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余命わずかなセシリア公爵夫人は凛と咲く~復縁はご勝手にクズ夫さま~

掲載日:2026/03/25

 

「……愛しているよ、セシリア。君が最期の息を吐くその瞬間まで、僕がそばにいる」


 あのときの彼の声は、ひどく優しかった。

 高熱にうなされ、寝台から起き上がることもできなかった私の手を、彼は壊れものに触れるみたいに包み込んでいた。


 両親を早くに亡くし、アルフォート公爵家のただ一人の跡継ぎとして育てられた私は、昔からずっと孤独だった。

 社交界では“気の毒な令嬢”と囁かれ、病弱な娘に向けられるのは憐れみか打算ばかり。誰も、私自身を見ようとはしなかった。


 そんな私に、初めてまっすぐ笑いかけてきたのがエドガーだった。


「ひとりで退屈そうだね、公爵令嬢」


 夜会の隅、金の燭台が揺れる広間で、彼はそう言って私の前に膝を折った。

 その笑顔を、私は愚かなほど信じたのだ。


 それから彼は、折に触れて私を訪ねるようになった。

 珍しい異国の本を持ってきてくれたり、温室で咲いた花を一輪だけ選んで届けてくれたり。ほんのわずかな時間ですら、私には宝物だった。


 やがて私は熱を出して倒れ、主治医から残酷な診断を告げられた。

 持病の悪化。長くは生きられない、と。


 青ざめる私を見つめ、エドガーは穏やかに微笑んだ。


「たとえ残された時間が短くても、そのあいだに人の一生分の幸せを作ればいい」


「そんなことを言われたら……期待してしまうわ」


「期待してくれ。君が望むなら、僕はどんな未来でも一緒に見る」


 それは、飾り気のない求婚だった。

 夢を見てもいいのだと、初めて思えた瞬間でもあった。


 十六の春、私は彼の手を取った。

 その決断に、ただ一人だけ強く反対したのが、近衛騎士のレオンだった。


 私の二つ下。幼い頃からアルフォート家に仕え、無口なくせに、私が泣いたときだけ不器用に傍にいてくれた少年。

 今では剣を佩いた精悍な騎士に成長していたのに、そのときの彼は昔と同じ顔で私を見ていた。


「やめておけ」


 低く押し殺した声だった。


「あの男は、お前を見ていない」


「どうしてそんなことが言えるの?」


「……人を守る目じゃない」


 それでも私は笑ってしまった。

 自分がようやく手に入れた幸福を、手放したくなかったから。


「ありがとう。でも私は、信じたいの」


 そのとき、レオンは何も言わなかった。

 ただ、苦いものを飲み込むように視線を伏せた。


 あの沈黙の意味を、私はずっと後になって知ることになる。


 ◇


 セシリア・アルフォート。

 結婚から三年。私は公爵夫人となり、そして静かに“死を待つ女”であり続けた。


「子どものことは気にしなくていい。君の身体に負担はかけたくない」


 婚礼の夜、エドガーはそう言った。

 私はその優しさを疑わず、彼を愛し、彼のために穏やかに暮らそうと努めた。


 けれど現実は、少しずつ、確実に冷えていった。


 公爵家の実務を引き継いだエドガーは、忙しさを理由に屋敷を空けるようになった。帰宅は遅くなり、会話は減り、やがて私を見る目から熱そのものが消えた。


 それでも私は、見ないふりをしていた。

 愛していると思い込みたかった。

 ……いいえ。正確には、愛されていた頃の記憶に縋っていたのだと思う。


 体調の悪い日には読書をし、薬草学や法学、財務、領地経営に関する本を取り寄せた。

 公爵家の者として、何も知らぬまま死ぬのは嫌だったからだ。

 病床で過ごす時間は長かったが、だからこそ私は学んだ。税の流れも、穀物相場も、商人との契約の読み方も。寝台の上は、私にとって戦場だった。


 そして、ある日。


「ただいま」


 珍しく早い帰宅に、私は思わず顔を上げた。

 少しだけ胸が弾んだのは認めるしかない。


「セシリア。お前に紹介したい相手がいる」


 扉の向こうから現れた彼の隣には、見知らぬ女が立っていた。

 艶やかな紅のドレス。香水の匂い。勝ち誇ったような目。


 私はすぐに理解した。

 ああ、とうとうこの日が来たのだと。


 エドガーは私を見下ろし、冷たく笑った。


「医師から聞いたぞ。お前、もう長くないそうだな」


 労わりも躊躇もない声だった。

 そこにあったのは、ようやく荷物を捨てられる者の安堵だけ。


「そうらしいですわね」


 私が静かに答えると、彼は肩を揺らして笑った。


「やっとだ。病弱で役にも立たない女を抱え続けるのは面倒で仕方なかった」


 隣の女が、くすくすと喉を鳴らす。


「最初から分かっていたんだよ。親も後ろ盾もなく、病で長くは保たない公爵令嬢。口説いて籍を入れてしまえば、あとは自然に死ぬのを待つだけだ。これほど都合のいい女はいない」


