第13話 出かけて縮める距離(下)
正直謙志は、まったくわからなかった。すでに答えは出ているのかと思ったが、盛岡は残念そうに首を横に振った。「まだ、最適な改善方法が見つからない」と。もしかしたらバットの持ち方や姿勢を変えるだけでなく、その選手の筋肉量を増やすような、身体トレーニングの必要もあるかもしれないと。検討は続けるが、「これが正解だ」と明確に言えることのほうが少ないのだそうだ。
「大学受験の問題集みたいに、解答集に明確な答えが載っているわけじゃない。へたをすれば、一生答えは見つからなくて、選手は思うようなパフォーマンスができないまま、選手生命が終わってしまうかもしれない。そうならないように、どんな選手でも全力の活躍ができるように支えたいと思うのに、その力はまだまだ俺にはない。この先身に付けられるのかもわからない。大学の四年間での学びなんて、全然足りないんだ」
見学を通して感じたことは、すでに簡単なレポートにまとめて宇津木教授に提出してある。だが、自分の中ではまだまだ、様々な思いがくすぶっている。将来への不安、自分への不信感。頑張るつもりではいるが、その頑張りを果たしてどこまで意味のあるものにできるか、成果が出せるか。頑張り続けることを、自分は本当に続けられるのか。
不安だ、と声に出さなければその不安は自分の中でひたすら増大していくようで、謙志は見えない緊迫感に追われ続けているように感じていた。
「あっ……ごめん、なんか、語っちゃって……」
自分だけが独り言のように話し続け、隣にいる桃音が黙っていることに気付いた謙志は、桃音のほうを見やって謝った。
スポーツにあまり詳しくない桃音にとっては楽しめる話題ではなかっただろうし、それに、自信のなさを吐露してしまって、なんとも情けない姿を見せた。せっかく、買い物が終わってもまだ桃音といられる時間なのに。
「いえ、あの……わかる、と簡単に言ってはいけないと思うのですが……でも、わかります。将来のこと……考えたつもりでいたんですけど……私、揺らいでいて……」
「舟形は経営者になるのが目標……だったよな? ほかにやりたいことがあるのか」
「いえ、そうではないんですけど……。でも、本当にそれでいいのか、って。経営者になって、たくさんお金を稼いで、それを家族に返すことが恩返しになると……そう思っていたんですけど、それで私自身は幸せになれるのかと問われて、どうなんだろうと……」
「誰がそんなことを問うてきたんだ?」
単純に疑問に思って、謙志は尋ねた。
「えっと……天蔵会長に……」
「天蔵会長?」
「あの、えっと、株式会社天蔵商事とか、天蔵国際通商株式会社とかってわかりますか?」
「ああ、まあ……なんとなく聞いたことはある。天蔵って大手の……なんか、大きなグループ会社だよな?」
「はい。実は一週間ぐらい前に、天蔵家が主催するパーティーに結美ちゃんのご家族と一緒に参加させてもらって……そこで、天蔵グループのトップの……天蔵家の現当主の方とお話したんです」
「えっ……それって、めちゃくちゃすごくないか?」
「はい、あの……二度とない機会だったと思います」
「すごいな……」
「結美ちゃんのお父さんがすごいんです。天蔵会長に信頼されているみたいで……あ、でも、結美ちゃんのお母さんも、天蔵会長の奥様とお友達で……」
結美の父、暁雄はそう多くを語らないが、鋭い眼光を持ったあの秋良から深い信頼を得ているようだった。そう簡単に人を信用しなさそうな天蔵家の当主から信頼されるとは、いったいどれほど誠実で有能な働きぶりなのだろうか。
「その天蔵会長が、そんなことを?」
「はい。目的に対する手段として、あらゆる可能性を検討したうえでその道を選ぶのかと」
「厳しい質問だな……舟形はなんて答えたんだ?」
「私、わからなくて……。私は両親にも、兄と姉にも、とにかく学費の負担をかけ続けています。それを少しでも小さくしたいと……恩返しをしたいと……そう思ったんですけど……」
桃音は謙志から視線を外し、俯いた。
経済的な貢献は何もできない子供の自分。だが望みのままに、学びを得る機会を与え続けてもらってきた。その恩は返すべきだ、いや、返したい。ずっとそう思っていた。けれど両親も兄姉も、桃音に恩返しを求めたことはない。むしろ、桃音がたくさん学ぶことを喜んでくれた。そしてそれは結美の父が言うように、桃音の幸せを願ってのことなのかもしれない。
たくさん稼いでいつか両親を経済的に楽にさせてあげられたら、間違いなく自分は嬉しく思うだろう。だが、家族が自分に望む幸せは、もっと別の形をしているのかもしれない。そう思うと、桃音は自分の進路に自信が持てなくなっていた。
