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幻想剣客史譚  作者: りょん
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第一巻 回天編 二章 荒野を越えて

      二章 荒野を越えて


 寝台がひとつ、その隣に小さな卓がある。卓の上に置いてある傘を被った晶機照明がほのかな橙色の明かりを放って、ぼんやりと、木板を張っただけの内壁を照らしていた。

 二人の人がいる。

 一人は老人である。寝台の上に横たわり、頻りに咳をしていた。もう一人は老人の足元に立って、寝たきりの老いた姿をじっと見つめていた。

 老人は軽い呼吸を繰り返し、繰り返す中でなんとか言葉を紡いでいる。

「帰ってきた、か」

「父上のおっしゃった通りだった。黒剣は道を示し、白剣をこの世界に呼び戻した」

「そうか」

「白剣はいずれ手に入れる。あとは鎧兜を目覚めさせれば庭園もまた目覚めましょう」

「いったはずだ。顕現者足り得るにはジョゼの血だけでは足りない」

「そのためにわたしにあちら側へ行く術を教えたとおっしゃるのでしょう?」

 口を開いた老人は激しく咳き込み、顎を引くだけで応えにした。

「わたしは顕現者でなくて構わないのですよ。ジョゼの力がある。この大地に眠っている。その力はさらなる力を目覚めさせる。わたしはそれを見てみたい」

「愚かなことだ。その程度の力に意味などないというのに……」

「見てもいない父上になにがわかる」

 琥珀色の瞳はついに老人から逸れ、彼の巨躯はこの狭い部屋から出て行った。

 部屋に取り残された老人は馬の、凍った大地を叩く蹄の足音を遠くに聞いた。

「救世の御子に、ジョゼの祝福があらんことを……」


      〇


 高緯度地域、つまり、極地に近いほど一年間の温度変化が大きい。赤道付近では、夏も冬も大して気温は変わらない。一年を通して暑い。一方、極地の夏は緑が芽吹き、水浴びが恋しくなる日もあるが、冬は大地も空気も凍りつく。

 ディクルベルクもその例に漏れず、季節の移り変わりとともに気温がぐんぐんと上がり、日中は汗ばむほどになってきた。ただ、海を始めとする大きな水源が遥か彼方にしかないため、非常なまでに乾燥しており、日本の不愉快この上ない蒸し暑さに比べて極楽浄土だった。

 ユウは半袖短パンのまま、窓を開け放った自室の真ん中で安楽椅子に腰かけて団扇を揺らすのが日課となりつつあった。

 窓枠を額縁にして、青い空と霞むクロッサス山脈が、刷いたような薄雲の向こうに見えて、一枚の絵画のように美しい。

 ぼーん、ぼーん、と銅鑼の音が鳴るのを聞いて、大儀そうに椅子から立ち上がった。

 昼食の合図である。

 部屋の掃除は女中に任せ、食事は厨房に任せ、庭木の手入れも人に任せて、厩舎の世話は兵がしている。食事も美味しく、気候も心地よく、生活に不備もない。

「このままではダメな人間になってしまいますねえ」

 ユウは食卓に満足して、お茶のカップに指をかけていた。

「あらあら、ユウさんたら、まだまだ修行が足りませんわね」と正面にいた女性が純白の指先を口元にやって、くすくすと笑っていた。

 トワイライト・アントワーヌ。リリアの母だ。まだ若く、二十代に見える。リリアの年齢を考える限り、そのようなことはないのだろうが。娘と同じ小豆色の髪が長く滑らかで、やや面長の顔は目鼻立ちもくっきりとしていて、愛らしさの中に色気もある。丈は低めで一見して華奢な雰囲気があるが、長い手足から繰り出される所作の一つ一つが優雅で、ふくよかな胸元を張っている様子にも威風があり、領主夫人としてはこれ以上がなかろう。彼女がどういった人物か、百人に予想させて百人が高貴なお方と答えるような風格がある。

「まだ足りませんか?」

「戦士としての鍛錬は積んでいらっしゃるようですけれどね」

 穏やかに笑う仕草がまた艶っぽくて引き込まれる。眺めているだけで時間も忘れてしまう。彼女となら永遠に話していて苦にならないのではないか、と思える。むしろ、永遠の幸福に包まれ続けるのではないか。

 今日は淡い桃色のドレスに身を包んでいた。

「貴族はその余暇をもって、ユウさんのように身体を鍛えるのはもちろん、学問に励み、さらに修身を身につけるのです。貴族が負担のない生活をする、というのは、楽をするためではなく、己を磨いて世をよくするため。それが貴族の務めであり、存在意義なのです」

「ははあ、確かに、おれは修行不足ですねえ」とユウは呟く。「いや、別に皮肉をいったわけではないのですよ。実際、おれが未熟だっただけです。なるほどねえ、余暇は鍛錬と学問と修身か。自ら望んでやる学問こそ真の勉強であると誰かがいっていました」

「言い得て妙ですわね」

 ガタ、と椅子を引いて立ち上がったのはリリアだ。

「わたくし、先に失礼いたします」

 右手右足、左手左足、同時に出しながらぎこちなく歩いて食堂を出て行った。彼女のカップにはまだずいぶんとお茶が残っている。

 食堂には夫人とユウ、二人だけがいる。

「なんだか、今朝から様子がおかしいですね」

 何度か顔を合わせたが、そそくさとユウの視界から消えてゆくのが常であった。

「なにかあったのかな?」

「夫はユウくんには末永くここにいてほしいみたいなの」

 大きな瞳を細めて流した視線にまた艶がある。

「できることなら、あなたを婿にしたいとまでいい出したのよ。あの子、そのことを気にしているみたい」

「婿?」はは、とユウは一笑に伏して、「ご冗談を」

「あら、ユウくんはうちの娘では不足かしら」

「そのようなことはありませんけど」

 あるわけがない。リリアは見た目も所作も愛らしく、賢くもあり、人を敬い、意見に耳を傾ける才覚もある。人生の伴侶として申し分なかろう。だから、慌てて手を振った。

「おれは一介の流れ者ですから」

「そうねえ」と夫人はふっくらとした頬に手を添えた。

「異邦の方ですものね。元の世界に帰れるのなら帰りたいのが心情ですものね」

 その前に殺さねばならない敵がいるから、とはちょっといえない。

 それからさらに数日ののち、ユウは日課の稽古を終えて屋敷に向かっていた。

「おや、ユウくん」と軽々に声をかけられた。

「あ、フローデン候……」

 と畏まった声を上げた。

リリアの父であり、フローデン領の領主にしてアントワーヌ家の現当主。朝も夜も白髪を七三にきっちりと撫でつけ、鼻の下に蓄えた髭のウェーブが美しく、細い目の尻が垂れ下がって、常に笑っているような印象の顔である。

食堂などで顔を合わせることも少なくないが、一対一となると、どういう立場で接すればよいのか。イマイチ判然としなくて、ユウには苦手な相手である。

「そうかたくなることはないよ。君はリリアの友人であるし、この国の人でもないし、なによりフローデン領は二度も君に救われている」

「救いましたっけ?」

「クロッサス川のことも、諜報局のことも、君が発案したそうじゃないか。二つのことがなければ、いまごろアントワーヌは転覆していたよ」

 ほほほ、と闊達として笑う。

「おれは愚痴を垂れたまでで、あれもこれも行動した人が偉いのです。おれの手柄ではありません」

「ほほ、謙虚だねえ」どうだい、とフローデン候は続け、「これから一つ、馬を走らせて来ようと思うんだ。君も来ないかい?」

「はあ」と頭を掻いたが、断る理由もなく、同行した。

 馬上の人となって平原を駆け、丘陵を越える。

 二人である。たったの二人。

 中央荒野、ここに流れ込んだクロッサス山からの雪解け水は海を見つけられずにさまよい、洪水を起こしながらヤマタノオロチの首のような季節河川を生成し、その周囲を灌木と苔の緑、そして小さな花の彩りを白色のシルト層に添える。季節の早いうちは荒野の表土を運んで醜いまでに濁っているが、この季節には穏やかな流れを維持していて水面も空の綿雲を映してた。

 蹄が丘陵のかたい地面を噛む。馬体が加速して風を切った。

愛馬の脈拍と呼吸を聞きながら、ユウは中央荒野の絶景を傍観しつつ、わずかに先行するフローデン候を見た。

 隣にいるのは一地方の統括者である。当然護衛がつこうとした。それをフローデン候が固辞したのだ。荒野の真ん中をユウと二人駆けるだけである。なにから守るというのか、それとも、彼が刺客だとでもいうのか。そのような礼を失することをわたしにさせるのか。とまでいって周囲を黙らせた。ユウのディクルベルクでの信頼は日に日に増していて、その人柄と剣才を疑うものはなくなっていたために周りの者たちも無理強いはしなかったのだろう。しかし、閣下の意地はどうしたことだろう、とユウは訝しんだ。裏があるのではないか。

 閣下の背中に、ユウはなにか堅固なものを感じていた。なにかを伝えようとしている。末永くフローデン領にいてほしい、と語った夫人の顔も思い出される。

 馬足は徐々に衰えてゆく。

 二人、特に何事もない、世間話を重ねながら夏の乾いた風を全身に浴びていた。ユウの世界のこと、どんな世界で、どんなことをしていたのか、家族も友人も心配しているだろう。

「サンマルクならなにか知っている人物がいるかもしれない」

「サンマルク。ジョゼの聖廟があるという町ですね」

「君が行きたい、というなら、支援するつもりだ」

「本当ですか?」

「君にはその資格が充分にあるよ」

 サンマルクへ行くには東へ進路を取る。中央荒野を渡り、帝都を経由するのが主なルートだ。

 帝都へ行く。

 機会が訪れた。帝都へ行く機会が。ヴォルグリッドを斬れる。

 我知らず、白剣の柄を撫でていた。

「しかしね」と呟くフローデン候に、ユウは視線を戻した。吐き出されたその音色に、原野を眺める瞳に、哀愁の色が漂っている。

「できることなら、もうしばらくここに留まって、リリアの手助けをしてもらえたら、光栄なのだが」

「リリアの、ですか」

 リリアの小さな顔が頭に浮かんだ。コロコロと笑っては泣いて、歓喜の声を上げる、彼女の顔が。

「ああ」とフローデン候はため息同然に呟いた。「だが、こういう言い方は卑怯かもしれないな」

 なるほど、とユウは得心した。

「親心というものですね」とユウは笑っていた。「愛ゆえに、ですよ」

「はは、愛ゆえに、か。そうかもしれない」

 フローデン候が馬腹を蹴った。疾風となった人馬にユウは追いついて、二人はさらに速度を増してゆく。

「君のような男が、あの子のそばにいてくれれば良いのだが」

 その声は風に揉まれて遥かな大地を吹き渡っていった。


      〇


 このころ、リリアは新しく開いた農地に短草、二年草や多年草から何種類か選び出して、種を蒔いていた。製材所より広大な土地の、鉄工とも思われるシルト層を打ち砕き、地中深くまでクワを入れ、土塊を掘り起こしては頻りに混ぜ込んでいた。簡単にいえば、広大すぎる荒野を徹底的に耕して、そこに短草の種を蒔いていたのだ。もちろん、貧弱な彼女が一人でやったわけではなく、多数のアントワーヌ兵を駆り出して行ったことだ。この季節になって、多くの芽吹きを迎えている。

「これで来年はまともな収穫が見込めるかもしれません」

 彼女はツナギとほっかむりをして、額の汗を拭っていた。とはいえ、重いクワを振り回したわけでもなく、種を蒔いたわけでもなく、あちこちを這いずり回って土の様子を観察していた。彼女のフワフワの上腕二頭筋でクワを持てばバランスを取れず、必ず事故を起こすといわれている。

「夏はこの草で表土を守りながら、根で地中の土をほぐしていくのです」と、リリアはいう。「家畜をたくさん入れて、彼らの糞尿を肥料にし、冬になれば針葉樹林帯から持ち込んだ枝葉をたくさん撒いて、雪と風から表土を守ります。冬の間はこの短草たちも生きていられるか、わかりませんから。枝葉とこの短草は、来年には土中の栄養となるでしょう。肥しとともに、土を育ててくれるはずです。そのあとは、不耕起栽培にします。まったく耕さず、家畜に草を食ませて、表土が現れたところに種を蒔きます。こうすることで、土中の団粒が維持できて、通気と水の浸透を両立した環境を維持できるはずです」

 昔、『怒りの葡萄』という小説があった。アメリカの富農に対して貧農が反乱を起こす話だが、その反乱のきっかけが耕作地の過剰な耕起だった。中央アメリカは元々プレーリーと呼ばれ、非常に肥えた黒土の楽園であった。そこを耕すだけ耕し、守ることをしなかったために表土は風に流されて消失し、土漠化して作物が取れなくなって反乱を起こさねばならなくなった、という話だ。いま、中央アメリカは不耕起栽培、リリアがいったような手法を取って、表土を守っている。

「粘土の層ではどうしても植物が根を張らないからこうして徹底的に耕しましたが、来年はこんなことはしません」

 アントワーヌには潤沢な家畜がある。家畜が畑地を歩いたり、草を食んだりして、その排泄物が土中にすき込まれ、耕起の効果を得る。人が耕さない、ということが不耕起栽培だ。家畜のない農家だと、牛糞、鶏糞など、大量に買い込んできて、それを最低限の耕起で混ぜ込む、省耕起栽培、となる。

 アステリアにはまだ化学肥料がない、という問題もある。植生に大切な三大栄養素というのがあって、それが窒素、リン、カリウム。かつて、地球でも窒素の供給ができないと問題になった。それを解決したのが化学的に窒素を合成する方法。これによって窒素肥料が農場に大量供給されるようになったが、アステリアの科学レベルでは間に合わない。だから、自然環境の力を最大限まで行使しなければならない。ディクルベルクでは右で書いたような不耕起栽培がいい、とリリアは結論した。もしかしたら、間違いかもしれない。それは実地に検討してみなければわからない。

「これで失敗したら、また別の方法を考えるしかありません」

 ディクルベルクの土は雨によって酸性に傾いていたはずだが、この問題も、クロッサス川から持ち込んだアルカリ水を使って、中和作業が終了している。

「この農業用水も、もしかしたら必要ないのかもしれません」と、リリアは驚きの発言を平然とした。

「なぜ必要ないの?」

「町としては必要です。ですが、畑の土が回復すれば、充分な保水力を持つはずなので、ディクルベルクの雨量と雪解け水だけでも足りるかもしれないのです。というか、足りるはずです。ここは元々緑の大地で、アントワーヌの庭園の土なら充分に緑が育つだけの降雨が、この地域にはあるんです。いまはほとんど粘土質で、雨水は表面を流れるだけですけど」

 菌と根に育てられた土、というのは、複雑な立体構造、一般に団粒構造というのだが、この形になると、その隙間に大量の水を担保することができる。団粒同士の隙間が大きいために、水と空気が簡単に染み込んでくる。それを長期保持できる。水の中には各種栄養素も溶けているから、それらも保存されることになる。植物にとっては食料庫に等しいだろう。このディクルベルク一帯には、植物の食料庫になる土が皆無というのが現状だった。

「降雨だけでも栽培ができるはずなのです」とリリアは繰り返しいう。「できるはずなのですが、そうなるまでには四、五年はかかると思いますし、もっとかかるかもしれません。その間はどうしても多少の用水が必要になるはずなのです。なければ失敗する可能性が高かったので、いままで畑を作ることはしなかったわけです。引いた水は農業用水に使わなくても、生活用水に使えますし、どちらにしろ必要だったのです」

