第六巻 天の岐編 三章 黄昏の時
三章 黄昏の時
アントワーヌ晶術部隊は王国軍からは孤立して幕舎を張っていた。いくつかある幕舎のうちのひとつに入って、ようやく顔の布を外した。視界も狭まるし、呼吸もしづらい。仮面をするというのがこれほど苦しいものだとは思わなかった。見識が広がったような気がする。
アントワーヌの事情と戦略から、ここにはリリアよりクラインがいた方がいいという結論になり、彼はこうして王国陣中にとどまっている。とはいえ、晶術部隊は集団戦が始まるか、敵晶術部隊が来るまで、特段することもなく、ほぼ幕舎の中に閉じこもっている。
王国軍はゴルドバ平原に布陣して取り留めのない議論をしていたが、アドリアナが近衛師団に総指揮権を譲渡してようやく軍が機能し始めた。
近衛師団はユグノーの指揮の下、ファブル防御線に日中はもちろん、夜襲も仕掛け、昼夜兼行波濤のように攻め込んで、尽く破壊してしまった。帝国軍の配備が意外に遅く、そのことが王国軍に優位に働いている。アントワーヌ奇襲部隊の成果といっていいだろう。
現在、ファブルは後方に建設した第二防御線まで後退していた。近衛師団は探るような牽制を繰り返すのみで、防御柵にも取りつかない。夜襲の回数も減って、戦線は落ち着いたように見える。敵の隙を探っているのか、それとも、攻撃する気がないのか。ファブルの第一防御線は盆地を挟んだ丘陵の上にあり、移動距離は四、五キオもあったが、南北丘陵間の直線距離は二、三キオしか離れていなかったかもしれない。であれば、南丘陵上にあるゴルドバ城塞は北丘陵に布かれたであろう帝国晶術部隊の射程範囲内だった。近衛師団の攻撃はこれを十数キオも後方に押し下げて、ゴルドバ城塞を集合晶術の射程の外に置いたことになる。それで一段落させたのかもしれない。
今夜も外は静かなもので、近衛師団は夜襲に出ないらしい。
クラインは持ち込んでいたフラド酒を開けて、グラスに注いだ。アントワーヌはフラドの産地、コルトの領主と昵懇のため、簡単に高価なフラド酒が手に入る。これと書籍があれば、地の果てに飛ばされたって構わなかった。
ふくよかな果実の香りを存分に吸い込み、ため息をつく。晶機の放つ白色光にグラス透かし、傾けて、黒みを帯びた赤のグラデーションに見入る。宝石より美しいといわれるその言葉に偽りはなかった。
「閣下」と外から声がする。「御客人が参りました」
「通せ」
クラインの声に応じて、幕が開かれ、壮年の優男がやや頭を下げつつ入ってきた。
「クライン閣下、またお会いできて光栄でございます」
「ドレイマン卿も壮健そうでなによりです」
「ええ。ですが、このたび、王国軍の晶術部隊を預けられてしまい、どうしたものかと」
「致し方があるまい。王立研究所の集合晶術研究は貴公が責任者だっただろう? いまもそうだろう?」
「左様でございますが、まさか、このようなことになるとは……」
ドレイマンは腹部を押さえて顔をしかめた。
彼はまだ四十に手の届かないくらいの年齢であったが、頬は削げ落ち、目は窪み、肌は青白く、端的にいうと明日には老衰という雰囲気で、クラインの記憶とずいぶん容貌が変わっていた。最後に会ったのはいつだったか、クラインが王位代理を務めていたときに集合晶術を研究するにあたって、その責任者に任じたのが初対面だったが。それが五年あまり前。まさか、研究の果てに、王国の未来を担う大役に抜擢されるとは思っても見なかっただろう。彼が失敗すれば、それだけで王国軍は壊滅して、王国はそのまま帝国領になり、王国は二百五十年の歴史に幕を下ろす。
「だが、王国は集合晶術の技術を持っていても、実戦投入した経験も、実戦規模での実験すらしたことがないのだ。貴公に白羽の矢が立つのも、そうして身体を痛めているのも、理解できるよ」
クラインは口元をほころばせて、グラスの中のアルコールを回しながら、座席の背もたれに身体を預けた。足を組んだままの客人を見据える。
「そうかしこまることはないよ。階位では貴公の方が上だ」
「そのようなことは……」
ドレイマンがクラインに恩義を感じているはわかっている。クラインが発掘するまでは一介の書生にすぎなかった。クラインがまだ学術都市にいたときにドレイマンのことを聞いていて、王位代理になったときに謁見したのだ。あのことがなければ、ドレイマンはまだリライトでくすぶっていたかもしれない。
そういう人間がたったの五年で、王国十万の兵の命運を握らされてしまったのだから、当然、普通の精神ではいられない。どれもクラインの想定内だった。
「こうして旧交を温められるのは嬉しいことだよ。貴公ももちろん、内密にここへ来たのだろう? でなければ、ぼくは捕まるか、殺されるかのどちらかになってしまうから」
「もちろんでございます。クラインさまになにかあれば、わたしは平静ではいられません。王位継承戦争の際も、実に残念に思ったものです」
「そうだな。しかし、もう過ぎてしまったことだし、ぼくはいまの生活も悪いとは思っていないよ。むしろ、よかったと思うくらいかな。意外に肌身を粟立たせるくらいに緊張感のある仕事をさせられて、生きている実感があるよ。王城にいるときよりもね」
「であればよかったのですが」
ドレイマンはまだ腹を撫でていた。
クラインは手近な卓にグラスを置いて立ち上がり、
「おいおい、大丈夫か?」
と、ドレイマンの前にひざまずいた。彼の肩を叩くと、潤んだ瞳が上がり、口元は深々としわを刻むほど歯をかみ合わせていた。ついに、俯いて泣き出してしまった。
「ほ、本当に、どうしたらいいか。相談できそうな人もなく、本当に孤独で、急に集合晶術を帝国軍に向かって使えといわれても、いったいどうしたらいいのか」
ぼたぼたと厚手の布の床を濡らして、黒々とした染みを広げてゆく。
「そう泣くな」
ほら、と布の一枚を渡すと、ドレイマンは処女のように顔を覆い、膝を畳んで小さくなった。
「仕方がないな。ドレイマン卿さえよければ、ぼくが隣にいよう。多少の助言ができるかもしれない」
「よろしいので?」
この世の救世主に出会ったような、華やかな顔になったドレイマンがクラインを見上げた。
「ああ、ドレイマン卿一人に王国の未来を担わせるなど、アドリアナとその幕僚たちもどうかしているな」
「アドリアナ陛下はわたくしを信頼して任せてくださっているのです。そのため、助手やその他、晶術に関する配置と人事はすべてわたくしに任されていますし。それもまた重圧なのですが」
「では、ぼくが貴公のそばにいるのも、貴公の一存でいいわけだな」
「ええ。城塞側の高官は集合晶術に触れればそのまま爆発でもするかのように忌避して、一切口出しして来ませんから」
そういう未知のことを学ばない姿勢が、王国をこうまで追い詰めたのだが、そのことをクラインは言及しなかった。いま、この場で論じても仕方がない。
「まあ、そういうわけだ」クラインはドレイマンの肩を叩き、「これで決戦まで、貴公も枕を高くして眠れるな。細かい作戦は明日から徐々に詰めていこう」
「はい。ありがとうござます」
ありがとうございます、ありがとうございます、と繰り返し述べ、頭を深々と下げて、ドレイマンは辞去していった。
これで、王国軍の晶術部隊はクラインの、ひいては、アントワーヌの傀儡になったといっていい。
〇
エドワードは高台に上にいて、足下を覆う漆黒の鎧の蠢くのを眺めていた。右の地平から左の地平まで、青い空の他の視界の全部を埋め尽くす帝国兵の数は十万。前線に配されたファブル兵五万と合わせて、十五万。
これだけの人数を揃え、西方討伐以来延々と帝国―ファブル国境に兵糧を貯め続け、万全の態勢を整えての侵略であったはずが、それでも計算外のことが多い。
後方の兵站路が断たれ、兵糧も焼かれ、想像外の損害が出ている。そのどれもがアントワーヌの仕業かと思ったが、実際のところ、彼らがファブル西方に撤退してからも兵糧への攻撃が散発的ながらも続いていた。どうやら、ファブル領内に反帝国派が潜伏していて、それがこの大戦を機に目覚め始めたらしい。こう、ゲリラ戦法を使われると、どうしようもない。騎馬隊を放って探索させているが、民衆に紛れられては処断のしようがなかった。
いまは補給線の守備を強化していて、それにかなりの兵数を割かれている。なにせ、帝国は冬の寒気に閉ざされて、帝都を始めとした各都市からの補給も望めない。いまの帝国軍は、あらゆるものが一度失えば取り戻せない状態にある。
出兵を始める前に、ファブル国内で徹底的な掃討作戦を展開させるんだった、と後悔してみても始まらない。そもそも、アントワーヌに時間を与えないために開戦を早めたのであって、掃討作戦を行っていれば、その時間だけアントワーヌは力を増していただろう。
いまの状況以外、選択肢はなかった。
以上のことから思案すれば、ウッドランドの提案がなくとも、帝国が戦えたのはゴルドバでの一戦だけだったかもしれない。そう思えば、ウッドランドの姑息な提案も悪くなかった。ゴルドバ平原で勝利するだけで、王国貴族を大陸から抹消できる。大陸中の貴族は養分を失った植物のように枯れてゆくだろう。
「陛下」と伝令兵が来る。「第二師団より、ナライの町でアントワーヌと交戦した結果、五百人近い損害を与え、二千の馬を奪ったものの、天ノ岐ユウを始めとした大部分を取り逃したとのことでございます」
「そうか」
アルフレッドをして、アントワーヌを逃がしたか。
「ヴォルグリッドはどうした? あいつもいたはずだ」
「ヴォルグリッドさまは激闘の最中、脳震盪の症状を発症したため、戦闘の半ばで後退したそうです」
「脳震盪?」
聞けば、アントワーヌの一兵に顔面を殴られ、片膝をついたのだという。
ヴォルグリッドの顔面を殴れる奴がいるのも驚異だが、片膝をつかせるなど、想像もできない。アントワーヌは天ノ岐ユウ以外にそれほどの怪物を飼っているというのか。
「ですが、その兵も重傷を負い、再起不能であろうと、ヴォルグリッドさまはおっしゃいます」
「そうか」と、これはしみじみと中空を眺めながら呟いた。敵の勇者に恐れ慄き、再起不能になったのを喜びつつ、また惜しいとも思い、尊敬の念を抱いている。そういう複雑な感情が心を宙に飛ばし、視線を泳がせた。
「ヴォルグリッドには自愛するよう伝えておけ。第二師団はそのまま西方にあって、マルティエス砦を攻めさせろ」
「は、かしこまりました」
伝令は駆け去ってゆく。
世界は広いものだ、と、荒野と蒼天を眺めるエドワードはつくづく思う。
〇
この間、アントワーヌ本隊およそ七千はマルティエス砦にこもって王国最西端の防御線をなしていた。指揮はジェシカである。彼女は将帥足る者、何事にもどっしりと構え、不安と疑心の一切をあらわにしないことだと思っている。それによって、戦況は将帥の意中にあり、自軍の勝利は思うままなのだ、と部下の端々までが安心して戦う。思えば、ユウもエイムズも、リリアさえも自然とそれをして、アントワーヌに勝利をもたらしてきた。
