第二巻 緑の丘陵編 一章 南の大地は遥かに遠く
一章 南の大地は遥かに遠く
穏やかな木漏れ日降り注ぐ新緑の雑木林を、ユウはセキトに乗って闊歩していた。かぽかぽと、石畳を叩く蹄が軽快な音を立てている。
「じきに春だな」
樹冠が擦れ合い、小鳥がさえずる。枝木の端々にふっくらとした蕾がいくつも下がり、開花の時を待ちわびている。なんという清々しさであろうか。濃い緑の香りというのは、帝国ではアントワーヌ邸くらいで、自然の中では皆無だったように思う。
「いいものだな、南の国、というのは」
「旦那、浸るのは結構でございますが、この調子では今日のうちにフォーラントに入れるかどうか」
「急ぐか。遅くなるとまたジェシカがうるさい」
腹を蹴られたセキトが加速してゆく。
雑木林を抜けた先に広がるのは大平原であった。風にそよぐ芝の上に青い空、綿雲がするすると流れてゆく。
「このケルン大平原の北西端にあるのがスレイエス最大の港湾都市、フォーラントでございます」
「帝国の手がかかっているかどうか」
中央荒野を寒気に遮られたいま、帝国西部は非常に限られた人数で様々のことに対応しなければならない。火山の噴火もあったし、各地の治安維持もあるだろうし、そのゴタゴタの中で、どれほどの人数をスレイエスに派遣したり、手配をしたり、警戒ができるものなのか。スレイエス国民が、それほど帝国に協力的なのか、それとも皇帝などなにほどのものでもないと思っているのか。そういうことを調査しなければ、迂闊にリリアを町の中に入れることができない。
馬蹄の音も高らかに、二人は街道を西へ。途中、やや南に逸れて十字路に出、さらに西へ。
「北は帝国、西はフォーラント、南は王国、東はファブルに通じる辻道ですな」
「とりあえずフォーラントだ」
最終目的地は南の王国である。そちらに向かう前に右の調査をしたい。金も作りたい。北で溜めた毛皮など交易品を売り払って一財産作りたかった。
「貧乏は嫌だねえ」
まだ飢えるほど金に困っていないが、交易品がある程度売れてくれないと、幾日もせずに破産する。
街道は再び雑木林に入る。木立の向こう、緑の芝生の中に一本の河川が滔々と流れ、その水面はきらきらと眩しく美しい。長い脚の鳥が水辺を踏み、小さな虫が羽根を騒がせながら舞っている。セキトの速度がゆるゆると落ちて、ほとんど牛のように歩む。
「こういうところなら、しばらく野宿するのも悪くないけどなあ」
北は地獄だったといっていい。雪もろくに降らず、土は凍り、その氷が風に吹かれて礫のようにぶつかってくる。肌を露出していれば瞬く間に凍傷になるかし。それに比べれば、スレイエスは別世界と思われるほどの天国だった。
「旦那は、意外と野営が平気ですの。前の世界にいたときも放浪生活を?」
「そうではないけれど、意外に大丈夫だよ。新しい才能だ」
「才能というか、質ですかの」
どど、と東の方から激しい蹄と車輪の音が聞こえてきた。
「どいて、どいてえ!」
女の絶叫に弾かれて、ユウたちは背筋を伸ばし、馬を路端に寄せた。途端、一台の馬車が砂利を蹴散らしながら傍らを過ぎ去っていった。幌が日差しを遮ったのも一瞬、西の方へ駆けてゆく。すぐに数騎の人馬があとに続いた。
「カタギではありませんの」
後方の人馬のことであろう。鎧兜も薄くて安っぽく、ちらちらと見え隠れする布地も古ぼけて埃っぽい。
「野盗の類でございましょう」
「どこかの旅人が襲われている、といったところか」
「それも若い女ですな」
「おれが若い女じゃないと助けないと思ったら、大間違いだよ」
行くぞ、とユウは鐙を踏んで駆け出した。タモンも続く。集団には簡単に追いついた。すでに野盗どもは左右に開いて幌馬車を囲もうとしている。右に二人、左に三人、計五人。石畳を踏む車輪の音がうるさいためか、彼らはユウらの接近に気づいていない。
ユウは手顔で右を指し示し、頷いたタモンとともに馬を移動させていった。そろそろと野盗の背後に近づいていって、タモンが懐から取り出したヘリオスフィアが真っ赤に光り、放たれた火球が一人の頭を叩いた。横倒しになって、落馬する。それに気づいた一人の脇腹をユウの白剣の峰が思い切り叩く。これで二人目。さらにしばらく走って、ゆるゆると馬車が速度を緩めて、二頭いる引馬の前に野盗の三人が立ちはだかった。
「積み荷はもらっていくぜ」と意気揚々という。が、馬車の右手から顔を出したのが見知ったものでないことに驚嘆し、目を剥いていた。
「人の積荷をもらっていこうとするのはよろしくないなあ」とユウは笑う。
「なに? 旅の方?」と御者席の女が立ち上がって、駆け出したかと思えば、セキトに飛び乗ってきた。ユウが手を差し出して彼女の身を胸に抱えなければどうなっていたことか。無謀にして、器用な質である。
「野盗に襲われていたんですの、助けてくださる?」
女は身を揺すって、細くとも柔らかな肢体を押し付けてくる。やや癖のある栗色の髪から流れてくる甘い香りと少し吊り上がりがちの幼い眼差しが、ユウのオスの部分を波立たせた。が、強いて気にしない顔をしている。
「なかなかに愛らしい顔立ちでございますな」
「愛らしいかどうかは知らんけど……」
「あら、旅の方、正直になっていいんですのよ」
「おれはいつだって……」
「てめえら、ペラペラ喋ってんじゃねえぞ」とようやく野盗が憤怒した。「おれたちの仲間をどうした?」
「心配なら見てくればいいじゃない」
ユウが顎で馬車を示すと、タモンがそそくさと御者席に乗り込んで手綱を繰った。音を立てて幌馬車が走ってゆく。そのあとをユウが追い、三騎がさらに追いかけてくる。
「ちょっと、あいつらついてくるわよ、旅の方」胸の中の女の語気が荒い。こちらの方が素の声色らしい。「ちゃんと助けなさいよ」
「ちゃんと助けてるだろう」
ユウは馬首を回して反転し、向かって来る三騎の方へ駆けてゆく。女が強く抱きついてきた。
「ちょっと……!」
「頭を低くしていなさい」
女はたてがみの中に埋まるようにして身を隠し、ユウは手綱を捨てて、白剣を抜いた。敵の得物も朝日に光る。
「ひい」と女の悲鳴が鳴った。
一騎、二騎、三騎、ユウと交錯する都度、激しい金属音が発して刃が宙を飛んだ。
「くそ」
「まだやるか」
武器を失った三騎の野盗はユウに追われてそれぞれ雑木林の中に散っていった。
「他愛もない」
「ああ、素敵」と腰にしがみついてくる女はどうしようもない。気にしないように馬を進める。
そのまま雑木林を抜けたところに幌馬車が止まっていた。
「うまくやりおおせましたか」
「あの程度、取るに足りん」
「いやあ、助かりましたわ、旅の方」女は御者席に飛び乗って、「おじさま、もういいから、退いて」
身もふたもないことをいう。蹴り退けるようにした上に、虫を払うように手を振っている。
「フォーラントの商人の方ですかな」とタモンは追いついてきた自分の馬に乗り換えながら訊く。と、女は頷いていた。
「そうよ。フォーラントにこの人ありといわれる大商人、ハルファリルとはわたしのことよ」
「大商人」とユウは喝采を上げた。「そうかあ、大商人かあ」
ユウが必要としていた人材のひとつである。どうにかして知り合い、知識を得、あわよくばアントワーヌ隊に組み込みたいと思っていた。その人材とのパイプを欲していた。思わぬところで、その知己を得た。ユウの喜びは爆発している。その爆発力に、ハルファリルが若干引いていた。
〇
「ま、まあ、さっきの話? 大商人、っていうのは少し言い過ぎたけどね。でも、いずれそうなる女よ」
「ハルファリルさんはなぜこのようなところを一人で?」
「ハルって呼んでくださる、旅の方。わたし、ファブルに行ってたの。これでも交易商なの。それと、一人じゃなかったの。護衛が何人かいたんだけど、どれもクソほどの役にも立たなくって、あいつらに身ぐるみ剥がされて、そのいざこざのうちにわたしだけ逃げてきたってわけ。思い返してみれば、役立たずというのもいい過ぎでしたわ。時間稼ぎの撒き餌代わりぐらいにはなりましたもの」
ずいぶんと口が悪い。
「旅の方はどうして、ここに? 帝国の方、って感じじゃないわね。コスヨテリの方? 教会領の方?」
「ユウ、という。帝国から来て、王国に向かってる」
「へえ、亡命組ってこと?」
「亡命組?」ユウは図星をさされてぎょっとしたものの、リリアとユウの噂がここまで来ているとは考えなかった。さすがにまだアントワーヌ越境の噂は広まっていなかろう。「帝国から亡命してくる人間が多いってこと?」
「そうねえ、特に西側は多いみたい。戦争したくない人、村で生きられなくなった人、帝国の工場で働きたくないって人。色々いるみたいだけれど、ともかくエドワード帝が気に入らないって人たちね。あの人たちも、帝国から来た没落貴族よ。ホント嫌になっちゃう」
