第二巻 緑の丘陵編 三章 アントワーヌ領
三章 アントワーヌ領
少し前の話に戻る。
王国の北西、スレイエス国境よりやや南、北方に口を開けた湾の突き当りに、エルサドル、という港湾都市があった。
潮風に霞んだ青空と翡翠色の海洋、一年中吹き付ける温風に掃かれた爽やかな空気に象徴される町である。この日も白雲が薄く塗られた蒼天が広がって、沿岸には穏やかな波が幾度となく、繰り返し、繰り返し、打ち付けていた。
とある商家の老人は手ごねして、朝食の席についた。豊かな白髭を撫で、ふくよかな腹を擦っている。
「今日もいい天気だのう」
「お爺さま、朝からそんな厚いお肉を……」といい歳の娘がいい、
「それが元気の証拠なんだよ」と彼女の息子が笑っている。
「よくわかっておる。こういう食事を取れることが元気な証拠だよ」
「信じられませんわ」
「おまえは仕事には慣れたかい?」
「ええ」と孫息子が端正な顔を微笑ませ、「お爺さまのおかげで」
「あの、お爺さま」と孫娘の落ち着いた声が割り込み、「今度ホーランドさまのところへお伺いしたいのです」
「またあの魔女にたぶらかされて」
「お兄さまは黙ってて」と一蹴し、「手ぶらではなんですからなにかお土産を包もうと思いますの」
「献上品のためにおねだりかよ」
「お兄さまにはわからないのですわ。ホーランドさまはいい方よ」
「だいたいおまえは働きもしないで……」
「あら、お兄さまったら……」
二人はいい合いを始め、老人の次女と三女の夫婦が年端も行かぬ子供たちを連れてくると食堂の喧騒はいよいよ手がつけられなくなってくる。
世はすべからく平穏無事に過ぎている。
老人は厚いカリブの肉に立てた刃を引きながら、隣に侍る執事に目もやらずに訊いた。
「なにか、世間に変わったことはあったかな?」
は、と執事が頭を下げて、
「帝国の貴族が次々と失脚しているのは、やはり意図的なものだったようでございます。皇帝陛下が権力を中央に集めようとなさっておられるのでしょう」
「ふむふむ」と咀嚼するたびに、口の上下に蓄えた髭がひこひこと動く。
「まあ、野蛮」と孫娘が片手で口元を覆い、孫息子が鼻で笑う。
「皇帝陛下もお考えあってのことだろう」
「お兄さまは帝国派なの?」
「別にどっち派ってわけじゃ……」
「だいたい、お兄さまは……」
と、またしても口論が激化してゆく。
「アントワーヌが失脚したのも、その余波といったところか」
老人は気にしたふうもなく、執事と話を進めてゆく。
「そういうことでございましょう」
「しかし、アントワーヌも落ちたか」
食後のお茶を嗜みながら、視線は窓の外、白雲の霞む穏やかな空に向けて、一方、耳は喧騒に支配されている。
「コルト候が懇意にしておられたから、さぞ御心を痛めていらっしゃるだろうなあ。ご機嫌を窺っておきなさい」
「はい」
「穀物の相場は?」
「旦那様のお眼鏡の通り、上がっております」
「まあ、当然だろう。フローデン領は衰えたとはいえ帝国の穀物庫だ。異常があれば穀物の相場が荒れる」
「そろそろお売りに?」
「まだ上がるだろう。様子を見てろ」
「は、そのように」
「あとは……」
今朝届けられた手紙が卓上に運ばれてきた。眼前に山と積まれている。その山麓を、指先を舐めながら崩してゆく。一つ目、二つ目、と拾ったときに扉が激しく叩かれた。時を止めたように喧騒が止み、一同の視線はその音の発信源に注がれた。
執事がそっと扉を開く。と、一人の男が転がり込んできて、
「たた大変です、旦那さま」
「なにをバカな。慌てることなど世間に一つもありはしないよ」
「て、帝国の、アントワーヌの船が、入港を求めております」
「なんだとっ!」
老人は椅子から飛び上がるようにして立ち上り、大きなお腹を揺すりながら部屋を出ていった。
〇
「タッソー、ホーランド、ダンダロフ、カラヒナ、トゥイッスルトン。以上、五つの大商家がエルサドルにはあり、このいわゆる五家といわれる者たちが王国の商業を支配しているといって過言ではありません」
とタモンはいう。リリアは鏡の前で髪をとかし、身嗜みを整えながら聞いていた。隣にはジェシカもいて、耳を澄ませている。
「エルサドルに入港が許されれば、まずタッソーの当主が応接に出てくるでしょう。五家の中でも最も古く、エルサドル議会の議長を務めるのも彼でございます。王国の陶器を専売して巨富を築いた一族の者で、御年六十三。コルト候とも親交が深く、彼を通じて連絡を取ってもらうのが簡単かもしれませんな」
「それは向こうの好意に任せるものです。わたしの方からお頼み申し上げることではありません」
「これは、出過ぎたことを申し上げました」
「いいえ、タモンさんのくださる世事の話はためになります。これからもお力をお貸しくださいね」
「へへ」と頭を下げて、あとずさる。
こんこん、と叩かれた扉が開き、
「リリアさま、上陸の許可が出ましたわ」
「ありがとうございます、ハルさん」
リリアはスカートの幅広の裾をひらめかせ、頷いた。
「では、参りましょう」
〇
桟橋にもゆわれた船体からリリアは悠然と降りてゆく。
彼女を迎えたのは盛大な歓声だった。港湾を見渡す限りが人垣に溢れ、波止場の向こうにある倉庫の屋根にまで人がいて、手を振っている。その人壁を割って、忙しなく駆け寄ってくるふくよかな老人が一人いる。身嗜みも良く、立ち居振る舞いにも威厳があった。
彼が噂のタッソーか。老人はこねていた手をリリアに差し出した。
「リリア・アントワーヌさまとお見受けいたします。わたくし、このエルサドルの町を差配する者の一人、フィリップ・タッソーと申します」
「町の方の歓迎とご親切に感謝いたします。わたくしがリリア・アントワーヌでございます」
「御家の身に降りかかったご不幸、すでに町の者も存じております。ここまでの道中も幾多の危難があったことでございましょう。エルサドルはあなた方を歓迎いたします」
「ご厚意、感謝いたします。なにもお返しはできませんが」
「お気になさらず。バーナード閣下もさぞ御心を救われることでございましょう。僭越ながら、閣下の下へ、リリアさまのご無事を知らせる伝令を走らせております。よろしかったでしょうか?」
「タッソーさま、諸事のこと、ありがとうございます」
「わたくしも、ミリシアムさまとは懇意にさせていただいておる者でございます。少なからずお力になれて幸いでございますよ」
ほほ、と穏やかに笑う。
「返信がすぐに参りましょう。それまで、我が家にお越しくださいませ。わずかばかりでございますが、おもてなしの準備をさせております」
「なにからなにまで、感謝いたしますわ」
ジェシカとアインス、それから数人の護衛が従い、ハルやロックスは船に残って待機していた。まだエルサドルに上陸の許可が出ただけのことであり、王国への亡命のことは一切決まっていない。場合によってはすぐにでも船を出さなければいけなくなる。
ともかく、コルト領の領都コントゥーズへ行き、領主であるミリシアム・バーナード侯爵に会う。そして、アントワーヌの民を王国に受け入れさせなければならない。それがリリアの務めである。
リリア・アントワーヌと一行は、家の者たちに接待させている。
「コントゥーズからの返信はまだか?」
自室に入ったタッソーは執事に問うたが、首を横に振るばかりだった。
「いくらなんでも、まだございませんよ」
「果たして、どう動くか」
タッソーは、ど、と椅子に腰を落とし、しきりに髭を撫でていた。
「コルト候はアントワーヌを受け入れるだろう。しかし、クライン殿下はお喜びにはなられないはずだ。殿下は、いま、帝国との講和条約の締結を目指しておられるのだ。帝国からの流れ者など障害以外の何者でもなかろう」
「そうかもしれません」
「しかし」とタッソーはまだ髭を撫でている。「しかし、これは、絶好の好機かもしれん。アントワーヌは金になるかもしれん」
きわどい選択を要求されている。
眉間にしわを寄せ、まだまだ髭を撫でていた。
〇
エルサドルから東に三十キオメータほど行ったところに、コルト領の領都コントゥーズがある。穀倉地としては大陸でも指折り、果物の産地としては大陸随一といわれる食の都である。特に、フラドという房状に果実を実らせる果物の果汁を絞り、樽の中で発酵させた酒は紫苑の宝石ともいわれ、大陸中の美食家たちがこぞって買い求める一品であった。物によっては金貨数枚という価格で取引される。ちなみに、金貨一枚で、大の男百人を一月余り養えるというから、フラド酒の価値は推して知るべしである。
航海技術が発達して以降、外海からの波を避けられる大きな半島と深い海底を有したエルサドルが一大商業都市として発展したことが、ますます王国とコルトに富を授けた。レオーラを始めとした三つの大陸に囲われた通称内海と呼ばれているユーステア海を囲う国家の中で、王国は最古の歴史と文化を持ち、求心力は並みではなく、その玄関口となるエルサドルの繁栄は古今無双といわれ、人の往来の途切れることがない大都市となった。現在、王国の富の五割をコルト領が担っているともいわれている。
「五年前かしら、わたしがコントゥーズにいたのは」
リリアは考える目を馬車の屋根に注いだ。内張された緋毛氈のきれいな赤色がある。
「わたしはご一緒できませんでしたが」と、ジェシカが隣で肩をすくめている。
そのころ、病弱だったリリアは期限未定でコントゥーズに滞在していた。北風が彼女の体調に良くないということで、ディクルベルクに帰る予定もなかった。それが王国と帝国の関係悪化のため、帰国を余儀なくされた。それが五年前。それにジェシカは同行していないということだ。
「あのころのエルサドルも大きかったけれど、もっともっと大きくなっていたわね」
左手の窓は一面の川だ。その雄大なこと。地平線と重なるまで広がっており、日差しを浴びて白む水面は幾艘もの小舟を浮かべて、小舟の作る穏やかな波は岸辺の水草を撫でては返ってゆく。右手の窓は、と眺めれば、奥に風車の群れが立ち、手前には金色の稲穂がふさふさとしながら無邪気なほどに揺れていた。
ああ、あらゆる景色がきらめいて見える。道端に生える短草の一本さえ、ディクルベルクのそれよりよほど逞しく、青い。
「リリア」と声をかけられ、遠くに行っていた意識を引き戻した。
「リリア、思うことはありましょうが……」
「わかっています」
目尻に溜まっていた涙を拭い、姿勢を正したリリアは深い呼吸をした。心も表情も、落ち着きを取り戻してゆく。
「我々はこうして歓待を受けていますが、まだ亡命が決まったわけではありません」
エルサドルではタッソーの一族が総出で出迎え、お茶を共にし、コントゥーズから迎えに来た馬車はアントワーヌ邸のそれより一回りも大きく、緻密な装飾の施されたものであった。その馬車を守るコルト兵も前後に五十人は下らない。ディクルベルクであれば、国賓級の扱いである。
しかし、とジェシカは殺人鬼もかくやというほどの剣呑な視線を左右に送り、
「果たして、この護衛も護衛かどうか……」
この五十人に切先を向けられればひとたまりもない、ということだ。ジェシカ、とリリアは叱責の声を出す。
「そのようなこと、間違ってもいってはなりません」
リリアが、じっと彼女の茶色い瞳を見据えると、ジェシカは小さく頭を下げた。
「過ぎたことを申し上げました」
「コルト候はお父さまが信じて比する者なしと評したほどの方です。わたしもそう信じています」
からからと、車輪が回って石畳を叩く。
茅葺屋根の民家が徐々に減り、木組みの臥梁と白亜の外壁が美しい建屋が軒を連ねるようにして並び、その様子はディクルベルクを思い起こさせるが、窓の手すりに据えられた植木鉢の色鮮やかなことは極北の地では垣間見えなかった景色である。
隊列は、馬車の二台は通れる街道を占有して、その真ん中を行く。
「この辺りはあまり変わっていないわね」
リリアが窓から顔を出して周囲を窺うと、温かな風が頬を撫でた。街道に、二階や三階のバルコニーに、集まっていた群衆たちが手を振ってくれる。リリアも笑顔で振り返す。
街道の奥には噴水を備えた中央広場があり、さらに奥へ進むと、鉄柵に囲われた邸宅に突き当たる。
「これがバーナード邸……」
その壮観さに、ジェシカも言葉を失っている。
翡翠色の瓦屋根、レリーフを刻んだ白亜の外壁、破風を乗せた飛び出し窓が升目状に並び、三階もあろうかという建屋は両翼を広がげたようにして賓客を迎え入れる。広大な芝生を割るようにして建屋まで伸びる石畳は白々と輝くようで、また美しいのだ。吹き抜けるような青い空と霞む雲、緑の青さによく似合う、まさにこの大地を司る一族に相応しい館だった。
果たして、帝国内を探し回ったところで、これほど豪壮な館があるかどうか。
これが王国の富と文化、なによりも南方の気候が建てる建物か、とリリアは改めて思う。幼いころに比べて学をつけたリリアはこの差異を痛烈なほど感じて、また涙が込み上げてきたが、彼女の義務感が雫を流させない。
前庭の中を進んでほどなく、従者たちが車体を囲い込み、行進が止まった。
これからがわたしの戦いなのだ、とリリアは自分に言い聞かせた。泣いている場合ではない。
深く呼吸をして、内心を整えてから扉を開こうとした。が、先に外から開かれて、そこに待っていた大男にリリアは軽々抱え上げられてしまった。
「ひいい」とみっともない悲鳴を上げて、スカートの裾を押さえた。
「久しぶりだなあ、リリア」
「ミ、ミリシアムさまっ!」
「ミリシアムさまだなんて、他人行儀な。昔のように小父さまと呼んでくれていいのだよ」
「ととととにかく降ろしてくださいませ」
「あなた」と冷たい声が飛んでくる。「リリアちゃんももう立派な淑女です。そのように抱え上げるものではありません」
「ほお、そうだった、そうだった」
ゆっくりとリリアは石畳に降ろされる。まだ地に足がついていないような気分だ。
コルト候は撫でつけた灰色の髪を掻いて、
「いやあ、すまない。リリアの無事を聞いて、あまりにも浮かれてしまって」
「い、いえ、それはわたしも嬉しく思いますが」リリアは一度断って、そばにいた黒髪の女性の方を向く。「ソフィアさまも、ご機嫌麗しゅうございます」
「あら、やだ、リリアちゃんたら、そんな他人行儀な」と夫と同じことをいって一笑に伏し、「昔みたいに、ソフィアさんでいいのよ。お姉さまでもいいし」
「はあ」とリリアは嘆息とも、諦観ともつかない吐息を吐いた。
「皆、ご苦労であった。持ち場に戻ってくれ」と手を叩いただけで、ミリシアムはその場を解散させてしまった。二人に先導され、リリアは邸内の居間に入った。執務室でも、応接室でも、書斎でもなく、居間である。お茶が運ばれ、菓子も卓に並んだ。
「さあさあ、ゆっくりと休むといい。大変だっただろう」
「あ、あの……」
「夫はリリアちゃんが生きていると聞いて、ついさっきまで泣いていたのよ。落ち着かせるのが大変だったんだから」
「おいおい、それはいいっこなしだろ」
ははは、と愉快げに笑う。
「あ、あのっ!」とリリアは叫んだ。二人のきょとんとした視線に晒されてたじろいだものの、「わ、わたしは、ここに安穏としに来たわけではないのです。亡命の許可と配下の者たちの受け入れを要請しに来たのです。その承諾を得ない限り、わたしの心が休まることはありません」
二人は顔を見合わせ、涙を流した。
「こんなに立派になって……」
「あの、よく鼻水を垂らしていたリリアちゃんが……」
「むむむ昔のことはいわないでくださいっ!」
「しかしリリア」というミリシアムの顔は真摯なものだった。「君たちの受け入れはわたしの命に代えてでも陛下に承諾していただく。友人の遺子を見捨てておけないということもあるが、実際問題的にも、我々は君たちを受け入れなければならない。最近の、皇帝の暴挙には目に余るものがある。それを諭すためにも、君たちの受け入れは必要なことだ。ひいては大陸の安寧にも繋がると信じている。もし受け入れられないとすれば、帝国の台頭を許すことになるからね」
リリアは瞬きを繰り返す。
「あの、本当に?」
「わたしは冗談でこのような重大なことは口にしないよ」
「ミ、ミリシアムさま……」
「わたしのことは小父さまと呼びたまえ」
「小父さま、いったい、なんと感謝したらいいか」
「感謝してもらえるのは、わたしもありがたいが、いまもいったように、君たちを受け入れるのは、わたしの政治的な主義でもある。しかし、ここに残る以上、アントワーヌはこれから大きな政争に巻き込まれていくことになる。覚悟しなければならないよ。いいかね?」
「は、はい」
リリアは胸元を握りしめ、力の抜けた膝が折れてしまった。