「ははあ」とユウは感心する。この土地で生き、研究を積み重ねてきたリリアならではの答えかもしれない。「計算ずく、ということか」

「わたしとしては、できる限りのことを計画して、実行しています。うまくいくかわかりませんけど。自然はやはり驚異的ですから、わたしの計算や想像が及ばないかもしれません」

「おれはいいと思うよ」

「ありがとうございます」

 微笑む彼女は実に無邪気で愛らしい。

フローデン候と遠乗りしたのも、すでに数日前。リリアの中ではユウの婿話など真水の前の一粒の塩のように溶けてなくなっていて、なんの味も残っていないようだ。

「冬の終わりに花の種を蒔いておきます。雪解けとともに芽吹き、すぐに枯れてしまうものですが、それもまた越冬した土をほぐしてくれる力になりますから。もしかすると、来年はいっぱいのキレイな花畑が見られるかもしれません」

 いっぱい、を両腕を回して表現してみせる。

「ユウさんも、ご一緒に見てくださいますか?」

「そうだなあ」とユウは長々と鼻息を漏らし、「一緒に見るのもいいかな」

「約束ですよ」

 リリアは両手の指を突き合わせて、微笑んでいた。


      〇


 奇妙な男がいる、と聞いたのは、それから数日後の夕方のことであった。高台下の調練場で奇妙な道具を並べては押し売りに近い真似をしている男がいる、という。

「兵士が訓練するべきところで商いをしていいものなのか?」

「なんでも王国の新兵器を紹介しているとか」とリリアは指を振りながらいう。「ユウさんもご一緒しませんか? 新しい技術というものに興味があります」

 ユウも学問を志している者である。地学も学し、化学も学し、生物も学ぶ。新しい技術というのに興味が引かれないわけがない。

 リリアと二人でふらふらと、アントワーヌ邸を抜け出して、茜色に染まり始めた調練場に出た。

 人垣がひとつあって、振り向いた者たちはリリアに気付き、驚きつつも道を開けた。奥には短躯のオヤジがいる。頭は禿げ上がり、顔は赤く角ばって、着ている服も薄汚れていてそこらの街角に座り込んでいると景色に溶け込みそうな様子である。

 そのオヤジが抜けた歯の合間から空気を吹き出しながら品のない笑みをこぼしていた。

「これはこれは、アントワーヌ卿とお見受けいたします」

「リリア・アントワーヌと申します。なにか珍しいものをお持ちだとか」

「王国で開発されている新兵器です」

 オヤジは一本の筒を取り出した。ウッドストックのライフルに似ている。ほお、とユウは思わずため息をついた。

「銃器ですか」

「晶銃という晶機でございます。一度ご覧に入れましょう」

 オヤジは丸い弾を銃の先から落とし込み、ストックを腹に据えた。調練場の向こうには土塁があって、そのこちら側に弓の的がある。距離にして四十メートルほどか。

 ぱしゅ、と空気を裂く軽い音がしただけで弾丸は滑空し、的に当たった。おおー、と観衆から声が上がるが、当たっただけだ。

「ずいぶんと威力が弱い」とユウは顎を擦りながらいう。「殺傷能力があるのか?」

「左様で」とオヤジはにたにたと笑う。「四、五メータの距離で直撃させて骨を砕くのがせいぜいでしょう。当たり所が悪ければ、という程度です」

「それでは兵器とはいえない」

「それも左様で。王国でも運用されていても、量産というほどではなく、まだまだ研究段階にある品でございます。しかし、新しい技術であることに変わりはありますまい」

「きっと風のスフィアに刻印を施して、筒の根本に仕込んであるんですね」

 リリアは難しい顔をしていう。刻印というのは、石に印を刻むことによって一種のことに特化させる技術のことだそうだ。晶機にはすべからくこの技術が使われている。印を刻んでいないスフィアを無印と呼び、こちらは万能性が高い反面、扱いに晶術師として技術を問われる。

「確かに、新しい技術です。あと数年もすればすごい兵器になるかもしれません」

「さすが、碩学で名を馳せるリリア・アントワーヌさまでございますな」

「そんなあ、碩学だなんて」あからさまに照れて頭を掻いている。オヤジも併せて笑いながら、「こういうものもあります」ともう一本、並べてあった晶銃を取り上げた。離れて、離れて、と片手で人払いする仕草をするために一同は二、三歩と後ずさる。そしてオヤジが引き金を引くと、銃口から火焔が噴き上がった。人一人をゆうに包み込める大きさである。

 おおー、と歓声が大きくなる。

「火炎放射器だな」

「風の代わりに火のスフィアを仕込んでいるのですね」

「しかし、連続稼働時間はおよそ一ミニン程度です」

 ユウの体感で一分程度である。一撃必殺といったところか。あまりに汎用性に欠ける。

「先ほどの弾丸晶銃も五発ばかりが限度です。使い終わったら解体して、スフィアを交換しなければなりません」

「兵器として成立してない」

「そうなのです。必死こいて王国から持ち出したものの、各国回って興味を示しても児戯と笑われ、まともに買おうという者がおらずこの始末」

「王国では機密扱いなのか?」

「そういうわけではございませんが、作成は王立研究所に限り、民間には一切卸さず、輸出も行っておりません」

 オヤジは手ごねしてリリアに近づいてゆく。

「そこで、どうでありましょう? 聡明であられるアントワーヌ卿であれば、この技術の重要性、ご理解いただけるかと存じ、伺ったのでございますが。この機会に、勉強いたしますので……」

「わかりました」

 あまりに呆気なく頷いたリリアに一同ぎょっとし、またどこかからか囃す声も鳴っていた。

「買うのかよ? こんな胡散臭いものを」

「有用か無用かは研究してみなければわかりません。何事も一見して無用と決めつけるのは早計です」

「そうかもしれないけど、褒められて気分が良くなってるんじゃないの?」

「そんなわけないじゃないですか。おだてられたくらいで財布の紐は緩めません」

「そうでございましょう」とオヤジだけが手を叩いている。「さすがは賢王とも呼ばれるお方です。領民の方々はさぞお幸せでございましょう。あっしはそこらの商人と違ってボリは致しませんので」

 これくらいで、とオヤジが指で額を示し、少し高いですね、とリリアは値切り始める。

 ユウは弾丸晶銃と呼ばれていた銃器の方を手に取ってみて、天に向け、恐る恐る引き金を引いてみた。なにも起きない。銃口から風が吹き出している気もしない。晶機であるならユウでも扱えるはずだが……。

「ここに安全装置がついているのです」

 オヤジはユウの晶機を取って、銃身脇のボルトハンドルを引いてみせる。

「これで撃てます」とオヤジは使い方と解体の方法を披露して、リリアに二本の銃器を抱えさせた。「良い商談でございました」

「こちらこそ、面白いものを見せていただいて、ありがとうございました」

 早速弾丸晶銃を撃とうとするリリアの周りに人が集まってゆく。ユウは遠目にその集団を見遣っていた。

「旦那はあっしをお疑いでございますか?」と横合いから声をかけられ、視線を遣れば気味の悪い笑みがある。

「あんたは胡散臭いよ」とユウは笑う。「しかし、あの銃のことはわからん。おれはこの世界の技術をあまり知らない。リリアが納得したんなら、あれもいいものなんだろう」

「あれがいいものかどうか、あっしにもわかりませんが、まあ、重い荷を下したような気分でございます」

「だろうな」

 ユウは素っ気なく答えて会話を打ち切ったつもりであったが、オヤジはまだ去ろうとしない。ユウの顔を覗き込み、「旦那は」と窺うような声でいう。

「もしや、天ノ岐ユウ殿でございますか?」

「む」とユウは訝しむ。「なぜ知ってる?」

「ほほ、町で噂を聞きまして。アントワーヌに身を寄せる異邦者の少年が隠れた智者であるのだと。拝見いたしましたよ、町の用水路。アレの献策も旦那だとか。剣の腕も立つそうでございますなあ。大陸の三傑に並ぶとか。アントワーヌの守護神とまでいう者もおりましたよ」

「おれはアントワーヌを守ったことなどない。嘘を吐くな」

「あっしの言葉ではありません。巷の噂が舌を借りて出たまででございます」

「胡散臭い奴」

 ユウはオヤジを一瞥もせずにリリアたちを見つめていた。しゅ、と弾丸が斜め上の空に放たれ、歓声が追ってゆく。

「旦那」とまだ話そうとするオヤジにユウはため息で応えた。が、相手は意に介さない。

「旦那、奇相でございますなあ」

「オヤジは占いもするのか?」

「占い、というほどのこともありませんが、旅の中で多くの人相を見て参りました。三傑の相を遠いなりにも拝見したことがございますし、それ以外の英傑の顔を数々見て参ったと自負しております。ですが、しかし、旦那は特に奇相な気がいたします」

「そりゃそうだろう。おれは異世界から召喚されてここへ来たんだぞ。奇相に決まってる」

「おっしゃる通りかもしれませぬな」とオヤジは笑う。一頻り笑って、「旦那は、大陸の命運を背負って立つことになるお顔かもしれませぬ」

「なに?」とユウは男の四角い顔を睨んだ。「意味がわからん。おれにそんなつもりはない」

「命運というのは、人の意志に関わらず変転してゆくもののことをいうのでございます。例えば、旦那がここを訪れたこと、リリアさまがアントワーヌの開拓をしていたこと、あっしがこの町を訪れたこと、帝都の方々の思惑や南部の情勢など、明日の天気、星の運行、日が昇って沈むこと。どれも旦那の意志決定で変えられることではありますまい。そういう強大な流れの行く先のことを、命運、あるいは運命と呼ぶのでございます」

「むう」とユウは腕を組んで唸っている。

 そろそろ日が暮れだし、濃紺の空に星々がきらめき始めていた。そのほの暗い調練場の片隅に、二人は二人だけで佇んでいる。

「地図を御覧なされ」

「地図?」意外なことをいう。「どういうことだ?」

「あっしも事実かどうかわかりかねますが、帝国東方の一部、九割九分九厘から外れた奇人変人たちの間では暗い噂がささやかれております」

「暗い噂?」

 さらに問い質そうとしたところで、「ユウさん」と声をかけられた。

「そろそろ戻りましょう。暗くなってきました」

「おお」と応じながらもユウは逡巡して、商人のオヤジを見遣った。オヤジは闇の中に潜んで、もはやどこにいるのかも定かではなくなっている。

「では、あっしはこれにて。ご縁があればまたお会いすることもございましょう」

 失礼、と残し、足音もなく、気配が消えた。


      〇


 横二メータ、縦一メータもある帝国全土図が張り出されているのは、アントワーヌ兵舎の奥、諜報局執務室にある木板の上であった。卓上晶機のほのかな間接照明の中に二人の男がいる。

「帝国東方の暗い噂、ですか」

 ジャフリーは顎をつまみながら重い鼻息を吐いた。

「そういう情報はまったく入っておりません。我々の諜報部の働きはフローデン領内の治安のためですから、中央荒野東方のことまでは」

「おれもあの男のいうことを鵜呑みにするわけではありませんが、しかし……」

 気になることではある。

「あの商人ふうの男を探してもらったんですが、すでに町にはいませんでした」

 試されているという気がする。

「地図を見ればわかるとおっしゃったのですか?」

「地図を見ろといわれました。それでわかるとまではいっていませんでしたが」

「なにか足りないのでしょうか?」

 帝国は中央に広大な荒野を置いて、東西に分かれている。その荒野は縦横千キオメータといわれている。広大な土漠の東端にあるのが帝都アンタレスであり、西端にあるのがフローデン領ディクルベルク。二つの町が土漠によって東西二つに分断された帝国の連絡路維持と中継地を担っている。

「帝国の北はクロッサス山脈、それを越えてほどなく海、西も海で、東はラピオラナ山脈を挟んでアンガス公国、南国境は西からスレイエス公国、ファブル自治領、ウッドランド共和国、そしてラピオラナ山脈にまたぶつかる」

「その通りです」

「中央荒野南国境はファブルとの国境。スレイエスとファブルは帝国同盟であり、アンガス、ウッドランドは反帝国同盟。つまり、西側は帝国同盟に接し、東側は反帝国同盟に囲まれている」

「アンガスと帝国は建国以来領土を取り合っている仲です。いまは帝国が中央荒野に進出しておりますが、時代によってはアンガスがラピオラナ山脈を越え、中央荒野をも越えてここ西部に進出してきたこともあります。ラピオラナ山脈と中央荒野に挟まれた地域は東西からの補給が難しく、また自給も難しく、安定した統治が難しいのです」

 ジャフリーは地図を指し示しながら続ける。

「前帝ヘンドリッヒ陛下は、この競り合いに終止符を打つために中央荒野に都市を築き、そこを首都とし、一帯の安定を図りました」

「ヘンドリッヒ帝はこの、ラピオラナ山脈以西から、アンガスを追い払うために東部に侵出したとおっしゃる?」

「実際は東の海ともいわれています」

「西の海は冬季に凍結するということですか?」

「冬季になると帝国の西の港、ヴェンセントの海は凍結して使えなくなります。そのためにヘンドリッヒ前帝はラピオラナを越えて、アンガスを滅ぼしたかった。志半ばにして御隠れあそばしましたが、その意志は嫡子エドワード帝に引き継がれています。エドワード帝は即位して五年、現在も帝都を中央荒野東方に置いて動かず、ラピオラナの向こう、アンガス公国制圧の機会を虎視眈々と窺っております」

「帝都は東と戦争をする、ということなのか」ユウは腕を組み、「東に攻め込むとなると、南の国が問題になります」

 ユウは帝国南東部を指揮棒で叩いた。

「東のアンガスは南のウッドランドと同盟しているわけです。東に攻め込んだ途端、南から敵に登ってこられれば厄介なことになります。もしかしたら、皇帝は、東の山脈を壁にして、南に攻め込みたいのかも」

「そうですねえ、南国境にはここ数年、中央軍が盛んに入っていると聞きます」

「中央軍?」

「皇帝陛下直属の軍で、以前は小さなものでしたが、ヘンドリッヒ帝以来増強され、現帝エドワード陛下は民衆からも広く人材を募り、その規模を過去最大にまで膨れ上がらせています」

「現帝は民衆から募っているとおっしゃいましたが、かつてはそうではなく、貴族らの中から募っていたと?」

その通りです、とジャフリーは頷く。「各地の貴族の次男や三男、騎士階級の子弟の集まり、ということです」

アントワーヌ兵隊も騎士階級の集まりである。

一般的に、戦士階級は肉体的にはもちろん、精神的にも生死観を修養されていて、窮極まで戦い抜ける。民衆は恐怖によって戦場を脱すこともあるし、力がないぶん恐怖を大きく感じることも多い。誰かが逃げれば、それに釣られるのも人情で、弱兵をわずかに入れれば強兵の集まりも崩れやすくなるともいう。軍隊は数が多ければ強いというわけではない、ということだ。日本の幕末などは武士階級が貧弱だったが、アントワーヌの騎士階級は強い、とユウは思っている。充分な戦闘力と交戦する意志がある。これが帝国の一般水準なら、民衆を交えた中央軍とやらにどれほどの力があるのか、ユウは疑問だった。

「常時、中央軍は陛下の直轄領、いわゆる天領に配置されているのですが、ウッドランド国境は重要拠点にも関わらず、ここのところ、いくつかの家が取り潰されてしまい、空白地帯になる恐れがあったのです。放置しておくわけにもいかず、陛下は中央軍を割いて、南国境の警備に当たらせたわけです」

「南の国境守備は中央軍、か」

「東の国境も同じような状態だと聞きます」

「東も?」とユウは眉をひそめている。「あまりに節操がありませんね。昔から領主が失脚すると、その地には中央軍が入るものですか?」

「あくまでも非常の手段ですよ。普通は新しく爵位を与えられた貴族が家臣団を引き連れて入るものです。ここのところ、取り潰しが多いようですし、人選に手間取っているのでしょう。なにせ、国境付近は重要拠点ですから、やはり空白にはしておけない、ということで。それに、我々の情報はニ、三年前のものです。いまはもう別の貴族が入っているかもしれません」

