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コクのある香りに、程よい苦み。普段飲むお茶とは全く違う、深い焦げ茶色の液体。一口含めば苦みが口の中に広がったが、不快ではない。
「変わったお茶だな」
「それはコーヒーだ。お茶とは違う」
「ふーん」
実にどうでも良さげな相づちに、コーヒーを煎れたマスターはそれ以上の説明を加えるのをやめた。代わりに猫にも用意してやる。猫は嬉しそうにボールにすり寄った。
一人と一匹がコーヒーを堪能している間に、マスターは食事の支度にかかる。
元々はコーヒーとパンなどの軽食、バータイム用のお菓子類しか置いてはなかったが、あの兄弟が入り浸るようになってからは違う。あの兄弟は三度が三度飯を食らいに来るから、とても自分用に用意していた食料では足らなかった。冷静に考えればわざわざ食材を買い足してまで準備する必要はない。全くない。『カッツ』はそういう店ではないのだから。だのに、マスターは用意してしまった。それは多分己の立派な職業倫理のおかげだろ
う。己は食い物屋をまがりにも経営しているのだ。客が食べ物を所望したならばそれに最大限答えるのが筋だろう。そう思う事にした。
今晩の献立は少し豪華だ。特製シチューとサラダ、パンにデザートまで。
「ほれ、できたぞ」
「失礼しますよ」
マスターが料理を並べたのと、招かざれる客が現れたのは同時だった。
夏だというのに、その客は黒いロングコートを一分の隙もなく着ている。背のあるシルクハットを被り、手にはステッキが。これからお城に行くような、ひどく場違いな装いの客だ。
「いらっしゃい……と言いたい所だが、表の看板は裏むけて置いたはずだが」
「承知しています」
丁寧にシルクハットを取りながら、客は一礼した。
金髪碧眼の、端正だがやや童顔の青年だ。見かけは人なつっこそうな、まるで子犬みたいな青年だが、口を開けば落ち着いた物腰の青年だ。
「ですが私は食事に入ったのではありませんから、ご安心を」
「何に安心していいのか分からねぇな」
「お邪魔はしませんから。少しだけ私の仕事をさせて下さい」
「客じゃねぇなら用はないんだが」
「はは、すぐ終わりますからちょっとだけ私に時間を下さい。さて、こちらに魔女見習いの娘さんがおられると聞いたのですが、あなたですか?」
「……ああ、そうだが」
答えながらも、エーファの目はカウンターの上に置かれた料理に釘付けだ。
「初めまして、私はさるお方の使いの者です。ここに、あなたの現状を憂いた我が主人からの手紙があります」
差し出されたのは簡素な紙切れ一枚。二つに折られてはいるが、手紙というよりはメモにしか見えない。
マスターはひどく胡散臭い男を疑うが、手紙を渡された本人は気にする事無く手紙とやらを受け取り、開く。
そこには簡潔にこう書かれていた。
あの森は魔女のものである。
そう一言だけ。そして、その横には金色の角印が押されていた。王国の繁栄を象徴する鳩の紋様が刻まれた、ジークフリードという名前の印が。
「今回のこの事態、我が主は大変憂いておられます。主の見解を申しますと、あの森は魔女の森であるのが一番、響き的にもカッコイイじゃないか、との事です。ですからあなたには頑張って頂かないと。私も微力ながら手伝うように申しつけられました。以後よろしくお願いしますね」
金の角印を用いるのは王家の者だけ。ジークフリードという名前は前国王の名である。長く王国を善政し、大いなる発展に導いた王として、第一線を退いた現在でも何かと話題に上る人物だ。その影響力は息子である現国王すらも軽くしのぐとか。
そんな大物が森は魔女のものだと認めているのだ。これは大変な事なのだが、
「……どういう事だ?」
やはりエーファは分かっていなかった。イルマは無視を決め込んで、何の助言も与えない。ロルフに突き出された事を恨んでいるらしい。
「つまり、私はあなたが森を取り戻すお手伝いをしに来たという事です」
「取り戻す?」