「あの人たち?」といわれ、アントワーヌのことが頭によぎる。が、これもそんなわけがない。偶然の一致だと信じた。「どの人たち?」
「いまの、蛮族たち。北の人間は野蛮人、ていうけれど、ホントそうね。あ、ユウさまとおじさまは違うわよ。二人とも、少し南方の血が濃そうだものね」
「蛮族ってのは、さっきの賊徒のことか」
「どこの没落貴族か知らないけれど、着ている布はコスヨテリ産のイレティオ生地だし、意匠はホーランドよ。バカみたい」
「なにが?」
「なにがって」不思議そうにユウを見つめたあと、ハルは声を上げて笑った。「要するに、素材も作りも超一流ってことですわ。上着の一着で家が建つっていうくらいの高値がつく品なんだから」
「あの服が?」
「そう。でも、ああも薄汚れて、ボロボロになってたら、二束三文ね。使えそうな布の切れ端を縫製し直すか、ばら売りするしかありませんわ」
「見てわかるものなの?」
「わたしはいずれ大商人になる女だっていってるでしょう」とハルは笑う。「でも、ユウさまのその剣、珍しいものですわね。まったく見たことありませんわ。意匠はスレイエスのものに似ているけれど、その刃の素材はなんですの?」
「おれにもわからん」
ユウは白剣の柄頭を撫でた。おそらくヴォルグリッドはある程度の情報を集めているのだろうが、ユウはまだアステリアに来て日が浅く、この日まで大車輪の忙しさだったために真っ当な調査ができていない。
「凄い切れ味」と呟いたハルは細めた瞳を怪しく光らせ、舌なめずりした。「それ、売る気ありません? どこで手に入れたとかも教えていただけたら……」
「これは家に代々伝わってきたもので、出自はわからん。それと売る気もない」
「なあんだ、残念」
フォーラントは氷河地形の只中にある。
氷河は重く、地面を深く削る。気候が温かくなって氷河が失せると、深いU字型の、両側が切り立った谷になる。氷河は溶けて水になる。海面が上がると、氷河の削った谷に海水が流れ込んでくる。これがフィヨルド。
アステリアではジョゼ時代より前の最終氷期、フォーラント周辺に氷河が密集していた。とある事情で、ノルン山脈が大崩壊し、この氷河の中に大量の土砂を含ませるのだが、それはこのアステリア固有の事情なので、深くは触れない。そののち、、ジョゼの出現によって氷河期は終わり、北部大地を覆っていた氷は溶けて海に流れ込み、海面を上昇させて、氷河の造ったU字谷に流れ込んだ。しかし、ノルン山脈周辺では一部に土砂が堆積していたために人の居住できる平地と湧水があった。
ここに人が定住したのがフォーラントの始まりである。
南北は切り立ったU字の崖で、東には大草原とノルン山脈から流れ込む河川、この河川は町の北、ノルン山脈との境目を走って、口の広い河口をフォーラントの北西部に形成していた。暗い青色を湛えて、波のひとつも立てない、一枚の滑らかな布地のような海面である。フィヨルドの湾は深く内陸に抉り込んで外海から守られていることが多く、また透明度が高い上に水深が深いために表面が黒く見えることが多い。透明度が高いと、太陽光を散乱しないから深い青、一見黒く見える、というわけだ。南の島の海が鮮やかな青色なのはサンゴ礁などが繁茂、または堆積していて海底が浅いからだ。浅い海底は容易く日差しを跳ね返し、きらきらときらめく。さらに、サンゴ礁は削れると白色の石灰になり、白色は反射率が高い。海はより鮮やかな青に見えるようになる。
話がだいぶ逸れた。
「ここは冬季も凍結しませんし、北から流氷が流れてくることもありませんわ。通年で使える港としてはレオーラ最北、内海最北です」
ハルはそういう。
良港の条件というのが、第一に外海からの波濤を防げる半島や群島などがあるか。第二に凍結しないか。地球もそうだが、冬季に海面が凍結する、という湾は意外に多い。第三に、船が巨大化すれば水深も問われる。
ちょうどクワガタの歯のような半島に南北を守られたフォーラントは右の三つの条件を満たしている良港であった。ここからさらに北にある港、帝国のヴェンセントという港町は冬季は凍結して使い物にならないという。実際、いまの時期、ヴェンセント港に入れない帝国船がフォーラントに寄り集まって、船の数は一入であるらしい。
「北面と西面は海に面した港湾施設。東部は商店が多くて民家は南側っていったところかしら、大まかに分けて」
その通り、東面は実に賑わっていた。華やかな商店が多く、人の通りも多く、前後左右からの喧騒は耳に痛いほどで、道は太くとも馬車や馬で進むのも一苦労といったところだった。
「大都会じゃないの」
ユウは忙しなく首を左右に振っている。
ディクルベルクの人混みもこのようなものだったが、様々な肌の色、白や黒、ユウと同様黄土色的な肌の人種も多く、それぞれの顔かたちも異なり、そういう風系を眺めていると、港湾都市であること、レオーラが面する内海という海域の広さを実感させられた。ここの外には広い世界があり、この街はその広大な世界に繋がっているのだと実感されて、内心を沸き立たせる活力のようなものが生まれてくる。
「そりゃそうよ」とハルは得意気にいう。「内海でも五指に入る大港湾都市ですもの」
ハルは商店に馬車を運び込み、ユウとタモンは宿を取って馬を停め、徒歩で観光している。白い石の建屋に、石材の街道。四方八方から人が飛んできて避けるのもひと苦労である。
「帝都も活気があったけれど、ここは一味違うな」
ユウはぶつかりそうになった肩を逸らせ、ハルを追う。
「わたしは帝都に行ったことがありませんけれど、噂は存じ上げております。でも、交易の中心は海浜部。物流の循環速度が違いますわ。内陸部は循環が滞っていずれ停滞します」
「そういうものかしら」
とろとろと、人混みの中を抜けてゆく。奥にオレンジ色の瓦屋根の大建築があり、
「あの倉庫街の向こうが波止場ですわ」
「おお」とユウは思わず声を上げてしまった。
船の群れだ。帆柱は枯れ木のように林立し、甲板は水面に揺れながら連なって、対岸にある山体の下までその地平を伸ばしていた。
鉛色の蒸気に霞んだ空、その中にぼんやりと佇むノルン山脈の連峰。白雪の山肌の下、点々と芽吹き始めた緑を隠すようにして、帆柱の雑木林が成立し、濃紺の幕のような海面の上で揺らされているのが、典型的なフォーラントの春らしい。ただここの喧騒も凄まじく、心穏やかに景色を眺めるというわけにはいかなかった。無数の桟橋からは際限なく荷車が湧き出し、漕ぎ寄せる短艇からは船乗りが雲霞のごとく押し寄せる。彼らに揉み潰される前に、三人は岸壁に沿って西に向かった。
たぷたぷ、と岸壁に打ち寄せる波が音を立てている。
「レオーラの船は船尾に国籍旗を掲揚しているからすぐにわかりますわね。緑地に白抜きの翼竜が王国、赤地に白の剣盾が帝国船、青地に白い横線が入ってるのがスレイエス船。他にもコスヨテリとか、アナビアからも船が来ていますけれど、こちらは少し毛色が違いますから、これもすぐにわかりますわね」
確かに、王国や帝国船、スレイエス船に比べて曲線を多用した船舶や朱塗りのきらびやかな船舶もあって、こちらは他大陸からの船舶だそうだ。これを地域別に統計立てるだけでも一個の学問になりそうだった。
三人は町内水路と海の境界にかかる橋を越えてゆく。そのアーチの天辺辺りで、「おや」とタモンが声を上げた。
「旦那、あれはアントワーヌさまの船でございますよ」
「どれ?」
タモンの指さす方向には、一隻の帝国船があり、帝国旗とともに白狼の旗が掲揚されている。
「ははあ」とユウは顎を擦った。「よくもあいつら、恥ずかしげもなく使えるものだな」
自分たちで領地をはく奪しておきながら、その旗を掲げ、他国の港に何食わぬ顔で船を入れているのである。
「ヴェンセントが使えませんからの。おそらく帝国は平時を装いたいのでございましょう」
国内のゴタゴタを同盟国にも知られたくないということだ。この一事だけを取ってみても、帝国の内政と外交のスタンスが察せられる。
「アントワーヌさまといえば、帝国二十九家に連なる超のつく貴族さまですわね」
といったのはハルだ。うっとりしたような視線と声で続ける。
「憧れますわあ。白亜の豪邸と漆塗りの馬車。使用人は何十人といて、指一本動かせばなんだってしてくれるの。いつかわたしもそういう生活を手に入れてみせる」
「貴族になるの?」
「貴族?」とハルは首を傾げた。「わたしはなれませんわ」
「巨万の富を築いて、称号を買えばいいじゃない」
「ユウさまは勘違いなすっているみたいですけれど、貴族っていうのは称号とお金の過多でなれるものではありませんわ」
「というと?」
「貴族の務め、というのは、自分の富、命、その他すべてを投げ売って、人民に尽くすことにあるのです。金を儲けても、その資金は人民のため。生涯の一瞬一瞬も人民のため。人であることを辞めない限り、貴族という務めは務まりません。まず富を捨てるところからやらないといけないのですわ。わたしに、その覚悟はとてもとても……」
