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幻想剣客史譚  作者: りょん
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第二巻 緑の丘陵編 二章 足掻く

     二章 足掻く


 一度、舞台は北に移る。

 時間も巻き戻って、アントワーヌが帝国軍と巨竜ジークベックを蹴散らして、スレイエスに渡った直後のことだ。

 ディクルベルクの公共宿脇にある厩舎である。帝国中央軍第十六旅団長のカレンはせっせと馬に荷物を積んでいた。副長のアルフレッドはその背中を眺めながら、ため息とともに言葉を吐いた。

「団長、本気ですか、単身スレイエスに入るって」

「ああ。まだ帝都との連絡には時間がかかるしな。ここのことはおまえに任せてよかろう。治安は厳しく守れよ」

「しかし、団長がいなくなるというのは、組織の運営上、どうもよろしくありませんよ」

「だからおまえに任すといっている。ここの旅団は下の下まで内政をおまえが仕切っているのを知っている。わたしなんてお飾りだってこともな」

「それは違いますよ。団員たちは団長の腕と気風に惚れ込んで、だからこそ、生死を顧みず戦い、団長から指揮権を預けられたわたしの指示を聞いてくれるんです」

「だからこそよかろう。わたしは、みんなもおまえも信頼している。町と人を預けて問題ないと信じている」

 すでにカレンは馬上にいる。彼女のまとう麻の外套が外の寒風にたなびいていた。

「帝都から補充の人員はすぐに来ます。我々だけで西方の土地を仕切っているようなものですから。どう誤魔化せばいいんです?」

「それはおまえの知恵でなんとかしろ」

 ではな、といってカレンは馬を駆けさせた。みるみるとアルフレッドが遠ざかってゆく。

 あの戦いの直後、近隣のウィンデル村で態勢を立て直していたとき、すでにヴォルグリッドの影がないことに驚いた。彼を最後に見た兵がいうには、単騎西へ向かったという。そこにはフォローツクがあり、フォローツクはノルン山脈を越える渓谷を守備する越境の町である。

 ヴォルグリッドはアントワーヌを追ったのだ。

 その決断力と挫けぬ心、なによりたった一人大陸のどこまでも駆けていけそうな身軽さに、カレンは嫉妬した。自分も追おうと決断した。ディクルベルクで各部隊の再編をし、あとは各隊の判断に任せて良いと信じて今日を迎えた。

 第十六旅団の失策はすべて自分に根があり、責任は全うするつもりでいる。皇帝陛下の耳に入れば命はあるまい。だからこそ、その前にアントワーヌに追いついて、その借りを返したい。中央荒野の寒気が去り、帝国西部と帝都との連絡が正常化するまで、あと一、二ヶ月。

 それまでに決着をつける。

 カレンは一人、薄く雪の積もったディクルベルクの丘陵地を南に駆けていった。


 そして、彼女がフォーラントに入ったのが一月後である。

「ようやく着いた」

 カレンは外套の襟元を開き、フォーラントを吹き渡る潮と草花と黒土の香りをいっぱいに嗅いだ。

「豊かな町だ、噂には聞いていたが……」

 がらがらと車輪を鳴らしながら馬車が走ってゆく。

 商人の数も、旅人の数も多い。スレイエスの交易の広さを思い知らされるようであった。

「おいおい、聞いたか」と街角で話している声が聞こえる。「アントワーヌの船が消えた話」

「聞かねえわけねえだろう、いまごろ町のやつらはその話しかしねえよ」

「人間の出来る業じゃねえからなあ。幽霊じゃねえかってもっぱらの噂だよ。帝国から落ちのびてきた没落貴族が故郷に帰るために船を漕ぎ漕ぎ、北に向かった。哀れな話じゃねえか」

「よくあるみたいだぜ、船が怨念を乗せてるってのは」

「そういうものかねえ」

「長い帆柱、あるだろ。上に見張り台がある。ある男が夜中に一人で見張りをしてたんだ。そいつが、ふと下を覗くと誰かいる。おや、誰かなって目を凝らしたんだ。船員の誰かだって思うからな。したら違うんだ。白い一枚布をまとった奴なんだと。船の中にそんな乙な格好する奴はいねえや。その一枚布がイヤにはっきり見えるんだ、こう、光ってる見てえに。見張りの野郎はよくよく目を凝らす。したら、下のやつ、帆柱に手をついた。そのまま、登って来るんだ。下のやつが動くたびにヒタヒタって音がする。濡れてるんだよ、手脚が。こいつは化け物だ、と思った瞬間、ヒタヒタヒタヒタヒタヒタってすごい勢いで登って来たんだと。近づいてわかったんだが、髪の長い女なんだ。それが、ばあっと柱を登ってくるもんだから、見張りの男は、うわあああ、って叫んで、尻餅ついて、もうダメだね、お祈りしたんだ。そしたら、なんにもねえ。恐る恐る下を覗いてもなんにもねえ。夢でも見てたのか、気のせいだったのか、わからねえが、怖えもんだから、そいつは見張り台で夜を明かしたんだ。で、日が昇ってから下に降りようとすると、帆柱がびっしょり濡れてたんだってよ」

「おめえ、才能あるよ、おっかねえ話する」

「そう? 王都に行って劇場にでも上がろうかしら」

「しかし、幽霊船ってのは聞いたことあるけどよ、昨日今日まで人の乗ってた船をわざわざ動かしていくものかねえ」

「そいつはアレだよ」と話自慢の男がまた声を潜めたところで、カレンはそそくさとその場を離れた。

 幽霊などいない。カレンも信心深い方ではあるが、死んだ者の魂が現世をさまよって私怨を晴らす、などということは絶対に信じていないし、信じたくない。

 何者かがアントワーヌの船を盗んだ、という方が合理的だ。帝国を脱出したアントワーヌとの符号が偶然とは思えず、カレンは彼らが犯人ではないかと疑った。だとしたら、リリア・アントワーヌはすでにスレイエスにいないことになる。

 調べてみれば、アントワーヌ船失踪はたった二日前のことである。

「それがね、旅の方、なんでも帝国貴族の怨念が……」

「いえ、結構」と断って足早に酒場を出たカレンは深いため息をついた。「一歩遅かった」

 逃亡先は王国だろう。国境の情報を集めてみれば、数日前まで緊張状態にあった二国は、スレイエスが北に兵を引き上げたのを機に、平常状態に戻ったという。南へ行けば、簡単に越境できて、王国の土を踏むことができるが、カレンはそうしなかった。王国のコルト領都コントゥーズからディクルベルクまで、陸路なら二か月かかるとみていい。アルフレッドと別れてすでにひと月、これ以上遠くには足を進めるわけにはいかない。官職に就いている人間の限界である。

 このまま帰るしかない。

「わたしは一体なにをしに来たのか……」

 とぼとぼと歩いていて、人とぶつかった。踏ん張る気力もなくて、ただうしろに転がりそうになったとき、宙に置き去りにしてきた腕を掴む手のひらがあった。暖かく、強い力に引き寄せられる。

「大丈夫ですか?」

 意識を引き戻したカレンの目の前に、青年の顔があった。やや色のついた肌と黒い髪、漆黒の優しげな瞳がカレンの顔を覗き込む。

 きゅうう、と心臓が鳴る音がした。

 いますぐ逃げたい。しかし、身体は強張って動けず、彼の片手はカレンの片手を握りしめ、片手は背に回って、上体を抱え込んでいる。

 ともかく視線だけは合わせまいと俯いた。

「大丈夫ですか?」と彼が心配そうな声音でいう。

「は、はあ、大丈夫です」と応じた己のなんと気の利かなかったことか。地団駄を踏みたいくらいだったが、彼に抱えられている都合、できない。

「それなら良かった」と彼は颯爽と笑う。「申し訳ない。連れの者と打ち合わせをしていたもので、注意を怠りました」

「いえ、こちらこそ……」

「お互い気をつけないといけませんね」

 では、とカレンを放って去ってゆく。

 そのうしろ姿を見送るともなく、見送って、カレンは自分の爪が食い込んだ手のひらを開いた。指の関節が痛むほど握っていたらしい。

 胸の動悸は平常を取り戻しつつあるのを確かめ、ようやく額に滲む汗を拭った。

「あれは」と知らず、呟いている。

 どういう人物だろう? 肌にやや色があり、瞳の色も黒く、帝国人にはない雰囲気だった。こういう人種はコスヨテリか、ヘリオス教会領に多く、帝国から出ることの少ないカレンが会う人種ではない。しかし、会ったことがあるような気がする。

「まさか、前世からの……」と口走った頭を激しく振った。そうではない。論理的に考えろ。そうだ、あの声は聞き覚えがある。もちろん前世ではない。

 運命というものの匂いを嗅いだ気がした。


     〇


 ユウはフォーラント東町の酒場にいる。スレイエス各都市と東隣国のファブル方面を結ぶ街道の起点にあり、内陸方面に往復する人は必ず立ち寄る情報の集積地である。情勢、地勢、天候、街道の様子、物流の傾向、あらゆる情報が集められ、ほとんど無料で、世間話のように交換されている。

 ユウは長い帳場、いわゆるカウンターに座を占め、温かいカステーニョ、つまりカリブの乳を頼んだ。ホットミルクである。帝国ではヤギ的家畜が多かったが、南に来ると牛的な家畜が多いらしい。

 ホットミルクを並々と注いだ木製ジョッキを音高く眼前に置かれ、ユウはぎょっとした。しながらも店主に訊いた。

「東の様子はどうです? 噂によると、賊の数が日に日に増しているということですけれど」

「そうらしいな。東に向かう商人どもは恐々としてるぜ。金目のものを運ぶんだから」

「どなたか、護衛を探している方はいらっしゃいませんか? 腕には自信があるんです」

「あんたが?」オヤジは眉をひそめ、闊達と笑った。「雇うやつがいるかなあ?」

「人を見た目で判断してはいけません」

「やっぱり、護衛っていったらガタイがよくないとな。まず見た目で相手を威嚇するんだぜ、兄ちゃん」

「見た目で威嚇」とユウは繰り返し、「戦いに勝つより、始まらない方法を考えるということですね」

「なかなか賢い言い回しだなあ、兄ちゃんよ」嫌味のない笑声を織り交ぜて、オヤジは続ける。「それと信用の問題もある。どこの馬の骨とも知れねえ奴を雇って裏切られたんじゃつまらねえからよ。兄ちゃんがどこから来たのか知らねえが、護衛の経験がなきゃ」

「経験はあるのです。何度か行商について旅をしましたから」

「じゃあ、その行商を探して紹介状を書いてもらうんだな。でなけりゃ、協会の会員になるか」

 協会、というのは、いわゆる傭兵ギルド。戦争や護衛など戦闘を生業とする者たちとそれに関わる仕事を集め、両者の仲介をする組織のことだ。大陸にいくつかあるが、当然、ユウは所属していない。

「なるほどねえ」とユウは腕を組んでいる。

 見積もりが甘かった。この世界は充分に商業が発達していて、倫理とシステムが確立されており、生半なことではその輪の中に介入できないということだ。レオーラの文化の熟成度合いを知っていながら安易にこういう話を持ち出した己をユウは恥じた。まだ元の世界に優越性を感じているのかもしれない。

 ユウにだって、知り合いの商人はいる。ハルの友人で、親王国派の者たちである。大陸貴族掃討を掲げるエドワードが南下してくるのなら、スレイエスは必ず戦場になる。そのときに、後方撹乱または支援のためにここへ残ってくれた人々である。

 彼らの護衛を受け持っても良かったし、紹介状を書いてもらってもよかった。が、極力巻き込みたくなかった。このあとユウは越境するつもりでいる。いらない交際をして、スレイエスの軍から追求を受けるのは彼らであって、身を危険にさらすことになる。なにより、ユウは旅の路銀がほしかった。それは関係のない商人から取った方がよかろう。仲間の蓄えから失敬することもあるまい。そう思って迂闊にここへやってきたことが浅はかであったという他ない。

 どうしようかと悩んでいるユウの前に、

「わたしが保証しましょう」と隣から割り込んできた声があった。先ほど街角でぶつかった女性だった。彼女はユウと合わせた目を逸してうつむいた。寒さのせいか、真っ白な頬がほんのりと赤らんでいた。

「さ、先ほどは失礼しました。わたしがぼんやりとしていたばかりに」

「いえ、構いませんけれど」

「その、申し訳ありませんが、話は訊かせてもらいました。わたしもファブルまで旅をする途中だったのです」彼女は店主に向き直り、「帝国の越境手形なら身分保証になるだろう?」

 ユウに比し、店主に対しては人が変わったようにはっきりとした物言いをする。女から渡された紙片を眺めたオヤジはそれでも難色を示し、

「そりゃ、保証にはなりますがね、さっきもいった通り、護衛は見てくれも大事でねえ」

「そうか」と女は笑う。「ではギヨーネの半トル瓶を一本頼めるか?」

「はあ」とオヤジは訝しむ。「構いませんが」

 カウンターの上に置かれたのは、一本の酒瓶、体積は七百五十ミリリットルくらいの、口がくびれた細長いものである。透明な瓶の中に、琥珀色の液体が満たされて、木製栓と液面の、わずかな合間で水面がゆらゆら揺れていた。

「抜刀してもいいだろうか?」

「なにをするのか知りませんが、構いませんよ」とオヤジは楽しげいう。人も集まってきた。なんの見世物が始まるのか、と興味をそそられたのだろう、一端の祭りのような雰囲気がある。

 カウンターの上の瓶、一歩下がった美女。

 取り巻いていた人垣の発する喧騒は徐々になりを潜め、固唾を呑む音すら耳に痛い。

 突如、彼女が半歩踏み出した。その白い手が、腰に佩いた細剣の柄に降りる。

 ち、と軽い音を立てて、酒瓶の蓋が飛んだ。が、瓶は微動もしておらず、液面も滑らかな切り口の下に収まって、一滴のしずくも垂らしていない。彼女の細剣はすでに鞘の中へ納まろうとしていた。

 おお、と歓声とも驚嘆ともしれないどよめきが店内にこだます。目を見張ったのはユウも例外ではない。生中な剣技ではなかった。

「誰か、わたしと彼を護衛に雇う者はいないか? いまならこの酒瓶もつけるぞ」

 希望の手が林立したのは、いうまでもない。


     〇


「スレイエスは王国国境線の兵を退かせて、北東部に兵を寄せていると、町では噂されております」とツィバイがいう。「目的はおそらく、その辺りにいる賊徒の殲滅でしょう。スレイエス側は穀物の収穫期の前に賊徒を一掃したいというのが大方の見解です」

「おれの方でもそういう情報が多かった」

 ため息が部屋に響いた。

 二人は公営宿の一室にいて、ユウは夜のフォーラントを眺めていた。街灯から漏れる燐光が町の造形を霞ませている。ほとんどが帝国産の人工ヘリオスフィアだというから、スレイエスと帝国の交易の深さを思い知らされる。それにしても、この世界の夜景は常にぼんやりとしていて美しい。

 部屋の中には小さな橙色の間接照明がひとつだけ、ベッドの横にあり、ユウと卓を挟んで向かい側にいるツィバイを背中から照らして、彼の姿を空間に黒く浮き立たせていた。いま、二人はそれぞれの町で集めてきた情報を報告し合っている。

 スレイエスはその収穫期の前に、国中を掃除しようとしている。

 レオーラ北部の主食である小麦は、地球でも同様であるが、大まかに二種類ある。冬小麦と春小麦だ。冬小麦は冬の前に種を蒔いて翌年の夏に収穫する。寒い地域でこれをすると、種は越冬できずに芽を出さない。そのため、春に種を蒔き、秋に収穫する。これが春小麦。冬小麦の方が育成期間が長いために房が大きくなるものが多い。ディクルベルクは春小麦だったし、スレイエスは冬小麦。あと百日と少しで収穫期を迎える。その前に没落帝国貴族どもを掃討したい。

「輸送されている兵站の量から、およそ二万以上を動員するのは間違いないと、町の商人たちは噂していますが」

「噂でなく、自分の目で確かめておきたいものだが」ユウは窓枠を指先で細かく叩き、「もうあまり時間がないのかもしれない。彼らが殲滅される前に糾合して、もろとも王国へ亡命しなければ」

 アントワーヌの人数が絶対的に少ない。二百人あまりの人数のうち、半分が農民と商人で、四分の一が晶術師で、四分の一が戦闘員だ。いずれ来る戦争に耐えられるわけがない。そのために、純粋な戦士を欲した。できればリリアの、帝国始祖二十九諸侯の血に心酔できる人間がいい。スレイエス北方にたむろする旧帝国貴族たちほど右の条件に適う者たちはいない。

 仲間に引き込みたい。会って、有用と思える人材なら。

 ツィバイの報告が続く。

「数十にも及ぶ組織が点在していて、それぞれの連携は見られず、一個の戦闘集団とはいえないようです。中心がないために、誰かを説得すれば全体が味方になるというものでもないかと」

「まずはそこから始めなくては……」

 皺の寄った眉間を指先で擦っていたユウは、ああ、と思い出した声を上げた。

「おれの方は護衛相手が見つかったけれど、女性が一人同行することになった。おれ一人では信頼を得られないんだと」

 ツィバイには町の噂話を集めながら、旅の支度をしてもらっていた。ユウはこの世界においての基本的な旅支度というものをまだ理解していないために、ツィバイに頼むしかなかった。彼なら、兵糧、ヘリオスフィア、衣類などの装備を過不足なく備えてくれる。そのためにユウが仕事を探す、という人材のミスマッチが生まれなければならなかった。

「若いというのは不便なものだな」

「しかし、若いというだけで貴重でもあります」とツィバイは笑う。

「別に早く大人になりたいって思ってるわけじゃないよ」ところで、とユウは続ける。「その女性は帝国人らしい。信じられる、とはいえない。だが、疑うようなこともしなくていい。疑えば疑われる。できるだけ考えないように」

「まあ、心がけますが……」

 すでにツィバイはいくらか訝る顔をしている。

 ユウは晶機の輝き溢れるスレイエスの町並みを眺めていた。

 レンカ、と名乗った彼女の美しい青い瞳と象牙色の髪。髪よりなお白い肌の滑らかさが、街を霞ませる乳白色の輝きに重なって見えた。


     〇


 幌馬車の数は十五台もあるだろう。商人の数はどれほどいるだろう、護衛と見分けがつかず、ともかく入り混じって五十人余りもにもなる大所帯だった。その大所帯の最後尾にユウら三人はいて、後方の警戒に当たっていた。

 目指す地は、アンダルム。スレイエス三大都市のひとつに数えられ、東にあるファブル国境にほど近く、彼の国との交易の要になっている都市である。

「どういう町なの?」とユウが尋ねても、ツィバイもレンカも、その町を訪れたことがないという。タモンというレオーラ大陸の生き字引のような男の重宝さが身に染みてわかる一事であった。なんの予備知識もないままに、街道を行くことになる。

 道中、およそ十日間。二百キオ近い道のりがあり、いくつもの集落があり、時折市場を開きつつ、現地の人々と売買を重ねながらの旅程だった。

 春先のうららかな風が吹いている。

 スレイエスの国土の六割は、西部から中央部にかけての大地を埋め尽くす芝の丘陵だという。その天上には雲がかかることも少なく、降水量も極めて少ない。馬上のユウが隊列の中にあって、街道を踏んだ日も、例に漏れず一面の群青とそよぐ芝の香りだった。

「スレイエスというところは、本当にいいものですね」

 レンカが柔らかな笑顔を空に向けている。

 彼女は帝国の諜報なのだろうか?

