第05話 濡れてとける理性(中)
(松浦先輩は真面目な人……女の子を無理やりとか……絶対に、ない……)
浴槽の中で体育座りをしている桃音は、温まってきた自分の足先を見つめた。
謙志は、ずぶ濡れの桃音が寒そうにくしゃみをしていたから、新歓合宿の時と同じように気遣ってくれただけだ。今回は強い雨に全身が濡れてしまっていたので、上着を貸すのではなく、こうして風呂を貸してくれたわけだが、謙志のその行動は全部善意でできているはずだ。下劣で邪な下心なんてないだろう。
ずいぶんと甘い考えかとも思ったが、桃音は謙志のことをそう信じたかった。気軽に女の子を呼び込んでイケナイことをする、そんな男性ではないと。自分が好きになった人は、そんな下種な人ではないと。
(洗濯が終わったらドライヤーを貸してもらって、なるべく早く服を乾かして……それで、早く帰ろう……)
しっかりと湯船に浸かって温まった桃音は、そう心に決めた。
最後にシャワーを浴びて浴室を出て、大きなバスタオルで髪の毛と全身を拭く。雨とシャワーで濡れはしたが、薄化粧なこともあって、メイクはそこまでひどく崩れてはいなかった。自信を持って見せられる状態ではないが、目も当てられない状態ではないので、ひとまず気にしないことにする。
それから、はいていたパンティをもう一度はいて、謙志の長袖のトレーナーに袖を通す。わかってはいたが、それはたいそうぶかぶかだった。袖は何度か折ってまくれば手が出せるが、長い裾はどうしようもない。まるでワンピースでも着ているかのように、桃音の太ももの半分を余裕で隠してしまう。
もっと困ったのは、長ズボンのほうだ。紐でウエストを締めるタイプなのだが、どんなに紐を引っ張っても腰回りには余裕ができてしまい、ズボンが落ちてしまう。落ちないように腰骨のあたりに引っ掛けるように意識してみるものの、少しでも動けば落ちてしまいそうだ。それにこちらも当然のように裾が長くて、折っても正直動きづらいだろう。
桃音は大いに悩んだ挙句、長ズボンははかないことにした。
「あの……先輩、すみません……ドライヤーを貸して……いただけますか」
桃音は洗面所の鍵を開けると、少しだけドアを開けて、奥の部屋にいるだろう謙志に話しかけた。すると「洗面台の下に入ってる」とだけ返事が聞こえたので、桃音はドアを閉めて、言われたとおり洗面台の下からドライヤーを取り出して、ミディアムヘアの茶髪を乾かし始めた。
◆◇◆◇◆
――少し時間を戻して、桃音が洗面所に入った直後。
カチッ、という洗面所の鍵が施錠される音が聞こえ、謙志は妙に安心して、ワンルームの座椅子にへなへなと座り込んだ。濡れてしまった上下は脱いで、少しゆったりめのズボンと半袖に着替えていたが、雨水ではなく脂汗で服が濡れそうだ。
(待て……いいのか、この展開は……いや、よくねぇよな?)
全身ずぶ濡れで下着が透けて見えてしまっていた桃音。そんな桃音をほかの男の視線にさらしたくない一心で、謙志は必死だった。それに、新歓合宿の時のように桃音が何度もくしゃみをしていたので、早く温まらせなければと、何か強い使命感が湧いてしまった。とにかく、濡れた服を脱がせて風呂に入らせなければと。
大学入学時から住んでいるこの一人暮らし用のマンションに異性を連れ込むのは、実は初めてのことである。大学に入ってからカノジョができたことが二回ほどあるが、そのどちらとも会うのは外で、決してこの部屋に呼ぶことはなかった。どちらのカノジョも「行きたい」という雰囲気は出していたが、呼べば必ず性行為を求められるような気がして、謙志は固辞した。どちらのカノジョとも、性行為をすることは考えられなかったのだ。
今ならはっきりとわかるが、告白されて、嫌いではない見た目だったから付き合いはしたものの、自分のほうには恋愛感情などまったくなかった。それなのに元カノたちと付き合ったのは、空手に時間を割きたかった高校生の時と違って断る理由がなく、「恋人がいる」という大学生らしい感覚を味わいたかったからだ。
そんな動機で謙志は「お付き合い」を了承したものの、異性に対する理想をこじらせてしまっていたせいで、理想の性行為を少しも連想できない彼女たちに対して、性の獣が元気になることはなかった。
そんな過去を持つ自分が、いとも簡単に後輩の女の子を自宅に連れ込み、あまつさえ風呂を勧めているなど、いったいどういう流れだろうか。いや、間違いなく自分が作った流れなのだが。
(舟形も素直に付いてきたし……同意は得ている……よな?)
