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森の魔女  作者: 杉井流 知寄
ぷろろーぐ
1/38

プロローグ

ほのぼのですが、残酷描写、R15描写はあります。矛盾してんじゃん! と思われるかもしれませんが、そんなもんです。お気をつけ遊ばせ!

 森があった。

 

 人がその地に流れ着くずっと前から、森はあった。


 森にはあらゆるものがあった。


 あらゆるものがせめぎ合い絡み合い、奪い与え合う。


 森に全てがある。


 知恵、力、神秘。


 森には代行者がいた。


 この森だけではない。森のように特別な地には必ず代行者がいた。


 巫女、神官、魔法使い、長。


 言い方は様々だったが、この土地の者はこの地の代行者をこう呼んだ。


 

 魔女と。








「……(弱ったな)」


 森の奥、しかし魔女の領域の一歩手前のやや開けた場所。子供たちの格好の遊び場でもある。親たちは色々な意味で――例えば町から離れすぎているとか大型動物もいないことはないとか、魔女の家から近い、とか――危ないからこの場所で子供たちが遊ぶのを嫌がった。しかし元々猟師小屋があり、子供好きの誰かが簡単な遊具を造ってからは、子供たちの人気の遊び場になっていた。


 そこに男が一人、途方に暮れて立ち尽くしている。


 男はこれから魔女の所に向かう途中だった。


 男自身はそんな事を一度も感じた事はなかったが、町の人間の中で魔女と一番親しいのは己らしい。少なくとも町の他の人間の評価はそうなのだが、男は実感した事がなかった。


 何故なら男にとって魔女というのは仲が良いとか悪いとか、そんな次元の話が通じる相手はではない。例えるならばお前は太陽と仲が良いね、と言われ、そうだと肯定する。魔女との仲を肯定する事はその例えと同じ事だった。


「……」


 見なかった事にして、先に進もうかとも考えつつも、もう一度、一度は視界から外したモノを隅に入れてみる。


 木の下で、子供が一人うずくまっていた。髪も真っ白でぼさぼさに伸び放題の、薄汚い白いぼろの服を着た子供だ。きつい臭いが男の鼻を刺激した。身体を丸め膝を抱え、ぎゅっと手は折り曲げた足に回している。顔も埋め、男が近くに来ても身動き一つしない。歳の頃は四、五歳程だろうか。


 当然男が連れてきた子供ではないし、辺りに親らしき人間が行き倒れている様子もなかった。


 森ではたまにあることだ。


 森は恵みを与えるが、同時に奪いもする。


 男も何人か知り合いを森で亡くした。だが男は森を恨む気にはなれなかった。それは筋違いだと、男は考えている。


 行き倒れの子供でないとしても、町の子供でないことは確かだ。町の子供が今、外に出られるはずがない。だから男がここに、魔女の家を訪れようとしているのだから。


「……ここで何をしている」


 子供を見下ろしたまま、男は尋ねた。


 お前誰だとかどこから来たとか、そんな当然の疑問を男は口にしなかった。


 無論興味はあったが、それよりも男の頭の中にはある噂がよぎっていた。




 災いは森より来たる。




 誰が言い出したかは分からない。ただ子供たちが原因不明の病に倒れるようになり始めてから、この噂は急速に広がった。


 それを魔女だと直接口にする者はいなかった。


 魔女に恩義がある者そうでない者、関わりがない者ある者、それら全ての町の人間が魔女を恐れていた。


 だから口にはしなかった。しかし誰でもそう、少しは疑っているのは町の空気で良く分かった。




 馬鹿馬鹿しい。




 男はある種強い怒りをもってこの噂を断じた。


 そして、更にはそれでも魔女を結局の所頼ろうとする町の長たちにも、男は怒りに似た苛立ちをもった。


「……」


 子供は答えなかった。答える代わりに顔を上げた。


 ぼさぼさの白い髪の下からは冷え切った氷のような蒼い瞳と、異様な煌めきを持つ紫の瞳が不自然な程大きく、のぞいた。


「、」


 美しい、と、男は一瞬子供から臭う異臭を忘れる程に目を奪われた。


 二つの瞳はまさしく宝石だ。人の眼球というものはこんなに美しいものだったのかと、男はひどく驚いた。

 