「ニ、三年前、ね」とユウは腕を組んで、地図を見つめていた。

 二、三年という期間は、戦争の準備をするには充分な時間だろう。しかし、東方に行きたいのか、南方に行きたいのか、判然としない。まさか、どちらでもないのではなかろうか、と考えて、ユウは慄然とした。

「ジャフリー卿」と立ち上がりつつ、彼の名を呼ぶ。「わかっている限りで構いません。いま現在領主が差配している地域と、中央軍の入ったことのある地域を色分けしましょう」

「なにか気づかれましたか?」

「いえ」と首を振った。「疑心は暗鬼を生じるといいます。人の悪評は迂闊に流さないのが吉です」

「はあ」とジャフリーは合点がいかないまま、地図の上を塗っていった。

 貴族の差配する地域は、西方では港湾都市ヴェンセントを除く全域に及び、東方では中部を広く染め上げている。中央軍が駐留しているのは、アンガス国境とウッドランド国境が主で、その他東西に点々と拠点があるらしい。

「これは……」

 呟いたユウの顔色は青く、声は驚嘆に震えていた。

「なにかおわかりになられたので?」

「おれの考えすぎかもしれませんが」とユウは小首を傾げた。

「おれの妄想が事実になるなら、早急に一計を案じる必要があります」


      〇


「あの、ユウさん」

「悪い、いまは忙しいんだ」

 いうのももどかしげに廊下を足早に行ってしまう。

「いったいどうしたのかしら?」

「よろしいじゃないですか。悪い虫がようやく分をわきまえたということです」

「また、ジェシカはそんなこといって」

 リリアは部屋に戻ってから愚痴を垂れていたが、相手がジェシカでは甲斐がなかった。

「最近はみんなの調練にばかり力を入れていて、まったく構ってくれないんだから」

 以前から数日間家を空けることはあったが、ここ最近はその頻度がいや増している。顔を合わせても短い挨拶を交わすばかりで、素っ気ない。その扱いに、リリアは腹を立て、握った拳を振り回し、かたくした唇からは悪態が出る。わたしの好意でアントワーヌ邸にいられるのだからもう少し話してくれてもいいじゃない、とは、さすがに頭によぎっても口にしなかった。

「そんなに固執するほど楽しいものなのかしら、調練というのは」

「リリア、言い回しに注意しなくてはいけません」

「なぜ?」

「なぜって。構ってくれないんだからってところ、まるで恋人に冷たくされた女性のように」

「コイビトッ!」とリリアは飛び跳ねた。運動の不得手な彼女には珍しいほど跳ね上がった。耳まで真っ赤にして、

「べべべべべべべべべべべべつにそういうつもりはありません」

「ですからお気をつけくださいといっています」

「わ、わかりました。口には注意しましょう」

 ことさらわざとらしいほど平静を装っている。

「わたしは取り乱したわけじゃありません」と言い訳がましいことまでいう。

 そんなリリアはこのころも河川工事の現場や新しい耕作地へ、頻りに赴いては進捗を確認していた。いまは町の中に支流をのばして、生活用水にしようとしている。

「晶術の調整効率も上がっています」と晶術士の一人が報告してくれる。「実験室での結果ですが、スフィアを一割ほど削減しても従来と同程度の組成で河川成分の調節が行えそうです」

 リリアはその資料に目を通し、

「では河川での実験も進めてください」

 は、とその術士が下がってゆくのと入れ代わりに土木班もくる。

「貯水槽を掘るために石畳を剥がなくてはならない箇所が新しくありまして」

「計画書を屋敷まで持ってきてください。確認した上で、内務卿にはわたしからお話します」

「はい」と下がろうとするその背中に、ちょっと、と声をかけた。

「ロックスさんは? 今朝は見かけませんが」

「ロックスさんは別の仕事が入ったとかで、何人か引き連れてそちらへ向かいました」

「人を引き連れて?」

「アントワーヌ卿はご存じありませんでしたか」

「なんの報告も受けておりませんが……」

 しかし、こちらの仕事が滞りなく進行している以上、彼らの業務に口出しをする権利はリリアにないし、しようとも思わなかった。ただ、義理堅いロックスからなにも連絡のないことが奇妙に思えただけだ。

「わかりました。では、お仕事の方、お任せします」

「はい」と応じて去ってゆく彼の背中を見送って、リリアは眉間にしわを寄せた。

「男の人ってホントにわからない」

 ユウも、ロックスも勝手なことをしている。それとも、自分が身勝手なのだろうか。

「まったく、もう……」

 リリアは青空を過ぎる小鳥の群を眺めて、難しい顔を隠す余裕もなく思案している。思案しているが、答えは出ない。

 そういう状況が、彼女にとっては恐ろしいことに、三か月続いた。

「どどど、どうかしそうです、頭が」

 頭を抱えながら震えていた。額を預けた窓ガラスがカタカタと音を立てている。

 すでに外は秋の風が吹きすぎて、冬の足音が聞こえている。びゅお、びゅお、と鳴り響いている。

 ここ三か月余り、ユウと真っ当な会話をした記憶がなく、声をかけても彼の心はそこになく、身もそそくさと去ってゆくのが最近の常になっていた。

「わ、わたし、嫌われたのかしら」

 油断をすると目元が熱くなりそうで、まぶたを閉じた。

「まあ、あいつもあいつなりに忙しいことがあるのでしょう」

 気にすることはありませんよ、とジェシカが珍しく気を使ってくる。

「ユウさんの忙しいことって、どういうことかしら?」

「最近、兵の調練に力を入れているようですし、そういう方面のことでしょう」

「三か月前からずううっとですか?」

「あいつも大概戦闘狂ですよ」

 はあ、とリリアはため息をつく。

「聞いたところによると、帝都から使者が来たそうです。その内容を聞きましたか?」

「聞きましたよ。賊徒鎮圧のため、帝都に五千の兵を出せと陛下が仰せなのでしょう。こんな季節に。じきに中央荒野は不通になりますよ」

「陛下はそうなる前に兵を帝都に入れろとおっしゃっているのでしょう。それだけ賊徒の討伐業がそれだけ切実だということなのでしょう」

 わたしが心配しているのはそういうことじゃありません、とリリアは胸元で両手を握った。

「ユウさんがどうなさるか、です」

「どうなさるか、というと?」

「ユウさんは異邦者の方です。故郷の世界に帰るのが本望のはずです。であれば、ジョゼ昇天の地、サンマルクに行くのが唯一ともいえる手がかりなのです。サンマルクに行くには帝都を通るのが常道です。であれば……」

 はあ、とため息をついて、椅子に腰を落とした。

「ユウさんは、元の世界に帰ってしまわれるのでしょうか……」

 リリアはソファーの上に倒れ込むように座り、膝を抱えて小さくなった。ちなみに、ディクルベルクにおいて、室内ではスリッパなど、内履きを使う。冬季に雪が降ったり、凍結があったりで、外履きがひどく汚れるためだ。リリアはそのスリッパから爪先を抜いて、脚を畳み、胸に抱えて、膝の間に頭を埋めた。小柄な彼女がいつもより小さくなって、そのまま丸まり、いつか消えてしまうのではないかと思われる。

 次はジェシカがため息を吐いた。

「訊いて来ればいいじゃないですか、帰るつもりなんですかって」

「ちょ」とリリアが怒り顔を上げた。「帰るっていわれたら、どうするんですか」

「仕方がないでしょう、そのときは。それとも、帰らないで、愛してるから、とでもいうんですか?」

「アアアアアアアイシテルッ!」

 絶叫して、みるみる顔を赤くする。

「わたしは断じてそんなつもりはありません」

「だったら大人しく見送りなさいよ」

 ちらちら、と左右を探るように見ていたリリアはまだ熱いはずの頬を掻きながら、

「少し外の風を浴びてこようかしら」

「あいつは最近、よく諜報局にいますよ」

「ジェシカったら、誰のことをいってるのかしら」

 コートを手に取り、手早く小さな体を覆うと部屋を飛び出していった。

 困った主を持ったものだ、と、ジェシカはこの日何度目かになるため息を吐いていた。


      〇


 この日、ディクルベルクに入った帝都からの使者の話は諜報局にも届いていた。

「南東の反乱分子討伐のため、フローデン候は騎馬五千を率いて帝都に入られたし」

 皇帝エドワード一世からの勅令である。与えられた猶予は二ヶ月。その間に五千の兵員と装備、馬具、兵糧の準備を整え、中央荒野を渡り切らなければならない。そのためアントワーヌの兵舎はもちろん、ディクルベルク外、周辺にある城塞も慌ただしくなっていた。なにせ、ディクルベルクに常駐している兵は三千しかいない。さらに、その中から町の治安維持に必要な留守居役を差し引かなければならず、人数はまったく足りない。

 ユウのいる諜報局も慌ただしくなっている。

「来たか」と彼自身膝を叩いた。「皇帝という奴は……」

「やはり、天ノ岐殿の憶測が正しいのでしょうか」ジャフリーは執務机にいて、肘をついた両腕に頭を抱えさせている。「陛下は、帝国の諸貴族を抹殺しようとしておられる」

 東の国境の尽くを直属の軍で覆い、西の国境線には同盟国を配し、反帝国国家への亡命は極めて困難と見ていいだろう。その上で、皇帝は少しずつ各地の貴族を平らげて権力のすべてを自己へ集中させようとしている。

 皇帝は、中央集権体制を確立させようとしている。

 ユウは、そう踏んだ。半ば確信すらしている。

 現在、帝国は封建制といっていいだろう。各地に領地を差配する貴族があり、それぞれが独自の法令を持ち、兵を蓄え、有事とあれば皇帝の指示に従う。従わなかったとして、その貴族を裁くほどの法がない。もし、各貴族が兵を擁して反旗を翻せば皇帝は戦うだろうが、諸侯はそれに従う義務もない。ただ、国家の安定のために、諸侯は皇帝に協力をしている。これが帝国の現状だった。

 現帝エドワードはこの各地に配されている貴族の尽くを滅ぼし、法令を統一し、兵力を統一し、国家の力を自らの一令の下で動かせるようにしようとしている。

 ヘンドリッヒ帝は純粋にアンガスに対抗するために強兵を育成し、それを中央軍としたのかもしれない。しかし、エドワード帝はその力を国内貴族掃討戦に運用している。果たして、その意図がどれほどの下方へ伝達されているのか定かではないが。

「可能性としては、万に一つしかないかもしれない」

 ユウの深読みの結果であり、夢想であるかもしれない。しかし、気配だけは濃厚なほどにある。

「もし、皇帝が本気でそのつもりであれば」

 まず、東方貴族を抹消する。自らの息のかかった者たちを排除し、帝都と東方の安堵を確かめてから西方へ、おもむろに進軍を始める。西方を攻めるならまずはどこか。

「ディクルベルク、一点しかない」

 中央荒野の両端に位置し、要衝といえる帝都とディクルベルク。必ず両者を手に入れなければ、帝国東西統一などできはしない。

「必ず、ディクルベルクに来る」

 そのために、フローデン領内へ間者を放ち、不協和音を起こさせ、討伐の大義を得ようとしたのではなかろうか。フローデン領南部で発した反乱の火種も彼らが撒いたと考えれば辻褄は合う。

「このたびの遠征は実に不可解です」とジャフリーもいう。

 普通、帝国の性質として、極力中央荒野の行き来を避けている。東のことは東が、西のことは西が処理する、そうできる人材と能力が従前割り振られている。何事かある度にいちいち東西千キロの不毛地帯を走っていられない。

「それもこの寒気の中です」と、どこともなく、壁を見つめた。「じきに冬は本格的なものとなり、中央荒野は通行不能となるでしょう。そういう季節の間際に、帝都へ兵を寄越せなどと」

「それだけ兵を必要とする敵勢力なのかしれません」

「そうかもしれませんが。もし帝都に兵を送り、その多くを損耗されて、のち、来春になって帝都に攻められればディクルベルクはひとたまりもありますまい」

「ジャフリーさん、おれがいい出して難ですが、悲観のしすぎです」

「天ノ岐殿は常に最悪の想定をしておけともおっしゃられた。わたしはそれも正しいとも思う」

「おれは皇帝の真意を知りたい。帝国東方の情勢も知りたい。何事もおれたちの杞憂かもしれません。同じ思想を持ったもの同士で思案すれば考えは凝り固まるものです」

「ですが……」

「いいのです」

 ユウは広くはない執務室の右から左までを忙しなく歩き回っていたユウは突如として立ち止まり、ジャフリーの方を振り返った。

「おれはそのためにこのたびの遠征に付き従います」

「わたしの考えでは、兵は接収され、閣下も拘束されるでしょう」

「そうなればおれが閣下を解放し、兵を率いて中央荒野を駆け戻ります。春に備え、兵站を備蓄し、ときが来れば四方に書状を送って反攻の機会を伺いましょう。もし、帝都がここを襲うのなら、アンガスとウッドランドはこちらにつくはずで、明日は我が身の西方貴族もこちらにつくかもしれない」

「無理です」とジャフリーは卓を叩いた。「冬の中央荒野は天ノ岐殿が想像している以上に恐ろしいところです。そこを渡るなど、自ら命を捨てるのに等しい」

 皇帝はフローデン領の兵の退路を断っているのだ。

「果たして、陛下の根回しがどこまで周到にされているのか」

 すでに西方貴族の多くが皇帝側についているかもしれず、そうなればディクルベルクは春を待たずに陥落することもある。

 ユウはいまさらジャフリーに相談したことを悔いた。彼の器では疑心の彼岸に立って冷徹に現状を分析するに至らない。もっと慎重にことを運ぶべきであった。ユウの思案すら彼に引きずれてしまいそうになっている。

「ともかく、おれはまだ中道にいます」と自らにいい聞かせる。「曇りのない眼で、東方の情勢を確かめたい。西のことはジャフリー卿にお任せします」

「なぜです?」とジャフリーはユウをひたと見据えた。「なぜ天ノ岐殿はフローデン領のためにそうまでなさるのです? ここを出れば一人の剣士でしかありますまい。最悪、帝国を敵に回して戦おうとなさっている」

「おれにはおれの仁義があります」

 なぜか、と問われれば、知ってしまったからとしかいいようがないのかもしれない。ディクルベルクに生きる人々と、アントワーヌの一族と、彼らを慕う人々を、知ってしまったから。そのために心血を注いで戦おうとしているのかもしれない。

 リリアの名前も浮かんだ。おれは彼女のために戦おうとしているのか、とも頭によぎったが、肺腑の奥に呑み込んだ。人にいうほどのこともない。

「いまはただ、すべての私情を捨てて帝国の未来を計らなければなりません」

 ノックされた扉が、ジャフリーに促されて、ゆっくりと開いた。青白い顔のロックスがいる。

「地下通路の件、八割方は出来上がったぜ」

ロックスは北に親指をやった。

リリア曰く、アントワーヌ邸の軍事設備はすべて廃棄されている。かつては逃走用の抜け穴のようなものもあったかもしれないが、なくなっているだろう、とユウは踏んでいた。皇帝に戦意があるのなら、ここも当然戦場になり、万一破れればアントワーヌ一族を逃がさなければならない。