個人的な理由ではなく、政治的な、国家としての姿勢でアントワーヌを受け入れてくれる、受け入れることに命を賭けるとコルト候がいう。
それを聞けばアントワーヌはほとんど安泰である。エルサドルでの歓待を思い出せば、コルト候の話すことも現実的なことと思えて、リリアはそういう姿勢の国家と侯爵と、国民に、感謝した。感謝しながら、緊張の糸の切れる音を聞いた。俯き閉じ合わせた瞳からは涙がこぼれ、止めどもなく頬を伝って流れ落ち、絨毯の毛を深く濡らした。
〇
リリアは王国との折衝のためにバーナード邸に残り、ジェシカもその従者として付き従っている。エルサドルの待機組にもエルサドル町内における自由な行動が許された。ほどなく、アントワーヌの亡命は王国議会から正式な認可が下り、続いて、彼らの滞留場所の議論となった。二百に及ぶ人間の住居と彼らの小作地を用意しなければならないのだ。後援者であるコルト候の差配地、コルト領内とだけが王国議会で決まっていて、あとの一切はコルト議会に預けられている。
「どこが良いと思う?」
コルト議会に召集されたのは、王国の土木事業を一手に引き受け、エルサドル五家にも数えられるダンダロフ家だった。
彼らは王国の地形地質のあらゆることに精通しており、コントゥーズの町やエルサドル、バーナード邸、シリエス王城の縄張りから建築までも手掛けている。当主のベイツ・ダンダロフは二十歳そこそこの、肩幅も胸板もある二枚目の、いかにも軽薄そうな伊達男であった。
このベイツ青年が壇上に立っている。
「コルトとエルサドルの中間、アタカ川の北岸がよろしいでしょう。ややスレイエス国境寄りのため、開発を控えておりましたが、アントワーヌ卿ならばよろしいかと。それくらい矢面に立たれた方が、世間は受け入れやすいかと存じます。土地は広く取れ、土壌は肥沃、千人ぶんの作物を作るのも容易です。コルトとも十キオほどしか離れておらず、バーナード閣下とアントワーヌ卿の意思疎通も容易でございましょう」
「さすがダンダロフ家」と議会は彼を褒め称えた。「それ以上の適地はあるまい」
議会は一決し、
「では、そのように、アントワーヌに伝えおこう」
と、コルト候ミリシアムも満足した。
しかし、物事には裏がある。
「これで良いか?」
自邸に戻ったベイツは椅子を傾けるようにして腰かけ、居並ぶ番頭の顔を眺め渡した。中でも初老の、細長い顔の男が一歩前に出て、恭しく頭を下げた。
「よろしいかと存じます。近く、アントワーヌは滅び、クライン殿下の御心もお安らぎになられるでしょう」
「うむ」とベイツは書類の山を蹴り飛ばし、執務机の上に足を乗っけた。「だが、アントワーヌの当主、リリア・アントワーヌは実に美しく優雅な女性と聞く。このまま、世間に埋もれさせてしまうのは惜しい気がする」
「彼女がすべてを失ってから、手に入れればいいだけのことにございます。若の美貌と富をもってすれば、断る女性もおりますまい」
「そうかなあ」と、ベイツは口元を緩めて、顎を撫でる。「まあ、おれもそう思うよ」
ベイツは背もたれを軋ませて、まぶたを閉じた。
淡々と時が過ぎるのを待っている。それだけで彼らの目的は達成される。
〇
エルサドルは町全体に歩道というのが極めて少なく、物流と移動のほとんどが水路に浮かぶ短艇によって行われていた。
「エルサドルに河口があるアタカ川はコントゥーズを経由して、王都プロキオンまで繋がっているのよ」とハルが指を左右にふりふりして、得意気にいう。「フォーラントも水路は多かったけれど、一個の町だけの水域だったからね。短艇の数も、水路の規模も、断然こっちが大きくって当たり前よ」
「ははあ、なるほどなあ」
ロックスは立ち並ぶ煉瓦作りの倉庫群を眺めながら感嘆を漏らしていた。
エルサドル湾は大陸南部から北西方向に伸びてくる半島に抱え込まれるように立地している。奥部はアタカ川河口がやや斜めになって接続し、辺り一帯に白っぽい土砂を供給しながら海底を削っていた。エルサドルの町は河口付近、特に北東岸が都市部であり、海浜部は東西の隔たりなく長々と船着き場があって、平行して倉庫が並び、湾内に向かって伸びる桟橋は数えるのも難しいほど数限りない。
生まれてこの方、内陸のディクルベルクしか知らないロックスには、見るものすべてが異様であった。広い海、その翡翠味を帯びた海面の色彩、行き交う船の数、人種の多様さ。道に隙間ないほどいて、避けるだけで辟易してしまう。こういう広い世界があったのか、と見回す視線が止まらず、今朝から肩をぶつけたのは一度や二度ではない。
「あんたねえ」とハルは呆れた声を出していた。「田舎者じゃないのよ。ディクルベルク出身っていったら結構な大都市なんだからね」
「大都市っていっても、こう、広い水辺はなかったからなあ。せいぜい川が一本流れてた程度のものさ。いやあ、世界って広いものだなあ」
「レオーラ大陸なんて小さなものよ。西にはコスヨテリ大陸もあって、南にはアナビア大陸があって、妖精族や巨人族が住んでいたりするわ」
「妖精族や巨人族ってのは、話には聞いたことがあるが」
彼にとってはおとぎ話や神話の類に近い。
「内陸都市のディクルベルクじゃ見かけなかったんでしょう。巨人族はともかく、妖精族はエルサドルにいれば大して珍しくもないはずよ」
ハルの、中空に向いた瞳は脳内地図を南方に下ってゆく。
「アナビア大陸を南に下ると中央大海。中央大海を渡ればカムルって大陸があって、西に回ると、オルドネラ海、その先には原始の大陸オルドネラがあるのよ」
「大陸ってのはそんなにあるのか?」
「もう一個あるらしいけれど、カムルの隣に。でも、カムルは鎖国しているって噂だし、その隣の大陸も、そうなんだって。まあ、中央大海は危険すぎて普通近づかないけど。オルドネラ海はもっとヤバいらしいわ」
「どういうふうにヤバいの?」
「島に上陸したと思ったら、海獣の背中だった、て話があるわ。尻尾の一振りで五隻の船が沈んだって話もあるし、一口で十隻呑み込まれたって話もあるし。オルドネラ海は一年中渦の巻いている海域があって、それに捕まって出てきた船はないのよ。カムル大陸周辺は雷が凄まじくって撃たれた船は数知れず。なかなか近づけないっていうわ」
「ウソじゃねえだろうな?」
「わたしが見たわけじゃないから、なんともいえないけど。確かめるために命を賭けるのもバカらしいでしょ? 内海の外には大きな経済圏がなくて、それほどの危険を冒して海を渡る旨味がないのよ」
「でも、外に行きたがる奴らがいるんだなあ」
「気の狂った変態だけよ」
でもまあ、そういう変態たちが色んな大陸や航路を発見しているわけだけど、とハルは話を締めくくった。
ロックスはジークベックに襲われたときのことを思い出して身を震わせている。あれよりよほど大きく凶暴な怪物たちが暗い海中をのたうち回っているのも想像し、全身を粟立てずにはいられなかった。
二人はいま、コルト候から拝領したアントワーヌの領地に家を建てるための資材を調達しに来ている。
「建材というと、石とか煉瓦とかあるけれど……」
「やはり木材だろう。加工も施工もおれたちにとっちゃお手の物だぜ」
「そうねえ、木材といえば、やっぱりウッドランド産かしら」
「バカいっちゃいけねえ。帝国産に決まってる、といいたいところだが、帝国産を買っちまうと、あいつらの金になっちまうからなあ」
「ならウッドランド産で決まりね」
材木問屋を訪ねると、
「ああ、あのアントワーヌさまでございますか」
店の親父は諸手を上げて歓迎していた。その声に人が集まってきて、握手まで求められる。
「帝国ではさぞ大変だったでしょう。なんでも、あの黒騎士を抑えて、帝国を脱し、まさか船を強奪して王国入りするとは、本当に素晴らしい。英雄的事業ですよ。そのアントワーヌと取引したとなればウチも鼻が高いですよ。今日は精一杯勉強いたしますので、なにとぞ、よろしくお願い申し上げます」
こういう噂が町の中で一般化しているようだ。アントワーヌの者、というだけで店主の、町民の受けが良く、様々のものが値引きされて、物によってはタダで手に入る。
「いやあ、気分のいい話ですよ」と店主はいう。「溜飲が下がるとは、このことですかね。帝国の奴らは最近調子に乗っていますから、なんていうと、帝国出身のアントワーヌさまはご気分を害されますかな。悪いのはエドワード帝ですなあ。一発、ガツンとやってやんなきゃいかんですよ。そこのところ、アントワーヌさまは勇ましいですねえ」
これも一般論らしい。民衆の間にはこういう気分が満ちているようだ。
「王国は貴族文化だからね」といったのはハルだ。「貴族には同情的だし、貴族的な行いをする人を尊敬もするし、エドワード帝みたいに弱者を鞭打つとか、権力を独占しようとしたりするのには批判的なのよ。ま、わたしもだけどね。エドワード帝はあんまり好きじゃないかな。いまはもうアントワーヌの一員だし」
ハルのいう、貴族的な行い、というのは颯爽としていて自己犠牲を躊躇わず、道義を通して、立ち塞がるものがいるのなら強者でも立ち向かい、弱者を助ける者のことをいう。レオーラで一般的にいう貴族思想というのは右のようなものである。以前も少し触れたが、王国から始まり、大陸全土を覆って、スレイエス人では精華すらされている思想だ。
「これで、ひとまずわたしの仕事は終わりね」
買い付けが終わってのち、ハルはいい、
「わたしはこのあと船に乗って交易に行くから。帰ってくる前に家を建てておきなさいよ」
「明日明後日に建つものじゃねえぜ」
いまは領地に布の幕舎を立てて借りの宿にしている。まだ船の中で生活している者もいる。
「わたしだって、明日明後日に帰ってくるものじゃないわよ」
「どれくらい留守にするんだ?」
「百日ちょっとくらい? 四か月くらいかしら。夏には帰ってくるわ」
「それだけありゃ、町になってらあ」
はは、とロックスは声を立てて笑った。
「大御殿を建てといてやるよ」
「ははー、建てられるものならね」
腹を叩きながら笑って、ハルは自らの言葉の通り、数日のうちにアントワーヌ船に荷物を積み込んでエルサドルを離れていった。船員はフォーラントから連れてきた商人仲間であり、積荷はコルトの穀物や酒類などの食材だった。コルト候がアントワーヌに輸送を依頼したのだ。
王国で農業は国有産業であり、農産物の売り手は国か、販売を委託された商家だ。その一つにアントワーヌも選ばれたということだ。王国の貿易商にしてみれば、新参者のアントワーヌに商売を横取りされた形になっているが、反発はまったくなかった。このことにも理由がある。だが、またのちに触れる。
「ユウさまによろしくいっておいて」
「ああ、いっておくぜ」
「愛してるって伝えておいて」
「自分でいえ」
ハルは大きく手を振って、エルサドル湾を出ていった。
〇
アントワーヌ領は、コントゥーズの町の西方を流れるアタカ川の対岸に設けられた。アタカ川はコントゥーズの北を抜けると南に大きく蛇行し、しばらく西走したのちに北上している。つまり、U字型に括れている。
「この蹄鉄型の中と北岸一帯を拝領させていただいたのです」
リリアはコントゥーズ西端の堤防に立って、新しい領地を見渡した。川辺に葦が茂る以外は、一面芝の美しい平坦地だった。遥か遠く、北上してきたアタカ川まで、この植生である。
近場に渡る橋がないため、小舟で渡河したリリアは土の上に立って、突如としてしゃがみ、地面の上を這い回り始めた。正装のままである。ジェシカは驚き、
「リリア、いったいなにを……」
「土壌を見ています」小さな土塊を拾い、その焦げ茶の塊を手のひらの上で転がし、指先でつまんでこねる。「こ、これほど肥沃な大地が、手つかずで余っているなんて……」
ディクルベルクの土には、この十分の一の養分も保水力もなかったのではないか。この差はなにか、と問われれば、気温と豊かな水分であるとしかいえないし、わかっているが、全身を駆け巡って迸る口惜しさに、リリアは歯軋りして黒土をつかんだ。
ディクルベルクの民が総出で手に入れようとしたものが、ここには自然にあり、それも余っている。あまりにバカらしくなって、泣けてくる。実際、リリアはうずくまって泣いていた。
「だ、大丈夫ですか、リリア?」となにも察していないらしいジェシカが背中を擦る。「最近、慌ただしかったですからね」と見当違いの慰みをいっている。
「ジェシカももう少し勉強した方がいいです」
「え? なにをです? なんでです?」
「そういうことを聞かなくていいように勉強するのです」
なんだか気分が冷めてしまった。これからはこの土地を開拓していかなければならない、とひどく現実的なことに思い至ると、涙も乾く。
地面の振動に蹄の音を感じ、リリアは立ち上がった。衣服についた土を払い、威儀を正す。北の方へ検分に行っていたアインスやロックスたちが戻ってきたのだ。
「リリアさま、縄張りの確認を行ってきました」
「すげえぜ、これだけ地面が肥えてればなにもしなくても種だけ蒔けば麦が取れる」
「こんな土地をもらってくるなんて、さすがリリアさまだ」
と一同が湧く。
「この辺りはスレイエス国境に近いために手つかずになっていたんだ」とジェシカが気を引き締めさせる。「決して安穏な土地ではない。我々はスレイエスに対する盾となる。有事とあれば先陣を切って戦わなければならないのだ。そのことを忘れるな」
確かに、アントワーヌ領以北には、砦群と小さな集落と家畜が跋扈する丘陵地が漠然と広がっているだけだった。都市や経済というのとは無縁である。
「ジェシカのいう通りです」とリリアも一同を見渡し、強い光を宿した瞳を一つ一つ見つめ返して訓示する。「コルト候が我々を受け入れてくださったのは単なる好意だけではありません。政治的意図あってのことです。わたしたちがその意図に答え続けている限り、彼らはわたしたちの味方になってくださいます。わたしはそう信じています。ここにいる一人一人まで、元騎士階級や農家、商家など出自を問わず、皆がアントワーヌの者です。そのことを心に留めて決して恥のないよう、身を慎み、正義を為してください。わたしは皆さんを信じます」
その言葉に涙する者もあり、膝から崩れ落ちる者もあり、ロックスも両手で顔を覆ってむせび泣いていた。
「ぜ、絶対に、絶対に、この戦いに勝って、おれたちはディクルベルクに帰るんだ。おれたちの土地を取り戻そうぜ」
ロックスの嗚咽混じりの声に叫声が重なり、新たなる『アントワーヌ』の幕が開けた。
〇
ウッドランド共和国は、レオーラ大陸南東にある。かつてユウと同じ世界から来たらしい人物が、樹木の国と呼び、ウッドランドとなったらしい。この世界にはそういう地名が多くある。帝都アルデバランもそうだし、シリエス王国もその純白の石材建築物の多さから白色矮星のシリウスから拝借したものだという。
それはともかく、ウッドランドはシリエス王国から三千キオあまりも離れている。とても遠い。しかし、地中海気候に近い乾燥地の王国は森林が極めて少ない。そのためウッドランドの質のいい木材を欲し、それを海運によって大量に仕入れている。自然、それらの資材は王国最大の港湾であるエルサドルに集積されて、、アタカ川を登り、コントゥーズ、さらには王都まで運搬される。下流から上流へ、運搬船は流れに逆らって進まなければならないわけだが、大概海から強い西風が吹いているため、帆をいっぱいに張れば王都辺りまでは行ける。一般的に、偏西風と呼ばれる風だ。
エルサドルとコントゥーズの中間地点にあるアントワーヌ領にはアタカ川を通して、続々と木材が持ち込まれている。その資金はバーナード邸の私産とコルト領の資本からも出ている。要するに王国民の税金だ。それでも四方が許容しているのは、アントワーヌの人気であり、彼らのした英雄的事業への尊敬であり、現実的にはスレイエスと衝突した際、先鋒とするためだ。
アントワーヌはそのときの力を徐々につけようとしている。
「それはあっちで、それはそっちだ」
ロックスがあちこちを指さしつつ、木材の差配をしている。
「杭を持ってこい。ここに一本刺しとけ」
綱を回して測量を行い、杭を打って目印にし、砂利を敷き詰めて基礎を作っている。
「こちらは順調のようですね」
「おお、リリア嬢よ」とロックスは両手を開いて迎えてくれる。「順調も順調。資材は全部ハルが手配していってくれたからなあ。あとは慣れたもんよ」
「畑の方は?」
「そっちも順調だぜ。草は馬の飼料にしてるし、糞は肥料になるし、土中はしっかり根に耕されてるから、保水も通気も完璧だ。おれたちのやることといったら区画の整備と種蒔きくらいのもんよ」
「春小麦ですね」
