5
「……ここか」
今回の仕事は簡単だ。
クルトは胸の内で繰り返す。
ここまでの道すがら、ロルフにも同じ事を説明した。
呪術なんて訳の分からん物をかけられたが、仕事そのものは単純だ。
森に住む人間のサインを貰ってくる。
それだけだ。
それ以下でもそれ以上の難題ではない。
特殊なペンや紙に書いて貰う必要はない。なんでもいい。とりあえずサインを貰えれば、それでいい。
クルトの目の前には真っ黒な大樹があった。本当に大きな樹だ。樹齢は何千年とあるだろうか、クルトには想像もつかない。その樹を中心に森は開けていた。上を見上げればぽっかりと穴が開いたかのように、真っ青な空がのぞいている。緑で覆われた額縁の中に収められた一つの絵画のようでもある。
その樹の中が魔女の館らしい。根本に大きな扉があった。扉の横には呼び鈴を置いた台がある。
どこにでもありそうな、ごく普通の呼び鈴だ。真っ黒な台の上にちょこんと乗っかっている。
「……」
手に取る事を、クルトの何かが押しとどめた。
にゃあ
気づけば黒猫が足下にすり寄っている。
黒猫。
魔女にお似合いだ。
……気味が悪い。
身体が硬くなる。
ロルフの気持ちは、よく分かる。クルトだってそうだ。仕事でなければこんな所一瞬たりとも居たくない。だが、一旦仕事を引き受けた以上最後までやり遂げるのが大人のルールだ。
ロルフに見せつけてやらなければならない。だって自分は、兄なのだから。
こほん
わざとらしい咳。
誰が見ている訳でもないから、取り繕う必要などないのに。
違う。
クルトは一人かぶりをふった。
己に取り繕う必要があった。誰よりもまず先に、まず己にカッコつけなければ。そうしなければ、クルトは先に進めなかった。
「……行くか」
猫を丁寧に避け、クルトは呼び鈴に手を伸ばす。
「イルマっ!」
誰かの名を呼ぶ声と同時に勢い良く扉が開いたのは、クルトの指先が呼び鈴に触れる前だった。
「っ!」
扉はクルトの方に向かって大きく開いた。かすりもしなかったが、その勢いの良さに身体がびくつく。
「さっきは悪かったって馬鹿猫! もう機嫌直せって、って?」
どーんと、勢い良く扉を開けたのは若い女だ。
質素な黒のローブを身につけている。頭には大きな黒の三角帽子。手には箒も持っている。
魔女だ。
どこからどう見ても魔女スタイルだった。
「……誰?」
女は帽子のつばを引き、顔を隠しながら短く尋ねた。
真っ白な髪以外、三角帽子で隠れ、女の顔はよく見えない。
身長はちょうどクルトと同じくらいで、女性にしては高い身長だ。辛うじてクルトの方が女を見下ろせた。
「……ここの人間か?」
逆に問い返せば、女はむっとしたようだ。
「それ以外に何に見える?」
顔を隠すようにしていた帽子をぐいと上げ、真っ直ぐにクルトを睨め付けた。
女の顔があらわになる。
綺麗な顔だ。街の女達よりもずっと、クルトの脳天を直撃した。
目筋が整っているのは当然として、目を引きつけたのは目だ。
蒼と紫の色違いのつぶらな瞳。強い意志の輝きがある。
金持ちの人間がファッションの一つとして眼の色をいじるのは珍しい事ではない。クルトも何人か見た事がある。あるが、そのどれもが薄っぺらい色だった。目の前の女のような、鮮やかな色は見た事がなかった。
「何に見えると聞いている!」
女の苛立った声でクルトは我に返った。怒っていても可愛らしい声だ。
「あー、えーと、そうだな……」
「どうした? 早く言え」
女は何か期待している。わくわくと目を輝かしていて、まるで大きな子供だ。
「……」
居心地悪く、クルトは目を女からそらした。真っ直ぐに見てられない。なんだかひどく恥ずかしかった。なんでかはよく分からない。いや、女の真っ直ぐ過ぎる目が悪いのだ。かっかっかと身体が火照ってくる。今なら口から火だってはき出せる。それは言い過ぎ、嘘です、すいません。
