第05話 濡れてとける理性(下)
(下は……どうしたんだろうか)
駅にいた時の桃音は、上半身はどう見てもずぶ濡れだったが、下はそれほど濡れてはいなかっただろうか。風呂から出て、着ていた下着をはき直したのだろうか。それともまさか、あのトレーナーの下には何もはいていないのだろうか。
ふとそう考えてしまったその時、湯船の中で謙志の身体が生理反応を起こした。
(おい……っ! 考えるなって!)
卑猥な動画を見ているわけでもないのにこんなふうに反応するのは――生身の女性のことを考えて元気になるのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
(生理反応……これはただの、生理反応……! 意味があるわけじゃない)
謙志は修行僧にでもなったかのように、心を平静に保とうとした。
そうだ、肉体というものは心や精神、意識とはまったく別の存在であるかのように、生理的反応を起こしてしまうことがある。だからこれも、その一種だ。自分は桃音のことを、いやらしい目で見てなどいない。
彼女はただ、同じサークルの後輩というだけ。何人もいるサークルの後輩の女子の一人――ただそれだけだ。恐る恐るといった感じでも話しかけてもらえて嬉しかったとか、天文研究会の部室に行けば彼女に会えないだろうかと考えたとか、そんなことは――。
(――ある、けど…………でも……)
自分は桃音という女の子のことが好きなのだろう。やっと、やっと、自分は女の子を好きになれたのだ。それも、ずっと理想にしていた声の持ち主で、理想の関係になれたら極上の幸せを感じられそうな――。
(――いや、それは無理だ……できない……違う……)
無意識のうちに高まっていく期待感を、謙志は心の中でたたき割った。
桃音は、謙志が望み求めるような破廉恥な女子ではない。彼女はきっと、自分のような武骨な男よりも、細やかなところにも気を配ってスマートにリードしてくれる異性のほうがお似合いだ。彼女もきっと、そういう相手を望んでいるだろう。
どんなに自分が彼女を好ましく思っても、桃音と自分は合わない。そう考えると寂しくて悲しくて、切なくて悔しくて、謙志の分身はしおしおと力をなくして縮んでいった。
それから少しして、謙志は硬い表情で湯船の栓を抜いて浴槽を洗い、最後に少し冷たいシャワーを浴びてから風呂を出て着替える。そしてドライヤーで髪の毛を乾かすと、一つの深呼吸をしてから浴室を出た。
「あ、あのっ……お茶、ありがとうございます。頂いてます……」
洗面所から出てきた謙志を見るなり、桃音は膝立ちになって礼を述べた。立ち上がるべきか、それとも座ったままでいいのか、中途半端に悩んだらそんな姿勢になってしまったのだ。
「ああ……えっと、そこの……お菓子も食べていいから」
「え……あ、はい……ありがとう……ございます」
桃音はラグの上に再び横座りになりながら、ローテーブルの上のチョコレート菓子の袋を見つめた。お菓子を食べるイメージがあまり謙志になかったので珍しいな、と思っていたのだが、どうやらそれは、自分のために用意されたもののようだ。桃音が風呂に入っている間に、わざわざ買いに行ってくれたのかもしれない。
「あ……洗濯機は回したから」
「は、はい……」
「どうにか乾かして……ちゃんと乾いた服で電車に乗ってくれ」
「はい……」
謙志がややぎこちなく話しかけてくるが、桃音もぎこちない返事しかできない。
謙志の大きなトレーナー一枚をワンピース代わりに着ているだけという状況が、正直心許ない。座り直そうと足を組み替えてみるが、そのたびにパンツが見えてしまわないかと気を遣う。それに、同じ空間にこうして謙志と二人きりになるのは、実は初めてなのだ。部室には必ず誰かしらがいたので、謙志と二人きりになったことはない。
(き、緊張する……けど……)
そわそわと、いつまで経っても落ち着かない心。
けれど、謙志と一緒にいられる。それも十分とか二十分とかの短い時間ではなく、着ていた服が乾くまで――最低でも二時間か、三時間か。さすがに夜までずっと、ということはないだろうが、それでもこれまでにないほど長い時間、謙志と同じ空間にいられるのだ。それは単純にとても嬉しいと、桃音は思った。
「服は……たぶん、ある程度乾いたら、あとはドライヤーを当てたほうが早いと思う」
「はい……」
「それでも、結構時間がかかると思う。家に連絡は……しなくて平気か?」
「あ、えっと……様子を見て……あまりにも時間がかかるようなら連絡します」
「ん……わかった」
「はい……」
夜の八時、九時を過ぎるような時間になってしまいそうなら、さすがに連絡はしなければならないだろう。だがそれほどではないなら、特に連絡をしなくても大丈夫なはずだ。
「あの……えっと……雨……すごかったですね」
なんとか謙志と話そうと、桃音はおずおずと話しかけた。丸テーブルに向かって桃音から九十度の位置に座っている謙志は、部室で話す時よりもとても近くに感じる。
「そうだな。舟形も傘は……持っていなかったのか」
「はい……天気予報は見ていたのに、うっかりしちゃって……」
「舟形でもうっかりなんてするのか」
「えっ?」
「いや……真面目でしっかりしてそうだから」
「そ、そんなことないです。結構……しょうもないドジをしますよ?」
