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幻想剣客史譚  作者: りょん
8/23

第三巻 王国騒乱編 二章 王

     二章 王


「凄惨なものですのお」とタモンは床天井を眺めながら感嘆している。

 あの騒動から三日経ち、建屋中の掃除をしたらしいが、そこここにまだ血潮の跡が残って、この部屋であった惨劇をユウに告げている。

「逃げ道なしと悟った者たちは最終的に民家に籠城して戦ったそうですが、その行末は斬り殺されるか、自刃するか。二つに一つで生きて捕まった者はほんの一握りだそうでございます」

「うむ」と血痕の前にひざまずいていたユウは立ち上がり、「まあ、そういうものだろう」

 この乱に加わった二百人の国粋派の八割近い、百五十人までが命を失ったという。生き残った者も、プロキオン盆地の外にある大監獄ランボランユに繋がれ、真っ当な生活は望めない。

「屋根を伝った者だけがわずかに逃げ延びたのではとかなんとか。事実かどうかも定かではありませんが。彼らの拠点も複数踏み込まれて、百人にも及ぶ人が捕まったそうです」

「反乱を起こす、というのはこういうことだよ。彼らも命を落としたことをどうこういわないだろうが、自分たちの軽率さは憎んでいるかもな」

「巷では落胆の声もありますが、大勢は致し方がない処置であると納得しているようですな。しかし、こういう奸計を施したクライン殿下は、また評判を落としております」

 クライン曰く、馬車が襲撃されるという情報が手元にあったため乗らなかった、という。乗らなかった以前に馬車を出さなければよかった、外出を差し止めればよかった、そうすれば敵味方人死はなかった、と反駁され、国粋派を引き寄せるための餌としか思われない、クラインの卑劣漢、と罵られているわけだ。これに対して、クラインは一言も発していない。そのこともまた王都の民の不快を買っている。

「反逆罪は即斬首です。生きて捕らえられたとて、ですな」

「それも仕方がないだろう」

 行くぞ、とユウが部屋を出て行こうとしたところに、タモンがついてこない。デカい口元に人差し指を当てて、その指をそのまま上に向けた。

 天井裏らしい。

「何人いる?」とユウは声をひそめて訊いた。

「おそらく一人、多くて二人」

「どこから入る?」

「その」と部屋の隅を指さした。「押し入れの奥」

「いいだろう」

 ユウは白剣を鞘ごと抜いて、押し入れの奥、天井を叩いた。簡単に一隅の板が抜ける。

「降りてきなさい、わたしたちは王国兵ではありません。通報するつもりはありませんが、あと十セコン、数えて降りてこなければ通報します」

 一つ、二つ、と数えている間に人の双眸が天井から覗いた。恐怖に染まり、震えた眼差しがこちらを窺っている。その瞳に、見覚えがあった。

「おや、アーノルドくん」

「あ、天ノ岐さん」

 転がるように落ちてきて、ユウの腹に頭を埋めた。そのまま泣きじゃくっている。

「天ノ岐さん、ぼく、ぼく……」

「やめなさい、おれに抱きつくな」

「こここ怖かったんですよお」

「男に抱きつかれても嬉しくもなんともないんだよ」

 襟首をつかんで引き剥がし、そのまま投げた。存外軽い。胸当て手甲具足をつけていても、相手は簡単に壁まで飛んでいってそのまま卒倒してしまった。

「情けない男ですの」

「よくこれで勝てると思えたな」ユウは乱れた衣服を直し、「そいつの装備を外せ。宿まで運ぶぞ」

「ほいな」と返事をして、作業を始めた手を止めた。「旦那」

「なによ?」

「こいつ、女ですぞ」

「なにい?」

 ユウは柔らかい肉をつかんだ自分の手のひらを見つめている。


     〇


「ウチは古い家で、考え方も古臭くて、当主は代々男性と決まっております」

 場所はユウの部屋である。それも男女が一人ずつ。

 彼女は膝にホットミルクの揺れるマグカップを抱えたまま、肩を竦めている。細い眉を潜めて、いまにも泣き出しそうな顔だ。

「姉さまがお嫁にいっていて、男児が生まれたらその子に家を継がせるつもりで、その間、ぼくが当主代理になっていたのです」

「あのねえ、アンジェリカさん」

「アンジュでいいです、天ノ岐さま」といまにも枯れ果てそうにいう。

「アンジュさん、お家に帰りなさい。九死に一生を得たのだから、これからはこんな無謀な賭け事はやめにして、お家のために静かにしていなさい」

「で、ですが、ぼくは王国のために……」

「そういいながら、クライン殿下にいいようにあしらわれて、このざまになっているのです。幸い、生き残りはほとんどいませんし、あなたは男装して乱に加わったわけだ。女性に戻れば追われることもないでしょう」

「ダメです」と首を振る。「王国兵に捕まる前に父に殺されます」

「それはどうにかしなさいよ」

「どうにもなりませんよ」と椅子を蹴り飛ばし、床を這って頭を下げた。「お、お願いします、アントワーヌにしばらく置いてください。人一人の命を救うと思って」

「人一人ねえ」

「な、なんでもします、なんでもしますから」

「寄るな、鬱陶しい」

 胸ぐらを掴んでくる手を叩いた。アンジュは尻を床の上に落として、赤くなった手のひらを振っている。

「あ、天ノ岐さまが助けてくださらないと、ぼくは死ぬしかありません、天ノ岐さまを呪って死にます」

「ちょっと警官呼んでくる」

「待って待って、ご勘弁なすって、後生ですから」

 ユウの腰にまとわりついて引きずられても離れない。

「いらん荷物を背負ってしまったなあ」

「いらんなんていわないでください」

 声を上げて泣き始めた。

「ぼぼぼくだって、こんなはずじゃなかったのに」

 聞けば酔狂で訪れた国粋派の集会で熱弁を振るい、それをおだてられて組織に入ったのだという。間抜けが過ぎる。

「生まれてからずっといらない子だっていわれて、それでも一生懸命頑張って、なににこのざま、もうイヤですぅぅぅ」

 すぐに木床が水たまりになってしまった。

「面倒な子だなあ」とユウは頭を掻いている。

「よろしいのでは」と戸口からタモンが顔を出した。

「貴様、どこ行ってた?」

「ちょっとばかり買い出しに」と両手に抱えていた紙袋を小卓に置く。アンジェも泣き止んで、不思議な生物を見るように、タモンの様子を窺っていた。

「アントワーヌは人手不足です」とタモンは手ごねしていう。「本来、ジェシカさまには兵の調練をしていただいた方が、彼女のためにもアントワーヌのためにもよろしいかと存じます。すると、リリアさまのご面倒を見る者がいなくなるわけで」