しかし、このときのジェシカは焦燥していた。七千という大きな部隊を初めて指揮するという重圧もあっただろう。他にも、兵七千のうち、ディクルベルク以来の兵はほんの十数人で、あとはスレイエス脱出組が百にも満たず、およそ六千九百の兵がスレイエスの南北軍兵という事実がジェシカの心に暗い影を落とした。
果たして、この部隊の多勢を占める彼らを信頼しきることができるか。それをするのが将帥の器なのだが、ジェシカは表面で信じながらも、心の内には鬱屈を抱えていた。裏切られれば、このような微弱な砦、半日ももたない。そして自分は死ぬだろう。晒し場に投げ出された自分の首を想像したりして、顔をしかめることもあった。
そんな葛藤をする彼女は、ずいぶん苛ついて見えたという。常に腕を組み、爪先が小刻みに床を叩き、眉間には昼夜を問わず深いしわが寄っていた。
おそらく、ユウなら人員を配置してのちは彼らを信じ切って奥にこもり、ゴロゴロとしていたのだろうが、ジェシカにはそれができない。悔しいことに、天ノ岐ユウがジェシカの思う総帥に近い姿勢を常に示していたという劣等感も彼女を苛つかせた。いまの立場になって初めて実感する度量だった。
とはいえ、ジェシカの采配は的確で、押し寄せてくるファブル兵を城壁に取りつかせない。
「東門にアラン中隊を送れ。北東壁の物資は絶えず確認しろよ」
スレイエス兵はテキパキと働き、ジェシカの望みを叶えてゆく。さすが、希望退職にも応じず、薄給のまま戦うために残った忠臣と戦闘狂たちだった。
それでもジェシカの足は小刻みに揺れ、苛つきを隠せない。
あのバカども、早く帰ってこい、と思っている。わたしばっかりにこんな仕事をさせて、と。実際は、奇襲部隊は苛烈なほどの戦闘を重ねていたが、その事実をジェシカは知らない。伝令もなにも出す暇はなく、奇襲部隊は湖の上にいる。
さらに数日して、マルティエス砦には帝国兵も攻囲に加わるようになり、その勢いは日々増していた。砦側には、ノルン山脈南端の町から船で乗り付けてきたウッドランド勢二百五十が加わって、また戦力が拮抗した。
「キンケイド卿」とジェシカは時折話しかけ、「ユウがいつごろ戻ってくるか、ご存知ですか?」
「知らん」と顔も見せずに短くいわれるだけだった。他の者にいわれれば後ろから殴りつけていたかもしれないが、このキンケイド卿が相手ではその気も起きない。近づけばそのまま一刀の下に斬り伏せられてしまいそうで、一歩踏み出すことも、それ以上喋りかけることもせず、そそくさとその場をあとにするのが常だった。
クライン卿といい、カルヴァンといい、タモンといい、ユウの友人は奇人変人しかいないのか。その辺りのことにも腹が立つ。
ユウたちの乗る中型船が現れたのは、さらに十日後のことである。
「遅いぞ、ユウ!」とジェシカは宿敵の顔を見るなり罵声を浴びせた。「こっちはな、大変だったんだぞ。それを、おまえ、ゆるゆると船に揺られてやってきて」
「うん」と呟くユウは心ここになく、天守塔から望める敵の軍勢に見入っていた。この日はやや曇天で、砂と薄い霧に景色が煙っている。その中で刀剣の擦れる音がする。
「どうしたんだ?」とジェシカは不審に思い、訊いた。すでに嫌な予感がしている。
「エイムズさんが一命を取り留めたけれど、再起不能だ。まだ目覚めてもいない」
「なにぃ!」とジェシカは絶叫し、顔を覆った。「どうするんだよ、実戦指揮は。ここの兵はほとんどエイムズが育てたんだぞ。なのに、あいつがいないって。実戦指揮の経験も、わたしとおまえじゃほとんどないだろ」
どうするんだあ、と頭を抱えた。
「大丈夫だ。兵の指揮はセオドアに任す」
「セオドアって、フォーク将軍の息子の?」
ジェシカが頭を上げると、ユウは表情のない顔を頷かせた。
「あいつは強いよ。フォーク将軍の血もあるし。おれはあいつに賭けてみてもいいと思った」
こうやって、平然と生命と大局を他人に預けられる度量の大きさが、それこそ将帥の証に見えてジェシカは歯軋りをした。なぜ、そうできるのか。底抜けの阿呆か、お人好しなのか。
「おまえはここで死んでしまえ」
「なんでだよ」
船はマルティエス湖維持のために湖へ戻り、セオドアは砦に入って人事が通達されるとともに兵を鼓舞した。
「皆の者よ、これはアントワーヌだけの戦いではない。我らスレイエスの民の誇りのため、スレイエスが独立国家であることを王国と帝国、この戦場を注視する世界各地に示すための戦いだ。我らが祖国の行く道は諸君らが造り、諸君らは尽く英雄となり、未来永劫語り継がれるだろう」
我が祖国スレイエスの、と続け、
「真の建国はこの一戦の日にある」
うおおおお、と天地を揺るがすほどの雄叫びが鳴り、兜や小物が乱舞している。
その後、セオドアは見事に差配して砦を守り、敵の疲れが攻勢を緩めさせたところを見計らい、開門して周辺を一掃して駆け戻ってもいる。そして、またスレイエス兵の結束は強まっている。
「確かに強い」
ジェシカも認めざるを得ない。いままでジェシカがしてきた守勢中心の戦闘が子供遊びのように見える。
というのを、あろうことか、ユウに相談してしまった。「バカなことをいう」と笑われてしまった。
「しかし……」
「おれは」とユウは視線を霧にかすむ外に向けたまま、「おまえがいなくなると、さみしいよ」
そういった横顔が意外に端正に見えて、ジェシカは頬が熱くなるのがわかった。背筋が痺れるほど震える。
「バババババ、バカヤロウ」
卓をひっくり返して部屋を飛び出していった。
背後から悲鳴が聞こえるが、構わず廊下を駆けていった。次に会うとき、どういう顔をすればいいのかわからない。
余談だが、それからというもの、ジェシカはやや落ち着いて職務につくことができた。兵站と防御施設の管理が主な役回りだった。パッとしない仕事だったが、こちらの方が性に合っているのかもしれないと思ったりした。セオドアも以来ジェシカをよく慕い、相談に来て、最大限の敬意を払ってくれている。それもジェシカを落ち着かせた。ただ、姉者、姉者と大声でのたまいながらついてくるのだけは勘弁してほしい。
〇
星の輝く夜は、空気が凍っているように静かで重く、双肩にふわりとのしかかってくる。早暁は霜が張るほど冷えるだろうということが簡単に予測された。
「雲がない方が冷えるな、やはり」
ユウは手をこすり合わせ、隣のツィバイに視線を移した。
「俗にいう、放射冷却というヤツだ」
「わたしにはわかりませんが」とツィバイは笑う。
「外の様子はどうだ?」
アントワーヌ諜報部は王国各地と、ゴルドバ南端を覆う長大な戦線に放たれていて、随時情報を運んでくる。
「先日までは王国軍がファブル軍を圧倒し、その防御線を後退させましたが、帝国軍本体の到着以来、戦場は拮抗しております。おそらく、帝国軍は後方からの物資の到着を待ち、王国軍は敵の堅守を攻めあぐねているものかと思われます」
「動きがあるのはここだけか」
「いえ、東翼も交戦を重ねています。ここは王国各領地の貴族が多く配置されて、正直に申しますと、烏合の衆です。いまは第五近衛師団が増派され死守していますが、帝国としては攻め抜きたいところでしょう」
「それは信じて任せるしかない」
同盟国からの派遣軍、というと、王国とウッドランドの東側にたむろする小国から送られた兵のことである。戦闘経験においては王国地方軍以上であろうが、如何せん他国のための戦いであり、数も少なく、頼りになるかどうかとよくいわれる。
東の戦場は十数キオと離れていて、アントワーヌはまったく関わることができない。よって任せるしかない。西の状況を改善し、帝国後方を脅かすことが助けになるくらいだろうか。
ユウは腕を組んで月の照る夜を眺めていた。ファブル側も夜襲を恐れて、遠くに野営していて、眼下には広い芝生の原が広がるばかりだった。思い起こせば、数年前、ここでクラインが率いる軍を前に集合晶術を用いて洪水を起こし、ファブル軍を殲滅したが、いまは冠水も解消されて、芝生が一面に茂っている。多少踏み荒らされているが、放っておけば春にはまた雄々しくよみがえるだろう。
その緑を食んでいる動物の姿が野にあった。一頭の馬である。長い首を持ち上げた彼は胸壁のユウを見つけて、耳をパタパタと振っていた。
あれは……。
ユウは飛ぶようにして城壁を駆け下ってゆく。
「天ノ岐殿」
ツィバイもついてくる。
ユウは夜警していた門番にわずかに扉を開けてもらい、忍ぶようにして、外に出た。
銀光の下、柔らかな土を踏んで駆ける。あの一頭もこちらに弾むようにして来て、ユウの胸の中に顔を埋めた。
「おまえ、セキトじゃないか」
「ファブルに置いてきたんじゃないのですか?」
ここまで追ってきたツィバイと一緒にユウも首を傾げていた。
「そうなんだが、まさか、追ってきたのかしら?」
それほど強い絆があったか、とユウは感動した。帝国軍につかまらず、長い荒野を駆け通し、百キオあまりも離れているだろう王国の野、その端にあるマルティエス砦まで正確にやってくるなど、奇跡といっていい。奇跡を現実にするほどの絆にユウは身を震わせて、過剰なほど愛馬の額を撫で回した。
「よーしよしよしよし」
セキトの方も嬉しいのか、迷惑なのか、小さくいなないている。
「おや」と声を上げたのはツィバイだった。「なにかついています」
ツィバイが手をかけたのはセキトのたてがみの奥の方だった。月光に輝く楕円形のブローチのようなものが引っ掛かっていた。
「髪留めですね。女性用の」
「はて、どこかで……」
呟いたユウはその手のひらに握り込めるくらいの装飾と一人の女性の面影が唐突に重なり、息を呑んだ。
「レンカだ」ユウは髪留めを受け取り、月明かりによくよく照らしてみた。間違いない。彼女の後ろ髪を止めていた、あの髪留めだ。
「カレン・アンダーソンって名乗ってたっけ?」
あのとき、スレイエスの夜の森の中でカレンと一騎打ちをしたとき、一緒にいたのは確か、ツィバイだった。
「はい。アンダーソン家は帝国西方の名家の一家でしたが、五十年ほど前に没落して、その子孫は行方も知れていませんでした」
「大陸西方の名家の出か」
西方出身者の方が西方における求心力が強いとエドワードは踏んだのか、そのためにカレンが帝国第二師団長になったのかもしれない。
「そうか」
ユウは髪留めを握って作った拳を額に当てた。
この月光のように、美しく、冷たい雰囲気の、それでいて優しい女性だった。
足の速い雲が純白の月を隠してゆく。
〇
