第15話 あふれて重なる恋情(上)
広場から宿に戻ってきたサークルメンバーは、就寝前の残り時間を自由に過ごしていた。寝支度をして自分の布団を敷く者もいれば、テレビをつけてだらりと見始める者もいる。明日は貸し切りバスでゆっくりと首都特区に戻るだけなので、今夜は時間の許す限り遊ぶつもりで、学年関係なくメンバーを誘って旅館にあるカラオケルームへ遊びに行く者たちもいた。
謙志はというと、部屋に戻るなりきっちりと荷物の整理をして、旅館の浴衣の上から半纏を身にまとい、広縁の椅子に座って窓の外を見つめていた。
(なるようになる、なんて……考えが甘すぎたな)
予想はしていたが、夏合宿はいつになく大勢のメンバーが参加するので、桃音と二人きりになるどころか、まともに話せる機会さえなかった。人数が多くなると、どうしても同じ学年のメンバー同士で固まることが多いからだ。普段から部室で交流をしている者たちは、学年の垣根なくつるんで楽しんでいることもあるが、そんな大勢の目がある中で桃音だけを特別扱いできるような気概は、残念ながら奥手な謙志にはなかった。
(天気は……すごくよかったな)
昨日も今日も、多少雲は出たが穏やかに晴れて、絶好の星空観察日和だった。去年の夏合宿は雨が降り、星空が一切見えなかったので、男子の大部屋に女子も集まって、全員で人狼ゲームをした記憶がある。その時に比べたら、今回は天文研究会の本懐を遂げたと言えよう。
(舟形と一緒に、星を見たかったけど……)
せっかく天気が良好なのだから、この美しい星空を桃音と一緒に見上げられたらいいのに。謙志の胸の中には、その願望が静かな波のようにたゆたう。
カラオケルームに行った者、もう一度露天風呂に行った者、すでに部屋の明かりの一部を消して布団に入っている者。誰もが自由に過ごしているが、眠りの時間という空気は確実に満ちてきている。今年の夏合宿は、もう間もなく終わるのだ。
(もし、このままだったら……)
桃音に好きだと言えないままだったら、自分たちの関係はこの先どうなるのだろうか。
今は桃音に悪く思われていないような気がしているが、このままいつまでも「好きだ」と言えない意気地なしでいたら、そんな桃音の気持ちも変わってしまうかもしれない。自分はいったいいつまで、情けない恋愛初心者でいるのだろうか。
(愛想を尽かされて……そしたらもう二度と……)
謙志は、いつか桃音に言われたことを思い出す。自分が桃音のような女の子を理想としていたように、桃音も謙志のような異性が理想だったと。奇跡的なことに、自分たちは互いがそれぞれの理想ぴったりなのだ。
これまでの桃音は、どんなに情けない謙志の姿も許して受け入れてくれた。だが、この奇跡的で曖昧な関係にいつまでも甘えていたら、いつかきっと、桃音も嫌になるかもしれない。そうなったら、あんなふうに破廉恥にからみ合うことはできなくなってしまう。ようやく見つけた、理想の女の子なのに。
(それに、身体のことは抜きにしても……)
卑猥な行為の時以外にも、桃音には不甲斐ない姿を何度か見せているはずだ。それなのに、桃音はいつだって謙志を否定することなくほほ笑んでくれた。桃音をスマートに、積極的に、リードしてやれない甲斐性なしでも、彼女が不満そうな顔を見せたことはない。謙志に何かを期待して希望を押し付けるということもなく、ありのままの謙志の姿を見て、そして包んでくれた。こんな未熟な自分を、「素敵だと思う」と言ってくれた。
(俺は舟形のことを、こんなにも好きだと思う。だから……)
舟形・エリーズ・桃音という女の子を、自分だけのものにしたい。もっと大事にしたい。俺の特別な宝物なんだと、周囲から切り取ってしまいたい。
(言えないとかじゃ……もう……ない……)
星空がいつでも見えるわけではないように、欲しいと望めばいつでも楽に手に入る、なんてものはない。自分にとって大事だと思うものならなおさら、しっかりとこの手を伸ばして必死にならなければ、決して手に入らないのだ。
謙志は小さなテーブルの上に置いておいた自分のスマホを手に取った。そしてメッセージを一つ送ると、カードキーを一枚手に持って大部屋を出る。
天文研究会のメンバー以外にも宿泊客はいるだろうが、夜もだいぶ遅い時間なので、廊下を歩く人はいない。自分のスリッパの音をずいぶんと大きく感じながら、謙志は一階のロビーを目指した。
露天風呂やカラオケルームなどがある館とロビーはずいぶんと離れているので、部屋の外にいるはずのサークルメンバーの声は一切聞こえない。この旅館はいま、美しい星空の下で静かにゆっくりと眠りにつこうとしているようだ。
