、突き飛ばしたことは別です」


 王妃陛下が、静かに扇を閉じた。


「ミレーヌ。台帳は」


「はい」


 私は腰の小さな革帳を取り出した。


 王宮染み抜き台帳。


 いつ、誰の衣装に、どんな汚れがつき、どう処置したかを記すもの。地味で、陰気で、殿下が嫌った仕事の記録。


「本日十八時二十分、セリア様の右袖に白百合香と銀粉の付着を確認。袖口の内側です。処置を求められましたが、夜会前に香りを残したいとのことで保留されました」


 セリアが叫ぶ。


「そんな台帳、あとから書けるわ!」


「書けません」


 テオが前に出た。


 彼は王妃陛下へ深く頭を下げる。


「王宮衣装室の台帳は、記録後に銀糸封緘を押します。時刻を書き換えれば、糸が黒く変わります」


 王妃陛下が台帳を受け取り、銀糸を確かめた。


 黒くない。


 殿下の顔が、ようやく私を見た。


「ミレーヌ。君は、王太子の言葉より台帳を信じろと言うのか」


「はい」


 私は濡れたドレスのまま、まっすぐ答えた。


「言葉は飾れます。布は、触れたものを覚えています」


 王妃陛下はため息をついた。


「エドガー。あなたは婚約破棄をしたいがために、相手の名誉を汚したのですね」


「母上、これは」


「そしてセリア嬢。王宮の証拠記録を侮りましたね」


 セリアは膝から崩れた。


 夜会場の視線は、もう私を責めていない。


 私の胸元に咲いた赤い染みを見ている。


 それは屈辱ではなかった。


 殿下の嘘を落とす前の、確かな証拠だった。


 王妃陛下は私に台帳を返す。


「ミレーヌ。婚約破棄は、王家側の不当行為として処理します。慰謝料と名誉回復の布告を出しましょう」


「ありがとうございます」


「それと、王宮衣装室の鑑定士を一人増やしたい。あなたに監督を頼めますか」


 思わず顔を上げた。


 テオが、少しだけ笑っている。


 私は濡れたドレスを見下ろした。


「まずは、この染みを落としてからでよろしければ」


 王妃陛下が笑った。


「ええ。王宮で一番美しく落としなさい」


 夜会の翌朝、王都には布告が出た。


 王太子の婚約破棄は不当。


 男爵令嬢の偽証は処罰。


 そして、王宮衣装室に新たな職位が置かれる。


 染み抜き鑑定監督官。


 私は白い作業着に袖を通し、台帳を開いた。


 隣でテオが新しい布張り板を運んでくる。


「ミレーヌ様。今日の依頼、一件目です」


「どんな染み?」


「殿下の礼服です。冷や汗が落ちないそうです」


 私は少しだけ考えた。


「それは、落とさなくていいわ」


 テオが吹き出した。


 私は台帳に新しい行を書き込む。


 汚れは、必ず理由を持つ。


 そして私はもう、誰かの嘘で汚されたまま立ち尽くす令嬢ではない。


 落とすべきものを、選べる鑑定士だ。

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