くるくると思考は空転する。
サインを貰ってくるだけ。仕事はそれだけなのに。
クルトの口は動かない。
黙ったまま、ちらりと再びそらした目を女に戻した。
「?」
女は真っ直ぐにクルトを見ていた。
見られている。
あの蒼と紫の瞳が、真っ直ぐにクルトを見つめている。
見つめられている。
そう意識した瞬間。
「じゃ、そういう事で!」
クルトはくるりと女から背を向け、急ぎ足で来た道を戻り始めた。
にゃあ
猫の鳴き声がした。どこか呆れているような響きがあったが、考えすぎだろう。
この身体の火照りも全部が全部、気のせいだ。急に走り出したせいかもしれない。そう、クルトはいつの間にか走り出していた。己でも気づかぬ内に、何故か走り出していた。
「くそ、くそくそくそ!」
クルトは目に見えない、なにかに追い立てられるようにして、森の入り口まで走った。
走り続ける。
身体にしつこく纏わり付く、原因不明の熱を振り払うかのように。
「くそ!」
「……」
女は無言のまま男が立ち去った後も戸口に立ち、男が去った方向を眺めていた。
「なんだったんだ?」
女の呆然とした呟きに答える者はいない――筈だった。
「さぁねぇ?」
黒猫が答えた。
優雅に己の前足で頭をかきながら、黒猫はどうでもよさそうに答えた。
「ま、どうでもいいんじゃない? 用件も言わないで帰っちゃうような奴、こっちからじゃどうしようもないでしょ? 用があったらまた来るわよ」
「無かったら?」
「二度と来ないわね。いいじゃない、それ。静かに生活できて」
女は猫の気楽な言葉に顔をしかめる。
「それは、困る……」
「どうして?」
「だって……最近はお前以外の顔見てないし、そんなのつまらないだろ?」
「アタシにとってはどうでもいい事ね。アンタが愉快に暮らそうが一人寂しくひっそり暮らそうが、とりあえず生きてさえくれればアタシはどうでもいいの」
「……人はつまなら過ぎて死ぬ事もできるんだぞ」
「ちょっと、そんなデカイ図体して拗ねるのやめてくれない? すっごくイライラするわ! 何よ、そんなに気になるのなら追っかけてみればいいじゃない! ついでにアタシ以外の顔も拝んでくればいいじゃないの!」
「っ……」
女は黒猫の言葉に居心地悪げに身じろぎした。
「この根性ナシ! 一人じゃ街にも降りられないなんてどこのガキよ!」
「う、うるさい! ま、魔女様にできない事はない!」
「フン、よく言うわね。さっきも魔法失敗した癖に」
「あれはお前の気合いが足りないんだ!」
「はいはい、その何でもアタシの所為にする癖、いい加減直しなさいよ。アタシは常日頃アンタの傍に居るんじゃないんだから」
「……」
自らの使い魔に軽くあしらわれ、若い魔女は沈黙した。
やがて。
「……分かった」
若い魔女は決意する。
「これから街に行ってくる。街に行って、さっきの男を捜すついでに買い物もしてくる」
要するにただの買い出しなのだが、魔女はまるで重大な使命を告げるかのごとく深刻な顔をして使い魔に命じた。
「だからばば様の買い物リストをここに持ってこい。私は着替えてくる」
「はいはい」
黒猫は気怠げに返事を返し、さっさと自らの仕事を果たしに行った。
若い魔女は満足げにその後ろ姿を見送ると、自らも着替える為家の中に戻っていった。
こうして、森の魔女は街に降りる支度を始める。
魔女が街にとってどういう存在に成り下がったか。そんなことちっとも考えずに新米魔女は街へと繰り出す。
それがどんな騒動を引き起こすかなんて、やっぱり何にも考えずに新しい魔女は、
「……なに着ていこうかな」
なんて実に女の子らしく、お出かけの服を心を躍らせ、頭を悩ませながら選び始めた。
彼女の名はエーファ。
先代魔女が亡くなり、新たに森の魔女を継いだ新米魔女である。
それを知る者は、まだ誰も居なかった。
今はまだ。