両軍後方にはヘリオス教会医療団が営舎を構えている。アントワーヌが教会領から連れてきて、さらに本国からの増員を受けて両軍の後方にいる。
フランは王国軍後方にいて、大した怪我人も運ばれてこず、幕舎の中で毛布にくるまっているのが常だったが、この日は営舎を離れて前線に出て、周囲の者を驚かせていた。
乗馬ができないため、馬車で丘陵を登ってゆく。車両から降りて、冷たい風を浴びると、長い金髪が逃げるようになびいた。それを片手で押さえ、もう片手は白衣の裾を引き寄せている。
「報告によると、帝国は配置を変えたようです」と御者だった男が隣に並んでいう。「ファブルは東翼に送られ、西翼から中央にかけては帝国軍が配され、中央後方には晶術部隊が出てきたようです」
足下には王国の大軍が東西にひしめき、北に広がる緑の大地を挟んで、帝国の黒い鎧と剣盾の軍旗が遠くまで地平線を形成していた。単眼鏡を使っても後方の帝国晶術部隊までは見渡せそうにない。
「ついに決戦が近いということかしら」
「防御力のまったく皆無の晶術部隊が前線に来るというのは、そうなのでしょうね。王国のアドリアナ陛下も兵を鼓舞するため、前線に参られたそうです」
「そう」とフランは呟き、両手の指を組み合わせた。
「どうか、彼らにジョゼの祝福あらんことを」
〇
黄金色の空は透き通るほどの鮮やかさだった。
その空に紛れるようにして、赤色の晶術光線が走った。スルスルと東西から同様の光が登り、空に輝く扇を作る。要の部分で丸まって、大きな球体になった。それが東西に長い帝国の戦線上に五、六個もあるだろうか。
あれが落ちれば一個当たり百メータばかりが焦土となり、一キオメータあまりは衝撃波に煽られてしばらくの間戦闘行為は不可能になるだろう。その範囲内にいる兵の損耗は計り知れない。
「しかし、帝国も単純な行動ばかりする」
クラインは王国軍後方、晶術部隊の中にあって、笑っていた。口元を覆う布がひらひらとはためいた。
帝国軍晶術部隊の動きを察知して、王国軍晶術部隊も前線に進出しており、布陣も終えている。
「ク、クラインさま」
ドレイマンはあたふたとみっともなく狼狽えていた。顔は紙のように白く、歯は根が合っていない。
「ドレイマン卿、わたしの名はネッドだ」
「は。失礼いたしました」と応じた声も震えている。
「ここまで来た以上、我々にできるのは死を覚悟して、あれに立ち向かうことだけだ。狼狽えることもあるまい」
「は」と辞儀をする。
「では、予定の通りに」
作戦の内容はユウやカルヴァンと話して従前決まっていたから、それを実行するだけだ。以前にも触れたが王国軍上層部は集合晶術を恐れているので、口出しの心配もなかった。唯一の問題は、このドレイマン卿が王国軍晶術部隊の人心を掌握して、全員に巨大な火球の下に命を晒させられるかどうかだった。生死の際に立って、冷静に晶術光線を空に放てるか。一連の作業はそれほど精密なものではないから、彼らが戦場から脱兎のごとく逃げなければいい程度の話だが、晶術部隊は研究者であって、軍人ではない。
試してみよう、王国国民の胆力というものを。
クラインは床几から立ち上がり、空に緑色の晶術光線を放った。
エドワードは王国軍後方から伸びる緑色の光線を見、腕を組んだ。
敵も同等の火球を用意し、両者の威力の戦いとなり、そうなればヘリオスフィア量の優越する帝国が勝利するものと信じ切っていた。それがどうであろう、彼らは風の晶術を準備している。一個だけ、緑色の光線が王国軍の頭上にあって、空間を歪めて見せるほどの圧力が渦を巻いている。
フョードルが毛玉のように転がってきた。エドワードの隣に立っただけでなにもいわない。
「どう思う?」とエドワードの方から促すしかなかった。
「王国軍は同質の術では敗北することを見越して、風の術を用いてきているのでしょう。確かに、火の晶術によって現れる火球にどれくらいの質量があるのか。もし、非常に軽ければ吹けば飛んでいくわけです。最悪、我が陣の頭上に。晶術を放った時点で落下していますから、ある程度の重さはあるはずですが、はて、王国側の風に耐え忍び、敵の頭上に落ちられるかどうか」
「しかし、奴らは両翼を見捨てたことにもなる」
「おそらくは……」
フョードルが続きを喋る前に伝令が駆けてきて、エドワードの右手でひざまずいた。
「伝令でございます」とこの窮地にいわでものことをいう。伝令兵に礼など不要だな、とエドワードは苛つきを見せた。
「王国軍の両翼が徐々に後退しております」
初め、なにをいわれているのかわからなかった。フョードルが、ほほ、と髭の中で笑ったことで意識がまとまり始める。
「射程外に逃げるつもりか」
「いままで、詠唱中に晶術部隊を動かしたことはありませなんだな」
動かせば晶術光線が崩れるかもしれず、光線の配列が崩れれば集合晶術がいつ落下するかわからない。いままで敵要塞ばかりを相手にしてきたために、敵陣の移動などすっかり考えの外に置かれていた。
「彼らは我々のことを研究し尽くしてきておりますな、陛下」
「わかっている」エドワードは顎をつまみ、「なにか案はあるか?」
「両翼の集合晶術は取り止め、中央に集中させますか。あの風が地上に落ちれば、おそらく王国側の追い風になりましょう。それはいかにも危ない。増強した火球でもって敵晶術を打ち砕く用意をしつつ、我が軍は両翼を怒涛に攻め上げ、後退する敵の背を撃ってみてはいかがでしょう。例え、集合晶術が破れたとしても、先制を仕掛けるのは常勝の策ですし、のちに吹くかもしれない風の影響も少なくなります」
「賭けだな」といったものの、戦場など賭けの連続であり、この戦いを始めたのも、大陸から貴族を掃討しようとしたのも、すべて博打だった。「いいだろう、もう一度賭けよう。王国の計略を粉砕できるという方に」
空に複数の太陽が浮かんでいるようだった。その連なる太陽たちは見る間に消えてなくなり、たったひとつだけが残った。東の空から昇り始めた朝日より、なお眩しく、なお強く、赤々と地上を照らしている。
その下に密集する兵の震えまで見えるようだった。
「敵が来るな」
隣に立つジャックがいう。常と変わらない冷徹な目を眼下の草原に向けて動かさない。
帝国軍は両翼の集合晶術を諦め、中央に集中させたらしい。東西では単純な兵力に任せようというのだろう。前線を押し上げ、集合晶術を唱えさせてからの撤退という至極単純なクラインの策が的中した形だった。エドワードは自軍の集合晶術が王国のそれを上回ることについて絶対の自信を持っているのだろうが、詠唱中にある晶術部隊を動かすというギャンブルはしなかったらしい。
「セオドアはよくやってくれています。まだ持ち堪えるでしょう。ですが……」
マルティエス砦第三城壁から見上げても、帝国軍の創造した太陽は熟れ切っていて、いまにもこぼれ落ちそうだった。対して、王国軍の頭上にある陽炎は緑色の光を巻き込みながら激しさを増している。
前代未聞の衝突に、なにが起きるのか、誰も予想できない。もしかしたら、天空の球体がぶつかり合うだけで、この平原に募った三十万人尽くが吹き飛ばされて灰燼になるかもしれなかった。
「これ以上攻め込まれるといけない」ジャックは首を振り、「おれたちの眼前のいるのは歩兵ばかりとは限らない。晶術部隊がわずかでも隠れていれば、この砦は吹き飛ぶぞ」
「さすがです」とユウは手を打った。「いいところに気づいてくださった」
ジャックのいうことがユウの頭の中になかったわけではない。王国軍幹部級にはそのリスクが通達されていて、警戒するように指示されている。ただ、集合晶術のあまりの驚異に圧倒されたユウより、ジャックの方が冷静だったということだ。
「では、おれたちは行きます」
「ああ、ここは任せろ」
ウッドランド軍は密林の国家である都合、騎馬という兵種が極めて少ない。ジャックが率いる遊撃部隊も森林内での遊撃を想定しているため、歩兵がほとんどを占める。この原野での戦闘には向かなかった。そのため、留守を任せることになる。
「先ほども話しましたが、砦は集合晶術で狙われる可能性があります」
「そうならないように、おまえたちが敵の戦線を下げてくれるんだろう?」
「その通りです」
ユウは笑い、ジャックの手を両手で握った。
「またお会いしましょう」
「縁があればな」
ジャックは視線をそらしていたが、珍しく口元がほころんでいる。それにもユウは笑い、部屋を辞した。
かつかつとブーツを鳴らしながら足早に階段を下りると「おう」と城壁に背中を預けていたロックスが片手を上げた。
「遅えよ、大将」
「遅れているつもりはなかったんだけど」ユウは肩を叩かれながら頭を掻いて「おまえは来なくても良かったんだぞ」
戦士として生きなくても、建築士、造船技師として充分生活が成り立つ。王国だろうが、帝国だろうが、いくらでも食っていける技術がある。にもかかわらず、この戦場にいる。なにいってやがる、とロックスはユウの肩に腕を回してきた。
「おれたちはアントワーヌとともにある。リリア嬢に全部賭けるっていっただろ?」
ディクルベルク脱出のとき、リリアにそういったらしい。
「ずいぶん古い約束だ」とユウは笑い、「では、果してもらおうか」
「おうよ」と親指を立てるロックスの笑みはいままで見た誰の笑顔より屈託がなかった。
厩舎の前にはジェシカがいて、アントワーヌ以来の兵と木こりたち、エイムズと行動を共にしていた旧帝国貴族らを取りまとめていた。
「行くのか?」
「行く」とユウは頷く。
「なら、みんなに一言かけてやれ。おまえの声は士気を上げてくれる」
とんとん、とユウの肩を叩いたジェシカは彼と入れ替わるようにして後ろに下がった。同時にセキトが引かれてきて、ユウは颯爽とまたがった。高いところから見渡した誰もが兵装を整え、緊張に頬をかたくしていた。数百の双眸が、馬上の人となったユウを見ている。
「みんな、聴け」
抜剣したユウは白色のきれいな円弧の中でいう。
「王国とその同盟国の命運はこの一戦にかかっている。おれたちは負けない。奴らに、帝国に思い知らせるんだ。力で世界は変わらないと。力には屈しないと。おれたちが従う者はおれたちの中の正義が選ぶ。シリエス王国であるかどうかもわからない、だが、決して帝国ではない。だから武器を取った。おれたちの正義を脅かすのなら命を賭けてでも戦う。それが人間の尊厳であるとおれは信じる。おれたちの頭上に輝く緑の光は尊厳の光だ。この戦場に吹き荒ぶ嵐は、おれたちをおれたちの望む未来へ運ぶ追い風の嵐だ。みんな、いずれ吹く風に乗じ、帝国軍に一息に雪崩れ込め。一撃のもとに粉砕してやるのだ。帝国の傲慢の炎をおれたちの信念の風で吹き飛ばそう。この大地に自由と独立の風を吹かそう」
掲げた剣が鋭くきらめいた。
うおおおおおーーー