実際のところ、この世界の貴族というのは、武力によって一帯を支配した王権から土地の差配を任された者、または政治を任された者、その領土を守護する軍隊従事者、あるいはそれらの一族のことをいう。スレイエス国民の感覚とか、理想として、貴族には右のことを弁える責任がある、ということだ。
肩を竦ませるハルは諦観を滲ませながら語っていた。
なるほど、とユウは思う。アントワーヌの一族は、生命と富のすべてを賭けて帝国民に正義を示そうとした。リリアの中にも感じる貴族としての誇り、務めを成そうとする情動。そういう熱があるのか、とユウは貴族という生き物の側面を垣間見た気分だった。
それにしても、と、ハルは嘆息をする。
「スレイエス貴族のなんと落ちぶれたことか。帝国にへえこらしちゃって、別に特段の意志もなく南に風が吹けば南へ、北へ風が吹けば北へ。あの腐れ貴族ども、脳みそがただの肉の塊になってるのよ。引きずり出して、肥料にした方が世の中のためだわ」
「ずいぶん苛烈なことをおっしゃいますのう」
「はは、タモンのおじさまったら、お茶目なこといっちゃって。バカの政治でバカを見るのはわたしたち一般市民なんだから、バカな政治家はそのツケを払って当たり前よ。まだわたしたちが我慢してあげてるからいいようなものの、なにかきっかけのひとつでもあれば大事件よ。いわば、林の中の熾火のごとし、風が吹けば大火が上がる。歴史の年表に大きな焼け跡を刻んでやるわ」
「林の中の熾火ねえ」この小娘が、とはいわなかった。
「あら、ユウさま、侮っちゃいけません。わたしったら、意外と顔が広いのよ。明日にでも反乱を起こしてフォーラントを独立国家にできるくらいの人脈があるんだから。ほら、わたしって可愛いし、愛嬌もあるし」
「そうですの」とタモンが愛想よくいう一方で、ユウは沈黙している。「ハル殿の愛嬌の良さは、あっしも広く世を回ってきたつもりですが、今も昔も東西南北比べる者がありませんの」
「可愛いの方も褒めていいのよ、おじさま」
「これは失敬」
「それじゃあ」と、ユウは法螺話に終止符を打った。「明日にでも独立すればいいじゃない」
「そりゃね、できることならそうしたいけれど」とハルは肩を落とす。「わたしは貴族になれないし、支配者にも向いてないし、他に格好の王様でもいてくれれば、明日にでも一万の人民を率いて兵舎を打ち壊しますわ。でも格好な王様なんていませんから、わたしはみじめな一市民」
人生そんなもんですわ、と達観したようなことをいう。
彼女の話のどこからどこまでが真実で、嘘なのか、それとも脚色なのか、判然としないが、たったひとつ、間違いないことを知った。
フォーラントの市民の間に、アントワーヌ失脚の噂はまったく広まっていない。
〇
ユウはタモンをやってリリアをフォーラントに呼び込んでいる。ジェシカとロックス、他数人だけを町に入れ、他の人員は帝国南下時と同様、四、五人の組を再編し、スレイエス南方の王国国境を目指している。
「王国船に密航しよう」とジェシカが提案したが、リリアに一蹴された。
「わたしは臣下の方々を置いて、わたし一人亡命するつもりはありません」
「しかし、リリア……」
「ジェシカ、そういうみっともない手段で王国に入ったところで、王国の方々から蔑まれるだけです。できることなら、堂々と国境を越えたい」
ジェシカは不服そうな顔をしたものの、唇をかためて黙った。ジェシカが主を救いたい気持ちはわかる。しかし、リリアのいいたいこともわかる。王国で再起するなら、王国民の支持を得られる手段がいい。さらにいえば、船主に下手に出てしまうと、リリアは終生その船主に足元を見られかねない。自らが主導した方法で、それも姑息な手段ではなく、堂々と。密航は最終手段だ。
リリアは宿の窓から外を眺めて、爪を噛もうとして出した指を見つめて、引っ込めた。
「帝国船があんなに……」
「おれたちの目的は帝国にない。南の王国に亡命することと、ここで金を作ることだ」
「わかっています。いまさらどうこうしようなんて、わたしは思っていません」
「ならいいけれど」
物品の売買はハルとタモンに任せている。それがその日の午後には戻ってきた。
「ほうら、ご覧ください」とハルが卓の上にズタ袋の中身をぶちまけた。大量の金貨が散らばり、山をなした。「いやあ、いい商売ができましたねえ」
「す、すげえ」とロックスは金貨を両手に溢れさせ、その金貨の輝きを瞳に映し込んでいる。
「よくこれほどの額で売れたものだなあ」とジェシカも関心している。
「どれも質のいい帝国産の毛皮したもの。これくらい当然ですわ」では、とハルは売上金に手を伸ばす。「約束の一割、いただいていきますわ」
要するに仲介料である。ユウがタモンを見つめる。
「適正価格よりも上の額で売買されたと思えます。ハル嬢の顔の広さと愛嬌と信頼あってのことでございましょう。先ほどの一万の人民云々の話、あながち法螺ではないかもしれませんぞ」
「ちょっとタモンのおじさま。わたしの口が法螺吹いたことあって」
「おお、いわれてみれば、ないかもしれませぬ」
「バカ話をいつまでも」
「ちょっとユウさま、聞捨てなりません」
「ハルくん、感謝しているよ、縁があればまた会おう」
「もっと精魂込めて喋りなさいよ、この感情の抜け殻野郎」
「わたしの方からもお礼を申し上げます」とリリアは頭を下げて、「ありがとうございます、ハルさん」
「ミアさま」とハルはリリアの偽名を唱えつつ、彼女の両手を両手で抱え込んだ。ハルは目顔をしかめて、
「ミアさま、王国に行かなくったってここで暮らせばいいじゃない。悪くない町ですよ」
「さっきまで打ち壊すっていってた口が……」
「ユウさまうるさい」
「申し訳ありません。王国に約束がありますので、それを反故にするわけにはいきません」
「そんならしょうがないけれど」
とはいったものの、一行はさらに数日、ここに滞在している。水もヘリオスフィアも食料も豊富で、指名手配もされていない。久しぶりにまみえた快適な生活から足を離しがたかった。日をおかずにハルはユウらの宿を訊ねてきて、リリアやジェシカとずいぶん打ち解けてしまっている。ユウとロックスも港湾に行って魚を釣ったり、商店の合間を歩いたり、平穏な日々を送っていた。
その日常の中で、ユウは堕落していたわけではない。スレイエスー王国国境の情報は先行した人員たちが収集していて、フォーラントではスレイエス国内の地図も手に入った。といっても、国境線は軍事機密に当たるから、手に入れた地図も詳しいものではない。王国との係争地より、やや北寄りの地形図だ。
「スレイエスと王国の国境は見渡す限り、草原に覆われた丘陵地ですわ」とその辺りに詳しいハルがいう。「帝国の番犬こと現在のスレイエス公国と、シリエス王国は、いま緊張状態にありますから、越境には厳しい審査があると思いますわ。身元証明がないとスレイエス人だって簡単に越境できませんもの」
「帝国を出るときに発券された旅券があれば問題ありますまい」とタモンが付け足す。もちろん、そんな券がアントワーヌ一行に発券されているはずがない。ハルが去ったあと、さらにいう。
「ハル殿がおっしゃった通り、国境線は見渡す限りの草原と丘陵地。要所には櫓と砦が築かれ、常に監視の目が光り、一人二人の越境はまだしも、百人規模の越境となると、果たしてどうか。警備隊と一戦交えることになりかねません」
「スレイエスと戦うってのは、あまりにも挑戦的過ぎる。すでに帝国越境のために多数の犠牲を払ってしまっている。あれはおれの失策だったけれど、これ以上の犠牲を出すわけにはいかない」
「いかがするおつもりでございますか?」
「現地に行って、地形を偵察してから考えるしかあるまい」
いいながら、まだフォーラントを離れられないでいるアントワーヌ一行に、潮目を変える出会いがあった。
〇
ユウとリリアが二人で商店の合間を歩いているときである。この町は刀剣が名産のようで、日本刀のような刃物を店先に陳列している店舗が少なくない。
「これは、いいものだ……」
ユウは毎日腕を組んで一振りの片刃の剣を見据えている。銀色の刃は美しく、微妙に色合いの異なる波紋も打たれ、芸術性の高さを窺わせる。黒い峰が深く反り返っているのもまたいい。
「実に、美しい……」
「この辺りは鉄鉱石がよく取れるんでしょうね」
「いや」とユウは首を振る。「話に聞いたけれど、砂鉄を材料にしているらしい。砂鉄は火山由来だ。ノルン山脈の花崗岩から採掘できるんだろう。たぶん海岸も黒い砂が混じっているはずだ」
「普通の鉄とは違うのですか?」
刀剣店の前を離れながら会話を交わす。これも毎日のことだ。スレイエスの刃物も日本刀に匹敵するほど高価で手が届かない。見つめては店先を離れを繰り返すのである。
