第20話 切なくて弾けそうな我慢(上)
(謙志くん……我慢できてるかな。そんなに苦でもないかな?)
二日後、十月に入ると同時に大学の後期がスタートした。
桃音は五時限の講義が終わるなり、まっすぐにレンテバー駅を目指してゆりのき通りを歩く。昼間はまだ残暑を感じることもあるが、陽が沈むと空気の冷たさを感じるようになってきた。大学という新しい場所で新しい季節が始まろうとしているのだと思うと、わくわく感と同時に少しばかりの心細さも覚えるような気がした。
(大学に来ても会えないことが、まだこんなにも切ないなんて……前期と違って、もう付き合っているのに)
二日前、朝から大学の図書館で本を読んでいた桃音は、何度もスマホを手に取っては「会いたい」とメッセージアプリに打ち込み、そして何度もその文言を削除しては送信を断念した。
図書館で読書をしたくて大学に来たのは嘘ではないのだが、その日は三年次がオリエンテーションの日だったので、もしかしたら謙志に会えるかもしれないと期待していたのも嘘ではない。
だが謙志には謙志の予定があるだろうし、会いたいと伝えるべきではないのだろうと、ためらっていた。そこへ、謙志から同じようにただ一言、「会いたい」とメッセージが送られてきたので、桃音は心臓が飛び出るほどに驚き、そして喜んだ。
急いで謙志の元へ行くと、彼はまるで迷子の子供のように不安そうな表情をしていて、一目で「何かがあった」のだとわかった。聞けば、海外留学していた元カノが帰国してきて、食堂で話しかけられたという。だが、どんな態度で接すればいいのかわからないと。
異性関係に関して未熟な自分を謙志は恥じていたが、桃音はちっとも気にならなかった。なんなら、異性と接することが不得手な謙志ですらかわいくて好きだと、本当にそう思った。
たしかに付き合う前、どんどん先を歩いていってしまう謙志に困ったことはあった。それにこの夏まで謙志は童貞で、同世代の男の子に比べたら、女性経験は少ないほうだろう。だが、今は桃音の歩幅に合わせようと気遣ってくれるし、彼とのセックスに関しても、何も不満などない。本人に告げたように、ありのままの謙志のことが、本当に好きだと思っている。
だから桃音は、我慢できずに言ってしまった。不安そうにしていた謙志がかわいくて、別の方法でもっと謙志を不安にさせたくて、困らせたくて、それで命じたのだ。「次のえっちまでの自慰行為禁止」を。
(こういうの……管理してるって言うのかなあ)
家に向かうためにメラーラノラインの自動電車に乗り、一番端の席に座れた桃音は目を閉じて考えた。
謙志と付き合い始めたこの夏、人生で初めてのセックスを含めて、彼とは何度か本当のえっちをした。その都度、作業や義務のように行為をするのではなく、してみたいことを恐る恐る互いに提案し、相手の同意を確認し、性的な興奮を楽しみながら肌を重ねてきた。
そんな中で桃音は、謙志ともっと何かできないかと、勉強やアルバイトの合間にいろいろと調べた。そうして知ったのが、女性が男性を管理するというものだ。
(謙志くんはどんな顔で我慢してるのかなあ……平気そうだったら少し……つまらないなあ)
女の自分は一週間でも二週間でも、自慰行為をせずに過ごすことは苦ではない。だが身体の構造上、定期的に子種を出さないと新しい子種が生産できない男の謙志は、そうはいかないだろう。
(ふふっ……こうして想像するのも楽しいかも)
自慰行為禁止という命令を、果たして謙志は守れているだろうか。どんな顔で我慢しているのだろうか。どうしてもしたくなってしまって、表情を苦悶にゆがめているだろうか。ああ、その顔を見てみたい。我慢している顔を、そして達したいと懇願する謙志の表情を、じっくりと眺めてみたい。それはきっと、とてもかわいいに違いない。
(私……ゆがんでるかなあ)
謙志に、本当に心身がつらい状況になってほしいわけではない。痛みは決して与えたくないし、汚い不快感を覚えさせたくもない。
けれども、たとえばマッサージをされる際に「痛いけど気持ちいい」という感覚があるように、「苦しいけど気持ちいい」という境地にはなってほしいと思う。苦しくて、困り果てて、すがるようにねだってくる謙志はきっと、とてつもなくかわいい顔をしていると思うから。
明日は、三時限終わりに謙志と会える日だ。前期と曜日は違うが、幸運にもまた、一週間の中で一日だけ、午後の講義後に一緒に過ごせる日があったのだ。
わずか数日の我慢だが、自慰行為ができない日々を過ごした謙志はどんな表情を見せてくれるだろうか。桃音はそう楽しみにしながら帰宅するのだった。
◆◇◆◇◆
そして次の日。
それぞれの講義を終えた謙志と桃音は、キャンパス内で落ち合った。二人はゆりのき通りを歩いて駅に向かい、大学と反対側のエリアに出る。途中でコンビニに寄って飲み物を買い、それから謙志の部屋に向かう。
ベッドを背にして床に座っている謙志の頬にちゅ、ちゅと口付けをした桃音は、下からのぞき込むように謙志の表情をうかがった。
「ちゃんと我慢できた?」
「あ、ああ……」