この辺りでは普通、冬小麦を育てる。新生アントワーヌ領も冬小麦が育ち、その方が生産量は多いはずだが、彼らはできるだけ早く食料自給率を上げるために、王国内に来てなお春小麦を蒔いている。
「播種はもう少し先ですね。充分に馬に草を食ませてからでしょう」
ディクルベルク以来の馬たちは、船に詰め込む時間のない都合、スレイエスに乗り捨ててきていた。後日、スレイエス商人たちによって商品として運ばれてきて、いまはこのだたっ広い草原地に厩舎もなく放牧されている。さらにいうと、新しく買い付けられて、数も増やしている。彼らの蹄と草を食む唇によって土は穏やかに耕される。そして、草が食べ尽くされたところに種を蒔く。そうすることで、柔らかな団粒構造を維持した土に播種できるということだ。重機や耕作具を乱用すると、この団粒が破壊されるという。リリアはそれを嫌って、家畜による自然耕起ともいえる手段を取っている。
「小麦を終えたら他にも種々の種を蒔く準備をしておいてください。単一栽培では土中の栄養価が偏りますから」
「他にもといわれても、どの辺りがいい?」
そうですねえ、とリリアは細い指先で顎を撫で、
「豆類、葉物野菜、根菜、多年草、こちらで目ぼしいものをいくつか挙げておきます。いつでも調達できるようにしておいてください。それと、家畜の種類も増やさなければいけません。馬糞だけでは、これも栄養価が偏ります」
基本的に大型の哺乳類の糞は炭素量が多く、鳥類の糞などはリンや窒素が多いという。これら栄養素のバランスを維持するのが土中環境の維持に繋がる。この星が何十億年と続けていた自然の循環だ。
「おお、任せておけ」とロックスが胸を張る。「それくらいは楽なもんよ」
「しかし、驚くほど順調ですねえ」
リリアは感嘆している。ディクルベルク脱走以来の苦労が嘘のように順調である。
「アントワーヌの未来は順風満帆だぜ」
「嬉しい限りです」とリリアは顔をほころばせた。「ロックスさんにすべてをお任せして申し訳ありませんが、わたしはそろそろバーナード邸に戻らなくては」
「おれの苦労なんて、リリア嬢のそれに比べたら屁みたいなもんだぜ。気にしなくていいから、さっさと行きな」
手を振ってリリアを追い払うように、ロックスは仕事に戻っていった。実のところ、ジェシカとロックスで密談があり、リリアに耕作は手伝わせないようにすることになっている。いまのアントワーヌ領では力仕事しかなく、肉体的に貧弱なリリアは足手まといでしかなかった。怪我をされても困る、とジェシカが血相を変えて話していたのは、ロックスしか知らない。なにごとにも出しゃばりがちなリリアを黙らせるための策として、ジェシカも一計を案じた。というよりも、元々、ユウの計画していたことを引き継いだに過ぎないが、
「アントワーヌ領で、診療所を開設してはいかがでしょう?」
と薦めたのだ。まだ海の上にいたころのことである。リリアはすぐに乗り気になった。
「とても素晴らしいことだと思います。せっかくフラン先生が色々な技術をご教授くださったのです。使わない手はありません。ユウさんも、知っているだけの、実用されない知識は無駄で愚だとおっしゃってました」
「なんのお話?」と、そのころまだ同行していたハルが興味を持って聞き耳を立てていた。事情を聴いて、にんまりと笑み、
「リリアさま、コルト候と親しいのでしたわね」
「ええ、そうですね」
「では、まずはバーナード邸の方々の診療をするのがよろしいかと存じますわ」
「なぜです?」
「貴族って出しゃばらないものです。出しゃばれば嫌味に見えますわ。まずは何気ない仕草で、人の病状を診てあげて、治療を施して差し上げるのです。身体を痛めている人の一人や二人、当然いるでしょう。何十人と従者を抱えている家ですもの。コルト候ご自身、お若くはありませんし。リリアさまの腕が良ければ必ず噂が広まりますわ。もし、亡命が決まれば、リリアさまは話題の人になりますもの。皆さん、興味津々になって亡者のように情報を欲します」
「それで?」
「いずれどこかの貴族もやってくるでしょう。当然、診て差し上げます。それが効き目を現わせば、噂が噂を呼んでまた別の方が来て、と連鎖的に繁盛するわけです」
「そううまく行くかしら?」
「リリアさまに実力があれば」
む、とした顔をするリリア。
「フラン先生から授かった術を用いれば、ディクルベルクでも一の外科医になれます、わたしは」
「であれば、間違いなく人が来ますわ。そのうち、診療所を開いてはどうか、と薦められると思います。薦められなくても、診療所を開きたいことを匂わせればこぞって賛同するでしょう。そうしてから診療所を開くものです。他所から来た人間が突如診療所を開いたところで、地元の医者に反発されて、市民にはがめつい奴と思われるのがオチですわ。オススメいたしかねます」
「なるほど」
「商売、というのはいかに人に好かれるか、というところに気を配るものです。お気をつけあそばせ」
そういうものかもしれぬ、とリリアは思い、忠告通りに事を進めた。すると、ハルのいった通りに人が人を呼び、今日は、とある貴族と診療の約束があって、リリアはバーナード邸に戻らなければならない。
ハルには商才があるのかもしれぬ、とリリアは改めて思い、彼女を引き抜いたユウの慧眼にも感心するのであった。ジェシカも事が順調に進んでいて胸を撫で下ろしている。
もう一つ、ハルがいっていた。
「そばには募金箱を置いておくのがよろしいでしょう。きっと結構貯まると思いますの。寄付だと後々までこちらの重荷になりますが、匿名の募金なら後腐れがありませんわ」
試しに置いた募金箱は、このずいぶんあとに回収されて、実際、一財産築くほどの収益があった。
〇
まだリリアがバーナード邸に入ったばかりのころのことである。
リリアはタモンを呼んだ。
「タモンさんにはここまでの道案内、本当に感謝しております」
「ありがたきお言葉でございます」とタモンはいつもの笑みで手をこねている。
「ここまで、ご苦労を掛けてまた一つ苦労をかけるのは心苦しいのですけれど、お願いしたいことがあります」
「なんなりと、お申し付けくださいませ」
「そういっていただけると、わたしもありがたいです」とリリアはまだ逡巡を見せて、「ユウさんのことです」
「スレイエスに渡って、旦那のお力になれと仰せなのでございますね」
「ええ。その通りです」とリリアは頷き、「大変な任務になると思われますが、引き受けてくださいますか?」
「実のところ、そのお言葉をお待ちしておりました。あっしの仕事はここにはあまりなさそうなので、旦那のところへ行った方が適材適所でございましょう」
「申し訳ありません。このような危険なことを」
「そのお言葉だけで結構でございます」
ではこれにて、といったのを最後に姿を消したタモンから、しばらくして連絡が来た。知らぬ男がふとアントワーヌ領を訪れて手紙を置いていったらしい、と、バーナード邸に届けに来たロックス自身、又聞きのようだった。
内容はこうだ。
「スレイエス北部の元帝国貴族勢が行動を始めたようである。この時期であるからおそらく天ノ岐ユウ殿の関わることでしょう」
こうなることは覚悟していたが、備えはしていなかった。突然のことに、リリアは慌てふためいた。
「どどどどうしましょう、そうです、ロックスさん、すぐに人を集めてください。北へ向かいます。馬の準備は万端でしょうか?」
「おうよ。数は揃ってるぜ」
「しかし、リリア」とジェシカが難しい顔をして、「勝手にスレイエスに進軍しては角が立ちます。まずはコルト候にお伺いするのが筋でしょう」
「そ、そうね。そうしましょう」
ワタワタとしながらコルト候の執務室に転がり込んだ。
「リリア。それは難しいよ」とミリシアムは羽根ペンを振りながらいった。「スレイエスが王国に侵入するというのなら王国軍は動くが、スレイエス国内のゴタゴタに口を出すわけにはいかないよ」
「でも、王国に亡命を求めている方々です。お見捨てになるとおっしゃるのですか?」
「それが王国の国境線そばにいる、というのなら、話をするし、場合によっては守りもするが、まだ他国の遠い場所のことだ。我々に打つ手はない」
「なら、国境線まで来れば受け入れてくださるのですか?」
「それも王国議会に掛け合わなければならないが、まあ、ずいぶん前から問題にはなっていたんだよ、元帝国貴族の話は」
いいながらミリシアムは人を呼び、馬の準備をさせる。
「王国は帝国からの亡命者をどれくらい受け入れるのか、ということだ。スレイエスの北方に元帝国貴族の方々がいるのはわかっていたし、議会としても彼らが無事国境まで来るのなら受け入れるのもやぶさかでないという人は大勢いるし、それをアントワーヌが引き取って統率してくれるなら話も簡単になる。しかし、スレイエス国内には絶対に手出しはできない。わかるね?」
「それはわかりますが」
「これから王都に伝令を送ろう。議会も考えるはずだ」
コルト候のいう通り、すぐさま王国議会が開かれ、たった半日足らずのうちに結論が出た。
「このことに関して、王国は国境を越えての手出しを一切しない。ただし、亡命者が王国国境を越えたのなら受け入れる。国境警備は厳とせよ」
それによって、国境線へ王都の兵が派遣され、数を増やすことになった。リリアはそれに先駆けて、王都北部、スレイエスとの係争地、ウラカ台地上にある小さな城塞、エストン砦に身を寄せた。タモンから逐次送られてくる情報によると、ユウたちはスレイエスのガーダ砦をかすめるようにして越境を試みるという。ここ、エストン砦がユウたちの予想越境地点の最寄の砦だった。もちろん、ジェシカやロックス、ディクルベルクからの戦士たちも同行している。
リリアは、その司令部である石造りの天守塔まで登ることは許されなかったが、一個の見張り塔を借りている。遥か向こう、スレイエス国境と思われる丘陵群の木柵まで見通せる高さがあった。
「なんとかして、ユウさんをお助けする方法はないものかしら」
うねる緑の丘陵群を眺めながら、リリアは爪を噛んでいた。は、として、その親指を口から離す。
「リリア、ここから一歩でも前に出ては国際問題ですよ」
見張り塔の下で、戦闘準備を整えているアントワーヌ隊の中にはリリアと同様の焦燥があった。淡い、苛つきの空気がある。
「おい、リリア嬢、どうにかならねえのかよ?」
ロックスが扉を蹴破るようにして闖入してきて吠えるようにいう。
「どうにもなりません。ここから一歩も先に行ってなりません。皆さんにそのようにお伝えください」
ジェシカに何度となく咎められた言葉を、人に対しては使って、自制を心がけた。自分の動揺を部下に悟られてはならないのだ。それが貴族の嗜みである。
リリアは一人で双眼鏡を覗き続けている。わずかの変化でもあれば、それを捉えて契機としたい。必ず戦乱の鼻緒を捉えて事態を自分たちの手の内に引き寄せたい。
一週間や十日も先になるのではないかとも思われたその機会がやってきたのは二日後のことである。
正午より少し前。
スレイエス国境付近、ここより北東の方角に激しい砂埃が立ち始めたのである。
「あれです」とリリアは飛び上がった。「戦闘が始まっています」
「なにかの軍事演習かもしれません」
「ジェシカは悠長なことを」
リリアは転がるように見張り塔を降り、王国軍に掛け合った。
「アントワーヌ卿」と彼らはいう。「例え、スレイエス国境が慌ただしくとも、それは他国のことであって、我々が手を出すことではありません。事実、王都からは、砦の防衛線より一歩も前に出るな、との指示が来ています」
「わたしたちだけでも、前に出ることはできませんか?」
「なりません。アントワーヌは王国に亡命した以上、王国の法に従ってもらわなければなりません」
「くうう」とリリアは歯噛みして見張り塔に戻った。戦場を窺い、その激しさを見、地団太を踏んでいる。
「あれは、間違いなく、元帝国貴族といわれる方々です。ユウさんが一緒にいるはずです」
ユウは彼らを煽動するといってスレイエスに残り、実際、彼らが王国国境に寄せているのだから、その一団の中にユウがいるのは自明の理である。
「はあああ、やっぱりわたしもあっちに残るんだった」
「わたしたちが王国にいなければ、彼らを受け入れる土台を築けませんでした」
「受け入れる前に消滅してはどうにもなりません」
双眼鏡を床に投げつけるほどの恐慌をきたし、頭を掻きむしる。
「リリア、落ち着いてください」
「わたしには落ち着いているジェシカの方が信じられません。ユウさんがどうなってもいいと思っているんですか?」
軽い笑声が喉を震わせ、
「そうですよね、仲良くありませんでしたものね」
突如、胸倉をつかまれたリリアはぎょっとした。
ジェシカの激しい眼光に刺され、冷や汗が噴き出してくる。投げ出されるようにして解放されたのは幾ばくも経たないのちのことであったが、まだ胸の動悸が収まらない。収まらないまま、身嗜みを整えている。
「不遜な真似を致しました」とジェシカは平静に戻って、片膝をついた。
「い、いえ、こちらこそ、言葉が過ぎたわ」
「ユウはユウの務めを果たしているはずです。わたしたちはわたしたちの務めを果たすべきです」
これが軍人として育てられてきた者との違いか、とリリアは痛感した。ジェシカは凛として、戦場を冷徹なまでの目で見、狼狽えることもない。考えてみれば、ユウとはずっと一緒にいて、アントワーヌの野戦では二人で作戦を立てることは少なくなかった。浅い関係であるはずがない。
「ごめんなさい」とリリアは項垂れている。「なんといったらいいか……」
「リリアが頭を下げる必要はございません。むしろ、わたしの無礼の方が」
「それこそ気にしなくていいわ。ジェシカの献身には感謝します」
スレイエス国境に、橙色の光弾が打ち上がった。なにかの合図だろう。丘陵上の防御陣地を割って、係争地帯に駆け込んでくる人の群れがある。スレイエス国境を越えたのだ。
「来ます、ジェシカ」
「まだ出られません。彼らは係争地上にいます」
ぐ、とリリアは下唇を噛んでいる。
まだ堪えなくてはならないのか。
波打つ丘陵地の影に隠れては現れを繰り返す一団、その後方から、スレイエスの旗をはためかせて接近する馬群がある。猛烈な勢いで追撃をかけ、いまにも獲物を捉え、粉砕しようとしている騎馬隊の影がある。
元帝国貴族勢はそれほどの猶予もなく、追撃部隊に追いつかれて壊滅する。
火を見るより明らかであった。
「リリア、もう一度王国軍と掛け合ってみましょう」
「ええ」と頷いたリリアが王国軍から得た回答は取り付く島もなかった。
「我々はこの砦のある丘陵上から北へ、一歩も下ることはできないのです。おわかりください」
「ですが、わたしたちの仲間が窮地に追いやられているのです」
「それとこれとは、話が別だと、ご理解ください。アントワーヌ卿も人の上に立つご身分であるなら」
懇切丁寧に説諭してくれる王国軍司令の側にも立場があり、命令を遵守するのが務めである。彼は彼の務めを為している。ただ、立場が異なるだけだ。
「ですが……」と口走ったリリアは続ける言葉がなく、涙が目尻に溜まってゆく。
誰もが最善を尽くしていて、その限界の上に立っている。それはわかる。まだ堪えることが務めであるのかもしれない。それが自分の務めなのかもしれない。
リリアはまぶたを閉じて、涙が流れるのを懸命に堪えていた。
「伝令であります」
粛然と現れた一人の騎士が野太い声で言い放った。三十絡みだろうか、全身から放たれる野性味を辛うじて文明が研ぎ澄ませてくれたような男だ。リリアの頭には覚えがなく、ウラカ城塞に配置されている人物でもない。
「王国議会の決定です。王国第三師団所属第一及び二旅団は、ウラカ台地にスレイエス軍が侵入した際、これを速やかに撃滅せよとのこと。必要とあれば、砦に追加配備された人員限り、動員を認める。これがその命令書でございます」
司令官は命令書を受け取って目を通し、リリアに頷いた。
「お気をつけて。ご武運をお祈りします」
「はい」とリリアは返して、部屋を出、指令を届けてくれた男と足早に戦場を目指す。伸長差が頭いくつぶんとかではなく、彼の足もとに立つと、その顔を見るのにリリアの背が軋むほどのけ反らなければならない。「いったいなにがあったのです?」
「ご説明はのちほど。お仲間のお命がかかっているのでありましょう?」
「そうですね」とリリアは頷いた。「ではまたのちほど。お礼を申し上げます」
陣地に戻るなり、リリアは馬に飛び乗り、「みなさん」と一声上げた。
「出撃の許可が下りました。ウラカ台地内のスレイエス軍を撃滅します」
鬨の声が天を圧し、一塊の騎馬隊がエルトン砦の北面、急傾斜を切り崩した狭隘ロを駆け下ってゆく。