 ユウは疑惑の眼差しを向けながら、その横顔に見惚れていたらしい。彼女の青い瞳に見据えられ、慌てて目を逸らした。

「あ、あの」と白い頬に赤みが差して、潤んだ瞳が上目がちにユウを向く。「どうかなさいましたか?」

「いえ、なんでもないです」とユウは愛想笑いを浮かべて手を振るう。横顔に見惚れていました、とはいえない。「今日はいい天気ですねえ」

「え、ええ、そうですね。スレイエスの平野部ではこういう天気が多いそうです。帝国でも雲は少なかったですけれど、スレイエスの空は温かみがあっていいです」

 レンカは俯いて、

「帝国の空、というのは、常に対峙すべき敵、でしたから。油断すれば容赦なく命を奪われる。そういう土地でした」

「ははあ、過酷な土地ですなあ」

 中央荒野はまさに彼女のいう通りの空模様であった。自然、というのは慈悲深い母ではなく、鋭い牙を備えた狼といった方が象徴として適う。北方の寒冷地の特性かもしれない。

「ユウさんは帝国にいらっしゃったことは?」

「ありますが、放浪の身でしたから。長くは住んでいません。レンカさんの言葉、芯に迫っていて考えさせられます。自然とは対峙すべき敵、でしたか」

「ユウさんの御出身は?」

「気になりますか?」

 じ、と青い瞳の中を窺おうとすると、彼女は耳まで真っ赤にして俯いてしまった。あがり症なのかもしれない。

 ユウは微笑ましく思いながら、

「生まれ故郷のことは捨ててきたのです。機会があれば語って聞かせても良いのですが」

「い、いえ」と彼女は頭を振ったが、その勢いで首が抜けそうなほど激しい。「ご無理なさらず。辛い思い出なら……」

「そういうわけではありませんよ」とユウは笑う。「またお話しましょう」

「はい」と尻すぼみに呟いたきり、レンカは赤らんだ顔を馬のたてがみに向けて黙ってしまった。

 果たして、こういう人間に諜報ができるものだろうか?

 夜間、幕舎の外に出ると、女性用の幕舎から出てきたらしいレンカと顔を合わせ、どちらからともなく、ともに歩き出し、野営地内を散策したり、芝生の上に腰を下ろして語らったりした。

「大陸の西側というのは、寒流が流れる都合、乾燥しやすいんですよ」

 と、ユウはいう。

「暖流の流れる大陸東部の方が雲ができやすく、緑が育ちやすいんです。レオーラ大陸東岸のヘリオス教会領やアンガス、南東部のウッドランドは緑の多い国として有名ですし、王国やスレイエスはこうして短草が多く、大きな樹木や草花は育ちにくいわけです」

「なぜ西側が寒流なのです?」とレンカが首を傾げているのに、ユウは驚いた。生まれてこの方、こういう話に興味を示したのは、リリアと彼女くらいのものだ。

「星が東から西に回転しているからとか、風の影響とか、東西南北の潮の高低を埋めようとしているとか、理由は色々ですけれど、しかし、こんな話に興味を持たれるとは」

「知らないことは知りたいものです」

 三角に立てた膝に頬を添えるようにして微笑むレンカの、なんと美しいことか。彼女の性質とともに、ユウは好感を抱いた。敵であるかもしれないことを、ほとんど忘れて時を過ごした。

 徒然なるままに地質と海洋と大気循環のことを語り、夜は星のことを語り、レンカは終始ユウの言葉に耳を傾け、時折彼女の方を向けば真摯な青い瞳が一心にこちらをさしていることもままあった。星の光を受けたように、その瞳が輝いている。

「ユウさんは物知りですね」

「前にも、そういってくれた子がいました」

「前にも?」レンカは眉をひそめた。「その人はどうなったのです?」

「いまは遠いところに行っちゃった。いつかまた会えるはずですけれど」

 芝生の上に視線を落とすユウの手が、突如取られた。少しかさついた手のひらに両手を強く包まれている。ユウは驚きつつも、レンカの半生に思いを馳せた。働き者の手である。彼女の、ここまでの苦労が窺えた。

「わたしが」とレンカが勢い込んでいう。「わたしが、その子の代わりになりますから、ですから、そんなに気を落とさないでください」

 ユウはレンカの瞬きもしない瞳が、小刻みに揺れているのを見、噴き出してしまった。彼女は唖然としている。

「別に、代わりになる必要はありませんよ。その子は死んだわけじゃないから」

「へ」とレンカの中から空気が抜けたようだった。音を立ててしぼんでゆく。

「それに」とユウは彼女の手を握り返した。

「レンカさんはレンカさんのままでいいと思いますよ」

 薄闇の中で彼女が瞬きを繰り返したのがわかった。顔が真っ赤に染まってゆくのもわかる。

「も、もういいですっ!」とユウの手を投げ捨てるようにして立ち上がった。「わたし、先に寝ますから」

 お休みなさい、と叫んで、幕舎の方へ走っていった。


     〇


 ユウが抜刀して中段に構えた。

 その切っ先が一点に据えられて微動としない。全身からも力が抜けていて、まるで影のようである。そこにいるようでありながら、いないようであり。傍から見ていても、剣を当てられる気がしなかった。

 かなりの手練れだとカレンにもわかった。しかし、彼が両手にしているのは、白い尾を引く『あの剣』ではない。

 その様子を見て、カレンは胸を撫で下ろした。

 なにに安心しているのか、自分に問うても回答は得られなかったものの、肩から重荷が降りたことは認めざるを得なかった。

 彼の日課の稽古を眺めていたときのことだ。ユウは朝が遅くて、出立の瀬戸際まで寝ているために稽古をするのは昼か夜が多い。いまは昼食のあとの休憩時間だ。梢を通して降りてくる南陽に、鈍色の一振りが光る。

 空を斬る刃にも乱れがない。おそらく、一本線を引いた紙を目の前に吊るせば、一分の狂いもなく、線上を断つであろう。

 するりと切先が鞘に収まった。

「素晴らしいものです」とカレンは拍手して応えた。「ユウさんはどこでその剣術を学んだのです?」

「実家が剣の道場で、父に教えられました」

 ここ数日、行を共にしてずいぶん気安く話すようになったと思う。カレンの中の緊張もほどけてきて、いまでは二人きりでいる時間が心地いい。

「相当の訓練を積まれたのでしょうね」

「相当の訓練を積んだつもりでいましたけれど、まだまだ上がいます。上がいる限り、おれは上を目指す。いや、上がいなくなっても上を目指す。己の中の究極を目指す。そして究極というのはいかに近づいても辿り着くことはない。そばにあるようでまだ遠い。遠い限り目指し続ける。道というのは、そういうものだといいます」

「道、ですか」

 いっている意味はカレンにもわかる。同じく剣を志す者だ。

「レンカさんはどこでその剣を?」

「わ、わたしですか?」

 どこからどこまで話していいものか、悩んだものの、無駄であった。先に口が動いている。

「わ、わたしの家は四代前まで貴族の家で、いまの父は工場の職工ですが、代々受け継いできた剣の技を途絶えさせてはいけない、といわれ、わたしは幼いころから仕込まれたわけです」

「おれも帝国の情勢に詳しいわけではありませんが、噂によるとこの辺りに蔓延る賊徒は帝国皇帝に潰された貴族が逃げ延びて寄り集まっているのだとか」

「そのようですね。皇帝陛下にも思うところがおありなのでございましょう」

「そうかもしれませんね。非生産階級なんて害悪ですよ」

「え?」とカレンが首を傾げた。思わぬことをいう。「そうでしょうか?」

「その点、レンカさんのご先祖様はさっさと職工に乗り換えて、物を作るという仕事をして、立派だと思いますよ」

 カレンは呆然とし、頭は混乱していた。ご先祖様を侮辱されたのか、賞賛されたのか、わからない。しかし、彼がアントワーヌの指揮者であるなら絶対に吐く言葉ではないことだけはわかった。

 やはり彼はただの放浪の旅人なのだろうか?

 ユウが左手で撫でた剣の柄に、赤い筋が走った。

「血、ではありませんか?」

 ん、とユウは左手の親指を見、

「ああ、まだ慣れない剣だから」

 刃を収めるとき、鞘に添える手の、親指や付け根を薄く斬ることはよくあることだ。

 よく斬れる刃のようで、親指の表面から滔々と赤い泉が湧き出して留まることがない。

「そのうち止まります」

「よくありませんよ。化膿してしまうかもしれません」

 カレンは簡単な医療道具を常に腰の小物入れに入れている。小瓶の酒で布巾を濡らし、ユウの手を取って傷口を拭い、薬草を貼って包帯を巻く。

「はい、できましたよ」

 ユウはぼんやりと包帯を見つめている。

「どうしました?」と訊くと、ユウは思い至ったように首を振った。

「いえ、ずいぶんと手慣れたものだと思って」

「剣士に切り傷は付き物ですから。これくらいは当然です」

 胸を張ってみせる。と、彼は穏やかに笑っていた。

 その笑顔に胸が弾み、頬が緩むのがわかる。わかったから、顔を逸らさずにはいられなかった。まだ不測の事態があると、こうして顔が赤らむ。そういう自分に怒りを覚えるとともに辟易する。

 いったい、最近のわたしはどうしたことか。

「ありがとうございます、レンカさん」

「いえ、お気になさらず」

 努めて平静を装い、背を向けてしまった。彼がまた微笑ましそうにしているのが見ずともわかる。その余裕も忌々しい。

「ほら、そろそろ戻りましょう、出発の時間です」と率先して歩き出した。

 二人が野営地に戻ると、雇い主の商人が各隊を回って頭を下げていた。

「道中、みなさまのお力添えあって、ここまで無事に来ることが叶いました。これより先は西部地方の森林地帯に入ります。特に賊徒が多く、奴らも身を隠して迫ってくることでありましょう。どうか、よろしくお願いいたします」

 要するに、気を引き締めろといっている。

 ここまでは草原地帯、見晴らしもよく、賊徒と遇する可能性も少なかったが、ここから先の森林地帯はわけが違う。それは右の商人が上げる理由もあるが、それだけでもない。スレイエス、という国は西部に海港を有し、南北に大国を負っている。それに比して、東部に見るべきものはない。つまり僻地に当たる。平地も少なく、産業とするものも牧畜と石材くらいなもので、大きな町など数えるほどしかなく、重要度が極めて低い。国家としても軽視しており、そもそもの治安が悪いのだ。

 出立してしばらく、青々としていた芝よりも丈の長い白茶けた植物が目立つようになり、

低木も増え、ほどなく頭上が樹冠に覆われるようになった。ノルン山脈の山肌も近づいてきていた。スレイエスの北部から東部にかけて、湾曲しながら伸びているこの山麓は、北面は礫の壁となっているが、南面には緑が多く、生物種も多いという。

 高地に這う雪線と、ふもとに繁茂する高木の深い緑、このコントラストを眺めるだけでも帝国から出てきた甲斐がある。

 温かな日差し、綺麗な景色、草花の香りに包まれた商隊は意外なほどゆっくりと進んでゆく。周辺を警戒しながら進んでいるのか、春の雰囲気に惚けているのか。

「今日はいい日ですなあ」ユウもからからと笑みながらいう。「こんな日に襲撃してくる野盗たちの気がしれません」

「野盗も雨の日より晴れた日の方がやる気が出るものでしょうか?」

「さあ、野盗をしたことがありませんから」

 戦術的には、と口走ったユウの言葉が止まった。緊張させた視線を四方にやっている。

「ユウさん……」と問いかけようとしたときになって、ようやくカレンも気が付いた。

 目には見えない張り詰めた糸に触れた。

「なにかいます」

「うん」とユウも頷く。

 後方のツィバイも警戒した様子で、馬に足踏みさせていた。前方の護衛も何事か察したらしく、左右の雑木林を警戒しながら商隊の足を早めさせていた。無理を押してこの地域を脱しようというのだ。

「我々も」と馬の足を早めようとしたカレンの隣でユウは下馬していた。当然、カレンは目を疑って、馬の足を止めた。彼女の馬も驚いていなないている。

「なにをしているのです?」

「敵がいるならあぶり出そう」

 ユウは愛馬の尻を叩いて、叩かれた愛馬は藪の中を進んでいった。

 カレンも、ツィバイも、下馬して様子を窺っている。ユウを含めて、藪の影にしゃがみこんだ。

 発破をかけたのだ。果たして、敵側は周りを馬に歩かれて黙っていられるかどうか。

 ユウは外套を被って、深々と頭を覆った。同等の装備のカレンもそれに倣った。厚い布地で、多少の矢じりは防ぐことができる。ツィバイだけは胸当てに兜、手甲具足も備えた、いわゆる軽装騎兵の体である。断っておくが、別にツィバイだけが特別なのではない。ユウとカレンが前者の格好を好んだのだ。他の護衛も軽装鎧を一通り備えていて、普通、護衛といえば軽装鎧だ。

 ざあ、と砂混じりの風が樹冠を鳴らして、吹き渡ってゆく。

 藪の向こうで、彼の愛馬がいなないた。

 それを合図にしたように、無数の人影が藪の中から飛び出してきた。一見、大した装備もない。厚手の外套、革張りの鎧、それに似たような兜、または鉢金、武器は刀槍。刀の一振りを閃かせた男がカレンに殺到した。

「覚悟」と一喝して、刀を大上段に据えた男。その首が飛んだ。

 カレンは男の血に塗れた細剣を振い、

「馬車が逃げない」

 先行していた商隊が動かない。足止めを食らっている。

「なにかあったらしい」

 ユウも抜剣し、中段にして、一人の賊徒の小手を打ち、さらに一人の太刀を叩いて落し、脳天をかち割っている。躊躇を見せない覚悟といい、太刀の筋といい、稽古だけではない。実戦においてもかなりの腕だ。ツィバイも、こちらは諸刃の長剣であったが、きれいに振り抜き、一人、二人と斬り倒している。飛んできた矢を叩き折って、さらに来る一人と鍔を合わせていた。

 カレンが一人の手首を切り落とした横で、ユウも一人を蹴り倒し、そばを駆け抜けていった。

「ここは任す」

「任すって……」

「埒があかない。頭を狙う」

 藪の中へ消えてゆく背中を追おうとしたが、突き出された槍を躱すので精一杯だった。細剣の鎬を槍穂に添えて逸らし、一息に接近して男の脇の下を撫で斬りにした。

「ユウさんっ!」

 藪の方を見遣ったが、すでにユウの姿は消えていた。


     〇


 ユウは藪の中を走っている。

 木立の合間を裂いた矢が傍らの幹に突き立ち、藪の中から突如として伸び上がってきた短刀とユウの一振りがしのぎを削る。接近した敵の顔面を鉄拳で殴り抜き、そばにいた一人の胴を一閃した。革の鎧の上からであるから、臓器を破いたか、骨を折ったか、その程度の威力が精一杯であろう。まだ意識がある。ユウはしゃがんで、その男の胸倉をつかみ上げた。

「おまえたちの指揮官はどこだ?」

「教えるものか」

 頭の上を、矢じりが風を巻いて過ぎてゆく。

「これを見ろ」

 ユウは懐から出した一枚布を開いてみせた。アントワーヌの旗だ。男の目が見開かれる。

「おれはアントワーヌの使者だ。おまえたちと接触するために商隊の護衛をしていた。戦うつもりはない。それがわかったら、指揮官の居場所を教えろ。攻撃を止めさせろ」

 伏せた頭の上を矢が飛んでゆく。

「攻撃を止めさせろ。おまえにその権限があるのか、ないのか。ないなら他を探す。さっさと答えろ」

「なんのために、アントワーヌの使いが……」

「こんなところでそんな話ができるか」とユウは怒声を発した。頭の上を矢先が通り抜けているのである。いつ当たってもおかしくないし、新手がいまにも近づいてきているかもしれない。

「できるのか、できないのか、早くしろ!」

 ユウは胸倉を絞り上げ、絞め殺さんばかりの勢いで男の首を揺さぶった。男は顔を青くしながら片手を挙げた。すると、潮が引くように敵意が遠のいてゆく。

「使者か? アントワーヌの? 本当に?」

「そうだ。ジョゼの前に誓おう」

 男は脂汗の乗った額を拭い、首にかかった紐を引いた。ペンダントのようにぶら下がった呼笛が懐から零れ落ちた。男はそれを一息吹く。さらに、木立の向こうから同じ音が重なり、何度か連続して藪の枝葉の擦れる音が増してゆく。多くの人数が北へ向かっているようだ。

「肩を貸してくれ。案内する」

 ユウは男に肩を貸して、藪のさらに奥へ進んでいった。


     〇


 小さなロッジのような、丸太組みの家屋が何棟か、立ち並んでいる。のちに知ったことであるが、昔は帝国の、とある貴族の避寒地であったそうだ。しかし、その貴族もいまはなく、空き家同然になっている、という。

 このロッジ群はスレイエス北東部の森の奥、標高にして百メートルもなさそうな高台の上にあって、樹冠の隙間から足下に繁る木々の色合いを一望できた。陽光の下、緑と山吹色と、すでに赤みがかった樹木のモザイク模様が、平らかな地平線の向こうまで森林から湧き出す蒸気に霞みながら広がっている。絶景といってよかろう。

 ユウは五人のぎらついた双眸に監視されながら、その光景を眺めていた。彼らの、飢え、落ちくぼんだ眼球の中には、あからさまなまでに不審の色があった。頬はやつれ、肌は日に焼け、垢も見て取れ、服装は埃っぽく、裾もほつれて、辛うじて原型をとどめているといった、いかにもうらぶれているという風体である。体臭もやや鼻につく。

「ここへ来てどれくらいになるんです?」と訊いても無視されて、ここの緑は豊かですね、冬は帝国とどちらが辛いですかね、やはり帝国とは比べものになりませんか、などと立て続けに四方の顔を見遣りながら問うが、憮然とした顔があるきりで、まったく応えがない。この世界に来て、初めて言葉の壁があるのではないか、と思わされ、これが異世界か、とも思われた。

 仕方なく、ユウは春の樹冠を眺めている。

 ここへ連れてこられて、すでに一アウルほどは過ぎただろうか。太陽は傾いて淡く色づき、ユウを追ってきたセキトはその日差しを満天に浴びて、ロッジ脇で草を食んでいた。鶯色の鮮やかな小鳥が愛馬の背に止まってさえずり、トンボ様の昆虫が時折滞空しながらあちこちに彷徨としている。

 この情景だけを切り取れば長閑な色彩に溢れていた。ここに別荘を建てたかつての帝国貴族はセンスがいい。

 しかし、何時間も耐えられるものではない。

おれはいったいなにをしているのか、と、ユウは急に馬鹿らしくなり、そのまましゃがみ込んだ。ついには短草と砂地の入り混じる地面の上に寝転がって、砂の表面と景色を眺めながら時を費やした。

 この姿に監視の五人は小首を傾げ、目を丸々と開いて、しかし、口は開かない。もはやユウにとってはどうでもいいことだった。

 ようやくロッジの扉が開いたのは、さらに半アウルも過ぎてからである。ユウはすでにうとうととしていて、人の近づいてくるような気配に、やっと身動ぎした。男がユウの上に影を落としたころ、ようやく上体を立てて顔を擦った。

「ずいぶんと時間がかかりましたねえ」とユウは立ち上がって、外套の埃を叩いて払う。「危うく寝てしまうところでした」

「敵につかまっておきながら眠りこけるとは、大した胆ですね」

 相手は口元に笑みを浮かべて、片手を差し出してきた。その指は細く長く、いかにも端正であったが、握った筋肉がかたい。指の関節にマメの感触もある。戦士の手だ。

 自分より二回りは身長が高い彼と立ち会えばどうだろう、とユウはまず考えた。相手を戦士と見れば、実力のほどを知りたくなるのは最近のユウの癖になりつつあった。

「エイムズ・スランダーと申します」

 声も軽やかで若い。疲弊が容姿を老けさせているだけで、見た目ほどの歳でもないのかもしれない。いまのやつれた様子では、三十の中盤に見える。

「天ノ岐ユウです」とユウも遅ればせながら名乗った。

 いまさらだが、周りの人数が十人にもなっていた。エイムズに帯同してきたのだろう。

「お待たせしたのは申し訳ありませんでした。ここの決定は一人の意志でしているのではないのです。階級的には、わたしが最も高いために指揮者の立場にありますが、目上の方の意見も聞かなければなりませんし」

