第19話 逃げてすがる姿勢(下)
謙志は無表情で、送信ボタンをとん、と押した。
既読マークはすぐに付くだろうか。桃音はいま、どこで何をしているだろうか。会えるだろうか。会えたらどうしようか。華純のことを――元カノのことを、桃音に話すべきなのだろうか。ああ、その判断もできない。わからない。元カノの話をされるなんて、きっと桃音は嫌な気持ちになるだけだろう。ならば、何も言わないのが正解なのだろうか。だが、どうして教えてくれなかったのかと、責められはしないだろうか。自分は桃音に対して、隠し事をしているということにならないだろうか。
<いま、どこにいますか?>
謙志がぼんやり考えていると、謙志のメッセージに既読マークが付き、そしてすぐに返事が来た。謙志はにわかに心臓を高鳴らせて、ぎこちない手で答えを送る。
<大学の三号館の、一階のソファだけど>
<わかりました。そこで待っていてください>
口での会話ならだいぶタメ口の増えてきた桃音だが、メッセージアプリではまだ丁寧語が抜けない。「タメ口で構わない」と、年上である自分のほうから言ってあげるべきなのだろう。そうした相手への配慮が足りていないことを、付き合い始めてから一カ月経ったいま、ようやく悟る。
「謙志くん」
「っ……」
自分の至らなさにへこんでいたせいでずいぶんと背中を丸めて俯いていた謙志だったが、優しい声に名前を呼ばれてはっと顔を上げた。そこには、いつものバッグを肩に掛けた桃音が立っていた。
「えっ、あ……どうして……」
「まだ講義は始まっていませんけど、図書館がもう開いていますから……今日は朝から図書館にいたんです」
桃音はそう説明すると、にっこりとほほ笑んだ。そして、スマホを持っていないほうの謙志の手を取ってソファから立ち上がらせると、静かに歩きだす。
「どこに……行くんだ?」
「すぐそこです」
ほぼ無人の一階ロビーを、桃音は奥へ歩いていく。そして自動販売機が三台置かれているコーナーに行くと、自分は行き止まりの奥側に立ち、謙志と向かい合った。
「少しかがんで、頭を下げてくれますか?」
「えっ……ああ」
桃音に言われた謙志は膝を曲げて腰を落とし、背中を丸める。
すると桃音は、そんな謙志の頭部をぎゅっと両手で抱きしめた。
「よしよし」
「っ……」
謙志の中にある漠然とした不安を見抜いているのか、桃音は幼子をなだめるような穏やかな声をかけながら、謙志の後頭部をなでた。
「もう……迷子の子みたいな顔をして」
一通り謙志の頭をなでると、桃音は謙志を解放した。しかし、謙志の両手を軽く手に取って、ふにふにと指先をさわりながら謙志を見上げる。
「何か、イヤなことでもありましたか?」
「あ……いや……その……」
会いたいと思った桃音にすぐ会えて、とても嬉しい。それに、何も言っていないのに桃音が何かを察して心配してくれることも嬉しくて、謙志の心の中は大きな感情の波がぐわん、ぐわんと揺れているようだった。
「えっと……桃音」
「はい」
「その、丁寧語じゃなくて……いいから」
「え?」
「あ、いや、そのほうが話しやすいならそれでもいいんだけど……タメ口でいいから」
「ふふっ……じゃあ、そうするね?」
桃音はくすりと笑って、口の端をつり上げた。
「それで……謙志くん、何かあったんじゃないのかなって思ったんだけど……。元気がないっていうか……不安そうな表情に見えたから」
「えっと……」
謙志はもごもごと口ごもった。
海外留学していた元カノの華純が戻ってきて、食堂で少しばかり話したこと。その華純の空気がどことなく嫌で、逃げてきたこと。
そんな話は、桃音にとっては面白くないだろうし、告げられても桃音は困るだけではないだろうか。それに、元カノから逃げた自分なんて情けなくて、桃音にがっかりされないだろうか。
「桃音には……不愉快な話かもしれない」
「うん」
「い、いいのか……?」
「いいよ? 謙志くんには大事というか……気掛かりなことなんでしょう? なら、知っておきたいな」
桃音がまっすぐに見つめてくるので、謙志は呼吸を整えてから話し始めた。
「一年前に二カ月ぐらい付き合ってた元カノが……海外留学に行ってたんだけど、帰国したみたいで……さっき、食堂で話しかけられたんだ」
「その元カノさんに、何か意地悪なことを言われたの?」
「意地悪なことというか……時間割を教えて、って……合わせるからって……。意味がわからなくて……でも、何か嫌で……」
華純は曖昧な言葉選びをする。まるで謙志を試すように、誘導するように。あるいは、決定的な責任を自分が持たないようにするために。
核心的なことははっきりと言わないのに、自分の都合のいいほうへ人や話を持っていこうとする。その見えない手のようなものが、謙志には不快だった。だからといって、その手をこちらが明確に振り払えば「悪者」になるのは自分のような気がして、きっぱりと拒絶することもできない。
「うーん……その元カノさん、まだ謙志くんのことが好きなのかな。ヨリを戻したいのかも?」
「いや……どうだろう。別れたのは向こうが俺を振ったからだし……俺に未練があるなんて思えない」
「元カノさんの学部と名前、教えてくれる?」
