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「それで、お仕事はどうでした?」
お茶を差し出しながら、さも当然のような顔でロゼッタは尋ねた。
差し出されたお茶が乗るカップもお皿もティーポットもティースプーンすら、クルトは見た事がないものだった。
弟のロルフは料理さえまともにしない奴で、ロルフが揃えた物ではないだろう。むしろクロトとロルフ二人ともこういう嗜好品の類には縁がない質で、水さえあれば十分な人間だった。事務所をここに構えてからは客に出す程度にインスタントコーヒーは揃えていたが、それも素っ気ないマグカップで出す程度で、こんな上品なカップを用意した覚えはなかった。
「ええと……」
もしかしてこれは彼女の持ち込みだろうか? それかロルフに買いに行かせたか。どちらもあり得る事だったが、後者の可能性は考えたくなかった。だってこの茶器の一式はとても高そうに見えた。
透明感のある白い陶器に、そっと描かれた紅い華と緑の葉っぱがいくつか。
個性的でもなんでもない、どこにでもありそうな絵面だが、だからこそ芯のある上品な美しさがそこにあった。
芸術を愛でる心なんて生まれて数年で忘れ去ってしまったクルトですら、ちょっとした感嘆を覚えてしまう。単純に綺麗だと思った。
美しいとはこういう物だと、素直に感嘆できた。
一体買えば幾らするのか、そんな事は恐ろしくて考えたくない。しかしロゼッタに「これくらい必要ですわよ」と言われればきっと買ってしまうんだろう。それに認めるのは少し癪だが、クルトはこの茶器が気に入ってしまった。もしロゼッタが持ち帰ろうとすれば、表面上ではせいせいした振りをしても心の奥底では残念がるだろう。
ロゼッタの質問とは全く関係無い、そんな事を考えながらカップを持ち上げ、クルトは紅茶を口に含んだ。
「紅茶、とても美味しいです」
「当たり前です、わたくしが自らお入れしたのですもの。そんな決まり切った事をわたくしは聞いておりませんの。もうイジワルね、クルトさんは。ロルフさんと大違いですわ」
ぷんぷん。
わざとなのか素なのか、どちらにせよ可愛いことには変わりなかったが、どうなのか。
そこそこの年齢に達した大人に似合う形容詞として、『ぷんぷん』って。
クルトは物理的に頭をぶんぶん左右にふってその形容詞を頭から振り払おうとしたが、無駄だった。
どう見ても向かいに座り、自分で入れたお茶を飲もうとして、クルトの言葉に気分を害した様子のロゼッタの様子は『ぷんぷん』としか言いようがなかった。
薔薇色のふくよかなほっぺを膨らませ、不満げにうるっとした瞳で見つめられてみろ。
ロゼッタはそういう子供じみた仕草が恐ろしい程に似合う女性だ。もういい加減耐性はつき始めたから悩殺されることは少なくなったが、居心地が悪くなるのは変わらない。
耐えきれずにクルトは許しを請うた。
「勘弁して下さいよロゼッタさん。確かに貴方から紹介は頂きましたが、知ってるでしょ、守秘義務ってヤツ。依頼人との秘密は守ります。守らせて下さいよ」
守秘義務とは、職務上で知る事のできた秘密を守らなければならない義務。
クルト達の『ボルク事務所』は依頼があればなんでもやる何でも屋として活動している。持ち込まれ
る依頼も様々だ。浮気調査から迷い犬の捜索、取り立ての代行まで幅広く。そういった仕事の中で依頼人や周辺の人間の事情に深く関わりすぎ、要らない事まで知ってしまう事がままにある。
ここだけの話、質の悪いそういう何でも屋の手合いの中には仕事で知り得た情報をネタに依頼人を脅す、依頼人に限らずにネタを手に入れた人物を脅す輩は多い。中にはそういうネタ探しを目的にしている輩もいる始末で、非常に危うい仕事なのだ、この何でも屋というのは。
クルトが守秘義務を徹底的に課すのはひとえにこれら厄介事を避ける為。依頼人との信頼関係も大事
だが、そんなものは二の次だ。
全ては己のため。
自分たちの場所を、守る為。
だから絶対に守秘義務は守る。
「まあ」
ロゼッタは大げさに拗ねてみせた。
「わたくしとクルトさんの仲じゃありませんか? ね、いいでしょ少しくらい」
「だから、少しも何もないでしょうが」
「んもう、クルトさんのい・け・ず」
「マジで勘弁して下さい」
「本当に……だめ、ですの?」
「無理です」
つけ込まれないよう、しっかりとロゼッタの深い蒼の目を見ながら、クルトは言い切った。
「仕事を回してくれたのは感謝してますけどね、無理なモンは無理です。俺はまだこの仕事辞める気はないんで」
「……そう。分かりましたわ。今日は大人しく帰ります」
ふうと一息、深く息を吐き出して、ロゼッタは項垂れた。
クルトは危うく一緒に溢しそうになったため息を飲み込んだ。
「そうしてくれると助かります」
「んもう、本当にいけずね、クルトさんは」
「そりゃどーも」
「もう、可愛くないっ!」
ぷんぷん。
憤慨した様子でロゼッタは立ち上がった。
「その茶器は差し上げますわ。ここに来るといつもコーヒーばかりですもの」
「はあ、ありがとうございます」
「茶葉はご自分で揃えてくださいね。そうそう、茶葉はこのお店がお勧めですわ」