「それにこいつを当てろっていうのか」

「シュヴァルツァー家の次期当主という身元は間違いなさそうでございます。彼女の性質であれば、リリアさまに害をなすこともありますまい」

「そ、そうです」とユウの服の裾を千切るように掴む。「馬車馬のように働きますから」

「おまえ、貴族としての誇りとかはないのかよ」

「犬のように従順に働きますから」

「ダメだな、これは」

「ダメっていわないでえ」と泣き出した。

「腐っても貴族です」

「くく腐っても……!」

「礼儀作法もわきまえておりましょう。リリアさまのそばにおいて恥にはならないかと。それと、彼女に身嗜みを整えさせれば、王城に入れられるかもしれませぬ。腐っても貴族ですから。服も、このように手に入れて参りました」

「城との連絡役ねえ」

 ユウは外にいて町の様子を見ていたい気持ちがある。しかし、城内の様子も知りたい。

「よし、良かろう」

 アンジュ、とユウが一声かけると彼女は泣き止み、

「これからおまえを使ってやる。ただ、これからしばらくはシュヴァルツァー家のアンジュリカではなく、アントワーヌのアンジュだ」

 それから数日後。

 一人の美しい女中が城門の前に立っていた。王国民らしい黒髪は長く、艷やかな光沢を放つほど滑らかであり、小さな顔は白く、血色のいい頬が紅色に染まっている。彼女の楚々として街道を行く背中を見つめなかった男はない、という。

「アントワーヌ卿に、ご伝言がありますの」

 と切れ長の目に見つめられ、涼やかな声をかけられた門兵は魂の抜けたような返事をし、城中に伝令が走って、その女は難なく城門を抜けた。

「おかしい」とユウはいう。「おれは取りつく島もなかったのに」

「人は見た目が九割といいます」

「おれの見てくれが悪いってえのか」

「まさか、良いと思っておられたのですか?」

「おかしい」とユウは盛んに首を傾げている。


「アンジュさん、とおっしゃいましたか」とリリアはいう。彼女が持参した手紙を見、ジェシカを外にやって確認も取らせたから間違いはない。「しばらくわたしの下で働きたい、と」

「これが聞くも涙、語るも涙のお話で」とすでに泣きながら一通り話し、「どうか惨めなぼくをお助けください」

「わかりました」とリリアは頷く。

「よろしいのですか?」とジェシカは主の頭を疑った。

「確かに、タモンさんのおっしゃる通り、ジェシカの本来の務めは用兵にあります。いまはエイムズさんに任せきりですが、それではアントワーヌ来の兵が良くないでしょう」

 アントワーヌ来の兵はジェシカ、スレイエス来の兵はエイムズが隊長となって運用することになっている。こういう色合いを真っ二つに分けているのは確執の要因になる、と、ユウは自らいいながらも結局そういう采配をした。少ない人数で最大の効率を発揮するには団結するのがいい。そのための安易な手段を選んだということだ。つまり、リリアはジェシカをアントワーヌ領に在住させることで、アントワーヌ来の兵らの心の拠り所にしようとしている。

「そういうわけで、ジェシカはアントワーヌ領に戻りなさい」

「本気ですか、リリア? この得体の知れない奴に身を任せて」

「え、得体の知れないっ!」

「ジェシカ、得体は知れています。わたしたちの同志のアンジュさんです。非礼は許しません」

「しかし……」

 一考したジェシカはこのあと王城を出てアントワーヌ領に戻っている。彼女自身、用兵のことは気にしており、今回のことを歓迎していないわけではない。しかし、相手の身元を信じていいものか、ということだ。城を出る前、アンジュの胸ぐらを掴んでいる。

「リリアになにかあったら、生まれてきたことを後悔させてやるからな」

 アンジュは小さくなって震えている。

「なんでぼくばっかり、こんなことに……」

 だが、彼女も悪いことばかりではない。

「これからよろしくお願いしますね、アンジュさん」

 リリアはアンジュの手を取り、頭一つ分も高いところにある瞳を見つめた。


     〇


「お兄さま」

 アドリアナはクラインの執務室で彼と向かい合っていた。

「彼ら、国粋派の者たちの刑を軽くしてはいただけませんか?」

「はあ?」と眼鏡の奥の瞳が疑いの色を帯びた。「政権への反乱罪は極刑と決まっている」

「ですが、彼らもまた国を憂える者たちです」

「動機は関係ない」とクラインは資料を放って、アドリアナを正面から見据えた。「あのな、奴らが路上で御託を並べているのはまったく構わない。徒党を組んで集会するのも、役所に押しかけてきたりするのも、百歩譲っていいだろう。しかしね、刃物を持って、次期国王が乗っているだろう馬車を、いや、例え次期国王でなくとも、人の乗っている馬車を襲うというのは、おかしいだろ。減刑の余地がない。そうは思わないかね?」

「ですが、話せばわかる人たちです」

「実の妹に、暗殺者どもの命を助けてくれと頼まれるとは、ぼくも愛されていないな」

「そういうわけではありません。ただ……」

「ただ、なんだね? 釈放して、またぼくを狙わせる、とでもいうのかね?」

「そういうことはいってないじゃないですか」とアドリアナは執務机を叩いた。「わたしは、彼らを説得した上で、国家のために活かそうとしているんです。気概のある若者の命を無下に奪うのは国家の損失です」

「ぼくには奴らを牢内で養うために使っている税金の方が国家の損失に思えるがね」

「兄さま……!」

「話せばわかるというが、いいかい、アニー」手のひらを上に向けて、「ああいう無能の言葉に耳を傾ける必要はない」

「無能って……」

「民の九割九分までは無能だ。無能が無能を理解せずに言葉を発することほど有害なことはない。そういう人間は得てして激情に駆られやすく、狂気に満ちて、一分の有能を押し潰し、目先の利益に目がくらみ、安易で端的な手段を取る。人間が集団を形成するとよく起こる作用だよ。そういう浅薄な人間の意見など聞いてはいられないんだ、ぼくは」

「兄さま、いい過ぎですよ」

「事実だ。毎日、本の四、五頁でも読んでいる人間なら話す価値もあるだろうが、食って寝て、無駄話をしているだけの連中の話は聞けない。時間の無駄だ」

「まるで民には発言の余地がないといっているふうです」

「よく聞いていなかったようだな。ぼくは無能者の話を聞かないといっている。例えば、武器を持って人の馬車を襲うような行為をする人間の言葉は聞いていられない。そういうことだ」

 クラインは笑って、

「無能がバカを口走らなければ、もっと有能な意見を、ぼくも耳にすることができるんだがなあ」

「兄さま、間違っても、人前でいっていいことではありませんよ」

「わかってるよ。相手がアニーだからいっているだけのことさ」

 さあ、と片手を振って、片手は資料をつかみ、

「もう行きなさい。ぼくは忙しい」

「どうしても、聞き入れてはくれないのですね?」

「ぼくは法律に沿った行いをしている。司法卿も理解している。それだけだ」

 再び手を振られ、アドリアナは廊下に出、静かに扉を閉じた。

「兄さまのバカ……」

 昔はこうではなかった。古い臣下に訊けば、昔は常に二人は一緒だったという話をされる。アドリアナ自身も覚えている。兄は、庭を歩けば草木のことを語り、エールのことを語り、夜空を見上げればヘリオスオーブのことを語り、瞬く星のことを語った。

