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幻想剣客史譚  作者: りょん
7/23

第三巻 王国騒乱編 一章 夏の都

     一章 夏の都


「ひょおおおお」とハルは奇妙な叫び声と、両手を上げて、伸び上がるほど驚いていた。

「わたしがいない間にそんな奇想天外なことが起きていたなんて」

 アントワーヌ領の地形の変わりように目を疑い、ユウが寝床に使っている幕舎を訪ねてきたハルの反応だ。

「集合晶術っていうのは、それほどまでに威力のあるものなのですわね」

 一晩のうちに二キオに及ぶ河川の造成をやってしまったのだ。

「ある」とユウは断言した。「しかし、このことは秘密だよ。幸い、コントゥーズにも広まっていない」

 闇夜、わずかな地震があって飛び起きた町民は何人もいた。その何割かは外に飛び出し、また何割かは空を見上げて天を貫く大火球の目撃もした。しかし、その晩は月がきれいだったこと、よほどの夜半だったことから、月と見間違えたのだ、とか、寝ぼけていたのだ、とかいわれ、真実を語った者たちは嘲笑されて歯牙にもかけらず、肩身の狭い思いをしている。ユウはやや申し訳なく思いながらも、手ごねしてこのことを喜んだ。

「あれはおれたちの切り札だから、秘匿されているに越したことはないよ」

「わたくしだって心得ておりますわ」

「それで、そっちの方は?」

「順風満帆、とはいいがたいですわね」

 肩をすくめて手のひらは天井に向け、小さな顎は左右に振られ、

「わたしたちが運んだのはほとんど王国の農作物とその加工品ですわ。王国で農業は国有事業です。国有事業、というのは、決まったことを決まった通りにして、上振れしてもダメだし、下振れしてもダメで、ただ規定の収支を得るだけなのです。要するに、王国から規定の食料を規定の金額で仕入れて、他国の規定の組織やら政府やらに規定の金額で売買して、その売上金は王国に納めて、わたしたちは運送費を得る。儲けも規定以上になりませんわ」

 商人、いわゆる一般事業者は金をたくさんくれる人間と懇意にして構わないし、より多く金を払う人間を探していい。そういうところで収益を上げるのが商売だ。しかし、公務員には絶対に許されない。公務に従事している人間が一定以上の金銭を受け取ると、これが賄賂となる。賄賂を見過ごすと、富を持つ者が肥え、持たざる者はなお得られず。財政が乱れ、民の不平はたまり、いずれ国家は破綻する。古今東西、どこの文明でも同様である。

「まあ、わたしがうまいこと取り回してるから黒字ですし、これも一個の商売です。けれど、商人というより、運送屋ですわね」

 割には合いませんわ、と盛大な鼻息を漏らす。

「わたしたちも、なにか事業を持たなければいけません」

「事業ねえ」

「とはいえ、王国内の工房は全部五家の傘下にあります。わたしたちのために商品を作ってくれる人たちはいません」

 事業を始めようとすると物資と機材がいる。物資と機材を買うには金がいる。その金は日本では一般的に銀行から借りる。王国では五家が銀行の役目を担っている。五家から金を借りれば、その傘下に入ることになる。このために王国の工房というのは大概が五家の傘下にあるというわけだ。

 独自経営できるだけの商品と金を持つ工房もある。しかし、彼らも大概は五家の傘下入りを希望する。五家の傘下に入るメリットがそれだけあるということだ。

 例えば、五家はレオーラ大陸はもちろん、内海に面する三大陸全域に販路を構築しており、なにがどこで売れるか、どういうものに需要があるのか、ということをすべて知っている。傘下入りすれば、そういう情報を簡単に得ることができるし、助言もしてくれるし、販売を任せていい。

 また、揉め事に巻き込まれた際の身分の保証にもなるし、非常時、例えば急な病気や怪我のときは補助もしてくれる。要するに、傘下に入るだけで保険が利く、ということだ。

 当然、商品作成などに対する不自由はあるし、売り上げのいくらかはピンハネされる。しかし、それらのことを差し引いても五家と懇意にする方がいいと考えるのが、いまの王国の製造業者たちである。だから、王国の工房と商売は五家に牛耳られている、といわれるのだ。

「すでに時代は大航海時代ですわ。王国貴族は土地を占有し、農作物を専売して利益を得てきました。農作物以上に人の必要とするものがなかったから、その優位性は揺らがなかった。でも、農作物の生産性が上がり、供給が当たり前になると、人は資金を持て余すようなった。その富が向けられたのが嗜好品ですわ。いまや人の物欲は計り知れず、作物より嗜好品の方がずっと大きな収益を生みます。金銀財宝であったり、美術品であったり。そのために五家は溢れるほどの富を有しているのです。いずれ商人の方が貴族の方々の富を上回ります。じきに農作物だけで生計を立てている貴族の方々は身を亡ぼすでしょう。悲しいことですけれど」

 と、ハルはいう。

「だからこそ、アントワーヌは商工業を発達させないといけません」

 帝国と皇帝は地質上農業ができないために早々に土地に縛られた事業に見切りをつけ、見切りをつけたために工業を発展させて、いまの富と国力を得ている。それの真似をしようと、ハルはいうのだ。

「とはいえ、王国の産業は五家が牛耳っている以上、普通の手段では参入できません」

 とも、ハルはいう。

「なにか、閃きが必要です。帝国のしているスフィア製造は、確かに、五家が手を出していない産業ですわ。王国が規制して管理しているんですもの。でも、それに近い、なにか新しい産業を見つけないと、いずれアントワーヌは時代の波に呑み込まれてしまいます」

 組織が動くための体力というのは資金である。資金が尽きれば動けなくなる。そのまま飢えて死ぬ。戦争でも、事業でも同じだ。金がいる。帝都脱出以来、ユウを苦しめている最大の問題であった。

 ユウは腕を組み、俯いて、深く考えている。沈思黙考している。

「ねえ、ユウさま、なにか妙案はございません?」

 ねえええ、としなだれかかってくるハルを、おもむろに開いたユウの瞳が見据えた。その深い黒の色合いに、ハルの心臓が縮み、身が震えた。顔だけが熱を帯びる。

「ユウさま……」

「ハル」とユウは穏やかな声で彼女の言葉を遮った。

「は、はい、ユウさま」

「そういうことを任せるために、おまえを連れてきたんだぞ」

 伸び上がったハルの頭突きがユウの頬を抜いた。

「な、なにするんだよ」とユウは頬を押さえて怒鳴り、次いで来たハルの拳を見事にかわした。「暴力反対」

「バカなの? 死ねえええ」近場にあった水差しを振り回し、「わたし一人に背負わせて。一緒に考えてくれたっていいじゃない」

「考えるけど、今日明日に出る答えじゃないだろう」

「死んでしまえ」

 さらに振られた水差しを紙一重でかわす。ハルの懐に飛び込んで、彼女を抱きすくめながら手を取った。

「まだまだだな、ハルちゃんは」

「くきーーー、一発殴りたい」

「もう一発食らってるわ」

「このヒトデナシ」

 ユウの腕の中で身悶える。

「ユウさん、お客様が……」と幕舎が捲られて、リリアが顔を出した。その顔がみるみる赤黒くなる。さっ、と身を引いて消えてしまった。

「リリア」とユウはすぐさま追いかけた。「ちょっと、なんで逃げるの」

「しししし知りません、わたしはなにも見ていません……」

「ユウさまがわたしのことを弄んで……!」

「おまえはおかしなことをいうな。どこかに行ってしまえ」

 アントワーヌ領内に張り巡らされた幕舎の間を、走って逃げるリリア、それを追うユウ、さらに焚きつけようとするハルも続いて駆けて、その様子をアントワーヌ隊の人々が笑いながら眺めている。

 王国に初夏の訪れた、ある日の午後の話であった。


     ○


「ずいぶん賑やかになったわねえ」と闊達と笑っているのはフランセスカ先生だった。以前、スレイエスで出会ったリリアの医学の師であり、リリアがわざわざユウを呼びに来た客人というのはこの人であった。

「スレイエスを越えて、この間コルトに入ったの。ついでに噂に名高くなってしまったアントワーヌの町を見物して行こうかと思って」

 リリアはまだ頬を赤くして、頻りに咳払いをしている。誤解は解いたが、急な運動の名残がまだあるらしい。

「またお会いできてうれしく思います」としゃがれた喉でいい、また咳払いをする。今度の声は澄み渡っていた。「どうぞ、なにもないところですが、ゆっくりしていってくださいませ」

 リリアはユウから聞いたスレイエスでの冒険譚を我が事のように語り、アントワーヌ領のドタバタを語り、

「いまはなんとか落ち着いております」と頬を上気させながらいう。

「どうも落ち着いたようには見えないけれど」とフランはいい、「わたしたちは今度サンマルクに帰ることになってねえ」

「まあ、左様でございますか」とリリアは口を覆った。「とても遠いですね」

 サンマルクはレオーラ大陸南東端にある都市の名だ。エルサドルが大陸の西端やや南寄りだから、大陸を横断することになる。草原を越え、森林を越え、天嶮ともいわれる山脈を一つ越えてゆくことになる。

「それでねえ」とフランは困ったような顔をして、「歩いて帰るのが面倒だから、船を出してくれる人はいないかなあって」

 どうやら本題はここにあったらしい。

「アントワーヌに船を出してくれっていってるんですかあ?」ユウは眉間に天嶮ほどもあるしわを刻み、「先生だからって、そう安くはなりませんよ。船を出している間、おれたちの商売が滞るんですから」

「ユウくんたら、いけずう」と甘い声で身をよじってみせる。「この、意地悪さん」

「甘えてもダメです」

「ユウさん」とリリアも懇願するような目を向けてくるのには困った。なぜおまえまで、と思う。

「しかしねえ……」

「あのねえ、ユウくん。わたしがアントワーヌにお願いしてるのはねえ、船が大きいからなの。普通の輸送船じゃ二、三隻借りなきゃいけないわけ。でもアントワーヌなら一隻で結構載りそうでしょう? 三隻分が一隻に収まるじゃない。さすがに、三隻分のお値段は取らないでしょう?」

「ははあ、なるほどね」と唸って首を捻ったユウは、「船の方と相談してみましょう」

「ありがと、ユウくん」を見送られて、幕舎を出たユウは顎を撫でて一考した。

 サンマルク、というと、ジョゼ昇天の地である。

 異世界から現れ、エールを復活させ、突如としてかき消えた伝説の英雄ジョゼ。彼が最後に訪れた地、サンマルク。

 行ってみたい。

 ユウの食指が動き始めている。


 このあと、天ノ岐ユウは二ヶ月間という長期に渡ってアントワーヌを離れることになる。大海に漕ぎ出し、遥か南洋を経由して、目指すは大陸東部の聖地サンマルク。

 この常夏といっていい土地に降り立ったユウは、いくつかの出会いをし、知識を得、その南国の風土の中に強烈な発見をして、アステリアの天地を回天させてゆく一助とするのだが、その経験を生かすのは半年後のことになる。