「しかし、ろくすっぽ測量もせず、入口と出口から穴を掘っている。間違いはないと思うが、出来上がってみないことにはきちんと繋がるかどうか」

 大々的に測量をしては大規模工事として、帝都側の付け入る隙を作ることになる。地下道のことは、ここにいる三人の外、作業に従事している数人しか知らないことだ。

「それは信じていますよ」とユウは久しぶりに笑った。「ロックスさんの土建技術を」

「そうまでいわれちゃ、失敗するわけにはいかねえが」照れながら頭を掻いたロックスが真顔に戻って、「しかし、本当かな? 帝都が貴族の殲滅を企ててるってのは。おれはイマイチ信じられねえけれど」

「今日」とジャフリーはいう。「帝国東方へ、フローデン領の兵を五千出すよう、帝都側から要請がありました」

「ウソだろ?」とロックスは呟く。その指令がどれほど異例のものか、彼自身心得ているらしい。不穏な町全体に広がっているかもしれない。それほどの異常が起きている。

「この季節だぜ? あと何日もなく吹雪くってのに、正気の沙汰じゃねえ」

「それでも行く。それが陛下の指示だから」

「大将もか?」

「あとは任します」

 ユウは身を翻すと、二人の視線を振り切って部屋を出た。暗い石壁の廊下が延々と続いている。等間隔に並ぶ支柱にうっすらと灯るロウソクと、立ち並ぶ扉の窓から洩れる四角い淡々とした明かりがあるっきりの廊下だ。スフィアの節約のため、暖気もない。瞬く間に全身を寒気が包み、吐く息を純白にする。

「ユウさん?」とあらぬ方から声をかけられた。

「リリア」

 廊下の闇の中に小さな影があった。扉から洩れる細い明かりの中でも笑んでいるのがわかる。

「なにしてるんだ、こんなところで?」

「別に、なにってわけでもないですけど」

 手を揉み合わせ、小さな体を縮め、精一杯の暖を取ろうとしている。

「最近、あまりお話もできていませんでしたね」

 あの、と、呟いた彼女の肩を取って、引き寄せた。胸に埋めるほど、強く抱きしめる。華奢な体は、それでも温かく、柔らかい。

「ユウさん?」と彼女は胸の中で小首を傾げていた。

「寒いだろうと思って」

 ユウは頬を伝う雫を手の甲で拭い取って、リリアに笑いかけた。

「温かいです」

 リリアは小さな頭をユウの胸に預け、その額を擦りつけた。

「行ってしまわれるのですか?」

「うん」と頷いたユウはリリアの満足げな顔を伺い、「でも、きっと帰ってくるから」

 ぱちぱち、と大きな瞳をまばたかせ、再びの満面の笑顔を浮かべて、

「お待ちしております」

「うん」

 ユウはただ彼女を抱きしめる腕に力を込めた。

 二人の熱が、極北の夜を温めている。


      〇


 ユウは馬腹を蹴った。

 五千の人を周辺の砦から呼び寄せ、数に見合った馬を揃え、馬車には兵站を積み込んで一路、東へ。駆け足を続ける隊列は整然としていて、兵の練度の高さを窺わせる。

「ついに帝都か」

 東西南北、網の目のように交錯した、長い長い氷河地形の丘陵を渡る行軍であった。草もなく、林もない。夏に繁っていた緑は枯れ木だけが残り、大地を潤していた水は地中と空に吸われて消えていたらしい。礫が転がり、薄い砂の膜が蠢く、淡々とした乳白色の丘陵がどこまでも、どこまでも続く、荒れ果てた大地。冬の中央荒野というのは九割九分までこういう地形といっていい。

 この世界で旅団規模に分類される隊列は丘陵の尾根を通り、谷間を通り、ひたすらに東へ走っている。

 風が強い。

 冷えやすく温まりやすい内陸の、日陰と日向の温度差が大きいために均そうとする暴風が常に吹く。稜線を行く兵の姿を隠すものは一切なく、ただ風に煽られる。

 一時間も騎馬で歩けば足に血が溜まるそうだ。放っておけば腐るという。そうならないように、時折下馬して、クツワを取りながらかたい土の上を、淡々と歩く。

 風の音と、はためく外套の音だけがある。

「これが帝国の大地か」

 太陽の高度は日に日に下がり、日中でも空が黄味がかるようになっていた。気温が上がらない。太陽は高度が高いほど日差しが強く、地表が受ける熱は強い。ここの昼間の太陽は地平線を離れず、丘陵の向こうを転がって、幾ばくもなく沈んでゆく。

 引き替え、夜は長い。長い長い、極夜に近い夜だ。

 風は静まり、大地からは熱が消え、音が消え、空には星と、ヘリオスオーブの輝きが鮮烈なほどに閃いている。

 思いの外、明るい。白銀の布を帯びたような、草木のない丘陵地形がうねるように続くその景観が美しく、漏れた感嘆も銀色に瞬いて、空に消えた。ユウは外の空気を浅く吸い込み、毛皮のマフラーで口元までを覆った。あまり外気を吸っていると肺が凍る。肌を露出していれば凍傷になる。布越しに呼吸をする。

「はあ、はあ……」

 自分の呼吸の音だけが聞こえる。

 なんと孤独な世界か。

 俯いた視界に枯れた大地だけがある。白銀色の、凍結した大地だけがある。

 涙は流れず、目元で凍り、その氷も剥がして捨てる。顔を上げれば、前後には五千の人がいて、孤独ではないことを思い出させてくれる。しかし、また、自分は世界の歯車の一部ではないかとも考えさせられる。長い沈黙と、広大な自然は人を哲学者にさせるらしい。不毛にも思えたが、誰かと会話するのに使うエネルギーの方が不毛に思え、また沈黙して歩き出す。

 ディクルベルクで調達した毛皮が温かい。命の温度を感じる。自らの内から湧き上がる熱と、生物の皮から切り出した膜が守ってくれる熱、そして、その熱を一瞬のうちに奪おうとする零下の熱量。

 一切の忖度がない。

 自然の猛威は容赦がない。容赦なく命を奪う。もういい、と思った瞬間、世界は瞬く間に命を奪う。そういう世界がユウの周囲を包んで圧迫する。圧迫している。しかし、彼を守る熱がある。この熱はなにか、と考えれば、己の熱以上に、奪った命の鎧が保つ熱である。

 なにか、詮無いことをさせられている。

 考えて、考えながら歩き、隊列が止まったときに、ユウは傍らに洞穴を見つけた。レオーラ人が中央荒野を渡る際に用いる宿泊施設なのだという。帝国人か、アンガス人か、はたまたまったく別の流浪の民か、定かではないが、丘陵に点々と洞穴を掘り、そこで暖を取ることができるという。

中はドーム状になっていて意外に広く、中央部なら立って問題ないし、円周は十数人が横になって眠れるほどである。この一室に、スフィアの熱をこもらせて、一晩明かす。

 全員は入れない。今日は誰々、明日は誰々、と人を決め、順に地下室を利用する。残りは幕舎と寝台を用いての野宿である。その掟はフローデン侯爵といえど変わらない。

 この晩はユウもドームの中に入って暖を取っていた。ヘリオスフィアの照明は明るく、鍋に水を溜めることもでき、溜まった水の中にスフィアを放り込めば発熱して熱湯になり、具材を入れればスープになる。

 獣の肉とわずかばかりの香菜で作ったスープの美味さは筆舌に尽くしがたい。冷えた身が震え、目元からは雫がこぼれ、唇からは絶叫が迸りそうなほど、旨味と熱がユウの中に染み渡ってゆく。

 これが生きるということか。

 ユウも己に死線をさまようような試練を課してきたつもりであったが、どれも自分の限度に合わせ、手を抜いていたのかもしれない。やはり自然を越えるほどの師はないのではないか、と思う。天であり、地であり、風であり、日であり、または植物であり、動物であり、他人であっても、子供であっても、師に足るのかもしれない。すべてを師にして自らを磨けと故人はいっていた。

「やはり、おれもまだまだ未熟か」

 などといっていたが、腹も膨れてどうでもよくなり、惰性のままにこの日は眠った。

 翌日は、日が昇る前から歩き出す。

 暁の光芒が藍色の空に幾条か走る。現れた吹き抜けるほどの晴天に、砂塵を連れた風が吹く。

 耐える。

 師が課す理不尽に耐える他ない。

 哲学しかけた頭で手綱を繰った。愛馬セキトが小さくいななき、白い吐息が空に流れていった。

「おまえの方が辛いか」

 ユウは笑って、愛馬の首元を撫でた。

 共に耐えよう。耐えてみせよう。生き抜いてみせよう。

 いまは耐え続ける以外に、この大地で生きる術がない。


      〇


 帝都アンタレス。

 地球の、さそり座の目から名を取っているらしいその町はその名に相応しく、赤い煉瓦に彩られ、旭日以上に輝いていた。

「あれが、帝都……」

 遠目に見れば、光の塔、であった。天高く突き出して、夜の空を染めている。

 近づくにつれて、その大きさもわかってくる。

 太い空堀が町をぐるりと囲っている。季節河川かもしれない。空堀にかかる橋を渡ると、風避けと防備のための城壁である。左右を見遣っても途切れている様子がない。高さは十メートルを超え、観音開き式の大門から他に、侵入するのは困難だろう。

見上げきれない赤煉瓦の城壁を壮観の面持ちで潜り抜けたユウは、次の衝撃に全身を総毛立てた。

 光の洪水である。

 左右の通りはもちろん、上方からも光の帯がしなだれかかってくる。煉瓦と木材を組み合わせた長屋風の建物の上にまた建物を築くのが帝都の民家であるらしい。集合住宅の体だ。長屋の塔は背中合わせにして一つ、二つと増築を繰り返したようで、歪な幾何学によって形を保たれたまま、夜半であるにも関わらず、馬の蹄が叩く煉瓦の目地も辿れるほどの光を放っていた。

 しかし、ユウを最も驚かせたのは、その熱気であった。

 通り抜ける人の数は雑踏、というほどで、途切れることなく、かしましいままに左右にも奥にも流れてゆき、歓談をして、歓声を上げ、手を取り合う者もいれば、肩を組み合う者もいる。彼らの熱が、そのまま、壁一枚外に出れば凄まじい寒気が渦巻く荒野のど真ん中にある町を温め、また輝かせているのではないかと思わせるほどに明るく、情熱に満ち溢れている。

「これが帝都」

 誰もがアントワーヌの隊列に手を振っていた。

 アントワーヌの隊列は浮かれることもなく、乱れることはない。四列縦隊になって視線をまっすぐに向けたまま、ひとつの笑みもなく目貫通りを行く。どこまでも続いて一点に収束していくような街道、垂直に交わる交差点、通りには一つのゴミも落ちていない。町を設計・管理している人間の神経が窺える。

 帝都を東西に貫く目貫通りである中央街道沿いにあるアントワーヌ別邸に馬を入れ、フローデン候と百人弱の兵を残して、ほとんどは帝都の兵営へ向かうという。ユウはフローデン候に頼んで、自らと数人の人数を名指しして別邸に寄宿させる許可を得た。

 その夜、ユウは自室に諜報部所属のアインスを呼んでいる。

「帝都というのは、こういうものですか」

 窓から窺える白んだ夜空を眺めながらユウは呟いていた。

さすがに諸侯の邸宅の並ぶこの辺りに人いきれはない。とはいえ、彼の中にはまだ帝都の熱気が熾火のようにくすぶっている。

「エドワード帝ご即位以来、帝都の繁栄は他に類を見ず、ジョゼの世の再来とすらいわれております」

「帝都はすごい」と口をついて出た言葉を頭を振って払い飛ばし、「おれがすごいといったのは、町を包む技術と光のことではありません。路上が汚れていないこと、整然と分け隔てられた道路のことです。規律と風紀が徹底されている。スフィアの技術的にはすぐにでも追いつける。大したことではありません。しかし、こういう町を維持する人材と人民を育てるには数年の時間を要する。苛烈なほどの意志もいる。組織の差、というのはそういうところに現れるものです」

 エドワード帝という男は、と呟くユウの背筋を冷たい汗が流れてゆく。

「恐ろしい男だ」

 自由があり、活気があり、立法がある。

 近代国家というだけでなく、生きた都市だった。生命力に溢れている。どこまで行っても人間の活力で輝いてみえるのだ。この町の光はスフィアのものではない。人の、生命の輝きだ。命を燃やして輝いている。煌々と輝いている。

「こういう男だからか」

 ユウはかたくまぶたを閉じた。


      〇


 ユウは自室にいて、一脚の椅子に腰掛けている。背もたれに背中も預けず、じっと卓の木目を睨んでいた。

 身体の内奥で激しい感情の渦が巻いていた。

 ヴォルグリッドはこの町の中、それもエドワード帝の客将である以上、皇城にいる。居所までわかっているのだ。しかし、ユウの中の仁義の心がここを動くことを許さない。

 フローデン候、リリアの父は登城していて屋敷にはいない。一行の受け入れもつつがなく進み、特別な仕事も終え、主もない邸内は平時以上にしんと静まり返っている。町の喧騒も遠い。

 こ、こ、こ、と扉を叩かれ、ユウは席を立った。

「お客さまがいらっしゃっております」

 女中が礼儀正しくいう。

「フローデン候は城の方に上がっていらっしゃるから」

「それが、天ノ岐さまに、だそうです」

「おれに?」ユウは眉をひそめる。「訪ねてくるような人間がいたかしら?」

 強いていうなら、ヴォルグリッドが顔見知りであるが、礼に則って訪ねてくる相手とも思えない。

「こういってよろしいのか」と女中は笑っている。ユウが主人の客分である以上に、その外聞を気にしない身なりと身振りの粗雑さが一般市民的で親しみを持たせるらしい、女中は言葉使いも砕けていて、ずいぶんとフレンドリーな雰囲気でいう。「やけに貧相な身なりでしてねえ、あんまり品のいい方とはいえないふうでしたわね。笑い方とか。坊主頭の、商人風の方でしたわ」

「坊主頭の商人風?」ああ、とユウは嘆息した。「心当たりがあります。しかし、知り合いってほどじゃあないなあ」

「そうですわよね。もし、お知り合いでしたら、お付き合いを考えた方がよろしいですわ」

 ユウは女中に付き添われて玄関へ回る。

「ほほ、またお会いしましたな、旦那」

 リリアに晶銃などというガラクタを売り捌いたあの男だ。また下品な笑みでいっている。

「別に再会を嬉しく思うことはないが」ユウは女中の方を振り返り、「少し出かけてきます。一、二アウル程度で帰ってきますので」

「はい、お気をつけて」

 品よく頭を下げる彼女に見送られて、二人はアントワーヌ別邸を離れた。

 町の長屋塔の一階は飲み屋や商店になっており、一際眩しく人の出入りも激しく、酔い潰れたまま倒れている人の数も多い。それを放っておくと厳冬の風に当てられて命を落とすため、引っ立ててゆく官員がちゃんといる。他に、見回りをしている官員の数も一入で町の風紀の厳しさは並みではないらしい。

「巷の噂では、フローデン候の行進は威風のあるものだったとか、評判でございます。それに引き換え、マイソン卿の軍はイマイチ精悍さに欠けていたとか。町民は噂話が好きなものでございますの」

 最寄の酒場に入ると実に賑やかだった。注文が飛び交い、女中が踊るように卓の間を縫ってゆく。その優雅な身の振り方に、指笛と歓声が鳴って耳が痛い。客層は実に男臭い。

 この世界にも酵母がいて、アルコールが発展している。アルコール、というのは穀物や果物に含まれた糖が菌によって分解され作られるものだが、帝国内の主な糖類は麦、つまり、麦からのアルコール生産が盛んにされている。ビール状のものがあり、ウイスキー状のものもあり、ジンやウォッカのような蒸留酒も幾本とあり、カウンターの向こうの棚に並べられて、その瓶がスフィアから漏れる暖色の光をきらきらと跳ね返して眩しい。

