第16話 あたふたして踏み出す一歩
玉苑スフィア大学の最寄り駅は、南北に伸びるメラーラノラインにあるレンテバー駅で、駅の東口側の幹線道路を挟んだところに、大学の広い敷地が広がっている。反対の西口側は中規模、小規模の飲食店や雑居ビルがあり、住宅街へ向かう少し入り組んだ道の途中にも、個人経営の店がいくつかある。
カフェを出た謙志と桃音は、まずは大学の敷地の外側をぐるりと一周してみた。駅の東口側は、大学がある以外は基本的に住宅地となっていたが、犬猫のトリミングを行うペットサロンやパン屋、クリーニング屋、それに何をしているのかはわからないが横文字の社名のロゴが壁に掲げられたオフィスビルなどもあった。
そうした知らない店の発見をしつつ、広大な敷地を一周してレンテバー駅に戻ってくると、今度は西口側の、謙志も歩いたことのない道を歩いてみた。迷ったらスマホで地図アプリを見ればいいので、桃音と謙志は手のひらを重ねるようにして手をつなぎ、のんびりと歩く。八月の終わりとはいえまだまだ暑さは厳しく、二人とも首元に汗をかいてしまった。
西口側も、駅から離れるにつれて一軒家、アパート、そしてマンションが多くなってきたが、意外と小さな飲食店があり、二人は和食がメインらしいお店に入ってみた。普通の一軒家の一階部分が店舗スペースになっているような小さな店に入るのは慣れていないので少し緊張したが、出された味噌汁も焼き魚もお新香も、まるで自宅でご飯を食べているかのように身近な味がした。
そうして少し遅めの昼ご飯をとった二人は、謙志のマンションを目指す。初めて訪問するわけではないのだが、付き合い始めてから行くのは初めてなので、桃音は若干緊張してしまった。それは謙志も同じで、付き合う前と同じように、桃音を招いたはいいものの口数が減ってしまう。
「あ、の……さっ」
居間の小さなローテーブルに向かって座り、しばらく経った頃。謙志はやや俯き加減で切り出した。
「桃音のこと、好きなのは……あの……身体が目当てとか……絶対、そういうのじゃないから……っ」
「え?」
「あ、いや……えっと……桃音とそういうことができるのはすごく嬉しいし……すごく理想どおりで好き……なんだけど……でも、そうじゃない桃音の部分も見て、好きだと思ったから」
理想どおりのえっちができるから好きなのだと、そう桃音に思われたくない。晴れて恋人同士になれたが、決して身体目的で付き合っているわけではないのだと、謙志は桃音に理解してほしかった。
「ふふっ……謙志くんは私のどこを見て……好きになってくれたんですか」
桃音は小さくほほ笑むと、謙志の真横に移動して、謙志の二の腕に頭をもたれさせて尋ねた。
「えっと……部室とかで……誰とでも、穏やかに話してるところ……。でも井口と一緒の時は、明るく笑うところ……。真面目に勉強していて、将来のことで悩んだりして……でも、俺のことも……否定しないで受け止めてくれるところ……。駅の改札で振り向いて、笑ってくれるところ……そういうの、全部……すごく……かわいいと思った」
「嬉しい……でも、照れますね」
桃音は謙志の言葉を噛み締めながら、しばし考える。それから、ゆっくりと口を開いた。
「謙志くんは……普段は、とてもクールでキリッとした印象で……格好いいと思います。あまり話さないように見えて、でも大事なことはきちんと話してくれる。だけど不用意に他人のことを深掘りすることはなくて……さりげなく気遣ってくれて……でも、戸惑ったり困惑したりすると、それがあからさまに表情に出て……すごくかわいいです」
桃音はそっと手を伸ばして、謙志の後頭部をやさしくなでた。襟足部分の、短くて硬い髪の毛のジョリっとした感触をこそばゆく思いながら、桃音は優しく、穏やかな表情になった。
「気遣い、は……まだ、全然できない……」
「そうですか?」
「ああ……」
謙志は自信なさげに呟く。その様がかわいく思えて、桃音は自分の中のスイッチが押されてしまうのを感じた。
「あの、謙志くん……歩いて汗をかいちゃったので……シャワー、貸してもらえますか?」
「えっ?」
「きれいな身体で……謙志くんにさわりたいから」
桃音は手を下ろすと、上目遣いで謙志を見上げた。すると謙志は耳を赤くして、こくりと頷く。そんな謙志の股間に桃音がちらっと視線を向けると、そこは早くも何かが硬く主張し始めていて、桃音はますます謙志のことをかわいいと思った。