「やるぜ、おまえたち、大将の命がかかってるぞ」
ロックスとその部下たちは雄叫びの量も凄まじく、馬蹄の音を響かせて快速を見せる。それを先発隊にして、ジェシカと元ディクルベルク兵の一団がリリアを囲むように北上してゆく。
ほどなく、後方に王国旗を掲げた馬群が現れた。相対速度がアントワーヌより圧倒的に早く、みるみる距離を詰められる。元農民勢を先頭にするアントワーヌより手練れが揃っているのだろう。
「あれは?」とジェシカが首を傾げる。
「王国第三師団の方々でしょう。本来、彼らにスレイエス軍撃滅指令が下ったようです」
「我々が先鋒を切っていいので?」
「良さそうな雰囲気でしたけれど」ちら、とリリアは後方を振り返る。「あとでお話を通しておきましょう」
リリアは前に向き直り、激しく手綱を繰った。
「いまは駆けることです」
馬腹を蹴り、豊かな芝を踏み砕く。
そして、前章の終局に繋がってゆく。
〇
王国第三師団の団長は、無精ひげの目立つ壮年の男で、ユウよりも一回り大きな体は生気を持て余しているような迫力があった。
「アドリアナ殿下が王国議会に掛け合ったのです。ウラカ台地は王国、スレイエスともに不可侵の地であり、スレイエス勢がその了解を破るものなら撃破して然るべきであると。王国議会は賛成多数で、我らを急派したのです」
「アドリアナ殿下、ですか」
「国王陛下のご息女にして、第二王位継承権をお持ちになられるお方でございます。アドリアナ殿下は陛下の御意思を色濃く継承された方で、王国の民意と精神を体現してもおられます。このたびのこと、スレイエスの勝手を許しては王国の威信に関わるとお考えになられたのです」
「なるほど」とユウは相槌を打つ。国家の利益は権威の上に成り立ち、権威を成り立たせるには舐められないこと、ハッタリをかますことだと、ユウは心得ている。今回の件は、そういうことだ。
「リリアさまにいずれお会いしたいともおっしゃっていました」
「わたしに? アドリアナさまが?」
リリアは不思議そうな顔をする。おそらく、いずれ来る帝国との戦いに備えて、アントワーヌとは親密になりたいのだろう。世論を味方につけて、勢力を大きくする。大きく見えるだけでもいい。クマなどと一緒だ。
「ですが、殿下も忙しく、アントワーヌ卿も同様のようで。また追ってご連絡差し上げることがあるかもしれません。その折は、なにとぞよろしくと」
「こちらこそ、よろしく申し上げてくださいませ。それと、このたびのこと、お礼の申し上げようもございませんと、お伝えください」
「かしこまりました」
では、と颯爽と去ってゆくその将校と、王国の兵の統率力の高さにユウは目を引かれた。よどみない隊列、一挙手一投足の連動、馬の蹄の回転まで重なって見える。王国兵は大陸の宗主国というのに恥じない質の兵を持っているのかもしれない。白銀に輝く、騎馬隊の様子を眺めながらしみじみと感じていた。
いつか、自分は彼らとともに帝国と戦うのだろうか、それとも……。
「旦那」とタモンに声をかけられて、ユウは感慨から脱した。
「いかがなさいました?」
「思えば、遠くまで来たもんだってえところさ」
「そうですのう、帝都から中央荒野を駆け抜け、帝国の追撃を振り切って南下、スレイエスでは船舶を強奪したにもかかわらず、陸路でスレイエスの防御線を突破。ほとんど人のやることではございません」
ひょひょ、とタモンは笑う。
「やはり、あっしの目は正しかったようでございます」
「別に、おまえを楽しませるためにやってるわけじゃない」
そういう会話があったのも数日前のこと。
二人は巨大なアーチ構造の天辺にいる。
コントゥーズの東端にある、アタカ川渡河用の大アーチ橋、通称、コントゥーズ大橋の上だ。
タモンだけが同行している。
アントワーヌ隊は何日も前に領地へ引き上げており、入国手続きの済んでいないユウとエイムズ隊はエルトン砦に留め置かれ、つい数アウル前にようやく王国内での行動の自由が約束されたのである。
いまやかつての戦場は遥か北に。眺めても眺めきれないほどの遠くにあるが、足下のアタカ川北岸には、エイムズ率いる元帝国貴族たちが、長い騎馬の隊列を西へ、西へ、と歩かせていた。よくもここまで来たものだ、と思わずにはいられない。
この橋が使えない。そのため、コントゥーズには向かわなかった。二つの橋脚の間にある可動式の橋桁が立ち上がっているのだ。
「兵員輸送のためのものでございます。平時は閉鎖されております。普通、渡河には小舟を用います。そもそも、北に用事のある者など極めて少なく、その船の数も多くはありませんがの」
「しかし、船はよく通っていく」
十数メータ、目も眩むくらい低いところに川面がある。その鏡面のような水面を西からは帆を一杯に膨らませた船が、東からは帆を畳んだ船が、どちらもゆらゆらと穏やかに来る。
「彼らは?」
「エルサドルからコントゥーズを経由して王都プロキオンへ向かう輸送船でございます。そこらの渡し船ではございませんよ」
「ははあ、なるほどねえ」とユウは川面を覗き込む。
両端の橋台は高台の上にあり、多少の船が通れる高さを確保するとともに、防御拠点としても効果を発揮するのだろう。
「しかし、コントゥーズ大橋っていったっけ。よくもまあ、こんなもの作ったなあ。帝都にも驚いたが、王国の建築技術にも驚かされる」
エジプトのピラミッドもそうだが、中国の万里の長城、ローマの水道橋や、日本では大阪城だって、すべて人力で出来上がっている。これだけをとっても、古代からの脈々と受け継がれる建築の技術と不可能を可能にしようとしてきた人類の挑戦の歴史に感動せずにはいられない。それはアステリアに渡ってからも変わることはなかった。
「挑戦する者の美しさよ」とユウは賛辞を惜しまなかった。
「王国の建築はここもそうですが、多くはダンダロフ工房が請け負っております」
「そのダンダロフ工房」とユウは欄干に背中を預けながら、視線は遠くなったエイムズ隊にやったまま、「コルトの議会に立ってアントワーヌに良質の土地を紹介したという話だな」
「ええ。領地の経営は順調に進んでおるようでございます。ハル殿がお戻りになられれば収入も得られ、もっと大きな事業を手掛けることもできましょう」
「ならいいけれど」
おもむろに手すりから離れたユウは、単眼鏡を取り出して、遥か十数キオメータ西方の大地を見遣った。川の突き当りに平地があって、人家の影も薄っすらと窺える。
「あれがアントワーヌ領か」
「左様でございます」
「ここの橋は北に兵を送るために建てられたものだな」
「それもその通りで。このアタカ川を水濠とするため、この辺りの橋はこれ一本しかないとか」
その防備のために高台の上に橋桁があり、その橋桁も可動式にされ、鉄壁の防壁となっている。
「事実かな?」と単眼鏡を外したユウは首を傾げた。
「なにか含みがあるとお思いで?」
「この辺りの歴史を調べよう」
「歴史、でございますか?」と今度はタモンが首を傾げる番だった。「次は考古学にお目覚めで?」
「そうじゃない。ここ二、三年とか、十年とか二十年とか、とりあえず、喫緊のことだ。適当に情報が集まったら教えてくれ」
「なにをお考えなのやら」
ひょひょ、とまた奇妙な笑い声をあげている。
〇
「どうですか」とリリアは鼻息も荒くいう。「わたしたちだって、ユウさんがいなくてもこれくらいのことはできるんです」
むん、と音を立てるほど、胸を張っていた。
「ああ、えらいえらい」とユウが頭を撫でると、リリアはむっとしたような顔を赤くして、口元を震わせ、
「こここここ子供扱いしないでください」
「リリアちゃんは大人だなあ」
「それを子供扱いっていうんです」両手を振り回し、「ユウさんのバカ」
しかし、ユウの下から離れようとせず、また方々の案内を続けていた。
「あちらが畑地で、あちらが住宅地。じきに商店も作ろうと思っているんです。ハルさんが航海から戻ってきてからご相談して」
「いいと思うよ」
区画割に出す口はない。が、ユウはその夜、アインス、ツィバイ、ドライの三人を自らの幕舎に呼んだ。タモンからの報告が早々に上がってきたためだ。
カリブの白い脂に刺したこゆりに灯る炎が仄暗く幕内を照らし、四人の影を幽玄に浮かび上がらせた。
「旦那がなにを求めていらっしゃったのか、すぐにわかりました」
「やはりか」
ユウは立てた木板に王国の地図、隣にレオーラ大陸全図を張り出した。その前を右に、左に、歩き回りながら喋っている。
「陸地、というのは、構成過程でいくつかの種類に分かれる。準平野、構造平野、付加帯、洪積台地、沖積台地、河岸段丘、氾濫原、三角州。人々はこういう地形を耕して住居群を作っている」
とんとん、と差し棒で帝国の中央付近を叩いた。
「この辺りはとてもかたい地盤が剥き出しになっていて、土壌というものがなかった。風と地面の凍結融解によって流出してしまったのだろう。こういう古い地盤が剥き出しになったところを準平原という」
地球でいうと、先カンブリア時代の地層が露出しているのだという。地層は先カンブリア時代とそれ以降で大きく分かれるらしい。先カンブリア時代以前の生物は、かたい骨格を持たず、軟体動物が多く、あまり化石として残らない。が、先カンブリア時代以降はかたい殻を持った生物が発生し、それが多勢を占めて現在に至る。準平野というのは、そういう古代の地層が露出した地層だ。
「構造平野というのは、一度地表が海底に沈下して、再び浮き上がってきた地層をいう。こういうところは川からの土砂、海洋生物の死骸、火山灰など、様々なものが積もって厚い地層を形成している。海上に上がるときに歪んだり、傾斜したりして、丘陵地を作ったりもする。おそらく、スレイエスから王国辺りはほとんどこの構造平野だろう。帝国東部の辺りもそうかもしれない。次いで、付加帯。これは海から押し寄せてきた海洋プレートが大陸プレートとぶつかって沈み込むときに、海洋プレート上の堆積層を大陸プレートにこすりつけるように沈んでいくためにできる地層だ。レオーラの地図を見る限り、帝国北方、クロッサス山以北の極北海洋との間、それと、大陸東方、アンガス王国とヘリオス教会領の辺りもそうかもしれない」
地球上では、ユーラシアやヨーロッパ、大陸平野のほとんどは構造平野であり、北アメリカ大陸の多くが付加帯であるという。日本にもユーラシアプレート下に沈む太平洋プレートが作る付加帯がたくさんある。
「ジョゼがエールを解放した千年前、この星はだいぶ温かかったという。つまり、海面が高かったわけだ。その温暖期、海面より上にあった地形が洪積平野。一方、寒冷期に入ると極地と高山に氷床ができて、海面が下がる。氷床は海水を地上に固定するから海面が後退する。すると、海底の堆積層が地表に顔を出すことになる。この平地を沖積平野という。沖積平野の特徴として、海抜とあまり変わらない低地がずうっと続くことになり、洪積台地との境目には傾斜のあることが多い。たぶん、エルサドルから、この辺り、コルト周辺までは沖積平野。ウラカ台地以北や王都以東は洪積台地というところだろう。ここより南部は資料が少ないためわからない」
日本では六千六百年前に温暖期があって、海面がずいぶんと内陸に食い込んでいた。そのころの縄文遺跡がかなり内陸にあるにもかかわらず、貝塚があるのはそういう理由だ。海面がその遺跡の近くまであったということだ。東京の足立区周辺も沖積台地、渋谷や新宿の高台は洪積台地、旧江戸城である皇居は洪積台地の突端にある。大阪城も台地の上にあって、四方が傾斜している。ちなみに、六千六百年前の海面は五メートルほども高かったらしい。越後平野は、ずうっとその高さ前後の平野が続いて、所々に潟が残って現在に至る。だが、二千二十年現在、沖積、洪積などとはいわず、洪積台地は単に台地といったりする。ヨーロッパの地質基準に合わせなければならなくなったからだが、これはまた別の話である。
「以上のことは、余談で、単なる予備知識だ。これから話すこととはあまり関係ない」
とユウは前置きをする。
「平地にはまだ種類があって、例えば、河川の造るものがある。河川は上流で山を抉り、V字の谷を作る。次いで、上流の土砂を運んで扇状地を作る。さらに下って、河岸段丘を作る。河川がその水流で台地を抉って低いところに、低いところにと動くために階段状の丘陵ができるわけだ。次いで、氾濫原、河川の氾濫によって堆積した土砂で出来た平地が広がり、河口に至り、河口は三角州になる。大概、河口付近は海抜が低いために、流路が適当に広がって鳥の足のように枝別れたりするわけだ。エルサドルはたぶん、三角州に近いだろう。詳しく見てないからわからないが」
問題は、とユウは地図上のアントワーヌ領を叩いた。
「ここ、コントゥーズ周辺は、氾濫原だ。アタカ川の氾濫のためにできた平野だ」
「アタカ川の氾濫?」とドライが初めて発言した。
「そう。氾濫原というのは増水した川が周囲の平地より高くなって、漏出し、周辺を水浸しにして減水とともに流路が元に戻ることもあれば、新しくなることもある。これの特徴が、河川からの流出物によってわずかな高まり、自然堤防といわれる高台が川べりにできることだ。普通、その微高地の上に民家や重要施設ができる。コントゥーズの微高地の上には、バーナード邸がある。タモン」
「はい。確かに、バーナード邸はわずかながら、高台の上にあります。その他、官公庁も、わずかな高地の上に、アタカ川に沿うようにして建築されております。気をつけなければ気づかないような傾斜の上ですが」
「川からの流出物は粒の大きいものから順に、礫、砂、泥。他にシルトというのもあるが、泥と肉眼で識別できないから省く。礫と砂は、重いために遠くに流れず、川べりに集まって自然堤防を作る。バーナード邸と官公庁のある微高地だ。一方、泥は遠くまで流れて、地盤の緩い湿地を作る。これを後背湿地という。後背湿地は一般に土壌が豊かで、作物の栽培に適している。ただし、地盤が脆いため住居を作るのに適さない。川辺に住宅を建てる場合、自然堤防の上に建て、川を生活用水にし、後背湿地で耕作を行うのが真っ当な地形の扱いだ」
近年の日本では住宅が増加して、後背湿地に平気で家を建てるから簡単に水没したり、泥の噴き出す液状化現象に見舞われたりする。古地図を見て、田んぼだった場所に家を建てるものではないし、古い民家の並びに建てた方が一般的に自然災害に見舞われにくい。古い民家が残っているのは偶然ではなく、必然的である。
「ここ、アントワーヌ領は後背湿地の上だ。そして、おそらくアタカ川はよく氾濫する」
「旦那のおっしゃる通りで」とタモンは気味悪く笑う。「アタカ川は四、五年に一度は急激に増水し、この辺りを水没させるそうです。昔はコントゥーズの町も大変だったようですが、ダンダロフがアタカ川東岸の堤防や遊水地の工事をして安泰となったそうでございます。コントゥーズが最後に浸水したのが二十年あまり前。彼らにとっては過去の災害だったのでしょう」
「しかし、実際は河川は溢れるはずだ」とユウは差し棒で卓を叩いた。「アタカ川に橋をかけないのは、防備という以上に、架けても流されるからだろう。舟運の邪魔にもなるし。軍事的にどうしても一本必要だったためにコントゥーズ大橋のような難しい橋ができたんだ」
ユウはまたアントワーヌ領を指し示す。
「おそらく、ここはアタカ川の遊水地だ。敢えてこの土地を低いままに残しておいて、コントゥーズの町に水が流れる前に、こちら側に流れるようにしてある」
アインスたち三人はあからさまなほどに狼狽えている。
「それは、ダンダロフ側は承知の上のことだったのでしょうか?」
「わからない。わからないから調べる。だからリリアたちをここに呼ばなかった。河川のことはリリアにもいって、全体に通達する。対策も立てる。しかし、ダンダロフを疑っていることは隠す。以後、人前で喋るな。おれたちはダンダロフを毛ほども疑っていないフリをするし、疑惑が持ち上がってもリリアが取り合わなければ、アントワーヌとダンダロフの関係は良好を保てるだろう。しかし、おれたちはその裏で、ダンダロフのこと、コルト議会のことを調べる。いいか?」
「はい」と一同は頷いた。
「もし仮に、ダンダロフやコルト議会がアントワーヌにこの土地を与えたのが故意であるなら、政治的な利権が絡んでいるとしか思えない」
帝国からの逃亡者が洪水に流されて消滅したとなれば、帝国同盟は喜ぶだろう。
ユウは、ど、と音を立てて椅子に腰を下ろした。膝に肘を預けた彼の頭の中に様々のことが去来する。
ユウたちのスレイエス越境の最中、突如として方針を転換した王国議会。それをした第二王位継承者アドリアナ殿下。では、第一王位継承者は?
