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幻想剣客史譚  作者: りょん
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第三巻 王国騒乱編 三章 霧の流れ

     三章 霧の流れ


 大監獄ランボランユは王都の南東、プロキオン盆地の外にある。この監獄、あまりに大きいために管理する人の数も並みではなく、それを目当てに集まった店舗の数も一つの町ほどもある。いま、その路地の尽くを埋め尽くすのは、白銀の具足手甲を備えた兵。その後方、丘陵の中腹に、本陣をおいたアドリアナは土煙に霞む煉瓦積みの監獄棟を眺めていた。

 投石器から放たれた岩石が音を当てて飛ぶ。棟上の胸壁を打ち砕いた。

「町の者たちの避難は?」

「あとは東部の数区画が残るのみで、他は完了しております」

「民はアドリアナさまの到来を祝福しております」

 町から王都へ向かう民衆の列のいくつかとすれ違った。そのうちアドリアナの本陣を見つけて喝采を送っていた者たちも少なくない。歓迎されているのは事実かもしれない、と思いつつも、アドリアナの内心の奥底にはまだ呑み込みがたい感情が鬱屈としている。

 わたしは正しい道を辿っているのか。

 それとは関係なしに、様々の報告が上がってくる。

「我が兵は北東壁を突破し、政治犯の収容されている第一棟に取り付いております」

「大門の陥落も時間の問題かと」

「各地から陛下に臣従を誓う使者が続々と参上しております」

「王国内のクライン派も過度な反抗を控え、なし崩しに投降している模様です」

「民がわたしを歓迎してくれることは嬉しく思います」

 感情を能面の下に封じ、アドリアナは今朝から繰り返している命令をまた繰り返している。

「敵味方、同じ王国民。無為に傷つけることは許しません。降伏する者は無条件に受け入れるよう、全軍に厳しく通達なさい」

 熱狂は人から理性を容易く奪い、無用の血を流す。アドリアナはそう心得ている。彼女はあくまで民のために立ったという自負があり、彼らを守らずしてなんのための戦いかと思うところがある。だからしつこいほどに訓諭する。特に、いまは王国最大の人口密集地、王都近郊の戦である。

「町に無用の被害を出すことも許しません。隊を戒めなさい。わたしたちがクラインの軍勢に勝利するよりも重いことです。よろしいですか?」

「は、各隊へ、厳重に」

 伝令は去ってゆく。

 挙兵してみれば、どうということもない。王城は門扉を砕くまでもなく降伏し、ランボランユ監獄の守りも気迫がない。

「クライン派は存外脆いですな」

「陛下、我々の勝利は見えております」

「しかし、北からは一向に音信がありません」

「やはり北のゴルドバ城塞が決戦場になりましょう」

 将士らがいうのに、アドリアナは頷き、

「ここが陥落次第、編成を整え、北に向かいましょう」

 北に広がる草原の向こう、青い空の下にわだかまる黒い雲を見つめ、アドリアナは知らず指を組み合わせていた。

「兄さま、リリア、どうか……」

 奥歯を噛むように呟いたアドリアナの声は、湿った風に揉まれて消えた。


     〇


 アドリアナが挙兵する少し前、ユウはアンジュに使命を与えている。

「なんとしてもマルティエス砦を説得してこい」

 ええ、と彼女が驚嘆したのは無理難題を吹っかけられたからだけではないらしい。

「マルティエス砦って、アントワーヌがこもる予定のところですよね。北の最前線ですし、ぼくみたいな下っ端が行って説得できるものでしょうか。失敗したら……」腕を抱えて身震いする。「た、大変なことになりませんか?」

「大変なことになる」

「やっぱり」

「おれの観測では、アドリアナ派は負ける」

「そんなに?」とアンジュは絶叫していた。

「だからなんとしても、といっている。王国の命運はアンジュの弁舌ひとつにかかっている」

 その命運のかかった舌が震えている。

「ででででしたら、他の、もっと高位の方に行っていただいた方が……」

「いや、アンジュしかいない、とおれは思っている」ユウは彼女の肩を叩き、「おまえがダメなら誰が行っても無駄だろう」

「ユ、ユウさん」と呟いたアンジュは瞳を潤ませ、目元を拭う。「そ、そんなに信頼されていたなんて、ぼく、なんといったらいいか」

 涙を克服したアンジュは凛々しくした顔をユウに向けた。

「不肖、アンジェリカ・シュヴァルツァー。命に変えてもマルティエス砦をアドリアナさまの下へ翻してみせましょう」

 早馬を駆って、懐にアドリアナの親書を秘めたアンジュは一人北に向かっていった。国粋派の数少ない生き残り、アーノルドとして使者に立っているため、男装である。

「おれたちも行くぞ」と早くも馬上にあるユウにリリアは驚いた。

「行くって、北にですか?」

「北だ。晶術部隊もすでに王都に入ってる。タモンに指示を出したから、すぐに追いついてくるだろう」

「ですが、アンジュさんの結果を聞いてからの方がよろしいのでは?」

「結果は現地で聞く。成功したら、おれたちはそのままマルティエス砦に入る」

「失敗したら?」

「マルティエス砦を一撃で粉砕する」

 その意味を察したリリアは顔を青くし、すでに駆け出しているユウのあとを追っていった。

 こういうふうにして、アンジュはマルティエス砦に送り込まれている。

 かつての国粋派の生き残りが門扉を叩いたというのは、好悪の情は様々なれど、それだけで砦内を相当ざわつかせたし、アドリアナの親書を携えているということがその動揺に拍車をかけた。指揮者の部隊長は、親書の中身を一瞥し、アンジュと自らの部下数人を会議室に集めている。

「アドリアナさまの親書は拝見した」と、アンジュに向き合うように座ったこの砦の指揮者はいう。「しかし、我々は近衛師団だ。諸侯議会の決定によって即位したクライン陛下が唯一のシリエス国王であり、陛下からのご命令を反故にすることは反逆罪に当たる。アドリアナさまのご指示にあるような、マルティエス砦の引き渡しには応じられない」

「法の決めた国王がそれほど重いですか」

「我々は法治国家にいる。ないがしろにすることはできない」

「そもそも」と別の一人がいう。「我々は第五師団の一部隊にしか過ぎない。第五師団長の指示もなく、守備から外れるのは軍規にも反する」

「しかし、民は満場まで、アドリアナさまを求めています」

「感情で国政を決めていては国家は立ち行かなくなる」

「おっしゃる通り、感情に身を委ねた組織は崩壊します。まさに国粋派がそうでした。我々にも、感情を鎮めろ、とおっしゃってくださった方がいます。わたしたちは、その方のお言葉に耳を貸さず、大衆からも目をそらしていました」

 いま、とアンジュは卓を叩き、

「王国は一個の国粋派になりつつあります。感情の爆発によって組織の行く末を決め、最悪の結末に辿り着こうとしています。ですが、ぎりぎりのところでとどまっている。アドリアナさま、お一人が国家の不満のすべてを享受してくださっているからです。アドリアナさまは、最後の最後まで、兄であるクラインに忠節を尽くしておいででした。その健気なことは、お側にいたのでこの目にしているのです。それをクラインが踏みにじった。理由はどうあれ、クラインは民に不満を充満させ、アドリアナさまを断崖の上に立たせ、王国のすべてを抜き差しならないところまで追い込んだ。この戦争のすべてがクラインの詐称なのです」

 ど、とさらに卓へ拳を打ち付け、

「我々、国家と民は、統治者の玩具ではないはずです。クラインの思惑はどうあれ、王国が王国の形を保ち続けるには、アドリアナさまを助け、クラインを除く他にない。もはや抜き差しならないところまで追いつめられている。王国をここまで追い詰めたのは、クラインの自業の果てなのです。彼が帰ってくれば国家は崩壊するかもしれず、しかし、アドリアナさまが戦況を維持できれば、民をなだめ、解決される道があるかもしれません。十年後、百年後のことはわかりかねますが、明日、明後日の人の命を救うのはアドリアナさまをおいて他にありません」

 目尻からは涙を流し、

「あなた方のおっしゃっていることはわかります。道理が通っています。ですが、道理では国を維持することができないところまで来ているのです。あなた方が……」

 アンジュは濡れた瞳で四方を睨む。

「あなた方、近衛師団が守るのはなんです? 法ですか? 国ですか? 民ですか? それとも、軍人としての矜持ですか? 人としての心ですか?」

「それは」と呟いたきり、彼らは顔を見合わせて頬を掻き、頭を掻いている。

「わたしたちは間違っているかもしれません。あなた方が正しいのかもしれません」とアンジュはいう。「しかし、全力を尽くしています。命の炎を燃やしています。あなた方はどうです? その生き方で、恥じないといえるほどに命を燃やしていますか?」

 短い沈黙のあと、アンジュはさらにいい募る。

「アドリアナさまは兄上を慕いつつ、民のために戦っています。わたしにはクラインが誰のために戦っているのかわかりません。誰のために戦っているのか、わからない人を、わたしは信じることができません。わたしは信じられる人のために命を燃やしたい」

 次いだ沈黙の時間は長い。左右と視線を交わらせて頷いた部隊長は、「シュヴァルツァー卿」と声をかけた。

「少し、考えさせてもらえまいか?」

 それからのちのこと、マルティエス砦に入っていた部隊は、この砦をアントワーヌに引き渡し、王都へ走っていった。

 入れ替わりにユウとリリアが城門を抜けるなり、アンジュがユウに飛びついてきた。隣にいたリリアもぎょっとするほどの勢いであった。

「やりましたよー」と男装のままはしゃぐ。「ぼくだってできるんですよー」

「はいはい、イイコイイコ」

「えへへー」ユウの腕に頬擦りするアンジュの襟首に手が伸びる。

「アンジュさん」と低声でいったリリアのアンジュを引き剥がす腕力は古今稀に見るものであったともいう。「これから、わたしたちはこの砦を守るため、孤軍奮闘しなくてはいけないのです。馴れ合っている時間はありません」

「はあ」とかしこまったアンジュは石床の上に正座していて、「申し訳ありませんでした」と頭まで下げていた。

「さて、ユウさん、これからいかがなさいます?」

「霧、が出ているな」

 ユウは渋い顔をしていう。

「は?」とリリアも窓の方を見遣る。「出ていますね」

 一ノ門と二ノ門までの広くない間隙にも薄い霧が、綿雲の流れるように、ゆるゆると流れている。

「ここ」とアンジュがまだ正座したまま、人差し指で頭上に円を描く。「ゴルドバ大平原西部は霧で有名な土地です。夏は暑くて、冬は寒い。秋は寒暖差が激しくて、朝夕は霧が出やすい、と王国ではもっぱらの評判です」

「どれくらい続く?」

「その年にもよりますけれど、一週間から一月といったところだと思いますよ」

「果たしてこの霧がおれたちの味方をするかどうか」

 この障害はアントワーヌにとって不利に働くかもしれない、とユウは思っていた。だが、このあと、彼は、実際の戦場は個人の思惑など夢想でしかないということを痛烈に思い知ることになる。