そう言って渡された小さなパンフレットにはいかにも高そうな店が映っている。
「はぁ、どうも」
受け取りながら、多分この店を使う事は無いだろうなとクルトは考えた。
「それではご機嫌あそばせ」
優雅に一礼して、ロゼッタ婦人は事務所を後にした。
ロゼッタが帰った後、残った紅茶を飲み干しクルトはする事がなくなって呻いた。
「……ロルフはどこまで使いに行ったんだ?」
答える者は、いなかった。
「つまり、こう、いう事、なんだ」
ロゼッタが帰ってしばらく。
ようやくロルフが帰ってきた。
ロルフはぜぇぜぇと、息を切らせながら報告する。
「ろ、ロゼッタさんに頼まれて、葉っぱを買いに、行ったんだよ」
葉っぱとは茶葉の事だろう。もっと他に知性を感じさせる言い方はできないのか……。
「この店か?」
ソファに背を預けたまま、少し情けなく思いながらクルトは先程そのロゼッタから頂いたパンフレットを差し出して見せる。
「それ、それ」
「……幾らしたんだ?」
自然と低くなってしまうクルトの声。
昔に比べれば格段に生活水準は向上し、明日のメシに困るような事態はおさらばしているが、それで
も厳しい時は厳しい。ちょっとくらいならいいが、大きな無駄遣いはいたい。
「二百E」
何故かロルフは誇らしげだ。こんな高い物を俺は買えるんだぞ、という心のやらしさの表れか。
「……」
その答えに、はぁ、と、大きくクルトは息を吐いた。
二百Eもあれば一週間分の食料が買える。十分に大きな無駄遣いの額だ。
一体誰が紅茶など飲むか。ろくに入れ方も知らないのに。
「ロゼッタさんが言うには今度の仕事の相手先の好きな奴だからって。絶対に用意しておけって言うもんだから」
「ったくあの人は……ん?」
ロルフの言い訳がましい言葉の中に、一つ聞き捨てならない単語が聞こえた。
「相手先の好物?」
身を起こし、ゆっくりと向かいに座り喉を潤しているロルフに尋ねた。
「あの人がそう言ったのか?」
「ああ」
ごくりと。
豪快に喉を鳴らしながらロルフは肯いた。
「なんでも昔からの知り合いらいいぜ。その、今回の仕事の相手先と」
「……」
あの狸め。
クルトは頭を抱えた。
初めから、全て分かっていたのか。
分かっていながらしつこく尋ね、クルトをからかったのか。
意味が分からない。
あの人のことだ。意味などなく、あの人自身が言っていたようにたまたま寄っただけなのか? いや、それにしてはタイミングが良すぎる。やはり何かしらの意図はあったはずだ。
「…………まあいい」
しばらくの黙考の後。
組んでいた手をほどき、クルトは決断した。
「ともかく仕事だ。飯食ったら行くぞ」
「分かった」
ロゼッタの事は、考えるだけ無駄だ。
彼女との付き合いは長いと言えるが、それでも知らない事の方が多かった。
住所と家族構成はなんとなく知っているが、実際に訪ねた事は無いし、家族とは会った事もなかった。
依頼人という関係から考えればおかしな話ではない、かもしれないが、一人の依頼人というには付き合いが長すぎるだろう。
まあ最終的に食えればそれでいいのだから、ロゼッタの意図はどうでも良かった。
金になるのは確かだし、ロゼッタの持ち込む仕事は悪いものばかりではない。
それにここが重要なのだが、クルトにロルフ、二人ともロゼッタの事は嫌いではなかった。たまにいらっとなったり、不信感を覚える時もあるが、それがどうでも良くなってしまうような、言葉にはし辛い魅力が彼女にはあった。
困った事に。
「なんか食うモンあったっけっか?」
ソファから立ち上がり、三階へと移動すべくクルトは足を向けた。
「えー、下行こうぜ。もう店開いてたし」
下とは一階の店の事だ。すっかり常連で、他の店で食べるよりは安くて済むので利用する事が多い。
不満げな声を上げるロルフをクルトは睨んだ。
「駄目だ! お前今さっきもロゼッタさんに言われて無駄遣いしたばっかじゃねぇか。うちにはそんな贅沢品を買うお金はそうそうありません!」
ありません、の前に「そうそう」と付けたところが、クルトの微妙なプライドだった。
きょとんとした様子でロルフは答えた。
「え? いや、あの葉っぱのお金はロゼッタさんが出したぜ」
「……なんだと?」
「馬鹿だな兄貴。俺が葉っぱ如きに二百Eも出せるかって! 馬鹿言うなよなぁ」
「そりゃそうだ」
「だろう?」
だとしたら、ますます分からない。
ロゼッタは一体何をしに来たんだ?
「じゃ、下に行くか!」
弟の言葉で我に返る。
「ああ」
つい下の店で昼食を取る事を了承してしまった。
思考が泥沼にはまる。
だからこれ以上ロゼッタについて頭を巡らせるのは止めようと己に言い聞かせたのに。
なのに、いつの間にかロゼッタの泥にはまっている。
恐ろしい人だ。
そして、これから向かう先の相手はその恐るべきロゼッタの知り合いらしい。それもロルフを使い走りにさせてまで、しかも自費でその相手の好きな茶葉を用意させる程の、だ。
ただの知り合いではないだろう。
勘弁して欲しい。
「……はぁ」
クルトは深く、息を吐いた。
深く深く。
もしあるとしたらロゼッタの泥を頭から胃から、全て吐き出すように。
ふかくふかく。