「それで、いかがでした? おれの評価は」

「まず、帝国人に見えませんね」

 帝国人というと、白い肌と赤い髪が特徴に出やすい。体も大きくなりやすい。当然ながら、ユウにその特徴は皆無だ。一方で、エイムズの方は、実に帝国人的な要素を含んだ容姿をしている。

「まったく帝国人ではありません。異邦者ですから」

「異邦者?」とエイムズは驚きの色を露わにした。「そうでしたか。さぞ大変だったでしょう」

「あなた方に比べれば、そうでもないかもしれません」

 ユウがいうと、エイムズの顔から友好的な雰囲気が風と消え、沈鬱な面持ちに取って変わられた。

 話の切れ目、と察したユウが言葉を継ぐ。

「先ほどの話ですが、おれはあなた方のことを敵とは見ていません」

「しかし、帝国から来られたのでしょう? 我々に帝国に戻れとでもおっしゃりたいのですか?」

 疑わしそうな視線を向けられて、ユウは瞬きを繰り返した。アントワーヌが帝国と同一に見られている、と知り、声を上げて笑った。

「どうやらご存知ないようですね。アントワーヌはディクルベルクを追われて、侯爵閣下は帝都に囚われ、奥方様は生死不明です。一人娘のリリア・アントワーヌは帝国を脱し、スレイエスも越えて、いまごろは王国に亡命しているはずです。王国のコルト候は彼女の古くからの知己だそうで、受け入れてくれる可能性が高いそうです。彼女がスレイエスを抜けるのを見届けて、おれとあと一人だけがここへ来ました。商人の護衛をしていたのは、彼らが襲われるのを見越して、あなた方と接触するためです」

 ユウが言葉を重ねるたびに、エイムズの目が大きく丸くなってゆく。左右からもざわめきが発した。

「アントワーヌが失脚したというのは、事実ですか?」

「でなければ、命ともいえる旗をわたしのような部外者に預けることはしないでしょう。帝国貴族にとって、家紋の記された旗は誇りと同義だと聞きます」

「いまの帝国であれば、確かに、そういうことをしかねませんが。しかし、アントワーヌというと、帝国始祖二十九家の一家。名門中の名門です」

「エドワード帝の目的がレオーラ大陸からの貴族階級の排除です。非生産階級を一掃して命の平等を図っているのです。その目的の前では、感傷もなにもすべて敵なのでしょう」

「貴族階級の排除」とこれを聞いたのも、エイムズは初めてであったらしい。仕方があるまい。ユウは、かつてエドワードと対面したから知っているだけのことで、一般には知られていない話だろう。

「それがエドワード帝の目的なのですか?」

「そう思います。事実かどうかは、あなたの耳目を広く世間に向けたうえで知った方がいいでしょう。そのためにはここを出ませんか? ともに王国に入り、リリアの力になっていただきたい」

 エイムズという男の気質は悪くない。むしろ、好感が持てる。正直で、礼儀正しく、温厚である。初対面で地面に寝ていたユウよりよっぽど好男子で、彼がまとめているならその部下も信用に値するとユウは信じた。貴族制度の価値というのは、その成熟した道義を吸収して、たまにこういう快男児が生まれることにあるのかもしれない。

「それが、あなたの本旨ですか」

「そうです。リリアは王国で態勢を立て直し、力を蓄え、いずれ帝国と一戦交えてこれを打ち破り、そののちにディクルベルクの地を奪還するつもりでいます。王国もまた帝国に脅威を感じているでしょうから、その旗頭となりえるリリアを冷遇はしないでしょう。アントワーヌは、帝国と、反帝国同盟の戦いの中心に立つことになります。そのためにはいかんせん人が少ない。いまは総勢二百人余りといったところでしょうか。純粋な戦闘部隊は百人足らずで、あとはすべて農家や商人の民間人です。とても大陸を二つに割った大戦に耐えられる人数ではありません。これから人は集めますが、ともかく、核になる戦闘部隊が必要なのです。それはリリアと同郷の帝国人が良く、貴族主義者がいいのです。リリアは名門の出で、貴族主義者であれば彼女のために、自らの誇りのために、十全の力を使ってくださるでしょう。そういう猛者を探しています。あなた方はいかがです? ここで死ぬより、ここを脱して帝国と戦いませんか? 周辺の元帝国貴族を糾合し、一丸となって南下し、国境線警備を叩けば穴をあけられるかもしれません」

 スレイエスの国境線警備の様子は、ヘリオス医療団に随行していたときに嫌というほど研究している。ユウには百人の決死隊がいれば抜けられる自信があった。ここの者たちとなら抜けられる。あの商隊襲撃から撤退したときの手際の良さを見ればわかる。

「むしろ、抜けなければ未来はないと思いませんか? ここでスレイエスに包囲されて捕縛されるか、南に突撃するか」

 四方は黙って聞いている。

「下準備は必要でしょう。この周辺にはいくつか帝国から流れてきた集団があると聞きます。できることなら、彼らも糾合し、数を増やして敵に当たりたい。どれほどの数になるか、定かではありませんが、皆さんの腕をもってすれば、国境線の突破はできます。おれはずっと国境線でスレイエス側の国境線警備を観察してきました。百の決死隊があれば、確実に抜けます。抜かせてみせます」

 ユウがいい切ると、重苦しい沈黙だけが残った。

「明確な論旨でした」とエイムズが嚙みしめるようにいい、その咬み合わせた歯の間から絞り出すようにして、さらにいう。「ですが、我々にも、我々の事情があります。ただ、ここを離れられないわけではありません」

「と、おっしゃると?」

「一晩だけ、お時間をください。天ノ岐殿が寝泊まりできるように、一部屋を用意させましょう。監視はつさせていただきますが、施設内を自由に歩いてくださって構いません。すぐにわたしたちの事情もわかってくださるものと思いますから」

「それは構いませんが、あまり時間はありませんよ。スレイエス軍はここを一掃しようとしています」

「どれほどの規模です?」

「およそ一万から二万は下らないでしょう」

 この情報にはざわめきというより、驚嘆が広がった。

「我々がこちらへ来てから二年の時が経ちますが、せいぜい百いくつという数がせいぜいでした。彼らはそれほど本気、ということでしょうか」

「時期は秋の前だともいわれています。スレイエス軍はつい先日まで王国との国境線付近に兵を展開させていましたが、いまは北東の山岳地帯、つまりこの辺りに兵を移しつつあります。秋の収穫期までに賊徒を一掃して、冬に備えたいのではないかといわれています」

「そうですか」

 と間延びした声で応じたエイムズの落胆は見るに堪えず、悲壮といってよかった。

「どれも町を行く商人たちの噂でしかありませんが」

「いいえ」とエイムズは首を振るう。「事実なのでしょう。わたしはすぐに仲間たちと会議をしなければなりません。天ノ岐殿には、どうか一晩だけお待ちいただいて」

 ユウの了解も聞かずに、エイムズは左右に短い指示を与えただけで立ち去ってゆく。ユウはそのあまりにも重苦しい背中に、声をかけることもできなかった。

 なにが彼をそうまで暗くさせるのか、ユウには見当もつかなかったが、すぐに理解した。この直後、二人の監視に挟まれるようにして宿泊用の部屋に案内されたときのことである。

 ロッジの踏み台を上がってバルコニーを踏み、建屋の扉を開いた。その先にいた人影があまりに小さい。子供である。一人や二人ではない。十人は下らない。それを世話する女性の数も数人いて、彼らの走り回る足音と騒ぎ声に耳が痛いほどであった。

 監視の男たちは彼女たちに事情を説明し、

「少しうるさいところですが、どうかご容赦ください」とユウに頭を下げた。

 ユウは部屋に入り、丸太積みの壁越しにも聞こえる喧騒に耳を澄ませた。

「こういうことか」

 同じようなロッジが他に三棟あるのだという。これだけの女子供を背負って、スレイエスと一戦を交え、国境を越えられるわけがない。


     〇


 スレイエス東部、ノルン山脈に食い込むようにして、アンダルムという町があった。山岳街道に入る前の最後の平野部だった。ノルン山脈の山体崩壊と風化によってできた扇端地にある町で、土壌は砂地、建屋は石積み、または自然石のモルタル構造が多い。町を囲うようにして松に似た細い葉を持つニシガシという植物が密生していて、ツィバイもその木立の間を抜けて、この乾いた町に入っている。

 針葉の枝葉と吹き抜けるような空の青、民家の板張りの屋根の向こうに見えるノルン山脈のややかすれた濃紺の連なりとそこにかかる雪の陰影。芝の繁茂した山肌ではカリブを始めとする種々の家畜が短草を食みながら、ゆるゆると闊歩していた。

 人は穏やかで、挙手も緩慢とし、過ぎ行く時間も彼らによって引き延ばされているかのようである。商人の多いフォーラントとはまるで違う雰囲気があった。

 人も景色も、一枚の絵画として成立するほど、美しい。

 そんな長閑な空気の中で、

「ツ、ツィバイさん」とうしろから声をかけてくるレンカは哀れなほどあたふたとしていた。「どどどど、どうしましょう、やはりユウさんを助けに行った方がいいでしょうか?」

「大丈夫ですよ、ユウ殿は馬も失って、我々を追って来るのに時間がかかっているだけです」

「しかし……」

「あの人はそう容易く死ぬ人ではありませんから。レンカ殿はレンカ殿の旅を続けてください」

 ユウは帝国の没落貴族らと接触するために商隊の護衛の仕事を受けた。それを途中で投げ出すのが主義に合わないという二人の一致した理由だけで、ツィバイのみ契約の最終地点であるここ、アンダルムまで付き合って、ユウとの連絡はこの町で取る予定になっていた。

 ツィバイは、これからこの国の反体制派と接触しようというのである。いつまでも赤の他人に付きまとわれては困るのだ。レンカには一刻も早くここを離れてもらいたい。しかし……。

「そういうわけには参りません」と一番困ることを、レンカは熱狂的に叫んでいる。「あのとき、敵が撤退したのはユウさんが前に出たおかげだとしか思えません。先頭の馬を射殺し、護衛の部隊も左右から完全に包囲して、圧倒的に優位な立場にあった敵が撤退したのはユウさんが敵指揮官を叩いたから、としか思えません。命は無事にしても、どこか怪我でもしているのかも……」

「はあ」とツィバイは頬を掻いている。「そんなこともないと思いますが」

「いまからでも遅くありません。探しに戻りましょう」

 ツィバイの仕事は一人でこの町に残ることだ。ここにいて、ユウからの連絡を受け取らなければ、今後の予定が狂う。離れるわけにはいかない。

 すでにレンカは駆け出している。自らの馬を停めた宿の方へ向かっているのだ。彼女がこのままどこか別の地に旅立ってくれれば申し分ないが、そんなことにはならないだろうし、彼女はまだしばらくこの地域をうろつくのだろうし、いま追いかけなければツィバイの内心を疑うかもしれない。なぜ仲間の安否をまったく気にしないのか、疑問を持つだろう。彼女はもしかしたら帝国の諜報かもしれないのだ。仕方なく、ツィバイは彼女の背を追いかける。

「レンカ殿、もうじき日が暮れます。夜間に森の中に入っては道に迷う危険があります。捜索するにしても明朝からにしましょう」

「ユウさんが森の中で一人怪我をしてさまよっているかもしれないのに休んでいられますか。空が青い限りは動きます」

「日は急に落ちるものです。森の中で日暮れに気づいてからでは遅いのですよ。今日のうちは準備だけをし、明日、本格的な捜索に出るべきです」

「なにを悠長なことを」

「ユウ殿だって、レンカ殿になにかあれば心を痛めましょう。ご自愛ください」

 う、と呻いたレンカの頬がほんのりと紅潮する。

「心を痛められるでしょうか?」

「ええ。間違いなく」

「わ、わかりました。今日一晩はここに留まりましょう。明日の朝、日の出とともに森に入りますよ」

「ええ」とツィバイは憂鬱な顔を頷けた。

 実に厄介なことになっている。


 窓から差し込む月がぼんやりとしているように見える。砂や埃がやや多いせいかもしれない。夜空の星とヘリオスオーブの筋は、帝国の方が強く見える。

 カレンは、延々とその景色を窓から眺めていた。

 眠れない。

 胸の奥がざわざわとして眠れない。

 窓辺に腰かけて、壁に預けた頭をわずかに倒した。ガラスに映る顔の、なんと陰鬱なことか。

「ユウさん」

 短い旅、ほんの数日の旅でしかなかった。だが、その景色が走馬灯のように、脳裏をよぎってゆく。

 緑溢れる丘陵の景色を二人で眺め、樹冠からこぼれる春の日差しを共に浴び、馬を並べて緩やかに歩いた。そういう思い出が胸を痛めると同時に温めてくれる。動悸が刻々と早くなる。

 このままでは爆発する。

 カレンは寝台の端に座り直し、深呼吸を繰り返してた。

「あの人のことが頭から離れないのは……」

 断じて愛や恋のためではない。

 ユウがアントワーヌに属する人間であるかもしれないからだ。それも司令級の人間かもしれない。あの白い尾を引く剣を佩いていなかったが、どこかに預けてあるだけかもしれない。あの日、アントワーヌ邸を包囲した日、屋上から聞こえた声は、確かに、ゆうさん、と口走っていた。

 彼のことなのか。しかし、ユウ、というのはレオーラ大陸中でありふれた名前でもある。

 ユウが、カレンが倒すべき敵なのか。まだ判断はつきかねる。だが、敵であったそのときは……。

「躊躇なく、殺す」

 胸元に握った拳を握り、傾きかけた満月を、ちら、と眺めた。

 まだ胸の動悸は収まらない。


     〇


 ざっと見積もって、子供が三十人、女性が二十人ばかりもいるという。

 エイムズたちは非常に厳しい状況に置かれている、といわざるを得ない。

 余談であるが、ここの物資事情も非常に厳しいといわざるを得なかった。帝国の寒村の方がまだマシな食事をしている。味のしないスープに、わずかばかりの粥。付け合わせなどは薄い肉片が一、二枚添えられているだけだ。子供たちにほんの少し、割り増しがあるだけで、大人たち、特に男たちは悲惨としかいいようのない食生活であった。それらが炊き出しのようにして配給される。スフィアもなく、火は薪で起こし、水は少し離れた川まで汲みに行く。

 スレイエス軍の攻勢が夏ごろ始まるとして、その前にここの人たちは飢えるのではないかと思わせる。スレイエス軍が街道の交通を断ってしまえば、商人もいなくなり、商人から得られる糧もなくなり、狩りと採集で兵糧を得るしかなくなり、狩りと採集だけで百数十人にも及ぶ人数を養っていくのは無理がある。ちなみに、男手のほとんどは戦士といえる人格と練度の者たちばかりで、五十人を少し越える。

 これも余談だが、アントワーヌを脱出した者たちは脱出を決意したその時点で家財、家族、過去の一切を捨てていた。身一つの身軽さであり、そのために速力があり、覚悟もあった。ここの人間たちは人としての生活と情を捨てられなかったために、貧困を強いられながら寄り添い合っているのだろう。

 翌朝、ユウはエイムズたちが集会場に使っている建屋まで呼び出され、監視に導かれるままに連れていかれた。その建物の居間には八人の男たちがいて、車座に胡坐をかいていた。

「天ノ岐殿の申し出は断らせていただきます」

 上座にいたエイムズが覚悟を決めた面持ちでいった。

「わたしたちには仲間がいる。家族がいる。子供たちを置いて南に行くことはできません」

 誰もが俯き、嗚咽が響き、涙をこぼす者もいた。

「おそらく、天ノ岐殿が伝えてくださったスレイエスの動きは事実であろうと思います。子供たちを連れて、それを突破することはできません。ここで家族とともに最後のときを過ごしたいと思うのが我々の決断です。そして戦って死ぬ。そう決めました」

 エイムズだけが顔を上げて、感情を見せることもなく、悲痛なまでの言葉を紡いでいた。

「天ノ岐殿に、王国行きの希望者を集めることは許可します。同行したい人は多いはずです。連れていってやってください。ですが、我々全体としては協力できません」

 ユウは眉をひそめて一同を見渡し、

「女子供も一緒に王国へ行けるとしたら、どうでしょう?」

 八人の目が丸くなってユウを向く。

「そんな方法があるのですか?」

「スレイエスのフォーラントには、我々の協力者がいます。親王国派の一派です。来たるべき王国―スレイエス戦支援のための地下組織ですね。彼らに頼めば船舶によって、少人数ずつ王国へ送れます。二国間は断交状態にあるわけではありませんから」

「しかし、怪しまれませんか? この通り、百人に及ぶ人数がフォーラントへ移動するとなると」

「男性陣は決死隊としてこのまま南下し、国境線のスレイエス軍とぶつかってもらいます。いまは警備はさほどでもないでしょう。この辺りの警備も先手を打てば崩せます。近隣の村に戦いの火が及ぶこともあるでしょう。避難民が出ます。そこに、ここの女性と子供たちを紛れ込ませます。ちょうど、焼け出されたような恰好をしているからよろしいでしょう。そのまま西に向かってもらい、フォーラントで少人数ずつ船に乗って王国へ向かう。商船には女性は山ほど働いています。商人であり、船乗りであり。簡単に紛れ込めますよ。子供たちは少し苦しいですが、荷物の中にでも紛れられるでしょう。多少希望的観測が混じっていますが、できないことではありません。いかがです?」

 唖然とした沈黙が部屋を包んでいる。一瞬前までの悲壮な覚悟も馬鹿らしくなった顔である。その中で、エイムズだけが呆れたような声を出した。

「どこからその策が出てきたのです?」

「どこというわけではありません。情報さえ頭の中に入れて、ボーっとしていれば出てくるものです」

 ふ、とエイムズが口元をほころばせて、声を上げて笑った。

「恐ろしい人だ」と膝を叩く。「わかりました。我々はあなたに従います。みんなも、いいか?」

 七人の顔が一斉に頷いた。


     〇


 ユウの生涯に永くすり寄って影響を与える人間が、このときのスレイエスにあと二人いる。一人はヴォルグリッドで、もう一人はまだユウ自身が出会っていないためにあとに回す。

 ヴォルグリッドはずいぶん早い時期から王国国境付近の砦に身を寄せて、アントワーヌが越境を試みるのを待っていた。当然、その中にユウがいるものと信じて疑わなかった。しかし、待てど暮らせどアントワーヌは現れず、驚きの報がこの砦の中にもたらされた。

 リリア・アントワーヌのエルサドル入りである。

「それはもう、とても素晴らしいものでしたよ」と実際見てきたらしい旅商人が嬉しそうに話していた。「帝国貴族、というのは、ああいうものですかねえ。船も立派でしたが、それ以上に、リリア・アントワーヌ卿が堂々としたもので。その桟橋に立った姿の眩いこと、歩く姿も優雅で美しく、後光を背負っておるようでございましたよ」

 エルサドルの民は彼女とその臣下たちに喝采を送り、町は祭の騒ぎであったともいう。

 フォーラントでアントワーヌ船が行方不明になったという噂が流行っていたので、その犯人が露見した形であった。スレイエス全体は、騒然としたものだが、ヴォルグリッドは舌打ちを一つしただけで、北に向かった。

 天ノ岐ユウがアントワーヌとともにあると信じて疑わない彼は、王国まで追跡するつもりは毛頭なかった。皇帝の客将として帝国に厄介になっている以上、仮想敵国に足を踏み入れるのは危険を伴ったし、帝都から離れすぎる。

