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そこは道というよりも空間だった。
ほんのりと淡く光る緑の道と、それを取り巻く白い空間。所々街灯のような物が建っているが灯りはついておらず、ただのオブジェらしい。
そこには天と地はあったが、前と後ろはない。ただ進むだけ。本当に進んでいるのか、分からなくなる。
「一つ聞いても良いですか?」
先導していた男が唐突に口を開く。前を向いたまま、振り返り燃せずに、淡々とエーファに尋ねた。
「ああ」
「あなたって、なんなんです?」
「分かってるんじゃないのか?」
エーファの返答はにべもなかった。
「まあ、確かにちょっとは知ってましたけど、でも少しばかり違うみたいですから。ほら、私ってこんな事してますけど、本職は研究者でしょう? 小さな事でも気になると解明せずにはいられないんですよ」
勿論男――メルディン社特別顧問、ミハエル・フォグナーは全て知っていた。エーファという存在の在り方全てを。しかし、それは十五年前の、エーファがこの街にやって来た時のお話。それから後の事は分からない。というか、ミハエルにしてみればこうして生きている事が信じられない。当時はとても不安定で、今にも壊れそうなものだったのに――というか、壊れる事があれの目的だった。
「先に私の質問に答えたら、教えても良い」
母親に似て、傲慢な物言いだ。ただこの子は母親と違い、それが高慢だとは知らないだろう。母親は分かった上でやるが、この子は違う。だから似ていると感じても、受ける印象が全く違う。
「いいですよ、私に分かる範囲でしたら何でもお答えします」
「なんでこんな事になったんだ?」
「……」
あまりにも根本的な問いに、ミハエルはどこから話したものかと一瞬悩む。
「……それは、そうですね。まあ順序よく言えば元々この森は狙われてたんです。ずっと前から。金銭等で買い取れれば話は簡単だったんですけど、それはきっぱりと断られてましたからね。それで次の手段として、国の上層部に色々なお話をして、強引に乗っ取ろうと、そういう話です。勿論合法でね」
「合法、ねぇ……」
含みのあるイルマの呟きを無視して、ミハエルは肩を竦めて見せた。
「しかし、それも前国王様のお陰で水の泡になりそうですけど。厄介ですよねぇ、王国というのは」
ミハエルはこの国の出身ではない。もっと大きな国、東の共和国の出身だ。メルディン社の本社もその共和国にある。
ミハエルの常識によれば、法とは絶対だ。色々と抜け道はあるものの、それは小さな網の目を抜けるようなもので、ぶち破る事は不可能だ。だというのに、この国では紙切れ一枚でころころと法は変わる。故郷では考えられない事だ。
「はい、私はちゃんと答えましたよ。次はあなたの番です」
「私は私だ」
エーファの返答はにべもない。
「……まあ、それはそうですけどね」
もっと他に言い方はあるだろうに。
呆れて振り返ると、あの子は退屈そうに地べたに座り込んでいた。猫も隣で大人しくしている。歩いていたのは、ミハエル一人だけだった。
「……いつ気がついたんです? ここに道が無い事に」
「入ればすぐに分かる」
やはりエーファの返答は素っ気ない。だが彼女らしい答え方だ。
「そうですか……上手くできてたと思うのですけど」
この空間は、全て見せかけだ。ここには何もない。なにも。歩いているように感じても、それは全てまやかし。
空間すら統べる魔術士にとって、道とは点だ。繋いだ点と点を移動する。踏み入れればそこは目的地であり、歩くという物理行動は無意味だ。
「魔女様だからな、分かる」
何でもありとはずるい。それはちょっと、ずるくないか?
「……で、結局私の質問には答えてくれないんですか?」
「答えたぞ」
「私は私、ですか?」
「他に言いようがない」
「見たままの事よねー」
猫とその飼い主は呑気なものだ。こちらの事情や想いなど、気にも留めていない。それがらしいと言えば、らしいのか。
「手厳しいですね」
「無駄話は終わりだ。早く案内しろ」
ついさっきまで、森で会った時はこちらの言葉に簡単に動揺していたのに。この違いはなんだ?