 アドリアナは博識な兄を尊敬していたし、一緒にこの国を良くしていこうと誓い合って喜びもした。

 それがどうであろう、学術都市リライトでの遊学から帰った兄は様変わりしていた。傲慢で不遜で、人を見下し、こちらの言葉は右から左へ、耳を通り抜けるだけだ。なにが兄をそこまで変えてしまったのか、と苛立ち、彼を嫌悪した。しかし、兄が王国を愛していることは知っているし、賢明であることも間違いない。

 アドリアナは自らのなすべきことは民を鎮めること、乱による国家の疲弊を避けることであると規定している。国家は法によって統治されるべきであり、法に背く行為は慎まなければならない。王家は嫡子継承という法もある。次期国王はクラインの他にない。

 しかし、兄が国王に相応しいかと訊かれれば、アドリアナも首を傾げざるを得ない。

「兄さまったら……」

 アドリアナは唇を噛み締めながら部屋に戻る。と、その扉の前でリリアが右往左往していた。

「ああ、アニー」

「どうしたのです?」

「あちらの客間にお客さまが来ていますよ」

「別に、リリアが言付けてくれなくても」

「いいんです、わたしがアニーの顔を見たかっただけだから」

 愛らしい微笑みに、ささくれ立っていた内心がほぐされてゆくのがわかる。思う間もなく、最愛の友を抱きしめていた。彼女は目を白黒させ、

「ア、アニー?」

「わたしも、あなたの顔が見られてよかった」

「そ、そう」と解放されたリリアはやや乱れた髪に手櫛を通しながら、「お客さまがいるなら、今日は帰りますね」

 リリアをここに留まらせて良かった。

 小走りに去ってゆく小さな背中を温かな面持ちで見送ったアドリアナは客間の二枚扉を開いた。一人の貴族がいる。彼は立ち上がり、美しい低音でいう。

「ご機嫌うるわしゅうございます、アドリアナ殿下」

「ロッテンハイム卿、お久しぶりですね」

 かつて、内務卿や司法卿も輩出していたロッテンハイム伯爵家。その現当主である。一通りの近況を話した彼はやや身を乗り出し、

「しかし、寂しいものですな」

「なんのことです?」

「わたしたちがこうして話している間にもランボランユに囚えられた憂国の志士たちは目に見えて命を削っているのです。これを、寂しいといわずしてなんといいます」

 アドリアナは訝しむ視線を対面の相手に送り、

「確かに、あなたのいわんとすることはよく理解しているつもりです。ですが、反逆罪は死刑と決まっている、というのは承知の上での行いだったのでしょう。彼らも貴族の血を継ぐ者なら納得しているはずです」

「しかし、殿下のお心は悲嘆にくれておられる」

「それは」とアドリアナはいいよどみ、「わたしは民の血が流れるのを望みませんから」

「殿下」とロッテンハイムはあらたまった声を出し、「血など、温かなものです。富と名誉、自由をさん奪された者たちの悲鳴に比べれば」

「どういうことです?」

「帝国貴族は帝都の野心の下に、その心身を引き裂かれ絶叫しているのです。いずれその悲鳴はこの大陸を覆うことになりましょう」

 リリア・アントワーヌと彼女を慕うまだ見ぬ領民たちの姿がアドリアナの脳裏をよぎる。が、それも一瞬のこと、彼女は褐色の肌を寸分も怯ませなかった。

「わたしは国王陛下の一家臣に過ぎません」

 ロッテンハイムの顔が不敵に笑んだように見えたが、彼の手にした帽子に隠れ、それが退けられたのちは穏やかな表情だけがあった。

「お忙しい中、わたくしのためにお時間を割いていただき、恐悦の至りにございました」

 立ち上がり、頭を垂れる。

「また、お会いしていただけますか?」

「外の人の話を聞けるのは良いものです。こうして城の壁に囚われている身では、ね」微笑んだアドリアナは片手を差し出し、「また、お越しください」

「必ずや」

 彼女の手を取った貴族の瞳は、ほの暗い色を湛えている。


「あれは」とアンジュが考えるような仕草でいう。「ロッテンハイム卿ですね」

 元々演技の上手かった彼女は、格好も、仕草も、板についてきて、ほんの数日ばかりで王城の給士より給士らしくなった。ただ、能力は是非もない。自室に戻ったリリアはこの給士の淹れた苦味の強い茶を喫しながら、しかめた顔をかたわらに向けた。

「知っている方?」

「夜会で何度か。あのときは男装していましたが、軽く握手をしたきりで」

「わたしは王国の貴族方には詳しくないから」

 それを思えば、アンジュを城内に入れたのは正解ともいえる。アドリアナやクラインに接触する貴族の身元が判明すれば、王国の内情は事細かなところまで分析できる。リリアが王城に留め置かれているのも、アドリアナが便宜を図っている以上に、クラインが歯牙にもかけていないというところが大きい。アンジュのことも帝国民の一人としか見られていないようで、平気で口説こうとする兵や官史も珍しくない。

「ユウさんのところに連絡しましょう。こういう情報を求めているはずです」

「はい」とアンジュは意気込んでいう。「なんだか国粋派にいたときよりイケそうな気がしてますよ」

「そういう軽率さが、以前のような悲劇を生むのです」

 リリアはカップに指をかけ、その口調も視線も厳しい。

「わたしの下にいる限り、軽率な発言も行動も慎んでください。あくまでも、わたしたちは王国の方々の善意で土地を与えられている者たちであり、あなたもその一員であるという心持ちをお忘れなく」

「は、はあ」と応じた肩がすぼまる。「以後、気をつけます」

 アンジュは王城を出て東に向かっていった。

「純粋無垢なのはいいところなのだけれど」

 だからこそ、安易な物事に手を出してしまうのかもしれない。

「もっと教育しないといけませんね」

 リリアはお茶を一口、その苦味に顔をしかめた。


     〇


「アンジュのやつを王城に送ったのは、おまえの卓見だったな」

「そうでがんしょ」とタモンはへらへらと笑う。「あっしの目から見て、あの者は身を偽る才覚がありましたな。見目もいいし、劇場に立てばすぐに看板役者になりましょう」

「惜しいことに、おれたちは劇団じゃない」

 ユウはプロキオン湖畔、一本の立木の根本に胡座をかいて、湖面に竿を垂らしていた。

 天は高く、馬も肥えそうな秋である。赤い樹冠の向こうでは真っ白な綿雲が忙しなく流れ、そよぐ風は肌に冷たく、日差しはまだぬくい。

 枝からこぼれた真っ赤な木の実が、湖面に波紋を広げた。その輪に、ユウが垂らしたブイの放つ波紋が重なった。すい、と竿を上げてみたが、餌だけがない。

「旦那は釣りの才能はないようですの」

「バカ野郎、才能がないんじゃない、知識がないんだ。おれが釣りの勉強をしたらこの世から魚がいなくなっちゃうだろ」

「また酔狂な」と人差し指を立て、「竿を引くのが早すぎます。もう少しくわえ込ませてからの方が良いでしょう。魚の種類にもよりますが、餌の動きを……」

「おまえ、この湖の魚を根絶やしに来たのかい?」

「旦那が、本当にそうできるのなら、見てみたいものでございます」

「無駄話を」ユウは練り餌をつけ直し、針を放った。「で、どうよ?」

「ロッテンハイム伯は、マイッツァー伯、シュトロハイム子爵、コーゼン男爵、その辺りと友好を結んでおるようでございます。子爵、男爵位はともかく、おおむね王国の重鎮といってよい家柄ですな。政治色としてはおよそ、穏健派というべきか、クライン派、アドリアナ派の中間に位置する勢力、でしょう。それがアドリアナさまに付くとなると、王国の均衡は破られますの」