 ヴォルグリッドの差し当っての目標は、帝国と王国の間で大きな戦争を起こすことであった。戦争を利用して、ジョゼの力を手に入れる。これは、ユウをこの世界に引き込む以前から、彼が計画していたことである。その円滑な進行のために、帝国に身を寄せているのだ。

 帝国西方貴族、アンガス王国、ウッドランド共和国。これらを始末してからエドワードはシリエス王国と対峙する。三つの勢力を討滅するには、急いでも数年の時間を要する。一日でも早く、そのときを迎えるために長々と帝国外にいるわけにもいかなかった。急ぎたい。アントワーヌが王国に依った以上、二国間の戦争が起これば、必ず奴らは矢面に立たされるし、天ノ岐ユウも同様であり、その過程で白剣は手に入る。であれば、一日でも早く、大戦争を起こした方がいい。

 そう決めたヴォルグリッドは北に向かって新しくした黒毛の馬を走らせていた。

 途中、フォーラントに寄って、宿を取った。そこに一人の男が訪ねてきた。

「ヴォルグリッドさまでいらっしゃいますね? わたくし、帝国第十六旅団から派遣されてきた者でございます」

「アルフレッドか」

 自分にこういう通信を送ってくる人間など、父とエドワード、アルフレッドの三人ばかりしかいない。

「なぜここがわかった?」

「この辺りの町に人を撒いていますから。偶然ではないのです」

「第十六旅団は人が余っているようだな」

「いえ、人は足りていませんが、抜き差しならず……」

 これを、と男は封書を一包、差し出してきた。

 アルフレッドからの手紙である。カレン団長がアントワーヌを追ってスレイエスに入ったはずであるから、必要があれば助けてやってほしい。できれば、連れて帰ってきてほしい、という内容であった。

 ヴォルグリッドはこの紙片を破って放った。

「その団長殿も、子供の使いではないのだろう」

「左様でございますが……」とすでに使者の男は及び腰である。この男、第十六旅団の者だというから、あのノルン峠の戦いに参加していたのかもしれない。ヴォルグリッドと戦場を共にし、いくらか親近感を持っていたのかもしれないが、大きな間違いだ。

 ヴォルグリッドの身から放たれる巨圧が彼を襲う。彼は襲われながらも、しかし、と震える言葉を継いだ。

「団長らしい人の情報を見つけたのです。なんでも、商人に雇われて東に向かったそうです」

「エドワードに殺されるのが恐ろしくなって傭兵にでも鞍替えしたか」

「いいえ。団長に限ってそのようなことはあり得ません」と男は前にのめるようにしていう。数瞬前まで萎縮していたのが嘘のようである。その態度に、ヴォルグリッドは少なくない興味を覚えた。

「なぜそういえる?」

「団長は強く、潔く、見目に劣らず生き方の美しい方です。死を恐れて逃げるような真似はなさいません。そう信じているから、我々はあらゆる窮地に立って、団長のために命を投げ出して戦ってきました」

 ほお、とヴォルグリッドは吐息を吐いて、腕を組んだ。よほどの信頼があるらしい。

「だったら、なぜ商人の護衛などしている?」

「もしかしたら、怪しい人物でも見つけたのかもしれません」

「怪しい人物?」

「そうでもなければ、団長が連絡もなく行方を眩ませている理由がありません」と、彼はいう。「アントワーヌの大部分は王国に亡命したのかもしれませんが、まだここに残っている者がいるのかもしれません。これも噂ですが、その団長らしい人は一人ではなかったそうです。他に二人の男を連れていた、と。なんでも、まだ二十に及ばぬ少年と、もう少し年嵩の男だとか」

「怪しい少年、か」

 ヴォルグリッドは顎を撫でて、口元に笑みを浮かべた。

「いいだろう。アルフレッドの料簡、承ったと伝えろ」

 その夜、ヴォルグリッドはフォーラントを発って、東に走った。


     〇


 ユウは四方に人の手配をした。といっても、実際に指示を出したのはエイムズである。スレイエス東部に散在する旧帝国貴族へ糾合したい旨をしたためた書状と、アンダルムにいるはずのツィバイに向けての人手である。スレイエス軍の動きにも斥候を放ち、情報収集も手抜かりなく行っている。

「じきに返答が来るでしょう。それまでの間に、我々は装備を整えておかなくては」

 二人はいま、武器庫に向かっている。

「おれが見た限り、それほど悪い武器を使っている様子はありませんでしたが」

「前線に立たせる者に、悪い武器は持たせられませんよ」とエイムズは笑う。「ですが、潤沢にあるわけではありません。後方はろくな装備もなく、矢じりに石を使っていることもあるくらいです」

「石器ですか」

「それでも牽制くらいにはなるんで、バカにはできませんが」

 武器庫の装備は鎧兜はともかく、刀槍の刃こぼれが甚だしい。八割方は刃に切れ味がなく、単なる鉄塊と変わりがない。

「これは厳しいですなあ」

 まともに使える武器は五十本ない。

「斥候からの報告では、スレイエス軍はこの辺りに兵糧基地を形成しているようです。まだこちらに攻め込んでくる気配はありませんが」

「その間に、こちらも準備を整えなければなりません」

 部屋の片隅にある、片刃の剣だけが、幾本か真っ当な様子をしている。漆黒の峰、波紋を散らした刃、鎬の白銀、光を放ってきらめく切先。柄は愛想もなにもない白木であるが、刀身は一流に見える。

 ユウはその一振りを手に取った。

「美しい……」

 人を魅入らせる魔力すらある。ユウの佩いている刀より凄まじい。ハルの仲間内の商人の一人から譲ってもらった一本で、文句をいう筋もないが。

「スレイエスの商人からかっぱらったんですか?」

「いいえ。ここの近くに鍛冶屋があって。そこの御仁が不要だとおっしゃるのでもらってきたのです」

 ユウが思うに、これを売るだけで一財産できる。その鍛冶屋を仲間にして、商品を回転させれば巨万の富になるかもしれない。商人を襲う必要もないし、このようなところで窮していなくていい。貴族、というのは、そういう至極簡単な商才ともいえない金勘定の感覚すらないようだ。

「どういう人が打っているんです? 時間があるから一目会ってみたいものです。武器も調達できますし」

「ヨシムラといって、なんでもブシの方だそうですよ」

「ブシ?」とユウはエイムズの方を振り返った。「その、ヨシムラって人は、自分がブシだっていったんですか?」

「そうですよ。そういえば、先ほどは鍛冶屋といいましたけれど、彼の自称はブシの男でした」

 名前が日本的であることに、まず驚いた。

 この世界に来てから、そういう音の名にあったことがないし、どこかの国にいるとも聞いたことがない。

 まさか、とユウは思った。

 同じ世界からの異邦者ではないか。しかし、ブシという職業には首を傾げた。武士、ではないかと疑った。アステリアの戦闘技能者は、騎士、戦士、剣士であり、武士、というのはユウは聞いたことがない。もし武士だとしたら、ヨシムラは何時代の人物なのか。リリアはヘリオストープによる召喚は時間を越えると話していたが……。

 会いたい。

 ユウの中に、南へ向かう以上に強烈な情熱が灯った。

 この、ヨシムラが、ユウの人生に大きな影響を与える一人になる。


     〇


 ヒオウ山、というのは、ノルン山脈スレイエス側の一峰で、標高は二千メータ程度。山裾には背の高い針葉樹が天地を覆い、標高が上がるにつれて、草木は縮み、山頂付近では茫漠とした礫地帯となる。しかし、山頂付近は巨大な翼竜の巣になっていて、足を踏み入れた人は限りなく少ない。

 この麓に広がる原生林、陰鬱な森の中で、ユウの興奮は、アステリアに来て以来、絶頂に達したかもしれない。

「す、すごいぞ」と単眼鏡を握る手が震えている。「ユ、ユニコーンがいる」

 単眼鏡の奥には一本の角を生やした栗毛の馬がいた。体高はやや小さく、シマウマほどであろうか。たてがみの先、眉間の辺りに灰色の、十センチばかりの角を一本だけ、雄々しく屹立させていた。ユウの熱視線に気づいてか、気づいていないのか、悠然と低木の芽を食んでいる。

「もっと、もっと近づこう」

 いうより早くユウは茂みを掻いている。

「ああ、ちょっと」と案内役の青年が追いかけてくる。エイムズの部下の一人で、ホフマンという。「天ノ岐さま……」

「いいたいことはわかります。しかし、これは二度とないチャンスかもしれない」

 単眼鏡を再び目に持っていこうとしたところで、ユニコーンはユウを一瞥し、頭の横に立てた小さな耳をひくつかせて、瞬く間に消えてしまった。茂みの中に隠れたのか、立木の死角に入ったのか、とにかく消えるようにいなくなってしまった。

「惜しいことをした」とユウは歯噛みしている。

 ここ、スレイエスの原生林は帝国に比べれば圧倒的に温暖湿潤で、ノルン山脈から流れる川の水も豊富にあり、先に書いた通り、人類にとって僻地に当たる。人の手がほとんど入っていないのだ。レオーラでも有数の野生動物の宝庫である常識を、ユウはのちに知識として知ることになるが、いまは体験によって学んでいた。

 ウサギ、タヌキ、キツネ、クマ、シカ、などを見つけ、しかし、よく見ればなにか違うような。そう思って観察しようとすると、対象はすでにそこにない。そのたびにユウは喉を鳴らす。

「天ノ岐さま、そろそろ行かねば……」

「待って、もう少し……」

 ユウは黒土と根に覆われた大地の上を這っている。葉の下に隠れていたトカゲに木枝をのばし、そのトカゲが羽を広げて飛んでいくのを見送った。仕方なく、そばにあった蔦からぶら下がる房をつつく。ふわ、と淡い光が、房の中で灯った。

「この森は良い。永久にいられる」

「永久にいられても困るんですよ」

「わかってます、わかってます」ユウは立ち上がって、まとわりついた土を払った。「この土、ひとつとっても……」

「天ノ岐さま」と低い声で呼ばれて、ユウは口を閉じた。

 いまは案内役の彼と、二人きりでいる。歳はユウとさほど変わらず、肉付きも身長も変わらない。雰囲気は困窮の中でも明るく、軽快で、接していて心地いい青年であった。

 このホフマンが、ヨシムラという武士の居場所を知っているのだといい、案内役に立ってくれた。二人はそのユウと同郷かもしれない男の下へ向かっている。

 上空では甲高い鳥の鳴き声が頻りに響いている。開けたところから空を眺めてみると、その鳥は羽毛に覆われておらず、代わりに鱗をまとっているらしい。比較対象がなくて、大きさがわかりにくい。一方の翼の先から先まで、二十メートルくらいだろうか。

「なんと興味深いところだろう」とユウは泥だらけになりながらも感激に身を震わせていた。

 しかし、これ以上ホフマン君に怒られるのも不味い。

 眼前を埋め尽くすほどの緑をかき分けかき分け進み、坂を登っては下ったりして、ふとした拍子に開けた場所に出た。河原らしい。穏やかな清流が音もなく山肌を下ってゆく。

「冷たい」

 ユウは両手いっぱいに清水をかき抱き、顔を洗った。頭も心も晴れやかになる。一方、ホフマンは大きな岩に片足を乗せ、周囲の様子を眺めていた。

「あとどのくらいです?」

「もう少しです。この川の下流です」彼は耳に手を当て、「ほら、音が聞こえます」

「音?」

 ユウも下流を見、耳を澄ませた。

 どことなく軽やかな音色が聞こえてくる。鉄を叩く音だ。かん、かん、かん、と鉄を叩く音のこだまが広がって茫洋と聞こえる。怪鳥の喚きの中に混じって聞こえてくる。

「本当にいるのか」とユウは弾む足取りで川岸を駆け下っていった。すでに森の動物たちのことは忘れている。

 徐々に音もはっきりとしてきて、煙突から噴き上がる煙も見えてきた。

 その建屋というのが、もしかしたらこの大陸で最も貧相かもしれない質の住居であった。薄い木板を繋げただけの壁は所々に朽ちて穴が開き、覗けば中が容易に窺える。たぶん、叩けば崩れるから、壁といっていいものかどうか。それが四囲いを覆って奇跡的に屋根を支えている。

 もう一軒ある。そちらはもう少し立派だった。辛うじて補修されている。きれいな鎧壁が三方までを囲い、一角は土壁になってそそり立っていた。こちらの建物の方から鍛錬らしい音が連続していた。戸も叩いたくらいでは倒れなそうにない。だから、ユウは、どんどん、と叩いて訪いを入れた。

「申し訳ない。お訊ねしたいことがあって参りました」

「手が離せん。入れ」

 扉を開けると、熱風が噴き出してきた。思わず顔を背けたくなるほどの熱波であったが、暗い部屋にきらめく火花に目を見張らずにはいられなかった。金槌で打たれているのは赤熱した鉄塊、奥では赤々と輝く炉が口を開けている。ユウの内心も、同様にキラキラと輝きを放ち始めた。その輝きに促されるまま、言葉がついて出た。

「刀を作っていらっしゃるのですか?」

「なんじゃい、用ならあとにしてくれ」

「やはり、名工というと、粟田口や和泉守などですか」

 ユウの問いに男の手が止まった。

 ヨモギ色の着物をたすき掛けに押さえ、紺の袴をたくし上げ、頭は総髪に結い、四角い顔は汗にまみれて、額は白布の鉢巻をしている。無精な口髭から滴る汗が光り、黒い瞳がそれ以上に光る。

「お主、知っておるのか?」

「やはり、日本から来られた方でしたか」

「おおう、おおう、そうじゃ、そうじゃ」と男は槌を投げ出して立ち上がり、満面の笑みで汗まみれのままユウを抱擁した。ユウはぎょっとしつつもそのまま受け入れた。

「お主、同郷かあ。奇遇じゃのう」

 大変だったのう、と叩かれる肩も耳も痛い。

「わしがこちらに飛ばされてから神州の人間と会うんは初めてじゃ。しばし待たれよ。いま炉を閉じる。茶でも馳走しよう」

 ユウたちを追い出して、ばん、と木戸を閉じた。


     〇


「いやはや、愉快、この世界に来てこれほど愉快だったことはないのう」

 ヨシムラは盃に徳利の中身を注ぎ、しきりに膝を叩いている。

 時刻は夜。囲炉裏にくべた薪の燃える仄かな赤色だけが板の間の暗黒を掃いている。

 ぱちぱち、と薪が爆ぜ、崩れて火の粉を上げた。

 ホフマンは数杯の盃を干しただけで、顔を真っ赤にし、暗い壁に寄り添うようにして微かな寝息を立てている。酒量もさることながら、今朝からの登山にずいぶんと疲れたのかもしれない。

 格子窓から流れてくる得体の知れぬ鳥の声、虫の音、冷たい風、濡れた草の香り。

 ユウは出された緑茶を満たした椀を持ち、鼻に近づけてその豊かな芳香を楽しんだ。紅茶が主流であるこの大陸では珍しい。

「そばの村での、茶を作っているのだが、それが紅色の茶なのだ。やはりわしにはこちらの方が合うので、生のものをもらってきて、自分で作っている」

 ヨシムラは、吉村と書き、江戸の千葉道場で学んだという。江戸の千葉道場というと、ユウも知っているくらいの名門だ。時は安政五年、黒船来航ののち、吉村は攘夷を唱えて、風雲急を告げる京の都に馳せてゆく道中、時空震に呑み込まれたという。

「亀山の辺りで、突然ふわっとなっての。気づいたらこっち側じゃ」

 ウッドランドの森の中にいた、という。レオーラ大陸南東の大国だ。

 ヘリオスオーブは空で大きくわだかまると質量が増して地上に落ちる。地上に落ちたヘリオスオーブは大地で繭のような固まりとなり、根を張って、徐々に大地に吸収されて縮小していずれ地下深くに没する。この吸収されたヘリオスオーブが地中の岩石と結合、圧縮されて天然のヘリオスフィアとなるのだが、ユウがこのことを知るのは、ずうっとのちのことである。「地上に出てこられたなんて、羨ましい限りです」といったくらいがユウの感想であった。

「そのころは右も左もわからなくてのう。あちこちの連中に、ずいぶんと助けられた」

 ヨシムラはウッドランドの東隣ヘリオス教会領を訊ね、しばらくは教会騎士に任じられていたものの、広い世を見るために教会を離れ、レオーラ大陸を点々とし、ここに落ち着いて刀を打っているのだという。

「ここは良質の砂鉄が採れるからの。精鉄の質が玉鋼に似ている」

「教会騎士の称号を放棄して、ですか」とユウは中空を眺めて思案する。「騎士というと、帝国では貴族階級のみの専任職でした」

「教会では大したものではない。志願して多少腕が立てばなれるものらしい。まあ、彼らの憐れみだったのかもしれんがの。故郷に帰れん放浪者に対する」

「吉村さんも相当の手練れなのですね」

 一度手合わせ願いたいものです、といいながら、

「おれは吉村さんがいた時代から百五十年後の未来から来ています」

「百五十年?」と吉村は目を剥いた。「恐ろしいのう。神州はまだ滅ばんか?」

「何度か滅びかけましたけれど、無事国の形は保っています」

「ほほ、そうかそうか。そりゃよかった」

 さらに詳しく話そうとすると、吉村は手を振った。

「遥か先の未来を知ってしまったら、元の世界に戻ったときに努力する気が失せる。元の世界に戻れれば、だがの。わしの死の際にまだ両者この世界にいたら聞こう」

 などという。

 夕餉はスレイエスの山の幸の鍋で、吉村が自作した味噌で味を調えている。

 ぱちぱち、と囲炉裏の中で薪が爆ぜ、吊るされた鍋からは湯気と味噌の香りが潤沢に立っていた。

「天ノ岐殿はどこに出たのだ?」

「おれは帝国のディクルベルクという土地にいました」

「ああ」と吉村は中空を見つめながら、顎を掻いていた。「一度訪ねたことがあるかな。賑やかな町であった」

 それからの冒険譚を、ユウは余すことなく語り、その口調は次第に興奮してゆく。

「すると、天ノ岐殿はそのアントワーヌ卿の一党の采配を預けられている、と」

「いまは離れていますが」とユウは頷く。「吉村さんが許してくだされば、ここにある刀槍を取って、彼ら元帝国貴族の一団を率いてシリエス王国に亡命し、彼らもアントワーヌに組み込みたい。その方が、スレイエスの治安のためにも、元帝国貴族たちの生活の安定のためにも良策でしょう」

「そうかもしれんなあ」と腕を組んだ吉村は舌を鳴らす。「その方がいいかもしれん」

「アントワーヌは王国で商工業を起こし、力を蓄え、来たるべき帝国との決戦に及んでこれを殲滅します。アントワーヌに再びディクルベルクの地を踏ませるのです」

 ユウは握り拳を振るっていう。

「これがおれの目指すところです」

 と、床を叩いて熱弁を振るっていた。が、

「それにどれほどの意味がある?」

 と問われ、言葉を失った。

「意味、ですか?」と単純に訊き返してしまう。

「アントワーヌに、再びディクルベルクの地を踏ませて、どれほどの意味があるのか」

「意味といわれましても」とユウは頭を掻いた。意味など問うまでもない。この問答もなにかの冗談、世間話の類だろう、とこのときは思っていた。「故郷に帰ろうとするのに、意味がいりますか?」