 しかし同時に薄気味わるい寒気も覚え、なんとも言い難い感情に囚われる。何故なら子供は無表情だったから。小さな唇は真一文字に結ばれていた。


 子供の髪も肌も服も全てが薄汚い白であるのに対し、その二つの色違いの瞳は場違いな程強烈な色彩を持っていた。


 異臭が鼻をつく。


 死臭だ。


 男は唐突に気づく。


 嗅ぎ慣れた臭いが混じっている。


 血の臭い腐った肉の臭い魚の生臭い臭い臭い匂いにおい。


「……」


 男は子供を見続けた。子供も男の視線をしっかりと受け止め、見つめ返してくる。外した方が負けだと、男は少し意地になった。


「……」


「……」


 沈黙のまま、男と子供は見つめあっていた。


 なにか話しかけるべきか。男は更に言葉を重ねようとしたが、やめた。子供は先程の質問に答えていない。じっと待つことにする。しっかりと目を合せてくる子供の様子を見るに、言葉が通じていない様子もない。


 瞳はとても落ち着いた輝きを宿している。混乱しているようではなく、またぼんやりと生気がないわけでもなく。


とても。


 とてもしっかりとした意志の感じられる瞳。


 男は逆にそれが気味悪かった。


 恐ろしいとも感じた。


 何か事件か事故に巻き込まれて茫然自失としているという状況ならまだしも、子供は明確な意志をもってこの場にいるようだ。


「、」


 子供が、ようやく口を開いた。


 赤い唇の下から白い小さな歯がのぞく。そして更に下には真っ赤な下、白い歯、赤い唇。


「いきてる?」


 最後の音が少し上がった。疑問形らしい。小首を傾げる可愛いしぐさをしながら、子供はゆっくりと立ち上がった。


 無表情から一変、新しい玩具を手に入れたような、生き生きとした表情になる。


「……まあな」


 否定することでもないので、男はうなずいておいた。


「そう、じゃころさなきゃ」


 まるで、そうまるで手を挙げて挨拶を返すような気取らなさで、子供はひどく物騒な言葉を吐くと共に、右手を振ろうとした。


 振ろうとした。


 男にそれが分かったのは、子供の様子をつぶさに観察していたからだ。男には子供が右手に力を入れたのがよく見えた。


 しかし、実際には右手は僅かに震えるばかりで少しも動かなかった。


「……あれ」


 子供が訝しげな声を上げた。


 不思議そうにまじまじと自分の腕を眺めている。


 指を開いたり閉じたり腕を回してみたり。


 ぎこちなさはあるものの、ちゃんと動いた。そしてよし、というように男に向かって腕を振り下ろそうとすると、


「なんで?」


 腕は動かなかった。


 不思議そうに見てくる子供に男は返す言葉を持たない。男にも分らないからだ。


「……それよりもだ、おれはお前の質問に答えた。だからお前もおれの質問にとっとと答えろ」


「いちりある」


 男の大人げない言葉にうんうんと、したり顔で子供はうなずいた。歳の割に難しい言葉を知っているな男は感心した。


「でもね、これたちもしらないの」


「……」


 これたち。


 子供がそう三人称で示す人物が子供自身だと気づくまで、男は数秒要した。

 

「……これたち?」


「?」


 男が子供の言葉を繰り返すと、子供は首をかしげた。


 どうして男が戸惑うのか分かっていないようだ。


 これたち。

 

 物を指す言葉で、決して人を指す言葉ではない。と男は思ったが自信はなかった。


 男はごく一般の民間人で、えらい学者でもなんでもないから、もしかしたら男の知識は間違っているかもしれない。もしかしたら一部の地域ではそう言うのかもしれない。言葉とは常に緩やかに変化していくもので、絶対だと思われた決まりもいつしか時代と共に変わっていく。


 それになんたって幼児語。男の常識は通用しない。男は常々何故食事のことを『まんま』と言うのか、理解できなかった。それと同じことだろうそうにちがいない。


 そう男は納得して、気にしない事にした。そうでもしないと話が進まない。


「まあいい。それで、おまえ名前は? どこから来た?」


「これたちはこれたち! なまえあったこれもいたんだけどね、これがふこうへいだっていうからなしにしたの。これたちあたまいいでしょ!」


「……ああ」


 よく分かった。頭がおかしいんだと。


 子供ははしゃいでいる。なにが嬉しいのか満面の笑みを浮かべ、その場で飛び跳ねながら、しかし時折不自然に右手の動きが止まるのが男には気なった。


 ――じゃ、ころさなきゃ


 殺さなきゃ。


 聞き間違いではないと思う。その瞬間、確かに殺気を感じた。


 そう、明確な殺意をもって子供は何か仕掛けようとした。しかし原因は分からないが実行に移せなかった。そして、今ももしかすると子供は実行中なのかもしれない。右手の不自然な動きがそれを表している、ように男は感じられた。


