◆1 長年、尽くしてきた男が、年若い小娘に乗り換えた。だから、私は吊り橋を渡る!?
私は白川美奈、二十九歳。
銀縁メガネをかけた、おかっぱ頭のOLだ。
四年以上も付き合ってきた彼氏に、結婚間際でドタキャンされた。
高身長イケメンの彼、佐々木孝も、私と同じ会社ーー中堅商社に勤めている。
総務部庶務係の一期先輩で、青いスーツを着て、頭を七三に分けた好青年だった。
アットホームな雰囲気をウリにしている職場なので、あっという間に親しくなった。
さらに、何度か仕事を助けてくれたので、彼に惚れてしまい、私の方から誘い、密かに同棲を始めていた。
ちなみに、親にも会社にも、私たちが同棲していることは隠していた。
だけど、同棲生活はじつに順調で、快適だった。
二人とも働いているので、家事を分担し、掃除を彼に任せ、他は全部、私がこなした。
もとより家庭的な生活に私は憧れていたので、彼のために食事を作ってあげたり、下着を洗濯してあげたりして、初々しい新妻ぶりを発揮していた。
駅近のデパートで、彼に似合いそうな革靴もあったので、彼のために買ってあげた。
足先が尖ったイタリア製で、実際に彼も喜んで履いてくれた。
そうした私の内助の功もあってか、彼、佐々木孝の出世は順調に進み、ついに東京本社への栄転が決まった。
私、白川美奈もついていくつもりで、会社を辞める準備を始める。
そして近いうちに、孝にウチの両親に会ってもらおうと思っていた。
その矢先である。
いきなり、大学を出たばかりの新人OLに、孝を奪われたのはーー!
新人OLの名前は、佐藤優。
丸っこい顔にほんのりとした薄化粧をして、付け睫毛をしている小柄な女性だ。
人懐っこい娘で、私が指導役を担当していた。
彼女は孝のことを、
「背が高い上に、髪もキッチリ整えた、素敵な先輩ですね。
もしかして、白川先輩、付き合ってるんですか?
羨ましい」
と言っていた。
あの頃から、彼女は孝を狙っていたのかもしれないけど、私はちっとも気付かなかった。
彼、佐々木孝が栄転するまで、あと一ヶ月という段階の冬のある日、急に言われた。
「悪いけど、俺、この部屋から出ていくわ。
これからは新人のあの娘ーー佐藤優と付き合うことにしたから。
同棲解消は、そのケジメってことで」
エプロン姿で煮物を作っていた私は、おたまを手にしたまま、呆然としてしまった。
「そんな、いきなり……。
先週、『そろそろ親に挨拶を』と言ったら、『うん』って言ってたのに」
孝は髪を櫛で整えてから、青いスーツを着込みつつ、背を向ける。
「ああ、そうだったかも。
実際、優ちゃんーーああ、佐藤優のことね。
彼女は僕の両親に、もう挨拶を済ませているんだ。
だから、悪い」
彼は私物や私服を段ボールに詰め、レンタルした軽トラに載せ、部屋の鍵を置いて出て行った。
あっという間に、私はフラれたのだった。
それでも、私はみっともなく、彼に縋すがったりはできなかった。
プライドがあったから。
でも、彼の使っていたコップや歯ブラシを捨てたあと、メガネを外して号泣した。
一気に将来の計画が崩壊したのだ。
しかも、文字通り、私は彼氏に捨てられ、この場所に取り残されてしまった。
同期の友人には、
「私、孝と結婚して上京するかも」
と打ち明けていたのに。
恥ずかしいから、とりあえず職場では、フラれたのを、ひた隠しにするつもりだった。
それなのに、三日もしないうちに、職場の皆が知っていた。
皆から遠巻きにされ、ヒソヒソと噂される。
孝が話したのか。
それとも、あの小娘がーー?