「しかし、そのために戦争までするというのだろう? 多くの命を奪い、または失い、疲弊させ、どれほどの意味がある?」

「おれはただ、必然的に来る戦争を利用してアントワーヌの末裔を故郷に帰したいだけです」

「それがアントワーヌの本望か?」

「それはそうでしょう」

 リリアがどれほどディクルベルクの地を愛していたか、父母を奪われた悲しみがどれほどのものであったか、常に傍らにいたユウが察するにも余りある。

「おれは彼女の無念を払いたい」

「それは怨念でものをいっている」

「怨念で?」いっていないとは言い切れない。しかし、いってもいいのではないかとも思う。「吉村さんには、リリアが受けた不条理のほどがわかっていない」

「天ノ岐殿の目は曇っている。怨念に塞がれている」

「おれがアントワーヌを助けたいと思っているのは心の曇りだというのですか?」

「君子とは」と吉村はいう。「民を安んずるためにある、という」

「そりゃそうですが……」

「決して、戦争をするためでも、奪われた故郷に戻るためでもない」

 吉村は前ににじり出て、

「アントワーヌを慕う者たちがおろう」

 確かにいる。

「その者たちを良く治め、教え、導くことが君子たるべきものの道ではないのか? 天ノ岐殿は彼らの命はアントワーヌの遺児を故郷に帰すために使うという。それが民を治めるものの取るべき道か? 天ノ岐殿は差配を任されておきながら、民の命を戦に勝つことだけに使おうとしている。果たしてそれが天に適う道か?」

 ユウはただ黙って聞いている。

「昔の話じゃ」と吉村は盃で、唇を湿らせて、「わしゃ、いわゆる勤皇党、攘夷志士じゃった。夷敵の尽くを斬り殺すと、それで神州を守護し奉るんじゃと意気込み、本気でそう思っておった」

 囲炉裏の中で、踊る炎に遠い視線を向け、

「しかしのお、ひょんなことからこの世界に来ての。夷敵と同じ目顔の連中がわしを助けてくれるんじゃ。あれをやる、これをやる、今日はここに泊まれだの、あっちで雨風が防げるなどいっくれての、ほんに涙の出る思いじゃった」

 ぱちぱち、と薪が爆ぜている。その音に促されるように、薄い唇が開いた。

「向こうの夷人とは言葉は通じん。だがそれだけじゃ。たぶん一緒じゃ。きっとわしが異国の真っ只中で泡を食っておったら助けてくれたんじゃないかと、そう思うんじゃ。そう考えると戦うんが馬鹿馬鹿しくなった。だから攘夷など下らん」

「おれは攘夷ではありません」

「そりゃそうじゃ」と吉村は手を振り、「わしには、帝国の人間も王国の人間も全く見分けがつかん」

 それでの、と続け、

「なにが侵略じゃ、と思うわけじゃ。同じ人間同士でじゃれ合ってるようにしか見えん。あっちとこっちの地面の取り合いじゃ。同じ場所が明日にはあっちの土地、その次の日にはこっちの土地。もう下らん、どっちでもよかろう、わしゃ飯を食って寝るだけじゃ」

 しかし、とユウは食い下がる。

「帝国が侵略者であるのは事実です。侵略者はこちらの意図とは関係なく攻め込んで来ます。負ければ、殺され、搾取される側です」

「ならば、勝って、殺し、搾取する側に立つ、か」

「それは」ユウは浮きかけた腰を下ろし、俯いた。自然、口が閉じている。

「わしだって、戦うなとはいっておらん。戦うことを始めから決めて政を為すのが正道かと問うている」

 曰く、と吉村はいう。

「義というのは、人の踏むべき正しい道、だという。正しい道、とはなにか。人は天より生まれ、天より生まれたならば、同じ属性を有すはず。身の内に天が宿っている。しかし、人の世は汚れ、荒み、倦みきっている。人の天性もその汚れに穢れてゆく。正義を歩む、というのは、その汚れを拭き清め、澄み切った眼で先を見据え、天に通じる道を歩むことに他ならない。人の世の喜怒哀楽を知り、愛憎も知り、それらの衝動を身の内に収め、それらの中庸、良き一点に立ってこそ、人はようやく天道に向かうことができる」

「良き一点、といわれても、それは誰にもわからんでしょう」

「その良き一点を探し求めることが正道なのではないかな」

 吉村は盃に酒を注ぎ、一息に干し、深い嘆息をした。

「いまの、天ノ岐殿は、果たして正道を進んでおられるか?」

 ユウは沈黙でもって応えにしている。吉村はさらに続けて、

「あらゆる聖人がその道を進もうとして、進みながら到達し得なかった天の道だ。しかし、誰もが向かうことはできる、ともいう」

「わかります。四書ですか」

「知っているか」ははは、と膝を叩いて哄笑し、「では、いらぬ説教であったな」

 すでに虫の音しかない。囲炉裏の灯が照らす、ごく小さな世界の外は永遠の闇にも見える。その中で項垂れるユウは、あの、と力なく呟いた。

「吉村さんは、なぜ、このようなところで刀鍛冶を?」

「刀のように研ぎ澄まされた生き方をしたいと思ったからじゃ」

「刀のように?」

「一つ事のために研ぎ澄まされたものは美しい」

 再び吉村は盃を干す。

 夜は黒を注がれるように、その濃さを増してゆく。


     〇


 ユウは一人、川辺にいる。胡坐をかいた、座禅の姿勢である。

 周囲はほとんど漆黒の闇である。ただ、さらさらと、流れる川面の音だけがある。その波間に向けて、ユウは小石を放った。ぽちゃり、と小さな音を立てた。

 目尻が熱い。ゆっくりとまぶたを閉じた。浮かんでくるのは、ディクルベルクでともに研鑽を積んだ幾多の顔であり、帝都をともに脱出してきた数多の顔。

 おれは彼らの命を軽んじていたのか。

 否定のしようがない。

 おれは戦争を前提として政策を立てた。

 来たるべき戦争に備えるというより、戦雲を呼び込み、風雲に乗じて成り上がろうとすらしていた。

 おれの志す士道に沿うことか、と己に問う。エドワードを罵っておきながら、同じ道を歩もうとしているのではないのか。

 なんと愚かなことか。

 誰のために戦うのか。アントワーヌのためか。アントワーヌを慕う者たちの命を糧に。

 誰が利を得るのか。疲弊するのは敵味方、すべての人民であり、彼らには一の利もない。ただ、アントワーヌと帝国、それらに同盟する国家または組織の意地と政略のために死んでゆく。

 なぜ戦うのか、と自らに問い直す。

「なんだか……」

 なんだか、バカらしくなってきた、なにもかも。

 いっそ、このままなにもかもを捨てて逃げ出してしまおうか。

 リリアはいまごろ王国に亡命しているはずだし、それなりの富も与え、商人と農民も従属し、金と食料を得る手段を持っている。ユウはアントワーヌに関する限り、最低限の仕事をした自負がある。

 これ以上の義理を果たす必要は必ずしもないのではないか?

 指先に小石をつまんだ。投げる。また川面が鳴った。

 いっそ、ここからアンダルムに走り、ツィバイにすべてを告白し、レンカと一緒に逃げ出してしまっても……。

 ふ、とユウは脳裏によぎった女性の面影を、頭を振って払い退けた。

 なぜレンカの顔が浮かんだのか、わからない。確かに、彼女は美形だし、気立てもいいし、一緒にいて気が合いそうだし、人生も華やぐような予感もする。しかし、それほどの仲でもない。が、一緒に逃げようと手を取れば、微笑み、頷いてくれそうな気もする。

 再びユウは頭を振った。

 なぜ、おれはそんな詮ないことに頭を悩ませているのか。そもそも、彼女がまだアンダルムにいる保証もない。とっくに、一人東の地へ向かっているかもしれない。

 ユウは暗闇の中で、吐き気を催すほどの鬱屈に身悶えしている。

 このまま逃げ出してしまいたい。

 殺人を常としていなかった西暦二千余年の日本人が、刀剣で命を取り合いをした果てに募ったフラストレーションがここで爆発した格好だった。ユウにはその才能があったとはいえ、ストレスは溜まっている。

 暗闇の中で身悶えする彼の下に、枝葉の擦れる音が届いた。背後の低木がカサカサと鳴っている。

 敵か? なにかの野生動物か?

 斬り殺そう。

 戦いというのは先手必殺である。ストレスを感じていても、実戦に親しんだ習性が先行してしまう。

 立ち上がると同時に、居合を打とうとした。が、相手がごろごろと転がって、膝立ちになったユウの前に出たため、その誰かは一命を取り留めた。

「どうしたんです? ホフマンさん」

 ユウは鯉口を切った刀を鞘に収め直した。彼は吉村の小屋にいて、一緒に一晩を越すつもりだった。そのホフマンが、息せき切って途切れ途切れの言葉を吐いている。

「伝令が、伝令が来まして……」

「伝令?」とユウは眉をひそめた。「こんな闇の中、どこから?」

「エイムズさまから」と唾を呑み下し、「西の、同胞の山塞がいくつか壊滅したそうです」

「スレイエス軍がもう攻撃を仕掛けてきたってことですか?」

 予定よりだいぶ早い、とユウは思った。ホフマンは激しく首を振っている。

「生き残った者たちの話によりますと、ヴォルグリッドがスレイエスに入り……」

 ユウは皆まで聞かず、走り出していた。

「黒騎士ヴォルグリッドか。噂には聞いたことがあるが」

 吉村はユウの話を聞き、歯を噛み合わせながら中空を睨み据えていた。

「そういうわけで、おれは山塞に戻ります。武器の件ですが……」

「まあ、よかろう」と吉村は頷いた。「その方がスレイエス国民と元帝国貴族、両者のためだろう」

「感謝いたします」

 ここまで連絡に来た兵が一人いたが、夜道を駆け通しに駆けてきていたために指の一本も動かせなくなっていた。彼に武器の輸送を任せ、吉村に明け方までの世話も頼み、ユウはホフマンに先導させて漆黒の夜道を急いだ。

 数歩前に浮くスフィアの、ほんの小さな光を頼りに、一心不乱に駆けてゆく。一歩先も闇に沈んでいる危険な道のりであった。が、事態は一分一秒を争う。根の這う道を走り、岩に飛び乗り、また飛び降りて、抜刀、眼前の木枝を切り落として勢いのまま闇の中を太ももの筋肉が爆発するほど疾駆する。

「ヴォルグリッドが各地の山塞を荒らしたのは、その残党がどこへ逃げ込むか見極めるためです。そうして見つけた山塞を潰し、また別の山塞へ逃げ込ませる。いずれおれのいるところへ来る、という寸法ですよ。どこかでおれがあなたたちと合流したのを察したらしい」

「ヴォルグリッドに追われているのですか?」

「追いつ追われつ、といったところです」

 ユウの頭の中にはもう、帝国との戦争も、アントワーヌからの遁走も、レンカの面影もなかった。ただ、ヴォルグリッドに対する因縁しかない。

 ボロボロになりながら山塞に辿り着いたのは、東の空が白むころである。

「天ノ岐殿、お戻りになられましたか」

 エイムズはすでに鎧兜を帯び、帯剣している。他の者たちも装備を整え、山塞の周囲には監視兵を置き、臨戦態勢にあった。

「ヴォルグリッドはたったの一人だといいます。先に発見して包囲すれば、いくら黒騎士といえど敵ではありますまい」

「うまくいけばよいのですが」というユウの声は沈んでいる。

 まだ吉村が打った刀槍は到着していない。武装は刃こぼれの激しいものがほとんどだ。

 正直な話、ヴォルグリッド相手にあの装備の五十人が不意に殺到したとしても太刀打ちできるとは思えない。が、勝てないといってしまうと士気にかかわる。そして、ここでヴォルグリッドを討てなければ、北に黒騎士、南にスレイエス軍と対峙することになる。いっそ、ヴォルグリッドが来る前に南下してしまうか。追いつかれる前に、スレイエスの国境警備を撃破できるとは思えないが。

 どうする?

 いま、運命の分岐点に立っている。


     〇


 雑木林の中から悲鳴が聞こえた。

 ユウがエイムズたちのロッジに到達してから数アウル後のことである。すでに太陽は南中を通り越し、西に傾いていた。

 一帯の緊張が増した。

 エイムズは指示を飛ばして数人を先発隊にして藪の向こうに送り込み、ユウもそのあとに続いてゆく。

「天ノ岐殿はあまり前に出ないでください」

 森の中での戦いは彼らの方が慣れているというのだ。森の中では彼らなりのやり方がある。ユウだってそんなことくらいは承知していたし、承知していたからこそ先を譲った。

「わかってますよ」と素っ気なく返して、ユウは藪の中に身をひそめる。

 みんな、気が立っている。それでも彼らの動きは俊敏で統率を極め、十人の人数が隊列を乱すことなく、雑木林の中を藪に身を隠しながら駆けてゆく。物音のひとつも立てずにするする木立の向こうへ進んでゆくのだ。

 勝てる、という自信があるはずである。そういうレベルの練度だ。

 ユウが彼らを見失わなかったのは、さほどの距離も移動しなかったからだ。じきに剣戟の音が耳朶を打つようになり、血の匂いも鼻を湿らすようになった。

 再び、悲鳴が樹冠を揺らす。

 ざざ、と藪を抜ける音がして、そちらに視線を送ると、淡い木漏れ日を背にして黒い影が猛烈な勢いで動いていた。その影に誰かが飛び掛かった。

 黒い円弧が宙を舞う。

 瞬間、飛び掛かった誰かの胴は二つに裂けて森の中に血の雨を降らせた。

「ヴォルグリッド……!」

 間髪入れずに、ヴォルグリッドの背後から二人の影が飛び出し、数本の矢が周囲から殺到する。矢じりは奴のもう片手にしていた木片に叩かれて地に落ちた。そうしてから悠然と振り返った黒い影は、後方からの一人の胴を抜き、一人と剣戟を一度交えて弾き飛ばし、袈裟に斬り裂いた。

 続けざまに矢羽根の風斬り音が連続する。

 ヴォルグリッドは再び移動を開始して、木立の間を縫うように駆ける。

 いつもの黒い鎧をまとっていない。筋骨の隆々とした体を麻の外套に包んでいるだけだ。まあ、あんな目立つ鎧で、帝国外への追跡などできないということだろう。

 ユウも宿敵の眼前に出るように移動してゆく。もはや音を隠す意味もない。低木の枝を蹴り飛ばすようにして駆け出した。

 琥珀色の瞳がこちらを向く。

 その隙を逃がさず、さらに三人の人数が襲い掛かるが、いくらも剣を交えずに、腕を飛ばされ、首を飛ばされ、膝からくず折れてユウの視界から消えていった。

「見つけたぞ、小僧」

「わざわざ殺されに来るとは、ご苦労だな」

 ユウは刀を抜いた。ヴォルグリッドの目が丸くなる。

「白剣はどうした?」

「捨てた。これからはこれで行く」

「冗談だな。アントワーヌに預けたか?」

「人のいうことを疑うもんじゃないよ。そんなに欲しいんなら、さっさと帰ってノルン峠の辺りを探してみるんだな。瓦礫の下に埋まってる」

 それとも、とユウは鈍色の剣先を中段に据えた。

「ここで死んでいくか?」

 すでに緊張はない。風のない、湖面のような心持だけがある。

 黒剣と刃を合わせれば、この程度の刃は一撃で砕かれる。敵の斬撃を躱し、必殺の刺突を叩きこむ。

 剣先をわずかに、左に傾けて、琥珀色の瞳を睨み据えた。そこにある顔の口元が好奇に歪んでいた。次のヴォルグリッドの行動にユウは目を剥くことになる。

 黒剣を鞘に封じたのだ。代わりに、足元に転がっていた遺体の長剣を取り上げる。

「いいだろう」と、片手の木枝も捨て、両手に握った両刃の長剣を中段に据えた。「相手になってやる」

「寿命を縮めるぜ、オッサンよ」

 ユウは藪を蹴散らして駆け出した。長剣と切っ先を触れ合わせ、半歩下がる。と、ヴォルグリッドの方から猪突してくる。大上段に上がる長剣。ユウは屈んで、刀の柄を腰だめまで引いていた。伸び上がるようにして、一息に巨躯へ突進してゆく。

 ぱ、と火花が散った。

 ユウの刺突はヴォルグリッドの鍔元を擦って激しく軋み、ヴォルグリッドの打ち込みは距離を誤って刀の鎬をしたたかに打っただけだった。

「ちい」とユウが舌打ちを漏らす一方で、ヴォルグリッドは短い感嘆を漏らしていた。

 二人は接近したまま入れ替わるようにして向き直り、袈裟斬りを交わして、再び間合いを取り直した。

「やるようになったか」

「違うな。あんたは元々黒剣の力に頼った戦いをしてたってだけだ。真っ当な死合いならおれが勝つ」

「口も達者になったか」

 話す間にも、二人は中段に構えたまま、爪先は頻りに間合いを探っている。

 じりじりと二人の距離が縮んでゆく。藪の中に身を隠したエイムズの人数たちも、固唾を呑んだまま、この凄まじい立ち合いの行方を見守っている。その凄まじさに、手を出せないでいる。

 ユウはヴォルグリッドの初撃をしのぐつもりでいた。ヴォルグリッドの得意が初撃と断じ、その初撃を外せば勝機があると考えた。かつて薩摩武士に対した新選組の手である。そのために、ヴォルグリッドの初手を待った。そしてそのときが来た。

 上か下か、左右か、刺突か。剣筋というのはおおよそその程度しかない。それを躱し、接近し、心臓を貫く。

 そう決めていたユウは度肝を抜かれた。

 ヴォルグリッドが振りかぶらなかったのである。突きでもない。長剣を盾のようにして突撃してきたのだ。

 ぎょっとしたユウは浅く振り上げ、長剣の鎬を激しく叩いた。

 が、力押しにされては巨躯の方が圧倒的であった。ほどなくユウはうしろにたたらを踏み、何度と送られてくる上段からの打ち下ろしを辛うじて防ぐ身になっていた。

「ちい」と舌打ちをして、大きく下がり、しかし、ヴォルグリッドが詰め寄ってくる。さらに袈裟斬り、撫で斬り、と間断なく打ち込んでくる。ユウの一度下がった足が前に出ない。位置を取り戻せない。

 ヴォルグリッドの刺突にしのぎを削られ、次いで上段から叩かれたときに決着した。ユウの刀が折れたのだ。

「くっそ」

 ユウは短くなった刀を見、愉悦したヴォルグリッドの巨躯を見上げる。

 これで三度目、三度目の敗北。

「惜しかったな、小僧」

 ヴォルグリッドが上段に構えたそのときであった。

 さあ、と空気が張り詰めたのである。

 ただならぬ緊張にユウは息を詰め、同じく異常を察したヴォルグリッドも上段を解いて、二歩、三歩、と下がってゆく。

 ユウの右手の藪から、出てきた一つの影がある。

「よ、吉村さん……?」

 着流しの懐に手を突っ込んだまま、草履でじゃりじゃりと薄い砂を踏む。その姿に造作がない。

「ああ、なんだ」と吉村はいう。「ヴォルグリッド殿、といったか」

「貴公は?」

「吉村という。この辺りで鍛冶をしている者だ」

「その鍛冶屋がなんの用だ?」

「そこの、彼はわしの友人なのだ。男の決闘に口を出すのは野暮というものだが、どうにも、ここで彼を失うのが惜しい。わしの手の届く範囲での、失うのが惜しいのだ。昨日知り合ったばかりでの。どうか、ここは見逃してもらえんか?」

「野暮だと思うのなら、黙っていればいい」

「わしも、そうしようかと思った。が、しかし、武士には、道、というものがある」

「なに?」

「黙って生きるか、友のために戦って死ぬか。二者択一で迷ったのなら、敢えて死地に飛び込むものだ、という」

 唐突に、ヴォルグリッドが哄笑した。

「面白い。貴公が代わりに死ぬか」

「それも良かろう」

 ヴォルグリッドが上段に構えた。対した吉村は懐手にしたまま動かない。着流しの帯にぶち込んだ刀の柄に、手をかけることもしない。

 だが、すでに決着は見えていた。

 おそらく、一歩でも踏み出せば、ヴォルグリッドの胴は裂ける。その瞬間、死ぬ。

 ユウにも手に取るように結末が見えた。対峙しているヴォルグリッドはなおのことであろう。赤髪の生え際、浅黒い額に粘着質の汗がじっとりと滲んで、その頬はこわばったまま、目ばかりが見開かれてゆく。