「……無駄な事はやめろ。おれはお前をどうこうしに来た訳じゃない。お前がもしここで人を待っているのだったらそいつが来るまで一緒に居てやってもいいし、道に迷っているのなら案内してやる」


「これたち、ここにいろっていわれたの」


 飛び跳ねるのはやめ、しかし右手の不自然な動きはやめずに、子供は答えた。


「待っているのか?」


「いろっていわれた」


「待っていろと?」


「いろって」


「……」


 要領を得ない子供の答えに、男は頭を抱えた。


 お手上げだ。


 しかし放っておく訳にもいかない。


 得体が知れず気味の悪い子供だが、小さい子供に変わりない。町の子供たちと同じよう、あの原因不明の病にいつ倒れるとも限らない。


 男には子供がいないので詳しい症状は知らなかったが、この病は子供だけに発症した。だからこの子供も発症しているかもしれない。


 それになにより、こんな場所に一人小さな子供を置いては行けなかった。


 もうすぐ夜になる。


 危険な夜行動物が出没することもある。野犬だって危ない。特にこの子供のひどい臭いは獣が好みそうな臭いだ。


「良く分かった。お前、いいからおれについて来い」


「?」


 きょとんと、子供は小首をかしげた。


 少し考える素振りをしつつ、子供は答えた。


「でもね、これたちここにいろって」


「おれが良いと言っている」


 男は子供の言葉を遮り、更に重ねた。


「いいから黙っておれについて来い」


「……をを」


 子供はひどく驚いたらしい。色違いの瞳が大きく見開かれる。


「ほんとうにいいの、これたちがついていっても」


「来いと言っているのはおれだ」


 辛抱強く、男は言葉を紡ぐ。


「お前をここに置いていく訳にはいかんからな」


 危ないから。と言いかけた口は何故かその機能を途中で放棄した。その理由を考えるのを男はやめた。意味が無いからだ。それに考えるという行為はひどい労力を男に要求する。考える事は面倒だったから、男はそれ以上考えるのをやめた。


