◆3 大人の事情なんか、知ったことか。くだらないーー!
始業時間よりも早く出社して、私、白川美奈は挨拶回りに出向いた。
まずは当然、職場の仲間から、退職の挨拶をしようとした。
だが、誰も私に接しようとしない。
私のメガネが光るのを見るだけで、気まずそうに目を逸らすのだ。
しかも、元カレの佐々木孝と、お相手の佐藤優は、朝早くから、わざとらしく外回りに出ている。
庶務に外回り業務は少ないが、一応、文具などの備品を納入している業者と一緒にクレーム対応して回っている、とのこと。
まさに、取って付けた理由だった。
気を利かせたつもりになって、彼らに外回りを命じたのは、灰色のスーツを身にまとう、庶務の係長・石田憲一、三十五歳だ。
痩せ細った彼は、辞表を提出した私を正面から見ることなく、両手の指をそれぞれに重ね合わせつつ、うわずった声をあげる。
「大変だったねえ。
警察に呼ばれた?
そうだね。
鈴木さんとは同期で仲良かったんでしょ?
一緒にランチしてた最中だもんね。
いきなり飛び降りられたら、そりゃあ、ショックだよ。
それに、彼氏にはフラれちゃうし」
「……それでは、あと、他にも挨拶して回りますので」
お辞儀する私に、石田係長は、細い腕を差し出して、手を広げる。
「あはは。今までご苦労さん。
握手だよ、握手!」
「はあ……」
私が差し出す手をギュッと握り締め、ブンブン振る。
スキンシップを図ったつもりになっているのだろう。
が、石田係長は、要らぬ戯言を吐いて、その気遣いを台無しにした。
「でも、白川さんは、そんなに気を落とさなくて良いと思うよ。
まだ二十九だろ?
若いよ。
僕の友達だったら三十五、六歳の男なんてゴロゴロいるよ。
四十歳超えて独身の男だっているんだから、君にいくらだって紹介できるよ。
もっとも、佐々木君は高身長のイケメンで、髪も綺麗に整えて、スーツもビシッと決めてるからね。
そんな彼に比べたら、僕の友達はちょっとガサツで、だらしないかな。
でも君だったら、貰い手いっぱいいるだろうから大丈夫。
あと二、三年は、庶務係に居たって良いんだよ?
今時、彼氏にフラれたから辞めるって、間違ってる。
それに、ホラ、佐々木君は東京へ行ってしまうわけだし。
白川君だって、これから独りで生きていくんだったら、安定した収入があるほうが、ね」
「……」
私は銀縁メガネの奥から、灰色スーツをまとった痩せ細った男を、ジッと睨み付ける。
石田係長は、そんな私の視線にビビって、手を放す。
その瞬間、急に眩暈を感じたのか、ヨロッとして、私に抱き付く。
慌てて、係長は腰に回した手を放す。
「あ、すまない。
これは事故。
ちょっと目眩が。
ははは。
ほんと、事を荒立てないでくれよ。
これでも妻子持ちなんだから。ははは」
私は一礼すると、踵を返して立ち去った。
それまでの仕事仲間たちは、皆、黙ったまま、私を見送った。
どこがアットホームな職場なんだか。
今まで六年間も一緒に仕事してきたのに、冷たいものだ。
次いで、私は庶務係の部屋から出て廊下を渡り、隣の課長室の前でノックした。
「どうぞ」
と声がした。
「失礼します」
頭を下げて私が部屋に入ると、スーツ姿の、恰幅の良い中年女性が出迎えてくれた。
庶務課の課長、上野恵、四十二歳だ。
ピンクの派手なスーツをはおった、中年太りのオバサンは、私に親しげに近づくや、バン! と背中を叩いた。
「まあ、このまま庶務に居づらくなるのはわかる。
いったん、仕事から距離を取るのも悪くないわね」
「はい」
彼女が入社したての私を指導してくれた。
私がもっとも憧れた上司だ。
彼女は私に背を向けて、ツカツカと靴音を立てて机に戻ると、椅子に腰掛けて腕を組んだ。
「まあ、オトコなんてものは、たいがいあんなものよ。
付け睫毛が長い、小さな若い娘が来ると、コロッと乗り換える。
私にも覚えがある。
真っ当に仕事に取り組む女性ほど、嫌われる。
オトコのコンプレックスを刺激してしまうんだろうね、きっと」
「はい」
相変わらずの「上野節」が炸裂して、小気味良い。
だが、小首を傾げてから、彼女の口調が変わっていった。
「でも、まさか佐々木がねえ。
彼は見所あると思ってた。
仕事もできるし、やることがスマートだったから。
あんな高身長イケメンのモテ男でも、佐藤みたいな、舌足らずな口を利く、小さな女の子になびくのかな?
ーーいや、違うだろうね。
知ってる?
佐々木が、東京本社の開発事業部に栄転できた理由。
じつは、本社の佐藤常務から、強力な引きがあったからなんだ。
でも、どうして佐々木が、と私は思った。
だって、佐々木はデキるヤツだけど、現地採用組だろ?
普通なら、本社行きなんか、あり得ない。
でも、人事課に手を伸ばしたら、謎が解けた。
なんと、アンタから佐々木を奪った、あの佐藤っていう新人、じつは東京本社のお偉いさん、佐藤常務の姪っ子だったんだよ」
初耳だった。
私はメガネの奥で、思わず両目を見開いた。
上野課長は、胸の上で腕を組んだまま、ウンウン頷く。
「つまり、だ。
佐々木は、LOVEで結婚相手を選んだんじゃない。
自身の出世のため、本社への栄転のために、常務の姪っ子を妻にしようとしているんだ。
だから、白川も運が悪かったと思って、佐々木は諦めな。
遊ばれただけに終わったLOVEだけど、親戚ガチャが悪かっただけだから」
「……」
まるで、慰めになってないんですけど。
しかも、上野課長は、今回、私を捨てて、常務の姪っ子を相手に選んだ佐々木孝のことを、あくまで「出世を狙う、見込みのあるオトコ」とばかりに思っている節が、言葉の端々から窺われる。
上野課長は、私だけじゃなく、元カレの佐々木孝も、新人だったとき、指導した。
その縁で、新人研修の終了時に、昨年の新人だった孝まで飲み会に呼びつけて、私と孝とを出逢わせてくれた。
その際、
「七三分けとおかっぱ頭ーー年度は違うけど、アンタたち二人は、私が指導した自慢の社員だ。
だから、もう付き合っちゃえよ」
と、酔っ払いながら言ってくれたことを、昨日のように覚えている。
それなのに……。
私は前に進んで机に乗り出し、ピンクスーツの上野課長の耳元で囁きかける。
「上野恵さん。貴女は何を夢見てるの?
貴女は後輩に頭を越されたの。
貴女に、東京本社からの引きはない。
今まで必死に男社会で頑張ってきたのに、もう先はない。
しかも、もう嫁き遅れた。
貴女に家庭的な幸せは来ない。
もうすでに、貴女には何も残されていないのを、自覚なさい」
同期の鈴木明子の時と同様、総務課長・上野恵はボーッとした顔をしている。
そして、ピンクスーツの裾を握り締めながら、ブツブツと、
「もう私には、何も残されていない……」
とリフレインしている。
(ごめんなさい。上野課長。
貴女に憧れていました。
でも、それも昔のこと。
さっさと人生を終わらせてくださいね。
貴女がイケナイんですよ。
あんな孝のことを、いつまでも褒め称えるものだから……)
私は踵を返して、課長室から出ていった。
そして、銀縁メガネを掛け直しつつ、思った。
総務部長に挨拶するのは、明日にしよう、と。