 たったの二ヶ月で帰還しておいて、その後の数か月は彼の本意とは異なる事業に費やさざるを得なくなる。

 その端緒はユウが留守のアントワーヌ領において起こっている。ユウ帰還後の騒動を語るためには、彼のことを一時放置して、この極北からの亡命者たちにスポットを当てなければならない。彼らは再び歴史のいたずらによって、波乱の渦中に呑み込まれ、抜き差しならない立場に立たされることとなる。

 それがのちに、シリエス王国王位継承紛争、と呼ばれる歴史的事件だった。


     ○


 ユウはハルと彼女配下の商人たち、それとヘリオス教会医療団だけをアントワーヌ船に乗せて旅立ってしまった。そのあとのことである。

 リリアは取り残されている。

 バーナード邸に割り当てられた自室の文机に頬杖を突き、果ての見えない庭園を見遣っていた。

 梢を通して降り注ぐ太陽光は葉脈を通してもなお強く大地に注ぎ、緑は輝くほどに萌え、世界は立木の枝の上でくちばしをつつき合っている白い鳥のつがいなども祝福してやまないほどに美しく、生命の匂いに沸き立っている。

 そんな至上の景色を眺めているにも関わらず、リリアはため息をついていた。

「なぜ、ユウさんはいつもわたしを置いていくのかしら」

 尽く明確な理由がある。

 今回だって、まだ政情不安定なアントワーヌは王国やコルトと絶えず外交をせねばならず、そのためにはリリアは欠かすべからざる存在であるという理由がある。しかし、リリアは、放置されるたびに深すぎる嘆息をしている。

「どうせ私はユウさんに必要とされていないんですう」と唇を尖らせて机に突っ伏してしまった。

「なにを卑屈になっているんです」とジェシカが呆れた顔を隠しもせずに、「ユウはリリアを信頼して置いていったのでしょう」

「わたしはね」と唐突に立ち上がるなり、「信頼してもらう以上におそばで……」

 いいかけて続きを呑み込み、わざとらしく咳き込んだ。ど、音を立てて椅子にお尻を落とした。

「リリア……」

「も、もういいです。なにもいわないで」

「じきにドシュナー卿がお見えになられる時刻です」

「それは先にいいなさい」とまた椅子を跳ね上げて立ち上がり、あたふたと身支度を整え始めた。

 ジェシカはため息混じりに、

「そのあとは民間の方々の診察をする予定になっておりますが、いかがなさいます? お疲れのようでしたら……」

「その必要はありません。これがいまのわたしの務めですから」

 忙しい方がいいのかもしれない、とジェシカは思う。その方が雑事を忘れられる。一方で、彼女の身にかかる負担も心配になる。元は病弱な体質である。

「くれぐれもご無理なさらぬよう」

 ジェシカにはリリアの傍仕えの他、兵の調練の仕事もある。

 兵の調練というのは、刀槍の練達だけではない。進軍の際、いかに隣と歩調を合わせるか、散開と集合の手順、それらの行動の際の武器の扱い、例えば槍ぶすまを形成するときの穂先の角度、弓の弾き方、斉射の号令から放つまでの微妙な間、馬に乗る際の足の置き方、背筋の伸ばし方、歩行時の足の上げ方から降ろし方まで。こういう、集団での訓練がいかに緻密に施されてるかで隊の練度というものが決まってくる。同じ人数で攻撃するならバラバラでするより同時に仕掛けた方が威力は高いし、防御力も同様だ。この時代の軍隊とは、こうして成立している。

 現在、アントワーヌは兵をエイムズ隊とジェシカ隊に分けていて、ジェシカ配下が近衛隊と呼ばれ、リリア率いる晶術部隊の守護、エイムズ配下が第一部隊と呼ばれ、主力を担うことになっている。ちなみに、第二部隊はロックスが率いる予定の民兵団。平時は農業、建築業に従事していて訓練はない。攻撃専従の奇襲部隊になるはずだった。

 この日もアントワーヌ領北辺の丘陵地に東西で陣を張り、ジェシカ隊はエイムズ隊と模擬戦を繰り広げていた。

「右翼に第三班を回せ。中央の槍兵は前進、弓隊は全員で中央の援護」

 というふうに、伝令を駆けさせている。

 結局、この日はエイムズ隊に陣を割られ、ジェシカは敗走の指示を出している。この敗走の手際を円滑にすることすら訓練のうちなのだが。

「また負けてしまった……」

 六対四くらいの割合で、ジェシカが負け越している。もっと悪いかもしれない。

「しかし、良い戦いでした」と差し出されるエイムズの手を握る。

「近衛隊の主幹が防御にありますからね。そういう意味では近衛隊はかなりの練度です」

 模擬戦が終われば幕舎に各班の班長級を集め、敵味方や勝敗に関わらず問題点を挙げ連ねて共有し修整してゆく。これが調練というものだ。

 その合間に、ジェシカはリリアの様子を見ている。

「やはり、リリアの世話係に一人、専属を置いた方がいいのかもしれない」

 人手不足のアントワーヌで忙しいのは致し方がないが。ジェシカが留守のときはバーナード邸の女中にリリアのことを任せっきりなのである。一個の領地の差配を任されている勢力として、いかがなものだろう。

「リリア」と部屋の扉を開く。と、暗い部屋の中、机に突っ伏したまま身じろぎしない主を目にし、悲鳴を上げた。「リリア! 大丈夫ですか、お気を確かに」

「声が大きいですよ、ジェシカ」とおぼろげな声で応じたリリアは、閉じかけていた目元を擦っている。「少し休んでいただけです」

 あらもうこんな時間、と手元のスフィアに明かりを灯した。

「休むなら寝台の上で休んでください。死んだのかと思いました」

「わたしはそう易々と死んだりしません」

「易々と死にそうだから心配しているんですよ」

「最近、言葉の端々があんまり無礼な気がしますけど」まあいいです、とリリアはのびをして、「ユウさんはお帰りになられました?」

「あとひと月かふた月は帰ってきませんよ」

「ふた月」と繰り返し、窓辺に向かった。文机に頬杖をついて、「はあ……」

 ここ数日はこんな毎日である。

 だが、翌払暁、この淀んだ空気を一変させる使者が王都から訪れることになる。


     ○


「王都から一体何事でしょう」

「またなにかイチャモンでもつけに来たのでしょうか」

「ジェシカ」と吐息を吐いて、「そういうことをアントワーヌの人間がいってはなりません。言葉を慎みなさい」

 寝起きの身嗜みを整え、スカートの裾を払い、

「さあ、行きましょう」

 客間で待っていたのは青年であった。両者の自己紹介はここでは省く。彼の要件である。

「アントワーヌ卿を信義の人と見込んで、すべて打ち明けますが、このことはなにとぞ、ご内密に」

「それは構いませんが、いったい何事でしょう?」

「リリア・アントワーヌ卿に国王陛下の御容態を診察していただきたいのでございます」

「わたしが陛下の?」

 しばらく前から国王陛下が床に伏していることはリリアも聞き知っていた。使者はいう。

「陛下の様態は芳しくありません。ここ最近の酷暑のために悪化の一途を辿っておられます。御典医はもちろん、王国中の名医を探して診察させておりますが、口を揃えていうのは、この夏を乗り切れるかどうか、ということばかり」

「まあ」とリリアは口元に手をやった。「体調が優れないとは伺っておりましたが、それほどとは……」

「アントワーヌ卿は、もはやコントゥーズでは並ぶ者なき名医にございます。なんでも、ヘリオス教会医療団に依って医療をお修めになられたとか」

「どうか」と彼は卓に手をつき、天板に額を擦りつけるようにして、「その御力で陛下をお救いくださいませ」

 前の巻でわずかに触れたが、普通、ヘリオスフィアの治療は外科的なもの、例えば切り傷の回復などがすべてで、内科的な治療は漢方に類似の薬草によるものが主になる。一方、リリアの教わったフランの術は画期的で、各臓器の炎症から衰弱まで、スフィアで治療できるし、どこに疾患があるのかも知ることができる。いわゆる、風邪、という症状までスフィアで治療、または患者の負担軽減ができるかもしれない。

 王国のヘリオスフィア技術が世界の最前線を走っているのは確かである。しかし、その都にも、フランが開発したくらいの術があるかどうか。少なくともディクルベルクにもなかったし、帝都にあるとも、リリアは聞いたことがない。

「頼まれれば断るわけには参りません」とリリアは澄ましていい、「ただし、わたしも医学を修めたといえる身ではありません。ただ、技術的にみなさまの存じ上げないことを聞き知っているかもしれないのみで、経験は王国の医師の方々の方がずっと上でしょう。その方々が助けられないとおっしゃるのなら、わたしが同じ判断を下すのもご承知ください。わたしが陛下に不利な判断を下したばかりに、領民へ不幸が降りかかるようでは御診察いたしかねます」

「それは充分に承知しております」

「では、一人の医師として、一人の患者を診に参りましょう」

「ああ、感謝の言葉もございません」と顔を上げた青年は感極まった様子だった。「では早速、外に馬車を待たせてあります」

「いいえ、馬車より馬の方が早いでしょう」

 コントゥーズから王都シリエスまではいくつもの丘陵を越える行程が二百キオあまり。馬で四、五日といったところか。リリアは五日で駆け通した。これだけ見ても、ジェシカは感動に打ち震えるのである。

「なに泣いてるんです?」

「いえ、ずいぶんとご立派になられて」

「おかしなことを」

「昔なら、一日三十キオも走れませんでした。それをいつかも続けて」

「そこまで貧弱じゃありません」と頬を赤くして、「泣きべそをかいた人を連れたまま王都に入る恥はかけませんよ」

「かしこまりました」

 鼻水をすすって、ジェシカは王都の町に入っている。

 王都近郊の描写は天ノ岐ユウが帰ってきてから観察することにして、彼女らが王城に入ったのちのことから話を続けよう。

 城門をくぐると、全面が大理石のエントランスである。そこの赤絨毯を踏んだ二人を迎えたのは、両側に垣根然と並び立つ女中たちと、その奥に佇む一人の女性。褐色の肌は瑞々しく張りがあり、黒い長髪はやや毛先に癖を帯び、翡翠色の眼差しは鋭利な色彩を備え、なにより山吹色のドレスが異様に映えて輝いて見え、まるで後光を背負ったようであった。この人物がどういう官位であるか、その後光が百の言葉より雄弁に物語っている。