「クライン派、アドリアナ派、か」

「クラインを推しているのは商家と地方の中小貴族、といったところでしょう。王都の中枢と大貴族ら、それと市民の多くはアドリアナ派、といったところでしょう。それと、奇妙なことですが、クラインは敢えて王都の貴族らを無視し、地方貴族と交誼を結んでいるような節があります」

「王都の大貴族たちと交誼を結ぶより利益があるか?」

「わかりません。利点があるとすれば、国賊クライン無勢を相手にしない王都の大貴族らより、成り上がるためなら手段を択ばない欲深な地方貴族は機会さえあれば与しやすいといったことでございましょうか」

「王都の混乱に乗じて成り上がろうとする欲を使うか」

「他にも裏があるような気もしますが、まだ察しきれませんな」

「それで、その穏健派がアドリアナ派に傾く、ということは、王国の勢力の大部分がアドリアナ派に寄るということか?」

「七割から八割までがアドリアナの支持に回ると思って構いませんでしょう」

「そもそも、その穏健派というのはどうなんだ? 表立ってクラインに抵抗すれば面倒だから国粋派みたいな連中を使ったんじゃないのか? ただその穏健派の仮面が外れかけてるんだろう?」

「旦那は意地が悪いですの」

「わたしはよく最悪のことを考えるけれど、それがよく当たるのだ、とマープルおばさんはいっていた」

「お知り合いで?」

「小説の人だ」とユウはいい、続ける。「もっといえば、町の噂にある、クラインが敢えて反乱勢を立たせたのではないか、というのも正しいのかもしれない。やつが資金源の一角になって、反乱分子の勢力と計画を牛耳りながら始末しているのかも。その方があとでまとめて立ち上がられるより都合が……」

 ユウはふと頬に手をやり、思案顔を見せた。タモンは主の顔を伺いながら、例の薄気味悪い笑みを浮かべ、一人話を継いでいる。

「だとしたら、クライン殿下はずいぶんと悪辣ですなあ。王都はクライン殿下と、かりそめの穏健派との抗争の舞台になる。いや、すでになっている、という方が正しいでしょうか」

「おかしい」とユウは思案顔のまま、「クラインは反乱勢を弾圧したふうで実際は放置し、もしかしたら援助すらしている。穏健派は明らかにアドリアナに接近して、間違いなくクラインと対抗しようとしている。両者に、なにか、いい知れない思惑がある」

「そうでしょうな」

「果たして彼らがどれほど強硬なのか」

「わかりませんな」

「おれにもわからん」とユウは頬を撫でた。「ただ、こう、物事が複雑な時は原点に戻るのがいい」

「と、おっしゃいますと?」

「アントワーヌの関心事は、極論一つしかない。戦争が起きるのかどうかだ。このことだけに関心を向けて徹底的に調べる。戦争が起きるかどうかに比べれば、俗物の思惑なんてどうでもいい些事だ」

「なるほど」

「戦争が起きるのかどうか、調べるのは簡単だ。どうやらクラインはバカではないから。戦争をするつもりなら物資を集める。どんな才人でも物資がなくては戦争はできないし、物の動きは隠し立てできない。物資の動きを追えばいい。いまの状況、クラインが戦争をするつもりなら必ず戦争になるし、物資はクラインの下に集まる。戦争がないならアントワーヌが移住する先のことを考えるし、戦争が起きるなら勝つ方法を考える。暗闘のことを考えるなんて、時間とエネルギーの無駄だ」

「道理でございます」

「アインスたちに王国各地の食料、武器、スフィアの動向を探らせよう。おまえの手の者たちの情報網もそっちに向けなさい。王都の情報はおまえとアンジュからの情報でもはや充分だ」

「実に単純にして明快かつ的を射た理論ですな」タモンは腹を叩いて笑う。「よろしいでしょう。そのようにいたしましょう。その間、旦那はいかがなさるので?」

「おれは学術調査さ。こうしてこの池の生態系を調べてる」

 ブイが沈み、ユウは一息に竿を引く。が、獲物はかかっていない。針から滴る水滴の眩しさ、それがこぼれ落ちて穏やかな湖面に広げる波紋の美しさ。ほう、とユウはため息をついた。

「だから、旦那、いっておりますでしょう」

「わかってるっつーの」

 再び針を投じる。


     〇


 その後も、アンジュからは報告が上がってくる。ユウの宿泊室で開かれる報告会によると、クラインは頻りに地方の弱小貴族と折衝して何事か悪巧みをしているらしい。

「絶対悪巧みです」と瞳を輝かせながらいう。「わたしが城内にいるのも、ジョゼの思し召しです。クラインを暗殺しましょう」

「この子を簀巻きにしてランボランユ監獄に連れていこう」

 ユウがロープ片手にしていうと、アンジュの顔から光が消えた。

「ああ、待ってください、嘘です、いいすぎました」

「もうダメだ。信頼の糸が切れた」

「ちょっと待って、二度と物騒なこといいませんから、木偶のように言う事だけを聞きますから、監獄行きだけは許してえ」と泣いてユウにすがりつき、彼の服を水が滴るほど濡らした。

 こういうやり取りにも慣れてきた昨今、王都には実りの季節が訪れている。南方にある田畑は、金布を敷いたほどの稲穂が揺れていた。

「アントワーヌ領は豊作です」とロックスからの報告をタモンが読み上げる。「稲穂がたわわに実って、領内はお祭り騒ぎだとか」

「おれもそっちにいたかったなあ」とユウは背もたれを軋ませ、「そろそろ王都の生活にも飽きてきた」

 すでに王都入りしてひと月経とうとしている。

「しかし、旦那はここを離れますまい」

「そうだなあ、これが仕事の苦ってものか」

 一方、繁華では、帝国同盟論が盛んに議論されている。

 帝国の軍事力と経済力は確かに脅威であるが、帝国の膨張主義を放置することは正義にもとる。近年、王国はヘリオスフィアの増産を図っており、帝国と同盟することによって、それを是認したいのかもしれない。だが、スフィアの増産はアステリアの冷却に繋がるためよろしくない。帝国の土地を見ればわかる通り、環境的に不利益である。むしろ、帝国に減産を訴えるのが筋だ。以上、二つの理由で帝国との同盟はよろしくない。そもそも、諸侯議会は反帝国同盟論者が多いために、この同盟案は通らないだろうと見られている。