いや、桃音は何度も断った。レンテバー駅の構内でも、玄関でも、異性の家に気軽に上がるなどできないと、きちんと線引きをしようとしていた。だが、そんな桃音を連れてきて無理にでも風呂に入らせたのは、自分のほうだ。この状況を、彼女は決して心から承諾しているわけではないだろう。
(はっきりと同意は得ていないけど……雨で濡れた服を洗って、乾かすだけ……それだけ……それ以外のことは、何もしない……絶対に……)
桃音が風呂から出てきたら自分が入って、出たら洗濯機を回して、洗濯が終わったら浴室の室内乾燥にかける。二時間ぐらいで粗方乾いたら、あとは桃音の服だけドライヤーで集中的に乾かせば、完全に夜になる前には着られる状態になるだろう。桃音はこのあとの予定はないと言っていたから、申し訳ないが三、四時間はこの部屋で時間を潰してもらって、下着が透けていない状態で電車に乗ってもらいたい。
このあとの「やるべきことリスト」を頭の中で書き出しながら、謙志は冷蔵庫に向かった。ミネラルウォーターの大きなペットボトルを取り出して、グラスに注ぐ。
そうだ、服が乾くまでは数時間かかるから、その間に桃音が飲むドリンクが必要だろうか。それに、何かお菓子も? 謙志自身があまり間食をしない食生活なので、この家の中にはそうしたものがほとんどない。
(ダッシュで行ってくるか)
せっかく着替えたが、また足元が濡れるのを覚悟で謙志は傘と財布と家の鍵だけを手に持ち、急いで外に出た。そしてこのマンションと駅のちょうど中間地点にあるコンビニに走り、無難なお茶のペットボトルとチョコレートの菓子をカゴに入れる。それから、何かほかに買うべきものはないだろうかと棚を見回した謙志は、あるコーナーに目が留まってはっとした。
(化粧品……替えの下着……)
まったく気が回らなかったが、桃音は下着をどうするのだろう。服は洗濯機に入れてと言ったが、まさか下着も全部洗って、ノーブラノーパンで貸した着替えを着るのだろうか。
(買うべき……か?)
生活用品一式が細々と置かれているコーナーに立ちすくみ、謙志は必死で頭を回転させた。だが、何もわからない。「一泊二日お泊まりセット」と書かれた化粧品一式のパックは買ってもいいような気がしたが、それを桃音が必要としているのかわからない。替えの下着も、本当に必要かどうかわからない。おまけに、それをレジに持っていくのは正直恥ずかしい。
(それに……)
そのコーナーの一番下の隅には、避妊具の箱がある。お世話になったことがないので無縁の品だが、もしかして今のこの流れは、初めてソイツを必要とするタイミングなのだろうか。
(いや……しねぇよ……っ)
謙志は自分の頭の中の考えを振り払うように首を振ると、そのコーナーの品は何一つ手に取らず、レジに向かった。そして行きと同じように、傘を差したまま走ってマンションに戻る。桃音がもう出てしまっていたらどうしようかと思ったが、洗面所のドアはきっちりと閉まっているし、耳をすませば水音がしたので、桃音はまだ浴室の中にいるようだ。
謙志は買ってきたお茶のペットボトルを冷蔵庫にしまい、チョコレート菓子は袋の中から取り出してローテーブルの上に置く。そしてスマホを手に取るとSNSのアプリを立ち上げて、落ち着きのない表情でタイムラインを眺めた。
「あの……先輩、すみません……ドライヤーを貸して……いただけますか」
それからほんの少しして、洗面所のほうから細い声が聞こえた。謙志はかなりドキっとしたが、廊下のほうは見ずに返事をする。すぐにドライヤーの作動音が聞こえ、その音に日常感を覚えて謙志は妙にほっとした。
「あの……お風呂……ありがとうございました」
それからさらに五分以上の時間が過ぎ、桃音が洗面所から出てきた。謙志はどこか恐れるように、廊下のほうへゆっくりと視線を向ける。すると、桃音の格好が予想外のものだったので、大きく目を見開いた。
「えっ、し、下は……っ!?」
「あっ、あのっ、ですね……っ」
謙志に問われた桃音は頬を真っ赤に染めて、困った表情で懸命に説明した。
「そのっ、ズボン……大きくて……どうしても落ちてきてしまって……! う、上のトレーナーが大きいので……ワンピースみたいで……大丈夫かな、と……えっと……あの……大丈夫じゃ……ないですか……」
はかなかったズボンを手に持って立っている桃音は、謙志のトレーナーだけを着ていた。たしかにその裾は、桃音の太ももの上半分を隠しているし、最低限見えてはいけないところは見えていない。ズボンをはいたところで落ちてしまうというのならはく意味はないし、よくよく考えなくても、自分たちの身長差を思えば謙志のズボンを桃音が普通にはけるはずもなかった。
「いや……舟形が平気なら……大丈夫じゃないか」
途切れ途切れの泣きそうな口調でうろたえる桃音に、謙志は自信なさげに答えた。
化粧のことも下着のことも着替えのことも、女子視点で考えるべきことに、謙志はまったく気が回らない。だから、的確なフォローもできない。二十一にもなって自分はなんて女性慣れしていないのだろうかと、謙志は自身を情けなく思った。
「あ……なんか飲む、よな。お茶、ペットボトルで悪いけど、買ってきたから」
謙志はなんとか場の空気を変えようと、冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出してローテーブルの上に置く。それから、使われなかったズボンを桃音の手から取り上げた。
「そのへん、座っていいから。俺も風呂に入ってくる」
「は、はい……」
桃音と場所を入れ替わるように、謙志は洗面所に向かった。手早く服を脱いで浴室に入り、軽く頭と全身を洗う。それから自分も湯船に浸かって、冷えた身体を温めた。しかし、少しぬるくなったこのお湯につい先ほどまで桃音が浸かっていたのだと思うと、背筋にぞわりとした興奮の鳥肌が立った。
(考えるな……)
謙志は自分に言い聞かせる。
だがそんな行為は無意味なほどに、謙志の脳裏にはトレーナー一枚の桃音の姿が何度も映し出されていた。
謙志のトレーナーは、小柄な桃音には当然のようにサイズが大きく、自分と彼女の体格差を如実に表していた。桃音のその姿は狙ったわけではなく、厚意で「着替え」として用意して渡しただけなのだが、思いのほか、「ぶかぶかトレーナー姿の桃音」が謙志の股間を刺激する。大きすぎる謙志の服を着た桃音の姿は、謙志の心をぐっと揺さぶるほどに愛らしくて、トレーナーから出ている細くてつるつるの足をなでさすってみたいと謙志は思った。