 吉村は強い。ユウの想像を絶するほど、強い。

 一帯には緊迫した空気だけがあった。

 木立も、鳥も、風すらも、この張り詰めた空気に束縛されたかのようになりをひそめている。一切の音のない、うららかな木漏れ日の下であった。

 ただ、身の内で、心臓だけが高鳴っている。緊迫した空間。

 どれほどのときが経ったであろう。

 しばらくして、ヴォルグリッドは剣を下ろした。その呼吸が荒い。

「吉村、といったか」

「うむ」

「また、手合わせしたいものだ」

 ヴォルグリッドは背を向けた。

「小僧、命拾いをしたな」

 ユウに一瞥をくれ、そのまま藪の中へ消えていった。

 ど、と音を立てて、ユウは尻餅をついた。


     〇


「おれがどれほど小さな世界で足掻いていたかがわかった気分です」

 ユウは地べたに端座して吉村と向かい合っていた。泣きそうになりながらいう。

「その悟りもまた、この広い世界の中ではほんの小さなことでしかないのかもしれませんが」

「うむ、まあ、そうだのう」という吉村は木に寄りかったまま胡坐を掻いている。袖に腕を通し、刀は胸元に抱え、難しい顔を俯けている。

「まあ、よかったのではないか。そういうことに気がつけて」

「本当に未熟でした」

 ユウは膝の上で拳を握っている。

「おれは南に行きます。彼らを王国に亡命させて、アントワーヌの下で生活させます。それが世間のためでしょう」

「うむ。そうだのう、その方が丸く収まるか。しかし、越境ができるのか? いまは王国とスレイエスの仲がすこぶる悪いと聞く」

「そこは力技になりますが、南は最近まで重警戒になっていたのを解いたばかりです。国内の神経は北に向いていますし。電光石火、その隙間をついて撃ち抜きます」

「そこまではわしは手を貸せぬが、武運は祈っておるよ」

「はい」とユウは頭を下げた。「まことにお世話になりました。必ず、レオーラの地を和平に導いてみせます」

「うむ」と吉村は大儀そうに立ち上がって、背を向けた。

「また、縁があれば会おう」

 そのまま藪の中へ消えていった。

 すでに日は暮れかけている。ユウは吉村にロッジで一泊していくよう薦めたが、断られてしまった。賊徒とは戯れない、という。彼自身はスレイエスの民の世話になっているためだ。理由はどうあれ、スレイエス民から強奪を重ねていたエイムズたちとは枕を並べられないということだろう。ユウはそれで構わなかった。

 ただ一人、ユウは色づいた木漏れ日の中、座禅を組んでいる。

 おれは、なんと小さな世界で生きていたことか。

 吉村は剣を抜かずしてヴォルグリッドに勝った。戦いに勝つ、というのはこうあるべきである、ということを心底知った。ユウは自身の目指すべきアントワーヌと己の形を、いま眼前で見た。

 活人剣、とでもいうのだろうか。

 戦わずして勝つ。その極みの世界。いや、いま見えている極みの世界もほんの小さな山の頂なのかもしれない。

 おれはまだ山を登り始めたばかりのところにいる。果ての見えない、山の頂を目指して登る、道の入り口に立っている一人の人でしかない。しかし、立つことができた。その一つ事だけで、このスレイエスの地を訪れ、残った甲斐があったと思う。

 ユウの頬を涙の筋が伝う。

 握った拳が震えていた。


     〇


 藪をかき分けている人が二人いる。一人が顔を出した。ツィバイである。その表情が曇っている。

「レンカ殿、今日はもう帰りましょう」

「なにをいっているのです」とカレンも顔を出した。「今日こそ、ユウさんを見つけて帰らないと……」

 再び藪の中に飛び込んで、地を這うようにして誰かの歩いた痕跡を探している。

「ここに靴の跡が……」

「我々が昨日ここを通ったときの跡ではないのですか?」

「この枝の折れ目が新しいのは……」

「ここに動物の糞があります。それなりの大きさなので、これでしょう」

「ツィバイ殿、ユウさんはツィバイ殿の連れの方でしょう。心配ではないのですか?」

「そうはいわれても、その証拠を辿ったところでユウ殿の居場所に辿り着けるわけでもありますまい」

「そうかもしれませんが……」

「そろそろ日が色づいてきています」ツィバイは樹冠の向こうの空を眺めた。「我々も戻らないと、二重遭難の危険がありますよ」

「むううう」

 と唸ったカレンは唇をかたくしながら藪の中から抜け出して、街道に出た。

 ユウが行方不明になって早数日、夜が明けるのを焦がれるほど待ちわびて、日が昇るとともに森に繰り出し、暮れるまで徘徊する。そういう日々が続いている。

「明日は捜索範囲を広げてみましょう」

「二人だけでは限界があります」

「では、人を雇いましょう」

「レンカ殿、あとはわたしがなんとかしておきますので、どうか、先をお急ぎください」

 ツィバイは懇願するようにいう。が、「なにをいっているのです」とカレンは一蹴してやった。

「旅は道連れといいます。最後までご一緒しますよ」

「はあ」と呟いたツィバイは頷いたのか、項垂れたのか、よくはわからなかったが、折れたようだ。

 アンダルムの町が見えてくる。と、ツィバイはなにかに気づいたように、

「レンカ殿、少し用事がありますので、これにて失礼いたします」

「え?」と耳を疑ったカレンが振り返っている間に、どこかに行ってしまった。「あの人は、本当にユウさんの仲間なのかしら」

 わたしの耳が正常だったということはツィバイのことを疑うしかない、とカレンは思う。彼女の方が親身になってユウの行方を捜しているのだ。毎日毎日、ツィバイは仕方がなさそうにカレンのうしろをついてきて、事々に否定的な言葉を投げてきてはこちらの意気を削ごうとする。また、カレンのことを疎ましく思っている素振りを見せながらも、監視するような視線を注ぎながら、くっついて離れない。そうかと思えばいまのように唐突に姿を消したりする。

 ああいう友人を持ったのがユウさんの不幸だな、とカレンは宿に向かった。

 しかし、カレンはその事情を唐突に察することになる。発端は、その夜のことだ。驚いたことに、帝国から密使が来たのである。

「アルフレッドか」とカレンは辟易したように、いや、実際辟易していう。

「はい。急ぎお戻りになられるようにと」

「肝の小さい男だなあ」

 老婆のように心配性、というのはアイツのようなことをいうのだ。

 手紙まで携えていて、その内容が、第十六旅団には荒くれ者が多いということ、その統率の難しさ、カレンがいることの重要性を迂遠に延々と説き、じきに冬が過ぎれば皇帝陛下がディクルベルクに入ること、そのときにカレンがいなければカレンどころか第十六旅団全体の体裁が整わず、いかに窮地に立たされるかということが脅し文句のように、また悲嘆に暮れるような表現が、非常に穏便な手法でもってしたためられている。

 そういう手紙の行間をほとんど読み飛ばすようにして目を通したカレンは文末にあるアルフレッドの記名を見、紙片を半分に裂いた。

「しかし、よくわたしを見つけたものだ」

「副長はかなりの数の密偵をスレイエスの探索に放っていますよ。そういう意味でもディクルベルクに人が足りないのです」

「ならスレイエスの探索などに人など割かなければいいのに」

「それだけ団長のことを気にかけて、必要としていらっしゃるということです」

「そうかなあ」

 背もたれに体重を預け、両手にした手紙を細かく千切っている。四分の一、八分の一、十六分の一にしようとするとさすがに厚みがあって、紙がかたくなる。その紙片の束を見つめたカレンに天啓があった。

 ツィバイは、ユウと秘密裏に交信を、手紙のやり取りをしているのではないか?

 大した天啓でもない。普通考えればわかりそうなものである。ユウが賊徒の戦いの中で行方不明になった、というその暗澹とした不安が彼女の煙幕になっていたのかもしれない。

 天啓を受けた彼女の中ですべての辻褄が合ってゆく。ツィバイがユウを心配しないことも、カレンの監視をしつつカレンから身を隠すことが稀にあることも。秘密の通信をしているとしか思えない。しかし、なんのために……。

「秘密の通信をしているとしたら、どういう内容かな?」

「は?」と唐突に尋ねられた密使は小首を傾げ、「恋文、とかでしょうか?」

「そういうのではなく」

「なにか悪事でも働こうというのではありませんか?」

「悪事!」と絶叫したカレンは椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、ツィバイの部屋まで走った。鍵のしまった扉をぶち破って開け、すでにもぬけの殻であるのに悔しさを爆発させた。

「やはり後ろ暗いところがあったんだ、ユウも、ツィバイも……」

 そのうしろで宿の亭主が苦情をいっている。夜に騒がれるのも迷惑であるし、部屋の扉をぶち壊されたのはそれ以上の迷惑であると顔を真っ赤にして、密使の方に詰め寄っている。

「もちろん弁償してくださるのでしょうね」

「いや、しかし、持ち合わせがなく」と密使の男が戸惑っている。「団長、いったいなにを……」

「ここは任せる」

 いうが早いか、カレンは細剣を佩き、馬にまたがって夜闇を切っていた。怒号と悲鳴が遠くなってゆく。

 ユウは、やはりアントワーヌの司令者だ。確信に近い憶測を抱えながら、カレンは奥歯を鳴らした。

 この細剣で彼の心臓を止める。止めてやる。

 ユウのことを思い浮かべた途端、胸の奥がずきりと痛んだ。

 笑顔も、声も、一緒にいたときの穏やかな空気。そのどれもが懐かしくて暖かい。その彼に、たばかられた衝撃。

 裏切りられた。

 その一事だけでも、ユウが本物であれ、偽物であれ、裁きを受ける義務があるとカレンは信じて疑わなかった。表面上、彼が帝国の敵であるからと大義を掲げ、自らの怨念を晴らそうとしている、その身の内にある仄暗さにも薄々と気がついて腹が立った。

「くそ」とカレンは舌打ちを打つ。

 ツィバイはどこに行った? ユウはなにをしようとしている?

 彼らがアントワーヌの人間なら、必ずアントワーヌと合流しようとする。そのためには……。

「よし」

 カレンはひとつ頷き、馬を南に走らせた。

 必ず、あの二人は国境を越えようとする。必ず、アントワーヌのいる南へ向かう。


     〇


 スレイエスは建国以前、南のシリエス王国の領土であり、王国の一諸侯である公爵が治めていた。その家に、王家の者が嫁ぎ、のちに独立を許され、一個の国家を成した。そのため、スレイエス王は代々公王と号され、実際的には王国の臣下であった。王国にしてみれば、そのころ勢力を広げつつあった帝国との緩衝地帯のつもりであったのだろう。都合、スレイエスは官民ともに、代々シリエス王国を宗主国として仰いできた歴史がある。

 建国当時から、スレイエスには二つの軍があった。北軍と南軍である。当然、建国当時の仮想敵は北の帝国であったから、北軍は精強であり、優秀な人材を揃え、いわゆるエリートのイメージが強い。公都の警備も北軍が担っている。南軍は後詰めであり、地方軍とか予備兵とかいう匂いが濃かった。

 しかし、近年に至って、スレイエスは北から流れてくる大量の富にたぶらかされ、帝国と同盟を結び、王国に反旗を翻して、南の国境線が仮想戦場となっている。実際、南の兵は精強で、彼らを率いるフォーク将軍はスレイエス一の名将であり、猛将であると彼我の兵の間で評価が高い。対して、北軍を統率するシフ将軍は政治的であり、公王に取り入って将軍になった雰囲気が濃厚にあった。兵の内での評判は決してよくなく、調練も部下に任せて手を付けないのが常套であった。

 いまの北軍は腑抜けではないのか、と囁かれることも少なくはない。だが、北軍にはエリート兵としての伝統と誇りがあった。むしろ、伝統と誇りだけがある、ともいわれていた。しかし、近年北軍には本格的な実戦が少ないため、シフという男と率いる北軍が軍事的に優秀なのか、あるいは愚鈍なのか、その真価を知っている者は誰もいない。

 右の話は、スレイエスでは調べるまでもなく、世間で語られている常識である。

「おれたちは」とユウはスレイエスの地図を前にして、腕を組んでいる。「当面、このシフ将軍と対峙するのですね」

「フォーク将軍の本隊は南西部にいて、コルトの動きを牽制するのが主な職務になっています。南軍の一部は北軍の宿営地に物資の搬入をしているようですが、いまのところ、本格的にこちらへ移動してくる様子はありません」

 エイムズはスレイエスの南西部、王国のコルト領との境目を差し棒で示した。するする、とその先が東部に移動してゆく。

「国境付近にわずかに南軍が敷かれているはずですが、斥候の連絡ですと、彼らも北軍への物資調達の仕事をしているようです。戦闘態勢にないでしょう」

「何日も前の状況でしょう?」

 南国境まで早馬でも数日かかる。「ええ。そうですが」とエイムズも頷いている。

「南のことは南に下ってから、改めて調査しましょう。できることなら、南軍とは無用の軋轢を生まず、守備の薄いところを貫きたい。幸い、国境線は東西至る所が丘陵地です。全域を警備するのは至難でしょう」

「はい」とエイムズは頭を垂れた。

 以前、ユウが身を寄せていたヘリオス教会医療団はスレイエス西部に駐屯していた。ユウは西部にいながら、長い国境線の東の果てまで調査したが、確かに、スレイエス兵は西部、コルト側に偏っていた。理由は王国内の軍事事情があるのだが、いまは関係ないので省く。ともかく、ユウの目には、スレイエス南軍は確かな調練を積まれているように映ったし、彼はスレイエスの国風、つまり、純粋貴族に憧れるという国風を侮らなかった。南西国境警備部隊の様子を伺っているうちにそう感じた。彼の目に映ったのはちょうど、フォーク将軍の本陣だったらしい。

 スレイエス東部は東部で、果てに一個、大きな要塞があるものの、西部のフォーク将軍麾下の部隊とは数百キオも離れている。その合間の警備はさほどでもない。

 スレイエス中央部国境線なら抜けられる。

 ユウは改めて確信した。

「山塞にいる人の数は、ヴォルグリッドに粉砕された各地の者たちが合流して百人を少し超えています」

 ユウは地図を眺めながら、自分に言い聞かせるようにいった。

「他の山塞へ、合流を求める書状も多く発しました。おそらく、結局のところ千人を少し上回る人数になることが予想されます。それが一時に東部国境線を強襲すれば、一掃することはできなくとも、抜くことは難しくないはずです」

「ええ、必ず」とエイムズは頻りに頷いている。

 それにしても、エイムズと彼の配下は、、ユウとヴォルグリッドとの苛烈な戦いを見、彼の覚悟と腕前に並み以上の評価をしたらしい。元々ユウは相談役の立場にあったが、いまでは参謀の位置にあるといっていい。今回の南下策も、全面的にユウの意見が取り入れられていた。ユウとしては、負け戦でそれほど評価されても困った。だが、彼らが話を聞いてくれるのは都合がいい。

「国境線から兵が引けた、というのは、南軍が北軍の後援に回ったということですね」

 ずいぶん前にあった王国とスレイエス国境間の緊張のことをいっている。これにもエイムズは頷いた。

「そういう認識で合っているかと思います。兵の数自体が減っているわけではありませんが、臨戦態勢ではありません。それが平時のスレイエス軍です」

「この山塞は人が増えて、食料が底をつきかけているようですね」

「はい。ですが、構わないでしょう。食が尽きる前に、我々はこの国を脱します」

 エイムズの燃える瞳を見、ユウは深く頷いた。


     〇


 スレイエス軍は着々と人と物資をスレイエス北部、ユウたちから見て南西部の草原地帯に集めていた。北軍の総勢は三万。当然、そのすべてを連れてきているわけではない。しかし、二万余りの人数を動員して、ユウたちの立てこもる森林地帯を包囲しようとしていた。さらに一万の民衆を徴用して、物資輸送を繰り返し、各地の陣地設営もさせている。にわかに出来上がりつつある本陣の砦だけで一万弱の人々が炊煙を上げていた。その人数を養って余りある兵糧を持ち込み、待機の間も不自由のない生活をさせていた。

「戦争とは、万全に万全を重ねて行うものだ」

 というのは、シフの口癖であった。敵の数倍もの人数を集め、陣地構築を丁寧に行い、潤沢以上の兵站を持ち込んでから行うものであるという。彼は去年来拠点を建設し続けており、どこにどれくらいの大きさの拠点をいくつ設けるのかなどという計画段階から計算すれば、まる一年にも及ぶ期間を元帝国貴族討伐に傾けている。その間、敵の数が増え続け、何度も計画を立て直したりしている。

 このシフという神経質な男は、その日も自身が構築させた陣地の最も奥の屋敷然とした建屋に座して、幹部らを招き、宴会に興じていた。断っておくが、時刻は真昼間である。

「陣地の構築、物資の搬入、人員の補充は予定の通りです」

「そうか、そうか」とシフは満足げに、肥満気味の腹を撫でて揺らした。「まあ、わしが施しているのだから、当たり前だな」

「左様でございます」と左右がゴマをすっている。

「陣地が構築されれば、獣の一匹も逃げ出す隙間もなくなります。そのまま包囲を狭めていけば賊徒が殲滅されるのも時間の問題でしょう」

「さすが、シフ将軍でございます。上策ですなあ」

「そうだろう、そうだろう」

 次のことは突如として起こった。

 賑やかな酒宴の席に低い唸りのような音が流れ込んできたのである。

 座上の誰もが耳を疑って顔を見合わせ、一人は大窓に寄って外気を入れた。小さな音だ。よほど遠くで鳴っているらしいその鈍い笛の音色が、そよ風とともに部屋の中に流れ込んでくる。その音色はひとつ、二つと増え、重奏し、瞬く間に広がって、北東の全山が鳴動するほどの衝撃となった。いまやこのスレイエス攻囲軍の本陣も揺らしている。

「な、何事でしょう?」

 と狼狽える声が上がる。

「角笛の音ではないか?」と誰かがいう。

「つ、角笛」と囁いたシフの顔が青く変色する。

 角笛といえば、アントワーヌを始め、帝国貴族が出陣に鳴らす音として使われることが少なくない。むしろ、有名といってもいいかもしれない。

「まさか、奴らがここを襲って来るのではあるまいな」

 動揺とざわめきが広がってゆく。

「い、いかがいたしましょう?」

「防御陣地の構築はまだ八割ほどでしかありません」

「はは」とシフは乾いた笑い声を立ててみせた。慌てることはない、という言葉も震えている。

「他の砦から人を入れればよいのだ。我々は総勢三万の数がいるのだぞ。なにを、一万にも及ばない負け犬どもが脅威になるものか」

「左様で」

「すぐに伝令を放て。陣地構築も急がせろよ。昼夜はないものと思え」

 畳んだ扇子で膝を叩きながら唾を飛ばす。将校たちは礼をして各所に散っていった。

「帝国の落ちこぼれどもが」

 シフは歯を噛んでいう。

 家を失って他国に逃げてくるなど、貴族の風上にも置けない連中だ。シフを始め、スレイエスの多くの民草の総意として、この没落貴族どもは紛うことなき賊徒であり、似非貴族、なのだ。エドワード帝に滅ぼされて然るべき者たちである。それが他国に入って泣き言をいっている。シフにいわせれば、笑止、だった。