 その言葉に、不思議なくらい胸は凪いでいた。

 たぶん私は、もうずっと前から知っていたのだ。

 彼が私ではなく、公爵家の名前だけを見ていることを。


「お前が死ねば、爵位も財産も全部こちらのものだ。この子を新しい公爵夫人に迎えればいい。お前みたいな出来損ないより、よほど絵になるだろう?」


 私は微笑んだ。

 泣いて見せる価値もないと思ったから。


 エドガーはそれを怯えと勘違いしたのだろう。満足げに鼻で笑い、愛人を連れて部屋を出ていった。


 扉が閉まる。

 静寂が降りる。


 そこでようやく、私は深く息を吐いた。


「……やっぱり、あまり傷つかなかったわね」


 小さく呟いて、机の引き出しを開ける。

 中には帳簿、契約書、診断記録、薬草の調合表、そして毒草の購入経路を記した証拠が整然と収められていた。


 ええ。

 私は知っていた。

 自分が少しずつ毒を盛られていたことも。主治医がエドガーに脅されていたことも。


 最初は高熱と倦怠感で死を覚悟した。

 けれど薬草学を学ぶうちに、処方に不自然な点があると気づいたのだ。問い詰められた主治医は震えながらすべてを白状し、そして泣きながら私に頭を下げた。


『奥様、どうかお許しを……』


『許しはしません。でも、償う機会なら差し上げます』


 それが、私たちの共犯の始まりだった。


 医師は引き続きエドガーに“余命わずか”と告げ続け、私は病弱な妻を演じ続けた。

 そのあいだに私は領地の実務を密かに掌握し、信用できる家臣とだけ連絡を取り、帳簿の流れを洗い、証拠を積み上げた。


 公爵家の収益を支えていた灌漑事業も、新しい薬草栽培の契約も、商業ギルドとの再交渉も、すべて私が裏で指示を出したものだ。エドガーは自分が才ある当主だと思い込んでいたようだけれど、実際には署名しかしていない。