低い鬨の声が天地を揺らし、軍勢から突き上げられた刃がみなぎる闘志を表すかのごとく光る。
「おれたちは勝つ。勝っておれたちがおれたちであることを証明する」
帝国直上では、火球がずるずると高度を下げていた。肥大しすぎた力の塊に晶術光線の束が耐えられないのかもしれない。地上の人間に直視を許さぬほどの輝きと脅威を持って、押し潰そうとしている。
「落ちるぞ」
誰かが叫んだのが最後だった。それからは沈黙して天空を見つめている。どの戦場もそうだっただろう。圧縮大気と人工太陽の激突は、もはや神々の戦いに見え、人の身にはどうしようもないかに思えた。
「放て」とクラインが命じたのだろう。王国から上がっていた晶術光線の束がぷつっと切れた。
圧縮大気が矢じりのように変形したかに見えた。火球がへこんでいる。空間の歪みに中央を圧され、扁平に引き延ばされている。
「開門っ!」
ユウは叫んだ。その声に打たれたように兵が動き出し、門が開いた。門外に満ち満ちた敵兵は天を見上げ、また開門に気づき、それでも魂を空に吸われたようにぼんやりと立ち尽くしている。
火球の中央に穴が開いたのと、ぽ、と空で高い音が鳴ったのは同時だったかもしれない。直後、すさまじい風が地上を襲った。草がなびき、旗が煽られて飛び、幕舎が破れ、人は身をかたくし、頭を抱えて縮こまる。
その中でユウだけが駆けていた。
「進め、帝国を押し破れ」
遅れじと左右が続き、ついには全軍が前進を始める。
うおおおお
地が鳴るようにアントワーヌは駆け、ファブルと帝国の兵にぶつかった。人の壁は当たるまでもなく裂けて、道が切り拓かれてゆく。
熱風が吹いていた。炎を孕んだ風に背中を押されている。
「駆けろ! おれたちの風が吹いている」
吹き付けてくる火焔の雹を前に、カレンは羽織っていた外套の袖を掲げ、顔を守った。
「来るか」
叫ぶようにしなければ、隣のアルフレッドまでも声が届かないだろう。彼も南から押し寄せてくる火焔から顔を守るように背けていた。元々ボサボサの髪は強風に煽られてもそう変わらない。
「必ず来ます」とアルフレッドも叫ぶ。「彼らは元々この風に乗じる作戦だったのでしょう」
味方は弓を撃てず、騎馬突撃も強風に向かうことになる。対した敵は弓の距離は数倍に伸び、騎馬突撃の威力も存分以上に発揮できるだろう。ファブル兵は敵の勢いに恐れをなして道を開くかもしれない。帝国兵にそのようなことはないと信じているが。
しかし、カレンもどうしようもない。堅守の伝令を前線に送ったものの、どれほの効果があるものか。そもそも、伝令兵はこの立っているだけで吹き飛ばされそうな向かい風に逆らって前線まで到着できるかどうか。
前線の兵と日ごろの訓練を信じるしかない。
「皆の者」カレンは声を張り上げ、剣を抜いた。「一歩も下がるな。我々の後背には帝国の誇りと未来があると思え」
周囲の兵には声が届く。それで身を引き締める。これが前線まで伝染していくのを願おう。
「ようやく来るか、天ノ岐ユウ」
カレンはアントワーヌの進撃を防ぎながら、彼の到着を待ち望んでいる自分にも気づいて、奥歯を噛んでいた。
何段にも及ぶ人の壁をかき分けてきて、唐突にかたい壁にぶつかった。
圧倒的にかたい。
黒い鎧の集団が、この混沌とした嵐の中でも整然と隊列を組み上げ、盾を敷き、槍を並べ、騎馬での突撃に対していた。神速の矢の群れが彼らを襲うが、盾と鎧兜をしっかりと身に付けて亀のように縮こまって傷を与えたとはいいがたい。
ユウもこれを前にしたとき、さすがに馬首を回し、輪乗りしながら敵の槍穂を斬るのが精一杯だった。すぐに後方の槍穂が運ばれてきて、槍衾を再生させた。
かなりの練度である。遠くの旗には剣盾をモチーフにした帝国旗と第二師団の印がある。
「カレンか」
良い兵を持っている。彼らを育て、よく統御しているのも彼女の指揮官としての実力といったところか。
別のところで、槍衾にぶつかっていった集団はセオドアが率いるスレイエス軍だ。短い間、血煙を北の空に流していたが、馬群は押し返されて、第二師団の戦線は瞬く間に復旧してしまった。これも敵に打撃を与えたとはいいがたい。徐々に嵐の猛威も過ぎ去りつつある。この風が止めば、数で劣るアントワーヌは敵に包囲され、再起は図りがたい。
「どうする、ユウ」ジェシカも槍を振り回し、敵の壁に軽く当たっていた。が、引き返してきたようだ。「敵の守りがかたすぎる」
「わかってる」
突撃するしかない。アントワーヌの未来を切り拓くには。
白剣をかかげ、一令しようとしたそのとき、突如として敵に動揺が走った。槍穂の先が乱れ、盾が浮ついている。
「突撃」
いうが早いか、セキトが駆け出し、槍穂の合間を縫って敵陣に飛び込んだ。白剣は敵の槍を断って、ユウを囲もうとしたところにジェシカが飛び込んできて槍を振るう。さらに続々とアントワーヌの兵がなだれ込んでくる。
「進め」
再度得た突撃力を失うわけにはいかない。一気に第二師団後方、帝国陣営を突っ切って、皇帝エドワードがいる本陣を狙うのだ。
「駆けろ、駆け抜けろ」
合言葉のように合唱されて、黒い鎧の壁を穿ってゆく。同じく、左手の敵陣を斬り進む一団が見えた。セオドア率いるスレイエス兵ではない。アントワーヌの、白狼の旗が翻っている。煤けて、破れた、白狼の旗が。
「天ノ岐殿」
先頭を駆っていた男が、馬上槍を振り回し、敵兵の一人を突き倒した。髭面を崩して、に、と笑う。
「ジャフリー卿っ!」
ユウは絶叫した。ユウがアステリアに来て最初の同志といっていい。ディクルベルクで消息を絶っていたが。
「生きておられたのですね」
「一命を拾いましてな」
さらに槍を一振り、敵を蹴散らす。
「さあ、天ノ岐殿」
ジャフリーと彼が引き連れた一隊の切り開いた道を行く。隣にロックスまで並んで来、横合いから来る兵を蹴散らしていった。
「行こうぜ、大将」
「ああ」とユウは頷く。流れる涙を拭いながら、馬腹を蹴った。「ああ、行こう」
敵陣を賭け、遠くに緑の芝生が見えた。そこに一カ所だけ、黒鎧の、騎馬の密集地があり、中央に女性がいた。金髪を後ろでまとめた、白い肌。端正な横顔は思い出すまでもなく覚えている。彼女の青い瞳も。
彼女は百騎あまりの騎馬を率いて、ユウたちの行く手に先回りしてゆく。
「押し通る」
「当たり前だ」ロックスが叫ぶ。
帝国陣地を抜け、残るカレン直属の騎馬隊のみ。
アントワーヌは何騎続いているか、ユウに振り返る余裕はない。がむしゃらに走る。
やや馬首を北東方向へキツく向けたカレンは横合いから突撃してこようしている。おそらく、彼女たちの方が早い。ユウたちにダメージがあるのは避けられない。
それでも、
「押し通る!」
ユウが前にのめったとき、銀色の光が見えた。敵の矢じりが高速で飛んでくる。この向かい風の中でか。驚くユウの眼球に向かってくる。
が、と音を立てて、斧が眼前を通り過ぎた。余韻の火花が散った。
「油断すんなよ」
「油断したわけじゃない」
馬蹄の音も高く、手綱を繰った。馬首を北へ。カレンも同様、進路を操り、こちらに向かってくる。剣を下げた彼女のそばに、弓を引き絞る男の姿がある。エドワードと一緒に、スレイエス公邸を訪ねてきた男、アルフレッドといったか。その弦が放たれた。狙われていることさえわかれば。
白剣を振って、矢を断った。
カレンは近い。猛烈な速さで間合いが詰まり、すでに馬首が交錯しようしている。
ユウは姿勢を低く、白剣を突き出した。鈍色の切っ先が空を舞ってゆく。彼女の後方に密集していた馬群と馬肌をぶつけながら交錯し、行き着いた先は短草茂る広大な大地だった。
〇
エドワードは陣の後方、原野の中に晒されていた。床几に浅く腰掛け、鞘ぐるみの大剣を杖のようにして、じっとまぶたを閉じている。土と炎と血と鉄の臭いが強い南風に乗ってきて、彼の鼻腔を刺激したが、肌理の細かい肌の頬をくすりともさせない。
「陛下」と伝令は直立のままいう。「西翼に敵増援、それに勢いついた敵軍に煽られ、第八師団、第九師団は後退、第二師団は持ちこたえていますが……」
エドワードは薄くまぶたを開け、
「第十三、十四師団を増派しろ。第十五師団は本陣西方で防御線を展開。敵の突破に備えさせろ」
は、と一声発し、周囲にいた伝令が馬を走らせてゆく。
またアントワーヌだろう。ディクルベルク制圧以来、常にエドワードの計算を脅かしてきたのはアントワーヌだった。この期に及んでもまだ。
しかし、戦場は帝国が征しつつある。
中央は拮抗、東翼の兵は圧倒的に優勢で、じきに敵は瓦解するだろう。
中央の王国近衛師団はかたく、西翼のアントワーヌとコルト候を始めとする王国兵も強い。しかし、敵近衛師団は五万程度の規模でしかなく、コルト候は一万、アントワーヌに至っては一万にも届かない。数に恃めば西翼など気にすることはない。東翼、いわゆる王国南方貴族どもの集合する東翼を粉砕して敵後方に侵出できれば、この戦いは勝てる。
こちらは帝国十万、ファブル兵五万。ファブル兵はともかく、帝国兵は強兵である自信がある。十六ある師団を構成する各人員は帝国貴族討伐戦で実戦を重ね、非情の訓練も強いられている。
なにより、彼らは彼らの創る国家のために戦っている。貴族の富の象徴である土地のために、戦わされている王国兵とは思想からして違う。
それと、エドワードにはまだ皇帝直下帝国最強の紫鉄騎士団一万がいる。これを敵の穴に撃ち込めば例え近衛師団が相手でも一撃で瓦解させられる自信もあった。さらにいえば、エドワードの抱えている予備兵はまだ他に二万近くある。
勝てる。
アントワーヌが西の防御線を抜けて来ても、疲弊した彼らは新たなる帝国兵三万と戦えまい。いくら白剣の加護があろうと不可能だ。そのうちに東翼を抜き、王国本陣を落とす。
晶術部隊は両軍動かなかった。帝国にはまだスフィアの余裕がある。王国の状況は察することはできない。先に動いて、それに対応され、また戦場を混沌とさせるわけにはいかなかった。帝国はこのままでも充分勝てる。晶術に関しては、敵の後手に回るのが良策に思えた。
「勝てるか?」
エドワードは我知らず小さく呟いていた。
「戦場とは魔物でございます」とフョードルは髭を揺らした。「常に不測のことが起きるものです」
「そうだな」
アドリアナの首を落とすまで、勝敗は未知だ。
「東翼に第十六師団を投入しよう。それで敵は……」
一挙に瓦解するはず。思ったエドワードの耳に、慣れない音が聞こえてくる。戦場の喧騒と怒号の中でも目立って鳴るこの音の正体はなにか。
エドワードは音の方を眺めた。西の空だ。土と血の嵐にかすむそこに、楕円の船体が浮かんでいたように見えた。
まばたきを繰り返し、見直すが、間違いない。船が浮かんでいる。帆柱を外しているから、一見、巨大な海獣に見えるが、船、と呼んでいいだろう。飛行船、とでも呼べばいいのか。航路に緑色の燐光を引きながら空を滑るようにして走っている。