「ええ。今森は奪われているじゃないですか。取り返しに行かれるんでしょう?」
「……」
エーファは無言で手紙と男とを交互に眺めた。そして、最後にカウンターの上の料理達に目が戻る。
マスターと、料理越しに目が合った。
「まあ、先に食え食え。すっかり料理も冷めちまうわ」
スプーン等の食器を置きながら、マスターは男にも席を勧めた。
「とりあえずあんたも、まずは座ったらどうだ? すぐに終わる話でもないみたいだが」
「ははは、私としては簡単な話のつもりでしたけど」
「嬢ちゃんにはそうでもないみたいだが」
「見習いさんには難しいお話でしたかね」
可愛い顔に合わず、嫌みな奴だ。もっともエーファに気にした様子はなく、マスターが用意した料理をがっついている。
男はエーファの隣に、席一つ開けて腰を下ろした。
「でも真面目な話、早く行った方がいいと思いますよ。なんだか向こうは人質取っちゃってますし」
さらりととんでもない単語が飛び出してきた。エーファはやっぱり気にした様子はなく、代わりにマスターが口を挟む。
「人質? えらく物騒な話だな、おい」
「まあ私もそこまで直接的な手段に訴えるとは思ってなかったんですが、先程ちょっと森の様子を見るに、どうもそれらしい感じの女の子が居まして」
「女の子?」
エーファの頭に過ぎったのはリサだ。そういえば遊びに行っても良いかと聞かれ、いつでも歓迎だと答えは覚えはあったが、まさか――
「お知り合いですか?」
「リサだったら知っている。後マルタとロッテも」
知っている女の子といえばこれくらいか。
「生憎名前までは見えなかったのでどの子かまでは分かりませんが、可能性はありますね。あんな森に用がある人間はなかなか居ないようですから」
「野草取りじゃないのか?」
「魔女の森に野草取りですか?」
「古い町の人間ならともかく、最近この街に来た奴らは魔女の森なんぞ知らんだろう。気にもしてないんじゃないか」
「そういうものですか」
「そういうもんらしいな」
それきりマスターと男の会話は止んだ。
バックミュージックを流す蓄音機なんて気の利いた物を置いてない店だから、沈黙が降りると雑音がいやに響く。
エーファがもぐもぐと食べる音、イルマがぴちゃぴちゃと舐める音。
そして、どすどすと騒がしい複数の足音。
彼ら、もしくは彼女らは『カッツ』を通り過ぎ、真っ直ぐに二階へと向かう。
そして、
「ぬあ? な、なんだお前ら!? ちょ、何しやがる!!??」
どたんばんと暴れる音と、ロルフの間抜けなな声。
これは、
「穏やかじゃない様子ですね、上は」
「……行ってくる。留守番頼むぞ」
放ってはおけない。大事な常連客である。
「構いませんよ」
ロルフと知り合いらしいエーファに頼んだつもりだったが、返事をしたのは男の方だった。
「それよりも私もご一緒しましょうか? こう見えても腕に覚えはあるんですよ?」
「結構だ。俺の家壊すつもりか」
「いえいえ。でも、とても物騒な匂いがするものですから」
同感だった。
なにかヤバイ感じがする。あいつら、何に首突っ込みやがった!?
「私が行こう」
「ん?」
口元を勇ましく拭いながら、それまで食事に夢中だったエーファが立ち上がる。
「嬢ちゃんが?」
「空腹は満ちた。準備は万端だからな」
意味が分からない。
「いや、いいって。嬢ちゃんが行くとまたややこしい事になりそうだしな、」
そもそもマスターとしては上の様子を見に行くだけの話だ。ロルフが何かヤバイ雰囲気になっているなら仲裁してやってもいいが、あくまで仲裁だ。話し合いで解決。暴力なんてもっての他。
「あいつらには聞きたい事も聞けてない。だからちょうど良い」
淡々とそう一方的に告げると、エーファは扉に向かう。
制止する間もあればこそ。
「ちょ、ちょっと待てって」
マスターが止めるのも聞かず、エーファは一人店を出た。
にゃおん
どこか馬鹿にしたような、猫の鳴き声がやけに響いた。
そして、
どがんっ!!
爆発音が轟くのはもう少し後の事だった。