「アンジュはアントワーヌ兵の受け入れ準備を進めていてくれ。おれはリリアと作戦を立てる」

「ぼくがですかあ?」

「わたしが教えた通り振る舞えばなんの問題もありません」

「あれは給仕の振る舞いでしたけれど」

 不安だなあ、とぶつくさいいながら、仕事に向かっていった。

「ユウさんはまた秘策があるので?」

「ある。しかし、これから検討する」

 開かれたままの城門から、冷たい風が吹き込んでくる。


     〇


 クラインはファブル自治領から南下の途次にあった。前後にはファブル近郊まで連れていた王国近衛師団がひとつ、王都直属兵が一個旅団、さらにファブル自治領が善意として貸した二個旅団が付き従い、歩兵、騎兵、その他雑兵を含めて総勢は二万に近い。

 空は厚い雲に覆われ、鈍色のその塊はやや千切れながら、隊列の頭髪にまで覆いかぶさっているようだった。

 クラインの馬に頭を並べた政務官がいう。

「ランボランユ監獄が陥落、王都を含め四方の砦も陥落し、アドリアナの本軍は北方へ。現在、カルア砦で交戦中とのことでございますが、火のように攻め立てられ、陥落も時間の問題でございましょう。王都以南の兵もすでに大方が降伏し、我が方の兵はゴルドバ城塞とその支城に集結するのみのようでございます」

「陛下」と喋る右の将士の中には度を失っている者もいた。「アドリアナにこれほどの力があるとは……」

「構わん。有象無象など、勝手にやらせておけ」

 クラインは一顧だにもしない。

「それより、マルティエス砦からの物資の搬入状況はどうだ?」

「マルティエス砦は第五近衛師団第二大隊が放棄、アントワーヌの一個大隊程度が入ったものと思われます」

 将士たちは失笑していた。一個大隊といえば、この世界では二、三百人程度で、それを失ったのは確かに痛手ではあるが、それ以上に敵地ともいえる王国北端で敢えて孤立しているアントワーヌが滑稽だった。一万を超える軍容を擁するクライン一党には自殺行為に見えたのであろう。その中で、唯一人、クラインだけが青ざめた顔を、政務官の方に向けていた。その眼光が凶器のように鋭く側近の眉間を射抜き、かつ震えていた。

「マルティエスがアドリアナ派についた、ということか?」

 地を這うほどの低声でいう。

「さ、左様に存じますが……」と応じる側近も探る声を出す。

「まさか」とクラインは色の引いた唇を覆い、「アントワーヌの指揮官、天ノ岐ユウといったか」

「陛下、その者の再調査の件ですが、先ほど王都から届きまして」

 資料を差し出され、いまさらの感が強かったものの、クラインはその薄い紙束を手に取った。アタカ川の付替え工事に関する様々のことがしたためられているが、ほとんどが噂話のようなことばかりだ。が、いくつかが、クラインの目に留まった。

 その夜、コントゥーズの西に上がった真っ赤な月は異常に大きかったという。工事期間はたったの一晩だったという意見が町の大勢を占めている、という事実。

「奴ら……」

 クラインは奥歯を鳴らして紙片を握り潰した。

「全軍を転進させる」

「は?」と将の一人がいう。

「マルティエス砦へ向かう。全軍をもって、ここを叩く」

 クラインの狼狽えようと変針を、家臣の者たちは呆れた面持ちで眺めていた。

 ゴルドバ城塞には近衛第五師団がいる。軍略上、兵を分散させるのは得策ではなく、彼らはゴルドバ城塞に入って兵力を増強させるのが肝要であり、その数でもって敵主力のアドリアナに当たるのが常道だ、と誰もが思った。クラインはそれを無視し、補給線を持たない数百がこもる小砦を攻め落とそうという。その間に兵の体力の消耗もあり、移動の速度も落ち、ゴルドバ城塞との合流が遅れればどのような不利が生じるか、知れたものではない。

 もう一つ、マルティエス砦から補給される物資の主なものがヘリオスフィアだと重臣らは理解している。一般市民までの尋常な知識からすれば、ヘリオスフィアの有無など、生活の質を左右するだけのことであって、例えば、令和の地球人の雰囲気からいえば、コンロがなくても火は起こせるし、水道がなくとも井戸から水を汲めるというような理解で、戦場や人間生活に必須のものではなかった。利便性の問題でしかない。クラインの側近たちは、自分たちの主人は戦場で水洗トイレを使えないような生活を厭い悲嘆にくれたのかと想像した。

 しかし、そうではない。

 場所はマルティエス砦司令棟四階の司令官室に移る。

「クラインはおそらく、すでに集合晶術の運用に成功している」

 とユウはいう。

「その背景があるために、クラインは王国全土を敵に回すほど挑発して顧みなかったし、敢えてアドリアナ殿下にも挙兵させた。何万の敵がいたところで、集合晶術の火力の前では問題ではなかったからだ。が、いまこのとき、クラインの集積したヘリオスフィアのほとんどをおれたちが押さえている。クラインは武器を取り上げられたも同然だ」

「クラインは、自国の兵に集合晶術を使うつもりだったというんですか?」

 リリアは眉を上げて、小豆色の瞳をゆらゆらと揺した。

「わからん。集合晶術といっても、殺傷能力のあるものだけではないから。アドリアナ派の兵を足止めし、敵陣をぶち抜いて後方のアドリアナを確保すればいい」

「それはそうですが……」

「リリアだって、おれがここでそれをする、と思っていたんだろ。実際、おれはその戦術でクラインを討つ。討てないまでも足止めをして、アドリアナ殿下に花を持たせてやる」

 この一室の窓は北東側を向いている。

 眼下には空堀があり、二重、三重の石壁があり、石壁の上には胸壁があり、矢狭間があり、石壁の所々には見張り台が突き出しており、各所にエイムズ配下の第一部隊、ジェシカ配下の近衛隊が配され、ロックス率いる第二部隊が要所に木柵を立て、乱杭を打ち、石壁の補強、土嚢やワラの壁の設置などをしている。

 そのすべてが白い綿雲のような霧に見え隠れしている。

「この戦い、迅速に敵の動きを見つけられるかにかかっている」とユウは伝令を呼んで、そう通達した。「前方の丘陵地はもちろん、河川の方もよく目を光らせておけ」

 マルティエス砦は北に森林地があり、そのさらに北にはマルティエス湖という海洋と見紛うばかりの大湖畔がある。この大湖畔は西にそびえるノルン山脈から流入する河川によって形成されているのだが、そこから南に流れる河川が一本、マルティエス砦西方を滔々と流れている。ユウはこのマルティエス川と呼ばれる一河川のことをいっている。

 彼はこの一流からクラインが来るとは思っていない。クラインがすでに北から陸路で移動している情報を斥候から得ているし、マルティエス湖畔に浮いている船のほとんどは北岸にあるスレイエスとファブルのものしかなく、いまさら一万五千とも、二万ともいわれるクライン軍が仲間のこもる城塞を見捨てて北の船舶を目指すとも思わなかった。そのために、ユウは河川側は監視を置いておいても、戦力というのは北東面、丘陵方面に集中させている。

 アントワーヌ隊は、この二百メートル四方ばかりの構造平野の風化で生まれたらしい高台の上の砦で、死線を引くことになる。

「大将」とロックスが音高く扉を開けた。「北東壁の整備は大方済んだぜ。砦外の測量結果も来た、概算だがな」

「おお、サンキュー」

 指揮官室に貼り出されたマルティエス砦周辺地図に、次々と高低差が書き込まれてゆく。

 なるほど、とユウは頷いた。

「おれたちは勝つ」

 自らにいい聞かせるようにして、呟いた。


     〇


 薄霞が雨粒ともならずに地上を湿らせている。

 クライン軍、二万は丘陵を越えて南西の薄霞の中にマルティエス砦を見た。たゆたう白雲の幕の中に黒灰色の城壁がある。

「敵は三方の城門をかたく閉ざし、籠城の構えを取っております」

 報告の声に気を留めた様子もなく、クラインは双眼鏡を畳み、丁寧にポケットへ封じた。

 足下に広大な草原がある。彼我の距離はおよそ四キオ。そのすべてが、南北のわずかな雑木林を除いて、草原地といっていい。

「陛下、時間がございません」と辞儀をしながらいうのは、参謀長に置いた壮年の男であった。他にも数人の参謀を備え、合議の上で作戦を奏上するのが、少なくとも、ここレオーラ大陸での普通である。

「一息に接近して取り囲み、一気呵成に攻め立てましょう。二、三百程度しか籠らぬ小城など半日で落ちます」

「それが参謀部の見解か」

「はっ。左様でございます」

「ダメだ」

「陛下……」と、この貴族はなにをいわれたのか分からなかったらしい、不思議そうな顔をして主を見遣っていた。

「部隊を二つに分けろ」

「二つに分けるのでありますか?」

「王国兵は後方待機。ファブルの兵には威力偵察をしてもらおう。敵の弱体箇所に近衛師団を始めとした王国兵をぶつけて砕く」

「ファブル兵を、でございますか」

「貴公がいうように時間がないのはわかる。しかし、わたしも王国兵を損耗させたくないだ」

 戦いの原則からいえば、一気呵成に攻め立てる方が正解だろう。参謀という役職にいるのだから、この長はその利をもっと説くべきだったかもしれないし、参謀を置いておきながら意見に耳を貸さなかったクラインの態度にも一言物申すべきだったかもしれない。しかし、この参謀長の中にある帝国同盟への嫌悪がそれを忌避させた。帝国人とファブル人で殺し合わせてもいいか、と思った。王国の兵がたった三百の帝国人に消耗するのもバカらしいし、クラインの内心も自分と同様かもしれない、と親しみすら感じた。

 だが、クラインの思案はそんな感情的なことではない。

 もし、アントワーヌが集合晶術を使えるのなら、一丸で攻め込むのは愚の中の愚である。一度、ファブル勢を城壁に取り付かせて、様子を見ようとしたのだ。

 分散攻撃は集合晶術に対する一個の解であることも、クラインは知っている。

「さて、アントワーヌとやらの手並みを見せてもらおうか」

 クラインは本陣に幕舎を張り、煙る城塞を眺望していた。


 天ノ岐ユウは最前にある狭間胸壁の矢狭間に立ち、大草原の向こうのクラインと対峙している。

 霧の中にはためく旗はいくつかあるが、最も大きいのが水色生地に赤い胴長の竜が描かれたものだ。

「あの旗は、ファブル自治領の軍です」

 隣に立つエイムズが双眼鏡を目に当てながらいう。この軍旗に、数種類の旗を組み合わせて第何師団の何大隊とか何小隊とかわかるようになっていて、指揮官は遠目に部隊の位置を知り、軍令を出すわけだ。味方方は砦にこもって、一切の活動をしていないが、敵方を眺めれば何部隊がどこにいるのか、およそわかり、戦況を分析できる。