「鉄鉱石は植物と海洋由来だ。昔の海に鉄成分が溢れてたころ、海洋の植物が光合成をして酸素を出して、その酸素と反応した鉄が蓄積したのが鉄鋼脈の元だという。その土地が隆起して地上で採掘できるんだ。少なくともおれの世界ではそうらしい。おれが生きていた時代から二十億年前の出来事だそうだ」
「なんでそんな昔のことがわかるんですか?」
「それは」と話を継ごうとしたとき、突如としてリリアが走り出した。話がつまらなすぎて、ついに嫌われたのかと思った。が、どうやらそうではないらしい。リリアは幌馬車の横に立って、そこに記された印を眺めていた。ユウたちも使っている公営宿の前である。赤い重ね十字の印章、同じ印を施した馬車が十台ばかりあった。
「どこかの貴族の馬車かしら?」
「いいえ。ヘリオス教会です」
「ヘリオス教会というと、ジョゼの?」
「そうです。赤の重ね十字は医療団の印ですね」
「医療団?」
「国境に囚われず、町から町、国から国へ渡り歩いて無償医療を提供するヘリオス教会直轄の団体のことです」
「無償医療?」
「ディクルベルクにも時折訪れていて、晶術による治療をしていました。わたしはその手段がついにわかりませんでした。なにか特殊なコツのようなものがあるらしくて。集合晶術のような……」
レオーラで治療というと、ほとんどが漢方のような薬草と対処療法であり、ユウにもそれが自然で、晶術による治療など考えたこともなかった。
「訊いてみなかったのか?」
「き、訊けませんよ。仕事中なんですよ、向こうは。邪魔するわけにはいかないじゃないですか」
「ディクルベルクには、そういう技術を使う人がいなかったんだ?」
「そうですね、切り傷、擦り傷程度の簡単な外科ならいらっしゃいましたが、ヘリオス教会は内臓疾患まで外科で治療するのです。そういう人はディクルベルクにはいませんでした」
「内臓疾患まで?」いったいどういう技術なのか、ユウも少し興味が湧いた。「ちょっと覗いてみるか」
「ちょっと、ユウさん」というリリアも強いて止めない。
ユウは幌のうしろに回って、垂れ下がった幕の端をちらと薄く捲った。橙色の豊かな光が灯っている。中から漏れ出す熱気の量に、ユウはやや驚いた。積荷の様子を窺ってさらに驚いた。
巨大なマシュマロがある。
巨大なマシュマロが一個、荷台の中央にでんと据えられていた。
「こ、これは特殊な治療に使う道具かしら?」
「いいえ、お布団ですね」とリリアが冷静に訂正する。
「布団?」
「ヘリオス教会は湿潤で温暖なところです。ここの気温はまだ厳しいのでしょう」
「にしても、これは温暖というか、熱帯に近いな」幌の中から噴き出してくる熱量が、である。数年すれば鬱蒼とした森になるだろう。
もぞもぞ、と毛布が激しく動いた。
「なんなの? もう着いたの?」と女の声がこもって聞こえる。
「ここはスレイエスのフォーラントです」とリリアがマシュマロと交信してみる。
「いま何時?」
「もう十四アウン過ぎです」昼時の一服も過ぎた時間である。
「ちょっと、誰も起こしてくれなかったわけ? あいつら、薄情なんだから」
のそのそと布団の塊まま、幌のうしろに寄ってきて、その布地の端をほんのわずか外に出し、ぐっと呻いた。
「寒い……」
「部屋まで行けば暖房があります」
「わたしにはちょっと過酷な道のりだわ」と布団は挫けて、元の位置に収まった。「どちらさまか存じませんけど、ありがとね」
「いえ、大したことでは」といいつつ、ユウとリリアは顔を見合わせてその場を離れた。
「どういう人だったんだろう?」
「さあ」とリリアも首を傾げている。
その日の夕食、同宿だった医療団と食事を共にする機会があり、リリアは喜び勇んで出かけていった。当然、彼女を一人にするわけにはいかず、ユウたちもついていった。
町の酒場の一隅に医療団員は座を占めていた。その中に一人だけ、飛びぬけて目の引く美人がいた。金の髪色は緩やかなウェーブを描いて腰元まで伸び、その腰元は引き締まって、上下は豊満に張り出して、背もユウよりやや高く、たなびく白衣がまた勇ましい。おもむろに振り返った細い顎の輪郭の中で鋭く輝く群青色の瞳もまた美しい。
「すげえ美人だぜ」というロックスの脱帽しかけた声に、ユウは意識を引き戻された。いままで惹きつけられていたことも自覚していなかった。恐るべき美貌である。
「はん、男ってホントろくでもないんだから」とハルが肩をすくめている。一方で、リリアは手近な医療団の男性に声をかけている。
「あの、わたし、治癒術のことでお伺いしたいことがあるのですが……」
「はあ」と男は気のない声を出している。あまり感触は良くない。だが、リリアは食い下がる。
「わたし、晶術を志していて、様々な本を読んで勉強してきたんですが、治癒術に関する書籍が手に入らずに、どうしても学べなかったんです。それで、その……」
と一方的に話すリリアに、先ほどの美女が近づいてきた。
「あなた」と美女がリリアに声をかけた。「あの、昼間の子ね」
「昼間の?」と少女は首を傾げ、「お会いしましたでしょうか?」
美女は軽やかに一笑し、「あの馬車の中にいたでしょう。あなた、男の子を一人連れていたわ」
「ああ、あの幌馬車の」
あのマシュマロの中にいた人物であると知り、ユウは何度目かの驚きを禁じ得なかった。
〇
あの美女はフランセスカという名前で、医療団の医師をしているらしい。中でも相当の腕利きで、リリアに好意を抱き、何事かをよく教えてくれている。ユウはヘリオスフィアの知識が皆無なためによくわからない。
「フラン先生」と四方は彼女のことをそう呼んで、リリアもそれに倣っている。「いつまでフォーラントにご滞在ですか? もっと色々なことを教えていただきたいです」
「もう明後日にはここを出て南に向かうわ」
「南? 王国ですか?」
「少し手前ね。スレイエス国境の政情が不安だから、なにかがあったときのためにわたしたちが行くの」
「不安なことがなにかあるんですか?」
「王国とスレイエスの兵が国境線に集結しつつあるっていう情報があってね」
「まあ」とリリアは口元を手で覆っている。そのようにして夕食の時は過ぎ、宿に戻ったユウは一考して、自室に人を集めた。
「急いで南へ下ろう」
「スレイエスと国境を接しているのはコルト領です」とリリアがいう。「危機が迫っているなら力添えをしなくては」
「それ以前に、亡命する絶好の機会だ」
「機会?」
「王国とスレイエスが戦えば、当然国境線防備の人員が偏る。王国側がスレイエス兵を破る点もあるかもしれない。それに乗じて越境する」
以前から国境線が危ういかもしれない、という情報は、アントワーヌの諜報が国境線から頻りに送られてきていた。スレイエス軍の動き、兵站の動き、そういうもので戦争の気配は容易に察せられる。
ユウはアントワーヌの諜報の報告を信じなかったわけではないが、果たして、国境線が乱れたところで越境できるかどうか、自信がなかった。また犠牲を出すのを恐れていたのかもしれない。だが、いまはまた別の機会が訪れている。
「おれたちは医療団と一緒に南下して、国境線付近で離脱する」その間に、とユウはいう。「リリアには治癒術を極めてもらう」
「わたしが? 極めるんですか?」
「例えば、王国にしばらく留まることになれば、おれたちの中にも病人が出る。その治療はできることなら自分たちでやりたい。医療は人民の生命線だ。一個の組織を維持していく上で欠かすことはできないし、人に頼めば足元を見られることもある。リリアがフラン先生から教わって、晶術部隊と合流してからみんなに術を教えるんだ。あわよくばその術でもって、コルトの人々にも医療を施し、信頼を得たい」
この機会を逃せば、大陸最先端の医術を習得することはできなくなるだろう。もしかすると、スレイエスー王国国境を越える以上に、重要にして稀な機会かもしれない。これを掌中に入れるために、ユウは南下を決意したわけだ。
「な、なるほど」
と呟いたリリアの瞳に情熱の炎が灯った。大きく燃え上がる。
「やりますよ、わたしは。この一事でアントワーヌの未来を切り拓くんです」
行きますよお、と拳を振り上げて退室していった。
「タモンはそのように、四方に使いをやってくれ」
「かしこまりました」
「また戦かあ」とロックスは拳を打ち合わせる。「帝国同盟なんて粉砕してやるぜ」
〇
薄い陽のさす木立の間に、白い軌跡が揺れている。
木枝をへし折る音が鳴り、白剣の軌跡も素早く動く。迫っていた鈍色の刃を叩き、その持ち主の胴を薙いだ。さらに二本の太刀が背後から殺到してくる。身を翻したユウは一人の小手を打ち、伸び上がってもう一人の鎖骨を返した刃で打ち砕いた。周囲を取り巻いていただけの三人は藪の中へ逃げていった。
「他愛もない」
「相変わらずの手並みだな」