いくつもある大きなソファに腰を下ろそうかと思ったが、中庭に面した大きなガラス窓に近付くと外の星空がよく見えたので、謙志は立ったまま夜空を見上げた。どうかこのまま、誰かが来ることもなく、ここで桃音と二人きりになれますようにと祈りながら。
そうして待つこと少し、小さなスリッパの音が近付いてきた。
「松浦先輩……っ」
そのスリッパの主は、闇夜の静寂にひびを入れないようにととても気を遣って、小さな声で謙志を呼んだ。
「すみません、お待たせ……しました……っ」
謙志と同じように旅館の浴衣を着て、その上に濃紺の半纏を着ている桃音は、謙志の隣に並んで謝罪をした。
「大丈夫だ、そんなに待ってない」
「はい……」
「星が……きれいでさ」
謙志はそう言うと、桃音から星空へと視線を移した。つられるように桃音も、ガラス窓越しに夜空を見上げる。ロビーの天井は常夜灯しかついていないので、室内の光景が窓ガラスに反射することもなく、視線の先にはただひたすらに満天の星が広がっていた。
「本当に……山の中というだけで、こんなにもきれいに見えるんですね」
少し前まで近くの広場で見上げていたのと変わらない、星々の明かり。何千、何万、何億年前に放たれた光。そして、もしかしたら明日には、誰にも知られずに消えてしまうかもしれない命。それらは果てしないほどに遠く、儚いからこそ、数えきれないほどあっても一つ一つが美しく見えるのだろう。
「そうだな。だから、その……舟形と一緒に……見たかったんだ」
心を決めた謙志は先ほど、桃音にメッセージを送った。ロビーで待つから来てくれないかと。その理由は、この美しい星々の舞台を一緒に見たかったから。そして――。
「あのっ」
「あのさ」
その時、謙志と桃音は二人同時に相手に呼びかけた。謙志は桃音を見下ろし、桃音は謙志を見上げ、二人は目を合わせてしばし黙る。それから同時に、小さく噴き出して笑った。
「ふふっ、重なっちゃいましたね」
「ああ……えっと……あ、舟形が先に……」
言いたいことがあるようなので、桃音に先に言ってもらおうと謙志はうながした。しかし、桃音は首を横に振る。
「せーのっ、で……一緒に言いませんか」
「えっ……あ、でも……」
「一緒に言ってくれないなら……私が先に言っちゃいますよ」
「え、いや……」
桃音はいたずらっ子のように、少しだけ意地悪げに笑った。それから一つ深呼吸をして、桃音が小さな声でゆっくりと「せーのっ」と声をかける。
「好きだ」
「好きです」
最低限の照明しかなく暗いロビーの中で、二人の声がきれいに重なった。
桃音と謙志はしばらく見つめ合っていたが、相手から告げられた言葉の意味をゆっくりと頭の中で理解してから、気恥ずかしくなってふいっと同時に視線をそらした。
「あっ……えっと……あの……本当に?」
「ほ、本当っ……ですよっ。松浦先輩こそ……本当に?」
桃音がうかがうように、ちらっと視線を謙志に向ける。謙志は自分の手のひらで口元を覆いながら、そんな桃音を見やった。
「本当だ。ずっと……ずっと、言いたかったんだ」
「私も……です。なかなか、その……言えなくて……でも……」
桃音は謙志の半纏を指先でつまみ、ぎゅっと引っ張る。
「ずっと言いたかった……。私、松浦先輩のこと……すごく……すごく好きです」
(ああ……)
謙志は無言で一歩桃音に近付く。そして、間違って押し潰してしまわないように気を付けながら、桃音の小柄な身体を両手でぎゅっと抱きしめた。
「俺も……すごく好きだ……舟形のこと」
最初は、理想の声かもしれないと思った。なんの幸運か、付き合ってもいないのに桃音とえっちな流れになった。その行為の内容や桃音の言動のすべてが自分の理想どおりで、生まれて初めて性的に満たされた。
けれども、決してそこだけで惚れたわけではない。友達と楽しそうに話していたり、真面目に勉学に励んでいたり、将来に悩んだり、薄着で寒くなってくしゃみをしたり、そういう何気ない桃音の姿も見て、その全部が好きだと思った。かわいくて、いとしくて、自分だけのものにしてしまいたいと思った。
こうして抱きしめてこの腕の中に桃音を閉じ込めてみると、なおのこと強く思う。この存在を――この女の子を、ずっとこうして抱きしめておきたい。誰よりも大事に、大切に、自分だけのものとして特別に扱いたい。自分はどうしようもなく、桃音のことが好きなんだと。
「桃音、って……」
「えっ?」
「名前で呼んでも……いいか」
「あ、は、はい……っ」
「桃音……」
少し背中を丸めて桃音を抱きしめた謙志は、桃音の耳元に唇を近付けた。