 ここのソフトドリンクは酒と水とミルクの三種しかない。帝国内ではどこでもそうだが、茶葉も果実も手に入らない。液体が酒と水とミルクしかないといっていい。そのために、北方で酒が発展したのかもしれない。それは地球でも変わらない。

酒、というのは、穀物を、いや、穀物だけでなく、糖を含むあらゆる食材に酵母を混ぜて発酵させれば容易に作れ、一口呑めば身体も温まり、空腹も薄らぎ、力も気力も湧いてくる。そのために、地球では各地で、命の水、と呼ばれ、特に痩せた土地で重宝された。かつて、産業革命時代のイギリスでは主食の代わりに子供までジンを飲んだ、といわれている。

ユウは、未成年の自覚があって、一人ミルクを飲みながら、この喧騒を傍観していた。なんの家畜のミルクかわからないが、仕方がない。並々注がれた白い水面が、女中の足踏みとそれに対する惜しみない男たちの喝采に合わせて揺れている。波立ち、グラスの縁を襲い、しかし、不思議とこぼれない。向かいのオヤジは片手のショットグラスに清酒を手酌し、嬉しそうにちびちびとすすっていた。

「南の果実酒も美味ですが、北の清酒もまた美味ですな。味わいが鋭く、飲み飽きませぬ」

「あのな」とユウは叫ぶようにしていう。こうでもしないと声が通らなかった。「下らない世間話をしに来たんだったら、おれは帰るぞ」

「せっかちですな、旦那は」

 オヤジは杯を干した。

「なにか入用かと思いましてな」

 卓の下から袋を取り出し、中のものを卓上にぶちまけた。じゃらじゃらときれいな石が転がる。

「いかがです? オルタル産のヘリオスフィアでございますよ。市場に並べば飛ぶように売れる品でございます。宝石としても重宝されておりますので、リリアさまにおひとつ、いかがでございますか?」

「は、は、は」とユウは笑った。

「帰る」

 すでに席を立っている。

「お待ちを。お待ちを、旦那」

「おまえのいっていたことなら、なんとなくはわかったさ。帝都の奇人変人がいうらしいってことの中身はな」

「では、いま、つけられていらっしゃることはお気づきで?」

 ぎょっとしたユウは左右を振り返ろうとして、自重し、再び椅子を引いた。

「この商談はお断りなされ」とオヤジは卓の上の石を指先で転がしながらいう。「帝都の暗部にお気づきになられましたか?」

 ユウは左右を気にしながらも、平常を装って言葉を継いだ。明治四年のこと、と大仰にいう。

「おれのいた国で廃藩置県というのがあった。帝国で、あれと同じことが起ころうとしている。あのときは無血だったが、今回はどうか……」

「おっしゃりたいことは、なんとなくわかります」に、とオヤジは笑う。「やはり噂は事実のようでございますな。帝都は西への侵出を計画しております。東部は中央軍が国境付近に展開されていて、亡命は至難でございます。結果、彼らは中南部に寄り集まるしかなかった。一部、西部に逃げたようですがの。ともかく、今回の遠征で東部のことは決着がつきましょう。そののちは西の玄関口であるディクルベルクを制圧し、西の貴族も粉砕する」

「それほどに喋ってもいいものなのか?」

「尾行者はあっしの背の向こうです。大方、旦那の顔色、口の動きでも観察しておられるのでしょう。あっしなど、蚊帳の外でございます」

 ふん、と鼻を鳴らしたユウに構わず、オヤジは続ける。

「おそらくはこの遠征ののち、帝都内のアントワーヌ兵を拘束するでしょう。アントワーヌは本国との連絡を中央荒野の寒気で断たれているためにできず、帝都は西の港湾都市、ヴェンセントに控えている帝国中央軍第十六旅団を動員させる。西のアントワーヌに、この時期に兵を出せ、などどいうのは不自然極まりましょう。普通、北国は冬季の出兵を控えるものです」

「おまえ、何者だ?」

 ユウは腰元の白剣に手をやっている。

「愚生、タモンと申しまして、本業は商人ではなく、しがない盗人稼業にございます」

 盗賊、といわれてユウは少なからず納得した。情報に精通する能力。空き巣などは情報を集めることが仕事の九割九分で、忍び込んだのちのことは準備の精度如何によるともいう。

「道理で、胡散臭いと思ったよ」

「胡散臭いだなんて、とんでもない。盗人というのは和やかに標的に近づいて相手が心を許した瞬間に事を成す。怪しまれないのが仕事の第一にございます。あっしを胡散臭いと思われたのなら、天ノ岐さまは大陸一の慧眼の持ち主ですの」

「そういう言い回しが胡散臭いっていうんだよ」唾を吐きかけそうな勢いでいう。「おれにも近づいて、心を許した隙にズブリ、とやるつもりなんだろ。おれはおまえのことなんて信用しやしないよ」

「標的に手の内をさらすような間抜けは致しませんよ」

 タモンと名乗ったオヤジは膨れた腹を叩き、

「旦那の命運に興味を持ちまして、その行く末を共にしてとくとこの目に収めたいと、儚い夢想を抱いているだけにございます」

「胡散臭せえ、胡散臭せえなあ」ユウは舌を打つようにしていう。「おまえがおれに売り込みたいのはわかるよ」

「ほほ、わかってくださいましたか」

「なんせ、おれにはフローデン候のご威光があるからなあ」

「ほほう」とタモンは話がやや逸れたことに、深い意図を感じたのか、ユウの表情を窺うように常でも細い目をさらに細めた。

「このヘリオスフィア、買ってもいい」

「ほう」と細い目を見開いた。「よろしいので?」

「もっと準備できるか?」

「もっとですか?」

「最近は非常に寒くてな。アントワーヌ邸の風呂を借りているんだけれど、あれって、やっぱり温めるのに経費がかかるじゃないか。使わせてもらいっぱなしは悪いから、おれでも調達したいな、と」

「ほほう、律儀者でございますなあ」

「それと、最近、音楽を聴こうと思って。話に聞いたところによると、音楽を録音して再生するスフィアもあるとか。いくつか用意できるか?」

「旦那も一端の貴族に仲間入りですな」

「おれなんかを一緒にしちゃあいけないよ」

「左様で?」

「金はない。だから、代金は払えない。強いていうなら出世払いだ」

 タモンは目をしばたたき、大口を開けて笑い出した。

「むしろ貴族的でございます」と目尻を拭い、「かしこまりました。ご注文のヘリオスフィア、ご用意いたしましょう」


      〇


「ところで旦那は、このたびの南方遠征にもご同行なさるおつもりでございますか?」

 酒場を出て、別れ際にタモンが尋ねてきた。南方遠征とは、帝国東方に拠点を据える元貴族連盟殲滅戦のことだ。帝都とそこに集結した兵を動員した大規模な作戦になる。フローデン候が帝国西方から呼ばれたのも、その作戦に参加するためだ。が、ユウは首を振った。

「いや、おれはアントワーヌの留守を守るつもりだから帝都にいると思う」

「よろしくありませんなあ。見聞は広めるものでございます」

「しかし、おれは殺生をしたことがないからなあ。戦場に立ったとこで役に立たないよ」

「しかし、学にはなりましょう。帝都の戦い方は王国のように生ぬるくはないといいます。後学のために拝見しておくのも手でございましょう」

「ははあ、それも一興か」

 そういう考え方もあるかもしれない。敵を知り、味方を知れば百戦しても危うくないと孫氏がいう。敵を知るのは戦の常道である。

「確かに、世界は広く見た方がいいかもしれない」

 ということで、ユウはいま、南へ向かう帝国軍の列の中にいる。

 東部の大地は西部にも増して過酷だった。度重なる丘陵に支配された地平線の向こうまでが白っぽい粘土質の大地だ。季節は短草や苔から色素を抜いて、風は水分を抜き、さらに吹き付けて朽ちさせようとしている。かたくひび割れた地面の上では砂の粒が流されて、不動の礫の周りに波紋を描いていた。ほぼほぼ、中央荒野と代わり映えしない。

 丘に登ったユウの頭上、空だけが吹き抜けたように青く、高空がごうごうと唸りを上げていた。

 ヘリオスオーブの筋がきらきらと見える。

「これが帝国の軍容、というものですか」

 振り返ると、丘陵と丘陵の間に幕舎の群れがある。中央に三本の柱を立て、屋根に丸い布をかけ、その外輪に柱を打って、帆布で周囲を巻くようにして覆い、瞬く間に円柱状の住居にしてしまった。それが無数にある。

「どれくらいの数がいるのです?」

「二万に届かないくらいでしょうか」

 アインスも空を眺めながらいう。

「アントワーヌ五千、マイソン卿が四千、中央軍が一万と少し、といった具合です。それと我々は先行部隊で、後方には皇帝率いる精鋭の紫鉄騎士団が五千、アムニー卿が五千、クロ―ジャン卿が三千で、総勢三万三千余りですね」

「ずいぶんと大勢ですね」

 要するに、帝国軍の規模は一望にできない。ユウの足下だけでは数千としかおらず、あちらの丘陵、また向こうの丘陵にも野営地があり、総計して二万になる。しかも、それが主力ではないという。

「敵の数も二万といわれています。それくらいの数は必要だったのでしょう」

「二万?」とユウは耳を疑った。「元貴族の連合体とそれに付随する家臣団を討伐するだけだと聞きましたけれど、そんな数がいるんですか?」

「この地域には親アンガス派の住民も多いですからね。それにアンガス本国やウッドランドからの支援もありますし」

 帝国東方はほんのニ、三十年前までアンガス領だった。まだアンガスに心を寄せている人間が多くいて不思議ではない。それが帝国爵位をはく奪された元貴族や家臣団と合流したのが今回の敵であり、反皇帝勢、没落貴族連合などと呼ばれている。

一方で、皇帝は反帝国である二国の干渉を断ち切るために国境を封鎖、各地の領主たちと中央軍を動かし、時には合流させて、帝国東部で一個の渦を作るようにして転戦し、その渦の中心点にある旧サンクロ砦群落に二万の反皇帝勢を追い込んだという。

「外敵を防ぐための国境封鎖」

 というのが、一般の有識者の解釈らしい。彼ら反皇帝勢の補給を阻止し、一点に集めて一撃で粉砕する。それが陛下の望みであり、反乱勢力を抱えた国家としては当然の行いである、という。

 ちなみに、民衆においては国境封鎖されていること自体、知らない者が多い。帝都を沸騰させている民衆の情熱は国政に向けられているものではない、ということだ。彼らの情熱はもっぱら自らの利益と国家の成長にのみあり、帝国はいずれ世界の覇権を握ると考えている民衆も多い、という。それをするのは即位五年しか経過していないエドワード帝であるのは誰の目にも間違いなく、帝都民の彼への信頼はユウが思っている以上に大きいかもしれなかった。

 これだけの状況を検討しても皇帝の真意は読み取れない。

 確かに、国家を揺さぶる反乱軍は撲滅していい。民が激しく支持する皇帝も善良かもしれない。中央軍は国境封鎖に使われていて、動員数は元貴族連合を下回る。確かに、西方貴族を呼んでもいい敵の規模かもしれない。

国境を封鎖して貴族の亡命を阻止した上で、各地の諸侯を討伐して中央集権体制を作ろうとしている、など、ひねくれ者の考え方だろうか。しかし、故人曰く、常に最悪の想定をして行動しろという。ユウはその理論に従ったに過ぎないし、彼はまだ皇帝を疑っている。

「ということは、皇帝陛下はずいぶんと長いこと戦っていることになりますね。兵に各地を転戦させていたというのなら。その経費の準備も含めて、この掃討戦は何年も前から準備されていたことになります」

 人の食物と装備は最低限として、さらに馬の食料、陣地構築資材など、戦場が移り変わるたびに運ばなければならないものがとてつもなく多い。

 もしかしたら、とアインスはいう。

「前帝の蓄えも使っているのかもしれません。ヘンドリッヒ帝も打倒アンガスのために蓄えをしていたはずですから」

「宿敵の排除より、国内の平定か」

 その平定の中に、諸貴族の討伐も含まれているのだろうか?

「砦群落周辺にはすでに塞が出来上がっているといいます。春からコツコツと物資を運び、近隣からも集め、建築していたようですよ」

「長期戦をするつもりですかねえ」

 これから戦場は本格的な冬に突入して敵味方まともな軍事行動は取れないだろう。その上、用兵上、守勢を攻めるには三倍の戦力が必要になるという。敵方は二万、こちらは三万と少し、しかも内一万は遥か後方。

「皇帝陛下が春より先に来るかどうか、疑問ですね」おれたちはただの駐留兵ではないか、という気もする。しかし、後方軍が来さえすれば……。「その陣中には噂の黒騎士ヴォルグリッドも含まれているのでしょうね」

「それはわかりません」とアインスは笑う。「かなり気まぐれな方だという話です。戦場に立つ日もあるし、立たない日もあるし、時折帝都を離れては戻ってくるのを繰り返しているともいいます。戦場に立てば一騎当千、無双の働きをし、いまだに負けなし。黒騎士の前に『不敗』をつけて敬う者までいるそうです」

「皇帝陛下はいったいどこで彼と知り合ったので? 急に帝都を訊ねて客将ということですか?」

「これも噂ですけれど、昔陛下が遠征していたときに地元の衆を募らねばならず、その時に居合わせたとか」

「その男、もしや異邦者ではないでしょうね? 異界の未知の技術で圧倒的な力を得ているわけでは?」

「スフィアを扱えるそうです。たぶん、異邦者じゃありませんよ」

「そんな些細な噂まで流れてきますか」

「時代の寵児の一人、といえますからね。帝都民の間では注目の的で、噂は多いですよ」

 アインスはユウの顔を覗き込むようにする。

「天ノ岐殿もヴォルグリッド殿に興味がおありで?」

「ないといえば嘘になりますね」

「そうですよね」とアインスはまた笑う。「剣豪は剣豪を求めるといいますから」

「そういうことかもしれません」

 確かに、ユウは剣豪としてヴォルグリッドを求め、剣豪として斬りたいと思っているのかもしれない。しかし、いまはそのときではない。

 耐えなければ。

「行きましょう」

 北の、帝都方向の空を一瞥し、ユウは丘陵を駆け下りていった。


      〇


 向こうの丘陵の上に、白っぽい外壁の住居群、いわゆる山城状の施設がある。隣の丘陵と、奥の丘陵の上にも同型の施設が見えた。西洋でいうところの、モッド・アンド・ベイリーに近い、古い型の砦のようだ。地図上ではその三つの山城が東西南と配置されて三角形を作り、その一辺を北に向けながら、各拠点同士で連携が取れるようになっているようだ。だが、一個一個は独立していて、あくまで三つの砦がある、ということになる。サンクロ砦『群落』と呼ばれる所以だ。

 東方向を眺めれば青く霞む山岳があり、ふもとにある針葉樹林の群れが意外に近くまで迫り出して、梢の葉まで見えるようになっている。

「あの山脈がラピオラナ山脈ですか? 帝国とアンガスの国境線の」

「そうですが、まだ数百キオは東に行かなければなりませんよ」

「美しいものですねえ」

 青霞の稜線は幾峰も重なって、それぞれの頂には白い化粧が施され、長々と南北に広がって果ても見えなかった。死の大地にも余すことなく美しい造形を刻んで、自然は本当に倦むことがない。

「なんと、雄大な大地でしょう」

 今日はアインスの他、ツィバイとドライという諜報局の二人もユウに従って行動していた。この三人は顔も体格もどういうわけか似通っていて、アングロサクソンやゲルマン系に慣れないユウにはイマイチ見分けがつかなかった。そもそも他の諜報員も間違えて声をかけること多々あるという。兄弟でもないというから、世の中にいる何人かのそっくりさんが相まみえたということだろう。三人揃って馬の扱いが達者である。