「王都の意向に関係しているのかもしれない。王国の情勢も、深く調べてくれ」
ユウは明滅するような火影の中で、薄暗い幕隅を鬱々と見据えていた。
〇
「そんなことがあり得るでしょうか」とリリアは色を失った唇を片手で覆っていた。
「確かに、ディクルベルクには氾濫するような川がなかったからな」ロックスも頭を掻いている。「頭になかったぜ、畜生」
ディクルベルクでもクロッサス川があった。しかし、融雪で多少増水するものの、雨季のないため、氾濫ということがなかった。季節河川も中央荒野の向こうの話であったし、彼らにとって水害などおとぎ話でしかなかったということだ。
「しかし、なにか手を打たなければなりませんね」
いったエイムズは王国に亡命してから数日、旅塵を落として、すっかり北方貴族風の美男になっていた。茶色い髪と白い肌、すっきりと通った鼻梁と細い顎など、人間の想像で作れる美ではなく、神の造形といって過言ではない。コルト候に拝謁する際、ユウは彼とともにコントゥーズの町を歩いたが、エイムズの颯爽とした姿に向けられる婦女子の視線は並みではなかった。
それはともなく、水害対策である。
「すでに一案ある」とユウはいう。
一同の目の前にはコントゥーズ周辺の地図が木板に張り出されている。
「アタカ川の氾濫を回避するには、分水路を開削する他ないと思う。いま、蹄鉄型になっている河川の北部に側溝を掘って、完全な円形にする。そのあと、この丸い中洲の中に掘割を作ってさらに遊水地とする。コントゥーズとエルサドルの通行が簡便になるし、その中継地として、ここアントワーヌ領が使われれば人の通りも多くなる。人の通りが多くなれば落とす富も増える。中州に通した水路は遊水の役目をするとともに、水路にもなり、穴を掘れば両側の地盤から水が染み出してかたい土地を作れる。さらにこの掘り出した土を上の地面に積み上げることで高さも確保する」
かつて徳川家康が江戸の町を造ったのと同じ手段である。元々湿地だった江戸に水路を作り、土壌から水を抜くと同時に水路にしたという。そういう事情で出来上がったのが江戸の水運なのである。
「この方法で行こうと思う。なにか意見は?」
「強いていうなら」とジェシカが手を挙げた。「人的、金銭的余裕がない。今年の糧を得るための作業と冬を越えるための建屋の建築に人を使う方が優先だと思うが」
「おれもそう思う。氾濫が喫緊のことかわからない。しかし、食糧問題は間違いなく喫緊のことだ。アントワーヌ領の食料、コルトへの返済金、余ったものは売却して蓄えにする。それで人を雇って資材を整え、開削工事をしよう。種蒔きが終わってから調査等々進めていっても、本格的な着工は早くて来年の春になるだろう」
「仮想水路の上にいまは畑があるのも問題ですね」とリリア。「いま畑があるところは今年の収穫が終わってからは民家と商店にして交易を盛んにした方がいいかしら」
「だったら」とロックスは腕を組んで思案顔を俯ける。「畑地はもっと北、アタカ川で作る円環の外、いまの長屋棟の北側に作ることになるってことか」
「そういう雰囲気だな」とユウは頷く。「細かいことは測量して、地質調査を終えてから図面を作っていこう」
「氾濫の予兆というのはわかるものかしら?」とリリアが小首を傾げる。
「上流に人をやる。川の下流が急に暴れるのは雨で増水した支流が一河川に集まるからだ。上流の増水に気を付けていれば多少の予測ができる。騎馬での伝令では時間がかかるから、スフィアで合図を送り合おう」
すでに何度か使用されている通信手段だ。光を灯したスフィアをパチンコで打ち出すと、数十メータの高さまで到達する。そこでパラシュートふうの布が開き、緩やかに降りてくるという機構だ。元は平地が多く、空気の乾燥した北方人の連絡手段として発展したものらしい。
「今年、氾濫するでしょうか?」
「わからない」
「もし氾濫したら……」
「土塁の準備をしておくけれど、勝手に補強はできないだろう。もし、こっちの土手を補強してコルトが水浸しになったら、どれほどの反感を買うか。おれたちはここにいられなくなる」
「なるほど」
「その辺りのこと、いまのうちにコルトと折り合いをつけておかないといけない。リリアに任せていいか?」
「はい」とリリアは強い決意を顔に浮かべていう。「お任せください」
「もし、コルトが折れず、川が氾濫したら?」
ジェシカは単純にそういう疑問を持って、口をついたようだったが、その最悪の予想に誰もが暗い顔をする。
「捨てる」とユウはいい切った。「もし、土塁の補強許可も出ず、アタカ川が今年氾濫するようなら、一度このアントワーヌ領を捨てて、コントゥーズに避難する」
冷たいほどの沈黙が幕内を満たす。
土地を整備し、家を建て、描いていた今後の計画、すべてを捨てろというのだ。暗澹とする以外になく、アントワーヌの誰もがそうならないことを祈っていた。
〇
「現在、王国は真っ二つに分かれているようでございますな」
タモンは夜の幕内で不気味な笑みを浮かべながらいう。まるで卑猥な妖怪のようである。
「二年前に国王陛下がお身体を患って床に伏して以降、実権を握っておられるのは第一王位継承者クライン王太子殿下でございます。帝国との軋轢はここ数年のものでございますが、クライン殿下は平和的解決を望んでおられ、条約を結ぼうとなさっておいででございます。レオーラの宗主国を自負する王国の諸士は、帝国の行う弾圧、侵略事業を看過するこのクライン殿下を蛇蝎のごとく嫌い、それと同盟を結ぶなどというのはともに侵略事業に手を貸すことであって、王国は戦ってでもこの無法を差し止めねばならない。そうしないクライン殿下を無能者、腰抜けと罵って恥じることがないようです。そこで彼らが推しているのが、アドリアナ王女殿下。第二王位継承者でございますな。彼女は現王の寵愛を一身に受け、その執務も間近に見、御心を受け継いだ正当な継承者として見られているようです。クライン殿下は現在、二十五歳。長く王国の学術都市リライトで遊学していたために継承の資格が薄い、ともいわれております。世間一般の戯言でございますが」
「だが、それが王国市民の素直な感情、ということだな?」
「左様で」とタモンは頷く。「庶民とそれに近い兵、一般貴族たちはアドリアナ派。クライン殿下は商人に対する税の優遇をしており、彼らの中に支持者が多く、また遊学先であったリライトでも支持するものが多くいるようです。あとは地方の貴族が点々とクライン殿下を支持しておりますが、理由は政争のごたごたに紛れてのし上がろうという魂胆でございましょう。王国全体で見ると、およそ七三でアドリアナ殿下支持が優勢、というところかと。もう少し詳しく調べねば確かなことは申せませんが」
「要するに、ダンダロフはクライン派で、帝国との摩擦の原因になり得るアントワーヌを排除しておきたいと考えた、というところが妥当か」
「おっしゃる通り、ダンダロフはクライン派。ホーラントを除く他三家もおよそクライン支持のようですが、成り行きを見守っておるようでございますな。タッソー辺りはアントワーヌが金になる見込みがあると踏んでエルサドルで歓待をしたのでしょう。ホーランド家は縫製業を主な生業としている家でございますが、当主が女性であり、男性支配者とは相いれぬと豪語しており、おそらくアドリアナ派かと。彼女の癖を存じておれば納得するかと存じますが、まあ、おそらく嘘のないことでございましょう」
「コルト議会は?」
「おそらく、今回の件には関わっていないでしょう。純粋にアントワーヌのためを思ってこの土地を推したものかと。コントゥーズが最後に水没したのが二十年前、彼らにとって水害などは過去の災厄で、橋を渡って対岸に来ることもなく、この土地が水没することを知らなかったのでしょう。町の者たちの話を聞いても、興味のあるのは南岸、つまり町のある方ばかりで、北岸の知識など皆無に等しい。貴族においても同様のようで」
「コルトはクライン派かな? アドリアナ派かな?」
「どちら、ということはありますまい。バーナード侯爵閣下は義理堅く忠義と情に厚い、君子風の人柄と評判でございます。王国に忠節を尽しましょう。そして、王国は性別に関わらず嫡子相続。アドリアナ殿下も、次期国王は兄、相争うことは決してない、と断言しておられます」
「事実と思うか?」
「それは、あっしのような卑賎な者には察しかねます」
「ふむ」とユウは腕を組む。「アドリアナ殿下に一度会わなければならないな」
アントワーヌの身の振り方を決断するために、信頼のおける人物かどうかを見極めたい。が、いかにしたものか。相手は一国の頂点にいる者である。リリアに興味を抱いている、と、いつかの王国第三師団長はいっていたが。
思案を巡らせ始めたユウの頭を、激しい鐘の音が揺らした。椅子を蹴って幕舎を出、東の空に揺らめく淡い黄色の光の粒を見た。
「ヘリオスフィアの光だ」
左右の幕舎からも続々と人が現れ、空の小さな光の明滅を眺めていた。夜空に輝いているのがよく見える。それどころか、星の輝きも、ヘリオストープの光も眩いほどに晴れている。
「大将」とロックスが駆けてくる。「あの光は川の増水か?」
「そうだけど、正確には上流での大雨情報だ」とユウは腕を組み、「まだ増水するとは限らない」
「ならどうするってんだよ?」
「どうもこうも、しばらく様子見だ。ただ、すぐに避難できるように準備だけはさせておけよ」
「準備、か」ロックスは肩を落とし、「本当にここを捨てることになるのかねえ」
「わからん。ともかくおれはリリアに知らせてくる」
バーナード邸に飛び込んだユウの報告を聞いて、リリアは青くした顔を両手で抱えた。
「そ、そんな、一体どうしたら……」
「アントワーヌの堤防強化のことは議会が話しているんだろう?」
これが通らなければ川岸に土嚢のひとつを置くこともできない。
「それが」とリリアは手元に目を落とし、「まだなんとも。議会の決定には数日を要するとのことで」
「リリア……」
「わかっています」と険しい顔を他所に逸らした。「すぐに小父さまと掛け合ってみます。ユウさんはどちらにいらっしゃいます?」
「おれはまたアントワーヌ領に戻って、様子を見てくる。一応土嚢も揃えておかないといけないし」
「ジェシカも、ユウさんのお手伝いを」
ジェシカが浅く頭を下げたのを見、リリアは悠然と部屋を出て行った。
「毅然としていらっしゃる。内心は穏やかではないだろうに」
「わかってる」
ユウもリリアの背中を見送っていた。紙のように白い頬が彼女の内心を物語っていた。
「発狂するような人間は信頼もされないし、助けようとも思われないのさ。貴族の嗜みであり、統率者としての資質かな」
それがリリアにはある。
「おまえがウラカ台地で死にかかったときは発狂しかけてたよ」
「そお?」と片眉を上げるユウにジェシカは笑って、柔らかく応じた。
「そうだよ。あの子にはおまえが必要だ」
「それをいわれても」とユウは西の方を見遣った。「おれは困っちゃうけれど」
「おまえが困ることもあるんだな」
「そりゃ、おれだって……」
「急ぐんだろう? さっさと行くぞ」
ジェシカは一瞥もなく部屋を出てゆき、ユウも頭を掻いてそれに続いた。
ところで、王国の議会の方針というのは議員の投票によって決する。議員の尽くが夜にも関わらず、バーナード邸に集ってくれたのは彼らの誠実さとリリアへの敬意、アントワーヌ隊の持ち込んだ情報への信頼、二十年も前の災害の記憶の恐ろしさがさせたことであろう。
小一時間の会議のすえ、ユウの予想が現実のものとなった。アタカ川西岸の堤防補強はコントゥーズの町を危険にさらすものであり許諾できない、という意見が大勢を占め、投票の結果もその通りであった。コントゥーズの背後にも後背湿地があり、現在は豊かな小麦畑が広がっている。コントゥーズの町に浸水を許せば、その小麦畑は壊滅するかもしれず、壊滅すればコルトの民の食が消滅する。それだけは回避しなければならない。
「リリア」とミリシアムは暗い声でいう。「なんとかしてやりたいところだが」
「いいえ。領主として、民を守ること、法を守ることは大切なことです。わたしが小父さまの立場であっても同じことをしたでしょう」
リリアはスカートの裾を握り締めながら、目には涙を溜め、しかし、一粒も流さないでいる。
「わたしは、迅速に議会を開いてくださった皆さまに感謝こそすれ、ワガママをいうことはできません」
夜が明けて、コルトの空は曇天であった。
厚い鼠色の雲が濛々と立ち込め、地上はほの暗い。その細やかな日を頼りに、ユウはコントゥーズの町の端、アタカ川の東岸堤防の上に立っていた。川の水は茶色く濁り始め、流れも急を帯びてきている。
「大将」とロックスはいう。「土嚢を畑地の周りに置いてこよう。川沿いはダメでも、畑地の周りくらいは許されるだろ」
「ダメだ」とユウは首を振る。「作業中に河川が氾濫したら取り残される。北方に回って抜けることもできるかもしれないが、どれほどの被害が出るかわからないいま、軽率なことはできない。王国側に堤防の補強工事をしていると思われてもいけないしな」
すでに人は避難しきっていて、アントワーヌ領の、アタカ川に括られたU字の中に人はいない。
「ちくしょう」とロックスは地団太を踏んだ。「聞いたかよ。コルトの議会の参考人の話。ダンダロフ工房の奴らが呼ばれて証言したんだぜ。アタカ川西岸の補強は薦められないってな。あいつらがここをおれたちに薦めたのに」
「この雨は彼らのせいじゃない」
「しかしよ……!」
「ロックス、彼らは善意でおれたちをここに置いてくれている。そういう、王国の人々を貶すようなことは二度というな」
陰口は必ず回り回って人の耳に入る。いま王国民の悪感情を買うわけにはいかなかった。ユウ自身、ダンダロフの背後と王国の情勢を探ってはいるが、発言には細心の注意を払っていた。
「言葉は簡単に災いを呼ぶ。そういう力がある。感情に流されて軽はずみな言葉を吐くな」
ユウの台詞の端々に浮く凄味にロックスも呻くだけで覇気を奪われ、また地団太を踏んだ。その足に先ほどまでの勢いもない。
「じゃあ、どうすればいいんだよ、おれたちは。悪態をつくくらいのことしかできないだろ」
「考えることができる。言葉ではなく、行動で示せ。畑地に土嚢を運ぼうとしたのは悪くなかった。ただおれに博打を打つ度胸がなかったってだけだ。他にないか?」
「ないかっていわれてもよ」頭を掻くだけで、「おれにはなにも浮かばないぜ」
刻々と時間だけが過ぎてゆき、その日の明かりが地平線に没するより早く、アタカ川西岸にある平地は水面に沈んでいった。
〇
数日来雨の降り続くエルサドルの一角に高笑いが響いていた。
「これでアントワーヌもおしまいだな」
「左様でございますね、若さま」
十数人に及ぶ番頭たちが頭を垂れて、執務机の上にある土足を窺っている。
「さて、これからどうしたものかな」
書類の山を蹴り飛ばして広くなった机の上に、起き上がって腕を乗せたダンダロフの顔には異様な輝きがあった。若さから来る快活さ、相手を出し抜いた快感と征服者の高揚にぎらぎらと光っていた。
「なにかあるものはないか? 面白い提案が」
番頭たちは顔を見合わせ愛想笑いを浮かべていたが、細長い顔の男が一歩前に踏み出した。以前、アントワーヌに例の土地を推した、あの男だ。
「アントワーヌに書状を送るのはいかがでございましょう?」
「悔み状か? まあ、確かに、一通送っておく必要はあるな」
アントワーヌ瓦解はダンダロフ工房に多少の責任がある、と世間が認識していることはこの若い当主も理解している。実際のところは、多少などという生温い表現で収まるものではなく、意図的に彼らが沈めたといっていい。彼らはこの地域の地形、気象、野生動植物の特性までを熟知していた。そのダンダロフ工房にとって、この年のアタカ川氾濫は八割以上の確率で起こる事実であり、そういう地形にアントワーヌを押し込めた。
彼らは故意にアントワーヌを壊滅させている。
しかし、市民はどうであろう。気象予測能力に乏しい無知な市民は不幸な偶然だと受け取っているはずだ。そういう無知な市民は慰みをしたためた紙切れ一枚でも送っておけば、誠意、として解釈するであろう。これでこの件は解決する。
「しかし、ただの悔み状では面白くないぞ」
「それはわかっております」と細い顎をわずかに上げて、この初老の従者は鋭く光る目を覗かせた。「リリア•アントワーヌに婚姻を申し込んではいかがでしょう? 最早、アントワーヌに五百人に及ぶ人数を維持する金銭はありますまい。放っておけば滅びるのみ。若の提案を受け入れる他ないでしょう。そうなれば、アントワーヌは我々の意のまま、帝国に反旗を翻していた勢力は消える上、ダンダロフの評判も上がりましょう」