その舷側にアントワーヌの紋章が刻まれていた。
〇
「これは移動手段としても下、兵器として最悪の部類に入る」
カルヴァンは離陸前に話していた。
「まず、攻撃する手段がほとんどない。晶術くらいだろうが、集合晶術でないと地上に到達する前に威力を失うだろう。その集合晶術は舷側から撃つことになるが、あまり肥大化させると船体が傷つく。つまり、墜落する。やるなら、船体を傾ける曲芸飛行の中で詠唱することになる」
「連続飛行可能時間はどれくらいですか?」
「わからん。なにせ実験もしてない。浮くことに関しては問題ないが、もしかしたら、敵中に着陸しないといけないかもしれん」
スレイエスの船渠で改造したアントワーヌ船はついに空を飛ぶようになった。左右の舷側には小さな円筒があり、後甲板の方にも同じく装備されている。円筒の中には風車の羽根がついていて、大量の空気を船体にぶつけ、その圧力で浮き上がるらしい。カルヴァンはその機構をジェットと呼んでいた。そのジェットがごうごうと音を立てて耳を苛む。もしかしたら、船上に張られた風壁の音かもしれない。離陸直後、カルヴァンは甲板上に風の壁を展開させたと話しており、なるほど、結構な速さで飛行していても、リリアたち、甲板上の晶術部隊が飛ばされることもない。せいぜい、外套がなびく程度だ。
「いつぶっ壊れるかわからん。一応、警報機はつけているが、こいつが動くかもわからん。おれの想定していない問題が起きれば、何事もなく墜落するぞ」
「ですが、感謝に堪えません。これだけの協力をしてくださって、実際、空を飛ばしているのです。カルヴァンさんは世界一の天才です」
「おれがこいつを作ったのは小銭と実証のためだけだ」
本当なら手を打って歓喜し、飛行船の構造の詳細をとことんまで調べ抜きたい。だが、いまは戦場が先決だった。足下では多くの民が命を奪われている。いまは敵味方の兵士が、この正体不明の船体を見上げ、唖然としているが、
「リリア嬢、こいつは虚仮威しに過ぎない。さっきもいった通り、攻撃力がない。なにもできないとわかれば帝国はまた戦意を取り戻すだろう。その前に一発、二発、無理をしてでも放り込んで、敵を浮足立たせるしかない。それしかできることがない。あとは地上部隊次第だ」
カルヴァンは後甲板にいて舵を切っている。リリアはその隣に立って頷き、下甲板に向かった。
「各自、安全帯の確認」
カルヴァンの声が後方から聞こえた。下甲板には連絡管を通して伝わっている。そこには晶術士たちがいる。金属の環を手すりに引っ掛け、自分の身体に巻きつけた安全帯との結び目を引っ張って確認する。
リリアも安全帯を手すりに固定し、ディクルベルク以来、行動を共にしてきた忠臣たちを眺め渡した。彼女の声音は上空の風に負けず、吹き渡ってゆく。
「よく、ここまでついてきてくださいました。わたしはあなた方になにも報いて差し上げることもできていない、不甲斐ない主です。そんなわたしについてきてくださったこと、感謝の言葉もありません。この戦い、必ず勝利し、再び故郷の土を、わたしたちの足で踏みましょう。そのために、今一度、みなさんの力をお貸しください」
すでに泣く者も多く、肩を叩いて慰め合っている者もいる。
リリアは右手の人差し指に嵌めた指輪に口づけし、それをくれた母の、最後の笑みを思い出した。父と最後に顔を合わせたのはいつだったろう。ディクルベルクの兵が帝都に旅立ったあの日、どんな顔をしていただろうか。
旋回を始め、傾いた甲板からは地上の景色がよく見えた。黒煙を上げる焼け野原に白黒の鎧が横たわり、赤黒い血が焼け焦げた短草と乾いた大地を湿らせ、それらの合間で、いままで刃を交えていたらしい敵味方がおり、騎馬兵が馬を嘶かせながら歩調を緩めてこちらを見ている。
その荒廃した景色の中を疾風のように駆ける一団があった。アントワーヌの、白狼の旗が翻っている。その先頭に黒い外套をはためかせている人がいる。
ユウさん……。
リリアの唇から放れた指輪が赤く光る。彼女の白く細い指から一筋の光線が曇天の空に昇った。
〇
大きく傾いた飛行船の舷側に巨大な火球が出現し、直下の大地に落下した。どれほどの兵が押し潰されたのか、定かではないが、戦場は狂乱の様相を呈している。
アドリアナが本陣にしている天幕の下に駆け込んできた報告兵が彼女の前にひざまずく。周囲に侍る文官たちは息を呑みつつも、期待の面持ちを隠すことができなかった。
「ご報告します。アントワーヌの飛行船から落下した火球は帝国軍の中央に直撃し、敵方の被害はおよそ一千を数えるかと思われます」
ど、と陣内が沸いた。手を打ちあって歓喜する。
一千など、帝国が従えてきた十万の戦力に対して過少すぎるほどの損害に思えるが、彼らが頭上を取られたという恐怖は計り知れないものがあるだろう。あと二、三発も追撃があれば帝国軍は瓦解するかもしれない。
「アントワーヌがあのような兵器を開発しているとは」
「さすが大陸の英雄だ」
「これで我々も勝ったも同然です」
リリアがあのような兵器を隠し持っていたのは驚きだが、ここにいる愚劣な連中にも驚きだった。
先ほどまで東翼の窮迫を知り、歯の根も合わずにユグノー将軍の罵倒をしていたのと同じ口とは思えない。青ざめた顔にも血色が戻り、頬の筋肉が生き生きと動いている。そんな左右を見やり、アドリアナはため息を吐いた。
彼らを高位に置いておく、というのは、帝国の存在以上に王国を脅かしているかもしれなかった。こういう人間をひとまとめにして、国家という無形の怪物が出来上がるのだろう。
「陛下」と上申してくる臣下がいる。片手片膝地面について、空いた片手は腹に添え、下げた頭は主を見るのも恐れて多いという古来からの礼を優美に行い、「やはりユグノー将軍へ使者を送り、東翼の人数を厚くさせてはいかがでございましょう? ここを守りさえすれば、アントワーヌの飛行船が帝国を叩いてくれましょう」
「いけません」とアドリアナはぴしゃりとはねつけた。すでに十何度繰り返している議論だった。「わたしはユグノー将軍に指揮の全権を委ねました。それをここで翻すわけには参りません」
「恐れながら」と別の文官が同僚と同じ所作を寸分違わず行いながら、「いまのこと、将軍閣下にはわたくしどもの方から伝令をお送りしました」
アドリアナは床几を蹴って立ち上がり、足下の二人を睨みつけた。
「わたしは何度も無用と話しました。それとも、貴殿らはわたしの立場をそれほど軽んじられるか」
「お言葉を返すようですが、この戦場において大事は陛下の御身にございます。陛下を御守りするには仕方のなかったことなのです」
「陛下の身を軽んじておられるのはユグノー将軍の方ではありますまいか。彼らに後方へ抜けられれば、この本陣は強襲されましょう。近衛師団に囲われているユグノーはともかく、陛下のお命が危険に晒されます」
「バカなことを」
彼らが戦場のことを知らないのを、アドリアナは知っている。国境線の攻防で彼らが無用な口出しをしたために、戦況が脅かされ、そのまま敗北というところまで迫っていた。幸い、アントワーヌの後方撹乱とユグノーの指揮が奏功し、事なきを得たが、彼らはまったく学んでいないらしい。自らが無知で、愚なことを知らない。それとも、知っていて認めないのか。どちらにしても質が悪い。
「わたしは戦場に身を晒すことを恐れません。恐れるのはあなた方のような無謀です」
「陛下、お言葉が過ぎます」
すす、と一人がにじり寄ってくる。だが、アドリアナは一歩も引かなかった。
この一事、どう幕引きをしたものか。
懊悩したアドリアナの前に立ったのはロッテンハイム卿だった。
「軍令違反です」と直立の彼は後ろ手に組んだまま、極めて端的にいう。二人の文官を冷たい目で見下げて、「あなた方に伝令を扱う権利はありません。伝令にどう命じたのか定かなりませんが、陛下の名を騙って兵を操ったのなら、軍の命運を左右するほどの大事でございます。陛下、すぐに取り消しの伝令を将軍に向かわせましょう」
「そうね」
アドリアナは意外な助っ人に狼狽えながら、彼の判断に頷いた。
ロッテンハイムを王国を裏で操る誰かの手先と疑っていたが、真っ当な人間なのかもしれない。アドリアナは指揮権を捨てて、他に生存を預けようとしている。これに賛同するなど、暗躍者のすることではないように思える。
アドリアナは伝令を呼んで右のことを伝え、床几の上に腰を落ち着けた。
それを待っていたロッテンハイムはアドリアナに向き直り、
「陛下、この者たちは軍規を犯しました。軍規の乱れは統制の乱れに繋がります。ここは断固とした処罰を」
二人は身を震わせて、ロッテンハイムを睨んだ。
「処罰はします。ですが……」
「即刻、斬首がよろしいでしょう」
驚いたことをいう。アドリアナも、足元の二人も、はっきりとロッテンハイム卿を見開いた目で見据えた。
「斬首?」
耳を疑ったが、間違いではないようだ。ロッテンハイムは頷き、
「陛下の名を騙ったことは重罪であり、先ほども申しました通り、国軍の、ひいては国家の命運を左右するような犯罪行為でございます。今後、同様のことがないよう、ここは公に首を落とし、周囲の者を戒めるべきです」
「陛下」と、足下の二人は礼も忘れてアドリアナに詰め寄った。「我々は陛下の名を騙ったわけでは……」
「だとしても、重大な軍規違反をしたことには変わりない。その愚行は貴公らの死をもって償ってもらう」
誰もなにもいわない。周囲の文官は遠巻きに成り行きを見守っている。件の二人も震えた瞳で周囲を見渡すだけだった。遠い戦場の音の他、彼らの歯の鳴る音だけが天幕の下にある。
「ロッテンハイム卿……」
アドリアナはいったが、ロッテンハイムの冷たい眼差しに射竦められた。
「よろしいですね、陛下?」
アドリアナが言葉を継ぐ隙もなく、ロッテンハイムは左右の兵を見遣り、
「連れていけ」
「陛下、お待ちを」
「おい、待て」
「助けてくれ」
「陛下」
二人は口々にいいつつも、左右を兵に抱えられて天幕を連れ出されていった。
「これで軍の統制は守られましょう」
ロッテンハイムはくつくつと口の中で笑っていた。
仕方のないことなのかもしれない、とアドリアナは思い直した。ロッテンハイムのいうことにも一理ある。だから、ロッテンハイムの決断を取り消しもしなかった。しかし、この一連の流れの中で、戦勝後の王国を垣間見たような気がした。戦勝すれば、の話だが。
ふと、リリアの顔が頭をかすめた。
あれだけの兵器を持ったアントワーヌが勝ち残ったとして、今後王国で渦巻く闇の中で無事にいられるだろうか? それとも、彼らは帝国へ帰るのだろうか?