謙志は洗面所に行き、バスタオルを取り出して洗濯機の上に置く。そして背後に付いてきた桃音を振り返り、尋ねた。
「えっと……着替えは……どうする?」
「そうですね……謙志くんのシャツとか……貸してもらえますか?」
「わかった。ちょっと待ってて」
謙志は急いで居間に戻ると、服を収納してあるプラスチックのケースをごそごそとあさる。そして、襟とボタン付きの白い長袖のシャツを取り出して、洗面所に戻った。
「これでいいか? それとも、半袖のほうがいいか?」
「いえ、これで大丈夫です。お借りしますね」
頷く桃音にシャツを渡すと、謙志は洗面所を出た。
(いや、待てよ……あれを着るってことは……つまり……)
シャワーの流水音を聞きながら、謙志は悶々と考える。
シャツは貸したが、下は貸していない。もしかしたら桃音はまた、謙志のシャツ一枚だけをワンピースのように着るのではないだろうか。それはつまり、いわゆる彼シャツというもので――。
(いや、スカートは普通にはくのかもしれないし……)
何度かこの部屋でえっちなことはしているものの、こういう流れで服装はどうするのが一般的なのかわからない謙志は、あれこれと考えながらおとなしく桃音を待った。
「ありがとうございました」
「っ……」
そして、洗面所から出てきた桃音を見て、謙志は言葉を失った。あの雨の日と同じように、桃音は謙志のシャツ一枚だけを着ていたのだ。
「あ、えっと……俺も浴びてくる……!」
動揺した謙志はやけに力強い声で宣言すると、桃音と入れ替わるようにシャワーを浴びた。
(落ち着け、落ち着け……)
普段より冷たく設定したシャワーを背中に浴びながら、謙志は心の中で呟く。だが、自分のシャツ一枚だけを着た桃音のかわいらしさの衝撃はすさまじく、下半身の分身は謙志の理性を置き去りにして強くたかぶっていた。
(えっと……付き合い始めたんだし、桃音が嫌がらないことならしていい……んだよな……?)
自分たちはもう、これまでのような曖昧な関係ではない。今はれっきとした恋人同士――カレシとカノジョなのだから、合意がある行為なら何も恐れずにしていいはずだ。
(桃音のあの太ももに、また……)
シャツの裾から見えていた、桃音の白くてやわらかい、しかし張りと弾力のある太もも。あそこにふれたり、その奥にある秘密の花園にもいよいよ足を踏み入れていいはずだ。
(やばい……落ち着け……っ)
これから桃音とえっちなことをするのだと思うと、謙志の心臓は馬鹿みたいに大きな音を立てて高鳴った。これでは、何か失態をして桃音に嫌われてしまうかもしれないし、それにとんでもない速さで達してしまいそうだ。
(あ、えっと……ゴム……)
先日の夏合宿で桃音と両思いになれた数日後、謙志は駅前の薬局で洗剤だのトイレットペーパーだの、消耗品をやけに多く買い込んだ。それらはすべて小さな箱――避妊具をごまかすためのカムフラージュだ。人生で初めてそれを買ったわけだが、それをしまった場所を謙志は思い出す。
(ある……大丈夫……)
道具の用意は大丈夫だが、大丈夫でないのは自分の分身のほうだ。
今日はこれからどんな破廉恥な流れになるのかはわからないが、桃音にされることや桃音の身体の刺激が強すぎて、下半身の獣は、それはもうたやすく、あっという間に果ててしまう。
(俺……いわゆる早漏なのか?)
自分がそういう体質なのか、それともいやらしい行為にまだ慣れていないだけなのか。どちらなのかはわからないが、どちらにしても、桃音をがっかりさせるような情けない姿はなるべく見せたくない。
(落ち着け……落ち着け……)
再び心の中で繰り返しながら、謙志はシャワーを止めて浴室を出た。そして新しいパンツと、ゆったりした生地の長ズボンと半袖のルームウェアを着て、洗面所を出る。
「あ、えっと……お待たせ……」
その声掛けはなんだか変だと思ったが、ほかに言いようもなかったので、謙志はどぎまぎしながら居間の座椅子の上に腰を下ろしてあぐらをかいた。
すると、桃音がまるで猫のように謙志の太ももの上に乗ってきて、首を伸ばす。桃音は謙志の首元の匂いをすんすんと嗅ぐと、にっこりとほほ笑んで謙志を見つめた。
それから二人は、淫らなキスを重ねた。付き合う前にはしなかったこともした。けれども、結局本番行為には至らなかった。桃音の身体の負担を考えて、謙志が桃音を気遣ったのだ。