 こういうことが、かつての国粋派よろしく、あちこちの街頭で演説されている。以前のクライン国賊論よりも、この内容の方が人気なようで、市民の人集りとヤジは大きい。

 こののち、この、諸侯議会、というのが問題になるため、少し触れておこう。

 王国はそれぞれの領地に強い自治権を持たせる、いわゆる連邦制に近い政治体制を取っている。それぞれの領地がそれぞれの議会を持ち、それぞれの決定を下し、それぞれの異なる法を持つ。ただ、その決定のすべては王国憲法内で行われる。この王国憲法の策定をするのが、王都にある諸侯議会だ。

 各地の諸侯が独自に推薦した人材が王都に留まり、議会に出席、各地方の意向を代弁する。この代議士の人選方法も地域によって異なり、諸侯の独断であったり、地方議会によるものであったり、諸侯その人であったりする。諸侯が本地を留守にする場合は、地方の方を代理者が治めることになる。

 それぞれの手段で選出された議員は諸侯が治める領数と同じ数の十三人、これに国王を含めた十四人が諸侯議会となり、喧々諤々の議論の末、決を採り、多数となった側を国の総意とし、国政に反映させる。偶数であるから議決の割れることもあるが、その場合は国王を含む側が議決となる。

 右のことは、ユウも気になって、アンジュから教わっていた。

「十三の侯爵家から派遣された十三人を参議というわけです」と人差し指をふりふりしながら得意気にいう。「任期五年、参議は王都に留まり、日々の議会で国政を論じ合っているのです」

「次はいつ交代するの?」

「五年おきなんで、普通は三年後ですが、国王陛下の交代とともに再選挙、というのが恒例のことです」

「では、いま選挙戦をしている、ということ?」

「場所によっては終わっていて、王都にいる新しい参議の方もいらっしゃるはずです」

「そうなのお? ずいぶんと早いのね」

「前任と後任の参議は諸侯一族とともに戴冠式に出席するのが習わしだそうです」

「ははあ」とユウは腕を組む。「さすがに詳しいな。王国貴族なだけあって」

「そりゃそうです。ぼくだってバカじゃありませんから」鼻息荒く胸を張る。

「戴冠式の日取りも決まってたなあ」

「そうですね。ぼくらの鎮圧の裏でも休まず準備していたようです」

「次は帝国同盟案の決議を取ることになるかな」

「そうですねえ、昨今の最重要案件ですから」

「通るかな?」

「まさか」とアンジュは鼻で笑い、「誰が、あんなアコギな男の陰険な策略に乗るっていうんです? クラインの支持者なんて、ほとんどゼロに近いでしょう?」

「そうかもしれないが」とユウは唸る。「クラインも無策ではあるまい」

 こののち、クラインは戴冠を無事済ませると、諸侯議会を開き、帝国同盟案を議会にかけるのだが、その過程は天ノ岐ユウとアントワーヌがまったく関わらないため省略し、結果だけを簡潔に述べる。

 この議案は結局、簡単に通ることになる。その知らせは王都の町を激震させ、王城を囲う水濠は外殻を民衆の壁に一部の隙もなく囲い込まれることとなった。

 細雨が、白々と注ぐ中秋のことである。


     〇


 満場にはびこる罵詈雑言の数々を書き上げてゆくと、それだけで一冊の辞書になるかもしれない。

「やはりぼくたちは正しかったのです」アンジュは机を叩いて立ち上がり、瞳に憎悪の炎を燃え滾らせて両手は天を衝いた。「おお、クラインめ、許すまじ」

 正しかった、というのは、国粋派蜂起のことをいっているらしい。確かに街中には、クラインを吊るせ、の声が大きい。それができるのは武力であり、国粋派再来せよと王都民たちはいう。

 アンジュも帝国同盟案の可決を聞いた怒りのままユウに報告に来て、恐慌を来すほどに弁説を振るううち、王城が民衆に囲われてしまい、帰るに帰れなくなっていた。

「おお、どうしてくれようか」

「どうやって帰るかってこと?」

「そんなわけないじゃないですか、クラインのド阿呆のことですよ」

 天を衝いていた両手はまた卓を衝いて、彼女の唾はユウを濡らす。

「汚いなあ」

「そうです、クラインは汚い奴です」

「おまえの唾だよ」

 以前、タモンがちらりと話していたが、クラインが地方貴族と交誼を結んでいたのはこのときのためだったらしい。

 クラインは地方貴族の票を集めていたのだ。地方にも議会はある。構成するのは地方の貴族である。この地方議会が諸侯議会の参議を選出することもあり、投票するのは地方貴族だ。要するに、地方貴族の票を集めれば、間接的に諸侯議会の票も得ることが出来る。

「考えたものだなあ」とユウは腕を組んで感心する。

 諸侯議会にはクラインの息のかかった参議が集まった。議題となった帝国同盟案に対して賛成七、反対七。議会が二つに割れた場合、国王の支持する方が議決であると王国憲法にあるため、今日のような結果になったのである。

「聞いてくださいよ、王城を囲む人々の、国粋派の再来を望む声を。ぼくらは彼らの大望を叶えようとしたんです」

「だからおれは武器を捨てて時を待ちなさいといったんだ。おれの助言を聞かなかったおまえたちがやはり間抜けだった」

「もっと強くいってくれればよかったのに」

「文句をいうなら、いますぐここを出て、王城を囲む群衆のひとつになりなさい」

 ほら行きなさい、と城の方を指さすと、アンジュは歯を軋ませるだけで動こうとしない。肩を押しても彼女の足の裏は根を張ったように揺るがない。

「ぼくだってバカじゃありませんから」と彼女はいう。「ユウさんはなにか考えがあるのでしょう? またぼくにだけ貧乏くじ引かせようったって、そうはいきませんからね」

「引くなといった貧乏くじを勝手に引いたんだろ、おまえたちは」

「もしやすると」とタモンも議論、というか、愚痴の掃溜めに加わってくる。「クラインはこうなる前に、国粋派という過激派を排除しておきたかったのかもしれませんの」

「うむ。この波に国粋派の強行力が加わっていれば王城の門は危なかったかもしれない」

「いまのままでも危ないでしょうに」

「危なくないね」

「でも門前はすごい人混みですから」

「外は雨だぞ。長引きそうだし」

「ええ」とアンジュは窓の外を眺め、「そうですねえ、王国はこの季節ひと月くらいはちょっとぐづつくかも……」

「中緯度地域の宿命かもしれないな。南の温かな空気と、北の高気圧がぶつかって、王国上空にちょうど前線を作る季節なんだろう。しかし、この辺りは偏西風帯だから秋雨も長引かないかもしれない」