 虚を突かれたジェシカの一方、リリアは表情も変えず彼女の前に立ち、頭二つぶんも高いところにある翡翠色の瞳を見つめた。

「アドリアナ・ヴィルヌーブ殿下でございますね」と、スカートの端を取る。「わたくし、リリア・アントワーヌと申します。このたびはお会いでき、光栄の極みでございます」

「かしこまることないわ」と、凛と透き通った声音が、ずいぶん親しい言葉で喋る。「八年ぶりかしら。久しぶりね」

「は?」とリリアは片眉を下げて小首を傾げた。「あの、申し訳ありませんが……」

「忘れてしまったのかしら? あなたがコントゥーズにいたときのことだけれど」

「コントゥーズ?」と呟いた目が見る間に大きく開かれて、「もしかして、アニー?」

 きゃー、とリリアは人目も憚らず黄色い声を上げながら飛び跳ねて、人目に気づいて身をあらためた。小さく咳ばらいし、

「ジェシカ、こちらの方はわたしがコルトにいたころ、同じくコルトにいてお世話になったアドリアナ殿下です。こちらはアントワーヌ近衛騎士のジェシカ」

 片膝をついて敬意を示そうとするジェシカを制し、

「良いのです」とアドリアナはいう。「それよりも父のことを診に来てくれたのでしょう? 歩きながら話しましょう」

「は、そうです」リリアは手を打って、「患者さんが待っています」

 身長の三倍もある天井の下を歩いてゆく。ずらっと並ぶ細いアーチ窓から差し込む日は白く、中庭の緑は眩しく、空はあくまで青く。

「わたしはアニーのこと、バーナード小父さまの親戚の方かと思って、いえ、アドリアナさまが……」

「いいのよ、リリア。昔のようにアニーと呼んで」

「しかし、それでは」

「いいから」と念を押されて、リリアは折れたように頷いた。

 廊下の向こうに複数の人影があった。そのうちの一人がこちらを見つけ、足早に歩み寄ってくるのを他が追随してくるのは、あからさまに一人目の取り巻きたちである。

「アニー、彼女がそうか?」

 と、切れ長の目を光らせて、先頭を切っていた男がいう。肌の色は白、面長の顔は整っている。が、どこか瞳に熱がなく、冷徹な、蛇のような雰囲気を抱かせるところがある。

 彼は縁の細い眼鏡を直し、アドリアナとリリアを交互に見つめていた。

「ええ」とアドリアナは頷いて「こちらの方が……」

「わたしはクライン・ヴィルヌーブと申します」頭を下げたのも浅くて認めがたかった。すでに話を継いでいる。「妹が失礼をした。コルトからの道も一通りではなかったでしょう」

「いえ、わたくしのことはお気になさらず」

「部屋を用意させてあります。どうぞご自由にお使いください」

「お心遣い感謝いたします。ですが、その前に陛下のご容態を……」

「その必要はありません。陛下のご容態は安定しておられます」

「ですが……」

「王国にも医師がおり、スフィアによる内科の治癒術も皆無ではありません。わざわざ貴殿のお手を煩わせることもないのです。妹が拙速なばかりにご迷惑をおかけいたしました」

「あの……」

「アントワーヌ閣下と供の方々をお部屋へご案内して差し上げろ」と傍らの従者にいい、取り繕って「どうか、一晩のこと、お楽しみくださいませ。明朝には馬車を仕立てておきますので」

「いえ、わたしたちは馬で来ましたから」

「では、その馬は別の者に運ばせましょう」

 要するに、さっさと帰れ、というのだ。そのことにリリアは目を大きくし、次いで頬を赤らめた。発した声が震えている。

「お言葉ですが、医師といえど、十人が十人、正しい診察ができるとは限りません。異なる視点から見てお気づきになられることもあるでしょう。そのために、患者の方は多くの医師に診ていただくのがよろしいかと存じます。わたくしの腕と経験は拙く浅いものではありますが、ヘリオスの医療団にて、一通りの教授は受けてきております。ヘリオスには多くの技術があって、わたしはその医療団の方々に様々のことを……」

 あからさまな嘲笑に歪むクラインの口元を見、リリアの顔色は朱を越えて青くなった。彼はいう。

「ヘリオスの医療団というのは、日がな一日、医療のことを考え、一年を過ごしている方々です。彼らにならご意見を仰ぐのもよろしいかと、わたしも一考しますが、アントワーヌ卿は、そこに一時身を寄せていただけのことと拝聴します。それもいまは領地経営に忙しい身かと。果たして、それで真に医療と向き合っているといえるかどうか」

「兄さま」とアドリアナが仲裁に入ろうとするが、リリアに身を入れられて継ぐ声を失ってしまった。

「診てみなければわからないではありませんか」

「それが無駄な手を煩わせるというのです。そのために貴殿らには時間をいたずらに浪費させ、人を派遣する経費もかけ、陛下を始め、四方に無用な気遣いをさせて、患者の症状を悪化させるのです」

「なにもそこまでおっしゃらなくても」

「わたしは事実をお話しているまでのことです。あまり無礼なことをいいたくはありません。このままお引き取りください」

「お断りします。陛下のご容態を診るために来たのですから」

「はっきり申し上げましょう。あなた程度の腕の治癒術士は王都には多くいます。必要ありません」

「それはわたくしの技術を目にしていないあなたの口から出ていい言葉ではありません」

 ふん、と鼻を鳴らしたクラインはアドリアナに目を据え、

「あとは任せた」

 短くいうと、身を翻して、取り巻きの一団を引き連れて傍を通り過ぎていった。

「なななななななんなんですか、あの人は」

 リリアは珍しくこめかみに血管を浮き立たせるほどの怒りを見せて、鼻息も荒い。こういうのはジェシカの仕事であるが、彼女は場をわきまえているのか、さすがに声を発さず、顔も俯けて感情を表さない。ただ、服の金具が震えてカタカタと音を立てていた。

「あの人、わたしのことだけならいざ知らず、アニーのことまで」

「いいのです。兄はああいう人だから」すでに諦観を滲ませてアドリアナはいう。「それよりも、ごめんなさい。呼んでいながらこのようなことになって」

「アニーが謝ることありません。患者さんは色んなお医者さまに診ていただく権利があります」

 どん、と胸を叩いて、リリアはいう。

「わたしが陛下のご病気を全快させればいいんです。それでほえ面をかかせてやるんです」

 行きましょう、と大股にずんずんと進んでいくのは淑女としてどうか。それほどいまの彼女が動揺しているということであろう。

 ジェシカは国王陛下の寝所に入ることはできなかったから、その経過まではわからなかったが、退室してきたリリアがさめざめと泣いていたことは知っている。


     〇


 このころの王都を始めとした王国北部の政情は一方ならぬ様相を呈している。

 アーノルド、と呼ばれる一貴族がいる。

 この人は、王都近郊の子爵で、歳はうら若く、まだ二十に届かない。細身で中背、色は極めて白い。そういう影を、晶機の明かりの弱い、薄暗い部屋に浮き立たせていた。細い顎に縁取られた端正な顔立ちによく似合う薄い唇が力強く開いた。

「陛下がお隠れあそばし、クラインが戴冠することになれば、王国は暗黒の時代になりましょう。帝国の跳梁を許し、許すだけでなく同盟しようという。そうなれば王国の大地は終焉を迎えます。農作物は帝国に接収され、土地にはヘリオスフィア工場が立ち、ここの空気も凍え、遠くない未来、寒風の吹き荒ぶ荒野となりましょう。閣下もご存知でありましょう、北の大地の悲愴さを。作物も実らず、動物もおらず、草の一本すら生えない死の大地を」

 ディクルベルクを始め、帝国がかつては豊穣の土地であったことは王国民も心得ていて、その枯渇のさまもまた心得ていた。そのすべてがヘリオスフィア工場を乱立させる帝都に起因していると考える者も多く、その点からも王国民は帝国を悪魔の国家と罵って恥じないのである。「その悪魔の国家と」とアーノルドも、膝を叩いて激昂する。

「非難のひとつもせずに同盟を結ぼうなどと、レオーラの宗主国を名乗る王国の成すことではございません。我々こそは、声を大にして帝都の非を挙げ、アンガスやウッドランドとの同盟をより強固なものとして、乾坤一擲、北進してファブルとスレイエスを葬り、帝都に一撃を見舞う。これが王国を、ひいてはアステリアの大地を救う唯一の手段でございます」

 壁を眺めていた老年の男が振り返り、顎の下にのびる髭を撫でた。

「それで、わたしになにをしろというのだ?」

「資金を供与していただきたいのです」

「金か」

「もし、次期国王がクラインと裁が下されれば、我々国粋派は閣下から提供していただいた資金をもって武装し、その力をもって逆賊クラインを打ち伏せます。その後、アドリアナ殿下に戴冠していただき、王国をあるべき姿へ回復させ、再びレオーラの大地に繁栄の礎を築きましょう」

 ふむ、と頷いた老人はアーノルドに一瞥もくれず、薄闇の中をゆるゆる歩く。

「とはいえ、我々にもかつてほどの権力はない」

「それもすべてクラインの施政のためでございましょう。陛下はここ一年あまりお身体が優れず、実権を握っているのはクラインです。奴が自らの徴税官を各地に派遣して領主の力の根源である徴税権を奪い、自らの懐に金の集まる仕組みを作った。我々を弱体化させ、刃向かう者の力を削ぐと同時に自らの利権を拡大する。いかにも奸賊の企みそうなことです」

 老人は部屋の隅に立ちどまり、暗闇の中を覗いている。

「王国は貴族の血によって支えられてきた国家です」とアーノルドはいう。「下賤な徴税官などに民の安否を任せるなど、我々の信頼に対する裏切りに他なりますまい」

 どうか、と頭を下げる。

「我々にお力をお貸し下さい」

 老人はなにもいわず、この若者と対極に位置する座に腰を下ろし、

「人を集めてみよう」

「閣下」

「人は血によってその運命が定められている。王家には王家の血が、民には民の血が、貴族には貴族の血が。我々はそれを信じているからこそ、王家に従い、民は我々に従ってくれる。あくまで彼らの善意であり、我々は与えられた分限の中で彼らを幸福に導く務めがある」

 ほお、と老人は長いため息を吐き、

「血に相応しくない愚者を排除するのも、我々の務め、といったところであろう」


     〇


「なぜだろう」とユウは首を傾げている。「なぜ、おれのいないときにばかり、こういう問題が発生するんだろう?」

 ユウが手にした新聞には、国王崩御の報道が刷られていた。

 地球の話になるが、新聞というのはイギリス辺りで株価を速報するために発達したらしい。この世界でもさして変わらず、市場の動向をエルサドル全域に広めるために始まったといっていい。現在の王国では、エルサドル五家がそれぞれ発行していて、主要都市なら簡単に手に入る。

 ユウがいま読んでいるものは、正確には彼自身はまだ字が読めないためにただ字面を眺めて首を傾いでいるだけだが、タッソー家刷りと呼ばれるものだ。または、単にタッソー版ともいい、王国内最大部数を誇る一紙だが、それはどうでもいい。