「そうなのか」
「はい……」
なんとか話はできる。軽やかに弾んで広がっていく、という会話ではないが。
「あ、あの……えっと……松浦先輩は、ずっとこのマンションに?」
「ああ。入学時からずっといる」
「高校は……首都特区ではないんでしたっけ」
「セイホク州のソララナリス高校だ。将樹も同じ」
「進学のために上京したんですね」
「スポーツ科学を学ぶなら、この大学が一番専門的だからな」
小学生の頃から空手を続けていて、高校では全国大会に入賞するほどの実力で、そして大学ではスポーツ科学を学び、将来的にはスポーツトレーナーの職を考えている謙志。そんな謙志こそ真面目で、しっかりしていると思う。
(素敵……だなあ……)
大学に入ってから二カ月と少し。気軽に話せる同じ学部の友人が少しずつ増えてきた。天文研究会にも、学年問わず男女共に話せる人がいる。六年間ずっと女子だけだった桃音の交流関係の輪は、異性も交えて着実に広がっていた。
けれど、その輪の中で明確に、謙志だけが違って見える。謙志だけがとても素敵に、格好よく、そしてかわいく見える。
(もっと……近付きたい……)
大学に着てくるような私服ではなく、ルームウェアなのだろうか、ずいぶんとゆったりとしたズボンに半袖を着ている謙志。何をするでもなく、かといって桃音を無視するわけでもなく、肘置きのない簡素なグレーの座椅子に座っているだけ。
「天文研究会には……どうして入ったんですか」
脱水フェーズに入ったらしい洗濯機のゴゴゴゴという振動音を少し遠くに聞きながら、桃音は尋ねた。
「お前と井口と同じ感じだよ。将樹と二人でゆりのき通りを歩いてる時に、天文研究会のブースの写真に惹かれて……俺も将樹も、体育会に入るつもりはなかったから、ちょうどいいかって」
「それまでも、カメラで写真を撮ることはあったんですか?」
「いや、カメラは去年買った。すごく真面目にやってるわけじゃないけど……まあ……自分でもいいなと思える写真が撮れたりすると嬉しいから」
「あのっ……あの写真……本当によかったです」
天文研究会の勧誘ブースに飾られていた、謙志が撮影した枯れ木と星空の写真。ほかにも星空の写真はあったが、桃音は謙志が撮ったその写真を一番素敵だと思った。
「ああ…………あり、がとう……」
桃音が褒めると、謙志は気恥ずかしかったのか、ふいっと横を向いてから低い声でぼそりと礼を述べた。
(ああ……かわいいなあ……松浦先輩、とってもかわいい……)
見た目は長身でガタイもよくて、あまり朗らかな顔つきはしていないけれども、それは言い換えれば精悍でたくましくて、とても強そうな「雄」に見える。空手を続けているのだから、その腕っぷしは当然強いのだろう。しかし、その力を理不尽な暴力として振るうことは決してない。いつも冷静で軽薄なところなどなくて、まさに堅物。
(そんな……松浦先輩を……)
誘惑して困らせたら、どんな反応をしてくれるだろうか。
ああ、してみたい。この大きくてかわいい人を、自分の一挙手一投足で翻弄してみたい。いけないことだと思っていたのに、そんなふうに彼を弄びたい気持ちが心の底から浮かんでくるのを、桃音ははっきりと感じた。
謙志の礼を最後に、それ以上会話が盛り上がることはなく、どことなく二人とも黙ってしまったまま、時間が過ぎていく。しばらくして洗濯を終えた洗濯機がピーッという終了音を鳴らすと、謙志は無言で立ち上がって洗面所に向かった。桃音も迷ったが腰を上げ、廊下から洗面所の中をのぞき込む。
「あ、えっと……俺が先に自分のを干すから……そしたら舟形が、自分で自分のを干してくれるか」
「は、はい……」
謙志がそう言ってくれてよかった。キャミソールならまだどうにか我慢できるが、ブラジャーを干されるのはさすがにいたたまれない。謙志が自分の洗濯物を干す際にブラジャーを見てしまうかもしれないが、それくらいならまだどうにか、「見られていないはず」と思い込んでごまかすことができる気がした。
桃音は謙志が自分の服を干し終えるのを待ってから、浴室にぶら下げられた物干しハンガーに自分の服を干した。謙志が室内乾燥のスイッチを押すと、フゴオオオオという低くにぶい音がして、浴室が乾燥室に変わる。
二人は居間へ戻ると、先ほどと同じ位置に座った。だが、特にやることがない。会話も、リズミカルに弾むことはない。テレビでもつければいいのだろうが、桃音も謙志もテレビ番組を見る気にはなれないのか、動こうとしない。
(先輩は……何を考えて……いるのかな)
会話をしてくれない冷淡な性格というわけではないのだが、四六時中おしゃべりをする性格でもない謙志は、きっときっかけがないと、いつまでも黙っている。彼のその声をもっと聞きたいのに。彼のことを知りたいのに。
(もっと……近くに……)
傍に行って、ふれて――謙志をかわいがりたい。困らせたい。
桃音の中の欲望が大きくなる。それは制御できないほどのサイズになり、桃音から分離されて、まるで別の存在かのように輪郭を持ち始める。
「あの、先輩……」
「なんだ?」
「まだ、寒いので……くっ付いてもいいですか」
目には見えない欲望の妖に操られるように、桃音は理性の欠片を一つ捨て去った。そしてとても物欲しそうな目で謙志を見つめた。




