失敗
広美さんと話していて、自分が咲を育てるんだという実感がやっと湧いた気がする。
それでいま考えないといけないのは咲の小学校のことだ。親がくれた書類の中に同意書もあり、お陰でこちらの学校への入学手続きは済んだ。けれど問題は費用だ。
咲用の通帳を試算して分かった事実は、食費以外に回すほどの余裕がないということだ。十分に入っているように見えたが、後先考えずに使ったら直ぐになくなる程度の額しか入っていなかった。小学校の備品くらいは自分で用意しよう。
大学の学費の納入もあり、決して楽ではないが不可能ではないはずだ。
自分で出来ることは自分でしないと。
平宮さんは大学が再開した。毎日朝食を食べ終わると直ぐに出発する。咲もその後直ぐに店長の店に向かう。初日で道順を覚えて、それ以降の送り迎えはしていない。家から出たときと着いたときに広美さんから連絡がある。そのあと30分以内に咲は帰ってくる。不審者情報もない地域で安心して見送れる。
「はぁ、どうするか。」
咲を預かったときは僕が守るんだって気力だけで色々していたが、現実は厳しい。いくら通帳を眺めても額が変わるわけではない。とりあえずバイトの時間を増やした。今まではムリのない範囲で週5回、毎日5時間程度入れていた。それじゃ足りない。
無茶だと分かっているが毎日シフトを入れる。工場は少し人手が不足しているから、希望を出せばその分だけシフトが組まれる。僕は学生だから勉強時間も削れない。その時間を調整しないといけない。
とりあえずバイトに向かう。朝9時から休憩も含めて20時まで。休憩時間が2時間。これが基本だ。休憩時間で勉強して、帰ったら平宮さんが作ってくれた夕食を食べる。その後も勉強する。今までは1日のほとんどを勉強に費やしていた。その分をバイトと両立して確保するには睡眠時間を削るしかない。
「慶人、まだ起きてるのか。」
時間を過ぎても起きている僕に平宮さんは心配そうに声をかける。家事や咲の世話は平宮さんを頼りすぎている。お金までは頼れない。頼れる関係ではない。
心配をかけているのは分かっているが、謝るしかない。
今まで9時より遅くまで起きていたことがないから、朝も起きるのが辛い。それでも頑張らないといけない。ランドセルと制服を買うために、3月までで十分だからそれまで頑張らないといけない。
もう少し今までで貯金を作っておけば良かった。そしたら今こんなきつい思いをしなくても良かったのに。
「いってきます。」
咲が元気よく家を飛び出す声が聞こえる。時間は8時。もう少しでバイトの時間だ。
「慶人。そろそろ行くぞ。」
食器洗いをしてくれた平宮さんが声をかける。今日は日曜日。シフトの時間は一緒だ。
「はい。」
ノートから顔を上げて返事をする。立ち上がると一瞬頭が痛む。睡眠時間を削っている影響だろう。それでもしばらくすれば消える。
適当に机の上を整理し、平宮さんが弁当を2つカバンに入れていることを確認して家を出る。今日も作業内容は同じ。平宮さんと別れて自分の持ち場に着く。半年近く働いて自分の役割と掴めてきた。いつも鶏に作業をする。平日と土日でメンバーが変わる。前まで平日はあまり入っていなかったから、こちらのメンバーでの方がやりやすい。
「じゃぁ、慶人くんは休憩でいいよ。」
気付いたら時間になっていた。単純作業の繰り返しは僕にとってはあっという間だ。いつも声をかけられるまで時計を見ることも忘れている。
他の人たちはシフトが違うから休憩時間も違う。平宮さんと遭って一緒に食堂に移る。弁当を食べて教材を広げる。最近は寒いからか客足が少ないので遠慮なく机を使える。
平宮さんの視線が痛い。心配そうな視線に心が痛む。
「なんで、そんなに勉強頑張ってるんだ。」
独り言だったのかも知れない。小さく呟かれたそれが僕にも聞こえてしまった。
なんで。なんでかは、僕にも分からない。今しているのは大学の勉強だ。そろそろ単位認定のための試験がある。それに向けて。
でも。なんでと問われると分からない。正直、そんなに頑張らなくても単位は取れると思う。
僕はアルファだから、なんでも簡単にこなせる。多分それが、嫌なんだと思う。だから必死に勉強してそれでいい成績を取ったんだって思い込みたい。
自分でも今必死になっている理由が分からなくなる。よく分からないまま気持ちだけが急いている。
「そろそろ行くか。」
いつの間にか時間になっていて、平宮さんが本を閉じる。
慌てて顔を上げるとまた頭が痛む。それをやり過ごしてから平宮さんの後を追う。
入れ違いで他の人が休憩に入り、午後の作業が始まる。また頭が痛み、集中力が途切れる。時計を見ると残り1時間だ。平宮さんは別の場所に行っているようで見えない。また作業に戻る。
また声をかけられて時間に気付く。慌てて片付けをして更衣室に向かう。平宮さんは既に着替え終えている。
咲が家を出たという連絡が30分前に来ている。
「あ、平宮さんは先に行っていてください。」
白衣を洗濯機に入れたところで、用事を思い出す。2階の工場長室に用事だ。途中まで一緒に行って、玄関で別れる。冬なので既に日が落ちている。日中のような騒がしさもない階段に僕の足音だけが響く。その音が頭に響く。いつものような痛みはないが、不快感が募る。
2階に向かいながら体が次第に重くなる。めまいがする。
気付いたときには足を踏み外していた。体が宙に浮き、手摺りを掴もうとするが届かない。しばらくして体に痛みが走った。
「大丈夫か。」