「数は五千、といったところですか」これは単眼鏡を目に当てたユウの方だ。「しかし、全然見えんなあ、霧が濃くて」

「わたしも五、六千の戦力かと思います。王国の軍は丘陵の影に隠れていているのかわかりませんが。ファブルに偵察させているのか、それとも、第一陣のつもりなのか」

「すでに察せされているなあ、こちらの手の内を」

「迎撃しますか?」

「敵の攻撃が届かない限りは、向こうが石壁に取り付くのを待ちましょう。すぐには侵入されないものでしょう?」

「ほんの一アウルで崩れるということはありませんよ」とエイムズは爽やかに白い歯を見せる。「敵に侵入する気配があれば迎撃する、ということでよろしいですか?」

「そういうことですね。リリアには話していますが、できるだけ多くの敵兵を罠に落としたい。後方の部隊が動いてくれれば」

「ロックスさんの作った防御陣地は、急ごしらえながら堅固です。我々が耐えれば敵は焦れて動き出すかもしれません」

「我慢比べ、ですか」とユウは頷く。「お願いしますが、くれぐれも無理はせぬように。限界と思えば切り札は切ります。ここで消耗するのは馬鹿げています」

「かしこまりました」

 ユウにとっては初めての籠城戦になるのだ。野戦とは勝手が違い、細かな手配りが必要そうで、現場の指揮はそれぞれの部署に任せてしまった。城壁にエイムズ隊を、各入口にジェシカ隊を、ロックス隊は損傷個所の補強と予備隊として残し、タモンとアインスたち諜報部が伝令の役目をする。ほとんどエイムズの指揮の下、作戦が動くはずだった。

 ユウは、自分が防戦指揮には向いていない、と思い至った。ただ彼は作戦参謀として大戦略の上に立っているだけである。

 その後は司令室に戻り、椅子に座ったまま草原地を眺めている。

 矢じりが行き交い、城壁には梯子が立てかけられ、アントワーヌ側はそれを外し、壁上から投石をし、大門の方では格子門を挟んでの射撃戦と格闘が繰り広げられている。格子門に接近するファブル兵は門の向こう側から飛来する弓はもちろん、左右の壁、さらには天井の矢狭間からも弓を撃たれ、槍に突かれ、なかなか門そのものに取り付けずにいる。というか、取り付こうとしない。

 このときのファブル兵の士気のいかに低いことか。

「なぜ我々が他国の、それもシリエスのために戦わなくてはならないのか」

 と兵の端々までが思考していた。

 彼ら、帝国同盟にとって、シリエスは昨日までの仮想敵国であり、仮想敵国のための戦いで士気が上がるわけもなく、戦闘が始まる前から厭戦気分が満ち満ちていた。実際、将校は突撃も命じず、城壁の下では盾の傘に隠れる作業がほとんどを占めたという。

「ファブル兵の意気は低いです」と報告が上がってくる。「死者を重ねるほどの無理をしません。やはり、威力偵察のようです。後方の王国軍が主力になるのでしょう」

「こちらの損害は?」

「人的被害は軽傷者が数人いるのみで、城壁は一切綻びがありません。向こうの火計もこの霧雨では効果がありますまい」

「天はおれたちに味方してくれているな」ユウはまぶたを閉じ、「まだ城門が持つのなら耐えてもらおう」

 北東壁を眺める壁に寄り添うようにして置いた椅子の上にどっしりと腰を下ろしたまま、ユウは一切動かない。彼が落ち着いているために、アントワーヌは一丸となって、冷徹なほどに敵を退け続けている。


 一方、王国軍には乱れがあった。

「陛下、兵を動かしましょう」という声が高くなっていた。

「ファブル兵では千年経っても攻め落とせません。しかし、城方の攻撃を見れば、敵の他愛のないのは明確です。我々が寄せれば一蹴できます」

 そういう請願が各部隊から上がってきており、幕舎の中で会議を開けば、師団長級はまだしも、旅団長級に至っては殺気立つほどに攻勢論を主張している。

「陛下、このままでは勝機を失いますぞ」

「こうしている間にもゴルドバ城塞は損耗しているのですよ」

 それを、ダメだ、の一言でクラインは抑える。

「部署に戻れ。勝手な行動は許さん」

 彼にとって厄介なことは敵以上に味方の中にあった。彼らには我々こそ王国兵という誇りがあり、アドリアナ派という反乱軍を一蹴したいという強すぎるほどの思いに駆られている気があった。

「陛下、ファブルの兵なぞにやらせる必要はございません。王国のことは王国の者がやります。我々の手でアドリアナ派を制圧しましょう。それが王国の未来のためであります」

「陛下、どうかご命令を」

 陛下、陛下、と彼らは声を合わせていう。

「まだだ」とクラインはそれも退けた。「部署に戻れ、といったはずだ」

 そのまま一晩が経ち、夜明けには戦意が沸騰していた。

「陛下、これ以上は兵を押さえられません。暴動が起きます」

「バカな奴らだ」

「陛下、そのようなお言葉はお慎みください」

「なにを……」バカをバカといって悪いことがあるのか、といい返そうとしたのを呑み込み、「では勝手にさせろ」

「勝手に、といわれますと……」

「敵を囲みたいのだろ? だったら全軍を出してマルティエス砦を囲い込めばいい。ただファブル兵との仲違いだけはさせるなよ」

「かしこまりました」と引き下がっていくのを見送って、クラインは前にのめって膝の上に頬杖を突いた。

「この戦いは負けたな……」

 背もたれに体重を預けて、ふんぞり返るように帆布の天井を見つめた。


     〇


 日が沈むとともにファブル兵は退き、一矢の交戦もないまま、一夜が明けた。

 翌日も戦場は小雨が支配している。

 朝日が地上を刷くより早く寝台から抜け出したユウは眠い目を擦り擦り、ようやく明るくなり始めた丘陵を見、半開きだった目を見開いた。

 白霞の向こう、なだらかな丘陵の奥に蠢く影がある。その数は雲霞のごとく。前日の比ではない。

「ついに来たか」

 躍り上がったユウは扉を蹴破って、廊下にあった銅鑼を打ち鳴らした。

「集合、集合」と絶叫する意味もないけれど、喉が裂けるほどの声を上げる。

 どやどやと階段を駆け上がってくる晶術部隊。その間をかき分けて、もみくちゃにされながらリリアが先頭に立った。早朝から身嗜みを整えていたのだろうが、人混みに揉まれて見る影もない。

「ついに来ましたか」と髪や裾に指を通して直しながらいう。

「ああ、来た。晶術部隊は屋上に出て準備だ」

「かしこまりました」

 足音は上階に向かってゆく。ユウも銅鑼をさらに一通り叩いてから、そのあとに続いた。屋上の石材も雨に黒ずんでいる。

 ユウは胸壁の矢狭間に取り付いて、眼前の景色に目を凝らした。緑色に白抜きの翼竜は王国軍旗のはずであるが、あいにくユウはこの筋のことにまだ詳しくない。

「間違いないな?」とリリアに確認して、彼女が頷くのも目に取った。

「間違いなく、王国旗です」

「リリア、合図を送れ」

「はい」

 彼女は赤色に灯したスフィアを胸壁から滑り落とした。これで下方の伝令部隊に敵が動き出したことが伝わるはずで、そのための準備を整えてくれる。

「第三晶術、用意」

 ユウは天空を指さした。

 その先に向かって、青色の光線の束が飛んだ。曇天の下で、紡がれた光の糸は群青の輝く玉となって、さらに肥え太ってゆく。

「王国民とファブルの民よ、これが集合晶術というものだ」

 光の玉が充分に膨らんだのを見計らい、

「撃て」

 瞬間、光球は破裂して、大量の水を吐き出した。洪水となって大平原を圧し、どうどうと音を立てて流れてゆく。激しい波がマルティエス砦城壁に打ち寄せて、胸壁に飛沫が舞って来る。城門内のアントワーヌ兵はすでに格子門の前から撤退し、後方の大門を閉鎖して、ロックスら土木班が補強している。その大門すら水圧で軋んで、アントワーヌ兵を慄かせたが、その暴力もほどなく収まり、元の霧雨だけの静寂が地上に戻った。

 草原の上に、ファブル兵の影はほとんどない。城内、城壁の凹凸に引っ掛かった兵がわずかに残るばかりで、多くはマルティエス砦後方の河川まで押し流されている。

 混乱と失意の敵残存兵に、銅鑼の音が降りかかる。どんどんどん、と腹の奥に響くような低音に、おお、おお、と地の底から忍び上がるような声が重なってくる。砦内から漏れ聞こえる鬨の声であった。

 ゆるゆると大門が開かれたのち、雄叫びとともに現れたアントワーヌの攻勢の凄まじさ。

 ファブル兵は将と士卒の差異もなく尽くが背を向けて逃げ、草原地帯の泥に足を取られて射殺される者も多くいた。辛うじて生き残った者は泥にまみれ、身体を震わせ、青い顔の歯が小刻みに打ち鳴らされるだけで、再起不能であるのは明快であった。

「王都旅団の前衛も洪水に巻き込まれ消失。ここ数日の降雨もあって、草原地帯は泥濘に変わり、進軍はままなりません」

 クラインは傍らで奏上する声を聞くともなしに聞きながら、視線は書物の文字を追っていた。面前には、参謀部、師団長から旅団長級まで、十数人が片膝をついて頭を垂れていた。彼らのまとう憂鬱な空気もクラインは気にした様子がない。

「兵は敵の晶術を恐れ、足を止めております」と参謀長はさらに頭を垂れ、「どうか、ご指示を」

 クラインは音を立てて本を閉じた。

「わたしはおまえたちがどうしても攻撃したいというから、許可を与えた。おまえたちには勝てる算段があったのだろう? その通りやってはどうだ?」

「へ、陛下、そのようなことをおっしゃられては……」

 それきり口をつぐんだ相手に、クラインは辟易とした目を注いでいる。

「わたしは、動くな、と何度もいった」

「まさか、敵があのような術を持っているとは知らずに」

「しかし、集合晶術という戦法のことは聞き知っていたはずだ。彼らがヘリオスフィアを大量に保有していることもわかっていたし、少し想像すれば危険があるのもわかったはずだ。違うか?」

「陛下、お言葉ですが、わたしを含め、集合晶術という言葉は知っていても、知識のある者は王国に皆無です」

「なら知ろうとすればよかった。知ろうとしなかったおまえたちの怠慢であり、おまえたちは自らの怠慢に負けたのだ。これほど愚かな話があるか。それをいまさら知らなかったと言い訳をする。本当に笑わせてくれるよ」

