婚約破棄の現場でワインを浴びた子爵令嬢は、染み抜き台帳で王子の嘘を落とす
その赤い染みは、屈辱ではなく王子の嘘を落とす証拠でした。
赤いワインは、私の胸元で花のように広がった。
夜会の音楽が止まる。
王太子エドガー殿下の隣で、男爵令嬢セリアが空の杯を震わせていた。
「ひどいわ、ミレーヌ様。殿下との婚約を解かれたからって、わたくしを突き飛ばすなんて」
突き飛ばしていない。
そう言おうとした私の声は、殿下の大きなため息で消された。
「ミレーヌ。最後まで見苦しいな」
殿下は、婚約者だった私を一度も見ずに宣言した。
「本日をもって、君との婚約を破棄する。王家に必要なのは、陰気に布を洗う女ではない」
会場の視線が刺さる。
胸元のワインは冷たい。けれど私は、泣かなかった。
私は王宮衣装室の染み抜き鑑定士だ。
汚れは、落とす前に読む。
「殿下」
私は濡れた胸元に指を添えた。
「この染み、落としてもよろしいでしょうか」
殿下が眉をひそめる。
「何を言っている」
「証拠は、乾く前に処置しないと変質します」
近衛の列の後ろで、衣装係のテオが息をのむのが見えた。彼は私が衣装室で働くとき、いつも替え布を運んでくれる青年だ。
私はセリアの手元を見た。
空の杯。
彼女の右袖。
そして、私のドレスに広がる赤。
「まず、香りが違います」
私は自分の袖口を軽く押さえた。
「王宮夜会の赤ワインには、保存用の月桂香を入れます。けれどこの染みには、白百合香が混じっている。これはセリア様が好んで使う香油です」
セリアの顔から、血の気が引いた。
「そんなもの、誰でも」
「誰でも使えます。ですが、白百合香は油です。ワインだけなら布に丸く広がる。香油が混じると、縁に薄い輪が残る」
私は胸元の染みを指で示した。
赤い輪の外に、淡い金の線がある。
「つまり、杯は私に当たる前に、セリア様の袖に触れています」
会場がざわめいた。
殿下は苛立たしげに言う。
「偶然だ。君が暴れたから袖に触れたのだろう」
「それなら、ワインは下から上へ飛びます」
私はテオへ目を向けた。
「布張り板を」
彼は迷わず頷き、衣装室用の白い板を持ってきた。夜会場にそんなものを置いているのは、王宮衣装室が毎回、招待客の応急処置を請け負うからだ。
私は濡れたドレスの上から、布張り板を当てる。
「この染みは上から下へ流れています。杯は私より高い位置から、まっすぐ傾けられた」
セリアは唇を噛んだ。
「でも、ミレーヌ様がわたくしを睨んで」
「睨みました。婚約者を奪われた直後ですから」
会場のどこかで、小さな笑いが起きた。
私は続ける。
「ですが、睨んだことと、突き飛ばしたことは別です」
王妃陛下が、静かに扇を閉じた。
「ミレーヌ。台帳は」
「はい」
私は腰の小さな革帳を取り出した。
王宮染み抜き台帳。
いつ、誰の衣装に、どんな汚れがつき、どう処置したかを記すもの。地味で、陰気で、殿下が嫌った仕事の記録。
「本日十八時二十分、セリア様の右袖に白百合香と銀粉の付着を確認。袖口の内側です。処置を求められましたが、夜会前に香りを残したいとのことで保留されました」
セリアが叫ぶ。
「そんな台帳、あとから書けるわ!」
「書けません」
テオが前に出た。
彼は王妃陛下へ深く頭を下げる。
「王宮衣装室の台帳は、記録後に銀糸封緘を押します。時刻を書き換えれば、糸が黒く変わります」
王妃陛下が台帳を受け取り、銀糸を確かめた。
黒くない。
殿下の顔が、ようやく私を見た。
「ミレーヌ。君は、王太子の言葉より台帳を信じろと言うのか」
「はい」
私は濡れたドレスのまま、まっすぐ答えた。
「言葉は飾れます。布は、触れたものを覚えています」
王妃陛下はため息をついた。
「エドガー。あなたは婚約破棄をしたいがために、相手の名誉を汚したのですね」
「母上、これは」
「そしてセリア嬢。王宮の証拠記録を侮りましたね」
セリアは膝から崩れた。
夜会場の視線は、もう私を責めていない。
私の胸元に咲いた赤い染みを見ている。
それは屈辱ではなかった。
殿下の嘘を落とす前の、確かな証拠だった。
王妃陛下は私に台帳を返す。
「ミレーヌ。婚約破棄は、王家側の不当行為として処理します。慰謝料と名誉回復の布告を出しましょう」
「ありがとうございます」
「それと、王宮衣装室の鑑定士を一人増やしたい。あなたに監督を頼めますか」
思わず顔を上げた。
テオが、少しだけ笑っている。
私は濡れたドレスを見下ろした。
「まずは、この染みを落としてからでよろしければ」
王妃陛下が笑った。
「ええ。王宮で一番美しく落としなさい」
夜会の翌朝、王都には布告が出た。
王太子の婚約破棄は不当。
男爵令嬢の偽証は処罰。
そして、王宮衣装室に新たな職位が置かれる。
染み抜き鑑定監督官。
私は白い作業着に袖を通し、台帳を開いた。
隣でテオが新しい布張り板を運んでくる。
「ミレーヌ様。今日の依頼、一件目です」
「どんな染み?」
「殿下の礼服です。冷や汗が落ちないそうです」
私は少しだけ考えた。
「それは、落とさなくていいわ」
テオが吹き出した。
私は台帳に新しい行を書き込む。
汚れは、必ず理由を持つ。
そして私はもう、誰かの嘘で汚されたまま立ち尽くす令嬢ではない。
落とすべきものを、選べる鑑定士だ。
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