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奥手な二人は脱いだら淫ら(R15版)  作者: 矢崎未紗
第一章 曖昧な理想

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第03話 初めて見上げる星空(中)

 高校卒業後からアルバイトをしているものの、その収入は毎月の通信費と食費にほぼ消えている。服は相変わらず、姉の光希のおさがりをもらうこともしばしばで、高性能な登山装備を買いそろえられるほどの財布の余裕はなかった。夜とはいえ、もう五月なのでそこまで冷えないだろうと油断していたのはたしかだが、桃音の想像以上に夜の自然の中というのは冷える。


「はっく、しゅ……んっ」

「やだっ、本当に大丈夫? もう中に入る?」

「えっ、でも……もうちょっと見ていたいから」

「じゃあ、せめてこれ、一緒に着る?」


 くしゃみの止まらない桃音を心配した結美は、自分が着ているウィンドブレーカーの前ファスナーを開けて脱ごうとする。だが、ただ羽織るだけではそれほど防寒にはならないだろう。結美のほうが寒くなってしまう。


「ううん、大丈夫だよ。だからそれは結美ちゃんが着てて」


 そんな結美の手を桃音は止めて、結美が開きかけたファスナーを閉めてやる。

 低いとはいえ山と言える場所に行くから寒いよ、ちゃんと装備を準備してね――そう言われていたのに、少しでも出費を抑えたくて準備を怠ったのは自分の責任だ。桃音は懸命にホッカイロから暖をとりながら、ぴたりと結美にくっ付いて夜空を見上げた。


「舟形」

「っ……」


 その時、突然低い声に呼ばれて、桃音は飛び上がらんばかりに驚いた。誰だろうと思って振り向こうとするが、その前に何かが、桃音の背中側から覆いかぶさってくる。


「え、えっ……?」

「貸してやるから着てろ。ファスナーをちゃんと閉めろよ」

「え、あの……ま、松浦先輩……?」


 いつの間にか桃音の背後に立っていたのは謙志で、そして彼は自分が着ていたと思われる厚手のウィンドブレーカーを桃音に掛けてくれたのだった。


(ど、どうしよう……)


 大丈夫です、要りません――そう断ろうにも、謙志はすたすたと歩いて撮影ポジションを探し回り、そしてだいぶ離れたところで立ち止まって、またカメラを手に上を向いてしまった。彼のその目に、桃音はもう映っていない。


「桃音、ありがたく借りて着ておこう? まだこの星空、見ていたいんでしょ」

「う……うん……」


 隣に座っている結美が小声でうながす。

 桃音はおずおずと謙志のウィンドブレーカーに袖を通し、前のファスナーを首元までしっかりと上げた。


(す、すごい……あったかい……)


 直前まで謙志が着ていたからだろうか、それともこのウィンドブレーカーの品質によるものなのだろうか、たった一枚着ただけで、桃音が感じていた寒さはだいぶ軽減された。結美が着ている一般的なウィンドブレーカーに比べて、謙志のそれはやや厚手だ。風を防ぐだけでなく、寒さや水にも耐え得るようなアイテムなのだろう。

 これでは謙志が寒くなってしまい、彼に対して申し訳ないと萎縮する気持ちもあったが、寒さを気にすることなく星空を眺められるようになって、桃音は心からありがたいと思った。


「もっと大きいシートにすればよかった! そうしたら寝っ転がれたのにね」

「そうだね。でも、荷物がかさばっちゃいそうだよ」


 ホテルの中庭は星空観賞を目的に整備されているので、かなり広いエリアにわたって高木は伐採されている。また、寝転んで空を見上げられるように、地面はやわらかい芝が植えられていた。

 事前の持ち物リストの中にレジャーシートがあったので、桃音も結美も二人で座れるくらいのシートは持ってきており、実際に一枚だけ敷いて二人で隣り合っているわけだが、ファミリーサイズのもっと大きなものならば、寝転んで空を見上げられただろう。実際、慣れている二年生や三年生は大きなレジャーシートを敷いて寝転び、小さいながらにも分厚いブランケットを身体に掛けて優雅に星空観賞をしている。


「でも、ほんときれい……星ってこんなにたくさんあるのに、都会だと全然見えないんだね」

「そうだね」


 結美の感想に相槌を打ちながら、桃音は頷く。

 まだ見ていたい、と思った星々を数えるように鑑賞を楽しむが、桃音の心は先ほどから徐々に落ち着きをなくしていた。


(なんか……なんか、すごく……)


 謙志が貸してくれたウィンドブレーカー。桃音の身体を寒さから守ってくれるそれは、桃音を包むように不思議な匂いを発している気がする。ウィンドブレーカーの素材の匂いか、それとも謙志自身の匂いなのか。汗臭い、というものではなく、それは柔軟剤などの匂いなのかもしれない。だがそれにしては、作られた科学的な成分という感じの冷たさがない。まるで謙志に背後から抱きしめられているような、そんな錯覚さえさせる匂いだ。


(さわやかな……新芽みたいな……すごく……いい、匂い……)