一同はざわめきを発した。ダンダロフも「嫁を取るのか」と渋い顔をしている。というのは、
「しかし、おれにはジュリアもいるし、ミカもいるし、グレアもいるし……」
指折り囲っている女の数を数えている。ちなみに、レオーラは原則一夫一妻制である。
「一人の女に縛られるのは、どうもなあ」
「若の癖はわかっております。嫁にしてしまえば、我々がアントワーヌを養う側です。若が好き勝手にして文句をいわれる筋合いはありますまい」
「ふーん」と頬杖をついたダンダロフは、「側室を持つのも自由ということか」
「左様で」
「悪くない」と天板を叩いた。「すぐに文にしろ。任せる」
は、と了承の声を聞き流し、ダンダロフは椅子を回して曇天の窓外を眺めた。
窓には雨粒の波紋が広がり、遠く稲妻の唸りも聞こえる。
この世界にも金属製のフォークとナイフがあり、陶器の皿の上でこんがり焼かれた肉を切って口に運ぶのに使ったりする。この日のタッソーの朝の食卓がカリブの分厚いステーキであった。タッソー家当主のフィリップ翁は齢六十三にして、起き抜けにこういう食事を嗜める活力があり、それが自慢になっている。
「今日はなにかあるかの?」とたるんだ顎で分厚い肉を咀嚼しながら傍らの執事に声をかけた。
「アントワーヌの件でございますが……」
「なにか動きがあったか?」
「被害調査をしているようです。途方に暮れているようで、その動きも活発とはいいがたいです」
「もうダメかのう、ちょこっと期待しておったのじゃがの」
「船が戻ってくれば、多少の富を得られるのでしょうが、あの大きさの船です。商品の売買も含めて、もうしばらく時間がかかりましょう」
「そうかもしれんの」頻りにナイフを動かして肉を切っている。
「ダンダロフのことでございますが」
「ああ、あのクソッタレの小僧か」タッソーはゴミでも見るような視線を流し、「なんだ? ようやく破綻したか?」
「リリア・アントワーヌに婚姻を申し込むのではないかといわれております。バーナード邸に書状を送ったようです」
「あの小僧が?」タッソーは眉をひそめる。「あの可憐な少女が、クソッタレのものになると考えると虫唾が走るの」
「ではお助けになられますか?」
「それとこれとは話は別だ」
タッソーはスプーンを繰ってスープを口に運んで飲み下し、
「この程度の困難、克服できなくて帝国とやり合うことはできまいよ」
「左様でございますか」
「他の家は動くか? ホーランドの魔女はどうだい?」
「いまだ静観しております」
「わしゃ、あの女が一番恐ろしいよ。なにを考えてるのかわからん。男と女は別の動物、とはよくいったものじゃ」
おしぼりを両手でこねて、フィリップ・タッソーは席を立った。
ぽつ、ぽつ、と雨が降っている。
王国北方は一年を通して西の風、偏西風が吹いている都合、雲は西から東へ流れてゆく。であるから、この風雨はアタカ川上流でこの河川を濁流に変じさせたものとは違う。が、見上げるユウの目には深い感慨が溢れて止めどもなかった。
堤防決壊から七日目、ユウは編み笠にカリブのなめし皮を羽織り、小舟を漕いで水の引いたアタカ川西岸に渡っていた。
この二日前まで、アタカ川西岸は完全に水没していて、陸地の名残といえば、アントワーヌ隊が建築した長屋風家屋の屋根が濁流の中にかろうじて突き出しているくらいであった。一転、コントゥーズには一切の被害はなく、雨水も町内にある遊水地に流れていって漏れることもなく、ただ渦を巻いてとどまっていた。コントゥーズの町を設計したかつての施政者とダンダロフ工房の普請の確かさが窺える。
それから五日経て、大方の水が引き、川面も茶色いながら落ち着いて、ようやく一事の災いが過ぎ去ったかと思われた。上流からの報告でも雨は止み、水は透明度を取り戻し、流れは穏やかであるという。近々、下流も同様になるであろう。
一面の泥地、である。
深い茶色を呈したぬめりのある泥沼が一面に広がり、遠く、曇天と重なるまで連なって途切れることがない。
「ダメだ」とロックスが泥の中を闊歩しながらやってきた。一歩踏み出すたびにガポガポと空気が抜けて、泡と泥の弾ける音が大きく響き、抉られた沼は足跡を深々と残してなかなか消えない。
「一切なにも残ってない。草も野菜も麦も一切ない。なにもかもなくなっちまった。ま、調べるまでもなかったけどな、この様子じゃ」
沼地にはアントワーヌ隊の多くが足を踏み入れ、苦心しながら被害調査を行っているが、全損と見て間違いないだろう。家屋も流出し、かろうじて残った建屋の中にも泥の波が打ち寄せて溜まり、洗うより再建した方が手軽だという。
「どうすんだよ、大将。このままじゃアントワーヌは破産だぜ」
帝国からのあらゆる蓄えを売り捌き、金銭に変え、その金銭をここしばらくの食料と建材に変えて、ここアントワーヌ領に保存していたのだ。わずかの残金と医療所に置かれた募金箱の中身がバーナード邸のリリアの手元にあるものの、五百人からの人数を養って幾日耐えられるか、ほつれた糸をのばすようなものだ。
ユウはあらゆる報告に応えることもせず腕を組んだまま、ただ難しい顔を俯けている。
〇
ダンダロフからの書状を受け取ったときのリリアの心情を察せられるかどうか。
一通り目を通し、その紙片を平然と折り畳むこと数回、深呼吸を幾度も繰り返してから、するり、とゴミ箱に捨てた。
「わたしはしばらく部屋にこもりますので」とジェシカに断ってその通りにし、しばらくのちに彼女の部屋の清掃に入った女中は無惨に引き裂かれた枕が押し入れの奥に押し込まれていたのを見つけたという。この一通の書状がリリアの闘争心に猛烈な火をつけた。
「これを質に入れて、当面の生活費としましょう」
リリアの指輪は母から受け継いだ、母の形見ともいっていいアントワーヌ代々の品である。それを知っているアントワーヌ隊は端々までが戦慄した。
「そのようなことをしてはなりません」と隊員一同説きに説いたが、リリアは頑なであった。
「そういってくださるみなさんがわたしの宝です。金銀の財宝など売っても悔いはありません」
といった言葉に、またアントワーヌの端々までが肩を震わせ、涙を流した。
「であれば、ホーランドがよろしいかと」とタモンが薦める。「かの家は当主が女人であり、宝飾品を集めるのに有名であります。なにより、男を侮蔑し、ダンダロフを軽蔑しきること甚だしく、女性には慈母の如くとの評判。今回のダンダロフの手技にもよほど腹を立てているとか。リリアさまにはよくよくお力をお貸しくださるでしょう」
「ではそう致しましょう。手配してくださいますか?」
「使いはあっしのような下衆ではなく、利口な女性の方があちらの受けがよろしいかと」
タモンの助言の通り、ジェシカの配下の一人に指輪売却の旨書状を持たせて使わせると、いくらもしないうちに帰還した。
「求めに応じることやぶさかでないが、現物を見てからということであります」
と報告が上がってきた。この使者に指輪を持たせなかったのはリリアなりの配慮である。
「無理な話に応じてくださるよう頼むのです。わたし自身が赴くのが礼儀というものでしょう」
「リリアさま」とタモンがまた進み出て、「御自らお訊ねになられるのは最もにございますが、なにとぞお気をつけくださいませ。ホーランドはエルサドルの魔女とも呼ばれるほどの者。ダンダロフ以上に危険な相手やも知れませぬ」
「そのような方ですか?」とリリアは口元を覆って、まだ見ぬ『魔女』の様子に思いを巡らせてみる。あまりに危険な相手であれば、ユウの同行を願おうとかも思ったが、すぐさまその考えを振り払った。
ここ最近のユウには、どこか思い詰めたような雰囲気があり、以前のように気軽に声をかけられる雰囲気がなきなっていた。彼から放たれる漆黒の波のようなものが、アントワーヌ隊員はもちろん、リリアも遠ざけていた。
「わたしたちがユウさんを頼りにし過ぎていました」とリリアは独り言のようにいう。帝都脱出以来、どれほどの負担を彼に強いてきたことか。それを考えると、リリアは身震いもしたくなる。
「必ず、わたしたちの力でアントワーヌを復興させてみせます」
とリリアはここでも闘志を燃やしている。
〇
ホーランドは縫製業を生業としている家である。元々は綿花に準ずるラートという植物の繊維を紡いでできた糸を鉱物や植物の色素で染色して、一枚の布を織るという製糸・織物が主な産業であった。これが二代前のループ・ホーランドの代で大きな節目を迎えた。それまでも貴族からの発注によって独自の意匠を加えた特注の服飾の製作を行っていたものが、彼女の代になって自らのオリジナルデザインの販売を始めたのだ。
ルーブは多くの王国貴族から申し込まれる無数のデザインを見、その中から流行を捉えて形にする才覚があったようだ。彼女の衣服は王国で爆発的な人気を呼び、次代では販路を内海全域に広げ、レオーラではホーランドの服をまとうことが女性の格式を表すようになった。
当代のヴィーダ・ホーランドの才覚はその二代を上回るといわれている。洗練された王国風紀を取り入れながら奇抜性も含んだ斬新な意匠もさることながら、彼女の、男を歯牙にもかけない、むしろ、虚仮にして憚らない姿勢が、大陸中の女性を騒がせた。レオーラはまだ物理的な力のある男性が優位の社会である。その中にあって、大陸でも指折りの富商にして他の四家の男たちを出し抜いてやり合うその姿に熱狂する女性のなんと多いことか。彼女のことを神と尊敬する女性がいる一方で、魔女と呼んで忌み嫌う男も少なくない。
いま、リリアはその『魔女の館』にいて、離れに向かう渡り廊下を歩いている。軒からこぼれる雨水が庭園の低木の葉を叩いて弾けながら軽やかな韻律を奏でている。
「こちらがヴィーダさまの居室でございます」
男子禁制だという。案内に立った執事も女性であり、立ち働く人の中にも男性の姿はない。なにか異様な、この建屋特有の雰囲気があって、リリアの肌身を粟立てさせた。気だるげというか、蠱惑的というか、温かなぬかるみにはまっていくような。先ほどから頻りに両手の指が遊んでしまう。
「リリア」と唯一同行しているジェシカに声をかけられ、はっとし、
「だ、大丈夫です。参りましょう」
扉を開くと、香の薫りがぶわりと立ち昇った。南方の大陸にあるという、香木の薫りである。
むせかえるほどの香りに包まれながら、女たちが戯れている。彼女らの視線が闖入者を見、その中で、悠然としている者がただ一人。女たちに囲まれた籐の座椅子の上に居し、桃色の長い足を組み、片手には畳んだ扇子を、その扇端に色鮮やかな唇を据え、口づけをひとつ、艶やかな眼差しをリリアの方へ流していた。
「ようこそ、リリア・アントワーヌ卿。お待ちしておりましたわ」
低い、それでいて滑らかな、耳の奥にまとわりついて頭を痺れさせるような声音だった。
女主は薄手の白布の一枚を羽織るだけで、重ね合わせた胸元からは深い谷間が覗き、膝の上に乗った足は太ももの付け根、というか、臀部といっていいところまで覗いている。
これがヴィーダ・ホーランドか、とリリアは絶句する。
妖艶な魔女である。長い髪がやや顔にかかり、表情も窺いにくく、妖しく、また怪しくもある。
ヴィーダが左右に目をやると、女たちは座椅子から離れ、部屋を辞去していった。最後の一人が扉を閉め、三人だけが取り残される。
「西方のお茶がありますの」いつの間にか立ち上がっていたヴィーダがそばのテーブルにあるポットに手をかける。「レオーラのものより渋みが柔らかくて、わたくしの舌にはこの方が美味ですわ。ご一緒にいかが?」
「はい。ありがとうございます」とリリアは呑まれていた気を取り戻し、スカートの裾をつまみながら軽く膝を折って頭を下げた。「本日はお招き下さり、お礼の言葉もありません」
小卓上に伏せられていたカップを翻して、傾けたポットから流れる濃い茶色の液体を満たしてゆく。
「アントワーヌ代々の指輪をわたくしに譲りたい、とか」
「はい」
リリアはテーブルの上に指輪を据え、一瞥したヴィーダは手に取り、しげしげと眺め、「かしこまりました」と一つ頷いた。
「お覚悟あってのことでしょう。問答は致しませんわ」
ヴィーダが帯内から抜いた布の包、滑らかな生地の中身をリリアは確かめ、目を見開いた。金貨の五枚もある。タモンの見たところは指輪の相場は金貨一枚程度であり、買いたたかれることも覚悟せよと話していたが、
「こんなに、よろしいので?」
「わたくし、アントワーヌには期待しておりますの」
座椅子の肘掛けに浅く腰掛け、片手のカップに口づけをする。
「帝国のエドワード帝を出し抜き、スレイエスも出し抜き、その長にはあなたのような美しい方がいて、商いを取り仕切るのはスレイエスの女の子だというでしょう? そういう采配の出来るアントワーヌには敬意を表しますわ」
「お褒めの言葉、ありがたい限りでございますが、アントワーヌを差配しているのは、いまは天ノ岐ユウという男の方です」
「なら、その方も先見性がある、ということかしら。まあ、どちらにしても、そのお金は、無利子の貸付、ということにしておいて差し上げますわ」
「貸付ですか?」リリアは眉をひそめる。「わたしは指輪を売りにきたのであって、お金を借りに来たわけではありません」
「担保ということです」とホーランドは小さな顔を頷かせ、「この指輪を担保に、金貨五枚をお貸しします。期限は半年後、お金を準備していただく必要はありませんわ。わたくしが、アントワーヌに返済能力がある、と認めれば、また期限を延ばします」
「よろしいのですか?」
「ええ」頷いたホーランドは、それと、と続けて指輪を差し出した。「この指輪はお返しします」
リリアは、声を上げるほど驚き、「それではホーランドさまに申し訳ありません」
「わたくし、アントワーヌに潰れてほしくありませんの。指輪をお預けするのは、わたくしからの信頼の証ですわ」とヴィーダは薄い笑み浮かべて、「機会を差し上げたいのです。半年間の。あなた方が甦れば良い関係が築けるし、失敗すればその指輪をわたくしがいただく。それでよろしいのじゃございません?」
ヴィーダは羽ペンを取り、さらさらと紙の上を走らせた。
「さあ、これが契約書です。確認したら記名なさってくださいませ」
リリアは受け取って一瞥し、頷いた。その顔が厳しい。
なにか裏があるのかもしれない。が、この契約書に嘘はなさそうだし、アントワーヌに選択肢がない。
「ご厚意、感謝いたします」
リリアは羽ペンを取って、一筆を走らせた。
ヴィーダの口元が深い笑みに歪む。
「これからも、末永くお付き合いしたいですわ」
カップを小卓に残して立ち上がり、少女に身を寄せ、客の小さな顎を取り、視線を上げさせ、小さな唇に唇を、あたかもカップにするように、重ねようとしたところでリリアが飛び上がって身を引いた。額に汗し、頬を赤らめて、
「なななななななにするんです」
タモンの話していた『危険』とはこういうことか。
あまりにヴィーダの仕草が自然であったため、なにが起きているのか理解するのに時間がかかったが、あと一瞬でも遅れていたら唇を奪われていた。ようやくジェシカが慌てながら二人の間に割って入るという始末である。
「ホーランド殿っ!」とうわずった声で警告する。
「うふふ」と頬に指先を据えたヴィーダは細い腰を波打たせ、シナを作っている。「公私ともに、末永くお付き合い申し上げたくて」
「お付き合いをするのは構いませんが、こういったことは困ります」とリリアは早口にまくし立て、「こういうことをお含みなら、今回の件はお断りを……」
「まあまあ、ちょっとした余興ですわ。わたくし、金銭で体を要求するような、無粋な真似は致しませんの」
「から……!」
「わたくしはわたくしの魅力によって獲物を狩るんですの」
「か、狩る……」
「ともかく、長くお付き合いしましょう、リリア・アントワーヌ卿」
ね、と小首を傾げるヴィーダを前に、リリアは訝りながらも頷いた。
悪い人ではない。悪い人ではないが、ある意味ダンダロフより危険な人であるとしたタモンの評価は正しい。
ともかく、当面の資金は工面できたのである。
また帰り際、
「いつでもお訊ねになってくださいましね」
と耳元でささやかれ、リリアの背筋が粟立った。
「甘くて、蕩けるような世界、教えて差し上げますわ」
「ケケケケケ、ケッコウデス」と断り、リリアはあたふたとホーランド邸をあとにした。
〇