「ユウさま、それは勘違い、というものでございますわ」とハルがいう。「いまの時代、ふた月も離れていれば、問題の起きない土地なんてありませんもの」

「ほう、金言かもな」

 ユウは大陸東端のヘリオス教会領から帰還してエルサドルに上陸し、休息する間も惜しんでアントワーヌ領に入っている。

「おお、大将」とロックスが呑気に手を振っていた。「お帰りか」

「お帰りだよ。リリアは?」

「王城に行ったっきり帰ってこないぜ」

「王城に?」話を聞いて、ユウはまた首を傾げた。「おれが留守にしていると、物事が進展していくんだ」

「そいつは大将がほとんどじっとしていないからさ」

「それも的を射てるかもしれない」

「詳しいことは知らんが、ジェシカ嬢だけ帰ってきてる。訊いてみるといいぜ」

 厩舎にセキトの用意をさせて、一方で北に駆け、二つのアントワーヌ隊の合戦を眺めた。徐々にジェシカ側が押されてゆき、両翼を抑えられ、小さくまとまることしかできなくなったところで勝負ありだろう。

「エイムズさん、実に見事な用兵です」

「天ノ岐殿、帰っていらしたのですね」

「ついさっき」とユウは笑顔のままいい、「ところで、エイムズさんは兵をまとめておいてください。装備の管理を怠らないように」

「戦になるでしょうか?」

「わかりません。その情報を得るために、おれは王都に向かいます」

「王都?」と頻りに首を傾げていたジェシカが振り向いた。演習の内容に納得いっていなかったのだろう。が、いまは意識がはるか東の都市に飛んでいる。「わたしも行く」

「その前に、タモンも連れていく」といった途端、この短躯の男はユウの背後に立っていた。

「お呼びでございますか?」

「おまえは幽霊みたいなやつだな」とユウは舌を打ち、「道中、色々のことを聞く。調べはついているな?」

「調べられた限りのことは」

 アインス、ツィバイ、ドライの三人が差配する諜報局にも別に指示を出して王国各地に散らし、ユウはセキトにまたがって街道を駆けた。

 リリアは国王陛下の容体を診察したのち、回復の見込みがないとして、今後の王都政情を気にかけた。それを見定めるため、城に残ったという。旧知のアドリアナ殿下に引き留められたというのもあるらしい。ジェシカは領内の仕事を処理するために一足先に戻ってきたが、代わりに近衛兵を三人ばかり王城に送ったともいう。

「王国の頭上には暗雲が垂れ込めております」とタモンはいう。「王都の複数の貴族邸の交流が激しくなっております。どうやら彼らは、連帯し、金品を集め、それを糧に武器と防具を整えている気配があります。次期国王に指名されているクラインの戴冠に反対する勢力、といったところでございましょう。隠密を装ってはいますが、隠しきれるものではありません。クライン方も気づいておりましょう。しかし、いまのところ放置されております」

「立ち上がると思うか?」

「隠密で準備をしている以上、脅し、ということは。いかがでございましょう?」

「そうだなあ」とユウは頭を掻いている。

 まだ夏の暑気の喧しいころだ。雑木林に入ると、虫の音も喧しい。

「セミかな? コオロギかな?」

「エントウムシという小指ほどの虫でございます。夏の王国の風物詩ですな」

「探してみよう」

 下馬して藪に割り込んでゆく二人の背に、

「なにしてるんだ」とジェシカの怒声が飛んでくる。「おまえたち、王都に行くんだろ」

「ジェシカは先に行けばいいだろ。リリアのこと、頼むぞ」

「勝手な奴」と残った声音に振り向けば、すでに馬首は東を向いて駆けていた。

「あいつも風流のわからん女だよ」

 ユウは藪を越え、野を越え、田畑も越えて、河川で一服し、王国の夏季に吹き渡る湿度のない風を存分に浴びて、ようやく騎馬に戻った。

「王国、特に北部は都会だからどうかと思ったが、なかなかいい自然がある」

「この辺りはほとんど街屋が途切れることがありませんからの」

民家、食堂、商家など、少なくとも百メータおきくらいに建屋があり、時折群れをなしていたりする。雑木林も整備されている気配が濃厚にあり、畑地に働く人の数も少なくない。

「コントゥーズから王都までおよそ百キオ、ファンダ大丘陵という登り下りの激しい丘陵地帯を越えた先、プロキオン盆地の低地にあるプロキオン湖、その畔に王都があります」

「おそらく」とユウは難しい顔をしていう。「ケスタ地形というものではないかな。大地が海中に沈んでいると砂利、灰、その他諸々、堆積して層ができる。その地面が斜めになって隆起すると、柔らかい層は風雨に削られ、かたい層が残る。そうすると、丘陵の連続する地帯になって一部盆地を作ったりする」

 地球ではロンドン盆地、パリ盆地などがある。

 それはともかく、ユウたちはアタカ川を遡上してゆく。その道中、ところによっては高地から一帯を眺め下ろし、ところによっては砂利の敷き詰められた川辺に降りて足を浸したりした。

 釣りをしている者もいるし、水遊びをしている者もいるし、深みの方では船が上り、下り。

「とても乱が起きるとは思えない」

 うららかな日差しの下にいると、なぜ王都に向かっていたのか忘れてしまいそうだ。

「国家の趨勢など市民には関わりのないことなのかもしれませんの」しかし、ともいう。「王都民の空気は暗鬱な匂いが漂っておりますよ」

「そうかい」とユウは川辺を立ち、「では、その香りを嗅ぎに参ろうか」

 途中二泊して、とろとろと、風の吹くまま東へ向かう。丘を越え、谷を越え、やがて、天ノ岐ユウはプロキオン盆地の縁に立ったとき、「おお」と感嘆が漏れるのを抑えがたかった。

 その美しさは、一輪の花、とでもいうべきか。王城の、天を穿つ円筒の群れをおしべにして、周囲には官公庁らしい質朴な白石の建築群が並び、さらに外側は花弁のように七色の屋根の民家が広がって、真っ青な湖畔に北半分抉り込むようにして、咲いていた。

 王都を俗に、花の都、と呼ぶ。町の至るところに花が咲き、町人も花を愛し、各家庭が当然のように花壇を持ち合わせているからであるが、この景観の美しさもまた、花の都と呼ばれるのに相応しい。

「あれが王城なのは一見してわかりますな。その周りは官公庁と貴族邸、あれが凱旋門で、あれが王国劇場、あれが王立博物館、その隣が王立図書館、そしてあちらが……」

 タモンは忙しなく指を動かし、建物を指し示しているが、

「凱旋門と劇場はともかく、あとはわからん」

 まだ百メータもあろうかという丘陵を下って、二、三キロは歩かなければ、街の端にも触れないだろう。そういう距離がある。あるにも関わらず、その装飾の細部まで手に取るように窺える王城の雄大さと荘厳さに、ユウは全身が震えるのを禁じ得なかった。

「確かに、王都が宗主国といわれるわけがわかる」

 盆地、という立地上、東西南北、どこから来る旅人も高台の上に立ち、足下に広がるこの景色に圧倒され、故郷でその感動を吹聴して回ることだろう。

 周囲の丘陵の頭頂部には砦を置き、外敵に対する備えとし、特に北方にはアタカ川を始めとした複数の川の流れ込む湖畔を向け、それそのものを広大な水掘りに見立てて、盆地の南面には充分な耕作地もある。耕せば無限の兵糧が確保できるわけだ。もしかしたら、東西南にもこれに似た備えが施されているのかもしれない。実際、ユウが通り抜けてきた西側にはいくつかの砦があって、治安維持に努めている。

「どうかなさいましたか、旦那」とタモンに声をかけられるまで意識が外に行っていた。

「いや、王都を攻めて陥落させるのは至難だな、と思っただけさ」

 難攻不落。

 おそらく、町の中にも湧水の確保や馬止、枡形など、色々な仕掛けが施されていることだろう。緻密に組まれた町の構造、というのは、ほんの少し注意を払うだけで素晴らしい学問になる。そういうことを考えただけでもユウの心は弾むのである。

「行くぞ」と威勢よく手綱を繰った。

「ほほ」とタモンは笑っている。「町を観て、まずどう落とすか、を考える辺り、旦那も軍師の才が目覚めてきましたかの」

「おれは常に機能美を追い求める人間だよ。自然に対しても、人工物に対しても」

 二人は馬を並べて坂道を下っていった。


     〇


「ユウさんはまだ着かないかしら」とリリアはそわそわしている。

 ベランダに出ては西の空を眺め、町を眺め降ろし、乳白色の石畳の上に騎馬の姿を見つけては目を凝らして、肩を落として、また別の方へと視線を転じている。

「そろそろ到着していてもいいころ合いなのですが」

 そういうジェシカはユウたちと別れた二日後には入城していた。今日はさらに一晩を経て、昼も過ぎている。

「またどこかで寄り道をなさっているのかもしれません。気長に待ちましょう」

 お茶の席についたと思えば、また立ち上がり、外を眺め、繰り返しているうちに夕日が眩しく差し込み始めた。その明かりが眩しいのか、それとも抑えがたい感情がそうさせるのか、リリアは目元を険しくさせていた。

「いったい、どこでなにをなさっているのか」

 と低い声を出していた。はあああ、と椅子にしなだれかかり、

「ユウさんたら、わたしのことなんてどうでもいいんです、どうせ」

「リリア」と嘆息したジェシカの方が、すでに憤怒の熱を冷ましている。「だらしがありませんよ」

「そんなこといったってえ」と髪先で遊ぶ。「ユウさんが来ないのが悪いんです」

「ユウだって、なにかあったのかもしれません」

「なにか」と呟いたリリアの顔色が変わる。「もしかして、帝国からの刺客? その可能性は充分あるわ、大変、探しに行かないと」

 扉に取り付いて飛び出していこうとするリリアの襟首をつかんで引き戻し、

「わたしが探してきますから」

「でも、でも、ユウさんに危険が迫っているんなら、急がないと」

「さっきまでボロクソにいっていたのに」

「そんなこといっている場合ではありません。アニーに頼んで……」

「やめてください」と籐椅子の中に主を放り込み、「万一、外に刺客がいるのなら、リリアが外に出る方が危なっかしい。わたし一人で行きますから。夜明けまでなんの連絡もなければ、エイムズに一報してください」

「でも、ジェシカ……」と、まだ駄々をこねようとするリリアを扉の中に封じ、ジェシカは王城を出た。城壁を囲う水掘りの上、町に繋がる跳ね橋を渡り、

「さて、どうしたものか」

 帝国からの刺客、などということをあまり真に受けてはいないが、あの男が奇行を繰り返しているというのは信じられる。この広い王都の町、もしくはコントゥーズへの街道の間で、いったいなにをしているのか。

 どこから手を付けたものか、悩みあぐねているときのことであった。

「ジェシカ殿でございますか?」と見ず知らずの乞食のような男から声をかけられた。

 ジェシカの中にも緊張が走る。

 刺客か?