「はあ?」とアンジュは眉を八の字にして小首を傾げている。「意味がわかりません」

「ともかく、事を為すには、天の時、地の利、人の和、を最も貴ぶ。王城を囲う民衆にはその三つの内、前者の二つまでが欠けている。事は為らない」

「はあ」とアンジュは合点のいかない顔を九十度まで曲げようとしている。

 ユウの推測の通り、翌日には包囲の人数が一割減り、翌日には二割減り、三日、四日と人は減り続け、七日も立つと街は平常を取り戻した。

 霧のような雨がまだ降り続いている。

 この数日の間、ユウにとって問題だったのは王国の前途よりも、アンジュの宿だった。まだ王城が民衆に閉鎖されていたときのことである。彼女は王城にも実家にも帰れない。

「しかし、二部屋取る金がない」

 公営宿舎が安価といってもタダではない。ユウの金はアントワーヌから出ている金であり、コルト領への借金になる。すでにタモンもこの公営宿舎から出て、彼の同業の誰かのところへ身を潜めさせていたし、ユウも近々ここを出るつもりだった。そこにアンジュが身を寄せてきたのである。

「おばさんに頼んできました」と彼女はいう。おばさんというのは宿舎の女将のことだろう。「ユウさんと同じ部屋ならお金はいいって」

「寝台が一つしかない」

 ユウが安楽椅子を漕ぎながらいうと、アンジュは中空を少し眺め、

「……一緒に寝ます?」

「本気でいってるなら正気を疑うけれど」

「気になっちゃいます?」

「おまえは気にならないのかよ?」

「ユウさんたら、ぼくの身体に魅力を感じちゃってるわけですねえ」

 細めた瞳に妖しい光を宿し、ユウの肩に片手をおいて、細い腕が首に回り、甘い香りが鼻孔をくすぐる。柔らかな肉が男の身体に押し付けられた。

「いいですよお、ぼくは」とねっとりとした声が耳元で破裂し、生暖かい吐息が耳朶を舐めるように撫でた。「ユウさんとなら……」

 す、とユウの腕も彼女の頭を周り、そのまま締め上げたかと思うと立ち上がる勢いを借りて彼女の身体を肩に担った。

「ぎえええ」と悲鳴を上げる女を寝台の上に投げつけた。

「勝手にやってろ」

「ちょっとお茶目を出しただけなのに……」

 ユウは逃げるように宿を飛び出し、酒場で夜を明かした。王城の包囲がおおよそ解ける三日の間、彼は一度も部屋に戻らず暮らしている。


     〇


 薄明りの書斎の中で、

「アドリアナはまだ立たないか」

 クラインは苛ついた声で呟いた。

「その様子はありません。徹頭徹尾、陛下に忠義を通す姿勢でございます」

「なんと律儀なやつだ」

 クラインは椅子を回して、眼鏡を直す。その瞳に懊悩の色があった。

「陛下、いかがいたしましょう?」

「貴族連合からの接触はあるんだな?」

「頻りに出入りしているロッテンハイムは一味でしょう。まだ確証ありませんが」

「まだ泳がせておけ。必ずいつか役に立つ」しかし、と指先が額を擦った。「あいつをなんとかしなければ、そろそろ国が持たんぞ」

「民衆の不満は限界に達しつつあります」

「本当に、ここまでバカだとは思わなかったよ、あいつはともかく、民衆どもが」

 クラインは背もたれに体重をかけた。

「他に、アントワーヌに関する報告ですが……」

「アントワーヌか」とクラインは突如身を起こした。「リリア・アントワーヌを使え。アドリアナは必ず動く」

「リリア・アントワーヌでございますか」と一度首を傾げた政務官は頷き、「なるほど、かしこまりました」

 引き下がろうとした男に、待て、とクラインは声をかけた。

「アントワーヌのこと、他になにか調べさせていたな」

「参謀の天ノ岐ユウという男に関してでございます」と前置きをして続ける。「年齢はまだ十代、異邦者の男で言語の読み書きはともかく、会話は流暢のようでございます」

 帝国兵を振り切って極北の地を脱出、スレイエスでの船舶強奪、同地にて元帝国貴族を引き連れての王国間国境突破作戦、さらに剣の腕はヴォルグリッドに匹敵するともいう。

「いまは王都東方公営宿舎に投宿中、か」

 異邦者という、過去を持たない者の性質上、紙の資料はほんの二枚ばかり。右のことに加え、容姿その他の詳細が記されている。しかし、肖像があるわけでもない。

「直接会ってみなければなんともいえないが、際立っているのは剣の腕くらいのものか」

 帝国を降り切れたのは帝国産の駿馬とヴォルグリッドを退けた剣術、アントワーヌ兵の練度によるものだろう、と、このときのクラインは想像した。その視線が、一項目気になる点を見つけ、鋭く細められた。

「コントゥーズのアタカ川の分水路は彼らが造成したのか?」

「そのようでございます。コルト候とアントワーヌ卿は既知の間柄で。すべて彼らに委託したそうです」

「異例だな」クラインはまだ、その一点を見つめている。「普通、ダンダロフ工房に依頼するものだろう。どれくらいの工期がかかったものだろう?」

「それが、よくわからず」とこの政務官も首を傾げる。「一日や二日で完成したという噂があるのです。ですが、常識的に考えてそれはあり得ませんので、まあ、三月や四月は最低限かかっているものと思われます」

「ちょっと待て」とクラインは眉間をつまむ。「おまえの感想を話すな。わたしが知りたいのは、客観的事実だ」

「も、申し訳ございません。あまりに情報が不確かだったためこのようなことに」

「いったはずだ。わたしがほしいのは客観的事実だけだと。おまえの戯言もいらない」

 調べ直せ、と資料を卓の上に放った。

「は、かしこまりました」

「それと、その天ノ岐という男」

「はい」

「よく監視させておけ。動きがあれば報告させろ」

「は、左様に」

 と、頭を下げたのを潮に、音もなく引き下がっていった。

 クラインは執務机の上に眼鏡を投げ出し、髪を掻き上げた。

「天ノ岐ユウ、か……」


     〇


「アントワーヌを追放する?」

 アドリアナはほとんど絶叫するように立ち上がった。

「ついに、兄はそこまで狂いましたか」

「どうか、どうかお気を鎮めて。落ち着いてくださいませ」

 クラインの執政官は頻りに頭を下げ、なだめようとしているが、

「これが落ち着いていられますか」

 アドリアナは彼の頭上から叩きつけるような言葉を放ち続けた。

「王国と帝国の同盟がどうであろうと、一度亡命を許した方々をその同盟内容のために追放するなどと、国家の信用に関わります。今後、このシリエス王国の言動を信じる者はいなくなります。断じて、断じて許すわけには参りません」