畑地に踏み出した足のくるぶしは簡単に泥に包まれ、そのぬかるみは膝に触れそうなほどに迫っている。泥の中に含まれていた空気が、一歩を踏み出すごとに気泡となって噴き出し、割れて、ごぽごぽと音を立てる。
「エイムズ殿、この辺りもダメです」
「そうか」とエイムズは天を仰いだ。細雨が全身を覆うように吹き寄せてくる。
王国の雨は温かい。
雨が温かいのだ。帝国では、降雨は少なく、夏はしっとりと地面を濡らす霧が発生し、冬は氷に近い粒に肌を叩かれるのが常だった。雨が天の恵みだ、ということを実感する。だが、ときとして、これほどの猛威を振るうものなのか、とも思う。河川の少ない帝国では感じることのない圧倒的な暴力であった。
「本当に大丈夫なのでしょうか?」
一人が口にし、左右も狼狽えた視線をエイムズに向ける。彼らの目の奥にあるほの暗い輝きがなにを訴えているのかは容易に想像ができる。そして、容易に想像できてしまった自分を恥じた。
「わたしは終生までアントワーヌに仕え、天ノ岐殿とともに行く。彼らを疑うならここを出なさい」
「しかし、エイムズ殿」
「野盗に落ちぶれたわたしたちに道を示してくれたのは天ノ岐殿だ。再び生きる意味を与えてくださったのはアントワーヌだ。その恩義に命を賭して報いたい。これはわたしの勝手だ。ついてこられないというのなら、ここを出ても構わないだろう。天ノ岐殿にはわたしから伝えておく」
誰一人として口を開こうとしなかった。泥の上を見つめる濁った眼を眺め回し、エイムズは背を向けた。
湿地を踏み鳴らしながら東へ向かう。コントゥーズにほど近い船着き場は辛うじて堤防になっていて、一本の樹木が植わっている。その陰に、ユウがいた。根本に腰を下ろし、幹に背中を預け、終日ぼんやりしているのが、この頃の彼の日課だった。
「天ノ岐殿」と大きな声をかける。ユウは大儀そうにこちらを向き、微笑した。
「北もダメでしたか」
「ええ。どこもかしこもひどいぬかるみです。人が住むなんて無理がありますよ」
「そうですねえ」と間延びした声で応えたっきり、まぶたを閉じて俯いていた。
エイムズはなにもいわず、彼の隣に腰かけて泥沼の地平を眺めている。
しとしと、と小雨は降り続けている。
この梢の下で悠然としているユウの中に一案ある。ここを放棄する。その一択しかアントワーヌに残された道はないと断じていた。
エイムズがいった通り、人が住むには無理がある。無理があるところには住めない。もう少し北上し、ウラカ台地の縁に住めばいい。この湿地帯は米でも作れば丁度いい土壌になる。
しかし、ともユウは考えている。この窮地を跳ね退けられれば、アントワーヌの求心力はいや増すであろう。それにここはまがりなりにもコルト候から拝領された地である。簡単に捨てては王国民への心象が良くない。ダンダロフへの敗北宣言にもなる。売られた喧嘩は買って、勝つのがユウの心情でもあった。
この地を捨てることは負の要素が多く、決断するのはまだ早計である、とユウの中の本能が叫んでいる。
だが、とユウは薄くまぶたを開いた。
この一望の沼地でなにをしろというのか。
わからない。
わからないユウは一パーセントの閃きを待っている。電球を発明したエジソンは九十九パーセントの努力と一パーセントの閃きといったが、一パーセントの閃きがなければ、九十九パーセントの努力をしても無駄だ、という意味であるともいう。正意はともあれ、後者の意味合いが事実となって、いまユウの身に重くのしかかっている。その重しはユウを圧し、アントワーヌを圧し、ここまで繋いできた人間同士の絆をもすり潰そうとしている。それもユウはわかっていて、閃きが降ってくるのをただ、淡々と待っていた。
その折、一隻の短艇がコントゥーズの方から漂ってきた。リリアとジェシカが乗っている。
「ユウさん」と堤防に乗りつけた二人の服は、カリブの皮のオーバーオールに、同素材の長靴、上着を羽織って、一見すると一端の耕作者だ。
「おお、リリア、どうしたんだい?」
「どうしたもこうしたもありません。わたしも手伝います」
「手伝う、といっても」
ディクルベルクにあった温室とはわけが違う。下は易々と膝まで浸かる泥地で、場所によっては腰すら沈む。向こうで作っている土嚢だって二十キロの重さがある。手のひら大のスコップで足りる花壇の世話とは違うのだ。エイムズもやや困惑している。
なんだなんだ、とロックスを始め、人が集まってきた。
「なんだい、リリア嬢のその恰好は」
「我々の手伝いをなさりたいようで」
「別に手伝ってもらうこともないけれど」
ねえ、とユウが見遣った左右は、沈黙をもって肯定した。リリアの善意を否定するわけではないが、無理をしてぶっ倒れられても困るのだ。
「わたしもそういって御諫めしたんだが」
「舐めてもらっちゃ困ります。こう見えても、わたしだって土壌の研究をしていたんですから」
などといい、止める間もなく泥の中へ飛び込んだ。
ぼ、と音を立てて太腿まで埋まり、身動きが取れなくなって、取れなくなっているにも関わらず無理に動こうとして前のめりに倒れた。顔が泥に埋まって呼吸もできていない。手をつこうにも、両手は泥に埋まってゆく。たぶん、彼女一人だったらここで死んでいた。が、幸い、大勢の人がいて、ロックスとエイムズが駆け寄って左右から抱え起こした。
「おいおい、大丈夫かよ」とユウも沼地をかき分け、進んでゆく。
きれいな人型の穴に濁った水が流れ込んでくる。その中にリリアは口の中の泥を吐き出して、
「大丈夫です、これくらい」と、ロックスとエイムズを振り払い、自ら立って、動こうとしても上半身を揺することしかできていない。「わ、わたし、わたしだって……」
「リリア、もう無理だ」
「無理なことありません」
リリアはまた体勢を崩して、泥の上に手を突き、めり込んでゆく指を引き抜いて、泥にまみれながら、それでも前進しようとする。
「まだ、わたしは終わるわけにはいかないんです。わたしについてきてくれた人たちのために、わたしを信じてくれた人たちのために。わたしは諦めません。わたしが頑張らないと……」
「おい、リリア……」
肩に触れようとしたユウの手を叩き、「わたしだって」と泣くように叫んだ。
「わたしだって、ユウさんの、みんなの力になりたいのに。みんな、頑張ってくれているのに、わたしだけなにもしないなんて、できるとお思いですか? わたしだって、頑張りたいのに」
彼女の頬を伝っていた雫は、雨だったのか、涙だったのか。リリアがすぐに外套を目深にかぶり、顔を隠してしまったから判然としない。
彼女は身を揺すっている。足が持ち上がりかけて、しかし、泥の中からは引き抜けず、また前のめりに倒れた。それを助け起こすロックスの頬を涙が伝い、四方に集まっていたアントワーヌ隊員の間から嗚咽が漏れる。
すすり泣き、目元を拭い、慟哭する者がある中で、ただ一人、
「ははははは」
とユウだけが哄笑していた。
ぎょっとして一同の目が彼に集まる。
誰もが、ついに狂ったのか、と思った。
ユウはまだ腹を抱えて笑い、泥の中でひざまずき、沼に呑まれそうになるのを自らの膂力で押し退け、立ち上がった。泥を蹴散らしながら沼地を、ほとんど駆け抜けた、といっていい。そうさせるほどの活力が彼の中に漲っていた。
「ど、どうしたんだ、ユウ?」とようやくジェシカが声をかけた。
「帰る」
「は?」とまた誰もが眉をひそめた。
「全員を撤退させろ。コントゥーズに帰る」
「帰ってどうするっていうんだ?」
「この戦いに勝つ」
ユウはすでに小舟に飛び乗っていて、漕ぎ出している。
リリアを含めた一同は呆然として、打ち捨てられたままであった。
〇
それから数日後の夜。
コントゥーズとエルサドルを、小さな地震が襲った。
エルサドルはレオーラでいくつかある地震のメッカだった。プレート同士が横ずれしていて、ことあるごとに揺れる。ヨーロッパ南部やトルコ、アメリカ大陸ではカリフォルニア、日本では西日本の四国や中国地方、がこの地形に近い。だから、エルサドルの人々は地震の恐ろしさをよく知っていた。ある者は寝床から飛び起き、ある者は家から転がり出て広場に避難したり、ある者は東の空に太陽のように輝く烈光の幻覚を見たと人に話して笑われたりした。恐怖のあまり、地上付近の月がとてつもなく大きく見えたのだろうと笑われたわけだ。
また大きな揺れがあるかとその晩は恐々として過ごした人も多かったが、幸い、事後の揺れはなく、夜明けを迎え、大きな被害がなかったことも一望のもとにわかった。被害調査など、する暇がなかったともいえる。地震で大地が揺れる以上に、日の出とともにもたらされた報道に彼らの常識の方が激しく揺り動かされたからだ。
「アントワーヌがアタカ川の分水路を開削したらしい」と人はいう。「二キオはある川を一晩で掘ったって噂だぜ」
まず、誰もがその情報を信じなかった。
「そんなこと、できるわけがあるか」
ダンダロフ家当主ベイツ・ダンダロフは鼻で笑って相手にしなかった。この土木の専門家は王国の土地の性質と近年までのあらゆる建築技術を身につけていて、その土台の上に立って、無理だ、と断言した。
「二キオメータだぞ。たったの一晩で泥地を掘削できるわけがない」
右も左も泥の大地で、踏ん張りも利かず、大型の工作機も組めないところで穴が掘れるわけがない。
「ウソだ」とダンダロフは街中に喧伝し、「このような偽情報を流す報道機関と流させたアントワーヌには厳罰を下すべきだ」と揶揄して憚らなかった。
一方、現地にほど近いコントゥーズの民はアタカ川岸に殺到して、現実を目の当たりにしていた。
普段、見慣れたアタカ川本流は足下を蛇行して、南に向かうだけである。しかし、この日、少しだけ視線を北の上流に移すと、もう一本、大地を抉る水流があったのだ。普段、この箇所に生まれる流れは定まりがなく、漏出すれば奔放に大地を浸すのだが、彼らの見た水流は、まだ濁って泡立ちながらも一本の筋を描いて西に流れ、はるか彼方、南から北に帰ってくる本流と合流して、また一本の河川となって西流していた。
さらさらと、淀みなく分岐し、流れている。
半年から一年はかかるといわれた工事である。それをたった一晩でやってのけたらしい。
果たしてどういう手品を使ったのか。
アントワーヌの者たちがはるか北の方で歓喜の声を上げながら肩を叩き合っていた。そういうところを見ると、彼らがやったことのようだが、コントゥーズの民も、遅れて事実確認をしたエルサドルの民も、誰一人としてなにがあったのかを解した者はなく、予測を立てられた者すらなく、ただこの北方の民を畏れ、ジョゼの再臨かと信仰する者すら現れたという。
このころの情報伝達は馬と飛脚であったから、ダンダロフの情報入手が遅れたのは致し方がない。どうやら事実らしい、ということを知ったベイツは自ら馬を飛ばし、現地を目の当たりにして悩乱したという。
〇
時間は遡り、あの雨の日のこと。
バーナード邸に戻ったユウは雨具を脱ぐこともせず、ロックスとエイムズを呼んで、部屋にこもった。再び姿を現したのは、リリアが浴室で泥を落とし終えたころだった。
ユウが屋敷の会議室を丸々借りて、アントワーヌの人を集めていると聞き、リリアは身嗜みを整えるのもそこそこに借り当てられた自室を飛び出し、最前の席に腰かけた。一室は入りきらないほどの人が集まって、その熱気が蒸気となりつつある。
そういう部屋の最前線で、ユウは壇上に立ち、編み笠を投げ、
「コントゥーズとエルサドルのスフィアを買えるだけ買う。尽く買い占める気概で買い集める」
「それでなにをするおつもりです?」とリリアはまだ乾ききっていない髪に手拭を当てながら訊き返した。
「目的はアタカ川の分水路開削だ」
「分水路?」と誰もが顔を見合わせる。ユウは事もなげに続ける。
「アタカ川にもう一本、河川を通し、下流に接続させる。これがうまくいけば河川の氾濫を抑えつつ、陸地の排水もできる。つまり、耕作地が確保できる。耕作地が確保できれば誰も文句をいうまい」
ここでいう、誰も、というのは王国民全体のことをいう。いまのアントワーヌはコルトの税金と富商からの借金で成り立っているといっていい。
「資金源と食料も居住地も確保できてすべてがうまく回る。うまくいっているところを見れば、彼らも黙る」
「しかし、開削工事と、スフィアと、どういう関係があるんです?」
「集合晶術を連続してぶち込み、その穴にアタカ川の水を流して合流地点まで伸ばす」
全会がどよめいたのはいうまでもない。
「本当にそんなことができるのか?」
「うそだろ」
「聞いたことがないぞ、そんな話」
と口々にいう。
「いま」とユウは壁に貼り付けたコントゥーズ近郊の地図、アントワーヌ領北を叩いた。「ここの土壌は極めて柔らかい。以前から溜まっていた地層まで水分が浸透し柔らかくなっている。場所によっては一メータはゆうにふやけている。簡単に穴が開くのは調査に行った者なら承知のことだろう。それが容易に埋まらない。集合晶術の威力はいまさら説明するまでもあるまいが、その一撃をもって岩石も粉砕し、直撃した砦は消失するほどだ。簡単に地面を抉る」
議場はしんと静まり返って、ユウの声だけが響いている。
「アタカ川の開削工事はずいぶん前から計画されていて、すでにコルト議会から了承を得ている。いつ、どうやるのかもこちらに任されている。だからこれにも文句はいわれないはずだ」
さらに両腕を開き、
「この機会を除いて、この手段以外に、我々に再起の方法はない。みんながアントワーヌを愛し、帝国と戦う力を欲しているのなら、どうか力を貸してほしい。必ずこの土地を豊かなものとし、永劫の未来に繋げ、アントワーヌとみんなの繁栄の糧とし、おれたちがこのレオーラを平穏の地にする、原点となることを、ここに、約束しよう」
ざわめく一同の中で、
「やりましょう」とリリアが決断した。立ち上がったその顔は上気して真っ赤に染まり、全身から湯気が立つほどの生気が漲っている。湯上りだからという以外の理由もやはりあろう。わなわなと震えている。
わたしは、とほとんど叫ぶようにしていった。
「わたしはこの一事にすべてを賭けます。アントワーヌの興亡を賭けて、この事業を成功させてみせます」
その声を聞いた男たちの目に、輝きとも、火炎ともとれない煌めきが宿り、鬨の声となってバーナード邸を圧した。
それから先は電光石火、アントワーヌ隊は各地に散り、ホーランド家から得た金貨五枚、医療で得た募金、その他諸々の資産をほぼ消し飛ばしてスフィアを買い集めた。このせいで一時コルトのヘリオススフィア価格が高騰したほどである。
併せて大きな岩石を三つばかり買い込んだ。一個が馬車ほどもある真っ黒な石だ。
「なにに使うんだ、こんなもの」とジェシカはエルサドルの港で大きなアントワーヌに船で運ばれてきたそれを見上げて首を傾げていた。
「川というのは、流入口と流路、それと分岐点が定まっていれば暴れるものではないという。逆にいえば、それらは定まっていなければならない」
ユウは広げた地図の一点、アントワーヌ領の東端、アタカ川のぶつかる一点を差し、
「ここにこの岩石を沈めて、河川の分岐路にする。上流に向かって三角形に配置されるように、石を積んだ船を沈めてくれ」
「沈めるだけでいいのか?」
「周りが泥地じゃ動かせないだろ」
「なるほどな」とジェシカは顎を撫で、「おまえはその間なにしてるんだ?」
「測量組に行く」
普通、川を掘る、ということは、高地にある水を低地に送る、ということであり、上流から一センチでも低いところを探し、わずかずつ海抜を下げて目的の地を目指すものだ。だが、彼らの工法が特殊な都合、高低の関係なく、ただ柔らかいところを探し続けた。泥地であるから、完全に近い形まで均されて高低差を測る必要もない。ただ、地盤の硬軟だけを、彼らはただひたすらに、繰り返し、繰り返し、測っていた。
杭を打ち、埋まった深さを記録してゆく。これを数百か所と行い、膨大なデータを積み上げてゆく。本来、杭打ちの力を等しくしなければ正確なデータにはならないが、時間と労力が足りないため仕方がない。土木組を無数の班に分割し、それぞれの力量で杭打ちをしている。
もう一方、リリアを筆頭とする晶術部隊も夜明けとともに泥地に赴き、地面に小さな火球を繰り返し、繰り返し撃ち込んでいた。晶術の威力と、穿鑿される穴の形状と深さ、泥地の強度と復元力に関する記録をつけているらしいが、晶術の威力というのが、どうもユウには分からない。
「晶術の強度は詠唱中のスフィアの光強度に依るのです」
とリリアはいう。それを数値化するには光の強度を測定する専用の機械が必要なのではないかとユウは思うのだが、