 くしゃりと、薄汚い頭をなでる。


 臭い。が、我慢できない程ではない。一体こいつは何日風呂に入っていないんだろうと、男は考えた。


 子供の瞳がますます大きく見開かれる。


「これたちは――」


「いいから来い」


 男は屈んで、子供の手を握った。


 不自然な動きを繰り返す右手を。


 小さな手だ。少し男が力を入れれば簡単に折れてしまいそうな、小さな手。


 子供と目があった。


 にぃと、子供はぎこちなく笑みを浮かべた。


「……」


 口元は辛うじて微笑みじみたものが作れているが、二つの色違いの瞳は全く笑っていない。男はひどい寒気を覚えたが、努めて表に出さないようにした。


「さぁ、行くぞ」


 こくりと、男の言葉に子供はうなずいた。


 その仕草は可愛らしいのに。


 そんな事を考えながら、男は子供の手を引く。


 小さな手が男の手を握り返す。男の真ん中の指を、ぎゅっと。その慣れない感覚をこそばゆく感じながら、男はちょいと、子供の手を引いた。


「あ」


 男が手を引き、子供が一歩踏み出すと同時に子供は小さく声を上げた。その瞬間、かくんと子供の身体が前へ倒れる。


「!」


 男は驚いてとっさに抱き留める。


 ひどい臭いが鼻をついだが、どうにか耐える。


 子供はぐったりとしている。やけに重い。それもだんだんと、有り得ない事だが重さが増していっている感じがした。


 気のせいだ、と男は自分に言い聞かせながら魔女の元へ急ぐ。


 人の身体が重くなっていくなんて、有り得ない。見かけも全く変わらないのに何故体重だけが増えていくのか。


 男には理解不能だった。


 しかし男の腕はだんだんと重くなっていく子供の体重を、しっかりと男に訴え続けた。


 ずしずしと重たくなる、子供の小さな身体を抱いて、男は全速力で森を駆け抜けた。





「よく来たな」


 魔女の家に着くと、魔女は家の戸口の前で男を待っていた。


 いつ来てもその度に驚かされる、不思議な家だ。


 黒いフードを目元深くまですっぽりと被り、手には曲がりくねった木の杖。黒のローブに複雑な刺繍が織り込まれた深い紫のマントを羽織っている。


 男も何度か見たことがある、魔女の正装である。


「お主が来ることは分かっておった」


 男が事の経緯を説明しようと口を開く前に魔女は言った。


「ただその童を拾って来るかは分からんかった。それは分かれ目じゃった。わしが見た二つの未来の」


 魔女は厳かな声で男に告げた。


 男は思わず腕の中でぐったりしている子供を見た。


「……おれは正しい選択をしたのか?」


「正しい、間違った……どれも結果論じゃな、おまけに正しい言葉ではない。正しく言うならば都合良いか悪かじゃな」


「問答はいい」


「つれん男じゃ。つまらんのぉ」


「……」


 男は無言のまま子供を魔女に差し出した。男にははなから魔女の問答に付き合う気はない。それよりも男には町の人間から託された使命があった。


「おれがここに来た用件は分かっているだろう、時間がない。早くしてくれ」


「ほんにつまらん男じゃのぅ、久しぶりに顔を見せたと思えば茶の一つも飲まんと去ぬるとは。お主はもうちっと遊ぶことを覚えるべきじゃな」


「状況が状況だ」


「分かっておるわい。まるでわしが人でなしのような言いぐさじゃな、失敬な奴じゃ」


「そんなつもりはないが」


「冗談じゃ」


 にやりと、魔女の口元に深い笑みが浮かんだ。


「中へ入るがええ。薬は用意しておる」


 ああ、やはり魔女は魔女だ。これから起こる事、やるべき事をきちんとわかっている。


 男は肯いて、魔女の言葉に従う。


 魔女が先に家の中に入った。男も子供を抱いたまま、後に続く。


 魔女の家は広い。男の家なら三軒は入りそうなくらいに広い。


 玄関を入るとすぐに応接間。魔女は自分の家にあまり人を入れたがらない。魔女によると他人を家に招き入れると家の『場』が乱れるとの事。男はよく分からないし興味もなかったからそれ以上を聞かなかったが、だから大抵の者はこの応接間までしか魔女の家には踏み込めなかった。


 男も大抵の者のその一人であった。今日までは。


「なにをしておる。こっちじゃ」


 男が応接間のソファに子供を寝かしつけようとしたら、魔女は奥の扉の前に立ち、男を手招いた。


「何十年ぶりかのう、この奥に他人を招き入れるのは」


 楽しそうに魔女は笑いながら扉を開けた。


 真ん中に螺旋状の階段がある。その奥には広い調理場。魔女一人しかいないのに、豪勢な話だ。


 魔女は螺旋階段を降りていった。男も続いてく。


 次の階は書庫のようだった。たくさんの本棚が並んでいる。本で埋まった書棚もあれば、ほとんど空いている書棚もあった。


 魔女は更に降りていった。仕方なく男も続いてく。


 螺旋階段はその階で終わっていた。妙な部屋だ。暖かく適度に湿っている。部屋は大きく二つに別けられていた。


 部屋の入り口は半透明のガラスのすり戸。暖簾といわれる、極東のカーテンのような看板のような布きれ。ガラス戸の半分を覆っている。そこには大きな文字でそれぞれ『男湯』と『女湯』と書かれていた。


