第04話 揺れて惹かれる心(中)
「えっと……この間ね、五時限が終わって東門を出たところで変なおじさんに声をかけられて……帰れなくて困っていたら、松浦先輩が助けてくれたの」
「おぉ~。変なおじさんはヤだけど、後半は素敵な出来事じゃない!」
「そのおじさん、近所だと有名らしくて……女子学生だけに声をかけるんだって。それで、松浦先輩と一緒に学生課に行って、そのおじさんのことを伝えて……学生には注意喚起してくれるって。そのあと、松浦先輩に駅まで送ってもらって……」
「あっ、それがあの張り紙なのね! なるほど、私も気を付けよう……。それにしても、タイミングといいアフターフォローといい、松浦先輩、いいじゃない。それは好きになっちゃうね」
「好き……なのかな。私、まだ……自信がなくて」
謙志だけに向くこの気持ち。それがほかの男の子に向くことは、絶対にない。謙志だけに向いてしまうこの気持ちには、「好き」というラベルを貼るのが正しいのだろうと桃音自身も思っている。しかし、手放しで自分の気持ちを認められない。なぜなら、謙志に対しては「かわいい」とか「困らせたい」とか、そうした普通ではない感情も抱いているからだ。
「私、その……変なんだと……思う」
「変? 何が?」
「私……松浦先輩のこと……かわいいって思っちゃうの」
「ふぇっ!? それは……そうね……変というか……え、松浦先輩にかわいい要素なんてある? ごめん、私にはわからないかもしれない」
「そうだよね、そうだよねっ……でも、なんかっ……その……困らせて、参ったなあ……みたいな表情をさせてみたいって……松浦先輩の困惑する顔って、きっと、たぶん……すごく……かわいいなって……そう思っちゃって」
仲良しではあるものの、姉の光希にさえ話せずにいた自分の正直な気持ちを、桃音は結美に打ち明けた。案の定、結美は驚きと戸惑いの表情を見せたが、決して桃音に対してしらけたり、嫌悪したりする様子はなかった。
「まあ、対象が誰であれ、かわいいと思うのは悪いことではないから、桃音が松浦先輩のことをかわいいと思うなら、それはそれでいいと思うけど」
「でも、だからって困らせたいなんて……私、こんな……変だから……松浦先輩のこと、男の人として好きってわけじゃ……ないんだと思う」
「うーん……そうかなあ」
「そうだよ……」
小学生の頃は、友達と遊ぶよりも塾で勉強しているほうが楽しかった。クラスメイトの男の子になど、興味を抱いたことはない。そのまま中高六年間を女子校で過ごしてしまったので、桃音はまだ恋をしたことがない。いま人生で初めて恋心が芽生えたのかもしれないとは思うが、長身で体格のいい謙志に対して「かわいい」という的外れな感想を抱いたり、「困らせたい」などと意地悪なことを考えたりしている自分は、正しい恋心を抱いていると判定していいようには思えなかった。
「松浦先輩がかわいいっていうのは……うん、ごめん、同意はできない。でも、ほかの人にはかわいく見えないからって、同じようにかわいく見えたらいけない、なんてことはないはずだよ。桃音の目に松浦先輩がかわいく見えるなら、それはもう、そう見えるんだから仕方がない! ただ、困らせたいっていうのは……うーん、それはどんな理由で生じた気持ちなのかなあ?」
「わからないの……でも、困った松浦先輩は……たぶん、それもかわいいと思うの」
「松浦先輩のスマホを盗んで困らせたいとか、そういう感じ?」
「それは……違うかな。そうじゃなくて……うーん……」
桃音自身も、うまく言葉で表現できない。
謙志を困らせたい、戸惑っている表情を見てみたい。そんなふうに思うのだが、痛めつけたり現実的な実害を与えたりしたいわけではないのだ。
「まあ、じゃあ、それはそれとして……やっぱり桃音は、松浦先輩のことが好きなんじゃないかなあ。だって、それだけいろいろ、一人の男性のことを考えちゃっているんでしょう? それってもう、恋だと思う!」
「そう……かな……」
結美は自信を持って言いきるが、桃音はまだ、自分で自分を肯定できない。
「恋だよ、きっと。いいじゃない、応援するよ! 松浦先輩、あまりおしゃべりな性格じゃないけど遊び人ってわけでもないし、付き合えたら結構大事にしてくれそう」
「あっ、でも……もしかしたらすでにカノジョがいる……かも……?」
「え、そうかな? 女遊びはもちろん、いま現在付き合ってるカノジョがいるような感じには見えなかったけどなあ」
「結美ちゃんはそういうの、相手のどこを見てわかるの?」
「えっ? えぇ……うーん……」
結美とて中高六年間を女子校で過ごしているのだから、異性や恋愛に関しての経験の少なさは桃音と同じはずなのに、一歩進んだ感覚を身に付けているように思う。二人のその差は、どうして生じたのだろうか。
「パパと同じ感じがするかどうか……かな」
「えぇっ? ど、どういうこと?」