 私は立ち上がり、窓辺に寄った。

 月明かりが差し込む硝子に、自分の顔が映る。

 頬はまだ細い。けれど、目だけは驚くほど強くなっていた。


「そろそろ幕を下ろしましょう、エドガー様」


 脳裏に浮かぶのは、もう一人の男の顔だった。


 レオン。


 最後まで、私を憐れまず、弱者扱いもせず、ただ“お前は立てる”と信じる目で見てくれた人。


 私は厚手の外套を羽織り、夜の屋敷を抜け出した。

 向かった先は、王都の外れにある騎士用の宿舎。


 扉を叩くと、しばらくして無造作な黒髪の男が現れた。

 寝起きらしいのに、その眼差しだけはすぐに鋭くなる。


「……ようやく決めたか」


「ええ。終わらせに来たわ」


 その瞬間、彼は目を見開いた。  けれどすぐに片膝をつき、騎士の礼を取る。


「なら命令してくれ。俺はあなたの騎士だ」


 ぶっきらぼうな声だった。  なのにその一言で、私の足から力が抜けそうになる。  この人は昔からそうだ。必要なときにだけ、必要な言葉をくれる。


 私は笑って頷いた。


「……いいえ。あなたの友人としてお願いするわ。私をたすけて」


「……もちろん」


 その声は、誰よりも静かで、誰よりも頼もしかった。


 ◇


 御前会議の朝、王宮は重く曇っていた。  公爵家の継承と不正を裁くため、国王の名のもとに重臣と有力貴族たちが招集されたのだ。


 広間の扉が開いたとき、最も大きく息を呑んだのはエドガーだった。


「……セシリア?」


 死にかけの妻が、自分の足で、まっすぐ歩いてくる。  その光景がよほど信じられなかったのだろう。


 私はざわめく視線の中を進み、広間の中央で立ち止まった。


「本日はお時間を賜り、感謝申し上げます。まず皆様にご報告があります」


 声は驚くほどよく響いた。  もう震えてはいなかった。


「私は長らく病に伏しているふりをしておりました。すべては、夫エドガー・アルフォートによる毒殺未遂と、公爵家私財の不正流用、その証拠を揃えるためです」


 広間の空気が変わる。  私は合図し、控えていた主治医と家臣たちを前へ進ませた。


 毒草の調合記録。購入伝票。医師の証言書。愛人への資金流出を示す帳簿。さらに、ここ数年の領地経営が誰の指示で立て直されたかを証明する契約書の束。


「灌漑事業による農地回復、薬草栽培の拡大、税率改正後の収支改善、商業ギルドとの新規契約――これらはすべて私が指揮したものです」


 ざわめきが走る。  エドガーが顔を真っ赤にして叫んだ。


「でたらめだ! 病人のお前にそんなことができるはず――」


「できましたわ」


 私は彼の声を静かに断ち切った。


「あなたが何も知らなかったのは、あなたが何も見ていなかったからです。私も、領地も、家臣も」


 数名の重臣が深く頷くのが見えた。  私は最後の一枚を掲げる。  それは、エドガーが私の死後に愛人を正式に迎え、王家への届出を偽装しようとしていた密書だった。


「以上の証拠をもって、エドガー・アルフォートの爵位剥奪、全資産没収、ならびに国外追放を請願いたします」


 アルフォート公爵家は王家の血を引く家門だ。  その正統な継承者を私欲のために毒殺しようとした罪は、家門ひとつの問題では済まされない。


 しばしの沈黙ののち、王命を預かる勅使が立ち上がった。


「証拠は十分である。よってエドガー・アルフォートより爵位を剥奪し、全資産を没収のうえ国外追放とする。あわせて、アルフォート公爵位の正統継承者をセシリア・アルフォートと認める」


 どよめきが広がる。  エドガーは膝から崩れ落ち、青ざめた顔で私を見上げた。


「待ってくれ、セシリア……! 誤解だ、私は――」


 私は彼の前で足を止めた。


 かつてなら、その声に心が揺れたのかもしれない。  でも今の私には、ただ滑稽にしか見えない。


「最後まで、私を甘く見ていたのね」


 それだけ告げて背を向ける。  背後で彼がなおも何か喚いていたけれど、もう聞く価値はなかった。


 広間の出口には、護衛として控えていたレオンが立っていた。  視線が合う。  それだけで十分だった。


 私は一人ではなかった。


 ◇


 数か月後。


 初夏の風が、アルフォート公爵邸の庭を吹き抜けていく。  白薔薇のアーチの向こうでは、子どもたちが笑い、使用人たちが忙しく行き交っていた。


 私は今、正式にアルフォート公爵として領地を治めている。  病床で学んだ知識は机上のものでは終わらなかった。新しい灌漑路は今年も豊かな収穫をもたらし、薬草園は王都随一の規模に育ちつつある。市場へ出れば民は気軽に声をかけてくれ、その笑顔を見るたび、やっとこの家の主になれたのだと思う。


 けれど、そんな日々の中でも、ときどき胸の奥が静かに熱を持つ瞬間がある。


 孤独だった少女に最初に手を差し伸べたのはエドガーだった。  けれど、壊れかけた私を本当に支えたのは、いつだって別の人だった。


 熱に浮かされる夜、扉越しに差し入れられた薬湯。  長い沈黙のあとで聞こえた「寝ろ」という不器用な声。  誰も信じられなくなりそうなとき、ただ一人だけ私を哀れまず、立てる者として見てくれた眼差し。


 あれがどれほど私を救っていたのか、今の私は知っている。


「また難しい顔をしている」


 低い声に振り返ると、そこには騎士服姿のレオンがいた。  公爵家付きの護衛騎士となった今も、彼は昔と同じように無愛想だ。


「考えごとよ」


「ろくでもない男のことならやめておけ」


「していないわ」


 そう答えると、レオンは少しだけ目を細めた。  疑っている顔ではなく、安心した顔だった。


 私は一歩近づく。


「ねえ、レオン」


「何だ」


「私、ようやく分かったの」


「何を」


「人を救うのは、甘い言葉じゃないってこと」


 彼が黙る。  私はその沈黙ごと愛おしく思いながら続けた。


「ずっと傍にいてくれたのは、あなただった」


 ぴくりと、彼の喉が揺れた。


「……今さらだ」


「ええ。本当に今さらね」


 それでも私は微笑む。


「だから、今から取り返したいの。失ったぶんも、遠回りしたぶんも」


 レオンは顔を背け、耳だけを赤くした。


「そういうことを平然と言うな。心臓に悪い」


「あら。氷みたいな騎士様にも、そんなところがあるの?」


「お前の前だけだ」


 あまりにも自然に零れたその言葉に、今度は私が息を呑んだ。  レオンはしまったという顔をしたが、もう遅い。


 私は笑って、彼へと手を差し出した。


「なら、これからも私の前だけでいて」


 しばしの沈黙ののち、彼は観念したようにその手を取る。  剣だこのある大きな手は、昔と同じく不器用なくせに、触れ方だけはどこまでも優しかった。


「……命令か、公爵様」


「お願いよ」


「それなら断れない」


 白薔薇が風に揺れる。  青く澄んだ空の下、私はようやく知った。  裏切りの先にも、終わりの先にも、ちゃんと未来はあるのだと。


 かつて死を待つだけだった私の人生は、もうどこにもない。


 これからは私が選び、私が守り、私が愛していく。


 その隣にはきっと、この無愛想で、誰よりも誠実な騎士がいるのだろう。


 そう思えたことが、何よりも幸福だった。


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