「はいはい、分りましたよ。今日の所は諦めましょう」
そう、機会はいくらでもある。これから先この子が魔女として生きるとしても、ロゼッタの玩具になるとしても、どちらにしても調べる機会はある。できれば動いている方が色々実験できるから望ましいが、欠片一つでも構わない。本来ならばこれはもうとっくに、壊れているはずの検体なのだから。
そうミハエルは自分を納得させて、己の務めを果たす。これを、ロゼッタの元へ連れて行くことを。
「それではこちらへ。お母様が、お待ちですよ」
「……」
あえて挑発的に言ってみせても、エーファは特に表情を変える事はなく、また何も言わなかった。
少しだけつまらないと残念に思いながら、ミハエルは道を繋いだ。
皆が揃う、あの場へ。
何もできる事がなかった。町長に相談するしか思いつかないでいたが、それとこれとはまた話が別だろう。
ゲルトは己の無力さにやり切れなさを覚えていた。
情けなくはない。己は魔女や魔法使いではない。だから、彼らのような存在からすれば己がちっぽけなものだって、よく分かっている。世の中に公平なものはない。理不尽ばかりだ。
「……」
自分をこの場所に連れてきた男がエーファを迎えに行ってから数分、あるいはほんの数十秒の間、誰一人として言葉を発さなかった。
ロゼッタと名乗った女は腕を組み、身体を深く椅子に沈み込ませ、目を閉じていた。眼鏡の女は番犬のようにロゼッタの後ろで直立不動の姿勢。クルトと呼ばれていた男はだらしなく机にうつぶせている。そして、檻の中の青年と少女。あの二人は誰で、何故こんな所にいる? たまたま森に入り、捕まったのか? 有り得ない話ではないが……いや、青年の方には見覚えがある。それもよくない印象で。おまけに実に久し振りの再会……とは少し違うが、まあ再会に違いない。すぐには思い出せなかった。
はて、誰だったか。
ゲルトがさらに記憶の糸をたどろうとしたその時、まさにその瞬間、ぬっと、あの男は音もなく現れた。エーファを連れて。
「!」
男に連れられたエーファを見て、その格好に少しだけゲルトは驚いた。
エーファは昔妻がよく着ていた服を着ている。チェック柄のワンピースに、深緑のジャケット。
同じ服でも受ける印象は妻とエーファでは全く違う。ややふくよかな妻が着ていた時は柔らかい、ぽかぽか陽気をおもわせるが、エーファは全く違う。細身であるエーファが着れば、そこからはさわやかな初夏の涼しさを感じさせる。
まあ、最も。
せっかくの装いも、何故かジャケットの右腕の肩から下の部分が引きちぎったように破れ、台無しだ。この子らしいといえばこの子らしいのだが……。
エーファは昔からよく服を破していた。怪我がないのがふしぎなくらいに。今までは木の枝やなんかに引っ掛けて、それを力づくで引っ張った為に破れていたのかと思っていたが、昨日のあれをみるに、もしかしたら別の理由かもしれない。ゲルトにとっては、どちらでも大した事ではないが。
「御苦労様、ミハエル。もう下がってもらって結構よ」
随分と偉そうな態度だ。ミハエルは肩を竦めると、そのまま現れた時と同じように音もなく消えた。
しかし、まあ、
「誰だ、お前」
それはうちの娘にも言えることだったが。
エーファは、こんな状況だというのに微塵も動揺していない。ここに来るまでに何か聞かされたのか。若干イラつているようだが、誰だって家の前で好き勝手されたら不快だろう。好き勝手というレベルではないが。
「……お前の母親らしいぞ」
いつも通りのエーファを見たら、ゲルトはだんだんと落ち着いてきた。なんだか大した事のないように思え始めたから、不思議だ。鎖で繋がれてはいるが。
「ふふ、初めましてというべきからしら」
ロゼッタに目を向けると、彼女は妖艶な笑みを浮かべ、笑っていた。
「ゲルトを放せ。リサと……もう一人も。あと、ここは私の家だ。さっさと出て行け」