 そのクズどもの後始末をつけて、近年失墜しかけている北軍の威信を取り戻すと同時に、己の武功とし、エドワード帝と誼を通じておくつもりだったが。

「まさか、このようなことになるとは……」

 帝国似非貴族どもがスレイエスに出没し始めて数年のときが経つが、軍と戦おうという気配など微塵も見せなかった。なにか、異変があったのかもしれない。

 シフは酒を満たした盃を一息に干し、床に叩きつけた。木っ端みじんに砕けている。


     〇


 旧帝国貴族を包囲するために急造された、とあるスレイエスの小砦に伝令があり、人員の移動があった。半分の人を本陣に移すというのだ。この小さな拠点に残るのは二百人足らずになる。

「ここの砦はまだまだ出来上がる見込みがないんだぜ。宿舎も足りない、柵も足りない、土嚢も足りない。なのに人の移動だってよ」

「上の考えることはわからねえよ」

「どうせ、昼間の角笛に度肝を抜かれたってところだろう」

 ははは、と兵らは笑い合った。

 兵の士気は決して高くない。むしろ、諦観が強い。その彼らが守備をしながら建築もしている。工兵と歩兵の区別もない。

 陣地構築半ばのこの日、北東の山々で角笛が激しく鳴った。それに怯えた上層部とシフ将軍は帝国の没落貴族に怯え、守備兵を増やしているともっぱらの噂で、兵からは嘲笑の的であった。

「本当に来るのかな、あの賊徒ども」

「どうかねえ。それくらいの気迫があれば、北で潔く散ってるだろう?」

 ははは、とまた笑い合う。

 その夜のこと、彼らは砦内に響く怒声で目を覚ますことになった。

「どうした?」

「て、帝国の奴らが……」口走った同胞の背後に、二、三の人数が殺到し、斬り捨てた。どう、とついいままで話していた仲間が音を立てて倒れ伏した。

「こいつ」

 と怒声を発した彼も剣を取っていた。襲い来る無数の白刃に、その刃を立てる。


 その戦場を傍観しているユウとしてはどちらでもよかった。

 しばらく前の議論である。出陣に当たって、隠密をもって敵陣地に強襲をかけるのか、陣笛を鳴らすのか、問題になった。

 陣笛を鳴らすなら、敵陣は警備をかためるだろうから、強襲をかけるのは難しくなる。しかし、全軍の士気は限りなく上がるだろうし、まだ見ぬ山塞に拠ってこの作戦に参加する人数を予測することもできるし、南下するという決意を元帝国兵の端々に至るまで伝えることにもなる。戦略的にはどちらでもいい。結局、彼らの潔さが笛を吹かせた。宣戦を布告せずに戦争を始めるのは怯懦だという。

 さらにどちらでもよかったのは、北軍の砦に攻撃を仕掛けるかどうかだ。無視して、南下しても良かった。

 エイムズがこの砦の襲撃を決断したのは、やはり士気を高めるためであり、兵站のためであり、守備兵が昼間のうちに移動していて数を減らしているのがわかっていたからだ。

「緒戦での勝利は勢いをつける意味でも必要です。勝てるところで早々に一勝を挙げておくのは用兵において重要なことです」

 勢い、というのは戦場の流れを形成し、流れが出来上がっているために、それに逆らうことができず下流側はなし崩しに敗北するということが度々ある。壇ノ浦の源平合戦や幕末の戊辰戦争が良い例であろう。

「勢いというのは緒戦に出来上がり、後々変えることは難しいものです」

 と、エイムズは説き、一理を感じたユウは強いて反論しなかった。

 人数にして百あまりしかいなかったエイムズの部隊は、スレイエスの防備も出来上がっていない小砦を一揉みに揉み潰し、武器、防具、食料など、兵站を得て、基地には火を放った。黒い煙がもうもうと星とヘリオスオーブの美しい夜空を覆い隠す。

「噂の通りです」

 静かに呟いたユウは燃え盛る炎を見つめていた。

「兵、一人一人の質は高い。強く、意気もあります。ですが、それが百人、二百人、となったときの強さはそれほどでもなさそうですね」

 統率を取るべき指揮官の才覚が足りないのだ。この砦の統率者も采配を振るう前に撤退してしまったらしい。組織立った抵抗、といものが皆無だった。北軍の上層部は軍人でも貴族でもなく、政治家とみていいのかもしれない。シフはそういう人間を囲っている、と。

「続々と仲間が集まってきています」とエイムズはいう。「ここの物資で潤沢な武具も手に入れました。馬もいましたから、騎馬隊の編成もできます」

 ユウを始め、騎馬の兵は数人しかいない。その数が増える。

「軽装騎馬にして先行させます。南の情報がほしいですから」

「いいと思います」とユウはいう。騎馬が歩兵と同行したところで、その特性を生かしきれない。

「では、そのように」

 エイムズは傍にいた伝令兵と早口に言葉を交わしている。

 一方で、ユウはまだ黒煙と火の粉の行方を見守っている。


     〇


 シフ将軍率いる北軍が手をこまねいている間に、エイムズ隊は彼らの包囲を易々と突破してしまった。その軍勢は帝国没落貴族を糾合しただけでなく、親王国派のスレイエス民も引き入れ、みるみると膨れ上がっていった。すでに総勢は二千を超えている。

「これだけの数がいれば、国境線など一蹴できます」

 エイムズ隊の幹部の一人が息巻いていい、聴衆から喝采が鳴った。

 とある野営地でのことである。

 数日間、昼夜兼行で走りに走り続け、国境線を前にした丘陵地で南行開始以来初めての休息といっていい時を過ごしていた。国境まではあと三日といったところか。

 ここまで、いくつかの砦を粉砕し、スレイエス軍の接近も許さない兵の士気はすこぶる高い。武器の質も良く、この様子のまま国境線に触れれば、そこに駐屯するいわゆる南軍の兵も一掃できそうな勢いがあった。

 しかし、エイムズは難しい顔をしている。ユウは彼に声をかけて連れ出した。

「民兵には帰ってもらった方がいいと思います」

 ユウがはっきりというと、エイムズは項垂れた。

「わたしもそう思います。ほとんど支援のない我々が二千の兵をあと数日養うというのは無理があります。一人ずつの兵糧を減らしては戦闘に差し支えますし、移動速度にも影響します」

 民兵が合流して以降、とみに歩調が落ちた、とエイムズはいう。いざ戦闘となれば彼らの中の熱量は多少の力になるかもしれない。だが、ひた走りに走り続けるという作業は熱量だけでできるものではない。精神力以上に、訓練がいる。元帝国貴族勢は、没落したとはいえ、軍事階級の集まりである。厳しい行軍にも慣れているし、なにより途中で置き捨てられたとて、置き捨てられた者の鍛錬不足と割り切れる。民兵を置き捨てれば、彼らにはこの国の中で帰る場所があり、そこに仲間がいる。その仲間になにを言触らすかわからず、元帝国貴族の悪評でも立てばのちのスレイエス内での政略に関わる。

「あと三日の行程が、五日かかることになるかもしれません」

「ならばいうべきです。民兵は受け入れられない、と。正直、王国にいるアントワーヌの領地でも二千の人数は養い切れるかどうか」

 スレイエスに流れてくる風の便りでは、リリアは無事にコルト領で一領地を拝したという。そこに耕作地を作り、営舎を作り、商業地にして、船舶による交易も始めているらしい。壮麗なものだ、と人はいう。が、人の噂というのは建て増しされやすいものである。原型など残っていないかもしれない。だから、ユウは鵜呑みにしなかった。

「どれほどのものかわからない以上、少数精鋭であってほしいのです」

「わかります」とエイムズもいう。彼も小さな山塞で人数を養ってきた人である。同志を飢えさせない苦労が痛いほどわかるのだろう、沈鬱な顔をしていた。

「しかし、わたしにはなんといって帰ってもらえばいいのかわかりません。彼らは善意で来てくれているのです」

「それでもいうべきです。あなたは人の上に立つ人でしょう? おれの口からはいえませんよ。この隊は、おれの隊じゃありません。エイムズさんの隊です」

「それはそうですが……」

「では、もう少しお話しましょう。いずれ、王国と帝国は大きな戦争を起こすでしょう。たぶん、主戦場はファブルと王国の国境になると思います。スレイエスと王国国境は小戦場となるでしょう。ファブルの方が帝都に近く、帝国とスレイエス間は狭隘地なため大軍の移動が難しい。船舶による輸送があるでしょうが、おれはいずれ制海権を手に入れるつもりです。帝国の海上輸送は断ちます。すると、主戦場は必ず王国ファブル国境になる。スレイエスと王国の国境線は戦争の緒戦か、ほとんどスレイエス単独対コルト、という形成になると思います」

「それで?」

「そのときに、スレイエス国内で蜂起する集団がほしいのです。国境線で大軍同士の衝突があり、しかし、背後にも敵がある、という状態を作りたい。これによってスレイエスを一蹴し、帝国との国境線を遮断して、アントワーヌの人材はファブル方向に集中させたい。スレイエスを北上して帝国内に乱入してもいい。ともかく、その戦いのために、スレイエス国内に親王国派がいないと困るのです」

「なるほど」とエイムズは、それでも眉間にしわを寄せている。「そううまくいくものでしょうか」

「うまくいかないかもしれませんが、計画は立てて伏線は張っておくものです。無数に計画を立てて、無数に伏線を張っておけばよいのです。一つ二つが無駄になって結構、ですけど、それを下の人にいってはいけませんよ。無駄な仕事をさせられたと思われてもいけません」

 二人は幕舎の前に戻り、ユウはセキトにハミを噛ませた。

「おれは少し前線の偵察に行ってきます。ここのことはお任せします」

「お一人で、ですか?」

「ツィバイを連れていきます」

 彼とは二日前に合流している。

「ご心配なさらずとも、夜半には戻ってきますよ」

「お気をつけて」と困ったように笑んで手を振るエイムズを置いて、ユウはツィバイを隣に、月夜の丘陵地を南に走っている。

「夜の遠駆けというのも、いいものだな」

「ええ。爽やかな空気があります」

 どこまで行っても銀光の草原である。満天を星が埋め尽くし、西の地平に沈んでいっても、新たに東から登って尽きることがない。

「どちらに向かわれるのです?」

「どちらということもないけれど、ただ馬を走らせたい気分だっただけ」

「そうですか」とツィバイは笑う。「そういう日もありましょう」

 中春の夜気が心地いい。蹄が芝を蹴る感触、弾ける土から迸る香り、思うままに走る野性の猛り。鬱屈を払い落し、心身を洗ってくれる。矮小な世界で足掻かなければならない自分と背負わされた重荷と責任、そういう鬱屈から解放される。このままどこまでも駆けていけたら、と思う。すべてを捨てて。一つ事のために生きるものは美しい、と話した吉村の気持ちがわかる。ただ、駆け抜けるだけの鬼になれればいいと思うときがある。それはそれで、苦労もあるのだろうが。とにかく、広い世界に駆け出していきたい、という欲望が身の内に猛っているのに気づかされる。身悶えするほど戦いたい。人と、ではなく、世界と、自分と、その限界と。だから走り続けている。どこまでも走っていきたい。

 蹄の音が熱く響く。

 いつの間にか、周囲が薄暗くなったと思った。

 歩調を緩めたユウの背中から「天ノ岐殿」とツィバイが声をかけてくる。

「林の中です」

 早駆けはできない、といいたいのだろう。

「そうだな」とユウは呟いて、手綱を引いた。「もう帰ろう。付き合ってくれてありがとう」

「いいえ。いつでもどうぞ」

 ツィバイは爽快に微笑んだようだったが、暗闇の中でよくわからなかった。

 馬首を回した二人。その前に、ひとつの影があった。それが、刺客であることは放たれる妖気から容易に察することができた。二人の間に緊張が漲る。

「何者だ」とユウが問う。

「帝国第十六旅団長、カレン・アンダーソン」

 聞き覚えのある声を発して、馬から降りた。さ、と鞘ばしる音も聞こえる。

「手合わせ願いたい」

 ユウはツィバイに一瞥をやって、頷いたツィバイは後退してゆく。

「いいでしょう」

 ユウも下馬し、刀を引き抜いた。

 闇に慣れた目を凝らすと、薄く人の影が浮かんで見える。半身になって、細剣を中段に構えた青い瞳の端正な顔が怒りに歪んで見えた。

 激しく地を蹴ったカレンの刃が宙を舞う。

 浅い袈裟から来る細剣を刀身に受けたユウは一歩退き、間髪入れず突き出された切っ先も頬をかすめる程度にかわす。さらに、ニ、三度、と狂気に満ちた剣先に襲われる。ユウはひたすらにその気迫を受け、しのぎを添えて躱し、後退を続けている。

 真向からの振り下ろし、袈裟に、撫で斬りに、決死のほどの剣圧を甲高い金属音に変えてゆく。

 幾度目かの、細剣が放った刺突の際であった。

 ユウの鎬が凄まじい火花を散らし、前方に倒れた。くる、と宙を掻いて、細剣が跳ね上がり、どこかの地面に転がって寂しい音を立てた。

 沈黙の中、ユウは寄ってきた蹄の、その口に下がった手綱を引き、馬上の人となった。

「すまなかった」

 いい残し、北へ向かってゆく。


     〇


 このころ、エイムズ隊の宿営地では、エイムズがユウにいわれたことを噛み砕いて全員に通達していた。

 この南下事業はこれからが本当の困難であり、王国に渡ったとて生活の見込みが保障されているわけでもなく、真正の決死行を覚悟できる者だけがここに残り、南に駆けて、駆け続けてそのまま死んで悔いのない者、死ねる者だけが残れ、でなければ、スレイエスに残り、のちに起きる王国と帝国の戦争が始まるまで耐えろ、それがおまえたちの戦いであるというふうに語り、真摯に受け止めた民兵の九割までが里に帰った。残りの一割を説得する方法をエイムズは持ち合わせておらず、結局連れていくことに決めた。元帝国貴族の一割ほども、なにを期待していたのか、隊の中から姿を消していたから兵の総数は一千余人。その数は当初の見積もりから大きな増減はなかった。このことで、エイムズ隊は王国までの兵站を一応確保したことになる。

 こういう情事を逐一観察していた五人ばかりの一団がある。闇夜の中に身を沈めている彼らの一人が、一人の腕を取った。腕を取られた若者は、宿営地側の敵であるにも関わらず、さらに一歩、近づこうとしたのである。

「セオドア隊長、これ以上は無理です」と彼は若者にいった。「もう充分でしょう。砦に引き返しましょう」

「もう少し近づいても良かろう。奴らはまったく気づいていない」

「気づかれたら終わりなのです。偵察というのは気づかれる前に退くものです」

「威力偵察というのもあるだろう?」

「たったの五人でなにをいっているんです」

 隊長と呼ばれた男に向かって、ついに怒り出した。

「敵の斥候が我々の後方にあって、敵の宿営地が前方にあって、そのどちらか一方でも気づいたら挟み撃ちにされておしまいです。我々の任務は国境線の警備であり、そこで彼らを迎え撃つのが筋です」

 しばらく前に、元帝国貴族の宿営地から出た二つに騎影が、ほんの拳一個分の眼の前に荒々しい蹄を突き立てて駆けすぎていった。もし、どちらかの針路がもう少しずれていたら、この五人は蹄に全身を揉みしだかれて死んでいただろう。五人は背中に芝を負って、地面に伏せて闇の中を這うようにして誰にも気取られず前進してきた。気取られても死ぬが、気取られないためにも死にかけている。

「そもそも、斥候というのは、それ専属の兵がいるのですから、斥候兵をお使いになられればよかった。隊長自ら来なくてもよかったでしょう」

「バカをいうな。作戦はおれが立てる。作戦を立てるおれが敵の様子を知らなければ十全な策が立てられないだろう。見ろ」

 と敵陣を指でさした。

「敵の士気は高く、統率が取れている。こういうのはな、肌で感じて、その質量までも知るものだ。いま、民兵を追い出しただろう。そういう決断もできる、ということだ。敵の大将は優秀だぞ。数は減っても結束と練度は非常に高いと思え。覚悟しろよ」

「はあ」と従者の四人は嘆息なのか、感嘆なのか、わからない音を出す。

「その質量をもっと感じるためにもっと前進する」

「やめてください」と四人が四人とも、この中背の若者に抱きついて押しとどめた。

「隊長になにかあれば、フォーク将軍に合わせる顔がありません」

「一々バカなことをいうな。おれは戦士である以上、戦場で死ぬ。ここで死ねば、むしろ父上は褒めてくださる」

「そんなバカな」

「バカなことをいってるのはおまえたちだ」

 さすがに騒ぎが大きくなった。

「誰だ、そこにいるのは」と闇の中から声がした。

 すでに五人は跳ねるようにして走り出している。背中に負った芝も投げ捨て、その他荷物もかなぐり捨てて、駆けに駆けた。四人を追い越した、このセオドアという青年は先頭に立って、さらに四人を突き放すほどの勢いで、疾風のごとく南へ駆けている。敵に追われながら笑っているのだ。その声が夜空にこだましてた。

「よい戦いになりそうだなあ」

 跳ねるようにして、緑の丘陵を越えてゆく。


     〇


「その一人の風貌が、南軍を率いるフォーク将軍の子息、セオドア・フォークに似ていたといいます。彼はここから南のガーダ砦の指揮官だともいい、自ら偵察に来ていたのでしょう。変わり者で有名だそうですよ」

 と、エイムズはいっていた。ユウはその会話を反芻している。

 南下の行軍中である。春のうららかな日差しの中をゆるゆると、整然とした隊列が闊歩している。

「どう思われます?」と問うてきたのは、隣で馬に揺られているツィバイだ。彼は付き合いが長いために、ユウの中の鬱屈に気付いたらしい。うん、とユウは頷いて、

「平凡な人間は平らな世でその本領を発揮するという。しかし、変人というのは乱世の世で尋常ならざる力を発揮するともいう。そのセオドアという男」

「歳は二十に届かないくらいだといいます。噂ではフォーク将軍の口聞きで、一隊の隊長になったのではないかとか、大臣たちがフォーク将軍を忖度したとか。色々いわれているようです。ガーダ砦はそういう指揮官がよく配属されるのだそうです。大臣や豪商の子息とか」

「地図を見る限り、平原のど真ん中です。守りづらく、攻めやすい。わざわざ攻めずとも周囲の砦を落としてしまえば自然と人のいなくなりそうな立地です」

 ユウもこのあたりの地理は把握している。

 スレイエスと王国国境は東西五百キオといわれている。東のノルン峠から、西の海浜までの間、ウラカ台地と呼ばれる波濤のような丘陵の連なる一帯が延々とのたうっている。

 このウラカ台地は王国とスレイエスの係争地で、両国とも防御施設を乱立させている。スレイエス側で有名なのが、ノルン峠東端を背負って立つノルン大城塞と西の丘陵の間道を押さえるゼノベ砦。その両者の連絡のためにウラカ台地の丘陵群には尾根を伝うように街道が作られ、小さな砦がいくつかある。そのうちのひとつがガーダ砦だった。噂によると、青い空を背負った緑の丘陵の上に、小さな集落に似た建屋群がポツンとあるのだという。スレイエスが最も力を入れていない砦、と世間では評判だった。その噂を信じて、エイムズの隊はこの砦の脇を通過しようと南下している。

 ここからわずかでもズレれば、東西の大城塞による軍勢に圧迫されて千余人の人数ではとても国境を抜くことはできない、という観測だった。

「しかし」とユウは難しい顔を俯けていう。「その情報はすでに過去のものなのかもしれない。北軍が主戦場であったころの癖であり、南軍が主戦場になってから果たしてどうか。敵状を隊長自ら探索に来るという大胆な男は、馬鹿か天才かのどちらかだよ。次の戦いは……」