 長剣の柄をつかんで、小柄な男と向かい合った。すでに日は暮れ、街灯に封じられたヘリオスフィアの明かりは眩いばかりだが、日中よりも見通しは当然悪い。

「天ノ岐殿より、ご伝言が」

「ユウから?」あのバカから?

「東の公営宿舎にいる、と」

「東?」

 男は頷く間もなく、人混みに消えていった。

「なんだったんだ?」

 首を傾げざるを得ない。

 罠かもしれない。だが、他に行く当てもなく、ユウになにかがあったのなら……。

 ジェシカは長剣の柄をつかむ手に力を込め、東に走った。

 そのまま王都東部にある宿の一室の扉を開くと、

「おお、ジェシカ、やっと来たか」

 ユウは安楽椅子に揺られながら手を振っていた。

「こんの、バカ」

 殴られたユウが悲鳴を上げる。

「叩くことないじゃないの」

「リリアが本気で心配してたぞ、帝国からの刺客に殺されたんじゃないかって」

「いやいや、この恰好で王城に入ろうとしたら、断られて、捕まりそうになったから逃げてきたんだ」

 絹のシャツに、黒一色の薄い上着、七分丈のズボンはどれも着古し、靴だけは革であったが、これも薄汚れて元の色も定かではない。

「いわれてみれば、無謀だった」ユウは安楽椅子に腰かけ、また漕ぎ始める。「まあ、王城に入ったところでやることもないから、リリアによろしくいっておいて」

「バカ野郎」

「あいたっ!」

 もう一発、殴り、ジェシカは宿屋を飛び出した。


     〇


 そういうわけで、ユウはリリアと合流できていない。

 しかし、天ノ岐ユウも王城の門番に叩き返されたあと、ぼんやりしていたわけではない。タモンの手の者に王城の外を見張らせ、リリアやジェシカに伝言を残すと同時に、彼自身は街の様子を窺っていた。

「やはり百聞は一見にしかず、だな」

 プロキオン盆地以東、王都の空気は暗い、というか、不穏な熱量がある。火種を持ち込めば爆発しかねないような空気だ。

 あちらこちらに手製の演壇があって、それに登った者たちが声高にいう。

「クラインの横暴を許すな」

「奴の王位継承権をはく奪し、アドリアナ殿下を王座に」

「相応しくない者には鉄槌を下せ。王城から引きずり出して叩きのめせ」

 これらはまだずいぶんと穏健な方で、比較にならないほど口汚く罵っている者もいる。それでも言論の自由を維持して彼らを囲う人垣ができている辺り、まだ王都は理性を保っている。

「王都は学術都市リライトに次いで学問所の多いために、しち面倒くさいものたちが大勢いますのう」

 王国の哲学は、血が宿命を決めると説いている。農民には農民の、商人には商人の、貴族には貴族の血があり、それ以上を求めても適性を得られるものではない。人がやるべきはその運命の中でいかに全力を尽くすかである。ただ、適性のそぐわない者は稀にいる。これが農民や商人であれば自由にしていい。しかし、王侯貴族はそういうわけにはいかない。支配階級に不適正者がいるならば、容赦なく排除して良いし、排除すべきである。

「実に貴族擁護的な哲学だ」とユウはいう。

 地球において、人には平等で自由な権利があると説くのは民主主義、さらに進んで人民全員が議会に出席して平等な一票を投じなければならないといったのはフランスのルターの民約論だ。だいぶ社会主義的になる。人民全員が議会に出たとして、その議会を取りまとめる人物が必要になる。その人間は自然に他の人民より優越する。社会主義が独裁政権になりやすい所以はこういうところにある。

 右に近い思想は、アステリアではレオーラ大陸南東部ウッドランド共和国にあるが、この東の大国も一通りではない。いまは関係ないために触れないが。

 ともかく、前述したような貴族主義的素養が王国内にある。

「王国を始めとする貴族主義はやや反乱を許容するところがあり、それによって支配者を戒めているところがあります」

「この様子では、いずれ反乱が起きるな、確かに」

「そうでげしょう」

「おい、見ろ」とユウは路上にひざまずき、「この斜度。王城に向かって登っている」

「そのようですな」

「やはり、王城は高台の上にある。町の地盤も意外と高い。水計も無理だ」

「水計。水攻めですな」

「こういっちゃなんだが、コントゥーズのバーナード邸なら簡単に水計で落ちる。アタカ川を堰き止めてアントワーヌ領側の堤防を少し高くすればいい。金はかかるが苦もなく落ちる。しかし、ここでは無理だ。地盤が高い」

 這うようにしていたユウは膝立ちになった。本当は、路上でこういう真似をすると人の迷惑になるからしてはいけない。

「北面は湖、他の三方は三重の水堀が町に敷かれ、王城の前にも一段城壁があって、これを攻め落とす、となると、大阪冬の陣以上の戦力が必要になるぞ」

「つまり?」

「わからない」とユウは四方に視線を走らせる。喪服に身を包んだ通行人たちが奇異の目を向け、ユウと視線を合わせると逃げるように去ってゆく。路上で這いつくばっていた男を見つけたときの自然な反応だろう。ちなみに、この世界での喪服は白を用いるらしい。

 ユウに蔑みの目を向けて行き過ぎる者のある一方、一瞥もくれないまま明確な意志をもって、一方向に進む集団もあった。老若男女、家族連れまでいる。

「なにごとだろう?」

「おそらくアドリアナさまの演説でございましょう。中央広場でそういう催しがある、とか」

「噂のアドリアナ嬢の演説か」とユウは立ち上がり、すでに人波について歩いている。

「しかし、おれは訊いてなかった」

「まだ始まっておりませんからの」

「演説を、じゃない。演説があるってことを」

「おやおや、数日前から町ではこの話で持ちきりでございますよ。あえて報告することもなかろうかと」

「エルサドルから、取るものも取らず走ってきたってえのは、おれのためにある言葉だぞ。そんな男があれもこれも知ってるわけあるか」

「その割には様々に寄り道をして」

「寄り道じゃない。見聞を広めていたといえ」

 次第に街頭演説の声も薄くなってゆく。代わりに、プラカードと横断幕をもって、行進してゆく人の数が増えただろうか。

 王都中央広場は王都南面から凱旋門を抜け、水郷にかかる橋を渡りながら中央通りをまっすぐ、その終点にあって、王城の南門に接続している。その門の前に大きな演壇が設けられ、王城を出ればそのまま壇上に登れるようになっている。ちなみに常設ではなく、仮設である。

「王城からの重要な発言はこうして行われるのがほとんどですな。ヘリオス大聖堂や、城内の謁見の間であることもしばしばですが、広く民衆を集めたいときはこのように」

 確かに、広い中央通りは人に埋まり、東西の通りまで、果ては屋根の上にまで人がいる。どこからか、アドリアナのコールが起き、王国を愛すという歌詞の合唱まで聞こえてきた。

 ユウは大劇場の階段の上、石の列柱の一つを選んで、台座の上に腰掛けてこの狂騒を眺めている。

「人がゴミのようだ」

 単眼鏡のレンズを下界にやった。白い喪服と黒髪のコントラストしかない。その中で、点々と横断幕とプラカードがあり、王城に向けて盛んに振られていた。

「王都の外からも人が来ているようです」

「宿を取れたのは幸運だったな」

「一歩先んじましたな」

「寄り道を早めに切り上げたから」

「寄り道」とタモンは繰り返す。「見聞を広めておられたのでは?」

 ジェシカと一緒に王都入りしていれば、今頃王城の中にいて、向こう側からこの景色を眺めていたのだろう。

 ふ、と、場の空気が変わった。

 壇上の左右を慌ただしく人が行き交い、合唱はなりを潜め、代わってざわつきが増してゆく。

 期待が高まっている。そういう空気が門外漢のユウでもわかった。

 するり、と壇上に立った山吹色の輝きに、凄まじいまでの歓声が鳴った。ユウは耳を押さえて、その輝きの中心にいる女性に目を凝らした。

「あれが、アドリアナ・ヴィルヌーブ」

 遠目にも、王家の血の放つ力がはっきりとわかる。

 その褐色の両手が鷹揚に挙げられ、群衆はさざ波が引くように沈黙に侵されてゆく。

 どうやら、壇上にあるスフィアが拡声するらしい。アドリアナが軽く触れたスフィアは緑色の光を灯し、発せられた彼女の声音はユウのところまでは明瞭に届いていた。

 内容は大したことではない。国王崩御の悲しみを述べ、王国の前途に多くの苦難があるのは想像にかたくないが、我々は一致団結してこの難局を乗り越えようということだ。最も重要な、むしろ、これをいうためだけに、この舞台が整えられたのだろうことを、彼女は最後に端的に、実にさらりと述べた。

「わたしは王国のため、次期国王陛下となられる兄、クラインとともに、その道を歩みます」

 拍手も喝采もなく、ただどよめきと諦観がある観衆に一通り手を振って、アドリアナは城内に下がっていった。

 しばらくしても群衆はざわめいたまま解散しない。

 もし、の話である。このまま高らかに反対の声を上げ、デモにでもなれば、クラインの戴冠は阻止されて、歴史は変わっていたかもしれない。実際のところ、そんなことは起きない。貞節を重んじる王国民らしさが公の場で騒動を起こすことを嫌ったのかもしれなかった。

 ほどなく日が暮れ始め、なし崩しに人々は家路についている。

「要するに、クラインを引きずり降ろせ、という議論に釘をさしたわけだ」

「アドリアナ殿下の本心でございましょうか」

「王国民の性質上、あの場で嘘を宣えば、今後一人の人もついてこない。本心と思っていいだろう」

 こういうことを蹴って、リリアは一日ユウを待っていたわけで、苛つくのも当然といえる。


     〇


 ユウが公営宿舎に宿泊していることを知ったリリアは半ば安堵し、半ば呆れながら、彼の顔を見ることを諦めて、アドリアナの元を訊ねた。幸い、この王女も身が空いていて、自室にリリアを招き入れている。

