第32話 二人で過ごす冬(下)
経営者になって多くを稼ぐということ。その目標を諦めたわけでも、断念したわけでもない。ただ、本当にその道でいいのかどうか、それで自分は幸せになれるのかどうか、その視点での問いにはまだ迷っている。自分が描いた未来を、自信を持って肯定できていない。
だからこそ、学生のうちにやれることをやってみたい。夢を描くだけでなく、実際にそれに近いことをやってみたら、もしかしたら自分には合っていないことだとわかるかもしれない。別のことのほうが、楽しんでやれるのかもしれない。もちろん思い描いたとおりに、楽しんで挑戦できるかもしれない。やってみて初めてわかることが、きっとある。そしてそれらの経験が、大学を出たあとの自分の道を照らす標になるような気がする。
「やれるうちに……やれることはやらないとな」
謙志も桃音に同調するように呟いた。
それはたとえば、こうして二人で星空を見るというデートもだ。
時間に余裕のある今のような生活は、いつまでも送れない。やっておけばよかったと悔いが残らないように、遊びも学びも全力で取り組んでこその大学生活だ。
「うん……。でも、謙志くんとのデートもしたいよ? 週一でもいいから、会いたいな。図書館が開いてる期間なら、一緒に図書館で勉強するのはどう?」
「そうしよう。自主研究、家で一人で進めても、絶対に行き詰まるから」
「難しそうな内容だもんね。就活までに、少しでも形になるといいね」
自分と同じように真面目に勉学に取り組む謙志の姿には、本当に励まされる。
桃音は謙志から星空へと視線を移して、この気持ちごと忘れないようにと、星々の瞬きを目に焼き付けた。
◆◇◆◇◆
それから二カ月ほどの時間が、怒涛の勢いで過ぎていった。
大学が冬休みに入ると、謙志はセイホク州の実家に帰省した。祖父母の家に行った桃音も、大学生活の様子を笑顔で祖父母に報告し、家族と共に年越しをする。
そうして短い冬休みはあっという間に終わり、年が明けてすぐに大学は再開したが、一カ月も経たないうちに試験期間に入った。桃音は次年度の学費免除の資格を得るべく、前期と同様にレポート作成にも試験にも、全力で取り組んだ。謙志も、企業に提出する成績表を少しでも良いものにすべく、どの科目も手を抜くことなく向き合った。
そして無事に試験が終わって二月に入ると、天文研究会の二泊三日の冬合宿が行われた。三年生から手続きの仕方などを引き継ぎつつ、二年生の会員が主体となって行う合宿だ。一年後はそうして自分たちの代がサークルの中心になるのだと思うと、思っていたよりも時間が過ぎるのはあっという間だねと、桃音は結美と一緒に少しばかり震え上がった。
長い春休みに入ると、桃音は短期アルバイトの紹介サービスに登録をして、いくつかの仕事を経験した。大きなコンサート会場の案内係や工場での仕分け作業、デパートでの期間限定商品の販売スタッフ、賃貸アパートの清掃業務など、どれも一日か二日で終わる簡単なものだったが、ファミレス以外の仕事は初めてなので、桃音は毎回ひどく緊張しながら現場に行った。
謙志のほうも、教授の宇津木がまたブリッジベル・カケラキーパーズのトレーニングに連れていってくれるというので、ありがたく同行させてもらった。前回はバッティング練習を中心に見学させてもらったが、今回はピッチャーの投球練習を中心に見させてもらった。その中で謙志ははっきりと、自分は打者のトレーナーのほうに興味があるのだと自覚した。投手のトレーニングも様々な視点があって面白いのだが、バッティング以上に専門的な知識や視野、何よりも経験が必要だと感じ、野球経験のない自分には高望みがすぎるかもしれないと思ったのだった。
◆◇◆◇◆
そうして忙しく春休みを過ごしながらも、謙志と桃音はデートを重ねていた。映画を一緒に見に行ったり、テレビのCMで見たことはあるが行ったことはないオフィスビル群を見に行ってみたり。そして今日は、午前中から謙志の部屋でいちゃいちゃする予定だった。
「ふふっ、今日は部屋の中がとても暖かいね」
玄関に入った時点で室内の暖かさを感じた桃音は、そう言ってほほ笑んだ。
「それは……まあ……その……」
服を脱いだ桃音とえっちをしたかったので暖房は入念に入れておきました、と明言するのは恥ずかしくて、謙志は曖昧に相槌を打つ。
「ねえ謙志くん……いつかでいいから、やってみたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
コートを脱ぎ、手洗いとうがいを済ませた桃音は謙志のベッドに腰掛ける。謙志もその隣に座って、桃音の続きを待った。
「えっとね……あの……謙志くんは嫌がるかもしれない……」
「聞いてみないとわからないけど……そんなにか?」
「あのね……」
普通の声で言うのは恥ずかしかったので、桃音は謙志の腕を引っ張る。そうして少しかがんでもらうと、桃音は謙志の耳元でささやいた。
「うっ……そっ、そんなの、どこで……っ」
その内容がなかなかマニアックだったので、謙志は目を見開いた。
「えっと、その……気になっていろいろ調べてみて……」
「そ、そうか……」
「うん……。したくはない……かな?」
「え、いや……」
謙志は迷った。
桃音にはもうずいぶんと自分の情けない姿を見せているが、まだこれ以上さらけ出していいものかと。桃音が乗り気なのはありがたいが、これ以上彼女に甘える形でいいのかと。
(いや、でも……甘えるのとは少し……違うか……?)