目を覚ますと直ぐに平宮さんが視界に入った。オロオロと忙しなく歩き、僕が声をかけるとようやく立ち止まった。階段の踊り場で平宮さんと工場長が2人して心配そうに僕を見る。
時計を見るとそれほど時間は経っていない。さっき見た時間から5分も経っていない。音を聞いて駆けつけたらしい。一緒にいた工場長に礼を言って帰る。まだ救急にも連絡していないようで安心した。
一応明日の午前に休みをもらい、病院で検査をすることになった。もう痛みもなく、確認した限りではアザもない。病院に行くのは大袈裟な気もするが、今救急車で運ばれるよりはマシだろう。
「ただいま。」
急いで家に帰ると、先は静かに本を読んでいた。自分の仕事になっているお風呂洗いは済んでいる。平宮さんが夕食を作る間に僕たちだけ先にお風呂を済ませる。
「いただきます。」
今日は僕のせいで遅くなり、かなり急いで作っていた。咲はそれを口に入れながら、今日のことを教えてくれる。広美さん達から学校の話を聞くようで、小学校に行くことを楽しみにしているようだ。
僕が食器を洗って、平宮さんは咲の相手をしてくれる。しばらくしたら疲れて自分で寝る準備をするからお利口だ。それを確認して平宮さんがリビングに来る。
「ありがとうございます。」
1度ノートから視線を上げ、また戻す。
「慶人。」
いつもきく不安そうな声だ。言いたいことは分かっている。今日のことはさすがに見逃してくれないようだ。
「はい。」
視線を上げると困った表情と目が合う。怒っているな。自分がしている無茶が、褒めるべきことでないことは理解している。
「慶人。俺、頼れっていったよな。俺も一緒に咲ちゃんの面倒見るからって。」
不安そうな声は、僕をというより自分を責めているようだ。はい、と頷く。
頼って欲しい、という平宮さんの気持ちは理解している。僕だって、平宮さんを信頼している。前に比べれば頼っている。それではダメなのか。
「じゃぁなんで、自分だけで頑張ろうとするんだ。」
だって。言い訳はある。あるけど言えない。それは、僕が平宮さんにずっと頼りたいと思っている、そう伝えることでもある。
「俺、そんなに頼りない?」
泣きそうな声だ。平宮さんのこの優しさが好きだけど、辛い。
「そりゃ、俺と慶人の関係ってただの同居人だし、お互いのこともあんまり知らないけど。けど俺は、少なくとも俺は慶人と友達だと思ってて、友達として助けたくて。」
僕より平宮さんの方が焦っている。自分でも言っていることが理解できないままで、僕の前に気持ちだけ裸で並べられる。僕は、それをどう受け取ればいい。
平宮さんの優しさは嬉しい。けれど、頼り切れない自分がいる。頼りすぎていつか、手放せなくなることを怖がっている。
「そう、だよな。ごめん。」
ずっと黙りこくった僕を見て、平宮さんは申し訳なさそうに眉を下げる。
「あ、そうじゃないんです。」
立ち上がる平宮さんを見て、勝手に口が動く。引き留めておきながら言いたいことはまとまっていない。
「そうじゃなくて、そうじゃなくて、平宮さんはすごく頼りになります。」
まだ平宮さんは困り顔でこちらを見ている。相変わらず頭の中はグチャグチャだ。頼りたい自分と頼れない自分がけんかをしている。
「今だって夕食作ってくれてますし、咲の面倒も見てくれてる。十分してくれてるじゃないですか。」
十分すぎるくらい平宮さんは助けてくれている。これ以上どう頼ればいいのか、頼ることに慣れていない僕は分からない。
「それじゃ、慶人が最近バイトを頑張るようになったのはなんでだ。今日のことだって、元を正せばそれだろ。睡眠時間削って体調崩したら元も子もない。」
僕のことを心配してくれているのが伝わる。不甲斐ない。ちゃんと出来ない自分が情けない。なんで、他の人と同じような睡眠時間じゃ僕はダメなんだ。なんでこれだけのことでダメになるんだ。
「それは、僕が体調管理を出来ていなかったからで、次からはちゃんとします。」
とりあえず咲の色々が用意できればそれでいいんだ。それまでなら、出来るはずだ。
「だからそれがダメだって、なんで気付かない。」
始めて平宮さんが声を荒げる。自分で気付いて深呼吸をしている。咲は、起きていないようだ。
「そう、ですね。」
頷くしか出来ない。
「何が不安。」
僕以上に不安そうな表情を浮かべている。
「平宮さんは、いつまで僕と一緒にいてくれるんですか。」
始めを口に出したらもう止まらない。言ってからやっぱナシはできない。
「いつまで。」
驚いた表情で繰り返す。考えたこともない、といった様子だ。
「平宮さんに頼ったら、僕は平宮さんナシじゃ辛くなる。だから、頼れないんです。」
言ってしまえば簡単だ。言い終えると逆にスッキリした。
平宮さんが黙る。静かに何か考えている。
「いつまでも。慶人がいらないと思うまでいつまでも一緒にいる。」
その言葉にドキリとする。平宮さんに他意がないのは分かっている。けれど期待してしまう。いつまでもなんて、実際はできない。大学の間は出来ても、就職したら、恋人が出来たら、どうなる。
「乗りかかった船だ。お金だって貸す。いや、やる。返して欲しいとは思わない。慶人が不必要なことに使うような奴じゃないのは分かってるから、いくらでもやる。」
これでいいか。と一遍に話す。その内容が実に平宮さんらしい。
少しだけ、悩みが消える。言質は取った。もちろん、平宮さんからお金をもらったりはしない。借りたら消す。けれど、ずっと居てくれると言った。今はそれだけで満足するべきだろう。
一緒に咲を育てる覚悟までしているのに、何も出来ないのは可哀想だ。