「だって、わたしには仕事というものがあまりないのだもの」

 とアドリアナは自ら陶器のカップにお茶を注ぎながらいう。アドリアナに任されている仕事というのは、視察や督励がほとんどであるという。

「むしろ、リリアが来て、話相手になってくれるのは嬉しいわ」

「本当は今日の演説も見に行くべきだったのだけれど、大切な人が来る予定で、どうしても外せなくて……」

「大切な人ねえ」と流し目を送られたリリアは赤くなって、

「べべべべべ別に深い意味じゃないから」

「そうなの」と呟く彼女はリリアの言葉を信用したふうでもない。

「いま、アントワーヌの差配をしてくれている人。少し前までヘリオス教会領に行っていたのが帰ってきたの」

 アドリアナの顔つきに険しさが混じり、

「天ノ岐ユウさまのこと?」

「知っているの?」とリリアは驚いた。

 ユウの名前は一国の主に近いところまで及んでいる、と思ったが、むしろ、一国の主の方が各地の組織とその構成に詳しいはずだ。知っていて不思議ではない。

「王都にいらっしゃっているのね」

「本当に間抜けな人で」といったリリアの声には先ほどまでの怒りが込められている。「でもいざというときは頼りになって、博識で、剣の腕も随一だし、できないことなんてないんじゃないかっていうくらい。あの人がいなかったら、いまごろわたしも、アントワーヌも……」

 と早口にまくし立てたところで、リリアは優しい眼差しに気がついた。楚々と身を落ち着けて、カップに口をつける。

「まあ、簡単にいえば、変だけど頼りになる人です」

「一度会ってみたいわね」

「え?」と、リリアは困惑と驚きの混じった視線をアドリアナに向けた。が、彼女は笑っている。

「リリアの想い人を取ったりしないわ」

「べべべべべ別に、想い人では……」

「王国とアントワーヌは協調し合わなければならないもの。あなたがここに亡命したときからそう思っていたから、その中心に立つ人には興味があるわ」

「ああ」とリリアは椅子に体重を預けた。「ああ、そういうことね」

「それほど名の通った紳士なら、王城に入れて差し上げるのに」

「紳士とはちょっと違います」とリリアはいう。「そういうところが間抜けなんです」

 こういう普通の会話ができて、リリアは安心している。

 王国の政権内部は一枚岩であって、混乱の兆しはなさそうである。しかし、次期国王となるクラインが帝国と同盟するという話も聞き知っており、アントワーヌの前途は決して明るくはない。

 まあ、ユウさんに任せておけば大丈夫でしょう、とリリアはお茶をすすっていたりする。


     〇


 翌日、ユウはエイムズに戦闘態勢を解くように、またロックスには兵站庫を通常運用に戻すように、アントワーヌ領へ使者を送り、アインスたちからの手紙も転送されるようにし、町に降りて散歩をしたり、アタカ川と双角をなしてプロキオン湖に流れ込むセキナ川、その河岸に立ち寄って魚料理を食べたりしていた。

 その中で、周囲から聞こえる言葉に耳を澄ませていたりもする。

 近所の誰かが怪我をした、病気した、店が潰れた、開店した、今日の夕飯はどうの、という、至って平穏な内容が多い。王国の前途やクラインの王位に関していくらか聞こえたが、内容は愚痴に似たことがほとんどだ。街頭演説者のような熱がない。

 一般都民にとっては、その程度のこと、ということだ。

 ユウは満腹に高楊枝して、宿屋に帰る道を辿っていた。

 その途中、

「旦那」とタモンが、路地から影のように忍び出てきて、ユウの隣を歩いた。

「宿が見張られております」

 ぴたり、と二人の足が止まる。

「誰に?」

「おそらくは国粋派、反クライン勢の偵察かと思われます」

「なんのために?」

「そりゃ、旦那にご用なのでございましょう。本名でお泊りなさるから」

「王国内で名前を偽ることもなかろう。それに、こうして面白い客人が時たま来るわけだし」再び歩き出しながら、ユウは顎を撫でた。「しかし、おれの名前も売れたものよ」

「そのために命をお落しにならなければよろしいが」

「宿の中は?」

「一人、でしょう。若者が宿の居間の片隅に座を占めておりますが、変装のひとつもなく、貴族らしく背筋を伸ばして端正に腰かけております。一目で分別がつくかと」

「よろしい。その噂の彼と話をしよう。外に異常があれば任す」

「は」と禿頭が垂れる。

「荒事は極力避けろ。王国内も、それも王都内だ」

「心得てございます」

 ユウはタモンを置いて、一人宿の中に戻った。

「お客さまですよ、ユウさん」と宿屋の女将がふくよかなお腹を帳場台に押し付けて愛想よく手を振っている。

「どうも、女将さん、ご機嫌よろしいようで」

「ご機嫌くらい良くないと、やってらんないよ」

 ははは、と哄笑されて、ユウも哄笑する。

 次期国王がほとんど確定したことで王都の人混みも一段落していた。それでも公営宿舎の中は騒々しい。帳場の隣に待合室というか、居間というか、ラウンジらしい一室があって、二、三十脚の椅子と合わせて小卓が置いてある。あちこちで巻き煙草をふかしていて、ずいぶん煙たい。その薄汚れた旅行者しかいないラウンジの一隅に、赤い詰襟服のずいぶん楚々とした格好の青年がいた。ユウと大して年端も変わらぬ男だろう。端正な、白い顔をしている。

 彼はぼんやりと帳場の方を見つめて、客の品定めをしているらしいが、ユウはその眼鏡に適わなかったらしい。女将との会話も聞こえなかったのだろう、すでに次の客の観察をしている。

 ユウは彼の対面の椅子を引き、腰を下ろした。当然、不審そうな目を向けられる。

「あまりご機嫌が良さそうではありませんね」とユウはいう。

「失礼ですが、わたしは人を待っているのです」

意外に幼い声でいう。

「天ノ岐ユウさんをお待ちでしょう」

「え?」と彼は純粋に驚いたらしい。目を丸くしている。「なぜ……」

「ご存知なのか、というと、ぼんやり生きているわけではないからです。あなた方がアントワーヌを調査しているように、わたしも王国のことを調査しています」

「まさか、あなたが?」

「王城では名乗っても信じてもらえませんでしたけれどね」笑い、「証明になるのは、リリアの言葉くらいなものですかね。王城でそういったんですけど、石突きで叩かれるばかりでした」

「いまの王城は腐っていますから」と彼も苦笑する。その発言に今度はユウの方が驚いた。

「ずいぶんと直截な物言いをしますね」

「天ノ岐さまが我々の調査をなさっている以上、もはや隠し立てすることはありますまい。とはいえ、ここから先は場所を変えたいのですが」

「それはそうでしょう」とユウは上階を指さして、「おれの部屋に行きましょう」

 ええ、と頷いた彼は立ち上がり、手を差し出した。

「申し遅れました。わたしは、アーノルド・シュバルツァーと申します」

 ユウも名乗り、彼の手を取った。白く柔らかい。左の腰に細い剣を差しているが、さほどの使い手でもなさそうである。おそらく、スレイエスで剣を交えたカレンの方が数段上、といったところだろう。

「なにか?」と彼は首を傾げていた。

「いえ、少し以前の人のことを思い出しただけです」

 出会いも、別れも、過ぎ去ったことだ。

 二人は二階のユウの部屋に入り、彼は客人に椅子をすすめた。本人は窓辺に腰かけ、路上を窺いながら、

「しかし、国粋派の方ですか。反帝国、反クライン、と聞きますが、アントワーヌに属するおれを抹殺にでも来ましたか?」

「いいえ」と首を振る。「アントワーヌのお力を、貸していただきたいのです」

「ほう」とユウは軽く声を上げただけで相手の言葉を促す。

「悪逆非道の限りを尽くす邪帝エドワードの魔手を潜り抜け、極北の寒気にも挫けず、スレイエスの騎士らも出し抜いたアントワーヌの知恵と力、なによりその気概に王国の民草は熱狂しております。まさに、レオーラの地に現れた救世の徒であると」

 アーノルドは前のめりにまくし立て、無垢な瞳には炎が灯って揺れている。「本来であれば」と彼はいう。

「その務めはこのシリエス王国と王家が為すべきことでありました。まさに忸怩たる思いであります。いまの王国には、まったくその素養がありません」

 肩を竦め、

「王権代理のクラインは帝国の富と資源に尻尾を振り、隷属を良しとする売国奴ともいえる悪魔です。奴が政権を執っている限り、王国に未来はありません。奴は王国にヘリオスフィア工場を乱立させて将来を奪い、民の血税を懐に収め、刃向かう者は遠ざけ、すでに王国の文化は崩壊の兆しを見せております。王都はその文化故にレオーラの宗主国となり得たにも関わらず、その盟主の座を自ら放棄し、大陸中に巡らされた絆の糸を綻ばせるような真似をする。これほどの悪事は古今東西ありますまい。宗主国の弱体化は世を混沌の中に落とすことに他なりません。いま……」

 感極まったように卓を叩き、

「レオーラ大陸は暗黒に落ちようとしています。邪帝エドワードと愚王クラインのために。アントワーヌはこの暗黒時代に現れた一等星、人民の希望なのです」

 彼の弁舌はさらに数分続き、身体から発する熱が室温を上げるほどである。その舌先はもつれるどころか、滑らかさを増してゆく。

「王国と帝国の同盟は、再びアントワーヌを窮地に追い込みましょう。おそらく皇帝は貴殿らを引き渡せと要求してくることでしょう。クラインは愚かにもそれを受け入れることでしょう。我々には」

 と、地団太を踏む。

「そのようなことは耐えがたい。あなた方を守りたい。ともに立ち上がりましょう。世界を変えるために。暗黒柱の一角、クラインを挫き、王国にかつての威光を取り戻し、アントワーヌとともに、ひいては大陸全土にひしめく数多の国家を率い、極北の悪魔を排除するのです。これは我々の願いでもある」

 どうか、と卓に両手を突いて、頭を下げた。

「どうか、我々にお力をお貸しくださいませ。大陸に生きる命のため、未来のため。どうか、我々の手を取ってはくださいませんか?」

 ぼんやりと長演説を聞いていたユウは、意識を取り戻し、

「一つ、条件があります」

「とおっしゃいますと?」

「すぐ、武器を捨ててください」

「は?」と呟いて、不思議そうな顔をする。

「武器を集めている、と聞きます。しかし、王城を攻めたところでその門扉は開きますまい。内応か、クラインの外出時にその行列を狙う。そのどちらかしか、あなた方の勝利はありません。万一、成功したとしましょう。しかし、わたしは未だかつて、暗殺をして讃えられた人物と政権を知りません。アントワーヌは王国民の善意によって維持されています。それを裏切るような真似はできない、ということです」

「だから武器を捨てろ、と?」

 アーノルドは目を丸くしたまま、じいとユウの方を見ている。見ている、というより、驚きのあまり話し手から目を離せないでいる。

「だから、というわけではありません」とユウは手を振り、「あなた方の取れる戦術はただ一つ。クライン反対、帝国同盟反対の看板を持って、城門前に押し寄せることです。武器を持たず、城の門を叩き、クライン殿下が意志を翻すまで抗議する。それ以外に手段がありません」

「ですが、そんなことをすれば捕まったり、王国兵から攻撃されたりするでしょう」

「ずいぶんとおかしなことをおっしゃる。クラインの退陣を武力でもって脅迫しても捕まったり、攻撃されたりするでしょう。あなた方にはその覚悟がおありなのだと思っていました」