「殿下、殿下はアントワーヌ卿との友情のためにいっておいででございます」

「いいえ。わたしは国家の形と未来のためだけを思っても、このことには賛成できないといっているのです」

 アドリアナが歩き出すと、この政務官は扉の前に立った。

「殿下、どこへ行かれるのです?」

「兄のところへ」

「陛下は執務中で……」

「退きなさい」

 鋭い眼光に視線を絡めることもなく、青くなった政務官は横に退き、深々と頭を垂れた。アドリアナは一瞥もせず、廊下に出た。

「アニー」

 リリアがいる。いつもよりいくらか頬を紅潮させて、うしろには女中を一人侍らせていた。

「聞きました。わたしたちの話……」

「大丈夫。あなたが心配することではないわ。なにかの間違いだもの」

「なにかの間違い、なの?」

「これから兄のところに行ってきます。あなたは部屋に戻っていなさい」

 小豆色の髪を優しく撫でる手に頷いて、リリアは下がっていった。

 それからほどなくアドリアナはクラインの執務室の扉を叩くこともせず、激しく開け放った。だが、クラインは種類から顔を上げようともしない。

「兄さま、アントワーヌのこと、いったいどういうつもりです?」

「おまえが聞いた通りだろう。彼女たちには悪いが、ここから出て行ってもらう」

「彼らを受け入れるといったのは王国です。王国はいかなる組織、団体、国家との約束も反故にする国家ではありません。こんな恥さらしな案は退けてください」

「これが彼らのためだ」とクラインは事務の手を止めて、アドリアナを見据えた。「王国はこれから帝国と同盟を結ぶ。ということは、帝国の者たちが大量に押し寄せることになるかもしれない。そうなれば彼らに危害を加える者もいるだろう。アナビアか、ヘリオス教会領にでも行った方が、彼らのためであり、レオーラのためだ」

「帝国より先に盟約を結んだ、アントワーヌを優先するべきです」

「レオーラの平穏を守ることが王国の利益であり、国民の命を守ることが国家の役目のひとつだ」

「いまのために未来を犠牲にするわけにはいきません」

「アニー、ぼくはおまえが妹と思って、事実妹なのだが、だからこそ、こうして心安く話を聞いて怒りもしない。だがな、おまえは一家臣に過ぎず、役職はなく、階級でいえば伯爵位だ。本当ならぼくはおまえの話に耳を傾ける理由はない」

「本気でそのようにおっしゃるのですか?」

「アニー、感情でものをいうな。下品に見えるぞ」

「兄さま」一度だけ、短く歯を軋ませると、兄に向って背を向けた。「もういいです。お話することはありません」

「ならよかった。リリア・アントワーヌとも今生の別れということでもあるまい。できるだけの便宜は図ると伝えてくれ」

 アドリアナは一度睨んだきりで、扉を閉じた。リリアの部屋に駆け込み、

「リリア」

 彼女は立ち上がってアドリアナを迎え、二人は手を取り合い、抱きしめ合った。耳元で微かな声を交わし合う。

「どうでした、アニー?」

「大丈夫、あなたが心配することではないといったでしょう」

「でも……」

「わたしは立ちます」

「アニー」と呟いたリリアの目が丸く広がる。

「王家の血は覇王の血です。わたしの中にも……」

 これほど激しく、胸を高鳴らせている。


     〇


「ついに来たか」

 ユウは釣竿を垂らしながら唸っていた。

 この日、空は六割ほどを灰色の雲に占められただけで、久方ぶりに空気に湿り気がない。

 芝生の広がる周囲に人の影はなく、タモンに左右を監視させてもいる。ただ一人、寄り添うようにしてメイド服のアンジュが座っている。幅広のスカートが緑の上に円を描いて広がって、その皺が薄い陰影をのばしていた。小さな象牙色の手が白いエプロンの上で頻りに指を絡めている。

「アドリアナ殿下は、アントワーヌにも力を貸してほしいとおっしゃっております。リリアさまはそのおつもりでいますが、一応、ユウさんにもお伺いを立てようということで」

 沈黙が辺りを包み、小鳥のさえずりだけがある。

「ユウさん」とアンジュが低い声でいった。「まだ機ではない、とかいいませんよね?」

「わかってる。おれだってこのときを待ってた」

「では……」

「アントワーヌに力を貸してほしいということは、暗殺するわけではないんだろう?」

「今度、クラインは帝国との同盟締結のため、北のファブル自治領国に入ります。そのときを見て、王都で挙兵、ランボランユ監獄を打ち破って同志を解放します。そのまま北の国境線を封鎖して、クラインを国外に追放、奴が南下してくるのなら、殿下も北上して迎え撃つ構えです」

「悪くない戦略だ」しかし、とユウはいう。「条件がひとつある」

「条件?」とアンジュは首を傾げた。

「アインスたちから連絡が入った。王国のスフィアは北方のマルティエス砦に運ばれているらしい」

「スフィア?」とアンジュは合点のいかない顔をしている。まだ集合晶術の開発、浸透されていない帝国外では、戦地でスフィア使用は食べ物の煮炊きと体温調節くらいしかない。あくまで生活必需品で、兵器という認識がない。

「それ、関係あるんですか?」という彼女の問に、ユウは答えず、

「アドリアナ殿下が挙兵するというのなら、その前にその砦を占拠したい。手段は厭わない。アントワーヌだけが突出して攻囲してもいいし、アドリアナ殿下が兵を貸してくれるのならそれに越したことはない。とにかくこの砦が、開戦前にほしい」

「はあ」とアンジュは了解したのか、嘆息したのか、ともかく顎を引いて、水辺を発った。


 その夜、リリアがいたのは、ロッテンハイム邸である。

 アドリアナは挙兵を決意したのち、しきりに接触していたロッテンハイム卿にその下地を整えさせた。以降、アドリアナに賛同した数々の貴族館に夜会と称して集まり、各館を点々としながら、この王国北部を舞台にした大戦略の大網を画策していた。リリアもその一員になっている。

「南を気にする必要はありますまい」とロッテンハイム卿はいう。「確かに、彼らにも多くの富があり、兵も精強でしょう。しかし、クラインが国外に追放されて、我々に分があると踏めば一戦を交えるほどの義理をクラインに持ち合わせておりますまい」

 南方貴族にいわせれば、王国南方が安泰であれば国王など誰でも良い、ということらしい。王国の封建国家的な要素が強く臭っている。

「我々は、南部の安泰を約束するだけで良いのです」

「わたしも無駄な混乱を望みません」とアドリアナは座に腰かけたまま一同を見回した。「わたしは領土がほしいわけでも、富がほしいわけでもありません。ただ、王国の信義を貫くという一事のためにのみ立つのです。各地の領主たちの領土はそのまま封じますし、利益に干渉しようとも思いません。できるだけ、現体制を維持しようと考えております」

「では、徴税権の返還を諸貴族に約束してはいかがでございましょう?」

 別の一人がいう。

「あのことで立腹している貴族方は多くおられます。なにせ収入を断たれてしまわれたのですから」

「そうですね」と呟いたアドリアナは一考し、「それを約束するのは早計に思われます。今期の議会の決定は白紙に戻すのは簡単ですが、前議会の決定まで翻すとなると、あまりに広範に及んでしまいます。一考の余地がありましょう」

「左様でございますか」

 議場に満ちていた熱が潮のように引いてゆくのが、末席のリリアにもわかった。この卓を囲んでいる人間のどれほどが徴税権の復権を望んでいることか、薄気味悪いほど明瞭にわかる。