彼らにはその方がいいのかもしれない。そうなれば、自分はどうなるだろうか。
この原野の勝敗に関わらず、自分の未来は暗澹としているのではないか? それも王家に生まれついた者の宿命なのかもしれないが。
アドリアナは脇息を引き寄せて頬杖をつき、まぶたを閉じた。眉間に深いしわが寄っているのがわかる。
〇
「集合晶術を用意させろ。風を吹かせればあのような船、木の葉のように吹き飛ぶ」
エドワードは後方に指示し、再び戦場へ向き直った。爪先が頻りに地面を叩いている。
船はゆっくりと甲板を水平に戻し、旋回して、王国軍後方へ向かっていった。もう一度旋回して戻ってくるだろう。
「まさかアントワーヌがあのような兵器を隠しているとは思いませんでしたな」
フョードルの表情は顔の大半が髭に隠れていて定かではない。ただ、その声に緊迫の色は窺えなかった。
「まだ策があるか?」
「敵は東翼に予備兵の王都軍を放ったようです。戦場には各地域の諸侯、各師団が出払っているのは確認済みでございます。戦場に並んでいるぶんが、敵兵のすべてでございましょう」
「つまり、敵に持ち駒がない、ということか」
「であれば、弱点は自ずと見えて参ります」
「来たか、リリア」
ユウはセキトを疾駆させながら、南の空を眺めた。
緑色の燐光が長々と戦場の空に描かれている。それもすぐに戦塵にかき消えてしまった。
ユウはコスヨテリ大陸からの帰還したとき、故郷の兵器で実現できそうなものの案をカルヴァンに渡した。その中でカルヴァンが目をつけたのが、アレだった。飛行するための物理法則をいくつかノートにして、受け取ったカルヴァンはジェットエンジンに興味を示し、それで船を空に飛ばせてみせた。
「天才的すぎる」
ユウはいま一度、カルヴァンをアントワーヌに引き込んだ己の慧眼を崇めた。クラインといい、ロックスといい、エイムズ、ハル、セオドア、タモン。あまりに多くの人材を見つけ、関係を持たせてくれた巡り合わせと彼らの尽くを味方に出来た才覚に感謝した。そのすべてがいま、自分をここへ運び、帝国の、エドワードの傲慢を打ち砕こうとしている。リリアを生かそうとしてくれている。
この世界の事象のすべてが、その一つ事を実現させために、ユウを導き、押し立てているとしか思えない。それほどの幸運と強さが、いま、ゴルドバ平原に集結し、現実にしようとしている。
いや、とユウは思う。ユウをここまで導いたのは、フローデン候、リリアの父の意志、その夫人の祈りだったのかもしれない。その二つがユウに道を歩ませ、リリアを生かし、この大戦までも決しようとしているのかもしれなかった。
ユウはいま、この世界の意志の頂上を駆けている。エドワードと決着をつけるために。
アントワーヌからの火球で敵に動揺が見える。エドワードは西翼の防御のために予備隊を送ってきたらしいが、アントワーヌの足は狼狽える彼らの側面を駆け抜けていった。
「探せ! 敵本陣はどこだ!」
先ほどの火球のせいなのか、戦塵のせいなのか、それともこの地域特有の霧が出始めているのか。淡い黄色の光が西の空にあるばかりで、視界がはっきりしない。しかし、敵陣中央部後方に進出してきているはずだった。格別な理由があるわけではないが、敵陣を突き抜け切って、荒野の中にいる。完全に帝国軍後方へ抜けたはずだ。
「中央はどこだ! 敵陣は!」
ロックスも叫んで敵中を探していた。
やや南方で晶術光線が伸び上がる。その緩やかな傾斜が南に向かっているため、方角と位置が手に取るように見えた。
「あっちだ」
ユウの白剣が尾を引いて南を指した。全軍が馬腹を蹴って、疾風となる。その先、晶術光線の下にいた外套の集団に飛び込み、残るは兵に任せ、ユウは馬首を回した。忙しく輪乗りしていると、すでに下馬していたロックスが外套の一人の胸倉をつかんで揺さぶっているのを見つけた。
「てめえ、帝国本陣はどっちだ」
「いえない」と外套の男は首を振る。
「いわねえとぶん殴るぞ」
ロックスが拳を構えると、相手は頭を抱え、
「あっちだ。北東側」
「ウソじゃねえだろうな?」
「ウソじゃない、だから助けてくれ」
「こいつでもかぶってな」
ロックスは足元に転がっていた白銀の兜を相手に投げ渡し、
「敵本陣の場所がわかったぜ、大将」
「ああ、行こう」
ユウとロックスが並んで駆けると十数騎が追随してくる。徐々に粉塵は薄らいできて、遠くに帝国の旗が無数に翻っているのが見えた。兵站があるものの、防御陣地を構成している様子がない。
「突撃」
ユウの号令一下、アントワーヌ隊が敵陣に雪崩れ込んだ。旗を倒し、幕舎を踏みつけ、兵糧を散らして、数少ない敵兵と剣戟を交わしながら突き進んんでゆく。その先にあった一際大きな天幕、その中へ踊り込んだユウは、一人の老人を見つけた。彼の泰然とした雰囲気に、ユウは手綱を引いてセキトの足を止め、馬体から降りた。
「天ノ岐ユウさまとお見受けいたします」
「帝国の高官の方か」
「フョードル・ラフロニスカと申します」
「降伏していただきたい。皇帝陛下はどこか」
「わたし個人の降伏には応じます。ですが、陛下からそのお言葉を聞くことは叶わないでしょう」
「どういうことだ? エドワードはどこにいる?」
「お応えできません。どうしてもとおっしゃるのなら、この老いぼれを斬っていただく他ない」
「おれはあなたのような人を斬ることはできない」
ユウは四方を見遣り、天幕から駆け出し、西の地平に近い太陽を眺めた。すでに帝国本陣はアントワーヌに制圧されつつある。ユウが引き連れてきたのはほとんどロックス麾下の農耕兼業兵だったが、容易に敵を押している。というより、敵の数が極めて少なく、戦闘能力がない。そのために、優位に立っている。
「そういうことか」
ユウはセキトに飛び乗って、馬首を回した。
〇
帝国軍の頭上に晶術光線が走って束になり、扇状になってその要の部分に空間を歪める巨大な球体を生み出させた。王国軍後方でも同様の光と球体が生まれる。
「ダメだ」とカルヴァンが嘆息する。「あれじゃ近づけねえ」
集合晶術に巻き込まれれば、アントワーヌ船などひとたまりもない。船体を強化しているわけではないのだ。弩弓が飛んできただけでも墜落するかもしれない。
「なんとか皆さんを助ける手段はありませんか?」
「考えてはみるが、どうかなあ」
カルヴァンは頭を掻いている。
合戦は今朝から続いているらしい。いまは西の地平に太陽があって、半分ほども身を沈めていた。
この間に、どれほどの人の血が流れたことだろうか。リリアの起こした集合晶術が、最大の被害を招いているかもしれない。血に、汚れている。その指先を握りしめた。
覚悟はしていたはずだ。ディクルベルクで戦うことを決めたときから。万人の命を奪ってでも、アントワーヌを再興する。父母の願いであり、リリアを生かすために散っていった命の願いであるから。
「どうか、もう一度だけ」
機会があれば。
「おい」とカルヴァンが声を上げたのはそのときだった。
〇
トマスは王国第三近衛師団を引き連れて、中央からやや西方の戦場にいた。対する帝国軍は第八師団と第二師団。特に第二師団は、飛空船からの集合晶術が浴びせた衝撃にも動揺せず、アントワーヌに突き抜けられてもすぐさま態勢を立て直し、端正な壁に戻っていた。むしろ、アントワーヌの半数あまりが抜けた王国側を押し込もうとすらしている。
強い。
帝国正規軍は強いと聞いてはいたが、これほどとは。同数ならともかく、敵が数で優越している状況ではいつまでも支え切れるものではない。
トマスは近隣の王国第四師団、アントワーヌ、コルト候麾下の兵と連携を取りながら、戦線を維持している。ガラス細工のようにもろい戦線を。なにかしらの決め手があれば敵を瓦解させられるかもしれないが、皇帝がこの場の均衡に気づけば容赦なく増援を仕掛けてくることだろう。
馬上、四方を督励するトマスの下へ放っていた伝令が戻ってきた。
「本陣に予備隊はありません」
「ユグノー卿は使い尽くしたか」
「国王陛下の勅命により、最後の王都兵を東方へ送ったとのこと」
「バカな真似を」
トマスはアドリアナが軟弱でないことをこの短くない滞陣の中で知っている。おそらくは側近の愚物がなにかしらの手回しをしたのだろう。ユグノーも素晴らしい将才を備えていても、これだけの混戦を指揮するには実直すぎた。王国人的であり過ぎる。
「勅令など無視してしまえばいいものを」
「いかがなさいますか?」
「どうしようもない。手元の兵だけで打開するしかない」
残るは直下の騎馬隊一千がいるばかりだが、これをぶつける機会を敵の合間に見つけなければならない。
なにかあれば……。
両軍の頭上にある風の集合晶術は桃色の空を歪めながら砂塵を吸い込むばかりで、発動の気配がない。飛空船も、その巨大な二球を傍観するように戦場を広く旋回している。上空も硬直状態にある。
「コルト候が押されています」
伝令の通り、ずるずるとコルトの旗が南下を始めていた。第三師団の西方、白銀の兵が敵に圧迫されている。このままコルト候に下がられては、第三師団との間に空隙が開く。
「敵の増援があったものと思われます」
考えられ得る中で最悪の事態といっていいだろう。いくらもなく、王国軍は抜かれる。ユグノーが律儀に予備隊を放出しなければ。彼にそうさせた文官どもの無能も呪った。
王国は無能の集まりかもしれない。
薄々気づいていたが、国家を率いたこの戦場で如実に肌身で実感できてしまう。しかし、トマスには王国軍人としての誇りもある。
「各旅団は戦線を維持。指揮を副団長へ移す。以後、わたしの帰陣までそれに従え」
「はい」
「第一騎兵部隊の旗を挙げよ」
旗手が駆けると、トマス麾下の騎馬一千が続いた。馬体を密着させるほどにかたまって、徐々に加速していく。
厚い塵に遮られた地上は早くも夜を迎えているようだった。薄闇の中で激しい剣闘が交わされている。その中に、第一騎兵が突っ込んだ。黒い鎧を踏みしだき、槍穂は鋼鉄を叩いて、肉を刺し、白銀の鎧は瞬く間に血を浴びて熱気を帯びた。