ジェシカも剣を振って刀身に乗った血と脂を払い、鞘に収めた。
「そっちは?」
「二人だ。やはり帝国からの流れ者らしい」
「そうか……」
かなりの数の没落貴族がスレイエスに流れてきていて、野盗に身をやつしている。
「東方貴族、ということかな」
「おそらくそうだろう」とジェシカはため息をついた。「ちょうど一年くらい前だな。ディクルベルクの南に巣くっていた野盗たち、あいつらも同じ境遇だったんだな、わたしたちと」
「同じにはさせない」
「ユウ?」
「あいつらは民を襲い、民から奪う、餓鬼だ。おれたちは違う。そうはならない」
「それもそうか」とジェシカは乾いた声で笑う。「そうならないようにしないとな」
二人は徒歩である。腐植を踏みながら雑木林を出て、小さな村に入った。茅葺屋根と土塀の家がいくつか並ぶだけの質素な村である。ただ、周囲は黒い土に覆われて、水路が張り巡らされ、高い畔に縁取られている。その小さな村の中央広場には十台あまりの馬車が止まっていた。ヘリオス教会医療団の幌馬車である。
「ユウさん、ご無事でしたか。ジェシカも」
リリアは腕を捲って、雑巾を干していた。その手を止めて、駆けてきた。
「ああ、おれたちは大丈夫だけれど、こっちは?」
「ええ。こっちは、その……」
「ユウくん」と荒っぽい声をかけてきたのはフランである。横合いからほとんど体当たりのように詰め寄ってくるから、ユウは身を引いて、若干ジェシカに先を譲った。
「賊は?」
「叩き斬りましたよ」とジェシカの影からいう。
「怪我をしたんでしょう、彼らも」
「そりゃもちろんしてるでしょう」
「いますぐ拾ってきなさい」
「はあ? なんのために?」
「なんのためにって、治療のために、に決まってるでしょう。わたしは医者よ」
すでに彼女の横には空荷駄があって、男たちが引いている。これで引っ張ってこいというのか。
「そうはいっても危ないですよ。あっちは襲ってきた連中ですから、なにをするかわかりませんよ」
「じゃあ、わたしが行く」
「いや、そういうわけにはいかないでしょう」
「行くの? 行かないの?」
「ええ」と頭を掻いたユウは「わかりましたよ。おれが行きます」
しぶしぶ、道案内がてらついてゆく。幸い、ジェシカとユウが討った賊徒どもは戦意を完全に失っていた。うち二人は戦意どころか、命すら失いかけていた。一人はユウに腹を斬られ、一人はジェシカに頭を割られている。中央広場で五人の手傷を見たフランは応急処置を施して治療する順番を決めてゆく。
「こっちは一番天幕に。こっちは二番。あとはミアちゃんに任す」
「はい」とリリアは干していた雑巾を取って、軽傷の三人に手当を施す。
「どういうことなのかはおおよそ察している」とユウは村の防御に残っていたロックスにいった。
一行は南進の中途、この村に差し掛かり、賊徒の討伐を依頼されて引き受けた。二十にも及ぶ襲撃者たちを医療団の護衛十人ばかりとユウたちが合同で討ち倒し、村の物資を持って逃げた十人をユウたちが追っていたのだ。
「怪我をしたのは賊徒で、その賊徒まで治療しようっていうんだろう」
「まったく酔狂な人だよ。あのフランっていう先生は」とロックスも首を傾げる。「なんで悪党まで助けなきゃならんのだ。また襲ってくるぞ」
「しかし、腕は確かなようですな」とタモンが笑う。「あっしも長いこと旅を続けておりますが、あれほどの治癒術を扱う人を見たことがありません」
タモンの言葉の通り、もはや助かる見込みのないと思われていた賊徒二人の命をものの見事に救ってしまった。
「すごい人です」とリリアは興奮を隠せない。「ここで会ったのは運命に違いありません。わたしはフラン先生を師事します」
と息巻いて終日フランとともに行動することが増えた。フランはというと、日ごろはマシュマロのように布団にくるまっていることが多く、その仕事のほとんどをリリアを始め、他の医療団員に任せている。が、重篤な患者を診ると目の色を変えて医療を施すのである。ユウもフランの施術を見ている。スフィアによって体内まで見通すらしい。それによって患部を突き止め、血腫があればメスで切除し、糸と針で縫い合わせ、晶術によって止血するのだ。その過程の技術、視覚であったり、器用さであったり、集中力であったり、それらのこともヘリオスフィアに補助させているらしいのだ。
「これはまだ研究段階の術だから、わたし以外の人はあまり使えないのよ」とフランはいう。ここだけの話、とフランは後日ユウに打ち明けたことがあった。「ヘリオス教会領に、そんな術を使って治すほどの人ってほとんどいないのよ。だからこうして大陸を回っているわけ。寒村であったり、都市であったり、戦争であったり、色んな症例があるから技術の向上に持ってこいなのよ」
と笑いながら話していた。つまり、賊徒二人も貴重な実験体だったわけだ。
「ミアちゃんには内緒よ。あの子にはわたしは善意の医師と思わせておきたいの」
「なぜ?」
「なぜって、少女の夢を壊すのは忍びないでしょう」
「なぜおれだけに話すのです?」
「ユウくんは目ざとくわたしの本性に気づいて、迂闊に少女の夢を壊しそうだから釘をさしておいたの」
そういう人らしい。
「おれには少女の夢を壊さないようにしているんじゃなくて、少女の夢を隷属しているようにしか見えませんが」
「ユウくんたら、わたしって善意の医者よ。そんなあくどいことするわけないじゃない」
思惑はともかく、リリアはフランの狙いの通り、彼女に心酔し、フランも技術の多くを教えている。それ自体はユウの思惑にも適っている。のちのち、アントワーヌは医療に困ることはないであろう。
町村に立ち寄っては患者を探し、野盗を見つけては討ち倒し、また治療して、という南進は十日ほども続いた。
〇
国境線が近づいてきている。
「やはり、観測の通り、王国とスレイエスは両国国境に当たるウラカ台地周辺に兵を集結させている模様でございます」
タモンは幕舎の中でユウに報告する。
「国境線には終日篝火が焚かれ、兵が巡回し、越境するのは至難の業でございましょう」
「国境線は東西三百キオほどもあるように見える」
地図にはそれほどの広大な規模で書かれている。
「然り。二国の国境はそれくらいはある広大な丘陵の折り重なる大地でございます」
「この三百キオの範囲のすべてがそうか?」
「一部人のないところもありますが、柵と鉄線で守られております。スレイエス製の鉄線は強力ですぞ。馬では蹴破れずに、人馬の方が怪我をしましょう。最悪、命を落とすこともあるかと。徒歩で接近し断ち切らねば」
「戦闘を待つか、無理を押して渡るか」
「国境線から北へ十キオ以内は町がありません。すべて城壁で囲われた城塞と呼べるもので、正式な証書がなければ留まることもまかりなりません。人が野営していれば目立ちましょう。いまはヘリオス教の威を借っているために何事もありませんが」
「やるなら、十キオ以上、後方から一丸になって押し込む、ということだな」
「それ以上は近づけますまい」
「難しい判断を迫られているな」
強行は不可能といっていい。平時より人の数が増えた国境線を押し渡ることになるのだから、自殺行為に等しい。強硬策ならこの警備が解けるのを待つ他ない。それまでの滞留費はどれくらいかかるか、想像もできない。
「どうなさいますか?」とタモンが決断を迫ってくる。
「考える。おまえは周辺の情報を出来る限り集めてくれ」
「かしこまりました」
とタモンは出てゆく。
国境線まで五キオとない。これだけの近距離に幕舎を張れたのは医療団の印があるためだ。帝国越境時のユウの計算には入っていなかったが、運が味方した形である。彼らの助けがなければ、周辺の捜索だけで膨大な時間を要していただろう。
王国、スレイエス、ともに動かない。動いてくれれば、そこを狙うのだが。
ユウは幕舎の外に出て、地平に煌々と灯る白い明かりを見据えていた。
あの国境線を越える。一人の犠牲も払わずに。
「ユウくん」と背後から声をかけられた。フラン先生である。
「どうしたんです?」
「別にどうということもないけれど、眠れなくてね」
「昼間に寝すぎなんですよ」
「休めるときに休んでおくものよ、わたしみたいに忙しい職業の人はね」
「それで夜のお散歩ですか。寒いですよ、ここは」
「たまには冷たい風に当たりたくもなるものなのよ」
「わがままな人」
フランはユウの隣に並び、同じく国境線の方を眺めている。
「ところでユウくん」と彼女はいう。「ミアちゃんのことだけれど」
ユウは、ちら、とフランの方を見据えた。彼女の爪先は何事もないように芝生を踏んで遊んでいる。
「わたしのところに預ける気はない?」
「それ、どういう意味です?」ユウは嘲笑するように訊いているが、内心は総毛立っていた。まさか、リリアの出自がバレてはいないだろうか。