正直に言って、桃音が告げたそのプレイは、謙志もしてみたいと思っていた。なんならほかにも、口には出せないが桃音としたいこと――というより、桃音にしてほしいことはある。桃音にドン引きされるかもしれないと思って胸の内に秘めているが、情けないの一言では済まないような状況に追い込まれた、自分の羞恥の姿を見てほしいとも。
「謙志くんがしたくないなら……しないから……」
謙志の返事がにぶいので、桃音はしゅんとうなだれた。
「あ、いやっ、嫌じゃない……その……俺もしてみたいと……思う……」
「本当?」
「ああ……ただ、そのっ……俺、桃音にこれ以上情けないところを見せてもいいのかって……たぶん、あの……本当に、カッコ悪くなると思うから……」
「ふふっ……平気だよ? えっちで情けない謙志くん、かわいくて大好きだもん。それに、普段の謙志くんの格好いいところ、私、ちゃんと知ってるもん」
桃音は謙志の頬に手を伸ばした。そして彼の頬や耳の裏、首をやさしくなでる。まるで、謙志をなだめて落ち着かせるように。
「背も高いし、体格もいいし、謙志くんは格好いいよ? 村山さん以外の女の子にも、モテそうだなあ」
「いや、そんな……俺、女子からモテたことなんてないし……」
謙志自身はそう自認しているが、女子からモテた経験がない、ということはない。高校生の時も、華純を含め大学生になってからも、異性から告白された経験は何度かある。
しかし、謙志は女子に対して一枚も二枚も壁を作り、自分からは積極的に関わらないように過ごしてきた。顔だけなら将樹のほうが「イケメン」の部類だし、たしかに背は高いほうかもしれないが、スポーツ経験者が多いスポーツ科学科の中では突出して高身長である、ということもない。ゆえに自分は、異性にモテるような男であるとは思えなかった。
「じゃあ、これからモテちゃうかもね。でも、謙志くんの格好よさとかわいさを独占していいのは、私だけだからね?」
桃音の瞳が、妙に妖しく光る。そこに浮かぶのは、謙志に秋波を送るまだ見ぬ女への嫉妬か。それとも謙志を独占したいという気持ちか。そのどちらにしても、自分が桃音に支配されるような感覚がして、謙志の背中には喜びの鳥肌が立った。
「桃音」
「なあに」
「俺……桃音の声が好きだ。桃音の見た目も、性格も……桃音がしてくれることも、言ってくれることも……。勉強を頑張るところは尊敬するし、誰にでも優しいところも、尊いと思う……桃音って女の子と出逢えたことが本当に……夢みたいだ」
自慰行為のために見る動画ですら、理想に程遠い女優の声が耳障りで、消音にしなければ見られなかった。異性から告白されたところで、自分の中にときめきが生まれることはなかった。どんな女子も、謙志の目には魅力的に映らなかった。
そんな自分は、このままずっと性行為ができずに生きていくのかと思っていた。いつまでも満たされない自分はいつか、セルフコントロールのできない化け物になってしまうような気さえしていた。
けれども、桃音に出逢って何もかもが変わった。理想ぴったりの、すべてがかわいくて魅力的な桃音の存在は、本当に奇跡のようなものだ。
謙志は桃音の手を取った。自分よりも小さくて、薄くて、細い指。この指に全身をくまなくふれられて、力が抜けて、ふにゃふにゃになってしまいたい。男らしくないかもしれないが、そんな淫らな自分を愛してほしい。そして同じように、とても淫らになった桃音を全身全霊で愛したい。
「ふふっ、嬉しいな。私も謙志くんの全部が大好きだよ。だから今日も、いっぱいかわいがってあげる。もちろん、私のことも気持ちよくしてね?」
「ああ……」
謙志は言葉少なに頷くと、桃音の顎をくいっと持ち上げてキスをした。
二人が出逢ってから二度目の春が来るまでは、あと少し。




