第02話 不思議と湧き起こる気持ち(上)
好きなタイプと呼び、単なる好みとして片付けていいのか。
今年大学生になる舟形・エリーズ・桃音は、我ながら凝り固まった理想を抱いてしまったなあ、と思っていた。
桃音が小学校に入って少し経った頃、母が難病を患ってしまった。薬を飲み続ければ症状を抑えることができる病だったが、その薬は決して安くはなく、おまけに毎日飲まなければならないもので、母を心から大事にしている父は、桃音を含め三人の子供たちに苦しそうな表情で謝った。「うちは貧乏になるし、お前たちにも苦労をかける。でも、薬を飲まなければ母さんが死んでしまう。だから父さんは、何よりも母さんの薬を優先する」と。
幼い桃音は、父の言う「貧乏になる」ことも「苦労をかける」ことも、その具体的な意味はわからなかった。だが、母が死んでしまうくらいなら貧乏でも苦労があっても全然構わないと思った。それは三歳年上の、二卵性双生児である兄と姉も同じだったように思う。
服はほぼすべて姉のおさがり。文房具でさえ、姉や兄が使わなくなったものは積極的に譲ってもらい、桃音は新品のものを買ってもらったことが、ほとんどない。だが、特に不満はなかった。薬さえ飲んでいれば母は元気でいてくれて、外で働くことはできなくなったが、家事をすべて引き受けて、毎日家族みんなの生活を支えてくれた。
桃音が不満だったのは、そんな家庭環境ではない。小学校の授業内容だった。
低学年の頃から薄々感じてはいたのだが、語彙が増えて思考力も高まってくると、桃音は明確に思うようになった。「小学校の授業は簡単すぎてつまらない。もっと難しい勉強がしたい」と。兄と姉にそう愚痴をこぼしたら、とても驚かれた。兄と姉は、一度でもそんなことを考えたことがないと。しなくていいなら、学校の勉強なんてしたくないくらいだと。
二人は、そんな桃音の不満を父に相談した。おそらく桃音は、もっと勉強ができる環境に置いてあげたほうがいいのではないかと。自分たちはまったく意欲がなかったが、もしも学費の工面ができるのなら中学受験をさせて、よりレベルの高い高校、大学を目指すのもありなんじゃないかと。
父は悩んだが、両家の祖父母に頭を下げて少しばかりの援助をしてもらい、桃音を中学受験のための学習塾に入れた。小学校の勉強とはまったく違う、質も量も一気に充実した勉強内容に桃音は興奮し、それはもう、喜んで勉強した。そして桜華育慧女学院という名門の女子校を受験し、見事に合格した。
中学に入ってからも、桃音は勉学に励んだ。
兄や姉のように公立の中学、高校に通わず私立の中高一貫校に通うことは、父にとてつもない経済的負担をかけている。そんな父に、いつか楽をさせてあげたい。そのためにはもっと勉強して、将来自分が誰よりも多くの収入を得られるようになるしかない。誰かに雇われるのではなく、自分が雇う側になるくらい――つまり、経営者になるくらい、頑張りたい。漠然とではあるが、桃音は将来の進路についてそう考えた。
そのため、大学は家からなるべく近いところで、経営学が学べるうえに将来的なコネも期待できそうなところ、という条件で選んだ。あいにく国公立大学は家から遠く、一人暮らしで通うことを父が許さなかったので、桃音は心苦しくも私立の玉苑スフィア大学を受験した。受験時の成績ではなく、入学後の成績次第で学費免除の待遇を得られる制度があるので、桃音は大学でも勉学に励む意欲を燃やしていた。
けれども、決して勉強だけでなく、大学生らしいことも楽しみたいと思っていた。それはサークル活動やアルバイト、そして恋愛だ。中学と高校はお嬢様女子校だったので、恋愛はおろか、異性とのご縁も皆無だったのだ。
中高時代、姉が少ないお小遣いをやりくりして買った漫画を貸してもらうことが、桃音の密かな楽しみだった。主に少女漫画を通して、桃音は恋愛への憧れをふくらませていったのだ。
だがいつの頃からだろうか、もしも自分が恋愛をするなら、少女漫画に出てくるような男の子が相手では物足りないだろうなと思うようになった。
姉が貸してくれた少女漫画に出てくるヒーローは誰も彼もイケメンで、顎も首も腰も細く、しゅっとした体型で、キラキラのトーンが似合うようなスマートな男の子ばかりだった。少女漫画のヒーローなので、それこそが至高の男の子なのだろう。