「ミアちゃんの出自は訊かないけれど」と実際、フランがいう。「帝国貴族の出だということは、しばらく一緒にいればわかるわ。顔立ちが北方人のそれだし、所作のひとつひとつの優美さ、その知識量、あの人差し指の指輪、どれも高貴な出の者でないと手に入らないものよ」
そういうものか、とユウは思う。アングロサクソンやフランク、ゲルマンに似ているレオーラ人の顔に出る地域の差が、ユウにはわからなかった。一方で、フランに悪意がないということはわかる。
「それで、預けろとは、どういうことです?」
「帝国はヘリオス教会に手は出さないわ。皇帝陛下自身が敬虔なヘリオス教徒、教会には多額の出資をしていて、わたしたちもそのお金で動いているといっても過言じゃないわ」
「にもかかわらず、帝国貴族を匿おうと?」
「ヘリオス教会は戦争においてあくまで中立。帝国の支持もしないし、対立もしない。亡命者だって受け入れている。彼女がすべての権威を捨てて、二度と教会領の外に出ないと誓うのであれば、教会は彼女を保護する。教会が保護しなくても、わたしがする」
「フラン先生が?」
「彼女の才能を失うのは惜しい。わたしの下で学べば、レオーラでも指折りの逸材になるかもしれないわよ」
「なぜおれにいうのです? あの子に直接いえばいい」
「だって、わたしには」とフランは芝生を蹴った。「あの子がそれほど強いふうには見えなかったから。ユウくんの方から相談してあげて」
じゃ、とフランは手を振って颯爽と去ってゆく。一考したユウはリリアのいる幕舎へ向かった。
「そういうことらしい」とユウはフランの好意を、リリアに語って聞かせた。ここにいるのは、あとはジェシカだけで、彼女は暗い顔をして幕舎の隅に座っている。リリアは感情を消した顔を中空に向けていた。
「ユウさんは、どうお思いです?」
「偽りはないと思う。フラン先生はリリアの無事を保証して、匿ってくれる」
ユウの見た限り、フランという人間は欲望に忠実であり、その欲望の中心にあるのは医術と怠惰である。他人の評価を気にせず、出世に対する意欲もないところを見ると、富や権力に対する欲求もない。
「あの人は信じられる」
「そうですか」
「リリア……」とジェシカが身を乗り出したのを、手のひらだけで制し、
「わたしの口からお答えするのが礼儀でしょう。ユウさんはついてきてくださいますか?」
「ああ」
二人は夜の中を押してフランのいる幕舎へ向かった。彼女はまだ起きていて、卓にやっていた顔をこちらに向けた。
「リリア・アントワーヌと申します」とリリアは頭を下げた。「フラン先生、名を偽っていたご無礼、お許しくださいませ」
「それは別に構わないけれど」ちら、と向けられる視線に、ユウは頷いた。
「お話のこと、ユウさんからお伺いしました。ご厚意、篤くお礼申し上げます」
「それじゃ……」
「お申し出、深く感謝いたしますが、お断りさせていただきます」
フランはぎょっとしたふうだった。リリアは言葉を継いでいる。
「わたしには、わたしを慕ってくださる民がいます。土地を失ったとはいえ、彼らはアントワーヌの民だと、わたしは思っております。その彼らを放って、わたし一人だけが身を匿われるということは断じてできません。わたしの命は彼らとともにあるのです。どうか、ご理解くださいませ」
沈黙の帳が幕舎の中に落ちている。小さく咳き込んで、フランが口を開き、
「行くあてはあるの?」
「王国のコルトへ。領主のバーナードさまは父と深い仲でしたから」
「国境を越えられるの?」
「それは」と今度はリリアがユウの方を見る。ユウは憮然としたままだ。
「まだ目処は立っていません」
「じゃあ、わたしたちが越えさせてあげる。教会の馬車の中にいれば、深い詮索はされないし、あなたたち五人くらいなら王国に送ってあげられるわ」
感謝の声を出しかけたユウの言葉を、
「お断りします」とリリアが遮った。「お心は大変うれしいのですが、わたしたちは総勢百五十という所帯で、彼らはまた十キオ以上も後方にあって、わたしたちの指示を待っています。彼らを置いてわたしたちだけが越境するわけには参りません」
「ははあ」とフランは呆れたような、感心したような声を上げた。「貴族の務めというのは厳しいものねえ」
フランは腕を組み、足を組み、
「バラバラに越境すればいいんじゃないの? まずリリアちゃんの安全を確保するのがユウくんたちとその民の願いでしょう?」
「それがユウさんの立てた方針だというのなら、わたしも従いますが」
二人に見つめられ、ユウは首を傾いだ。
「もう少し、時間をください。フラン先生方はいつごろまでここにおられますか?」
「スレイエスと王国の兵が通常態勢になるまではいるつもりよ。まあ、あとひと月くらい? この辺りの城塞とか、砦とか、村とかを周りながら」
「そうですか」とユウはため息を吐く。「しばらくご一緒させていただいて構いませんか? 先生方は危険を孕むことになりますが」
「構わないわよ。わたし、あなたたちのこと好きになっちゃった」
卓を叩いて笑っている。
〇
もちろん、長居はできない。アントワーヌ隊には金銭的な限界があるし、時間が経てば帝国から圧迫を受けるかもしれない。作戦は刻一刻を争う。が、ユウは焦らなかった。虎視眈々と機会を待っている。
スレイエスはすっかり春の香りに包まれて、医療団は忙しいながらも典雅な草花と蕩けるような暖気に包まれていた。実際、フランはほとんど溶けるようにして寝台に転がり、布団の中から出てこない。働くのは他の医師とリリアばかりだった。
「もっと面白い症例があれば、わたしだって働くのよ」
とフランは他愛もない言い訳をする。
「もっと過酷な環境の方が病理が多いのよね。帝国にでも行こうかしら」
口走ってから、リリアたちの出自を思い出したようで、
「冗談よ。もうしばらくはここに留まりましょう」
「わたしたちがフラン先生たちの重しになってはいけません」
リリアはアントワーヌ隊の五人だけになると熱弁を振るった。
「これ以上、ここに留まることはできません」
「しかし、戦線は膠着状態にあるし」
「おれたちも動けないよな」
「あっしらが攻め込めばコルト側が動くかもしれませんぞ」
「そんな不確定要素には賭けない」
ユウは断固としていう。
「リリアのいいたいことはわかる。でももう少しだけだ。もう少しだけ待とう」
ユウには一案ある。しかし、それが奏功するかわからない。だから誰にもいうことはできない。彼らはユウがなにを考えているのか、まったくわからないだろう。こういう場合、ユウは敵との戦いに備えるよりも、味方の説得に力を尽くさなければならなくなる。
「スレイエスの地勢の情報を集めている。例えば、昔は王国領で、独立して五十年あまり経っているだとか、市民の間では親王国派が多いとか。現公王とその一派が帝国派のために国家ぐるみで帝国側についているんだ。おそらく、帝国産の人工にしては良質のヘリオスフィアを安価に買えること。帝国には食糧庫として重宝されているために無下にはされないということで、両者の利益が一致したんだろう。内部では親王国勢力がくすぶっている。元王国領であったことから、元来親王国派が多く、王国文化の信奉者が多いわけだ。王国はレオーラにおける封建制発祥の地であり、貴族発祥の地であり、王国の文化と伝統を作ったのは貴族であり、そういった自負が強い。王国にはそういう強い誇りがある一方、王国と別れたスレイエスはその文化に対して憧憬の念は強まり、思想は純粋化され、貴族に対する畏敬と理想は王国や帝国以上かもしれない。全員に適用できるわけではないけれど、一般論だ」
「そうかもしれませんが、それがどうしたのです?」
「まさか、スレイエスの地下に潜ってる親王国派を味方に付けて一戦交えようというんじゃないだろうな?」
ジェシカが訝しむ目を送ってくる。
「どれくらいの規模かわからないが、正規軍に勝てるか?」
「おれの目的は亡命だけにある。スレイエスをどうこうしようとは思ってない」
「ならいいけれど」
「いまはいかに無茶をせず、血を流さず、優雅にスレイエス国境を越えるかということだけに集中したい。そのためにはもうしばらく時間がいる。方針を決めるだけで、あと二、三日。二、三日経てば、どちらにしても動く」
「あと二、三日ですか」リリアは椅子に腰を落ち着け、頷いた。「ユウさんがそうおっしゃるのなら、待ちましょう」
それから二日の間、ユウはたった一通の便りが来るのを一日千秋の想いで待った。そして三日目の朝、ユウの幕舎にドライが駆け込んできた。朝に弱いユウも飛び起きて、「どうだ?」と問うた。
「すべて準備が整いました」
「よし」とユウは喝采し、幕舎を駆け出ていった。リリアたちの幕舎に飛び込んでゆく。
「リリア、動くぞ」
「動くって、どのように?」
「アントワーヌの船を取り返す」
〇
それより少し前、