敵の圧力が急激に減退する。
さらなる蹂躙を重ねようとしたところで、異質な圧にぶつかった。第一騎兵部隊が直進できず、指針が北へ大きく逸らされたのだ。トマスにとっては信じられないことだった。過酷なまでの調練を繰り返してきた、王国最強と自信をもっていえる、この一千の騎馬隊が踏み込めず、跳ね返されている。
いったい何者が……、と考えたところで、トマスは紫色の壁を見た。
紫鉄騎士団。
皇帝直下の、帝国最強部隊。
その強大な圧力と、奥に閃いた赤い瞳にトマスの肌が粟立った。
「エドワードか」
紫鉄騎士団はエドワードと思われる影を包んだまま、第一騎馬部隊を弾き返し、一方でコルト軍を抉ってゆく。コルト歩兵は瞬く間に散ってゆくように思われた。すでにトマス麾下の騎馬隊だけがこの戦線を支えているといっていいかもしれない。たったの一千で、一万といわれる紫鉄騎士団と、その左右に配された帝国第二、第八師団を相手に戦っている。
「いいだろう」
トマスは口元で笑い、さらに馬を速めてゆく。併せて馬群が加速して、敵陣を削るようにして円弧を描き、戦線を脱した。紫鉄騎士団も追うようにしてコルト軍を抜く。旋回したトマスは騎馬隊を引き連れ、迫りくる敵へ一個の凶器のように突撃していった。
両軍がぶつかる。その衝撃がトマスのいる中団にまで伝わってきた。
紫の群れが傍を駆け抜けてゆく。奴らは軍の一部をこちらに差し向けただけで、大勢は遮二無二、南へ向かっていった。
止めきれない。ここを抜かれれば総崩れになりかねない。第三近衛師団だけでなく、王国軍全体が崩れゆく。アドリアナの身も……。
どお、と横合いからさらなる圧力がかかってきて、紫の濁流を断ち切った。思わず、トマスの馬もいなないて止まる。
「王国近衛師団の方か」
先頭を走る青年は赤い髪を振り乱し、頭上で槍を振り回した。紫鉄騎士団の一人、二人を叩き退ける。さらに後続する騎馬隊が紫鉄騎士団と正面からぶつかっていった。馬群の中に掲げられた旗は青い布地に白狼、アントワーヌのものだ。
「スレイエス兵か」アントワーヌの大半はスレイエス兵というのを聞いた。
「近衛師団の方、よくもそのような小勢で紫鉄騎士団に撃ち込もうと思われた」
青年はこの窮地に立って、笑っていた。
「軍人として当然の務めを果たしたまでだ」
「潔い方だ。ここは我々が」
青年は馬腹を蹴って、敵中に飛び込んでいった。
トマスは笛を吹き、撤退命令を出した。戦場を脱し、後方で一つにまとまり、百騎を後方へ放っただけで紫鉄騎士団に再突撃を仕掛けた。スレイエス勢を圧倒しかけていた紫鉄騎士団の出鼻を挫き、また打撃を与える。
勝てるかもしれない。散り散りになっていたコルト兵も集結し始め、第三師団も防御線を再構築し始めている。トマスは三度目の突撃を仕掛けるために再度笛を吹こうとした。
「兄者」
という叫び声は先ほどの青年のものだったろう。何事かと振り向いたトマスの眼前を白い稲妻が轟いて消えた。
〇
「陛下、敵が来ます!」
王国本陣で、突如、想像外の伝令が飛んだ。天幕の下がどよめいている。
「どこから来るのだ?」
「いったい前線の者たちはなにをしていたのだ」
「陛下」とロッテンハイムが耳元でささやいた。「お逃げください」
こんなこともあろうかと天幕のそばに馬が一騎常駐されている。
「ですが……」
「問答をしている場合ではありません」
ロッテンハイム卿に乱暴につかまれたかと思うと、ほとんど担ぎ上げられるようにして、馬上に投げ込まれた。手綱をつかんで姿勢を整えている間に馬は走り出していた。十騎ほどの護衛が続いただけで、無辺の野に投げ出されてしまった気分だった。実際、その通りなのだが。
天幕の明かりが遠ざかってゆく。すでに、地上は暗く、東の空は藍色に塗られて、西の空だけが赤から青まで無限の色彩を描いていた。
戦場の喧騒も遠い。にもかかわらず、凄まじい馬蹄の音が空に響いてくる。アドリアナ麾下のものではない。
「陛下、いかがいたしましょう?」
護衛の一人が震える声で訊いてくる。護衛といっても、彼らは名門貴族の子弟といった連中で、身嗜みと気位しか備えていない。戦場に立てば赤子に等しいだろう。それはアドリアナも同様だったが。
敵に追いつかれれば命はない。
思えば手綱を握っている手が震えている。
戴冠したときから、いや、兄を打倒するために立ち上がったときから、命は捨てていたはずだが、まだ死を恐れているのか。それとも、自らの死によって王国が敗れ、二百五十年の歴史が亡びるのを恐れているのか。
得体の知れない恐怖が馬にも伝播して、馬脚を緩めさせた。
「陛下」
惰性で数歩先に行った護衛たちも歩みを止めて、振り返っていた。
この闇の中で、どこへ逃げろというのか。それとも、闇の奥深くならどこでもいいのか。
まだ蹄の音が止むことはない。むしろ、近づいている。
逃げ切れない。護衛たちもそれに気づいたらしい。
「ひいいい」
悲鳴を上げて、一人が闇の中に駆け出していった。それに誘われたように、二騎、三騎、と逃げ去ってゆく。アドリアナも無闇に駆け出しそうになったが、
「へ、陛下」
声をかけられ、意識を取り留めた。なにか考えなければ。しかし、頭は白熱してまともな考えなど……。
答えを探してさまよわせた目に、白い光線が映った。
「敵を惑わせます。あなたたちも散りなさい。捕まっても投降すれば命までは取られないでしょう」
「しかし、陛下……」
「わたしの心配はするな。生きることに専心しろ」
アドリアナは手綱を繰って、闇の中を駆けた。
〇
空が震えている。その振動はやがて鼓膜に伝わり、低い音を短く連続させた。高空を見上げると、赤い球が空飛ぶ船にぶら下がっていた。
「駆けろ」
エドワードは前屈みになって馬体を沈めた。蹄が力強く芝生を叩き、人馬が加速してゆく。
王国の予備隊が出払っただろうことを認めて、敵の弱点を突いたつもりだったが、さすがは大陸最強とも呼ばれる王国近衛師団、エドワードの鍛え抜いた紫鉄騎士団を過小すぎるほどの数で抑え、増援が来着する間を作らせてしまった。おかげで突破できたのは百騎に満たないだろう。敵本陣は防備などないも同様だったが、いずれ増援が派遣されてくるはずで、それが来る前に決着をつけなければならない。
足下に馬蹄のあとが、黄昏の闇の中でかろうじて見える。敵の本陣の明かりの下で見た、女が騎乗しているらしい蹄のあとを覚え、ひたすらに追跡している。
ようやく、その影を星の浮かび始めた東の地平に捉えた。
瞬く間に近づいてゆく。そのとき、空気が痺れるほどに唸った。頭上から火球が落ちてくる。
まさか、女王を巻き込む危険を背負って落としてくるとは。
エドワードは手綱を繰る。愛馬は口元から泡を吹きつつも、疾風を切って走っている。
背後で衝撃。ずいぶんと後方に落ちたらしい。振り返る間もないが。やはりリリア・アントワーヌはアドリアナを巻き込むほどの度胸はなかった。
黒煙を振り払い、意外に近づいた地平の影を確かめ、エドワードは剣を抜いた。夜の中に薄靄が散る。
後方が騒がしくなったのはそのころだった。敵増援である。
ち、と舌打ちをしたエドワードは手振りで副官に応戦の指示を出し、共に駆けてきた百騎を後方へ送った。
単騎、闇を駆ける。
過ぎゆく芝生の速さに比べ、目標の騎馬のなんと遅いことか。大剣を馬上振りかぶり、振り向いたアドリアナの目顔を確かめ、振り下ろした。
鈍い肉の感触。かたい骨すら断った。
馬が崩れる音を後方に聴きながら走り去る。
馬の首を落としただけだ。アドリアナが寸前で身を竦め、小さな頭を割ることができなかった。
エドワードは馬を回し、道を戻る。地に伏せ、起き上がろうとする女の影を馬の死骸の向こうに認めた。さらに向こう、太陽も没して茜だけが溜まる地平に白線が走ったのも認めた。
天ノ岐ユウ。
彼の馬は、アドリアナの頭上を飛び越えて、エドワードの前で輪乗りし、その軌道で白剣が真白な帯を引く。ゆるゆると、エドワードも歩調を落としていった。
愛馬のいななきが小さく響いている。
「エドワード、ここまでだな」
「わたしがおまえに勝てないというのか」
「その剣では」
ユウは下馬して、馬の尻を叩いた。彼の馬はやや離れたところで、芝生に蹄を擦りつけながら緊張した面持ちで主の様子を窺っていた。
「面白いことをいってくれる」
エドワードも馬を降り、身体の横に剣を垂らした。塗装したスフィアを起動させると、薄い蒸気が漏れる。地を這うように流れ、風に運ばれてゆく。
「フォーク将軍に勝ったそうだな?」
ユウはなにもいわず、白剣の軌跡を宙に描いて、中段に構えた。
「お互い時間が惜しいか」
どちらの増援が先にここへ来るか、定かではない。ほんの瞬きの時間でも惜しいのは事実だ。
エドワードも最上段に移した大剣をゆっくりと降ろし、中段に据えた。
〇
リリアが放った集合晶術の下、だった。
エドワードが突撃を敢行したのは察せたが、夜を迎えるこの広大な原野で彼を見つけられるかどうか、賭けに近かった。リリアが放った規模の晶術で攻撃力があるとは思えないから、おそらく目印に撃ち込んだのだろう。
しかし、とユウは思う。
エドワードの様子がおかしい。自信に満ちている。でなければ皇帝などをして、こうも戦争を起こせないだろうが、この一騎打ちに対しても大きな勝機をつかんでいる。
そういうふうに見える。
ユウは中段の白剣をやや左に傾け、重心を落とし、刺突の姿勢を取った。そのとき、エドワードが大きな一歩を踏み出した。
焦れて死にに来たか。
大剣を盾にするように突撃してくる。そのしのぎに向けて、ユウは白剣を突き出した。
か、と音を立て、白剣が垂直に立った。
かたい。
思ったときには大剣が凄まじい膂力によって振り抜かれ、ユウの身体を弾いた。