「実際的なことでございますが」とまた別の一人がいう。「国境封鎖と同時に、各近衛師団に使者を派遣して彼らに臣従を誓わせなければなりません」

 近衛師団、とは、諸侯議会直属の兵団のことをいい、王国では最強の精鋭ともいわれている。その数は第一から第五師団まで、一個師団辺りおよそ八千人。王都北方を中心に国内の要衝へ配置されている。

「彼らが我らの側につくか、ということに、この一戦の趨勢がかかっているといっても過言ではありますまい」

「それは考えすぎというものだ」一人が笑い、「コルト候を始めとして、王国北辺を領する方々は我々の側にいる。この戦力を結集させれば、北方警備の師団、ひとつや二つ、ものの数ではあるまい」

「コルト候も兵を出してくださるとのことですが、アントワーヌ卿はコルト候の指揮下に入られるのですか?」

「いいえ」とリリアは首を振る。「わたしたちはマルティエス砦に拠ろうか考えております。つきましては、殿下が開戦する前にこの砦を占拠する許可を頂きたく存じます」

「マルティエス砦?」と、ここに出席した貴族の八割までが首を傾げていただろう。それほど無名な地であるのか、とリリアも驚く。

「北辺の砦です」

 その辺りの地理に詳しいらしい一人が手振りしながら立地を説明した。

 次戦における主戦場となる、王都北方の地勢について少しだけ触れる。

 王都からのびる北方街道を行くと、ファブル自治領国に突き当たる。この国家はかつてより帝国と強い結びつきがあることから帝国の最大の同盟国であった。古くから膨張思想の強い帝国とレオーラの宗主国と謳われる王国は相いれぬ仲のために、このファブル国境にも多数の砦が築かれ、その歴史はスレイエス国境より古く、かつ厳重であった。その最大のものが、係争地ゴルドバ大平原の南端にあるゴルドバ城塞。その支城が東西南北にいくつかあって連携して接近者を叩き潰すのであるが、その支城のひとつ、北西の砦がマルティエス砦であった。

「賛成しかねます」とアドリアナは難しい顔をしていう。落胆とでもいおうか、リリアが信頼する指揮官の無謀さとその無謀さを口にしてしまう軽率さに首を振った。

「もし、ゴルドバ城塞とその支城が内応しなければ、マルティエス砦は北で孤立します」

 アドリアナの想定は、何度も触れたように、クラインを北の国境の向こうのファブル自治領国に排除して、南下してきたところを叩く、というつもりでいる。敵は北から来る。ゴルドバ平原が仮想戦場となり、ゴルドバ城塞がアドリアナ方に寝返らなければそこを攻めることになる。このゴルドバ城塞を挟んでさらに北に、マルティエス砦が位置するわけだ。ゴルドバ城塞と、南下してくる敵に挟まれる形になる。ゴルドバ城塞に詰めているのは第五近衛師団。議会の決定した国王であるクラインにつくか、民と諸貴族の推すアドリアナになびくか、五分、といったところだ。

「突出して、南の砦ならともかく、北の砦に籠りたいとは。王都からの援軍は送れませんし、北には兄の本隊、南にはゴルドバ大城塞から来る兵を相手にしなくてはいけなくなります。そもそも、この砦を取る、ということから、わたしには不可能に見えます。このマルティエス砦にも第五師団の一部がいるはずです」

「しかし、ユウさんにはユウさんなりの考えがあるのですよ」

 どう陥落させるのか、それはリリアにもわからないが、目的は理解できる。おそらくはここに運び込まれているというスフィアを集合晶術に流用し、クライン軍を一掃したいのだろう。ここで武功を挙げれば、王国のアントワーヌに対する信はさらに篤いものになる。王国からの信頼はアントワーヌ領民の生活に直結するものだ。

「わたしたち、アントワーヌは、ここ、マルティエス砦に入ります」

「リリア」

 アドリアナが困った顔をしていたが、また別の一人が「よろしいのでは」と助け船を出した。

「アントワーヌ卿が北にいてくだされば敵も動揺することでしょう。自然、ゴルドバ城塞も脆くなるかもしれません。我々がゴルドバ城塞を攻囲している間だけ、アントワーヌ卿がクラインの兵を引き受けてくだされば、どれほど戦術的優位に立つか」

「それはそうですが……」

「アドリアナ殿下、わたくしはあなたの友人としてではなく、あなたの臣下として、この戦いに参加するのです。皆さんとわたくしの命、差をつけることはお止めてください」

 一同の間にざわめきが生まれる。

「なんと潔いことか」

「まさに、貴族の鏡だ」

 そのざわめきをアドリアナは片手を挙げて鎮め、

「わたしが間違っていたのかもしれません。わたしを含め、ここに集まってくださった方々の命を平等に扱っていたつもりでしたが、どこかに甘さがあったのでしょう」

 アントワーヌ卿、と彼女に向かい直る。

「マルティエス砦への接触はクラインがファブル国境を越えてからのちのことにしなさい。この砦の門扉を開けられたのなら、あなた方に任せます。それと、わたしたちが援軍を送れないことも承知してください。よろしいですね?」

「はい。かしこまりました」

 リリアは頭を下げ、喝采が部屋を圧する。


     〇


 陽光差す庭の情景を、真っ赤な果実酒、フランダルに濡れるグラスを透かして覗く。充実した果物の香り、仄かな酒精と貯蔵に使った樽の木質を思わせる芳香、渾然一体となって、グラスの上に鼻をかざすだけでも心躍るものだった。

「クライン殿下」と呼ばれて視線を遣ると、長大な食卓の向こうできらびやかな礼服を身にまとった男がすらりと立ち上がるところであった。

 その、四十絡みの男は照れたように笑い、

「いや、失礼、いまは陛下、でしたか」

「敬称などどうでもよいことです」とクラインも笑みで返し、「ランドゥ卿こそ、数々の折衝の上、こちらの無理をおしていただき感謝に堪えません」

「そのようにおっしゃることはございませんよ」と彼は軽く辞儀をした。「どうぞ、ごゆるりと。何事かありましたら、家の者にご遠慮なくお申しつけください」

 退出するランドゥ卿を見送り、手元の酒を一口含んだ。

「ようやくレオーラもひと段落いたしますな」

「これも陛下の采配によるものです」

 左右に座すクライン付の文官が口々に労っているが、当の主は黙って真っ赤な液体を揺らすだけであった。

 くるくると、真っ赤な液体は一塊の楕円となってグラスの中を回転してゆく。

 その回転がピタリと止まった。

 窓のカーテンが揺れたのは廊下から吹き込んだ風のせいだ。陛下、と耳打ちする声があるのをそのままに、クラインは窓の景色を眺めている。

「アドリアナさまが……」

「兵を挙げたか」

 伝令は頭を下げて、一歩退く。

「ついに来たか、このときが」

 果実の酒を一息に飲み干し、グラスを叩きつけるように置いて、席を立った。翻る外套の音が高く響く。


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