謙志はそんな桃音を見下ろして、少しばかり頼りない声で答える。
「本当かな。チェックしてもいい?」
「えっ……」
「いいよね? ちゃんと我慢できたんだもんね?」
桃音は不敵にほほ笑む。
その笑みに、謙志は翻弄されまくった。我慢は今日までかと思ったが、そうではなかったのだ。桃音はかわいい顔で謙志を誘惑し、じらし、しかし我慢の継続を謙志に強いた。
「つらいと思うけど、まだ頑張ろうね?」
期待に満ちた光で瞳をキラキラ輝かせながら、桃音は満面の笑顔になった。
それからも謙志は、一日が過ぎるのをとても遅く感じながらも、桃音の言いつけを守って自慰行為をしないように我慢を続けた。部屋にいて少しでも桃音のことを思い出せば、己の分身はいとも簡単に屹立し、解放感に満ちた瞬間をひどく渇望したが、講義のことやアルバイトのことを思い出して心頭滅却を試みたり、どうしても身体が我慢できないときは筋トレをしたり、気を紛らわすように外に出てランニングをした。
それでも桃音を前にすると、静かに、しかし確実に興奮してしまう。
その興奮をどうにか鎮めるために、謙志は大学の講義に集中しようとする。早く果てたいとムラムラし、その感覚を抑えるために悶々とし、教授の声に集中しようとするが、どこかイライラもしてしまう。
火曜日の三時限は全学部に開かれている青年心理学の講義で、謙志と将樹の席の一列前の席には、桃音と結美が座っている。桃音の後ろ姿を見つめてどうにかイライラを抑えようとするが、そのイライラは一周して、目の前にいる桃音に身体を管理をされているのだという興奮へと戻ってきてしまう。
大学にいる間はまだいいが、部屋に帰ったら、約束の日が来る前に我慢しきれなくなってしまいそうだった。日に日に強くなる性欲に、謙志はほとほと困り果てた。
だが、勝手に自慰行為をしてそれが桃音にバレて、彼女に失望されたくはない。「我慢できてえらいね」とあの声に褒めてもらって、たっぷり甘やかしてもらってから思い切り達したい。桃音の言うとおりにして、桃音を喜ばせたい。謙志はその一心で、どうにか下半身の獣をおとなしくさせるのだった。
◆◇◆◇◆
「ねえ麻衣子、あそこに松浦がいる~」
青年心理学の講義が終わり、学生たちが次々に席を立って教室を出ていく中、蓮花は見知った人物が同じ教室内にいるのにふと気付いて、隣の麻衣子に声をかけた。
「え? あ、ほんとだ。野中も一緒だね」
「なんか……前の列にいる女子二人と話してない?」
「ええ?」
蓮花の指摘に、麻衣子は半信半疑だった。
学部が違うので、二人は謙志のことを、「華純の元カレ」ということでしか知らない。だが、華純から話を聞いたり何度か謙志を見かけたりした範囲内では、彼が異性と親しげに話すということはとても珍しいことだと思っていた。
「あの松浦が? 松浦ってなんか、女子と仲良くするタイプじゃなかったよね」
「そうだと思うけど……ああ、野中が一緒だからかな~」
「ああ、野中はねー。あいつはまあ、コミュ強だしね」
「相手の子たち、三年じゃないっぽいね。下の学年っぽいけど……サークルの後輩とかかな。片方はなんか、めちゃくちゃきれいな子なんだけど」
「どれどれ……う~ん……」
蓮花が視線を向けている先に、麻衣子も目を向ける。
通路を挟んで反対側のブロックの後方から五、六番目くらいの長机に座る謙志と将樹、そしてその前の列に、初々しさをやや残した女子が二人。遠くから見た感じの印象ではあったが、謙志の斜め前の席にいる女子は、たしかに美人だった。
「まあ、きれいだけど……華純に比べたら、たいしたことなくない?」
「それはそうだね~。華純はスタイルもいいしね~」
「華純、本気で松浦とヨリを戻したいのかなあ。だってたしか、『男としてつまらないし、リードも全然してくれないし、何もかも物足りなさすぎる』とか言って、華純が松浦を振ったんじゃなかったっけ」
「ああ、愚痴ってたねえ。なんだっけ、結局セックスもしなかった……とかだったよね。それなのにまた松浦を狙うって……松浦のどこがいいんだろ。背は高いし、スポ科だからなのか体格はいいし、顔もひどい不細工ってわけではないけどさ~。華純と釣り合うイケメンではない……よね?」
「なんか、華純をくすぐる要素でもあるのかしらね」
「海外の男を知って、今さらながらに松浦の良さに気付いたとか?」
「うーん……松浦の良さって何? リードもしない、セックスもしない、なんかそれって、男としての魅力、全然なくない?」
「松浦に男としての甲斐性がないのは否定できないねえ~。華純、そこが不満だったんじゃないのかな~」
「まあ、あれから一年経ってるし……なんか、ああやって松浦も少し変わったっぽいし……華純としては、好きなものは好きなのかしらねー」
講義が終わって出入口に向かう人の数が少なくなったので、蓮花と麻衣子は席を立って教室を出ていく。それでもまだ、謙志たち四人は座って楽しげに何かを話していた。
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