「斥候の情報によると、敵は二万弱の兵を三つの砦に分散させているようです」

「その一角に、皇帝陛下を待たずに攻撃するんですね」

 ユウは単眼鏡を使って、敵北西砦の方を見遣っている。この単眼鏡、漆を塗って金糸を垂らした見るからに高価そうな品で、フローデン候からの借り物である。その本来の持ち主は、というと、帝国軍右翼、要するに西方端で五千人の人員を指揮している。

「帝国軍の総指揮は誰が執るのです?」とユウは訊く。

 彼は戦場からはるか後方、丘陵地を行ったり来たりしながら前線の様子を窺っていた。前線では地平線とほとんど一体化した人の影がうごうごとしている。遠目に見た限り、帝国軍は西端の砦を囲い込もうとしているらしい。そのふもとに密集しつつある。

「総指揮は皇帝陛下です」

「しかし、まだここにいない」

「今回の戦いは混成部隊ということになるので、各軍独自の判断で動くことになります。当然、適宜会議を開いたり、連絡を取り合ったりはしますけれど」

「作戦の遂行能力は落ちますね」

「陛下が来るまでは威力偵察程度の交戦を予定しているそうです」

「果たして思惑通りにいくものかどうか」とユウはいい、「もう少し近づきましょう。この距離ではなにをしているのかもわからない」

 砦側は碗をひっくり返したような形の丘陵をそのまま石垣として、下に空堀を築き、中腹には柵と乱杭を巡らせて敵の接近を容易なからしめている。また、この空堀は、北西砦丘陵の外殻を囲って、南と北東の砦を繋ぐ丘陵地まで数キオメータも伸び、この丘陵を北東砦の北面で切り通し、南下して三砦を囲み上げている。その三角形の内側にも点々と乱杭が打たれており、外からの侵入を防ぐとともに砦同士の人の移動を助けている。

「なかなか鉄壁の守りをしていますね」

 ユウはまだ遠目に戦場を見つめている。ようやく単眼鏡で敵味方の弓の軌道を窺える距離まで寄った。土埃まで臭ってくる。

 数台の攻城櫓が空堀まで接近し、その高さが十メートル弱だろうか、空堀の奥、木柵の前後にいる敵の頭上に弓を射かけている。

 西側はすでに帝国兵がいっぱいである。

「これでも包囲できていないものですか?」

「まだまだかかるでしょう。東と南から敵の増援もあります」

 アインスがいう通り、東面と南面も騒がしくなってきた。

「東と南砦からの援軍が来ています。堀の向こうの空き地を渡ってきたのでしょう」

 掲げられている旗に染め抜かれた家紋を見てわかるようだ。例えば、帝国中央軍は赤地に白い剣盾、アントワーヌは青地に白狼。正確には、狼ではなく、ハーンロウという大型の肉食動物なのだが、話が細かくなるので、以後も狼と書くかもしれない。

 戦いは激しさを増してゆく。特に東部では暮れ始めた日の色に血潮が混じり、凄愴なまでの有り様である。もはや威力偵察の枠を超えているだろう。

「やはり苦しい戦いになっていますね」とツィバイが渋い顔でいい、他の似た顔の二人も同じ顔で頷いている。

「天ノ岐殿、なにか良策は思いつきませんか?」

「あれは」とユウは腕を組んでいう。「いい丘陵ですねえ。きれいなお椀型の。おそらく氷河地形とは思いますが。ドラムリンというやつかしら」

「天ノ岐殿?」

「はい?」とユウが振り向けば、三人は半ば呆れ、半ば心配そうな顔をしている。

「なにか良い方法はないものですか? あの鉄壁の要塞を落とす方法は」

「なにか?」

「威力偵察にしておけばいいじゃないですか。策を弄するほど深入りするものではありませんよ」

「ですが、良い案があって、砦を落とせるなら、それに越したこともありますまい。敵がああも前のめりだと、偵察のたびにこちらの被害は甚大になりますよ」

 なるほど、東方の戦いは日没になってもなお剣戟の音が盛んである。

 ユウにしてみれば帝国軍が疲弊したところでなにほどのこともない。むしろ、寝返って砦側につき、帝国軍を一網打尽にしてしまった方が後世のために思えるが、しかし……。

 ふむ、とユウは頷いた。

「皇帝陛下はじきに来るのですか?」

「すでに帝都を発ったという知らせは届いております」とドライがいい、ツィバイが継いだ。「あと一週間ばかりはかかるのではないかといわれています」

 一週間か、とユウは舌鼓を打ち、

「一週間もあるなら一つ閣下に献策してみましょうか。採用されるかどうかは別として」


      〇


 その日の夜、帝国先発軍は砦の最寄に野営地を設け、翌日も早暁から攻勢を仕掛けていたが決定的な損害を与えるには至らなかった。この日が暮れ始め、宿営地をはるか後方、皇帝が春から建築していたという前線基地まで移し、帝国本軍の来着を待つ姿勢を取った。

 この基地はまったくの平地だが、周囲に空堀を打ち、柵を張り巡らせて、簡単な家屋もあり、兵糧も装備も豊富にある。

 翌日以降、帝国軍は北西側砦へ、小雨のような攻撃を間断的に仕掛けるだけで無理強いをせず、むしろ、後方の施設の充実に専念を始めた。建屋の数を増やし、兵の疲弊を抑え、周囲の村落からの物資輸送を活発にしている。二日目の夜には酒の臭いを漂わせ、三日目には吹奏まで響かせていた。

 砦側では、

「これを機に夜襲をかけるべきである」

 という論調が強くなり始めた。

「帝国本軍が来る前に先発軍に一撃を喰らわせ、その士気を挫くべきである」

 一方で、これはあからさまな挑発であるという者もいた。

「挑発しているということは、夜襲に対する備えは充分に整えているはずであるし、そのために砦側の防御を薄くするわけにもいかない」

 彼らは無闇に籠城しているわけではなかった。帝国各地にある反乱勢力、またはその萌芽に書状を出して、蜂起を促している。この一戦における勝利が帝国中に伝播されれば国内の同志たちは立ち上がり、大陸南部の反帝国同盟も北上してくるかもしれず、東のアンガス公国も領土復興の野心を持って山脈を越えてくるかもしれない。

 砦の中では喧々諤々の討議が行われている。この会議が長引いたのは、彼らが複数の領地から募った者たちであること、仰ぐ領主が異なること、要するに烏合の衆であるということが大きいだろう。

「我々は堪えるためにのみ全力を尽くすべきである」

「ここで敵に一撃を与えることでも同志の決起は促せるはずだ」

「当初の予定と異なることをすれば隙が生じるのは必定である」

「日夜変化する戦場において、当初の予定の遂行にどれほどの意味があるのか」

 昼夜を分かたない議論の結果、夜襲案が決した。

 夜襲には北西砦の中から希望者を募り、猛将と名高いカバッチオ元伯爵が指揮を執る。さらに帝国軍側が反撃してくるのを見越して、南と東の砦から北西砦へ人を入れて防備の再編を行っている。

 開戦から五日目の夜、星の明かりが異常なまでに冴えたこの日に、砦側五百人は隊伍を組んで外へ出た。

 冷たい風にそよぐ枯草の中を、足音を忍ばせて進んでゆく。鎧具足は外し、防寒具のみで接近し、帝国軍前線基地の南やや東寄りの丘陵に身を隠した。地平には橙色の明かりがいまだに煌々と灯っている。それだけではない。炊飯の煙もあり、人の生活音も絶え間なく聞こえ、双眼鏡で覗いた先には装備を脱いだ帝国兵らしき人の姿がいくつもあった。

 カバッチオは間髪を入れずに突撃を決し、自ら先陣を切ることで全隊への合図とした。

「かかれっ! 一息に押し潰せっ!」

 敵宿営地を目前にして一喝を入れたカバッチオ元伯爵の槍はさすがであった。逃げようとする帝国兵の一人、二人を突き刺し、討ち倒して瞬く間に塞の内から敵兵を一掃してしまった。敵兵の九割九分までが伯爵率いる奇襲部隊の威圧に慄いて逃げ出したふうで、ひとつの剣戟が上がることもなかったのだ。

 この臆病と思われるまでの帝国兵の撤退を目にした反乱軍の一団、二百名ばかりは突出して敵の追撃を行っている。が、カバッチオはその前線には立たずに兵をまとめ、基地内のそこここに火を放たせた。

「隊長、追撃の命令を。押し込めば一万でも二万でも、あのような弱兵は敵ではありません」

「これは敵の罠である」と元伯爵は断言した。「敵は散逸したように見えるが、欺瞞である。逃げる敵の中にも指揮のようなものがあった。そもそもここに駐留していた兵の数が明らかに少ない」

 彼らが追い払ったのはざっと見て数百にも満たなかった。どうやら基地の南側に人を寄せて、全軍が無警戒であることを装っていた節がある。

「兵糧庫が空です」という報告が上がってくるに及んで、伯爵の疑惑は確信に変わった。夜襲を見越していて、どこかに移したのだ。

「罠である以上、深追いはできないし、この場に留まることも許されない。帝国軍の伏兵が北西砦を狙っているとしか思えない」

 彼の想像の半分は的中していて、反乱軍の突出部隊はさらに北方の闇の中で控えていた帝国軍の一団に横撃されて壊滅、ほうほうの体で戦場を脱するしかなかった。明け方、北西砦まで生還したのは二百名のうちの四、五人でしかなかったという。この二百がカバッチオの指示を仰がず、突出したのは烏合の衆的だったためとしかいえない。

 カバッチオは帝国軍の巻き返しを振り切って、夜半のうちに北西砦に帰還している。彼は仲間たちの賛辞に応じながら、苦もなく入城できたことに首を傾げていた。当然、敵兵が伏せていて、自分の軍が敵前線基地を襲撃している際に裏を衝いて薄手になった北西砦を急襲しているものだと思い、その背面を攻撃するつもりですらいた。が、何事もない。

 ともかく、砦側の損害は突出した二百の兵のみで、二万の帝国兵が駐屯する宿営地を焼き払ったという事実を得、これはまごうことなき勝利だと砦側は沸いた。翌朝、これを帝国全土に人を放って知らせるつもりでいたが、そのような過小なことは吹き飛ぶような事実が突如として持ち上がったのだ。

「ほ、北東砦が陥落しておりますっ!」

 夜明けとともに見えた北東砦の屋上に、帝国軍の旗が後光を背負ったようにきらめきながら翻っていたという。


      〇


「あらゆる戦い、剣においても、戦争においても、切先を制した方が勝ちといいます」

 ユウはフローデン候に話していた。二人は北東砦の一角にある建屋の屋上にいて、隙間胸壁越しに西と南の砦を一望していた。

「我々は先手を打って、一つ、二つ、三つと罠を張り巡らせた。そこに向こうがかかった。あとは迅速に手繰り寄せていけば戦果が上がるのは自明の理です」

「しかし、神懸った軍略であった。まさか、こうもあっけなく砦のひとつを落とすとは」

「孫氏という兵法書がおれの世界にあります。そこに、守りを固める敵は誘い出すもので、誘い出すには出てくる理由を明確に与え、また敵の赴くところに兵を出し、敵のいないところを攻めろ、というふうなことが書かれています。敵に夜襲の機会を与え、敵守備の位置を探り、東から西に人が入っていくのを見て、東砦を狙った。もし夜襲に来なくても、こちらの防御陣地を補強するのは上策です。どちらにしても、結果的にこちらが有利になるように状況が操作されているわけです」

 北西砦の人の出入りはつぶさに観察していた。その結果、夜襲の気配を察して、部隊の一部を囮に、一部を敵迎撃部隊に、残り一万九千で北東砦に仕掛けた。対する敵の数は開城されたのちに判明したものだが、およそ三千、といったところだったろう。

 帝国軍は隠密の中、這うようにして空堀を下って登り、柵を越え、北東砦の後方を遮断してから前方も人で覆った。東砦側三千は突如出現した満場の人波に前後左右から圧迫されて、混乱の様相を呈し、呈したまま、一の門、二の門、三の門と続いて天守塔まで、瞬く間に揉み潰されてしまった。

「ユウくんが敵であったと思うと怖気が走るな」

「各軍の指揮官が柔軟な人であり、中央軍が勇敢にして統率が行き届いていたからです」

 しかし、とユウは口中で呟く。帝国兵の、なんと恐ろしいことか。

ユウの作戦はまったくの机上のことであった。採用されることも、ましてや成功するなど、露ほども想像していなかった。皇帝の建築した塞を犠牲にすることにもなったし、手薄な砦を強襲したからといって敵に音や光で他の砦と連絡を取られれば後方を攻撃されるリスクもあった。

それをしてなお、帝国軍はユウの意見を、どこの馬の骨とも知れない若造の意見を採用し、実行して、成功させてしまった。ユウは彼らの柔軟な、良いと思えば即採用するほどの柔軟な思考と軽率ともいえるほどの実行力、数千の兵が有機体のように動いて一つの砦を握り潰してしまった練度の高さに驚嘆していた。その軍の一部が市民兵だという。

驚異的だ。

前にも触れたかもしれないが、普通、市民兵というのは練度が低いものだ。戦士階級であれば生まれたときから戦いを宿命つけられていて、命を軽んじ、躊躇なく戦いに身を投じることもできるだろう。彼らにはそれしか仕事がないからだ。しかし、市民というのは仕事に選択肢があり、兵士以外の生活もできる。敵を叩くより、生き延びるということに執着する傾向が強くなるのは大昔からそうだ。彼らは戦いに没頭しない。階級差は協調も難しいだろうし、齟齬も生まれるだろう、そういう軍隊が統率の取れた進退ができるのか、と疑いを抱いていた。

 だが、この結果はどうだろう。中央軍が貴族兵に劣っている気配がない。むしろ、精強といっていい。

 アントワーヌの兵で勝てるだろうか?