「そ、それは」とアーノルドは細めた目を俯けて、口元にしわを寄せた。

「この世界の人間は」とユウはいう。「意外にというと失礼ですが、紳士淑女の集まりです。彼らは傲慢と暴力を許さず、弱者には寛容で、迷わず手を貸すような性質があります。もし、あなた方が武器を持って王城に詰めかければ、世論の反発を受けるでしょう。しかし、あなた方が武器を持たず、王城に押しかけ、クラインに無体な仕打ちをされたとなれば、世論はあなた方に味方をします。あなた方に本当に覚悟があるのなら、非武装の上で王城を取り囲み、言論でクラインと戦うべきです」

「しかし、言論でクラインが退陣するとは思えません」

「それはあなた方の勝手というものです。自分たちの思い通りの政策を施されないから武力で相手を従わせようというのは無教養な野蛮人の考え方で、文明人や法治国家に生きる人間のすることではありません。気に入らないのなら、言論でもって世間に訴えかけ、同意を得、法律を変えさせるようにクラインへ迫るのが筋というものです」

「しかし」とアーノルドは得心がいかないように頻りに首を傾げている。「それにどれくらいの時間がかかるか……、実際できるかどうかもわかりませんし……」

「世の中に、できる、とわかっていることは極めて少ないものです。が、あなた方は命を賭けて国のことを思っている。なら、残りの人生を国家の改革のために使うべきだ。そこから逃げて、安易に武力に頼るのは卑劣な逃避としか言いようがない。あなた方が帝国を恐れるのも、戦争を恐れるのも、すべて筋を無視した結果としか思えない。あなた方が国のためを思って、真に努力を続けていたのなら、王国はもっと栄えて、帝国無勢を恐れることはなかったでしょう。国力が帝国を圧倒的に上回っているのなら戦争を恐れることもない。王国を発展させることを怠ったあなた方の怠慢を恥じるべきで、他者に責任を求めるのは責任転嫁です。あまつさえ武力で奪取した政権などが相手では、帝国も笑ってしまうでしょう。どちらにせよ、武力行使はあなた方の滅びの道です」

「はあ」と腕を組んだアーノルドはぼんやりした顔でユウを見、「端的におっしゃると、アントワーヌは我々にお力を貸してくださらない?」

「端的にいうと、そういうことです」

 しばらく唸っていたアーノルドは、わかりましたと呟いただけで部屋を出て行ってしまった。まだ頻りに首を傾げていた。

「変わった人だ」とユウはいい、部屋に戻ってきていたタモンに語るともなく語った。

「あまり過激派とか、思想家とか、いうふうな人ではなかったな。強いていうなら、弁舌家といったところか」

 国粋派は思想を持って国家転覆を図る、いわゆるテロリストに分類していい組織だが、そこに関わるというのは身を焦がすほどの情熱と思想、貪欲な功名心や富への欲求があって初めて成立することだ。が、彼には右のどれも適さない。ユウに激しく責められても感情を喚起することもなく、ヒステリーも起こさず、ただぼんやりと耳を傾けていただけだった。用意してきた台詞をまくし立て相手の翻意を促すというような、詐欺師に打って付けの能力者でしかないように見えた。それほどの知力があるとも思えず、終盤に至っては、ユウの話の半分も理解できたかどうか。まあ、そもそも知力があれば、テロに加担などしようと思わないはずだから、国粋派を名乗ってここに来た時点で、ユウにいわせれば程度が知れている。

「国粋派に利用されているだけ、ということでございましょうか」

「どちらにせよ、不幸なことだ」

 ユウは窓枠に腰かけ、夏の空を見遣った。町の端々に咲いた花弁が鮮やかに揺れている。


     〇


 クライン政権というのは貴族に最低なほど人気がなく、その貴族に寄り集まられて国粋派などというテロリスト団体まで生まれてしまった。

 なぜ、彼ら貴族がクライン殿下にここまで激怒しているか、その原因は帝国との同盟だけではない。そのことを理解するためには王国の歴史に関係があるので、少しだけ触れたい。

 元々、シリエス王国というのは二百五十年前、レオーラ大陸北西部、いまの帝国西部で起き、徐々に南方を制圧、定住した者たちを始祖とする。かつて王国の都は現在のスレイエス公国公都レイスであるのは以前わずかに触れたかもしれない。

 その五十年ばかりのち、一時国王の権力が減退し、諸侯が力をつけ、各地で相争う時代があった。いわゆる戦国時代である。この戦国時代の後期、王国に一個の天才が現れ、瞬く間に各地の諸侯や貴族を仲介して和平を結ばせて、国王は権威を取り戻した。諸侯らが戦争に疲弊していたということも助けたのかもしれない。

 王国に平和が訪れたものの、その後の領主たちは以前の彼らとは決定的に違っていた。自分たちの土地は自分たちで切り取ったもの、という自負が生まれてしまったのだ。あくまで自分たちの領地であり、国王はただ彼ら諸侯勢の代表であるに過ぎず、なにかあれば排除する、という気概が彼らの中に生まれてしまったわけだ。この二者を拘束する立法はある。だが、従者の戦闘能力が強大すぎる場合、法など簡単に破られる。国際社会の常だ。平穏を保っていられるのは従者の利潤を保証する主との相互の信用以外にない。こういう政治体制を封建制という。江戸幕府やイギリス王家もこういう時代があった。ちなみに、封建制以前のシリエス王国は君主が君臨して全土を統治していたため、専制君主制というのに近い。

 現在、シリエス王国の王権の優越は、国策を決定する諸侯議会において決定が半々に分かれたときの採決が国王に委ねられること、国家防衛などの国策費がわずかに各地の諸侯から集められてその行使権があること、国家の中枢施設のある王都に居住して堅牢な王城に住めること。この程度のことしかない。収入にしても領内から上がってきたものだけしかなく、富裕でいえば、コルト候の方が圧倒的に優越している。にも関わらず、クラインは諸侯議会を動かして、各地の貴族から徴税権を奪い、商人たちの課税を軽くし、国内のヘリオスフィア工場を増築して、帝国と同盟を結ぼうとしている。

 その傲慢ぶりに、諸貴族は腹を立てたわけだ。

 土地を管理する、というのは、その土地の治安を守り、外敵を排除し、領民が心穏やかに暮らせるように心を砕き、その感謝として税を税という形で収めてもらう、ということだ。この肝心の、納税を王権に奪われてしまった。一度、税収のすべてを国王の懐に収め、諸貴族に分配する形になったのだ。これに多くの貴族が激怒した。王国の税ではなく、各領地の税なのだ、彼らはいう。さらに、クラインは帝国同盟論をささやき始める。これが貴族たちの起こす憤怒の熾火に油を注いだのであった。

 皇帝の他を顧みない中央集権路線は、仁愛を旨とする王国貴族の主義に反し、また、クラインの政略がこの皇帝のやりように重なって見え、

「あの俗物を排除しなければ王国は終わる」

 と一部の貴族たちは血の涙を流すほど感情を昂らせているわけだ。

 彼らはいう。

 クラインは国民の血税を懐に収めて私腹を肥やし、帝国へ王国を売り、さらなる富を得ようとしている。そのために、レオーラの大地と民と王国文化は凄惨なまでの犠牲にされようとしている。と、声を大にして、叫んでいる。

 ここまで、王国貴族の歴史と国粋派の主張を並べてきたわけであるが、彼らの主張は一貫性に欠けて、人によっては詐欺まがいに映る。右の文章からでもわかる。そのことはまたあとで触れるが、王国民はその詐称箇所がわからないながらも、直感的に違和感を覚え、クライン政権を嫌いながらも、純然とこの国粋派を応援できないでいる。

 当然、知識階層はこの詐称の要点を掴んでいる。国粋派の中でも理解して敢えて呑み込んでいる者、利用している者、またなにもわからず純粋な正義のために突き進んでいる者といる。そのような風潮の中で、国粋派は引返しようのない嵐の中へ身を投じようとして、また投じた身は嵐の激しさのために引き裂かれようとしている。


     〇


 彼ら、国粋派はアントワーヌの天ノ岐ユウを始め、四方に使者を送っている。その目的は資金集めであり、同志の勧誘であり、政略の徒であったり、様々だが、そのいくつかをかいつまんで覗いていこう。


 まずは王都。とある貴族邸の議事室である。

「お集まりいただいた方々には感謝の言葉もありません」

 上座に立った壮年の男がいった。長いテーブルを囲うのは老若男女、上等な衣服と装身具で身を飾った者たちである。その一人が冷静な口を開く。

「クラインの増長を許せば王国の不利益は計り知れない。徴税権を我が物とし、我々の首根を押さえ、帝国の富に狂い、王国の威信を失墜させる売国奴だ。制裁を加える他あるまい」

「資金は我々が出そう。武器の供与もする」と別の一人がいう。「あとは君たちの奮闘にかかっている」

 さらに別の一人がいう。

「アドリアナさまはわたしが説き伏せよう。国民のことを考えれば、必ずお立ちになられるはずだ」

「アントワーヌはどうしたのだ? 彼らは帝国の絶対的な敵だろう」

「アントワーヌは我々に協力しない」

「バカな」

「人を送って確認した。間違いない」

「所詮は愚かな帝国人だということですわ。そもそも、頼ろうとしたのが間違いです」

「あのような者たちはどうでも良いのです。それよりも、ここにこれだけの人物が集まってくれたことが心強い。純粋に王国を愛する皆さまが」

 ぱちぱち、と拍手が上がり、上座の男は頭を下げた。

「人はまだ集まってくる。大勢を明らかにしていない者たちは多くいて、反クライン、反帝国の組織は多く、そういう組織には書状も出している。必要とあれば人も送っている。国民も、いずれ我々の正義に感化されるはずだ」

 何月何日、と日付が提示される。

「この日、クラインは国務卿カリオン伯爵邸に招かれている。カリオン伯はクラインの後見人と目していい人物、この申し出を断ることはあるまい。その道中を狙う」

「いいだろう。わたしは異存はない」

「戴冠の日も遠くない。早めに決着をつけた方がよかろう」

「では、そのように」

 上座の男は四方を見遣り、

「どうか、我々の成功をジョゼにお祈りくださいませ」


 次いで、エルサドルである。

「タッソーの家は我々に協力してはくださらないということですか」

 タッソー老人はいかつい顔の貴族に頷いて返した。

「タッソーの家、というより、エルサドル全体として貴公らには協力いたしかねる」

「クラインが商人に対する税率を下げたことを恩顧に思っているのなら、それは狭量というものです。いま、クラインを退けなければ、王国は帝都の統治下に置かれ、その富は皇帝のものとなりましょう。奴らは武力によって物事の解決を図る。そういう人間たちの元で自由な商売ができるとお思いか?」