桃音が尋ねると、謙志は答えた。元カノの名前は村山・ジョアンナ・華純。国際政治学部の三年生で、チアリーディング部所属だと。
「元カノさんと話すのがイヤで……それで不安そうな表情をしていたのかな」
「自分でも……よくわからないんだ。村山の何がそんなに嫌なのか……でも、たしかに妙に不安になって……それで……桃音に会いたくなった。桃音に会えば……平気になれる気がしたんだ」
謙志はそう言うと、桃音の頬に片手を伸ばし、指の腹でやさしく桃音の頬をさすった。
「ごめん……なんか俺、とてつもなくカッコ悪いよな。村山とどんな距離感で話せばいいのかわからなくて……逃げてきたんだ。人間的に未熟すぎて……みっともない……ごめん」
桃音が大きく動揺することなく淡々と話を聞いて受け止めてくれるので、謙志は自己嫌悪もすべてさらけ出した。情けなくてみっともなくて、こんな自分を桃音に見せたいわけではないはずなのに、心の中で渦巻く自分への落胆を、少しでも外に吐き出して軽くしたかった。
「謙志くん……一つだけ、しっかりと憶えていてほしいことがあるの。私はね、そのままの謙志くんが好きだよ」
桃音は一歩謙志に近付くと、謙志の大きな身体を両腕でやんわりと抱きしめた。
「カッコ悪くてもいいよ。未熟でもいいよ。もっとこうなってほしい、なんて自分勝手な要望を、私は謙志くんに押し付けない。勉強も人間関係も、謙志くんが自分なりに向き合って取り組んで、何かを頑張って何かを失敗して……その結果がどういうものになってもいいんだよ。私に謝る必要はないの」
「でも……」
「もう一度言うね。私は、そのままの謙志くんが好き。気負わなくていいの。カメラを構えて星空を見上げて、真剣に写真を撮ってるところ……カッコよくて好きだよ。元カノさんにどういう対応をしたらいいかわからなくて困ってる謙志くんも、かわいくて好きだよ。全部……謙志くんだから好きだよ。謝ることなんて、何もないの」
「桃音……」
桃音の声は、本当に優しい。その声を聞いているだけで、謙志の中にあった漠然とした不安や不快感、それに自己嫌悪は、すぅっと透明になって消えていくようだった。
「元カノの話とか……桃音は嫌じゃないか? 不安にならないか?」
「ならないよ? だって、謙志くんの気持ちはその元カノさんになんて、今は一切向いていないでしょ? 元カノさんとの関係は過去のことで、今さらどうこうできることじゃなくて……つまり、気にしなくていいことだもん。むしろ、包み隠さず全部教えてもらったほうが、私は安心かな。今の謙志くんが好きなのは私だけ……でしょ? だから、私は不安にならないよ」
桃音は謙志の背中に両腕を回したまま、少しだけ不敵な笑みを浮かべて謙志を見上げた。やわらかさの中で一筋の強い光を放つ、桃音の瞳に浮かんでいるもの――それは自信だ。自分が謙志に好かれているという自信。それがあるから、桃音は揺らがない。
(俺も……)
そしてそれは、自分にも当てはまることだ。
桃音の言うとおり、自分の気持ちは一片も華純には残っていない。なんなら、華純のことを好きだと思ったことはただの一度もないのだ。
自分が好きなのは――好きになれたのは、桃音だけだ。ずっと理想としていた性行為ができることも含めて、自分は心から桃音を好いている。その気持ちには、少しの揺らぎもない。
そんな自分に、こうして桃音は真摯に心を向けてくれる。だから、華純がどんなふうに何を話しかけてこようとも、自分がぐらつく必要はないのだ。
「そうだな……俺が好きなのは桃音だけで……たぶん、この先もずっとそうなんだ」
「ふふっ、嬉しいな。謙志くんに不安な気持ちでいてほしいわけじゃないんだけど、でも情けない謙志くんの姿も、本当に私は好きだよ」
「そうか」
「うん」
「でも俺としては……もうちょっと、大人になりたい」
「じゃあ、焦らずゆっくり、いろんな経験をして成長していこう? 謙志くんが急いで大人になると、私が置いていかれちゃうよ」
「そんなことないと思う。桃音は、時々俺より大人だよ」
桃音に好きだと言ってもらえる。すると、心の中がほんのりとあたたかくなる。寒空の下から帰宅した家の中で温かい炬燵に入って、温かいスープのカップを両手で握りしめたような感じだ。
「謙志くん、このあと時間はある?」
「夜のバイトまでは暇だ」
「じゃあ一緒にPCルームに行って、履修登録をするのはどうかな? それで、一緒に過ごせる時間とかタイミングを把握してもいい? 勉強が一番の優先事項だけど……でも、謙志くんとの時間も作りたいの」
「ああ、そうするか」
後期も一緒に過ごす時間を作りたいと、桃音に先に言われてしまった。つくづく情けないとは思ったが、そうやって二人の関係を積極的に保とうとしてくれる桃音に、謙志はありがたさを感じた。
「あ、そうだ。あのね、ちょっとやってみたいことがあるんだけど……いいかな」
「なんだ?」
「ふふっ……しゃがんで、耳を貸してくれる?」
桃音はニヤりと笑うと、かがんだ謙志の耳元でささやいた。
「次にえっちするまで、今日から自分でするのは禁止ね♡」
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