 それから二日間、帝国軍側は北東砦と前線基地跡に人を入れ、陣地の修復と防御を徹底させた。反乱軍側も三つの砦で囲っていた空き地の木柵を撤去しては植え直し、北西と南、二つの砦の連携強化と防御陣地の形成に明け暮れていた。

 そして、ついに帝国軍本軍が戦場に到着したのである。


      〇


「北東の砦を陥落させたか」

 皇帝エドワードは床机の上に腰かけて、フローデン候、マイソン卿、中央軍司令の三人から戦況の報告を受けていた。三人は御前であるために、地に片膝をつき、頭を垂れている。

「塞は大きく損耗したしましたが……」

「いい。塞は損耗するものだ」と皇帝は平然という。「献策はフローデン候の客将によるものと聞いた」

 皇帝は後方にあっても先発部隊の情報を常時手に入れていた。この作戦の許可を出したのも彼だ。

「どういう人間だ? 男か、女か、歳のころは?」

「異邦の青年でございます」とフローデン候は片膝のまま、顔も上げず、「実に爽やかな性情で、歳は十七といい、中肉で、肌にやや色があり、帝国の同世代の者に比べてわずかに小柄かと」

「ほう」とエドワードは手甲にかためた片手で顎を撫でた。「会ってみよう。ここへ呼べ」

 その一言で、ユウの元へ疾風のように伝令が走った。

「天ノ岐殿、皇帝陛下がお呼びでございます」

「なぜ?」とユウは北東砦の一室、椅子の上で気だるそうにふんぞり返っていた。

「なぜといわれましても、このたびの功労者である貴殿をどのような人物かと、ご覧になられたいのだということです」

「どのような人物か、ねえ」ユウは身を起こし、「ところで、噂の黒騎士さまは戦場にいらっしゃいますか? 大陸一の剣豪という方にむしろ興味があります」

「天ノ岐殿、そのような畏れ多いことを」と伝令兵は恐縮して、「ヴォルグリッドさまの姿はありませんでしたよ。果たして、来るかどうか、気分屋な方でございますから」

「そうですか」とユウは立ち上がった。「では参りましょう」

 ヴォルグリッドがいるのなら、このまま帝都まで逃げ去るつもりであった。ほとんど敵中で宿敵にまみえるようなもので、勝機がない。

 焼けただれた駐屯地を訪れて、一際大きな幕舎にユウは歩いてゆく。

「天ノ岐殿」と背中から声をかけられた。「腰のものをお預けください」

「これ?」とユウは白剣の柄を撫でる。「なぜ?」

「それは、皇帝陛下の御前でございますから」

 ユウは声を立てて笑った。

「剣士に剣を渡せというのは、命を渡せといわれるようなものであり、平時であっても咎められることです。それも戦場で口にするということは、わたしの命を狙っているとも思われる。それとも、わたしがその皇帝とやらを暗殺する危惧があるというのなら、元より会わなければよろしいでしょう。理が通らない」

「しかし、決まりでございますから」

「わたしは一人の人としていっています。わたしは帝国人でもなく、フローデン候の下に身を寄せているにすぎず、このたび力をお貸ししたのはその縁からです。わたしは皇帝陛下とは一顧の縁もなく、帝国にいる以上はその法に従わなければならないのでしょうが、皇帝に呼ばれれば拝謁しなければならないという法がありますか? ないのであれば、わたしにその義務はありません。わたしの愛刀を預け、片膝つかなければならないというほどの窮屈をしなければならないのならお会いする必要もありません」

「しかし、皇帝陛下のご命令をお断りするのは、フローデン候のお立場も考えていかがなものでしょう」

「この程度のことでフローデン候に不利が生じるというのであれば、皇帝というのはその程度の人物ということでしょう。なおのこと会う必要がありません」

 そのまま踵を返し、

「一人の人として会うのであれば応じましょう」

 砦に帰っていってしまった。

 この伝令兵は顔面を蒼白にした。

 帝国において、皇帝というのは絶対権力者ではないが、現帝エドワードの代は違う。特に戦場において、エドワード帝は法であり、神であった。戦場で斬首された将兵の数は十指で足りない。貴族であれ、将軍であれ、軍令違反と詐称は軍律を乱す重大事とし、御前で手柄を偽った将士の首をその場で、自ら抜剣し、斬り落としていたりする。

 ユウの言動はすぐさまエドワードに報じられ、家臣団は漏れなく青くなった。寒気すら漂う空気の中で、皇帝陛下ただ一人が失笑していたという。

「道理だ。わたしが礼を失していたらしい」


      〇


 ほんの二日の間であった。帝国本軍は到着早々前面に張り出して北西砦を攻め立てて陥落させた。現在、南砦の攻囲にかかっている。

 ユウは一人、その様子を北東砦の屋上から観察していた。だが、どういうわけか、攻城側に一向前進の気配がない。包囲が不完全であるために攻勢に移らないのであろうが、包囲を狭める様子もない。前衛は砦から大げさなほど大きく距離を取っていた。

 攻撃する気がないように見える。降伏勧告でも行っているのだろうか。

 かじかみかけていた手をこねながら進展を待っていると、一人の男が具足の音も高く、階段を登ってきた。

 緋色の滑らかな髪をなびかせた端正な顔である。鼻梁が長く、まっすぐにのび、口元は高潔の色を帯びてかたく結ばれていた。二十歳の中ごろであろうか、彼の青い目が鋭い光を放ってユウを捉えた。

「天ノ岐ユウ、か?」

「そうですけど」

 ずいぶん長いこと寒風に吹き晒され、神経がささくれてきている。言葉がぞんざいであった。相手を知らない人物と断定して、適当にあしらったのだ。

 男と並ぶとユウの頭は彼の肩辺りまでしかなく、面貌と合わせてやや劣等感を覚えさせられる。

「なんの用です?」

「先日は失礼した。顔を見たいと思ってはいたのだが、仕事が立て込んで時間を作ることができなかった」

 ちら、とユウは男の横顔を眺めた。

「皇帝陛下ですか?」

「そう呼ばれている」と男は口元で薄く笑い、「しかし、君に陛下と呼ばれるいわれもないな。そうだろう?」

「そうです。おれは一人の人としてあなたに会うといいました」

「エドワード・ボルナルフという」

「天ノ岐ユウです」

 甲冑の手と握手を交わす。交わしながら、

 斬るか?

 とユウの頭によぎった。

 ここで斬れば皇帝の野心は潰え、帝国は混乱のるつぼとなるであろう。アントワーヌが存続できるかどうかは五分五分、しかし、ユウが生きてこの戦場を脱する可能性はゼロに近い。気持ちは自重する方に傾いた。

 エドワードはユウから迸った殺気を察したのか、不敵な笑みを浮かべ、

「異界の剣士だそうだな」

「この剣は貴重なもので、人に預けるわけにはいかなかったためにそういったまでです。剣の一本で生きてきたわけではありません」

「ではなにを?」

「学問を。まだ自活はしていませんでした」

「そうか。そうかもしれないな、君の若さでは」

「西の砦の制圧は見事でした。南の砦は?」

「すでに落ちたも同然なのだ。わたしの仕事のほとんどが終わったといってよかろう。だから君のところを訪ねてみた」

「ずいぶんと余裕ですね」

「戦いというのは、始まる前から決しているものだ。必ず勝てるから、わたしはこの戦いを始めたのだよ」

「どの、戦いのことです?」

 エドワードの視線に鋭さが宿った。ユウの意図を察したらしい。が、ユウは気にしなかった。むしろ、いい機会だ。すべてをぶちまける。いざとなれば、相手を斬れる自信があった。足の運び、体捌き、腕の振り方、指の動きまで見て取り、戦って引けを取る相手ではない、と断じた。いま、サシの勝負であれば勝てる。三傑の一角、恐れるに足りず。

 エドワードが抜剣すれば斬る。そのあとで殺されることになるのも致し方がない。

「なにを殺気立っているのです? おれは、エドワードさんのおっしゃっていることが今回の賊徒討伐のことなのか、帝国の悲願であるアンガス侵攻のことか、訊いたまでのことです。それとも、なにか後ろ暗いことでもなさっているのですか?」

「わたしの戦いに後ろ暗いことなどない」エドワードは胸壁に腕を乗せて身を乗り出した。「腐った肉は捨てるしかあるまい。それと同じことをしている」

「腐っているのか、発酵しているのか、というのは、人の利益に適うかどうかであるそうです。時間が経って、臭いが発し、口に入れてみて不味ければ腐っている、美味ければ発酵している、というわけです。ずいぶん身勝手なもののいいようです。この世界でも同様でしょう?」

「君の世界はずいぶんと豊かだったらしい。この国にそれほどの余裕はない」

「孔子という人がいっていましたが、君子の最大の素養は仁、無私の優しさ、他人を許容する心、だそうです。例え、意に沿わない者であっても、過ちを犯した者であっても、鷹揚に許し、受け入れ、諭すことが肝要だそうです。それを仁徳といい、王者の徳ともいうのです。誰もが持っている才能ではないが、誰でもそこへ近づく努力はできるともいっています。おれはこれは事実だと思います。あなたはどうです?」

 エドワードは眉をひそめ、

「君は……」と呟いたきり、頭を振った。さらに一考して、ユウと向かい合い、

「わたしが王者である必要はない。わたしを倒す者がいてもいい。だが、わたしはその者が大衆であることを望む。大衆から生まれ、大衆を思う、大衆の長になれる人物であってほしい、とな。そういう男は、君のいうような徳を備えているのかもしれない」

 ユウは眉を上げた。エドワードの野心の底意が見えた気がした。

「あなたは……」

 大衆から生まれ、大衆を思う大衆の長になれる者。

 それを探しているというのか? 目覚めさせようとしているのか? 大衆を?

 これがエドワードの真意であれば、ユウは自身の考えを改めなければならない。この男は、ただの中央集権体制信奉者ではない。

「君がわたしを殺して、大衆を導いてくれるか?」

 エドワードは腕を開いていう。ユウは俯いて首を振った。

「しかし、エドワードさん、大衆の長を選ぶのもまた大衆です。大衆が満足しているのなら、その形を生かすのもまた手段ではないのですか?」

「この国にあるのは偽りだと、わたしは思う。人の血に染み込んだ習性が見せる幻想だよ。レオーラの大陸全体がそういう幻に包まれている」

「おれにはわかりません」

「君ならわかる。わかるようになる。顔を合わせて確信した。会いに来たのは正解だったらしい」

 どうだろう、とエドワードは片手を差し出した。

「わたしとともに来ないか? レオーラを変える助けになってほしい」

「戦いによって世界を変えようとするのは愚の骨頂です。立派な理念を掲げていてもそれで人を殺しているのは愚人です。孫氏曰く、最上の者は戦わずして勝つ、戦う前から彼の前に人は降伏している。戦の神といわれた上杉謙信曰く、天の時、地の利、人の和が揃ったとき、敵の弓槍は彼を傷つけることがない。そもそも闘争など起きず、人は彼に従う。おれの世界で人のことをホモ・サピエンスといって猿と区別します。賢い人、の意味ですけれど、血を流さなければ問題を解決できない人間をおれは賢いとは思いません」

「わたしを猿というか?」軽快にいい、片手を引いた。声音に嫌悪の色がない。「君ならわかってもらえると思ったがな」

「おれは愚行の手助けをしたくない」

「わたしも愚者は嫌いだ。ただ、君とはその定義に隔たりがある」

「あなたの愚者とはなんです?」

「生きようとしない者だ」

 エドワードは腰元からパチンコをひとつ、それと、布を巻いたヘリオスフィアもひとつ取り出し、オレンジ色の光を灯した。パチンコでもって、軽々撃ち出すと、光弾がひとつ、高空で灯った。布地がパラシュートの役目をしているらしい、ゆるゆると降りてくる。

 それが合図であったのだろう。

 帝国軍後方から赤い光の糸が伸び上がった。

 一本、二本、三本、と天に昇って交わり、赤く輝く扇となり、要の位置で集約される。集約されて、赤い光の玉を作っていた。その玉はみるみるうちに肥大化し、一個の太陽のように燃え上がる。すでに直径二、三十メートルは下らない。

 二つ目のスフィアが、エドワードの手のひらから放たれ、空で落下傘を開いた。

 そのときを待っていたかのように、ぷっつりと光の扇が立ち消えて、支えを失した大火球が転がり落ちてゆく。その下には南砦があった。木柵を燃やして、石の建屋を砕き、激しい閃光を発した。

 凄まじい爆風にユウの外套は音を鳴らしてはためいた。彼の身体すら吹き飛ばされそうになる。

 一瞬ののち、すべての喧騒は収まって、ただ眼前にはクレーターの穿たれた荒野だけがあった。

「こ、これが……」

 これが帝国の力……。

 必ず勝てるからこの戦いを始めた、といったエドワードの言葉が思い出される。

「ヘリオス教の教えの中で、最大の徳、というのは前進することにある。明日に向かい、目指すべきところに向かい、得るべきもののために努力する。そういうものを人というのだと、おれは思う。わたしは死んでいないだけの者を人とは認めないし、またそういう人間を是とする世も認めない」

 踵を返したエドワードはいう。

「君はここを去れ。古い世とともに滅びる必要はない」


      〇


 ユウは荒野をひた走っている。北へ向かって、愛馬のセキトを駆けさせている。

 帝国には、エドワードには勝てない。

 兵の練度や手練手管の問題ではない。おそらく、レオーラに現存する国家のひとつとして勝てる国はない。王国で研究されている晶銃など、帝国の用いたあの晶術の前では子供騙しですらない。その子供騙し以下を研究している国を宗主国と仰いでいるのだ。勝てるわけがない。なぜここまでの差が生まれたのか、いまのユウには皆目見当もつかなかったが、ともかく比較にならない軍事力が帝国にはある。

 それをつゆとも想像せずに地球の方が文明的に発展していると思い込み、さらにはすべてを知っているふうな愚劣な行いを取った、己を恥じた。

「くそ」

 ユウは自らの無知と軽率さに怒り、その怒りのままに駆けていた。

 霜を踏み砕き、白い吐息を自らの身で粉砕しながら駆ける。

 たとえアントワーヌを一時守ったとして、まさに一時のことである。その先は? その先はどうする?

「おれは……!」

 おれはなんと愚かな男か。

 一人、砂塵を巻き上げながら北へ向かっている。


      〇


 ユウは酒場の喧騒の中にいた。

 ぎ、と向かいの椅子が引かれ、

「旦那、悲壮な顔をしていらっしゃいますな」

「おまえは相変わらず太平楽な顔してるなあ」

「この顔は生まれつきのものでございます」

 タモンはへらへらと笑っている。

「お申し付けの品、アントワーヌ邸に運んでおきました」

「しかし、おれはアントワーヌ邸に帰れない」

「は?」とタモンの目が丸くなる。次いで、失笑を上げた。「ついに追い出されたので?」

「違う。負けたからだ」

「どなたが?」

「おれが」

「ほほ、なにと戦っていなすったのか」

「本当に、おれは帝国軍の戦いを見に行ってよかったと思うよ。無謀な戦いを仕掛けるところだった。おまえ、知っていたな?」

「集合晶術、というものだそうです。前帝ヘンドリッヒ三世時代に考案され、エドワード帝によって実用を見た帝国最強の秘策だそうです。王国は晶銃を開発し、まあ、技術的な発展を見れば、局地的な白兵戦において王国は勝てるかもしれません。しかし、戦況を決定するのは大軍同士の衝突です。王国には万に一つも勝ち目はありますまい」

「あれがある限り、帝国軍と当たるのはバカげてる」

「しかし、用いれるのは皇帝直下の晶術部隊のみ、といいます。ご覧になられたらご理解いただけるかと存じまするが、無数の晶光線を上空に放ち、その晶光線をひとまとめにして強大な効果を生み出すのが、集合晶術でございます。晶光線を打ち上げることは誰にでもできることらしく、技術の要はそのまとめ上げるところにあるのだとか。これを知っているのが、帝国中央軍晶術部隊のほんの数人の人物、というわけでございます」

「その術を手に入れることはできないか」

「数年の工作、短くても数か月は見ねばなりませんな。誰がどの程度知っているのかを調べ、おそらく軍事施設に紙の資料も保管されているので、場所と方法と忍び込みに適切な時期を探り、綿密な計画を立てる。まあ、早くて一、二年。今日明日、というのはまず不可能でございましょう」

「そうしてる間に情勢は変わる」

「ほほ、その通りでございますの」タモンが卓の上に腕を乗せ、「では、諦めますか?」

「なにをバカな」とユウはせせら笑い、「むしろ闘志が湧いてきた」

 とはいったものの、ユウは項垂れたままで声音も萎れ、放つ空気も萎れている。

「旦那は早死にしますな」

「ともかく、おれはアントワーヌ邸に戻れない。しばらく寝泊まりできるところはないかしら。多少の金はあるけれど」

「それくらいはご自分でお探しになられてもよろしいのでは?」

「それともう一つ」と指を立てたユウは聞く耳を持たない。

「おれがアントワーヌ邸に戻るのは憚られるけれど、もう一度だけ、時期を見て忍び込まなければならない」

「なにゆえにでございます?」

「ここで話すことじゃない」


      〇


 それから一週間後、帝国南方遠征軍の中枢三万は帝都に帰還し、皇帝を始め、フローデン候など各地の諸侯もまた帝都入りしていた。この間、ユウはタモンが斡旋したアジトにほとんどタダ同然で身を寄せ、寝台がひとつおいてあるっきりの四畳半程度の部屋の中で毛布にくるまりながらまさに雌伏の時を過ごしていた。