 ど、と卓を叩き、彼は立ち上がる。

「我々にも商業を発達させたいという頭はある。クラインを排除したのちはエルサドルからも中央へ人を送れるよう、取り計らってもいい」

「お言葉じゃが」とタッソー老人は平静な声を出す。「エルサドルはコルト領にある。我ら、エルサドルの商人の主はコルト候であり、我らが恩顧に報いるのはコルト候じゃ。コルト候が立たぬ限り、我らも立たぬ」

「俗物が」と吐き捨てるようにいうと、この使者は礼のひとつもせずに立ち去っていった。ほう、と長いため息を吐いたタッソーは舌打ちをした。

「なにが、奴らは武力で解決を図る、じゃ。あいつらもそうじゃろ、うすらボケが」

「まったく、その通りでございます」と執事がいう。「主さまは道理を通していらっしゃる」

「道理もなにもあるものか」タッソーはせせら笑い、「負け馬に乗れるわけがなかろう」

「彼らには一部の勝ち目もありませんか」

 執事の言葉に、タッソーは豊かな眉に隠れかけた目を細め、

「万に一つだけ、勝機はある」

「と、おっしゃいますと?」

「アドリアナ殿下が立てば。しかし、まあ、一万に一つの賭けであろう。それに、アドリアナ殿下が立てばコルト候も立つ。コルト候が立てば我々が立つ道理も立つ。結局、アドリアナ殿下とコルト候の側が勝つ、とわしは思う」

「素晴らしき見識でございます」

「そうじゃろ、そうじゃろ」とタッソーは執事の称賛に満足し、手ごねした。

「しかし、アントワーヌは大丈夫かの。あのお嬢ちゃんが詐欺師どもに騙されていなければよいがの」


 王城のアドリアナの下へも彼らは行っている。

「なりません」

 と、彼女は一蹴した。

「あなた方の行いは王国へ反旗を翻すことに他なりません。絶対に止めなさい」

「しかし殿下」と片膝をついた使者は、さらに頭を垂れて、「これ以外に王国を、レオーラを救う道はありますまい」

「そのような野蛮な手段で王国は救われません。混沌に落ち込むだけです」

「殿下」

「聞かなかったことにします。あなたは努力してその組織を解散させなさい。そのような暗黒に関わってはいけません」

「殿下」

「もう議論は無用です。ここを出なさい」

「出過ぎた真似を、いたしました。お許し下さい」

「許すこともありません。わたしはなにも聞かなかった」

 彼はアドリアナの客室を出た。涙の跡が点々と、絨毯の上に残っている。

「なんという愚かな真似を……」

 武力をもって現政権の指導者を攻撃する、などというのは国家に対する反逆であり、法の冒涜。

「王国民のなすことではありません」

 そのような考えの人間がいると考えただけでも気が狂いそうだった。

 兄に告げるか?

 と、思案したところで首を振った。あの使者に対する裏切りになる。

「聞かなければよかった」

 それとなく、兄の周囲に気を配るくらいのことしかできない。

「どうか、ジョゼの加護があらんことを」

 両手の指を組み合わせ、額に擦る。


 再び、王都の、とある貴族邸でのことである。ただし、前回、国粋派の主要メンバーと出資者が集まっていたところとは違う。

「国粋派は立つ」と、薄闇の中で誰かがいった。

「これでクラインが死ねば我々の利権が復活する」

「成功すると思うか?」

「失敗してもまた新しい犬を仕立てれば良い」

「そう。下級貴族など、所詮は使い捨てだ」

「クラインという男。あの青二才が、下らん知恵を回すから」

「なぜ諸侯議会は奴の徴税案に賛同したのだ」

「大方、クラインが金でも配ったのだろう。奴には商家からの賄賂がある」

「そのために商家の課税も下げたのだ」

「ともかく、クラインは死ぬ。徴税権さえ取り戻せば、我らの権威は安泰だ」

「我々こそが王国の体現者。それを侮辱する愚か者には死の鉄槌を」

「死の鉄槌を」

 いくつかの声が唱和する。


「愚かな」と侮蔑するように吐き出す者がここにもいる。

「クライン殿下。国粋派への資金供給、武器の供与、情報の提供まで、予定の通りに。例の貴族会の捕捉も、順調に。幾人か主要人物を特定しております」

「この程度の安い餌に食いつくとは。貴族という種がいかに腐っているか、疑う余地もないな。それとも、わたしが騙されているのだろうか」

 スフィアを仕込んだ行灯の、弱い明かりの中でフラド酒を注いだグラスを回す。赤い液体は幕を引いて、歪な楕円を描いては徐々にその形を変えてゆく。

「どちらにしても、構うことはないか」と、クラインは一息に酒精を呑み下した。「クズどもが実際にクズなのか、見学しようではないか」


     〇


 すでに晩夏、といっていいだろうか。

 あくまで空は青く、白を基調にした王都の町は眩いばかりに輝いているものの、一時期に比べて日差しの力は弱くなり、日が暮れればふとした拍子に秋を感じる風が吹く。夏の花弁は散り、実をつけ始めていた。

 その町の中を馬車がひとつ、前後に着飾った歩兵と騎兵を並べて道を行く。

 垂れ幕で窓を覆った馬車にはシリエス王家の紋章が記されている。

 見物人は沿道にちらほらといて、もちろん、見向きもせずに道を急ぐ者もいる。王家の馬車とその一団など、それほど珍しいものでもないし、それほどの礼を尽くすものでもない。以前も触れた通り、現在の王家というのは絶対権力者というのではないのだ。

 ただ、からからと車輪を回して街道を転がっている。

 その馬車の前に飛び出した男が一人、飛び出すやいなや、腰から剣を引き抜いた。

「逆賊クラインに天誅を下す」

 その男は隊列の先頭にいた騎馬の馬ばかりを斬り倒し、殺到する槍穂と刃を交わらせ、さらに沿道から駆けてくる仲間たちとともに、クラインの護衛隊を押し込んでゆく。時を同じくして、民家の上階の窓が開き、無数の矢じりが顔を出し、護衛隊の列を襲った。真っ先に犠牲になったのは馬車を引く二頭の馬であった。即座に頭と眼球、喉元も射抜かれて、その場で卒倒していた。

「馬車を守れ」と護衛部隊の隊長はいい、その中心へ兵を集めてゆく。「賊徒の一人も近づけるな。援軍が来るまでなんとしても持ち堪えよ」

 その縮小してゆく戦線に合わせるように、国粋派が押し込んでゆく。沿道とそこに立つ民家、そして一本、二本、隣の街道にまで人を潜ませ、細かな路地まで制圧し、外から来る王国兵の接近を許さない。

 この馬車にクラインが乗っていれば、彼らの計画は成功を収めていただろう。実際、護衛隊は次々に討ち取られ、国粋派の一人は馬車の扉に手をかけて開き、二、三人となく雪崩れ込んだ。

 しかし、ご察しの通り、この馬車にクラインはいない。

「逆賊覚悟」と一喝して馬車に乗り込んだ国粋派の者たちは愕然とした。事前情報と違うのだ。クラインが握らせた情報であるから、違うのは当然なのだが。

「罠だ」

 気づいた声が伝染してゆく。

「散れ。クラインの罠だ」

 すぐさま国粋派の徒党は四方に散ってゆく。太い街道の前後に逃げようとした者たちはその先で数百という王国軍に行く手を塞がれた。塞がれていながらも、怯むことなく向かってゆく。そこへ斬り込み、なんとか血路を開こうとした。

 対する王国軍は最前列がひざまずき、中段が中腰になり、上段が直立して、壁を形成している。その肩には晶銃が担われていた。いつか、ディクルベルクでリリアが買い入れたものだ。

「充分に引き付けろ」

 後方にいる騎馬の将校は落ち着いていう。

「奴らはすでに王国民にあらず。王家に牙剥く賊徒どもだ。一人も逃がさず、抹殺せよ」

 国粋派の、鬼気迫る白刃と形相が殺到してくる。

「撃て」

 一令とともに、引き金が引かれる。放たれた弾丸は賊徒の全身を叩き、骨を砕いて肉を抉り、路上に点々と血飛沫を散らした。

 この兵器に、死屍累々させるほどの殺傷能力はない。しかし、雨といえるほどの弾幕を受ければ、足は止まるし、急所に弾を受ける者もいるし、傷は絶えない。腕が垂れて、指が飛び、目が抉れ、耳が落ち、膝が折れる。

 さらに三段構えの隊列は前後でそっくり入れ替わり、

「撃て」

 二度目の号令に撃ち出された弾丸の群れが獲物の士気を挫いてゆく。

 一方、彼ら国粋派が制圧したと思い込んでいた細い路地も、実際は制圧させられていたのだ。いまは彼らを追い込む袋小路になっている。逃げるに狭く、どこをどう通ったところで王国兵に当たるよう、計算し尽くされているのだ。

 狭い路地である。人一人分、王国兵一人と国粋派一人が向き合えば余分なスペースはない。

 切り込んでくる賊徒に向かって、王国兵は晶銃の引き金を引いた。ごお、と音を立てて火焔が上がり、産まれた火だるまが一つ。

「ぎゃああ」

 国粋派の悲鳴が上がり、その地獄の様相に狼狽えた後方も数分後には衰えた火勢を見、同志だった消し炭を押し退けて切り込もうとする。が、王国兵の後方にも数十人と人がいて、次々に新しい晶銃を受け渡してゆく。彼ら、国粋派は再び炎の壁に行く手を遮られることになる。

 東西南北、どの方角にも逃げ道などなかった。


     〇


「すべて予定の通りだ」とクラインは椅子を回しながらいう。「議会の方は?」

「帝国との取り付けは大方出来上がっております」と、貴族風の男がいう。「殿下、アントワーヌの方はいかがなさいますか?」

「アントワーヌ?」と中空を見遣り、「ああ、あの小娘とその一味のことか」

 ふむ、と一考し、

「まだ使い様もあろう。留まらせておけ」

「城内に?」

「コルトに籠られるよりも、目に見えるところに据えておいた方がよかろう」

「よろしいのですか?」

「なにがだ?」

「彼らはエドワード帝を欺いてスレイエスも出し抜いた極北の雄でございます。放置しておいて害悪になりはしないかと」

「はは」とクラインは笑う。「心配性だな。あの小娘は無能ではないが、明晰というほどではないよ。放っておいて構わない」

「噂によりますと、その心臓は天ノ岐ユウという男だとか」

「あまのきゆう?」

「異邦者の青年、という話でございます。アントワーヌの者たちからは絶大な信頼を得ているようです」

「その男の方が気になるか」

「左様で」

「面白いな」と顎をつまみ、頷いた。「そうだな。その男のこと、調査してくれ」

「は」と、この従者は頭を垂れたまま、あとずさっていった。


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