「ちょっと法外すぎやしません?」
ハルは革袋の中から取り出した貨幣の数を数えながら相手の顔色を窺った。脂ぎった顔をてらてらとさせた髭面のオヤジは上っ面だけの渋面を作り、
「帝国は内紛、こっちは南の国境が怪しい上に帝国から流れてきた不平分子がいるだろう。それだけゴタゴタしてれば物価も上がるし、馬車の賃料も上がるってもんよ」
「そりゃそうですけど」
「うちより安く馬車を貸してくれるところがあるんならよ、そっちに行けばいいじゃないか。どうだい?」
「でも、長い付き合いだし、少しくらいまけてくれたってよろしいのでは?」
「長い付き合いだから、たまには礼金くれてもいいんじゃないか?」
むう、と唸ったハルは帳場に貨幣を並べた。それを数えて、
「毎度あり」
黄色い歯を見せて笑うのが憎たらしい。
「月夜ばかりじゃないからね」
捨て台詞を吐いて馬車屋を出た。
小さな窓がひとつあるっきりの屋根裏部屋がいまのハルの住まいだった。小さな棚と机、その上に花瓶と一輪花、傾斜した屋根を支える梁からぶら下がった安っぽい照明晶機がひとつ。
ハルは扉を開けるなり、ベッドの上に身を投げ出した。
三年あまり前、ハルが十五を迎えた朝に、父は家族の解散を発表した。知らないうちに家は売却されていて、両親はその金で中古船を買い入れて海に出てしまって、以来音信不通。四つ上の兄は南に旅立って、以下同文。
父は旅立つにあたって、二人の子供たちに多少の金を残していった。その金でこの部屋を借り、しばらくの生活費にも使い、残りはいまハルのベッドの中に縫い込んだ貯金箱へ厳重に封じられている。
毎日毎日、少しずつ少しずつ、紙幣とよらず、貨幣とよらず、可能な限りの金を溜めている。いずれ自分の馬車を買い、店を開き、大きな商いをして巨富を得るために。
ハルは片手に握った革袋を眺めた。
軽い。哀れなほど軽かった。
帝国の膨張政策が表面化して大陸に戦雲が垂れこめるとともに、ヘリオスフィアと食料を筆頭に、物価高が続いている。売値を吊り上げても、買値はもちろん、その他必要経費の値上がりについていけない。例えば馬車。女の徒歩旅では野党に襲われる危険があるという以上に、商売として成立するほどの品数を持ち運べないのが問題だった。ほとんど絶対というほどで借りなければならないのだが、その賃貸料は日々上昇している。
この様子では馬車を買うのに、あと何年かかることか。店など、夢想かもしれない。船を持つなど、想像もつかない。
絶望に近い生活が続いている。これからも営々と続くのかもしれないと思うと、絶叫したくなる。夜になると、わけもわからず不安になるときがある。
そんな中、思わぬ儲け話が転がり込んできた。
ミアを名乗るあの少女と、ユウを名乗る男。彼らが持ち込んだ珍しい毛皮は物価高の昨今とてつもない高額で売れた。その仲介費だけでも相当な金額になった。
いったい何者だったのか。
ミアは明らかに育ちがよく、気品が感じられ、おそらくは北の没落貴族だろうと容易に察せられた。ジェシカはその従者然としていたが、ロックスやタモンはどうだろう。貴族の従者というより、野盗の素養の方が高い。ユウは異邦者らしかったが、いったいどういう所以で彼らと行動を共にしているのか。
とんとん、と扉が叩かれたのはそのときだった。
こんな時間に誰だ、と怒り、無視しようかとも思ったが、運命が彼女を立たせた。
覗き窓から明るい廊下を眺めると、外套を羽織った女性が一人いて、黙然としている。
ハルは扉を薄く開き、「どなた?」と尋ねた。
「ハルファリルさまですか?」
顔立ちから帝国人であることはなんとなく察せたし、立ち振る舞いから育ちの良さも知れた。まさか、と思いつつ、ハルは頷いて、
「あなたは?」
「ミアさまから、こちらを預かっています」
恭しく差し出された小包を受け取り、とりあえず彼女を室内に招いて、その荷物を月下の卓上で開いた。狼の頭部を染め抜いた旗印。晶機を灯すと、青地に白狼だとわかる。
「アントワーヌの旗印ですね」
使者はいう。ミアを名乗っていた少女は北の大貴族アントワーヌの一子、リリア・アントワーヌであり、アントワーヌは帝国で失脚、王国への亡命を目指しているという。
それよりも、ハルは旗をつかんでは縫い目を光に晒し、生地を頬に当て、その感触を確かめていた。素材と裁縫技術に間違いがない。どうやら本物らしい、と結論したハルの脈が速くなっている。
少し補足するが、旗章は軍にとって命同然ともいわれ、軽はずみに外に出していいものではない。その原則は領地を預かり、守護する貴族階級も同じはずで、アントワーヌの旗印が本物ということは、彼女を真実の使者と信じていい、とハルは思ったわけだ。ハルは彼女の話より、自分の眼識を信じた。
「なぜ改めてわたしのところに?」
「我が主はハルファリルさまにご協力を仰いでおります」
「わたしに? アントワーヌさまが?」
それだけでも浮き立つ気分だった。ハルの足もとにかしこまっている彼女も、帝国では一貴族だっただろうに。
しかし、それらの気分は押し包んで、心の底に沈めた。これから、商売の話をするというのが如実にわかる。感情は理性を鈍らせる。
「これらの話をご理解くださったなら、この手紙を差し上げるようにと」
差し出された手紙を開いて、ハルは笑ってしまった。
「船を盗むとは、また大胆な策を思いついたものです」
「そのためには、フォーラントの商人方の協力が欠かせません。それと、貴殿には以後、我々の商いを司り、アントワーヌ運営のための富を築いていただきたいのです」
「このわたしが?」
「天ノ岐さまは、ハルさまに是非と」
「ユウさまがねえ」
ハルは屋根屋根の間に浮ぶ月の白さを眺めた。
「わたしは国を捨てることになります。いまのスレイエスは帝国と昵懇、帝国から排斥された貴族を助けてスレイエスを出れば、わたしがこの国に戻りにくくなることはご承知のことでございますね? もちろん、わたしが集める仲間たちも同様です」
「はい。それなりの褒賞と地位を約束するとのことでございます」
問題はアントワーヌの浮沈に関わっている。アントワーヌが浮けばハルの身も浮き、沈めばともに沈んでゆく。
果たして、アントワーヌにそれだけの希望があるかどうか。自分に一国を切り回すような商才があるかどうか。スレイエスに残れば平穏な生活が約束されているといっていい。アントワーヌに乗っかってしくじれば、すなわち死だ。
いままでにない巨大な投資だった。富の投資ではなく、命と人生の投資。終生でこれほどの博打に出会う人間がどれほどいるだろうか。
己の運命を考えただけでも背筋が痺れ、指先が震え、喉が逼塞してゆく。
ハルは眉間をつまみ、熱くなり始めた目で小さな部屋を見回した。
わかっている。この部屋で死ぬわけにはいかないのだ。ならば、答えは簡単になる。
「わかりましたわ」
「よろしいので?」と使者は強い眼差しで問い詰めてくる。「ご両親やご友人にも、どのような影響があるか」
「別に構いません。父も母も兄もこの国にはおらず、音信不通です。気にすることありませんわ」
それ以上に、とハルは机を叩いた。
「この機会を逃せば、わたしに成り上がる機会はありませんもの。悩むことはありません。ユウさまには万事承りましたと、一筆したためましょう。この手紙の通り、従前準備を整えておきますわ」
「感謝いたします」
「それと、わたしが即決しなければならなかったのは、時間が限られているためです。じきに帝国の氷が溶けます。例年では、あと一週間もないでしょう。アントワーヌ船がここを離れれば、二度と手が届かなくなります。どうか、お早めに、お願いいたしますわ」
「かしこまりました」と使者はハルの手紙とアントワーヌの旗を受け取り、一礼して退室していった。
「わたしにも、運が拓けてきたわ」
スフィアから放たれた小さな炎が手紙に移り、ちろちろと、その舌先で紙片を呑み込んでいった。
〇
ある日の夜、アントワーヌの船に無数の樽が持ち込まれた。
「どうしたんだ、これは?」と帝国兵も訝しんだ。
「今冬、みなさまには色々と儲けさせていただきましたので、お別れのご挨拶に、ほんの気持ちばかりの品でございますわ」
中身は酒である、と女の商人は身をくねらせながらいう。
「王国産の果実酒ですわ。みなさまでご賞味くださいませ」
怪しい。
確かに、あと数日となく帝国船はフォーラント港を出、帝国のヴェンセント港へ帰港する。スレイエス商人がこういった礼品を持ち込んでくるのは珍しくない。いまや、この二国は最大の取引相手といっていい。商人として近づきたいと思うのも理解できる。しかし、この船の兵站長はこの商人体の女の挙手のわざとらしさに不審を覚えた。
「なにか企んでいるのではないか?」
「おかしなことをおっしゃいますのね」と女は冬の晴天のように笑う。「怪しむのなら調べてみてくださいまし」