 状況は刻々と変わり、その都度タモンが詳報を持ち込んでくる。

「やはり、噂の通り。フローデン候に登城の令が下り、中央軍がアントワーヌ邸を包囲し始めております。名目はフローデン候の護衛などと吹いておりますが、果たしてどうか」

「よし」とユウは毛布をかなぐり捨てた。「急ぐ」

 手早く準備を済ませ、戸を蹴破る勢いで厳冬の町に飛び出した。

 日は沈んでいた。

吐息も凍る寒気の中、晶機の明かりだけがある。スフィアの輝きは砂粒を撒くがごとく光を放っているように見え、その粒子が水分の少ない透徹した空気に包まれた街の景色をもやをかけたように幻惑させる。

 淡く優しい灯の中、行き交う人の陽気な息吹、その活気、馬車の車輪の転がる音、馬の蹄の音。すべてが夢のようにユウの五感に染み込んでいった。人混みを足早に抜けてゆく、ユウの中に、しっとりと染み込んでゆく。

 しかし、彼の外殻を取り巻く世は優しくはない。悪夢といっていいかもしれない。

「フローデン候を誘拐する」

 と、ユウはタモンに従前話していた。そのためにタモンにはアインスらと接触を持たせ、邸内への侵入経路も確立させて、帝都脱出の準備もさせた。

「エドワードはフローデン候を捕らえる。その手段はまだわからないが、その動きがあった瞬間にフローデン候を拉致し、帝都を駆け抜けて脱する。そののちディクルベルクにいる兵とも合流して、帝国西方貴族を取り込み、一個の独立国家を形成する」

 そのためにはアントワーヌの威光は必ず必要になる。

「これをしくじったらアントワーヌに未来はないと思え」

 と、ユウは自らにいい聞かせるようにして、作戦を練り上げていた。

「集合晶術への対抗策は必ずある」

 すでにその萌芽がユウの中にはあった。

 必ず、帝国に一撃を見舞い、この戦いに勝つ。

 強すぎるほどの決意を秘めたユウの耳元に、タモンが囁いた。

「中央軍の動きは街の中でも活発でございます。アントワーヌの逃亡を抑えるものか、旦那を探しているものか、もしくはそのどちらもか」

「おれを探している?」

「旦那は軍の一部ではちょっとした有名人でございますよ。砦を一つ、無傷で落としたそうですな。そのことで旦那はアントワーヌの知恵袋といわれ、中央の諜報部では少なからず警戒しているようです」

「まあ、いい。すべて予定の通りだ」

 この日のために、一週間、タモンには毎日アントワーヌ邸へ足を運ばせ、その都度、南方系の顔立ちの従者を一人つけている。ユウはその従者と入れ替わるわけだ。顔を煤で薄く塗り、外套を厚めに着、縁の広い帽子をかぶれば、遠目にはいつもの従者と変わりなく見えるであろう。手配した従者にももちろん、そういう恰好をさせていたし、都市化した帝都では乞食のような人間は少なくない。そして、欧州系の多いこの国で、アジア系の顔の見分けがつくわけがない。

 アントワーヌ邸の裏口の門番ともすでに気脈を通じていて、到達できれば入ることは難しくない。ただ、アントワーヌ邸前は中央軍兵にごった返しており、容易に近づけなかった。

「ちょいと」とタモンが中央軍をかき分けて、アントワーヌ邸に向かおうとする。「ちょいと、ごめんなさいまし」

「おい、オヤジ」と中央軍兵の一人に呼び止められ、「オヤジ、アントワーヌ邸に行くのか?」

「へい、掃除夫をしておりまして」タモンは夜空を指さして、「暖炉と煙突の掃除をしております」

「掃除夫かあ」兵は一人、二人、と増え、タモンとユウをまじまじと見つめている。

「アントワーヌ邸は広く、建屋も古いので、煙突の数も一入でございますな。一日、二日では終わらず、早幾日」

「うしろの者、この辺りの人間ではないな?」

「アナビア大陸の奥地から連れてきた者で、ユーステア語も解しませぬ」

 ユウは二人の顔を見比べて、ボーっと突っ立っていた。兵はユウの帽子のつばにも手をかけて引き上げながら、彼の顔を覗き込んでいた。腕を組んで凝視し、また左右から見遣り、

「まあ、いいだろう」と道を譲った。

「帝国兵のみなさまは大変なものですな。この寒いのに」

「別におまえに慰められることじゃねえよ」

「どうです、旦那のウチに煙突などありませぬか? お安くしておきますが?」

「うるせえな、さっさと行け」

 兵はハエを追い払うような仕草をして、二人を視界の外にした。

「いやはや、渋いですな」

 ユウに先を促され、タモンを先頭にしてアントワーヌの門をくぐった。邸内は不穏な空気を受けて、帝国兵舎にいた者も含め、多くのアントワーヌ兵が集結していた。鎧を着こみ、庭園には馬も集め、臨戦態勢にある。

「天ノ岐殿」とアインスとツィバイとドライがユウを囲って「お急ぎください」

「閣下は?」

「閣下は城に登城されます」

「登城する?」ユウは耳を疑った。「必ず捕まりますよ。捕まれば死刑しかありません」

「それでも登城するとおっしゃるのです。我々では説得できませんでした」

「血迷っているのか」

 ユウは変装を解きながら足早に執務室へ向かった。

「閣下」

 扉を開いたユウは執務机の前に片膝をついた。奥に座るフローデン候は机の上で手を組んだまま微動としない。

「なにをお考えです?」

「君はここを出たまえ。すぐにサンマルクへ向かえ」

 ユウは眉をひそめ、

「お断りします。おれの道はおれが決める」

「この世界であったことのすべてを忘れ、元の世界へ帰る手段を講じることが自らの幸せだとは思わないか?」

「それをおれ自身が決めるといっているのです」

「我々と死ぬことになる。君を死なせるのはわたしの本意ではない」

「ですから共に逃げてくださいといっています」

「わたしは帝国諸侯に名を連ねる者だ。その忠を尽くさずしてわたしはわたし足り得ない」

「忠義のために死ぬいうのですか?」ユウは目を剥いた。「皇帝はどう弁明しようともあなたを殺します」

「帝国、という国家を保つことが我々高貴なる者に課せられた使命だ。そのために生死は厭わない。わたしが陛下の命に背けば国家が乱れ、帝国の没落に繋がる。我が使命に反する」

「国家がそれほど大事ですか?」

「わたしたち、貴族というのはそういう宿命の下に生まれている。一般平民であれば自由な選択をすれば良い。だが、我々貴族は一線を画す。そのために軍を持ち、兵を任されている。強敵を前にして、兵が逃げることもあるだろう。彼らは一般平民であるため許される。しかし、わたしたちは違う。ただの一騎になっても国家のために敵へ立ち向かい、散ることを惜しまない。そういう生き物なのだ。ここがわたしの戦場であるし、陛下が登城をお命じになられるのならそれに従う。結果がどうであるかは問わない。それこそがアントワーヌの、貴族と呼ばれる種の存在意義なのだ。果たして、君に理解してもらえるかどうか、わたしにはわからないが」

「リリアはどうなさるのです? 一人置いて、あなただけがその職務を全うするというのですか?」

「アントワーヌはわたしの代で断絶して良い。わたしに何事かあって、あの子が無事とは思えないが、生き延びることができれば南のシリエス王国へ向かうだろう。あの子にはそこで暮らせるだけの知識と人脈を与えた。王国には親しい人物も多いし、ヘリオスフィアの専門家として十二分に生活していける」

「いけませんよ、そういう勝手なことは」

「すでに問答は無用だ」

「閣下っ!」

「天ノ岐ユウ君。君はここを出て、サンマルクへ向かえ。すべてを忘れて、元の世界に戻る道を探せ。我々にこれ以上関わる必要はないし、陛下も君を無理に追う理由はないだろう」

「おれは……」

 口走ったユウの息が止まり、視線が絨毯に落ちたまま動かない。

 おれは、どうする?

「もし、君が、我々と共に死ぬ、というのなら、せめてものせん別である」

 引出から取り出した一包の封書を机の上に置き、

「しかし、これを開封した瞬間、君はその意味を知って、引き返せない道に落ち込むことになる。人として生きる道を失い、一本の柱として生きる道を歩むことになるだろう。わたしと同じように」

 フローデン候は静かに椅子を引き、立ち上がると部屋を出ていった。


      〇


 白い、一包の封書がある。

 選択をしなければならない。

 すべてを捨ててサンマルクへ走る道か。命を捨ててこの一包を取り、西へ走る道か。

 カタカタ、と、腰の白剣が激しく揺れた。

「これは……」

 呟いたユウの背筋に電撃が走った。

 実家の蔵で、この白剣を始めて抜いたとき、刀身が震えて音を立てたのは偶然ではないのか? ヴォルグリッドが、黒剣が近くにいたからなのか? 呼び合っているのか? ならば、いま、このときも?

 どちらにせよ、白剣は三つ目の道をユウに思い出させた。

 宿敵と立ち会い、斬り伏せる道。

 どうする。

 震える剣の柄を握り、歯を噛んだユウはおもむろに封書を取り上げた。

 蝋封を投げ捨てて、中の紙片の数枚に目を遠し、ユウは愕然とした。

 文字は読めない。しかし、図解されているために、これがなにであるのかがユウにも容易く理解できた。

 ユウはその文書を畳んで胸ポケットにしまうと、部屋を飛び出した。

「天ノ岐殿」とアインスたちが取り囲んでくる。

「いますぐ帝都を脱出する。フローデン候は死んだ」

「しかし……」

「おれはディクルベルクへ行く。氷の荒野を越えてゆく。おれと共に死ねる人間だけが来い」

 その号令はすぐさま屋敷中に通達され、二百近い人数と馬が揃った。別邸裏の厩舎に集合し、馬具と積荷を備えてゆく。そこにタモンが来、

「東西南北、合図がございました」

「よし、西の一点を討つ」

 次いでアインスも来て、

「中央軍が、門を開けて投降しろと」

 聞くなり、ユウは声を出して笑った。

「門を開けてやろう。おれたちは西の一点を突破する。遅れた者は死ぬと思え」

「我々はここに残ります」と一人の兵がいい、多くの者たちが頷いた。「中央軍の四方へぶつかり、混乱させます。その隙に、どうか町の脱出を」

「任せる」とユウは短くいい、「おまえたちの命だ。ただ、おれは必ずリリアを助ける」

「どうぞ、お頼み申し上げます」

 死を決した士卒数十人は剣の刃を鳴らし、槍の石突を地に打ち付け、爛々と光る瞳をユウに据えて頷いた。

「行って参ります」と一言残し、一人、一人がアントワーヌ邸を飛び出してゆく。

「我々はアントワーヌの兵であるぞ」

「帝都の腰抜け兵ども、我と戦え」

 激しい喧騒の中、剣戟が響き渡る。屋上からは矢が放たれ、中央軍を牽制する。

「行くぞ」

 ユウは白剣を振り抜き、セキトの背にまたがった。手綱を繰って、厩舎を飛び出す。それに付き従う蹄の音が帝都を揺らし、立ち塞がる帝国兵を慄かせた。潮が引くように左右へ退けてゆく。立ちはだかる数人にはアントワーヌの決死隊が殺到し、一人、二人と斬り殺し、人垣に踏み込んで押し退けるように剣刃を振るう。

「天ノ岐殿、お頼み申す」

「お頼み申す」

「お頼み申す」

 そこここから上がる鬨に似た声と、血煙をかき分け、ユウはあぶみを踏んだ。人馬は疾風となって西へ、彼らの拓いた血路を行く。

 おれは行く、とユウは心中に強く唱えた。行くと決めた。

 前方から来る騎馬の一隊、その先頭を駆る鎧が槍を構えた。

「刃向かうのなら容赦はせぬっ!」

「押し通るっ!」

 ユウは白剣を片手に。突き出された槍穂に剣先を据え、軌道を逸らした。そのまま一閃、鎧を斬り裂いて、胴を断った。

 血に濡れた白剣を振るう。騎馬隊を押し退けた後続がユウに追随する。

「行くぞ」

 激しい雄叫びが続く。その声が呼び寄せたのか、左右の長屋棟の窓という窓が開き、いくつもの顔が出た。彼らはなにが起きているのかわからなかっただろう、それでも街道を行く勇者の姿に心打たれたのか、歓声を上げ、喝采を浴びせ、手を振って軍列を見送っていた。

 帝都の中に熱狂が渦巻いてゆく。

 みるみる近づく大門はぽっかりと口を開け、周辺はきらきらと空気がきらめて見えた。屋根の上から大門の手前に青く光る石が投げ込まれ、そのたびに白煙が上がり、その白煙も瞬く間に色を失って、宙に散る光の粒になる。

 水、を散らしている。タモンの『仲間たち』を使い、タモンから出世払いで買い付けたスフィアから召喚した水の飛沫を観音開きの大門に浴びせかけている。水の飛沫は瞬く間に凍結し、大門の重量を固定してゆく。

「報告の通りでございますの」とタモンはユウの隣を走りながら、まだ余裕があるのか、いやらしく笑う。

「まだ早い」ユウは白剣を大門に向け、「晶術部隊、狙え」

 後方にいる騎馬隊は弓に矢羽をつがえる。矢の先に刃はなくて、手のひらより小さいヘリオスフィアが結ばれており、青々と輝いている。

「放て」

 しゅしゅ、と続けざまに音を立てて光石が疾走してゆく。大門の周辺に落ちて、深い白煙を上げた。ぱりぱりと音を立てながら白色は瞬く間もなく薄れてゆき、小さな輝く粒を作り、または兵の、凍え切った鉄製鎧に張り付いていたりする。

 門の動きは極めて鈍い。

 抜けられる。

 しかし、その手前でまだ動ける中央軍兵らが槍ぶすまを形成し、後方は矢じりを並べて天へ向けている。その弦が引き絞られ、いまにも撃ちだされるかというとき、

 セキトがひとつ、いなないた。

 石畳を砕く音も激しく、飛び上がり、槍の穂先も、見上げる帝国兵の頭も飛び越えて、栗毛色の馬体は弓隊の中に踊り込んだ。振り回される白剣が槍穂を打ち、柄を叩き、矢を払う。間もなく、アントワーヌ隊が雪崩れ込んで、次々に帝国兵を蹴散らしていった。

 ユウは馬を回し、

「進めえっ!」

 声を発し、大門を抜けた。

 あとは漆黒の闇である。

 風は緩い。ただ、アントワーヌの騎馬を追って吹いている。

 天は味方してくれている。

 闇に慣れ始めた目に、乳白色の長大な銀河を頂いた天空が映る。七色の稜線が錯綜しているのはヘリオスオーブの閃きか。

 この荒野を越えろ、といっている。この世界のすべてが、おれたちに。この血を沸かせる、肉を裂くほどの熱をもって、この極寒の荒野を越えろと、絶叫している。

「これが運命というものか」

 口から吐き出した吐息が流れ、頬の産毛を湿らせた。触れてみるとすでにかたい。凍結している。マフラーを、鼻を覆うまで引き上げた。

 ユウはその一生を賭けて、西方へ駆けている。


      〇


 アントワーヌの突撃を眺めている男が一人、いた。

「まさか、あの男が……」

 帝国にいる、ということすら、想像していなかった。

 組んでいた黒い鎧の腕を解き、手綱を握った。左右の兵を見遣り、

「食料を集めろ。奴らを追う」

「しかし、ヴォルグリッドさま……」

「急げ」

 は、と敬礼し、兵の十人ばかりが後方へ下がっていった。ヴォルグリッドは彼らを見送ることもなく、喧騒冷めやらぬ大門の、その先の闇を眺めていた。


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