「見ればわかります」
とリリアはいう。あるものの長さを見て、十メータ、二十メータ、とわかるように、あの光は十ルアン、あの光は二十ルアン、とわかるらしい。ルアンとは彼らのいう光の単位のことだ。晶術に慣れ親しみ、その威力に生活を左右されてきた人種の身につけた特殊な習性なのかもしれない。目測であるから、やはりおおよそなのは否めないが、
「例えば、馬と人とじゃ全然大きさが違うじゃないですか」とリリアはいう。「そういうものです」ともいう。
ユウには終始理解できなかったが、そういう能力なのだ、と、彼らの性癖を信じることにした。信じて、ユウは必死に杭を打っている。泥地に杭を打ち、引き抜き、杭の泥に汚れた部分にもう一人が差し渡す糸を当てて長さを測る。杭に目盛りを刻んでもすぐに汚れて見えなくなるため、この方法を取るしかなかった。
目印の杭を打ち込み、もう一歩、踏み出し、さらに一撃杭を打つ。
「広いですね」とユウと組んで泥地を歩んでいるホフマン君が、遠くに目を向けながら呟いた。いつか吉村の小屋まで案内してくれた彼だ。「交代しましょうか?」
「まだ行ける」
ユウは杭を引き抜いて、ホフマンが渡す糸を泥の汚れにあてがった。その長さをホフマンが記録して、測定済み地点の目印に小さな杭を打つ。
「まだやれる、おれは」
さらに一歩を踏み出した。
この間、延々と霧のような小雨が吹き、淡く肌を湿らしている。
〇
運命の夜。
アントワーヌ隊は全員がこの沼地の北、高台の上に集結して、月下の泥濘を睥睨していた。
夜、であったことは理由がある。
リリア曰く、
「暗い方が集合晶術の微調整ができると思います」
晶術が光の強さを目視しながら種々の、威力や落下地点の調整をする都合、暗い方が都合がいいらしい。ユウもできれば王国に集合晶術の存在を秘匿するため、夜間の決行を望んでいた。コントゥーズまで数キオと、あまりに近く、ユウの思惑は叶わないかもしれない。ともかく、アントワーヌは暗中の作業で起きる不測の事故の危険性よりも、河川を確実に繋げることを優先したのだ。彼らはそういう気概で、この事業に挑んでいる。
とはいえ、安全に無頓着だったわけではない。
この辺りは比較的地盤のかたい台地の上だが、どこまで耐えられるか知れたものではない。集合晶術の余波で崩壊し、何人か滑落するかもしれない。せめてもの助けとして小舟を何艘か、台上に打ち付けてた杭に綱を結んで下げることにした。いざとなればこれを切って、泥の中で浮くかどうか。浮いたところで他の要因に殺されるかもしれないが、やると決めたことだ。退くということはない。他にも、前線の作業員に分厚い木製の盾を持たせて、集合晶術で発生する暴風とつぶての防壁にさせている。
沼地の中、晶術の落下目標にはオレンジ色のスフィアを据え、台地の上、詠唱予定地点にはピンク色のマナクリスタルを据え、それぞれが警告灯のように瞬いている。
それぞれの対策がどれほどの効果があるのか定かではないが、限られた資金と時間と人員で可能な限りの仕事を為した。
集合晶術は、とリリアが最終確認の説明を始めた。
「比較的小型のものを八発、微調整でさらに二、三発を撃ちます。上流から下流へ、やや西に火球が流れるように打ち込みますので、西側の方々は強力な風圧に押されることとなります。東側は水の流れ込みの勢いの強いことになりますから、足元には充分気を付けてください」
後方の晶術部隊も顧みていう。
「この作戦に従事してくださった皆様には感謝のしようもありません」
命がけの作業となる。
作業中に一人、二人、十人、二十人、命を落とすかもしれず、失敗すればアントワーヌは離散するといって過言ではない。四百人、全員が希望を失い、沈んでゆく。
「非常に危険なものになりますが、必ず一人も欠けることなく、成功させましょう」
おう、と低い声が、月下の眩いほどの明かりの中でわずかにこだました。
「みんな、用意はできたか?」
盾を持ったユウの背後には緊張した兵たちの顔がある。集合晶術自体がほぼ未知の技術であるのに、それを用いて過激な作業をしようとしている。緊張しないはずがない。
「おまえら」とロックスが声を上げた。「気合入れろ。リリア嬢率いる晶術部隊が少しでも傷つけばこの作戦は終わりだと思え。おれたちが命を賭けてでも守り抜くぞ」
おおう、と応じる声は力強い。この、命を賭けてでも、というのが、実際に濃厚だから恐ろしい。
ユウは震える手で盾の持ち手を握りしめた。
いつぶりの好天だろう。きれいな卵型の月がヘリオスオーブの網目模様の中にあった。
「集合晶術、用意」
リリアの一声が夜空に響き、一本の赤い光線が月の輪郭と交差した。そのあとを追って伸び上がった光線は、するすると角度を変えて美しい円錐形を作った。その頂点が見る間に膨張して巨大な紅色の光球となった。地上は昼間のような明るさだ。あらゆる景色が真っ赤に染まる。
「来るぞおっ!」
叫んだ声に、こめかみの血管が痺れる。
うおおおお、と雄叫びが続き、その空を震わせる波の中に、少女の声が重なった。ほとんど波に揉まれながら、わずかに聞こえた。
「放て」
円錐の輝きが消え、火球が緩やかに落ちてきた。泥中に沈みかけている小さなヘリオスフィアのオレンジ色の目印に向かってめり込んでゆく。
凄まじい閃光と同時に衝撃波が巻き起こり、泥飛沫が足元から立ち昇ってきて、両手で抱えた盾をぐいぐいと押し込んで来る。身体が浮き上がりそうになる。戦場とは違う、未知のモノと相対する恐怖。それが背筋を震わせ、脳の奥を痺れさせたころ、ようやく盾の向こうの圧が下がってきた。足もとも崩れておらず、充分にかたい。
ほう、と一息ついていると、土の雨が降り注いできた。激しい水流の音に呼ばれて顔を上げると、月夜が霧に霞んでいた。足下の闇の中に濁流が流れ込んでいる。
「穴の大きさは?」と後方でリリアの声がする。報告を受けたらしく、「少し小さかったですね。次撃、準備」
「すげえ威力だ」とロックスが呟き、逆隣のホフマンは歯を打ち鳴らして震えていた。
「ホフマン君」とユウは声をかけた。「集合晶術を見たのは始めてかな?」
「ええ」
「なら特等席だったな」
と、ユウは笑う。
二本目の円錐が右翼を向いている。二つ目の火球が生まれ、大地を穿つ。二度目の衝撃。その直後、
「移動します」
とリリアが叫んだ。後方に騎馬隊がいて、晶術部隊の馬を用意している。帝国人らしく颯爽と馬上の人となったリリアが東の闇夜に駆けてゆく。
「おれたちも行くぞ」
盾組は重い装備を引きずって次のスフィアが置かれた場所まで走る。次の詠唱地点まで数百メータ、徹底的に訓練された兵士なら馬に乗り降りして走るより、自分の足の方が速い。
「走れ、走れ」
月明かりの向こうで、とろとろと穴の中に流れ込んでゆく土砂の様子がわずかに見える。見事な穴が穿たれている。しかし、刻一刻と塞がっている。時はない。一秒と無駄にできない。
「走れ」
まだ止まない泥の雨、汚濁した薄靄の中を駆ける。生き残るために。
「生き残るぞ」
この戦いに勝って。
「おれたちは生き残る、生き残るぞ」
おおお、と鬨の声が上がる。
ここから二キオの泥の道。
満身創痍の身で、一個の獣のように駆けている。
日の出とともに、この苦行は終わりを告げた。
疲れ果てたユウは高台の上の芝に転がって、桃色に染め上げられてゆく濃紺の空を眺めていた。
久しぶりの、雲一つない太陽の浮く空。
ざあ、と西風が強く吹き抜けて、雨季の終わりを感じさせる。
美しい。
このまま土の中に埋没して死ぬんだとしても、これが最後に見た景色で良かったと思えるほどに美しい。その景色を遮る影があった。
「ユウさん」と、逆さになったリリアの顔がこぼれる髪を耳にかける。
「お疲れ様でした、本当に」
「リリアも」
伸ばした手が小さな手を取り、起き上がったユウは歓喜に踊る仲間たちを見た。肩を叩き合い、組み合い、浮かれ騒ぐ。
「まだ死ねないな、おれたちは」
「当たり前です」とリリアは微笑む。「わたしたちはまだ終わりませんよ」
小さな丸い顔は、泥に汚れていても、眩しく見えた。東の地平から登る朝日よりも。
〇
このころ、ディクルベルクには春の薫風とともに、帝都の中央軍二万と、彼らを養った上で占領地も潤わせるほどの物資が運び込まれている。
エドワードはその処理を部下に任せ、九十九折の急坂を登っていった。頂上にはアントワーヌ邸があり、男が一人佇んでいた。
「久しぶりだな、アルフレッド」
数年前から変わらないボサボサの頭を掻きながら、とぼけた顔が振り返った。
「エドワード……」彼はもう背を向けていて、ディクルベルクの町並みを眺めている。
エドワードは肩を竦め、
「おれの失態だったよ。ダリオ・アントワーヌに集合晶術の技を盗まれ、天ノ岐ユウと彼に与する一団を帝都から逃がした」
ちら、と無精ひげがこちらを探るような目を寄越し、
「その、天ノ岐ユウという男、ずいぶんと買われていますね。エドワードも、ヴォルグリッドも」
俯いたエドワードの眉間にしわが寄った。
「一個の巨星かもしれん。王国のクライン、ウッドランドのキンケイド、様々いるが、あの男がおれたちの最大の障害になるかもしれない」
「よろしいのでは?」とアルフレッドは笑っていた。「むしろ、アントワーヌにはそういう傑物がいた方が、大陸の掃討は間違いなく進むかもしれません。ぼくらが逃がしておいてなんですが、アントワーヌを南にやったのは正解だったかもしれませんね」
「そうだろうか?」とエドワードは小首を傾げる。どう正解なのか、アルフレッドの頭の中が覗けないのは昔からだ。
そうそう、と彼はすでに次の話題に移ろうとしている。
「我らが団長のこと、感謝しますよ。そのまま据え置きにしてもらって」
「いまもいったが、今回の失態の九割は帝都の方にある。こっちの失敗を棚に上げて第十六旅団を裁くわけにはいくまい。おまえたちはよくやってくれたよ」
「あの人は優秀な人です。人の上に立つ才能がある。養って手に入れられるものではない人間性といったところでしょうか。失うにはあまりに惜しかった」
しかし、俯いたアルフレッドの顔が晴れることはなかった。常に飄々としていて、すべての答えを知っているような気配すら伺わせているのに。
「ぼくたちは間違っていたのかもしれない」
意外なことをいわれ、エドワードは目を見開いた。
「なにをいまさら……」
「この景色、美しいと思いませんか?」
所々焼け焦げた町の景色。
西の方は灰が積もり、場所によっては非常に厚く、無惨な廃墟の広がる地域も多いが、手前、東側の方はかつての輝きをきらめかせていた。乳白色の街道と一様に並ぶ三角の屋根。なにより、異様だったのは、それらの向こうに辛うじて見える虹色の彩りだった。
「アントワーヌはすごいですよ」アルフレッドは小脇に抱えていた薄手の本を叩き、「彼らは荒野を蘇らせる研究をしていて、それを実行し、実現させています。はるか百年、千年先の未来までを考えて」
その声が細い。
「ぼくらが定義した貴族とはまったく違う。あれが、貴族の純水結晶ともいえる人間なのかもしれない」
「わかっていたさ」
エドワードが笑みを含ませていうと、アルフレッドの怪訝そうな顔がこちらを向いた。
「全体をもって一部を判断することはできないし、その逆もまた然りだ。貴族の中にも優秀な人材はいる。それは認める。アントワーヌ一族も特別な資質の持ち主だったんだろう」
「ならよかった、というわけではありませんが」
「まさか、外れるつもりか?」
「外れませんよ、ぼくは。帝国の終末を見届けるのもぼくの役目ですから」
「そうか」とエドワードは浅く頷いた。「我が覇道に道はなく、我が歩みを振り返ることもない。そこにいくつ、誰の屍が積まれようと」
エドワードは外套を翻して、九十九折の坂道を下っていった。
〇
正面から来る木刀の切っ先を打ち、踏み込んだカレンの突きが相手の胸元に入った。相手は膝を折り、「ゲホゲホ」と咳き込んでいる。
「次」
「お願いします」と飛び掛かってきた男の唐竹割を躱し、小手を打ち、次席は怯えて動かず、苛ついたカレンの方から相手の懐に飛び込んで上段からしたたかに鎖骨を打った。
「次」と声をかけても、アントワーヌ邸北面の調練場を満たす兵の中から挑んでくる者はなかった。
「どうした? わたしに稽古をつけてくれる者はないのか? この程度の腕しかないからアントワーヌにいいようにやられたのではないのか?」
ディクルベルクに帰還してから一週間ばかりが経過したいまも、カレンの中には言葉にしがたい感情がくすぶっている。熱く、暗い、怨嗟にも似た感情であった。
まだ、とその熱が身をよじる。
まだ足りない。自分の剣は天ノ岐ユウの足元にも及んでいない。
自分の不甲斐なさ、一人の人も挑んでこないという生ぬるい現実。第十六旅団がこれほど腑抜けた集団だと、スレイエスから帰ってくるまで露とも知らなかった。
カレンを遠巻きにした兵らは怪訝な顔をして囁き合っている。それもまた卑怯に見え、カレンの神経を逆なでする。
「おまえたち、武器を取れ」
「は、はい」と二人の男がカレンの前に立ち、立つと同時に打ちのめされていた。
「訓練に身を入れていないからだ。こそこそと話し合って、いいたいことがあるのならはっきりいえ」
「す、すみません」と小さくなって黙ったまま震えている。
自分が率いていたのはこれほど情けない者たちだったのか。俯いたカレンの口元から激しい歯軋りが鳴ったとき、
「おれが相手になろう」
低い声音に振り返ると、赤髪の大きな男がいた。
「ヴォルグリッド殿……」
この男もカレンと相前後してディクルベルクに帰還していた。防具も身につけない普段着のまま、木刀を片手にしていた。ゆっくりと中段に構え、足を前後に緩く開いた。
カレンも唇を引き締め、得物を中段に据えた。そしてひとつだけ、深い呼吸をし、大きく一歩を踏み込んだ。途端、相手も大きく踏み込んできて、接近しすぎたカレンの間合いがなくなった。剣を下ろす隙間がない。
躊躇している間に、カレンの身体は容易く弾かれ、木刀が宙を飛んでいた。手甲に覆われた手首に痛みがある。
「弱すぎる」とヴォルグリッドがつまらなそうにいった台詞にカレンの苛立ちは増してゆく。
「ですから、こうして稽古をしているのです」
「この剣では何万回の稽古を積もうと高みには立てぬ」
「なんです?」
「剣の道、というのは、いかに敵に接近し、いかに斬るか、ということに尽きる。その一つ事に収束してこそ価値がある。おまえのように雑念の多い剣では振る意味がない。戦場に立つな」
「わたしの剣に雑念が多いと?」
拾った木刀の柄が鳴るほどに握りしめる。体重を前にのめらせて、ヴォルグリッドの隙を窺った。だが、その巨体の視線が地面を向いたままにも関わらず、一辺も斬り込む余地がない。
歯がゆい。
カレンの奥歯がまた鳴った。
「どうした? 来ないのか?」
いわれた体が自然と地を蹴っていた。柄を引き、胸元へ。切っ先は片手の指に据え、敵の心臓目掛けて突き出した。ヴォルグリッドの木刀を擦過して、木屑を散らす。瞬間ののち、肩口に凄まじい痛みが走り、地面の倒れていた。肩口を突き返されたらしい、と気づき、そこに走る痛みとともに、白い雲の流れる空を眺めているしかなかった。
「剣の道、か」
今日の空はいやに青く見える。
〇
「ずいぶんと優しいじゃないか」とエドワードは笑っていた。調練場から戻ってくるヴォルグリッドを見つけたら珍しいことをしている。「おまえが剣はともかく、人の道を説くとはな」
「おれにも色々あった」
からかうような顔をちらと見ただけで、ヴォルグリッドは背けた。不審に思ったエドワードは、おい、と声をかけた。ヴォルグリッドはすべてのことを決しているような顔をしているのが常であるにも関わらず、なにやら思案の色がある。
「おまえ、なにがあったか?」
「なにが?」
薄っすらとこちらを振り向いたヴォルグリッドはそのまま腕を組み、視線はどこか、道端の石ころの向こうに据えられている。その重そうな唇が、ゆっくりと動いた。
「おれは……」と探るような声音でいうのも珍しい。
「剣の道の極みは、いかなる敵も斬るところにあると思っていた。だが、違ったらしい」
「どう違った?」
「場を制することにあるらしい」
「場を制する?」
「もしかしたら、あらゆる道はそこに集約されるのかもしれん。そこに立ったとて、またその先にも道があるのかもしれんが……」
「どういうことだ?」
合点のいかないエドワードを嘲笑うふうにしたヴォルグリッドはいう。
「エドワード。世界は広いぞ、おれたちが想像できないほどに」
了