 くしゃみはしなくなったが、代わりに桃音は、その匂いを思う存分嗅ぎたい衝動に駆られた。何度でも鼻の奥まで吸い込んで、身体の芯で味わいたい。我を忘れてこの匂いを取り込んで、頭の中が真っ白になってしまいたい。この匂いを嗅いでいると、心地よくて安心してしまう。とても無防備な自分になってしまいそうなその感じは、これまでの人生で感じたことのない心地だった。

 そうして桃音と結美は星空を見上げ続けていたが、さすがにかなり時間が経ってきたので、先輩たちの撤収する気配に便乗して、自分たちもレジャーシートを片付けることにした。

 立ち上がった桃音はきょろきょろとあたりを見渡して、謙志を探す。しかし、手元のスマホの画面の灯りで小さく照らす暗闇の中に、あの巨躯は見つからない。


「桃音? あ、上着を松浦先輩に返したいのね」

「うん……どこだろう」

「いつの間にか、先に戻っちゃったかな」

「かなあ……」


 サークルメンバーは一人、また一人と中庭を後にして、ホテルの中に入っていく。そのまばらな群れになんとなく加わりながら、それでも桃音は懸命に謙志を探した。


「観賞を終える人はここにチェックつけてねー。全員撤収したら、ホテルの人に戸締まりをお願いしなきゃだから」


 ホテルの一階ロビーでは、会長の素子がそう声掛けをしている。桃音と結美はそちらに近付き、テーブルの上にあった名簿の自分の名前の横にチェックマークを付けた。


「撤収か?」


 その時、素子にかかる声があった。桃音がはっとして振り向くと、そこには謙志と将樹が立っていた。歩いてきた方向を見るに、どうやらお手洗いに行っていたようだ。


「うん、二人ももう終了でいい?」

「いいっすよー。謙志は?」

「ああ」

「ほい、じゃあ……これで全員戻ったかな。お疲れ様。ゆっくり寝てねー」


 素子はリストを確認すると、テーブルの上に広げていたボールペンや自分のレジャーシートなどをまとめてホテルのフロントに向かった。


「あ、あのっ……松浦、先輩……」

「ん?」

「これ……えっと……」


 桃音はたたんで手に持っていたウィンドブレーカーを謙志に返そうとした。しかし、「洗ってから返したほうがいいのかな?」と思い至り、差し出した腕を引っ込めそうになる。


「あ、洗って……お返し……したほうが……いいですか」

「え……あ、いや……いい」


 謙志は少し言葉に詰まったが、首を横に振ると、桃音の手からさっと自分のウィンドブレーカーを受け取った。


「あ、ありがとう……ございました……その……すごく暖かかった、です」

「そうか」

「はい……」

「部屋でも夜はそこそこ冷えるから、ちゃんと布団を掛けて寝るんだよー。じゃあ、おやすみー」


 将樹が笑顔でそう声をかける。そして謙志は将樹と共に、男子部屋があるほうの棟へと歩いていった。桃音と結美も部屋に戻り、同室の三年生の先輩と少しばかり話してから寝支度をして、二段ベッドに横たわった。


(松浦先輩……どんな写真を撮ったのかな)


 暗くなった部屋で、桃音は目を閉じて考える。

 肉眼での観賞よりも、謙志はカメラのレンズ越しに空を見つめていることのほうが多かったように思う。今回はいったい、どんな写真を撮ったのだろうか。


(それに……上着……)


 脱いだら自分が寒いだろうに、自分のウィンドブレーカーを貸してくれたのはなぜだろうか。桃音がくしゃみをしていたことに気付き、気遣ってくれたのだろうか。普段キャンパス内で会うことも、サークルの部室で話すこともほとんどないのだが、そんな薄い関係の後輩を気遣って自分の上着を貸してくれるなんて、謙志は優しい人だ。


(もっと、話せたら……いいのに……)


 年上の、家族でも教師でもない男の人。それはこれまでの桃音の人生で、明確な輪郭を持ってすぐ傍に存在したことのない関係性の人だ。何か違和感を抱いてこんなにも気になってしまうのは、謙志がまだまだ慣れない、「男の先輩」という存在だからだろうか。


(松浦先輩……)


 ウィンドブレーカーを返した時の謙志は、相変わらず口数が少なくて、表情の変化に乏しかった。怖い、とは思わないけれども、軽々しく話しかけて近付ける雰囲気ではない。それでも、多くの星々を抱く広大な濃紺の海のようになんだか妙に頼もしくて、甘えてみたいという気持ちになった。


(私……これは……)


 結美だろうか、それとも三年の先輩だろうか、健やかな寝息が小さく聞こえる。

 初めてのサークルの合宿。それほど高くはないがれっきとした山の上、人口の灯りも少ない中で見上げた空は、びっくりするぐらいに星が多くてきれいだった。目を凝らせば、それぞれがわずかに違う色で発色していることも見てわかった。小さいものでもいいから、望遠鏡があればもっと違う姿を見ることもできるのかもしれない。天文研究会の活動は、なかなか趣深くて楽しい。

 その一方で、桃音はどうしても謙志が気になってしまった。深く親しく関わっているわけではないので当然なのだが、彼との間にある距離が、夜空の星々と同じくらい遠くに感じてしまう。そして、それでは淋しくて嫌だと。

 そんな自分の気持ちをなんと呼ぶべきなのか――桃音は自覚していたが、まだはっきりと言葉にするのは怖かった。



   ◆◇◆◇◆

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