「も、申し訳ありません」

「以後、わたしの指示に従うのだな?」

「はっ。すべてはシリエス王国のために」

「よし」とクラインは立ち上がり、「おまえたちに勝利を与えよう」

 不敵な笑みが、小さな顎に包まれた口元に浮かんだ。


     〇


 当然、ユウは二つ目の手を用意している。

「敵は水に対する備えをなにかしてくるだろう。だから次は水計を使わない」

「どうするのです?」とリリアが小首を傾げた。二人は司令室まで下がって、ヘリオスフィアによる暖を取っている。

「こうして、ヘリオスフィアで温まることができるのなら、冷やすこともできるはずだ」

「できますね」

「クライン軍が戦場に入り次第、強烈な寒気を見舞う」

「寒気、ですか」

「泥濘地はそれだけで敵の足止めになるけれど、そこに侵入したのちに凍結すれば、敵の戦意を大きく削ぐことができるだろう」

「なるほど」

「それと、おれは帝国人の寒さに対する強さに期待している。この戦場を帝国人向けの舞台に仕立てようというんだ」

「ははあ」とリリアは感心し、「ユウさんは色々考えますねえ」

「そうだろう、そうだろう」

 と、ユウは得意になっていたが、この作戦はクライン軍に一切の損害を与えない、という近い未来を知らない口のいうことだった。

「クライン軍が撤退を始めています」

「なんだと」とユウは座椅子を蹴り倒し、屋上に登った。遠く、丘陵の上にいる兵があからさまなまでに、緑の丘陵の影に消えていく。

「ユウさん、わたしたちの勝利です」と小躍りするリリアの横で、ユウは言葉を失っていた。

「どうしたんです?」とリリアが小首を傾げて問うた。彼の顔があまりに青い。眼球は忙しなく揺れ、腕はかたく組んだまま動かない。

 いまだかつて、リリアが見たこともないほど動揺しているユウを見、彼女も慌てた。

「どうなさったんです?」

「ま、不味いかもしれない……」

 呟いて、頭を掻きむしる。

「クラインの奴はおれを試している」と悲鳴に近い声を発した。

「どういうことです?」

「おれを無視してアドリアナを叩くつもりだ。アドリアナ軍はすでにゴルドバ城塞に寄せているだろう。そこを横撃されれば、果たしてアドリアナ軍がどれほど耐えられるか。おそらく、ゴルドバ城塞からも打って出るだろう。アドリアナ軍の士気が高いとはいえ、挟撃されればわからないぞ」

 リリアの顔がみるみる青ざめてゆく。

「ど、どうしましょう、助けに行かないと……」

「それも難しい」

「なぜです?」

「もし、クライン軍に転進されたら、アントワーヌは野戦で勝てない」

「でも、わたしたちには集合晶術がありますし」

「野戦では無駄だ。こっちは四百人余りで晶術部隊を守るってのに向こうは被害があったとしても一万を越えるんだぞ。そのうちにいくつかある騎馬部隊で左右から攻撃されたら、詠唱の間もなくおしまいだ。もっと簡単な方法は、あの丘陵の影に一千が隠れているだけで、砦から出た俺たちは泥濘地にはまってるところを射殺されて、これもおしまいだ」

「そんな」

 両手で口元を覆ったリリアは言葉を失っていた。ユウにしても、まともな策を返せないで、湿ってゆく髪をまた掻きむしっている。

「おれが調子に乗った。勘違いしていた。確かに、大局的に見て、おれたちと戦ってもあちらにメリットがもうない。ヘリオスフィアとか、集合晶術とか、あろうがなかろうが、結局、アドリアナがいなくなれば向こうの勝ちだ」

「どどどどどうしたら……」

「わかってる。考える、いま考えてる……」

 クラインを追撃するか、アドリアナを信じて待つか。

 その二択しかない。

 ユウの頭脳が、いまだかつてないほど目まぐるしく回転している。

 焦れば抜き差しならない状況に追い込まれる。しかし、時間もない。クライン軍は刻一刻と、主戦場に近づいているはずだ。

「クラインの奴めえ」

 胸壁を両手の拳が叩いた。

 追撃をしたい。しかし、敵が丘陵の奥に控えていれば、アントワーヌは全滅する。周囲は自ら現出させた沼地で、偵察を出すこともままならず、アントワーヌが敗走してのちに、クライン軍がこの砦のヘリオスフィアを確保すれば確実にアドリアナは負ける。

 一方で、アドリアナ軍は背後を取られて無事にいられるものだろうか。ユウは、彼らがどれほどの数になっているのかを知らない。開戦前は、およそ二万あまりがゴルドバ城塞を取り囲むことになるという計算だったが、もし、アドリアナに三万いたとしても、クラインの挟撃の一手で戦況はひっくり返る恐れがある。

 五分だ。

 クラインが勝つか、アドリアナが勝つか。しかし、クラインは勝算があって、ここを離れたのかもしれない。だとしたら、八割方、クラインが勝つ、と見ていいのかもしれない。ユウは、それほどクラインの才覚を認め始めている。

「どうする? どうすれば……」

 ユウは雨に打たれているのも忘れ、広くはない塔の頂点を歩き回る。

 どうすればいい?

 絶叫しそうになったユウの背中に、

「ユウさん」

 優しい声がかけられる。明鏡の決意を浮かべたリリアの顔がそこにあった。

「行きましょう。戦場にない砦など、守る意味もありません」

「だけど……」

「ヘリオスフィアは裏の河川に捨てます。そうすれば、ここにはなにもなくなります。取られたところで意味がありません」

「河川に?」

「はい。沼を渡って、あの丘陵の影に敵がいることを前提にして、手持ちのスフィアだけで集合晶術を撃ちこみましょう。そうすれば丘陵ごと敵を粉砕できます。当たらなかったら、そのときそのときです」

「そうか」とユウの定まらない視線は足元に落ち、しかし、「その手があるか」と呟いた声は明るい。彼の瞳は徐々に光を取り戻し、全身からは希望の力が湧き出してくる。

「はい、ですから急いで……」

「イカダを作ろう」

「はい?」

「幸い、木柵がほとんど無傷で残ってる。南北に小さいながら森がある。これを使ってイカダを作り、川を下る。丘陵を迂回して、クラインの本隊を横撃してやる」

 その声音は陽気な活力に輝いていた。「ユウさんたら」と呟いたリリアも、眉を八の字にして、

「色々考えますねえ、もう」

「四百人、運べるかどうかだ。ロックスに訊かなければ」

 司令室に戻ったユウは要人を呼び集めて地図を広げた。

「というわけで、マルティエス川の下流に向かう。上陸地点はここだ」

 南下するマルティエス川と東から流れてくる一河川の合流地点である。地図上では鋭利な三角形をした陸地があり、川向はもうプロキオン盆地北端といっていい。王都近郊だ。

主戦場のゴルドバ城塞は渡河せず北東方向へ、陸路を進んだ先にある。

「ここなら二流から流れてきた土砂が溜まって、広い砂浜があるはずだ」ユウはすでにマルティエス砦の背部を観察していて、そこに白い砂利が溜まっているのを見ている。「さらに下流であれば、もっと細かい砂になっているだろう。一時に大量のイカダで上陸できる。それ以外、この辺りの地形の情報はあるか?」

「森が広がっているはずです」とアンジュがいう。「この辺りよりもっと鬱蒼と茂っているはずです」

「あまり人の入り込まぬ土地でございます」とこれはタモンである。「王都の北方からマルティエス湖畔を抜けてスレイエス方向、ノルン山脈に向かう道で、水辺が多いために山にも近寄り難く、王国がここの辺りを緩衝地帯にしているために人の住居もなく、往来もまずない、寂れた街道でございます。住環境としてはよろしいのですが」

「その森に身を隠しながらクライン軍に近づこう」ユウは指揮棒を上陸予定地点から北東に進め、「街道の一本を横断して、さらに北上。背面からクライン軍を強襲する」

「距離にして、およそ二十キオ弱、といったところでございましょうか」とタモンがいう。「馬もなく、荷駄もなく、鎧と兵站を背負って走ることになります」

「それくらいはやってのける」とジェシカが拳を握った。「そのために我々は日々の訓練に励んでいる」

「あとはイカダの調達だが……」

「このおれを誰だと思ってるよ、大将」ロックスは腹を抱えて笑い、「四百人とその人数ぶんの兵站を、今日中に川に浮かべて流してやるぜ」

 その言葉の通り、瞬く間にマルティエス砦の木柵は解体され、乱杭も抜かれ、南北の雑木林は伐採され、綱を巻いて互いに括りつけられたものが三十艘、この日が暮れるころには穏やかな川面の流れに揺れていた。一艘、十数人はゆうに乗れる大きさである。

「どうだい、おれたちの才能は」とロックスが諸手を挙げて、自画自賛を惜しまない。同胞たちが肩を叩き合って歓声を上げた。「この完全な設計と無駄のない資材の使い方、我ながら天才的だぜ」

「よ、さすが」

「材木を使わせたら大陸一」

 と掛け声がかかる。

「各舟には晶術士が二、三人ずつ同乗します」とリリアがいう。「流れが穏やかとはいっても、舵が利くかどうか、わかりません。有事の際、または上陸の際はヘリオスフィアでもって舵を取ってください」

 アントワーヌは二十人が乗り込める最小規模程度のイカダで出航しようとしている。出航が決まって、河川に余分なヘリオスフィアを捨て切ってもいる。籠城には見切りをつけた、ということだ。

「非常に危険な賭けになる」とユウは声高にいった。「この川下りが成功するかもわからず、下ったとて、クライン軍に追いつけるかもわからず、追いついたとして、横撃できるかどうかもわからない。だが、おれはアントワーヌの運に、人事を尽くして天命に賭けようと思う。どうか、みんなの命をおれにくれ」

「ずいぶん前からくれてやってる」

「やってやろうぜ、天ノ岐さまよ」

 そこかしこからヤジが飛ぶ。

「おれからみんなに感謝する言葉もないが、この異国の地でアントワーヌを英雄の座につかせることによってそれに報いよう」

 うおおお、と鬨の声が鳴る。


     〇


 驟雨の中、クラインの馬車は東に向かっていた。アドリアナ軍の後方を襲うため、ひた駆けている。その漆塗りの車体に近づく騎馬があった。

「クライン殿下、アントワーヌは河川を下るようです」

「やはり、天ノ岐ユウという男、常軌を逸しているな」

 クラインは楽しげにいう。御者に合図を送って隊列と馬車を止め、自ら扉を開けて、報告に来たコールト卿を馬車に迎えた。

「当然、奴らはヘリオスフィアを破棄しただろうな?」

「はい、その様子もしかと見届けたと報告されております」

「よし、マルティエス砦を警戒している二千を呼び戻せ。それと、王都旅団三千を河川の下流に向かわせろ。場所は……」

 即席に用意された卓の上にゴルドバ近郊の地図が広げられ、一点をクラインが指揮棒でさした。例の二河川の合流域である。

「必ずここに上陸する。ここに上陸しないのなら、彼らは脅威になり得ない。三千をもって東方に警戒線を構築、完全に蓋をしろ。北から他に近衛師団一千を入れて狩り取らせる」

「かしこまりました」

 その伝令はすぐさま隊列の中を上下して、損耗して一万五千余りになった軍隊を一個の有機生命のようにしなやかに動かしていった。アントワーヌを手玉に取り始めたクラインの手際に対する信頼回復が、王国軍本来の練度を発揮させつつあった。二千をマルティエス砦の監視に置き、四千をアントワーヌの追跡に派遣したクライン軍の残存は現在九千人。