「何年ぶりかしらね、あなたとこうして語り合うのは」
エーファの言葉を無視して、全く穏やかな調子を崩さずに、ロゼッタは続けた。
「覚えているかしら? あなたと初めて言葉を交わしたのはわたくしなのよ」
「覚えてない」
「冷たい子ね。あれだけ色々教えてあげたのに、覚えていないなんて。母は悲しいわ」
「私に母はない」
「そう、わたくしが教えてあげた事はちゃんと理解しているのね。結構」
鷹揚に肯くと、ロゼッタは立ち上がった。
「あなた、魔女になったそうね。ミハエルから聞いたわ。すごいのね」
小さく笑いながら、ロゼッタはゲルトの後ろに立った。
ぞくりと、背中があわだつ。
「でも、母は心配だわ。あなたみたいな化け物が、ちゃんと魔女として――いいえ、そもそもヒトとして生きてけるのかどうか。その素敵なお洋服だって、もう破れてるじゃないの」
ロゼッタの細い指が、ゲルトの頬を撫でる。
その艶めかしい動きに、ゲルトの全身はぞわぞわなにかが駆け抜ける。気持ち良いような悪いような……欲情にも似ているが、身体の中心は冷えっぱなしだ。しかし、どちらにせよゲルトはどうすることもできなかった。指一本だって動かせない。まさに蛇に睨まれた蛙状態。ちらちらと、冷たい死のイメージがちらつく。
ああ、アリア……それに子供達。
死のイメージがちらつく中、だからこそだろうか。この場にいない、愛しき妻と子供達の姿が頭に浮かんでは消える。
初めてアリアと出会ったのはそう、エーファと出会うよりも前だった。
アリアは近所の小さな商店の娘だ。近所だから昔から知っているが、特にこれといって接点もなく、顔だけ知っているという関係だ。たまに彼女が店番をやっている時に店に入ると、妙に緊張したのを覚えている。
彼女とまともに会話したのはそう、小さな子ども向けの菓子を買った時だった。
『贈りものですか?』
まさか彼女から話しかけてくるとは。ゲルトは混乱のあまり硬直した。
今思えばそれはただの接客だと分かるが、当時はそんな、まともな店で贈り物を買うという習慣がなかったゲルトはひどく動揺した。
両親や知人に贈り物をする場合、山で獲れた物や知り合い達から物々交換で手に入れた物を、そのまま渡していた。
だから、
『男の子です? それとも女の子? 好きな色とか分かりますか? 良かったらその色でお包みしますよ』
アリアが言っている事の意味は、さっぱり分からなかった。
贈り物に包装など、したことはなかったのだから。
『あ、でもこのお菓子だったら包装紙で包むよりもこういう柄のついたビニールで包んでリボンの方が可愛いかもしれないですね、どうしましょ? こないだこういうのも入ったので、色々できますよ』
アリアの瞳は、きらきらと輝いていた。
別にちょっとした手土産だし、そう大そうな物ではない。だから、そんな包装など必要はなかった。
のだが、
『……お任せします』
そう答えた時の、
『! はい、任せてください!』
彼女の嬉しそうな顔。
それが、今になってあまりにも鮮明に思い出される。
まるで走馬灯の最後の一枚のように。
「――だから、母が試して差し上げますわ。あなたがちゃんと、理性のある人間だってことを。この場にいる皆に証明してあげなさい。それができれば大人しくこの地からは手を引きましょう。ここは魔女の森、ですものねぇ」
「ゲルトから手を放せ!」
考えてみれば、アリアはエーファを苦手としているようだが、あの子がいなければアリアとあんな風に話しをする事はなかっただろう。もしあったとしても、それは数年後、あるいは数十年後の話だ。現在のような関係には、なっていなかっただろう。
「駄目ですわ。それでは試練にはならないでしょう? 試練は、ここから、開始ですわ」
痛みはない。
ただ、つんと鼻に突き刺す香りと頬を流れる液体。涙でないことをゲルトはよく知っている。
それは、血だ。