それにしても、皆、冷たい。
あの小柄なセミロングの新人が入ってくるまでは、私と孝の仲を、皆が応援してくれていたのに。
今では皆が、孝とあの新人の女の子をカップル扱いでチヤホヤして、私を無視し、仲間外れにする。
(何がアットホームな職場だよ……)
私は涙でメガネを曇らせ、唇を咬んだ。
◇◇◇
孝にフラれてから、三日後ーー。
有給休暇を取って、私は関東の奥地ーーT湖に来ていた。
小さな私鉄駅からバスに乗って三十分ほどで到着する、かなりの田舎だ。
T湖は人造湖で、ダム建設した結果、生まれた東京のための大型貯水地の一つだ。
T湖には、長い吊り橋が一本、渡されている。
登山ルックに身を包んだ私、白川美奈は、その吊り橋を独りで渡った。
かなり古びた吊り橋で、私が橋を渡るために足を動かすたびに、吊り橋全体がギシギシと揺れ動き、ちょっとした恐怖を感じる。
しかも本来、この橋は渡る甲斐のない橋である。
なぜなら、橋が渡された向こう側は、落石や崩落の危険があるとのことで、立入禁止区域となっているのだ。
それでも、私は橋の上を歩く。
そして、吊り橋の真ん中のところまで到達した。
そこで橋の綱を片手で握り締め、銀縁メガネを嵌め直して、遥か下の湖面を覗き込む。
それでも、何も見えない。
真っ暗な闇に閉ざされている。
照明が薄暗く、かなりな高さなため、下が湖か地面かすらわからなかった。
深夜に訪れたせいもあって、私以外、誰もいない。
心臓がドキドキする。
何かが起こる気がした。
じつは、このT湖の吊り橋は、有名な心霊スポットだ。
友人と恋人に裏切られた女性が、二人に突き落とされて死んだ場所とされ、ここを訪れた女性は死に誘われる、と噂されていた。
深夜に、この場所で湖底を眺めると、死に誘われるーー死んで楽になりたくなる、とも聞いている。
だが、違った。
私には、ただ怖いだけだった。
人によっては、湖面から伸びてくる「生暖かい手」によって、足首を掴まれたりする、とネットなどに書き込まれていたが、そんなこともない。
実際、私は身投げをしようとまでは思っていなかった。
だが、その裏切られた女性に感情移入して、実際に、「死んだ方が安らぐ」と思ってしまうのなら、「吊り橋から飛び降りるのも悪くないわ」と自虐的に思い詰めて、この心霊スポットに吸い寄せられて来たのだ。
それでも、噂通りにはならなかった。
安心したような、ガッカリしたような、複雑な気分になってへたり込む。
上を見上げて星空を眺めてから、視線を水平に戻す。
すると、橋の上に白い影が立っているのが見えた。
驚いて、声も出ない。
まさか、噂の、「裏切られた女性」なのか?
湖に身投げしたばかりのように、全身が水浸しで、こちらに迫ってくるたびに、ビシャンビシャンと水が撥ねる音がする。
彼女の長い髪が左右に分かれ、両目が青白く光っているのが見えた。
目が合った気がした。
その途端、私、白川美奈は悟った。
(ああ、私がまだ死ねない理由がわかった。
安らかに死ぬためには、あの裏切り者ーー元カレと、チビの泥棒猫を、奈落の底に落としてやらなければならない。
復讐がなされていないから、私はまだ死ねないのだ!)と。
銀縁メガネを嵌め直しつつ、私、白川美奈は、そう確信した。
目の前に現れた、白い影の女が、私に悟りを開かせたのだ。
(そうだ、私が安らかに死ぬためには、怨みを晴らすべきなんだ。
ヤツらにーーそしてヤツらをもてはやす連中すべてに、鉄槌を喰らわせてやらなければ!)
私、白川美奈は、吊り橋の真ん中で仁王立ちしたまま、両拳をギュッと握り締める。
すると、全身から力が湧いてくるように感じられた。