「我々はここで後方の来着を待つ。数を増してから、アドリアナに当たるぞ」

「はっ、すべて陛下の御意のままに」


 日没の前後、アントワーヌのイカダが次々と砂浜に乗り上げ、乗り上げるなり、そのイカダは下流に流し、上陸地点をくらますような努力もしている。

「わたしがご案内しましょう」

 第一艘に乗っていたアンジュが駆けてゆくのに、ユウも続く。ノルン山脈の稜線が辛うじて白んでいるのみで、地上は濃厚な闇にすっかり埋没している。その樹林地帯を、ヘリオスフィアのわずかな明かりのみで一隊は駆けている。

「おい」とジェシカに声をかけられた。「リリアが限界だ」

「なに?」

 リリアは木にもたれていた。ジェシカが片手にしたヘリオスフィアの白色光に照らされた険しい顔が青白い。

「わ、わたしは大丈夫です」といった顔が歪んで、お腹を抱えながら俯いた。「こ、この程度のこと……」

「無理をすれば戦場に着く前に死にます」とジェシカが諭す。「ここ数日の無理が祟ったな」

「ここにいろ。先に周辺を偵察してくる。諜報部隊以外はここで待機。おれたちからの連絡を待て」

 ユウとアンジュは十数人の兵を連れて北上してゆく。

 人差し指の先で浮遊する、ヘリオスフィアの放つ淡い輝きの中、アンジュは藪の中を小腰を屈めて、傾斜も、のたうつ木の根もなんのその、颯爽と駆けてゆく。意外に身の軽い女だ。

 ざざ、と枝葉の擦れ、散る音がする。ユウの頬を掻き、衣服の端々をつかんで、しかし、つかまれてもユウはその拘束をへし折って闇夜の中を駆けている。

「この先に街道があるはずですが……」

「待て」とユウはアンジュの腕を引いた。「明かりを消せ」

 間もなく訪れた暗黒の先に、おぼろげながら小さな火影が点々と見えた。

「遠いな」

「丘陵の下です。たぶん街道上でしょう。アドリアナ軍でしょうか?」

「迂闊なことはいえない」

「旦那」と闇の中から染み入るような声がする。「クライン軍でございます。東から北にかけての街道を押さえられ、北のマルティエス川沿いから別部隊が南下しつつあります。三桁後半から、一千近くの数がありましょう。どうやら山狩りを行っているものかと」

「やってくれる」ユウは歯を軋ませ、「北は手厚いな。東へ行こう」

 この地域を二河川に囲われた鋭角三角形とするなら、北東の一辺は街道に遮られている。ここを完全にクラインの兵に封じられた、ということを、東に移動したユウは己の目で確かめた。眼下には松明の火がごうごうと粉を噴くほどに燃え盛り、無数の幕舎と歩哨の姿を浮かび上がらせていた。

「どれくらいいると思う?」

「総計三、四千は見てよろしいのではないかと存じます。夜闇とこの霧のためはっきりとはいいかねますが」

「でもこの夜霧に乗じて抜けられませんか?」

「アンジュ殿も無理をおっしゃる」とタモンは笑い、「やってみますか?」

「いや」とユウは苦渋に満ちた声でいった。「リリアが無理押しできない」

「ああぁ、ううぅ」と呻くアンジュも葛藤しているらしい。すでにリリアへ充分以上の愛情と忠義を抱いている。「でもでもでもでも、このままじゃ見つかるのも時間の問題ですよ」

「おれの失策だった。こんなに早く展開されるとは」

「狙い打ちにされましたなあ」

「なあ、じゃありませんよ、これだからスエッカラシの年寄りは」

 アントワーヌは二河川とクライン軍が支配する街道の三角形の中に追い詰められつつある。いや、すでに追い詰められている。退路はなく、ここへ漂着するのに使ったイカダもいまごろ全数廃棄されている。

「認めざるを得ない」とユウは痺れるほど唸った。「クラインは強い」

「ユウさん、どうしちゃったんですか、諦めないでください」

「いいや、認めないといけないことは認める。アントワーヌ、たった四百では、例え集合晶術があっても、一万のクライン軍には勝てないし、出し抜けもしない」

「ならどうするっていうんです? 捕まる前に自害しますか?」

「この樹林地帯の広さに賭ける」

 追い詰められたとはいえ、その範囲は広く、一辺は十キロを下らない。その全体が森林地帯であり、濃霧の中である。

「ここに身を隠す」

「でも、アドリアナさまが……」

「知らん」とユウはいう。「おれたちはたったの四百だぞ。それで敵の数千を蹴散らして、四千を足止めすれば立派なものだろう。もうやめた」

「本当に、やり過ごせるでしょうか」

「静かなること林のごとし、動かざること山のごとし。戦いの真髄というのは、いつだって耐えることにある。おれの世界では二千年前から変わらん」

 行くぞ、とユウはリリアを放置してきたポイントに引き返し、全軍を集め、要点を説明した。

「これから、おれたちはここを一歩も動かない。おそらく数日に及ぶだろう。私語もするな。耐え忍ぶこと、敵に悟られないことが、おれたちの戦いであると思え」

「ご、ごめんなさい」とリリアは袖を濡らしながら謝り、「わたしが貧弱なばっかりに」

「なにを、そのようなことがありますか」と誰かがいった。「リリアさまがいらっしゃるから我々は生きながらえているのです」

「リリアさまと天ノ岐殿がいらっしゃらなければ、我らとっくにあの世におった」

「王国の間抜けどもを欺き通してやろうではないか」

 おお、と一同が極めて細やかに唱和したことに、ユウは安堵した。

 いまは無理を押すことはできない。幸い、大きな樹木の一本に、大きなムロがあり、リリアはその中で休息できる。あとの人数はその一本を守護するように取り巻いて、野宿である。

 冬の初めの霧雨の中である。

 露が鎧兜を濡らし、天地は容赦なく体温を奪う。王国の人間ならすぐに音を上げていたかもしれない。しかし、彼らは極北の人間である。それも半数は厳冬期の南下行と峠越えを成功させており、一方は極度の貧困でも森林地帯に根を張り戦い続けていた人間たちである。

「でも、本当に、王国兵を欺き通すことなんてできるんでしょうか」

 ムロの中で、アンジュが震えているのは寒さのせいばかりではあるまい。隣には、毛布に包まったリリアがいて、一心に藁山の中で熱と光を発するヘリオスフィアを見つめている。

「できる、と信じるしかありません。あとは、天命とみなさんに任せます」

 いったきり、リリアはアンジュにも私語を慎ませ、自らも口を閉じた。

 冷たい霧の漂う森林地帯で、驚異的なことに、彼らは三泊四日、一人も欠けることなく、一切の会話もせず、ひたすらに耐え忍び続けたのだ。

 近衛師団はこの三日間、川辺を散策し、アントワーヌが近くに上陸した痕跡を見つけ、近くにいるらしいという確信を得た。そのために、街道の警備はより厳とされ、拠点となりやすい丘陵地は一片の隙もなく踏み歩き、密林の中をぐるぐると回って、ついにアントワーヌが潜伏する一帯にまで到達しかけた。アントワーヌの者の幾人かは近衛師団の人の声を聞き、鎧兜を見てもいる。

「そっちにいるか?」

「こちらには誰もいない」

「そっちはどうだ?」

 がさがさと枝葉が鳴り、具足がぬかるみを踏む音まで聞こえ、よっぽど斬り込もうかと、アントワーヌの人は考えたが、

「耐え忍ぶこと、敵に悟られないことが、おれたちの戦いであると思え」

 というユウの言葉を思い出し、武器を握って耐え忍んだ。見つかれば大人しく死ぬ覚悟をもって目を閉じた。

 すると、まもなく蠢く手甲具足の気配がなくなったのだという。

 意外に広大な樹林地帯と、この季節にしては低い気温、止まない霧雨などによって視界が遮られたこと、想像以上の疲労の蓄積、などによって、王国近衛師団は集中力を失ったのではないかといわれている。

 とにかく、勝敗の天秤はこの間、激しく両者の皿を振っている。そして、天ノ岐ユウが逼塞を決断してから四日目の朝、この天秤の皿はわずかにアントワーヌへ傾くことになる。


     〇


 そのころ、アドリアナ軍は二万五千の人数を率い、ゴルドバ大城塞を攻囲していた。雲梯や衝車、投石機などの攻城兵器が数十機と、城壁に取り付き、城塞側も投石機を稼働させて敵の接近を跳ね返している。

「まだ落とせないのですか?」

 そう問うアドリアナの声音には相当焦りの色が窺えた。軍の後方にあって、天井だけの幕舎の下、床机に腰掛けながら薄霧の戦場を眺めていた。

「はい、城塞内に控える第五近衛師団の他、東部の砦から来る敵増援に脅かされ、なかなかどうして……」

「悠長なことをいっている場合ではありません」

 アドリアナの冷たい叱責に叩かれて、眼前の報告者は小さくなっていた。頭を垂れるばかりである。

 すでに攻囲をしかけて七日目にもなっている。

 アドリアナが西から攻めれば西に、東から攻めれば東に、完全方位に近い形で攻囲を仕掛ければ劣勢の箇所を的確に見極めて速やかに補填し、瞬く間に押し返す砦側のなんと精強なことか。これが王国兵の質か、と思えば喜ばしくもあるが、いまはそれどこではない。

 アドリアナ方についた近衛兵は一千程度。残りの二万四千は地方軍であり、練度の低い地方軍の集まりでは、近衛師団の守る城塞にまったく歯が立たない。

 こちらは人を代えながら昼夜となく攻撃しているのだが、この日の朝になってもまるで戦果が上がらない。敵以上に、アドリアナ側の疲弊が濃くなっている。

「いずれ、我々の攻囲の効果は必ず現れます」と参謀長についているロッテンハイムがいう。「籠城方は五千余り。彼らは補給も絶たれ、夜も休めず、四方から攻撃されれば心が折れるのは時間の問題です」

「しかし我々も東から攻められています」

「東部の敵は一千に足りません。こちらと本格的に当たる気はありますまい。その程度の小勢、来れば叩くのみです。我々の完全包囲が機能している、ということが重要なのです」