「こっちじゃ」


 女湯、と書かれた方に魔女は入っていた。


 一瞬戸惑う男だったが、


「安心せい、わしらしかおらん」


 魔女の笑いを含んだ声に腹を決めて女湯と書かれた暖簾をくぐる。


殺風景で広い脱衣所を過ぎるとまたガラス戸の引き戸が。


 魔女がからりと開けると、中から湯気が入ってきた。


 相当熱い。熱気がむぅ~んと男の元まで伝わってきた。


 ぴくりと、その時子供が動いた。


「そのまま湯へつけるんじゃ。暴れるようなら押さえつけてでもの」


 魔女は振り返り、男をあごでしゃくった。浴室に魔女は入らないつもりらしい。男は子供を抱く腕に少しだけ力を込めながら、浴室へ足を踏み入れた。


 熱い。


 むんむんと、湯気が沸いていた。湯船のお湯は沸騰しているのではないかと思うほど。また何かの薬草の臭いも充満していた。


 広い浴室だ。ベージュ色のタイルで統一された、飾りっ気のない広い浴室。湯船も大きく、大人でも一人ぐらいなら悠々と泳げそうだった。


 男は言われた通りに屈んで子供を湯船につける。湯気は白い程に湯船から沸いていたが、男の腕が感じる温度は高くはなかった。むしろ生緩い。臭いの元の薬草の効果だろうか。


 子供の身体が湯に浸かった瞬間、子供の目が見開かれた。


「!」


 その目の開き方が、かっっ! というような気迫に満ちた目の開き方で、びっくりした男はうっかり子供を湯船に落としてしまった。


 どぼん。


 小さく水しぶきを上げ、子供は頭ごと湯船に浸かった。


「っ!」


 しまった。


 慌てて引き上げようと男は腕を伸ばしたが、魔女の杖が遮った。


「これで良い。これでもう大丈夫じゃ」


 横を向くと魔女がいつの間にか立っていた。


「これで、いいのか……?」


「良い」


「湯につけただけだぞ。というか今頭まで浸かっているが、それこそ大丈夫なのか?」


 男は湯船をのぞき込みながら魔女に尋ねる。子供の目は両目とも見開かれたまま、湯船に沈んでいる。ひどく恐ろしい状況なはずだが、隣に魔女が居るせいか男は恐怖を感じなかった。ただ心配だ。


「大丈夫じゃ。この湯は特別にはったものじゃからの。心配ない。それよりもお主は急いで町に帰らんとまずいじゃろう。早く薬を持って帰ってやれ」


「それは、そうだが……」


 男は子供から目が離せない。


「この童が気になるか?」


 そりゃそうだ。


 答えるのは躊躇われたが、男はちいさく肯いた。


 面倒事の臭いがぷんぷんとしたが、仕方ない。自分に嘘はつけない。ついたら後がしんどいだけだった。


「なら次に会う時にまでにこの子の名を考えてやれ。わしがつけてやっても良いが、それでは面白くないからのぅ」


「名前……?」


 名前をつける。


 それは特別な事だ。たとえこの先一生この子供と会わずに過ごしたとしても、この子供との繋がり、縁は名前をつける事でできてしまう。一生、この奇妙な子供との縁は切れる事はない。


 この子供が無関係の他者ではなくなってしまう。


「そうじゃ。この童にはまだ名がないからのぅ、お主がつけてやれ。その童が気になるのならば」


 男は即答しなかったが、頭のどこかではもう名前を考え始めていた。


 エーファ。


 いい名前だと思った。どこかで聞き覚えがあると記憶を辿れば、もう随分と前に亡くなった祖母の名前だった。


「さぁ、もう帰るがええ。もうこの童は大丈夫じゃ。わしに任せて帰るがええ」


「……ああ」


 男は立ち上がり、浴室を後にする。


「薬は机の上においておる。町長の奴にわたしてやれ」


「分かった」


 男が振り返ると、魔女は湯船の前に立ち、なにやら呪文を唱えていた。


 もう自分がやる事はなにもない。


 言われた通りに男は階段を昇り応接間まで戻ると、机の上にいつの間にか置かれていた小さな革袋を手にする。


 ずしりと重たい。町の子供たちを救う薬だ。大切に男は懐にしまう。


 魔女の家を出た時、男は何気なく振り返った。


 魔女の家は不思議な家だ。一本の大きな木をそのまま家にしていて、木のあちこちに扉や窓がついている。かと思えば大きな枝の先にはちょこんと小屋が乗っているし、なんとも不思議な家だ。家の周りには畑もある。


 男が子供の頃に初めてこの家を見た時、あまりの大きさに驚いたものだが、今はどうだろう。慣れてしまったのか男の図体がでかくなったせいか、その時感じた大きさを感じなかった。むしろ小さくなったような……。


「何を馬鹿なことを」


 かぶりをふって、男はつまらない感傷を振り払った。


 子供に構い、無駄な時間を過ごした。町の人間は今か今かと男の帰りを待っているだろう。急いで帰らなければ。


 またな。


 胸の内だけで呟き、男は町へと急ぎ足で帰って行った。











 それから数年後、古い森の魔女が死に、新しい魔女が生まれたところで物語は始まる。



誤字を訂正しました(22/9/8)

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