樽の一つ一つを検分して、スフィアによる毒の検査まで行ったが、なにも出てこない。
「本物の酒だ」
「だからそういってるじゃないですか」と女は唇を尖らせる。それの仕草がまた怪しい。「相場の五割引きでいかがです?」
「結局金は取るのか。気持ちばかりの品だといっていたのに」
「おほほ、気持ちばかり値引きさせていただきましたわ」
この詐称のために女はうそぶいていたのだろうか。
北の海を行き来する厳しい航海には息抜きも必要であろうし、まとまった酒量を安く確保できるなど珍しいことでもある。しかも果実酒。清酒、発泡酒なら帝国に溢れるほどあるが、果実を発酵させて作る酒は果物の育成に向かない帝国にない。たまに酒場で見かけてもとてつもない関税のために、市民の手は届かない。それが、目の前にまとまってある。
兵站長自身、ひどく自制している。帝国人に酒好きが多く、中毒に近い者も多い。多めに買い入れて褒められこそすれ、怒られることもないだろう。
「よし買おう」と一決した。兵站部に割り振られた費用の内の仕入れは彼の裁量の範囲である。「ところで、七割引きにならないか?」
「冗談がお上手だこと」
商談を重ねて相場の四割五分まで値を落とし、この兵站長は意気揚々と周囲にこのことを喧伝し、喝采を浴びている。船長も特に咎めなかった。
ともかく、この日、買い入れた酒樽は大人二人でようやく抱えられるほどの大きさのものが十数個とある。木製の手動クレーンで甲板上まで上げ、倉口に降ろしてゆく。この辺りの作業も帝国兵が行っている。船内は軍事機密に当たるため、極力他国者を入れない規定になっている。
「もちろん、今夜樽を開けられるのでしょう?」と商人の女がいう。
「それはわからんよ。今日明日に腐るものでもないし」
「ですが、今日はこんなものもお持ちしましたの」
と女は次から次へと酒の肴を紹介して、結局、帝国側はその多くを買い入れてしまった。鮮魚が多い。レオーラ大陸の沿岸部では魚の生食もする。フォーラントも、ヴェンセントも例外ではない。
「新鮮なうちに召しあがった方がよろしいですよ」
毎度ありー、と間延びした声を残して女は去って行った。
その夜は宴会になった。呑んでも呑んでも尽きることのない酒量とスレイエスの味覚に舌鼓を打つうちに誰しもが前後不覚の様相を呈し、ある者は机に突っ伏し、ある者は座椅子でうなだれ、ある者は廊下に倒れた。夜警の者たちだけが歯を噛みながら、しらふの眼差しを月のない空に向け、よどみない海に涙を注いで塩辛くしていた。
アントワーヌ船が接する岸壁に、酔人の声がこだまする。どうやらスレイエス人のようだ。四、五人はいる。
「おや、夜警でございますか?」と大胆に甲板へ声をかけてくる。「下の方は宴会らしいですね」
「おまえたちには関係ない。さっさとあっちへ行け」
「役人はお辛いですな。どうです? 一献」
酔人たちは片手に酒瓶をもっていて、振り上げている。褐色の瓶の中で、たぷたぷと揺れる液面が、暗闇の中でも見えるかのようで、夜警の者たちは残らず生唾を呑み下している。だが、
「そういうわけにはいかない。仕事中だ」
「一杯くらい構わないでしょう。今日は冷えますし、景気づけに一杯、いかがです?」
いいながら酔人たちは酒を飲み下していく。笑い合い、肩を叩き合い、いかにも楽しそうであった。
「ま、まあ、一杯くらいなら」と一人の帝国兵が酔人たちから酒瓶を受け取った。
「おいおい、本気かよ?」と夜警の一人が呆れ声でいう。「ほどほどにしておけよ」
深く咎めなかったのは、帝国民の気質といったところだろう。酒のことに寛容であり過ぎるほど寛容であった。例え、路上で寝ていても、店のものを壊しても、人を引っ叩いても、酒のせいといわれればそうかといって許し、水に流すほどの寛容さが帝国民にあり、また抗いがたい酒の魔力も知っていた。
一人が杯を干すと、二人、三人と、また杯を受け取って干してゆく。次第に酩酊した笑い声が甲板上でも響くようになった。
しかし、彼らの酩酊を冷ます事件が、突如として勃発する。
「火事だ」
と誰かが叫んだのである。事実、船底からもうもうと黒い煙が噴き上がり、報告では船底部は火の海であるという。黒煙とともに凄まじい熱風が船底から上がってくるともいう。その情報は全船を脅かし、瞬く間に船長へ伝わった。
「仕方がない。全員を下船させよ」
船倉から続々と帝国兵が運び出されてゆく。酩酊して歩けない者もいるのだ。そういう人間たちに手を貸し、肩を貸し、とにかく船倉から引きずり出して、海に放り、岸壁に転がしてゆく。当然、こういう作業をする人間たちは煙を吸わないように、顔を布で覆っている。
「ここで燃えては桟橋や街に引火します。沖まで出してそこで沈めましょう」
よろしいですか、と誰かに問われ、船長は頷いた。
「わたしも行こう。あのフローデン候の船である。最後は丁重に葬りたい」
岸壁に結んだ綱を巻き上げ、帆を張った船は煙を巻きながら港を離れた。沖合に出、一隻の短艇を下ろすと闇の中に消えていったという。その後回収された短艇には気を失った船長が一人転がされていたともいう。
いったい乗組員たちはどこへ行ったのか。
真相が公になるまでの短い期間、フォーラントの幽霊の噂が巷を賑わわせた。
〇
「おれがいた世界で、最も世間に害をなしている毒はアルコール、つまり酒だという」
作戦の決行前、ユウはそのように四方に語っていた。
「古来から敵に酒を飲ませて油断させた話はごまんとあるし、現代でもその依存性と脳を委縮させる効果は学術的にも証明されていて、事実、飲酒による事件は後を絶たない。依存性があるにもかかわらず、その害悪を一見無視できることが規制されない最大の要因だが、実際のところは無視できない。依存性は強い」
帝国でしばらく暮らし、その酒場にも何度となく足を踏み入れたユウは、帝国兵は絶対に飲酒すると踏んでいた。それも、あればあるだけ飲む、と断じた。そういう民族であると。酒は一滴でも飲めば判断力と思考力が鈍る。絶対に隙が生まれる。
「その隙をついて、タモンやアインスたちを潜行させて、ヘリオスフィアによるボヤ騒ぎを起こし、帝国兵を海に捨てて、船を強奪する」
「もし、失敗したら?」
「別の手段を考える」
なにより、失敗したところで人的被害が極めて少ないということが、ユウにこの作戦の実行を決断させた。
そして図に当てたのは、帝国人の国民性とアントワーヌ側の巧みな演技にあったかもしれない。ハルはもちろんのこと、夜間に岸壁に近づいたロックスたちもそうである。
「まさか、これほどうまくいくとは……」
リリアは甲板の上、夜風に煽られながら呟いていた。
船倉から笑い声が聞こえる。帝国兵が余らせた酒と料理で、ロックスやハル、彼らについてきた者たちが祝勝会をしているのである。
これも当然であるが、船倉で火事など起きていない。ヘリオスフィアによる煙幕と熱風である。火事がある、という虚報を流し、それを信じさせた。実際、確かめに来たところで、酔っ払いなど脅威ではなく、容易く昏倒させることはできただろうが、その必要すらなかった。帝国兵は海に投げ込んでおいて、アントワーヌ勢は煙避けの頭巾で顔を隠し、帝国兵を救出するふうを装って船に乗り込み、乗り込んだまま船底に潜んで、帝国兵を排除したところで船を沖に出したということだ。
想像外なほど簡単に、船を手に入れてしまった。
「あとはエルサドルに向かうだけです」とジェシカがいう。「操船はスレイエスの商人たちがしてくださいますから、心配することもないでしょう」
「船の心配はしていません」
エルサドルは王国のコルト領にあり、コルト領の領主はアントワーヌと古くから親しいバーナード侯爵家であり、彼とはリリアも面識がある。幼少期からほんの数年前まで、リリアは病弱なためにバーナード邸で暮らしていた。ディクルベルクで暮らしていた期間よりも長いかもしれない。
「わたしが心配しているのは、ユウさんのことです。やはり、無理をしてでも止めるべきだったかもしれません」
ちら、とジェシカは遥か後方となってしまったフォーラントの方を見遣った。
「まあ、大丈夫でしょう。あいつのことです」
「むう」と唸り、リリアは指を組み合わせて、胸元に抱えた。「ユウさんに、ジョゼの加護があらんことを」
船が蹴立てる白波が、三日月の光を受けて輝いている。
この船上に、ユウはいない。まだフォーラントにいる。ツィバイだけが、彼につき従っていた。この地に残った仕事を処理するためだ。
「行ってしまわれましたね」
「うむ。問題なかったみたいだな」
港を一望できる酒場で夕食を取っていた。ベランダに卓が並べられている。その一角にいた。店員も客も、アントワーヌ船が残していった黒煙の残り香に騒然といったふうで、窓辺の欄干に殺到していた。
ユウは卓に頬杖をついて、白い三日月を眺めている。