「そういうものですか」

 頷いたアドリアナの爪先はまだ忙しなく芝を叩いている。

「マルティエス砦の方はどうです?」

「当初の予定通り、クラインの主力を引きつけ、多くの損害を与えているそうです。流石は、陛下のご友人であられるアントワーヌ卿といったところでございましょうか」

「敵主力に背後から攻撃を仕掛けるわけにはいかないのですか? クラインを捕縛すればすべて終わりでしょう」

「ゴルドバ城塞に背後を見せ、万一強襲されるようなことがあれば、我軍は壊滅いたします」

 アドリアナの爪先の動きは激しさを増していく。

 どうしようもない。いまは堪える他に手段がないということか。

「王国人同士で、無益な……」

「伝令、伝令」と駆け込んでくる兵がいる。

「御前であるぞ」

 蔑んだ目を向けるロッテンハイムに気づいて、伝令兵は片膝をついた。

「も、申し訳ありません、アドリアナさまにおかれましては……」

「良いのです。報告をどうぞ」

 は、ともう一度頭を垂れ、

「北に、クラインの主力が接近しております」

 アドリアナは床几を蹴って立ち上がった。その表情には凄まじい憎悪の色合いが浮かんだのも一瞬、まぶたを閉じて感情も押し包んだ。

「マルティエス砦が落ちた、ということですか?」

「定かではありませんが、マルティエス砦近郊は深い湿地になっており、近づくことは困難だそうです」

「数日来の降雨のためでございましょう」とロッテンハイムが耳打ちをしてくる。「沼地に時間を奪われるのを避けたクラインがマルティエス砦を無視し、我々の側面を狙ったということでしょう」

「敵の数は?」

「霧のため、はっきりとは窺えませんが、おそらく一万足らず、といったところでございます」

「挑みましょう」とアドリアナは即決する。「こちらには一万も残して行けばよいかと思うが、どうか?」

「よろしいかと存じます」とロッテンハイムは辞儀をする。「すぐさま部署して参りましょう。迅速にぶつかれば、ゴルドバ城塞側が突出しても包囲を破る時間はありますまい」

「任す」

 短く命じたアドリアナは床几に再び腰を下ろした。冷たい雨に煙る戦場に、白い吐息を吐き出した。

 この戦場で、どれほどの血が流れ、どれほどの命が失われていることか。その敵味方のすべてが王国民であろう。

「愚かな真似をしている、わたしは……」

 小さな呟きは誰の耳にも届かず、霧に紛れて消えていってしまった。

 アドリアナ軍が移動を始めたのは、その翌朝のことである。クライン軍とゴルドバ大平原の南西端、台地の尾根上で向かい合った。薄霧はまだ引き続き、曇天下を埋めている。北東に大平原、南西に雑木林、どちらも二軍が布陣する丘陵よりも一段低いところに、地平線を霞ませながら広がっていた。

「クライン軍の総勢は九千といったところでしょう」とロッテンハイムはいう。「こちらは一万五千。数の上では圧倒しております。敵の増援が来る前に、一息に押し込んで決着をつけましょう」

「よしなに」

 アドリアナの一言で、全軍に令が下された。黄色いバラ様の花弁を染め抜いた青地の軍旗の群れは、はためきながら緑の大地を侵してゆく。


     〇


 クラインは尾根上を塞ぐような単縦陣を敷いている。本陣はその後方、台地の上でもう一段わずかに高い台上にあって、彼は床几に腰掛け、小卓に頬杖をつきながらアドリアナ軍の接近を眺めている。

「アドリアナの軍も美しいではないか」

「はっ、地方軍の寄せ集めにしては」

「我々の側につかなかった近衛師団もいるのだろう」

「およそ一千余りかと。多くの近衛兵がこの戦いから身を引いているとはいえ……」

「アドリアナの求心力ということにしておこう」

 クラインは膝の上に置いた本の厚い表紙を叩いている。

「アントワーヌが消えたことは腑に落ちないが」ちら、と後方の樹林地帯を気にしながら、「兵は引き上げさせたか?」

「捜索に用いた近衛第一師団第一大隊のみ、引き上げさせております。そのうちに合流しましょう。王都兵三千には引き続き閉鎖をさせております」

「仕方がないか」

 近衛師団は一人で地方兵三人の戦力になるといわれる精鋭部隊である。この決戦にいないのは惜しい。

「敵は横陣、我々を包囲して側背をつこうというところかな」

「大軍が寡勢に対するには当然の策でしょう」

「台上は人を通すなよ。左右は坂の端まで兵を寄せて、敵は坂下に落とせ。地の利を活かせよ」

「かしこまりました」

 クライン軍は前線に乱杭を打ち込み、土嚢を寄せ、防御陣地を築いている。

 アドリアナ軍は正面中央に厚く敷いた歩兵で苛烈なまでに攻め立ててゆく。左右の端、台地の下方には騎馬隊を配し、快速をもって敵陣深くまで両翼を引っ張ってゆく。半日と経たずにクライン軍の後方にまで達してしまった。そのまま縮小する輪のようにクライン勢を圧迫してゆく。

「兄に動きがありません」アドリアナは唇に指先をやったまま中空を眺めていた。

「おそらくは、増援を待っているのか、伏兵を備えているのか、どちらかでございましょう」

「伏兵は、いるとするなら木々の下、ですか」左手に広がる広大な樹林地帯だ。

「左様かと。偵察をやっておりますが、いまだ報告もなく……」

 どどど、と蹄の音が聞こえた気がした。アドリアナは、ふと、小首を傾げた。彼女の配下にある騎馬隊ははるか前線で戦っているはずだ。立て続けに鐘の音が狂ったように鳴り響いたのは本陣が接敵した合図である。

 ロッテンハイム卿が立ち上がるのと、伝令兵が駆け込んでくるのはほとんど同時であった。

「敵です」と一声上げた伝令のかしこまった頭を卿の足が激しく打った。転がった伝令は擦りむいた頬を押さえて座り直し、地に額を擦りつけた。「ロッテンハイム卿」と制止するアドリアナの声も彼の耳に届いていない。それとも、聞こえていて無視しているのか、冷徹な声で伝令をなじっていた。

「偵察兵はなにをしていた? なぜ本陣が強襲される?」

「し、森林地帯に人を多く割いたため、北が手薄に……」

 さらに一撃、伝令の後頭部を踏みつけようとするのを見、アドリアナは卿の腕を取った。彼の、光の薄い瞳がアドリアナに向く。

「敵の数は?」とアドリアナは問う。

「き、騎馬が一千ほど」

「ジュリアス卿の隊をぶつけなさい。足りなければまた増援を送ります。よろしいか、ロッテンハイム卿?」

 卿は伝令から身を離し、アドリアナに頭を下げた。

「お見事な処置かと存じます」

 伝令は足早に去ってゆく。

 そのころ、すでにアドリアナ軍本陣の守備隊はクラインの騎馬隊と衝突して、壊滅的な損傷を負っていた。アドリアナの指示があと一分も遅れていればこの方面は潰走し、彼女自身敗北していただろう。ジュリアス隊一千人は歩兵でもってクライン騎馬隊と激突、彼の神がかった奮迅と、敵騎兵の衝突力がすでに減殺されていたこと、アドリアナの本陣が坂の上にあったことが幸いして彼女は九死に一生を得た。

 ただ、彼女は敵を包囲するために戦力の多くを割いているため、予備隊は一個旅団相当、この世界の規模でいうと、二千あまりしか抱えていなかった。その半分を放出してしまったことになる。

 一方で、クラインはその様子も高台の上から薄霧の先に見ている。

「騎馬突撃は失敗したか」

「しかし、アドリアナ勢は激しく動揺しております」

「後方は叩いたな?」

「合流した近衛第一師団の第一大隊がきれいに一掃しました」

「よし」

 膝の上に置きっぱなしにしていた書籍を初めて卓の上に置いた。

「近衛第一師団第一大隊はそのまま右翼の守備に回せ。同第二大隊を左翼に送り、押し出させろ。敵の包囲を破れ。前線の騎馬隊と合流し、敵本陣を壊滅させるぞ」

 台上で逼塞していたクライン軍は森林地帯側の敵に防御陣地を施した人垣一枚を残して、戦力の大部分を逆方面、草原側に投入した。その圧力と騎馬突撃の一撃に動揺したアドリアナ軍の包囲は崩壊、クライン軍はみるみる間に前進、両者S字のような壁を築いて、その曲線の中に二人の王が控えている。

 アドリアナ側は残る予備隊千人でもって、守備の欠落を補填しているものの、攻め手を失い、その戦線も少しずつ、少しずつ、間延びしている。


     〇


 このままの戦況であれば、日没までにアドリアナ軍が潰走するのは火を見るより明らかだった。しかし、運命の歯車は、別のところで回転している。

 この前日、天ノ岐ユウは一個の巨岩の湿った肌に背中を預けたまま胡座をかいて、静かにまぶたを閉じていた。かたく組んだ腕の中には白剣が鞘ごとぶち込まれている。

「旦那」と傍らに腰を下ろす者があった。「近衛師団に動きがあります」

 す、と、開いたユウの瞳は澄み切った黒だった。タモンは続ける。

「どうやら、撤退するようです」

「堪えきったか」

「へい。我ら、一人として見つかっていない様子でございます。皆さま、見事なもので」

「リリアの様子は?」

「昨日から自由に動かれております。隠れ場所も定期的に変えて」

「そうか」とユウは静かに頷き、「この機に乗じて、ここを脱出する」

「本気ですかい、旦那」タモンは楽しげに笑っていた。「やはり奇特なお人よ」

「アドリアナは決戦をしている。これは絶対に負けさせるわけにはいかない。そのためにおれたちは戦っているはずだ」

「仰せの通りで」と、深々と頭を下げる。「では、リリアさまに、お伝えして参ります」

「待て」

 大儀そうに立ち上がったユウの姿は岩場の頂点から差し込む曇天の光を浴びて、一個の山体が旭日を負っているように見えたという。

「おれも行く。案内してくれ」

「お安い御用でございます」

 岩場を駆け登ってゆくタモンの足跡を、ユウは蹴るようにして走り出した。


 その夕方のことである。近衛第一師団第一大隊は捜索作業を中断し、東部からの撤退を完了させた。王都直属の三千のみが駐留して、街道の封鎖を続けていた。その陣地に、大きく、人の声が響く。

「アントワーヌだ」

 その一声で、陣地は動揺した。王都直属兵の中には持ち場を離れて森の中に飛び込んだ者もいたし、冷静な者もいた。

「誰の声だ? 誰が見つけた?」

「わからん」誰一人、わからない。

「明らかに罠だ」という意見が大勢を占めた。「誘われている」

 事実、飛び込んでいった兵は帰ってこない。

 明らかな罠である。そうわかっていても、目の前の灌木に、ガサガサ、ザワザワ、と蠢かれれば、確認したくなるのは人情である。

「一小隊を送れ」と、指示が飛んだ。選ばれた一隊百人程度が夜の森の中に入ってゆく。一アウル、二アウル、と時間が経っても、彼らは帰ってこない。

 それがまた一同をざわつかせた。

 増派するのか、しないのか。

「アントワーヌは精強だ。小出しにしては絶対に負ける」

「アントワーヌが本当にあの森の中にいるのなら、数日間を森の中で過ごし、近衛師団をやり過ごしたということだ。そして、この霧。探索の不利になる。天地が彼らに味方する」