「お金のことは……まあ、無視できないことだよな。社会人になるまで俺たち子供は、ただひたすらに金食い虫でしかいられないからな。アルバイトをして、自分のスマホ代とか、服とか遊びとかの費用は賄えるけど。でも、社会人になって舟形が稼ぎまくって、いくらかを家族に返すことは、別に悪いことじゃない。だからそれを目標にしたっていいじゃないか。それに、この先の人生ずっと、そうやって家族に金を返し続けるわけじゃないだろ? なら、どこかで道を曲がって……その先で、舟形自身の幸せになることをする、っていうのもありなんじゃないか。もしくは、まずは舟形が幸せになって、そのあとに道を曲がって、恩返しを始めるとか」
「道を曲がる……ですか?」
「あ、いや……えっと……現時点で自分の将来を不安に思ってる俺に言う資格はないかもしれないけど……」
謙志は少し間を置いた。そして、ゆっくりと深く息を吐き出してから続けた。
「俺は、プロ野球チームのトレーナーになりたいと思ってる。でも、それはとても狭き門で、なれない可能性のほうが高い。だから、一応ほかの進路も考えてる。大学で学んでるティーチング技術を活かせるところ……スポーツジムのスタッフとか、それこそ空手教室の指導者とか……。大学を出てすぐに本命の道に進めなくても、十年後か二十年後に、その道を進む可能性もあるかもしれない。一直線で走らなきゃいけない、ってことはないと思うんだ。回り道、寄り道……遠回りしたり、時には来た道を戻ったりすることだって……してもいいんだと思う」
自分の将来も桃音の将来も、決して考えなしに能天気に、必ず叶うと無責任に言うことはできない。けれど、決して叶うことのない未来だと、たやすく否定はしたくない。悩み、迷い、同じところをぐるぐると回り続けるように考えてしまうけれども、未来の可能性はどの方向にもきっとあるはずだ。
必ず最短で、最速で、最良の答えにたどり着けるとは限らないし、そうしなければならないという義務もない。最初は別の道を進んでもいいし、多くの時間をかけてもいい。どこかのタイミングで自分が満足できるのならば、そこに至るまでの道のりは、どんな内容でもいいのだ。
「それに、ほら……舟形はまだ大学に入ったばかりだろ? そうやって将来のことを考えるための四年間なんだと思うから……揺れていいんだと思う。俺だって、来年の今頃には就活しなきゃいけないのに、こんなに情けなく揺れてるし」
「いいえ……」
桃音は首を横に振った。
「松浦先輩は情けなくなんかないです。いろいろ考えていて、あの……その……素敵、だな、と……思い……ます」
顔を真っ赤にした桃音は、小声でそう呟いた。すると謙志もほんのりと耳を赤く染めて、桃音ではなく地面を見つめて小声で返す。
「あ、り……がとう……」
自分にはまだまだ、足りないことが多い。
たとえば、人を観察する目をもっと磨けと、盛岡からは少し厳しめの声音で叱咤された。選手は全員が全員、自分の身体の調子をすべてわかりやすく言語化してくれるわけではない。コーチやトレーナーが注意深く選手を観察して、時には本人でも気付いていないような違和感を探らねばならない。
先ほど、桃音は「パスタでは足りないのではないか」と謙志を気遣って、こうして間食を提案してくれた。それはきっと、桃音が謙志のことを観察して、あるいは謙志の立場になってよく考えてくれたからこそ出てきた提案だろう。
一方の自分は、強く意識しないと、小さな歩幅の桃音を置いて少し先を歩いてしまう。自分と桃音の違いを踏まえたうえで、桃音の立場になって気遣うことができていない。そういう細かな点に、まだまだ自分の配慮は行き届かない。相手を観察する目は未熟で、さりげなく気配りをすることも圧倒的に経験不足なのだ。
「あの、ゴミ……一緒に捨ててきちゃいますね」
「えっ、あ、ありがとう……」
桃音はベンチから立ち上がると、謙志から空いた容器を受け取る。そしてそれを、大きなビニール袋の広げられたゴミ箱へと捨てにいった。ここでもまた、桃音のほうが、相手を気遣う所作に一歩優れている。
(ああ……舟形といると……心地いいな)
桃音は自分のことをどう思っているのだろうかと、悩むことはある。今日はとても健全に過ごせているが、あの夢のような破廉恥な時間においては、桃音に幻滅されないかとわずかに怯えながらも桃音に夢中になってしまう。
そんな自分は、桃音とセックスフレンドでいたいだけだろうかと考えたこともある。しかし、こうして一緒に出かけて、買い物をして、ご飯を食べて、将来の不安を吐露し合ってみると、その時間すべてが穏やかで、居心地がよい。この楽しい時間を明日も、来週も来月も、できればずっと、桃音と一緒に過ごしたいと思う。悩んだり緊張したりもするが、こんなにも心が落ち着く時間を過ごせるのは、ほかの誰でもなく、相手が桃音だからだろう。
「舟形」
謙志はベンチから立ち上がると、戻ってきた桃音に声をかけた。
「はい、何ですか?」
「あのさ……」
そして、今日一番の勇気を振り絞った。