 といいかけたとき、横を過ぎていく商人風の男に目が止まった。

 大きな編み笠を被った、胡散臭い風体に見覚えがあって馬を止めた。

「おまえ……」

「お久しぶりですな、旦那」

 編み笠の端がちょいと上がると、タモンの不細工な笑みがあった。

「おまえ、よくここまで来たなあ」

 この気持ちをどう口にしたらいいものか。とにかく頬が緩んでいるのがユウ自身わかった。

「おまえの顔を見て、嬉しいと思う日が来るなんて思わなかったよ」

「ほほ、ずいぶんないいようでございますのう」

「おまえの胡散臭さがさせることさ」

 ツィバイも来て、タモンとの再会を喜び、二人の馬はタモンの歩調に合わせてゆるゆると進む。

「リリアは元気か?」

「はい。それはもう。日々溌剌と右往左往しておりますよ。帝国で、病弱といわれていたのが嘘のようでございます」

「そうか」

「耕作地の指揮はロックス殿に、商家と船はハル殿にお任せして、リリアさまは晶術を用いた医療を手掛けております」

「予定通りに運営されてるらしいな」

「はい、すべて予定の通りに」タモンは頭を下げ、「あとは旦那がこの隊列を引き連れてアントワーヌ領に入るだけでございます」

「それもすべて過程に過ぎないさ」

「旦那は遠くを見ておられますのお」

 じい、とタモンがイヤらしい視線をユウの横顔に向けている。

「なんだよ、気持ち悪い」

「旦那、どこか変わりましたな」

「はあ?」と眉をしかめてから、ユウは空を向く。青い空だ。吹き抜けるほどの青い空がそこにあった。「そうか、変わったかもしれないな」

「左様でございますか」とタモンは歯の隙間から息を漏らしながら笑っている。

「面白くなりそうですなあ、我らの前途は」

 三人の歩調より、速足を緩めない歩兵の方がまだ早い。ずんずん追い抜かれてゆく。

「ところで、なにをしに来たんだ?」とユウが訊く。「世間話をしに来たわけではないだろう?」

「左様で。彼ら、元帝国貴族の亡命が王国議会により承認されました。国境さえ越えられれば、王国の憲法内において生活の自由が約束されます」

「おお」と感嘆したユウは顔をほころばせた。「そいつはエイムズさんに伝えておかないといけないな」

「ですが、様々条件が付随しております。元帝国貴族の集団がガーダ砦を越えたとて、そこはウラカ台地、スレイエスと王国の係争地です。極力国際摩擦を避けたい王国はこの係争地への侵入を嫌っております。王国側の砦の向こう側まで行かなければ、亡命にはならないし、それまで王国側は一切の手助けをしない。アントワーヌもそれに倣います」

「それで充分だ」

 ツィバイ、と一声かけると、彼は伝令の役目を帯びて後方のエイムズの元に駆けていった。

「それと、これは無用のことやもしれませぬが……」とタモンが前置きをして、「国境線の様子を窺って参りました」

「どうだった?」

「国境線には木柵、乱杭、鉄線が無数に設けられ、騎馬で駆け抜けるというのは難しいでしょう。予定決戦場の丘陵上にはガーダ砦の一部隊がすでに布陣しております。ガーダ隊はやる気でございますよ」

「数は?」

「およそ、五百ばかりといったところでしょうか。どれも歩兵ばかりで、着々と防御陣地を構築しておりましたよ」

「歩兵ばかり」とユウは眉をひそめる。

「そのようでございました。なにか気がかりがおありで?」

「これだけの大草原のある国に、騎兵がないのはどう考えてもおかしいだろう」

 ユウは笑って、

「おれたちもエイムズさんのところへ行こう。このまま当たればおそらく全員死ぬ」

 ユウは馬首を返して、後方へ向かった。


     〇


 エイムズが指揮する歩兵部隊八百は血路を拓くために丘陵地に跋扈するスレイエスの旗へ特攻を仕掛けていた。ユウは、遠く藪の中から青空を煙らせる血と土の濃霧を窺っている。

「本当に来るでしょうか?」とツィバイが訝る視線を送ってくる。

「来なければ敵本陣に突撃する。しかし、まだしばらく待つ」

 後方は戦場を前にして焦れている。すでに二時間以上もこうして藪の中に堪えているのだ。これ以上の待機は暴動が起きそうな雰囲気すらあった。

「おれは来ると思っている。種々の情報を合わせて考えれば、必ず来る」

 ユウは辛抱強く耐えている。その間、延々と仲間が決死の戦闘を繰り広げているのを眺めている。仲間が死んでゆくのを眺めている。ユウは比較的新参者であるから耐えられるのだ、と後方は憤怒している。前線で死んでゆく者たちとユウの後方で待機している者たち、彼らは帝国を脱して以来、数年という長い年月、同じ釜の飯を食い、共に耐え忍んで、まさに血肉を等しくした仲間たちだという。それが敵の防御陣地を抜けられずに血煙を上げている。

「天ノ岐殿」とついに、後方の一人が声を荒げた。ほとんど泣きながらいった。「アントワーヌの助力は感謝する。ここまでおれたちを助けてくれたあんたにも感謝している。しかし、これ以上おれたちは待つことはできない。おれたちが突撃すれば、敵は総崩れになるはずだ。一撃で血路が開ける」

「敵の防御陣地は騎馬の抑えが充分に施されています。騎兵突撃で抜ける防御陣地などありません。おれたちが走り抜けられる隙間を、ああして歩兵が切り拓いてくれているのです。拓けるまでは絶対待機です」

「しかし……」

「戦闘というのは、急いた方が敗北するといいます。動かないときは山のごとし、と孫氏もいいます。静かなることは林のごとし。こうやって話をしていては野生動物が怯えます。森から鳥が飛び立つのは人が人がいるため、と孫氏はいいます。いま、鳥が飛び立ったはずです。これ以上の会話は必要ありません。おれに従えないというのなら、ここでおれを斬ってくれていい」

 男は生唾を呑み、腰の剣に震える手を添えかけて、結局、その指を解いた。ゆっくりと腰を下ろす。ユウはそれを見送り、視線は遠く、ガーダ砦のある方に据えた。

 小さな土煙が上がっている。

 ユウは急いで単眼鏡を取り出して目に据えた。スレイエスの旗がある。見る間に大きくなる。周囲も肉眼で確認したのか、ざわめき始めた。

「静かに」とユウは小さくいう。「いまもいったように、奇襲はいかに敵に悟られないか、平静に耐えられるかが勝負です」

 ざわめきは潮が引くように静まってゆく。

「おれたちは敵騎馬隊を横撃します。おそらく、敵の方が圧倒的に数が多いでしょう。我々はこの一撃をもって壊滅します。ですが、その一撃で敵も壊滅させる。敵の防御陣地は期待していた増援を失い、動揺する。そこを我々の歩兵部隊が抜いてくれるでしょう」

 騎馬隊突撃、というのは、一撃必殺の運命にある。不意に現れ、敵に一大打撃を与えるためにある。その目的のために攻撃力に特化して、防御力は皆無といっていい。敵の騎馬隊も同様であろうから、ユウたちの一撃で大打撃は必死である。が、数の上で勝る敵が反撃してくれば、こちらの騎馬隊も壊滅する。ユウはいま、手元の兵、二百人にそういう戦いを強いている。

「敵騎馬隊の数は五百といったところでしょう」とツィバイがいう。「こちらの倍を上回っています」

「思ったより少ない」

 鼻で笑ったユウはセキトにまたがり、剣を抜いた。馬腹を蹴り、疾風となる。二百の騎馬がそれに続いてゆく。


「セオドアさま」と隣の副官が叫ぶ声が風の音に紛れていた。「敵の奇襲部隊です」

「なんだと?」

 応じたときにはすでに旧帝国貴族どもの鬨の声が満天下に満ちていた。黒い塊が、激しい土煙とともに、セオドアの後方、騎馬隊の列に突っ込んでいる。

 充分に敵を防御陣地に食い込ませ、予備隊を出したくても出せない、という敵状を捉えたはずであった。疾風迅雷を期して、軽装で来たことが仇となったかもしれない。敵騎馬隊は激しく打ち込んできて、こちらの被害は甚大に見える。

「敵はよく堪えたものだ」

「兵が動揺しています」

「戦意のある者はおれに続け」

 セオドアは一声して、さらに速度を増してゆく。どろどろと、横撃されながらも数百という騎馬が彼に続いてゆく。緩やかな円弧を描いて旋回し、同じく旋回しながら遠ざかっていた敵騎馬隊と正面から向かい合う。

「初撃の犠牲はおれの浅はかさの代償と敵の指揮官に対する敬意としよう」

 セオドアは携えていた槍を腰だめで支え、前方に掲げた。全員が彼に倣うさま、馬並みを揃えて駆けるさまは整然としていて美しさすらあった。

 蹄鉄の上げる土煙は高い。蹄の音がおびただしい。肌を粟立てる。みるみると迫ってくる敵の決死の形相が、生死の境を意識させる。

 これが戦場。スレイエスではついぞ得られなかった血の滾り。

「全員、突撃っ!」

 喉が張り裂けるほどに叫んだ。

 ど、と激しい衝撃とともに鋼鉄の弾ける音を聞き、肉を貫く感触を得、血飛沫の熱を肌に浴びた。

 いかなる衝撃があろうともセオドアの穂先がぶれることはなかった。

 切っ先を前方の一点に据えたまま敵軍の中を駆け抜けて、セオドアは騎馬隊を再び旋回させた。後尾に続く人の数は当初の半分よりも減っただろうか。やはり初撃が効いたらしい。しかし、敵の方が厳しかろう。同じく旋回運動をしている奴らの騎馬の群れが薄い。向こうの丘陵がわずかに明滅して窺えるほどに薄いのだ。

 もう一撃を喰らわせてやる。

「全員、スレイエス南軍の騎馬隊の力、帝国の落ちこぼれどもに見せてやろう」

 おお、と鬨の声が上がり、再び敵と向かい合う。


「歩調が乱れているぞ、小さく固まれ。隣の兵との間に敵を一人も入れるな」ユウは旋回運動の先頭に立ちながら四方に指示を飛ばしていた。彼自身、血飛沫を浴びて、全身を赤くしている。同じく赤塗に去れた白剣を振り、「もう一度来るぞ」

 一度の交錯で半数近い人数が減ったが、戦意はまだ衰えていない。元帝国貴族というのは馬術の得手の集まりである。戦闘能力は劣っていない。むしろ、上回っているとすら感じる。なにより、覚悟のほどがまったく違う。こちらは南下行を開始したときから背水の陣なのだ。

「安穏としたスレイエスの奴らとは違うということ、思い知らせてやれ」

 うおおおお、と戦場全体が熱狂したような雄叫びが鳴る。敵味方、ともに士気が凄まじい。

 勢いのままに両者は激突した。

 ユウはまぶたを開き、敵の槍穂にしのぎを当てて躱し、馬首を斬り、敵の胴を払い、頭を屈め、激闘の只中を貫いてゆく。最も頼りになったのが、彼の愛馬、セキトの能力である。巧みに主が身を処しやすい場所を狭い隙間の中に見つけては移動し、敵刃を避け、味方と歩調を合わせながら無数の馬体と交錯して平然としている。ユウがいくつもの戦場を躱し、この日まで生き永らえてきたのは、この愛馬の能力かもしれない。

 ユウは敵騎馬隊の後方へ抜けて、三度目の旋回運動を開始した。味方の数はすでに五十を割っているかもしれない。対して敵はまだ二百騎もいるだろうか。かなり数は減らしたとはいえ、充分な戦力がある。脱落した人馬が両軍の間に呻きながら転がっていた。その中を端を駆けて、新戦場を形成しようとしている。

「もう一度、もう一度行きましょう」と後方が叫ぶようにいい、無数の声が続く。「前衛の彼らはまだ戦っています」

「よし、もう一度……」

 とユウがいいかけたとき、南の空に光が上がった。

 脱出の合図である。

 全軍に動揺が広がる。いまから南に走れば、生き残れるかもしれない、という妥協が、彼らの中に生まれている。

「おまえたち」とユウは放った。「死にたくないやつはここを離れろ。残った者でもう一度突撃をかける。もう一撃食らわせなければ歩兵部隊は敵騎馬隊に捕まる。必死に戦った彼らのために、もう一撃を食らわせる意志のある者だけがおれと残れ」

 その瞬間、彼らの中の動揺が吹き飛んだ。一兵も欠けることなく、陣形を狭めて、一塊の黒点のように、蹄に踏みしだかれた荒野の中を駆け抜けてゆく。


 騎馬での戦いはすでに決した。

 あと一、二撃で敵は一兵残らず息絶える、とセオドアは確信していた。にもかかわらず、敵は一兵も離れることなく、小さくかたまって、さらなる突撃を仕掛けてくるようだ。その意志の強さに、セオドアの隊の方に動揺が広がってゆく。

 彼らは帝国の落ちこぼれなどではない。

「諸君」とセオドアは冷徹なまでの声でいう。「彼らは戦士だ。敬意を払いたい。帝国でも指折りの英雄といっていいはずだ。彼らがこの大地に来たことはなにかの不幸に違いない。おれは彼らと戦えたことを誇りに思う。その礼に、彼らに引導を渡そう。戦士としての死を、我々の手で」

 セオドアは槍穂を高々と掲げた。全員が歓声を上げ、隊が引き締まったのが空気でわかる。戦場の空気で。

「これほどの戦場を作ってくれた敵に感謝しなくては」

 彼が軍に入って以降、大きな戦争というものはなかった。下らない賊徒の討伐と王国との接触してはならない追い駆けっこばかりで、戦いというものを肌で感じたことがなかった。この戦場に立って、彼はそう確信していた。

 これが戦場の空気か、と身震いするほどの感銘を受けた。

「全員、突撃態勢っ!」

 セオドアは槍穂を前方に倒す。

 三度目の交錯。

 まず、先頭を駆ける男が目に入った。その若さに目を剥いた。セオドアより明らかに幼いコスヨテリ風の男であった。馬上、一本の刀を掲げ、突進してくる。その刀の鎬が、セオドアの槍穂と交錯して、長大な火花を上げた。先には黒い瞳がある。強すぎるほどの光を帯びたその瞳と視線を絡めた瞬間、セオドアは死を覚悟した。敢えて死線に飛び込むよう、前にのめった。ざあ、と頭上を刀身が掠め、過ぎ去っていった。

 三度目の交錯が終幕してしばらく、セオドアは呆然としていた。

 あの男は何者か。

「セオドア隊長」と声をかけられるまで、彼の意識はまだ三度目の交錯の中、あの男の瞳の中にあった。

「彼らは防御陣地を抜いて、南に下っています。追撃の指示を」

 セオドアは手のひらで顔をこね回し、

「よくぞいった。追撃するぞ」

 馬腹を蹴って、丘陵を登ってゆく。


     〇


 ウラカ台地で戦列を整えたとき、エイムズ隊の総勢はすでに三百を割っていた。

「このまま南へ駆け抜けます」と血みどろになりながら、彼はいう。「皆の者、もうじき王国だぞ。気合を入れろ」

「敵の追撃が迫っています」と後方が叫ぶ。

「追いつかれる前に国境を越える。死ぬ気で走れ」

 振り返ることもせずに、一散に駆けている。スレイエスの騎馬隊は早い。防御陣地の兵を置き去りにして、係争地である丘陵群の中に入って、さらに速度が落ちることがない。エイムズ隊は必死に駆けている。しかし、ほどなく追いつかれるだろう。

「王国の砦は?」ユウは叫ぶようにいった。首を巡らせても、それらしいものがない。

「あれでございます」とタモンが空に霞む立方体を指さした。

「遠すぎるっ!」

 ユウは絶叫し、後方を見遣った。間延びしつつあるエイムズ隊と、はるか後方で塵を吹かせるスレイエス騎馬隊。その煙がみるみると近づいてくる。

 皆、必死に駆けている。だが、絶対に追いつかれる。

「エイムズさん」とユウはいう。「ここに殿軍を置くしかありません。人選を急がなければ……」

「いいえ。全員で留まり、敵に一撃を見舞います。蹴散らせるかもしれません」

 確かに、敵の数は二百そこそこ。こちらとほぼ同数である。一撃の交戦なら蹴散らせる可能性もある。しかし、後方から敵の援軍があるはずだ。防御陣地の守備隊がいる。

「これ以上、仲間を失うわけにはいきません」というエイムズと、周囲のかたい眼差しを見、ユウは大きく頷いた。

 気迫がある。これに水を差しては勝機を逸する。

「やりましょう」

「槍を持つ者はかたまって前に出ろ。剣を扱うものは散開しろ」

 エイムズの一声で、丘陵の上に整然とした升目状の陣形が組まれてゆく。

「騎馬はおれと来い。敵を撹乱する」

 すでに二十数騎にまで数を減らしていて、攻撃力というのも皆無に等しい。しかし、やらなければならない。

「全員で生きて王国に入る」

 エイムズの気合に全体が応じた。

 どおどおと地鳴りとともに接近してくる土煙。彼我の距離は騎手の顔も捕らえられるほど接近している。丘陵を駆け上がってくる。

「やるぞ」

 ユウはニ十騎を連れて、駆け出した。タモンが一騎ぶんとして増えただけで、戦力不足は変わらない。それでも戦う。一塊になって迫るスレイエスの騎馬隊を横撃するよう、迂回してゆく。

 勝てるか?

 自問して、意味があるとは思えず、剣を握る手に力を込めた。

 おれたちは足掻く。この小さな世界でも。

「行くぞっ!」

 と前にのめったとき、

 敵の騎馬隊が旋回運動を始めた。

 スレイエスに引き返す軌道を取っている。

「なんだ? どうしたんだ?」

 ユウは敵騎馬隊と大きく距離を開けたまま旋回運動をかけ、後方へ馬首を回しながら敵の様子を傍観していた。耳を澄ませると、もう一塊の馬蹄の響きがあった。スレイエス騎馬隊ではなく、南方の方から聞こえてくる。

「あれを」とツィバイが南の丘陵の上を指さした。青地に白狼の旗が翻っている。

 ぶおおお、と角笛の音が鳴り、無数の騎馬隊が丘陵を越えてきたのだ。

「アントワーヌか……」

「王国軍もいるぞ」

 騎馬隊は喝采を上げて、隣の者の肩を叩き、泣き崩れる者もおり、

「泣いている場合ではない」とユウは一喝する。「エイムズたちと合流する。必要なら敵の追撃をするぞ」

 おお、と涙を拭って声を上げた一団を率い、ユウは丘陵を登ってゆく。

「話が違う。なぜ王国が来た?」

「さあ、あっしにもわかりません。状況が変わったのでしょう」

「まあ、助かったからいいんだけれど」

 事実、王国の状況が変わったのだ。これについて触れるのは、しばらくのちのことになる。


     〇


 スレイエス騎馬隊は地面を伝う王国軍の蹄の音を察して、早急に撤退したらしい。ユウにはまったく察せなかった。相当の手練れの部隊だ。

 ユウたちは疲弊し切ったたったの二十騎で追撃するわけにもいかず、エイムズと合流しても歩兵では敵騎兵に追いつけず、王国軍は距離があり過ぎたためにスレイエス騎馬隊とは一度も接触することがなかった。

 エイムズが鼓舞した通り、全員で生き残ったのだ。涙を流さない者はなく、膝から崩れ落ちて起き上がれない者もいた。エイムズは王国の将軍と話をしている。

 ユウは、というと、

「ユウさんっ!」

 草原を駆けてくる小豆色の髪の少女がいる。ユウは両腕を開いて、飛び込んでくる彼女の小さな体を胸に抱えた。

「お会いしたかったです、ずっと、ずっと……」

「ああ」と頷いたユウは華奢な体を強く抱きしめ、頭を撫でた。

「おおい、大将」

 と、ロックスも丘陵をゆるゆると下ってきて、ジェシカもあとを追ってくる。

 ユウはリリアを解放した。彼女の目元を拭った指先がわずかに濡れて、温かい。

「ずいぶん心配をかけたかな」

「ユウさんのバカ」

 花のような微笑みが咲いていた。


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