無様に転がったユウは受け身を取って、片手で地面を叩き、跳ねるようにして下がってゆく。数瞬のちにはエドワードの大剣がユウの手形の残る地面を抉っていた。そのまま原野を擦り上げた大剣の切っ先がユウに迫る。その刃に白剣の先を当てた。大きく跳ね上げられる。
やはり斬れない。
エドワードの剣がかたい。どういう手段を用いたのか、白剣の斬撃にも耐えられる刃を備えていると思って間違いない。
これがエドワードの自信の正体か。
いまの一合で膂力的にもエドワードの方が勝っているのがわかった。まず体躯が一回りは違うから当然の結果ではあるが、実測は重要である。
おれの実力が試されるか。
ユウは我知らず笑み、エドワードもつられたように口元を緩める。背筋を盛り上がらせて大剣を持ち上げた。全身に覇気をみなぎらせる。
「来い、天ノ岐」
「いいだろう」
駆け出したユウはエドワードと一合、切っ先を触れさせ合い、両者袈裟斬りを繰り出して火花を散らし、さらに二合目、撃ち合ってユウは爪先を地に沈めてゆく。ほとんど殴り合いに等しい剣戟を重ねて、結果、ユウは一歩下がらざるを得ない。
よたよたと後ろの芝を踏む。白剣は中段に、刀身を斜に。
優勢に立ったエドワードが踏み込んできて大上段から大剣を振り落とそうとする。
ユウの目がすうっと据わり、一点を見つめたのにはエドワードも総毛立っただろう。一瞬、彼の中に怯えが見えた。
ユウの爪先が地を蹴って、その身体を弾丸のように発した。手元から光が走る。
大剣の柄を撃ち、星の輝く夜空にその刃を跳ね飛ばした。
くるくる、と回って、どこかの芝生に刺さったらしい。
東の空に丸い月が顔を出し、西の地平は白線だけを残しているだけだ。
「強いな、やはり」
エドワードの首筋には白い剣先が据えられている。
「殺さないのか?」
「殺さないね。あんたには生きてやってもらうことがある」
「やれやれ」エドワードは両手を上げて、首を振った。「敗者らしく、だろう?」
〇
ユウは高台の上にいて、足下の戦場だった原野を眺めていた。万にも及ぶ人数が埋葬され、あちこちに火が焚かれ、幕舎が張られて炊飯の煙が細々と、丸い月の浮かぶ空に上がっていた。
二十万を越える人数を養うために、王国、帝国ともに兵糧を放出し、敵味方の分け隔てなく、与えられている。アドリアナが繊細なまでに心を割いて分配させたらしい。支配者の資格というのは、古くは集団で得た食料の分配にあったというから、そういう側面でアドリアナにはやはり支配者としての才覚があるのかもしれない。エドワードを丁重に扱ったことも、帝国側の心象によかったのだろう。エドワードはいま、王国の一幕舎に幽閉されていて、アドリアナの名においてその身を保証されている。
ヘリオス教会の医療団も野営地に入って手当てをしてくれている。やはり、先手を打って医療団を連れてきたのは間違いなかった。設備も備品も充実していて、フランの指揮下、円滑に機能している。
大した騒動もなく、気だるい、虚脱した安心感だけがあった。双方、戦いを重ねて疲れ果てている気配がある。火明かりの中に、王国兵と帝国兵が語らっている様子も見受けられた。
「終わっちまえば、国とか生まれとか、関係ねえってことなのかね」
ロックスは足を前に投げ出し、片手にした酒瓶を煽っていた。ぐ、と喉を鳴らしながら、深々と臭う息を吐く。
「飲み過ぎて倒れるなよ」
「大将はわかってねえな。おれたち帝国人ってのは酒だけには負けねえんだぜ。樽があれば空っぽにする。それが帝国人だ」
「危ない誇りだな」ユウは白い息を口の中で噛み砕き、「この寒さだから、軽装で外で寝たら死ぬぞ」
「大将、これくらい寒かねえよ。帝国を駆け抜けたときのこと、思い出せ」
はは、と笑ったロックスは原野に目を戻し、遠くの地平を眺め、
「懐かしいねえ、泣きながらディクルベルクを出て、帝国を南に下って。あれから何年経つよ?」
「三年かな」
「たった、三年」ロックスはのけ反って笑い、そのまま大の字に倒れた。「たった三年だぜ。信じられるか? それまでの何十年が空っぽみてえな三年だったなあ」
「そりゃ、これだけ暴れ回ればな」
リリアが率いるアントワーヌはディクルベルクで失脚してからたったの三年、この大陸の歴史に名を刻み、もはや巨魁といっていい立場にまで成長してしまった。その年月が濃厚でないわけがない。
「あれもこれも、全部大将のおかげだぜ」寝たまま、ちらとユウの方へ目を向けて、「ありがとよ」
ロックスは呟き、顔を洗うように擦った。何度目かの深いため息を吐いて、沈黙が漂う。
「大将はこれからどうするんだ?」
「どうするかねえ」ユウも畳んでいた足を前に投げ出し、「海に出るかな」
「海に?」
「もう、おれは国に関わるのが嫌になったよ。土地の取り合いでこれだけの人が死ぬなんて、下らない、本当に」
土など、すべて草木にくれてやりたい。いつかカルヴァンが話していたことを思い出す。地上の人工物を尽く破壊し尽くし、花鳥風月を友とする。
「それもいいかもしれない」
「国を捨てるってか」
「おれには元々国がない」
「元の世界には帰らねえのかよ?」
「帰りたくても帰れないし、まだ帰れても帰らない」
まだヴォルグリッドに打ち勝っていない。そういえば、奴はいったいどうしたのだろう? この最終決戦ともいえる戦場で、まったく姿が見えなかった。
「そんならよ」
ロックスは寝返りを打ち、
「おれもついていきてえけど、故郷にも帰りてえし、リリア嬢の手助けもしてえし、マロードの爺さんからもうちょっと教わりたい気持ちもあるし、その技術を活かすこともしたいし。いっそ、大将がリリア嬢と……」
ユウがロックスを見据えると、次の言葉が宙に消えてしまった。
ざ、ざ、と芝を踏む音が背後からする。
「ここにおられましたか」
「ジャフリー卿」ユウは飛び上がって駆けてゆき、彼の手を握った。「よく生きていてくださった。あなたが来てくれたことが、どれほどおれたちを助けてくれたかわからない」
「わたしにいわせていただければ、よくリリアさまを守ってくださった。その上、アントワーヌをここまで成長させてくださるとは、お礼の言葉もございません」
「礼なんて。もっと早くにご挨拶に行くべきだったんですが」
ジャフリーはアドリアナと謁見し、リリアと再会して、それ以外にもあちこちへ呼ばれてユウと会うべくもなかった。ユウ自身も、あちこちに呼ばれていたが、そのすべてを蹴り飛ばして、ここにいる。
「おれは人に囲まれるのが不得手な人間ですから」
「それもまた天ノ岐殿の魅力なのかもしれませんな」
ジャフリーのしわの濃い笑顔が懐かしい。
「アントワーヌの評判が、流浪のわたしたちをどれほど勇気づけてくれたことか。あなた方が奮戦していてくれたから、我々も生きようと思えたのです」
聞いた限り、ジャフリーはディクルベルクが陥落してから残党を募って南に下り、ファブルに入り、そこに潜伏していた旧帝国貴族も糾合して帝国打倒のときを図っていたという。ユウがアントワーヌ奇襲部隊を率いてファブル高地を駆けていたとき、連携して帝国兵糧に損害を出していたのが彼らだった。
天ノ岐殿、とジャフリーは強く手を握り返し、
「本当に、心から、感謝申し上げます」
「おれなど……」
ユウは続きの言葉を呑み込み、目元の湿気を拭っていた。隣に立ったロックスが彼の肩を叩く。
また、別の誰かが丘陵を登ってくる足音がした。タモンと、その背後にいたのは……。
「リリアさまをお連れしました」
ジジイが相変わらず品のない笑みを浮かべていう。
一陣の風が彼女の髪とスカートの裾を揺らした。小さな手がその二つを押さえ、大きな瞳は遠く、右手に見える月の方を眺めている。
「おいおい」とロックスは陽気にいい、「リリア嬢、こんな寂しいとこにいていいのかい? お偉いさんに持て囃されてるんだと思ってたがよ」
「いえ、わたしは……」
リリアは苦笑して頬を掻いている。
さらに詰め寄ろうとする酔っ払いをジャフリーが片手で留め、肩を引いて丘陵を下っていった。タモンも卑猥な笑みを残し、そそくさと去ってゆく。
その一行を見送ってから、ユウは先ほどの場所に座を戻し、リリアもスカートを撫でて彼の隣に腰を下ろした。
「ユウさん、お邪魔じゃありませんでしたか?」
「リリアが邪魔なときなんてないよ」
「ユウさん」と彼女は頬を染めて軽く俯く。
「ん?」
「あの、わたし……」
「うん」
「つきが」
と呟いて、はにかんだ顔を上げた。
「月が、キレイですね」
五指を突き合わせて恥ずかしげにいう。
「ん?」と首を傾げたユウは、そうだなあ、と頷いた。「月はきれいだなあ」
「ええ」とリリアは重いため息をついて、脱力したように空を見上げた。
「ユウさんも、アニーも、みんなも、無事でよかったです。少し遅れてしまったようだったので」
「そんなことないよ。むしろ、危ない戦場に誘ってしまったのが申し訳ない」
「いいえ。わたしはみんなのために戦えたのが嬉しかったです。それもこれもユウさんのおかげです。大陸中を旅して、船にも乗って海に出て、空を飛んでみんなを助けて。身体を病んで家にこもっていたときに夢に見た憧れの世界。ユウさんは、わたしをそこに連れてきてくれたんですよ」
「ん」とユウは呟く。「そうかな」
「そうです。ユウさんはわたしの救世主です。わたしの人生を救ってくれた」
「救世主ねえ」
「わたし、ユウさんとお会いできて幸せです」
リリアは微笑む。
「これからも、おそばにいて、いいですか?」
ユウは彼女の小豆色の瞳から目をそらし、白い月を見上げた。
「うん」と小さく頷く。
二人は寄り添うように空を眺めていた。
営舎の中央部に戻ると、王国兵はリリアを探していたらしく、すぐにアドリアナの幕舎に呼ばれた。それにユウもついていった。ユウはアドリアナに謁見できなかったから、以下はリリアからの又聞きになる。
アドリアナは幕の中で血の気のない顔を震わせていたそうだ。
「どうしたんです?」とリリアは尋ねた。
「王城が……」
「王城が?」
「襲撃されました」