「ならこのまま黙って封鎖を続けるというのか? おちょくられているんだぞ」

「それが挑発だというんだ」

 しばらくの議論のあと、彼らは次の朝を待って、兵千五百を派遣することを決めた。

 そして翌暁である。

 留守居部隊は封鎖線を再編し、侵攻部隊は小隊を網の目のように並べて霧の流れる樹林地帯に、手に手に刀剣の輝きを持って足を踏み入れた。

 ザワザワ、と藪の騒ぐ気配はまだ濃厚にある。

「逃がすな、囲い込め。敵の伏兵に警戒しろ」

 藪の中から矢じりが飛来し、つぶても飛んでくる。王国兵は盾を向けて払いのけ、枝葉の間に飛び込んでいった。

 アントワーヌ兵らしい影が二つ、三つ、と駆け去ってゆく。

「追え、追え」

 すでに王国兵は山狩りの体である。獲物を追う狩人の気分だ。千五百の兵は林間を飛び回る複数の影を追って、森の奥へ、奥へと歩みを進めていった。


「やはり陣を組み直すな」

「そうですねえ」とアンジュはユウから借りた単眼鏡で、敵状を観察している。二人は王国兵の封鎖線の目と鼻の先、百メートルばかりの距離をおいて、樹冠の向こう、宿営地を歩き回る王国兵の様子を眺めていた。

「第一小隊、第四小隊、第八小隊」口ずさみ、アンジュは単眼鏡を目から離して、短く畳んだ。「やはり、東部の方から兵を引き抜いているようです」

「よし、急ぐぞ」

 飛び降りるようにして、樹木から降りる。それにアンジュも泣きながらついてくる。

「ちょっとお、置いていかないで」

「早くしなさいよ、それと喋るな。見つかるだろ」

 戦線を再編する、ということは、戦列に乱れが生まれる、ということだ。封鎖兵が樹林地帯への派兵を決定したのなら、封鎖線の一メータ辺りの人数は当然減るし、兵一人一人の負担も大きくなるし、ここ数日警戒していたところとは別のところも確認しなければならなくなるし、新たに手筈も整えなければならない。当然、集中力が落ちる。そこに隙が生まれる、ということにユウは賭けた。

「ここで逼塞しているよりは、守備の編成の激しいところを突いて、ここの脱出を図った方がマシだ」

 アントワーヌ兵の誰もが賛同し、昨夜、敵の陣地に誘いをかけ、森林内に飛び込んできたクライン兵百人程度をゲリラ的に襲撃し、瞬く間に取り囲んで投降させ、縛り上げて洞窟の中に放り込んだ。そして朝を待ち、敵の状況を見、いま、後方に待機しているリリアたちと合流して、東へ駆ける。

「大丈夫か、リリア?」

「わたしは大丈夫ですけれど、ユウさんが……」

 雨具を被った彼女の吐息が耳元でそよぐ。ここ数日体調を崩していたこと、元々鈍足であることがあって、いまはユウの背中に担がれている。ノルン峠の越境路のときと同様である。

「おれは構わん。ただ、少し揺れるぞ」

 木の根を跨ぎ、石を踏み、重心を低くしたまま、ここ数日生活してもはや慣れ親しんだ山野を駆けている。

「北ではすでに交戦しているらしい」と隣を駆けるジェシカがいう。「いま、伝令が来た」

「そちらはタモンたちに任す。うまいこと誘導してくれるはずだ」

 タモンとアインスら、元ディクルベルク諜報局の局員たちは一帯の北西端、川沿いに可能な限りクライン兵を誘い込み、そのまま南端の方へ誘い込もうとしている。その隙に乗じて、ユウたちは東側の手薄な防御線を突く。

「タモンたちも、最悪投降すれば、無下には扱われまい」

 王国兵、というのは、基本的に誇りを重んじる紳士の集まりである。

「彼らもご無事でありますように」

 と、リリアがユウの首元に顔を埋めて祈りを捧げていた。

 そして一同は、ようやく樹林地帯東端に達した。

 深い、乳白色の霧の中、人の影がない。

 細かな水滴は前髪を湿らせて、いつの間にか頬を伝い、顎から滴る。

「まずはわたしたちが行きます」とジェシカが身を乗り出し、街道に出た。彼女の配下百人余りが続き、さらにロックス、エイムズの部隊が次々と街道の向こうの樹林地帯に身を沈めてゆく。

「おれたちも行こう」

 殿になっていたユウとリリアが街道に出た途端であった。

「おまえたち」と低い声をかけられ、ユウは全身を粟立たせた。霧の中にクライン兵が二人、さらに後方にもう一人、いた。先頭の男が腰に手を当てて、二人を不審そうな目つきで見据えていた。

「おまえたち、ここでなにをしている?」

「えっと」とユウが舌をもつれさせていると、横の兵士が進み出て、

「アントワーヌの者ではないだろうな?」

 ユウは外套の下の白剣に意識を移した。

 斬るか?

 と考えたところで、また別の一人が笑い出した。

「なにいってんだい、アントワーヌっていったら、帝国の名家の出で、配下は騎士階級ばかりだって聞くぞ。こんな貧相な恰好してるわけないだろう」

「それもそうか」

 ははは、と霧を吹き飛ばすほど陽気に笑う。その笑声が、ユウの背中のリリアをぷるぷると震わせていた。

「おいおい、大丈夫かよ?」とユウはあやすように揺する。

「わ、わたしは平気です……」

「なんだ、その子、具合が悪いのか?」

「ええ、そうなんです」とユウは愛想笑いをし、「山の向こうの、スレイエスの村から、王都に連れていく途中なのです。スレイエスには大した医者がおらず」

「そりゃ、大変だが……」

 ユウとリリアをちらちら交互に見遣り、眉をひそめた。

 疑われている。

 ユウが白剣に手をかけたそのとき、突然、

「がふがふ」と激しく紙を破るような音がした。どうやらリリアの喉らしい。まだ喉をごろごろといわせ、痰を切っている。

 一同の目はまん丸になって、視線は赤くなった彼女の顔に注がれていた。

「も、申し訳ありません、喉の調子が……」

「別に構わんが、その子、大丈夫なのか?」

「あまり大丈夫ではないのかも……」ダメかもしれない、とユウも思う。

「うう」とリリアは具合が悪そうに嘆いている。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

 お兄ちゃんて、といいそうなのをユウは呑み込んだ。

「お兄ちゃん?」と兵の一人が片眉を下げ、「おまえたち、兄弟じゃないだろ」

 地球でいえば、ユウはアジア系で、リリアは北欧系の顔立ちである。まったく似ていない。リリアがぎくりと震えたのがすぐにわかった。

「近所に住んでいて、歳が近いもので、兄と呼ばれているのです」

「お、お兄ちゃん、お兄ちゃん」

「ほら」

「げふげふ」とまた大きな咳を立てるのを見た先頭の兵が頭を掻いた。

「仕方がない、とっとと行け」

「いいんですか?」

「早く医者に見せてやらないと、背中の子、死んじまうぞ」

「ありがとうございます」とユウは彼ら一人一人の手を取って、「このご恩は絶対に忘れません」

「ただ、東の街道は封鎖されてるから、少し北に行ってから東に向かえ。ただし、北も危険だから、深くは行き過ぎるなよ。わかったか?」

「はい、ありがとうございます」

 ユウは街道を横切って藪の中に駆け込んでいった。

「危なかった」

「危なかったですね」とリリアは手の甲で口元を拭っていた。「わたしの演技が光りましたね」

「演技ねえ」

「げふげふ」

 この戦いが終わる前に、リリアの命が終わらないか、ユウは心配になっていた。


     〇


 主戦場のアドリアナ軍は非情なまでの圧迫を受け続けている。彼女のいる本陣には、悲鳴のような伝令が次々と送られて来る。

「アルフォンソ軍、被害甚大。早急に増援を請うとのことでございます」

「コルファ伯も増援を請うております」

「割ける兵員などない」とロッテンハイム卿は表情筋の一筋も変えずにいう。「こちらもきわどいのだ。じきに王都からの増援が着く。それまで持ち堪えさせろ」

「中央、シリエス第一旅団、第三旅団、壊滅、戦線を維持できません」

「左右の軍に支えさせろ。なんとしても踏み止まれ」

 アドリアナはこのやり取りと戦闘を、本陣後方から傍観していた。深々とため息を吐き出し、

「ここまでのようですね」

「陛下……!」

 ロッテンハイム卿が立ち上がり、頭を下げた。

「陛下、我々はまだ負けていません。王都からの支援が到着すれば……」

「王都からの支援は半日以上かかりましょう。早くて日没です」

「そのようなことはございません」

「いいえ、わかります」とアドリアナは首を振る。「本来、王国人同士の殺し合いは無意味です。兄が強い、ということは、兄を支援する方々と、兵の強さの証明です。世がわたしを求めているのなら、この身を犠牲にするのもやぶさかではありませんでしたが、どうやら、わたしは出る立場になかったようです」

「陛下」

「わたしが投降すれば、事は収まりましょう。あとはお任せします」

「陛下、お待ちを。しばし、お待ちを」

 袖を取って引き留める参謀の手を払い、アドリアナは幕舎の外、霧と鬨の声の漂う戦場へ向かっていった。その前に、新しい伝令兵が立ち塞がり、

「陛下、伝令でございます」と、片膝を突いた。

「なにか」

「北に、アントワーヌが出現しました。クラインの本陣を強襲しようとしております」

「リリアが?」

 アドリアナの顔から血の気が引き、細い指先が唇に添えられる。

「リリアが……」

 黒い瞳が揺れ、焦点も定かではなくなる。

「陛下、お気を確かに。アントワーヌは一流の戦士にございます」

「そう。そうよね」とアドリアナは頷いた。「アントワーヌが、ここまで来てくれたこと、無駄にするわけにもいきませんか」

「では……」

「どうにか、もうしばらく耐える術はありませんか?」

「陛下の御身を危険にさらすことになりますが」

「元々捨てた身です。気にする必要はありません」

「本陣を前進させましょう。南北に広がった戦線を縮小させて兵の密度を上げられるかもしれません。我々が包囲される危険は増えますが」

「それで、アントワーヌの助けになるのならやってください」


「やはり来たか」

 アントワーヌ接近、の一報を受けたクラインは本陣の中にいて立ち上がった。

「アントワーヌには近衛第一師団第一大隊を当てろ。迅速に接近して叩け。奴らが詠唱をする前に接触すれば、敵は集合晶術を使えない。仲間を巻き込むことになるからな」

「かしこまりました」

 伝令はそれだけいって去ってゆく。

「騎馬を当てられれば良かったが、すべて使い切ってしまったからな。仕方があるまい」

「ご心配には及びますまい。彼らも最後のあがき、といったところでございましょう」

 こちらの作戦参謀は落ち着いたものであった。そういう気分が、この陣地には満ちている。すでに勝敗が決した雰囲気にあるのだ。

「終始だよ」とクラインは幕舎の下を歩く。「わたしにとって、脅威だったのは終始アントワーヌだった。ここで彼らを殲滅させられれば、わたしたちの勝利は間違いない」

「確かに、アントワーヌの力は脅威でありましたが、彼らにまだそれだけの力がありましょうか?」

「どうかな? しかし、アントワーヌは常にわたしの予想の外にいる」

 歩くのを止め、首を振った。わからないことを考えても答えなど出ないのだ。いくら予測しても、答えではあるまい。実際に体験しない限りは……。

「行こう」

「は」と参謀を含め、護衛の者たちは首を傾げた。「どちらへ?」

「北へ行く。彼らの戦場を眺めようではないか」

 この高台の北端から、この戦乱における最北の戦場を流れる薄い霧を眺め渡すことができた。ただ、その白い影に隠され、眼下に展開するアントワーヌの実数を把握するのは難しい。雑木林と高台の間の草原地に、多数の人数が展開されているように見える。