「ほら、うちのパパってママのことが超超超大好きじゃない? もちろんママも、パパのことが超超超大好きなんだけど……なんて言うのかな。パパって、ママが視界に入っていなくても、ママがいること前提で考えたり話したり……あ、いまママのことを気にかけてるなーって空気がしょっちゅう出るのね。たぶん、大好きな女の人がいる男の人って、そうなるんじゃないかな。一人でいても、別の女の人と一緒にいても、頭の中には一番大好きな人がいるというか……」
「話し方とかに、そういう雰囲気が出る?」
「出る出る! なんかパパ、ママと結婚するまではモテなかったのに、結婚した途端にモテ始めたんだって。でも、いつだってママのことが一番だったから、ママ以外の人を自分の心に入れさせないっていうか……そう、だから松浦先輩も、カノジョとか好きな人とか、そういう特別な女の子が心にいる気がしないんだよね」
「それは……そうかも」
もしも恋人がいたり、ほかに好きな女の子がいたりしたら、わざわざ自分が着ていた上着を脱いで女の子に貸すことなどしないだろう。それをしてくれたからといって、謙志が桃音のことを好きだ、という証左にはならないが、少なくとも、彼の心の中に特別な異性はいないことの証には思える。
「同じサークルだし、まずは話す機会が増えるといいね」
「うん……もっと話したいと思うんだけど……」
「桃音は奥手だし、松浦先輩も……うーん……あまり女の子と積極的に関わる感じじゃないよね。新歓コンパの時も新歓合宿の時も、一人でいるか野中先輩と一緒にいるかって感じで、あまりほかのメンバーとつるんでいなかったもんね」
「大勢は苦手なのかなあ。それか、女の子全般が苦手とか……?」
「広く浅くより、狭く深くって付き合いのほうが好きなのかもね。女子が苦手そう、ってのはそうかも……うぅ~ん……そうなると、ちょっと難しいねえ」
謙志の視界に入って特別に想ってもらう――それは、とてもハードルが高い願望のように桃音も結美も思った。
「せめて、松浦先輩の好みのタイプとか知りたいね」
「それはちょっと怖いなあ……だって、もしも大人っぽい子がタイプだったら、私なんて絶対……見向きもされないもん」
「大丈夫だよ! 見た目じゃなくて、桃音は芯が大人だから! 強い子だから!」
「でも……」
好きかもしれない。この気持ちは、恋心と呼んでもいいのかもしれない。
結美に話したことでやっとそう思えるようになってきた桃音だったが、自分の気持ちに向き合ってこの恋を進めてみよう、と思ったところで、相手は攻略が難しく、突破口が見える気がしない。せめて話す機会が増えれば、と思うのだが、学部も学年も違うので、どんな時間割を組んでいるのかもわからない。
「接点を作るとしたら……キャンパス内で松浦先輩を見かけたときに、一緒にお昼ご飯を食べませんかって誘ったり、あとは部室に行けるだけ行って話しかけたりするとか……うん、そういうことはできるんじゃないかな」
「それ、どっちも自分から声をかけないと……」
「そうだよ! ただ待ってるだけじゃ、好きになんてなってもらえないよ! うちの両親だって、二十歳も離れてるのに、最初にアピールしたのはママのほうだもん! 好きな人には自分から行く! それが恋愛の必勝法!」
「うぅ……」
結美の両親の馴れ初めは物語にできそうなくらいとても稀有な事例なので、あまり引き合いに出さないでほしい。桃音は密かにそう思った。
だが、自分から動かなければ事態が進まないのは、何も恋に限ったことではない。何も変わらなくていい、進まなくていい、謙志とは今のまま、特別親しいわけでもないサークルの先輩と後輩という関係でいい――そう思うならあえて行動する必要はないが、どれか一つでも嫌だと思うのならば、自分から動かなければ。
星空を隠してしまう雨雲が多くなる季節が近付きつつあるが、桃音は小さな勇気を持ち始めたのだった。
◆◇◆◇◆
消音するのだからイヤホンを使う必要はないのだが、万が一にでも音を漏らしたくないので、今日も謙志は律儀にイヤホンのプラグを挿したうえで音声を消し、大人向けの動画をノートパソコンで見ていた。そしていつものように、自分の頭の中にある理想の声に理想の台詞を言ってもらう。
――松浦先輩。
「っ……」
しかし、その理想の声はいまはっきりと、サークルの後輩の桃音の声に置き換わった。
梅雨前線が長く居座る梅雨の時期。天文研究会の部室に行くと、そこに桃音がいることが多くなった。いつものように結美と一緒にいることもあれば、一人でいることもある。大概は真面目に講義の教科書か参考書を読み、時折ノートを広げて長々と文字を書いていたこともあるので、レポートの作業でもしているのだろう。
――松浦先輩って……空手をやってる……んですよね。
――ああ。
――すごい……ですね。
――別に……すごくはない。
――え、えっと……いつから……やってるんですか。
――いつ……小学校の……低学年くらいからだ。
そんな桃音は、恐る恐るといった感じで何度か謙志に話しかけてきた。
同じサークルという以外に特に接点のない異性の後輩と世間話で盛り上がれるほどコミュニケーション能力に長けていない謙志は、話題の広がらない受け答えしかできない。しかし、それでも桃音は、必死に話題を探してまた話しかけてきた。そんな桃音を、謙志は何度もかわいいと思った。