でも、桃音は何かが不満だった。物足りないと、これは違うと思った。そこで、今度は男の子が読む少年漫画を兄から借りた。少女漫画のヒーローと違って、少年漫画のヒーローは熱く、時に下品で、しかしパワフルで仲間思いで、少女漫画に出てくる男の子のようなスマートさはないものの、有り余るような力強さがあり、読者層が違うと同じ「男の子」でもこんなに描かれ方が違うのかと、桃音は驚いた。
しかしその少年漫画を読んでも、桃音は自分の中の不思議な空洞が満たされないと感じた。何か、何か違うのだ。何か足りないのだ。キラキラの王子様のようなヒーローでもなく、熱血でパワフルなヒーローでもない。自分が恋をしたいのは、何かもっと別のタイプの男の子なのだ。
これは好きなタイプと言ってよいものなのだろうか。自分は何か、とても面倒で複雑な人でないと好きになれないのだろうか。どういう相手だったら好きだと思えて、そしてこの胸の中にある不思議な空洞を満たすことができるのだろうか。
言語化しきれない、けれども自分の中にたしかにある謎めいた理想と渇望を、桃音は密かに持て余した。
「あっ、ねえ見て、あそこの写真、すごくきれい!」
「えっ……あ、本当だ。見てみようか」
入学式が終わり、週明けの月曜日。講義がすぐ始まるわけではなく、最初はオリエンテーションと履修登録をする期間がもうけられている。
桃音は、高校からの親友である井口・アリエル・結美と一緒に、オリエンテーション会場に向かって「ゆりのき通り」を歩いていた。
様々な部活やサークルが新入生を勧誘するためにのぼりを立て、机を広げ、その上に活動写真やパンフレットなどを広げているゆりのき通りは、新学期ならではのお祭りのような雰囲気がある。ほかにもいくつかのサークルのブースに視線が向いたが、二人が明確に近寄ったのは、美しい星空の写真を飾っていた天文研究会の机だった。
「おはようございます。見てもいいですか」
「おはよう~。来てくれてありがとう。どうぞ、好きに見ていいよ~」
結美が愛想よく挨拶をして話しかけると、ブースに立っていたショートヘアの女性がにこやかに頷いてくれた。
飾られていた写真は、深夜と思われる深い濃紺を背景にした写真もあれば、朝焼けか夕焼けか区別がつかないような赤みと青みの混ざった空に一つだけ光る星の写真もある。「天文研究会」というのぼりが立っていたのでなんのサークルなのかはわかるが、撮影者が星を好きなことは写真からもよく伝わってきた。
「新入生かな?」
「はい、そうです」
「そっか。私が会長でね、大網・ナタリーヤ・素子だよ。文学部人文科学科の三年生なんだけど、一浪してるから年齢は二十二なんだ。天文研究会は、見てのとおり星空を愛でる会。星が見える時間帯での活動になるからどうしても夜が多くなっちゃうけど、それぞれが無理のない範囲でマイペースに活動できる、いいサークルだよ~」
素子はそう言うと、サークルペーパーを桃音と結美にそれぞれ手渡した。そこには集合写真や飲み会の写真が載っているほか、サークルの活動概要やサークル紹介のテキストが書かれていた。
「メンバーは何人くらいいるんですか?」
「ん~とね、在籍人数は全学年合わせて五十人くらいかなあ……幽霊会員もいるし、ほどほどに参加、ってメンバーもいるけど、まあ、アクティブなのは二十人か、二十五人くらいかな」
「あの……お金って、どれくらいかかりますか?」
結美に続いて、桃音も気になったことを尋ねてみた。
カメラは持っておらず、写真を撮る機材はスマホしか持っていない。もしもカメラ購入が必須ならば、少し金銭的に苦しいかもしれない。雰囲気の良さそうなサークルなので気にはなるが、活動に結構な金銭が必要となると入会は難しい。
「初年度だけ払う入会費と、毎年一回払う年会費がそれぞれ一万くらいかな。あとは合宿参加費用が都度かかるのと、合宿に必要なものを自前でそろえてもらうのにもお金がかかるけど、それくらいかな。飲み会は新歓コンパと忘年会があるけど、それ以外は各自で、って感じだから、参加しなければそんなにかからないと思うよ。金銭的に難しいなら、合宿は不参加でも全然問題ないし」
「合宿に必要なものって何ですか?」
さらに結美が尋ねると、素子は答えた。
「夜の活動だから、いつどこに行くにしても結構寒いんだよね。だからウィンドブレーカーとか、歩きやすい靴とか、わかりやすく言うと登山グッズみたいなものがあるといいね。まあ、本当に山登りするわけじゃないから、セーターを重ね着とかでも大丈夫だけど。あとは、天体観測用の懐中電灯とかもあると便利だけど、購入必須ってわけではないよ~」
「カメラとかも……ですか?」