「アントワーヌの総員は四百といわれております。近衛第一師団第一大隊一千を退けることはできますまい」

 屋根に帆布を張っただけの即席の陣営下、クラインは床几に腰をかけていた。顎をつまみながら、戦場を眺め、ぼんやりと思案に暮れている。誰の問いにも答えず、ただ時間と霧だけが流れてゆく。

 高台の西側から湧き出した近衛第一師団の白銀の鎧は群れをなして、クラインの言付けの通り、迅速をもって一直線に敵陣へ向かっていく。

 敵は寡兵であるにもかかわらず、なんの工夫もなく、平易な横陣を敷いている。幾ばくもなく近衛師団とまともに当たるだろう。集合晶術を使う気配もない。

「彼らは近衛第一師団の接近に気づいていないのです」と一人がいい、「この霧が我々の味方になりましたな」と、さらに一人がいう。クラインは沈黙をもって回答とし、足下の二軍を眺めた。

 すでに接近しすぎている。アントワーヌが集合晶術を用いたところで味方を巻き込むのは避けがたいであろう。アントワーヌが姿を現したのは捨鉢の猪突なのだろうか。買いかぶり過ぎていたのだろうか。

 クラインが顎を摘んで小首を傾げた。

 そのときである。

 流れゆく霧の隙間、両軍の頭上に光が走った。

 クラインの本陣に戦慄が走る。クライン自身立ち上がって、その晶術光線を眺めている。

「集合晶術です」

「奴ら、味方を巻き込むつもりか」

「森の中からでしょうか」

「伝令を送りましょう」と一人がいう。「あの光線の根本を叩けば……」

 クラインは首を振り、

「いや、もう遅い」

 白色の晶術光線は霧と曇天の薄明に紛れてしまっていた。すでに両軍の頭上、霧の中に巨大な白色の光球が浮かんでいるのを、クラインは見つけていた。「白色光か」とクラインは呟き、外套の襟を掻き合せた。

 光球はぐらりと揺れて、前のめりに落ちてくる。足下の戦場を押し潰し、その余波は凄まじい暴風となって高台の上に座すクラインの本陣も襲った。空気が濁流のように流れゆく音と重なって、高い、パリパリとした音が連続する。パリパリパリパリ、と立て続けに鳴り、霧はきらめきを帯び、足元の芝生を凍てつかせ、人の手足にすら氷の帯を作る。呼吸しようとする鼻は吐息で凍り、まぶたは涙でくっついてしまう。

 悲鳴と混乱の色を呈す陣の中にあって、クラインだけが従前外套で顔を覆っていたために悠然と立ち尽くし、そして踵を返した。

「戻るぞ。ここは寒すぎる」

 南の温かな霧の中に身を隠してゆく。

 いま、北の空は霧が消えかけ、はるか上方の曇天と、そこから差し込む一筋の光を露わしつつあった。


     〇


「行くぜ、おまえらっ!」

 ロックスの雄叫びが氷点下の戦場を揺らす。

「この戦場におれたちの命がかかってるぜ」

 うおおおお、と鬨の声が鳴り、狼狽える王国近衛第一師団の前線に突撃を仕掛けていった。

「我々も行くぞ」

 その左翼からエイムズの部隊も押し上がり、右翼、樹林地帯の中からはジェシカの部隊が湧き出して近衛師団を押し立てた。

「怯むな……!」と一喝した近衛師団第一大隊長は大きな一呼吸に肺を凍らせて、次の言葉が続かない。激しく咳き込み、その場で膝をつくほどであった。閣下、閣下、と彼を気にする声が四方から上がる。

「閣下、ご指示を」

「ぜ、前線を広げろ。一兵足りとも守備を抜かせるな」

 彼がしゃがれた声を絞り出すようにしていうまでもなく、近衛師団の前線はすでに左右に展開していて、数に劣るアントワーヌを手のひらで握るように覆いこもうとしている。あとは握り潰すだけであるが、そううまくはいかなかった。

 空気が凍てつくほどの寒気が両軍を襲っている。

 霧に濡れた手甲具足は瞬く間に氷の塊となって質量を増し、氷柱を作って節々を繋ぎ合わせていった。さらに、王国兵の端々まで呼吸もままならず、肌の産毛も凍り、全身から迸る汗も氷結して肉に張り付く。すべての事象が体温を奪い、体力を削り、手足の関節を束縛してゆく。小隊ごとの連携をも困難にさせ、ひいてはこの近衛師団全体を鈍重にさせている。

 北辺出身のアントワーヌ勢の方が、この点で優位に立った。寒気の中での呼吸の仕方は心得ているし、肉体は寒さを求めるほどに親しんでいる。

「押し潰してやるぜ!」

 胴よりも大きな刃を持つ斧を振り回し、烈火の如く敵陣を斬り裂くロックスと彼に続く農耕戦士たち。左右はジェシカとエイムズが組織的に動き、戦線を支えている。敵の左右の拡大を抑えながら、また押し込んでゆく。

 氷の粒がきらきらと瞬く戦場で、風を巻きながら矢が飛び交い、金属は悲鳴を上げ、鬨の声が上がる。

「おれも行く」とユウは薮を蹴って立ち上がった。彼は晶術のタイミングを図るためにこのときまで後方、晶術部隊の中にいた。

「晶術部隊の撤退はリリアに任す」

「はい、お気をつけて」

「リリアさまのことはお任せを」と威勢よくいったアンジュは敬礼の格好もままならずに激しく咳き込んで、地に四肢をついた。大丈夫ですか、とリリアに気遣われては本末転倒である。

「無理はするなよ」

 薮を飛び出したユウは外套の襟で口元まで覆い、片手は白剣を引き抜いていた。鞘を削る音とともに走った白い尾が霧の中でより白く閃いた。人の群れの中へ駆け込んでゆく。

「天ノ岐殿」

「天ノ岐さま」

 追い越された兵が口々にいい、歓声に似た覇気がユウの背中を追ってくる。

「行くぞ、おまえたち」

 うおおお、と空間全体が呻くように鳴ると、百戦錬磨といわれる王国近衛師団の肌をも粟立たせたという。

 前方から来る矢を一本、二本と断ち切り、眼前まで来た敵兵の槍を躱し、すれ違いざまに胴を一閃、振り返ることもなく、ユウは走り続ける。

「遅えぜ、大将」

「意外に強いじゃないか、ロックスよ」

 前線は両軍入り乱れ、剣戟が上がり、槍穂が錯綜し、霧は徐々に薄くなって視界を鮮明にさせつつあるものの、いまだ空気はきらめきを帯びて肌身を焦がす。

 ユウはロックスと背中合わせに、白剣を中段にした。

「王国兵に目にもの見せてやるぜ」

「死ぬなよ、ロックス」

「縁起でもねえこというんじゃねえよ」

 襲いかかってきた長剣をロックスの斧が弾き、返す刃で敵を一撃、吹き飛ばした。ユウも槍の一人と交錯して再びの胴薙ぎで一閃、横合いから来た長剣が上段から振られる間際に小手を打ち、さらに一人、二人、と打ち倒し、再びロックスと合流し、背中合わせに。その手際に後方も湧き当たって、戦意はいや増し、王国近衛師団一千を押し込んでゆく。

 白剣を握るユウの手が赤い。

「大将」とロックスが叫ぶ。「そろそろ凍傷になるやつが出てくる」

「おれたちにも時間はない」

 凍傷になれば手足は腐り、動かなくなる。治癒の手段はなく、切り落とす他ない。それだけの負荷が両軍にかかって、震えている者、すでにひざまずいて動けない者も少なくない。

「敵軍に継ぐ」とユウは肺が凍るのも構わず声を上げた。「動けなくなった仲間を連れて下がれ。凍傷になる。助かる命も助からんぞ」

 王国側がわずかにたじろいだ。が、すぐさま一兵一兵の目に光が灯り、全身に力が漲ったのが見ていてわかった。後方の戦列は整頓されてすらいる。

「お心遣い、痛み入る」しかし、と後方からの大喝がいう。「我々は戦士である。戦場を捨てて逃げる者はない」

「逆効果だったな」とロックスが呟く。

「これが王国近衛師団か」

 ユウは音を立てて白剣を構え直し、

「では、推して参る」

 敵陣の中へ駆け込んでゆく。


 その夕、クラインの本陣に飛び込む、ひとつの影があった。

 泥にまみれた黒い外套で全身を覆い、その襟元は鼻先までを隠し、漆黒の瞳の中に滾る獣じみた輝きが四方に飛んだ。

「何者だ?」と幕僚たちが殺気立ち、誰もが腰のものの柄に手をかけた。

「天ノ岐ユウ」

 外套が低く呟くと同時に、最も彼の近くにいた将士が剣を抜こうとした。鯉口が切られた瞬間、白い円弧の像が空を走った。この将士は両手に握った長剣の短さを見て、狼狽を隠すことができなかった。長剣の先は鞘の中に落ちて、からからと鳴っている。

 ユウの眼差しは激しい光を宿したまま、幕舎の中の幕僚たちを睨み回している。

「御前を血で汚すことは望みません。しかし、抵抗するというのなら……」

 青年の剣先は穏やかに白い尾を引いて、足元に垂れた。幕僚たちは腰元の得物に手をやったまま彼を取り囲み、じりじりと間合いを詰めてゆく。

「やめたまえ」

 クラインは足を組んだまま片手を挙げ、振り返る配下の者たちを身振りだけで下がらせた。

 天ノ岐ユウは頭にかぶった外套を脱ぎ、口元の襟も落し、まだ幼さの残る姿を露わにしながらクラインの前に歩み寄って片膝を突いた。

「クラインさまでございますね?」

「天ノ岐ユウ。噂通りの剣の腕だ」

「どのようなお噂を伺ったのか、存じ上げませんが」ちら、と彼の眼差しがクラインを刺した。「降伏、していただけますね?」

「一つだけ、条件がある」

 ユウはわずかに訝しむ表情を見せたものの、すぐさま顎を引いた。

「拝聴させていただきます」

「戦後、わたしの側についた者たちを粗略に扱うような真似はしないでいただきたい。逮捕はもちろん、左遷も控えてもらう。彼らも王国のためを思って行動した者たちだ」

 ユウは薄く笑い、

「承知いたしました。アントワーヌの出来る限り、便宜を図りましょう」

「うむ」とクラインは首肯して、「あとは天ノ岐くんに任せよう」

 こうして、のちにシリエス王国王位継承紛争と呼ばれる戦乱の幕は閉じられたのであった。


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