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幻想剣客史譚  作者: りょん
19/23

第五巻 大陸蠕動編 四章 ヘリオスの青い空

     四章 ヘリオスの青い空


 この年の冬、ヘリオス教会領周辺には複数の組織が密集していた。前章の通り、王国を代表するアントワーヌが海路この地へ向かっている。北にはアンガスがあり、そこを制圧しつつある帝国の兵もある。さらに、ラピオラナ山脈でエドワードに大打撃を与えたウッドランド兵が下山して、この地に留まっていた。

 青い空と照り返る太陽、南海から押し寄せる温かな風と潮の香り、その中でそよぐ照葉樹の葉。

「ヒュー」とケイティは感嘆していた。片手は潮風にあおられる麦藁帽を押さえ、もう片手は手ひさしにして、雲のない空を眺めていた。「この町は楽園だわねえ。ウッドランドと同じ大陸にあると思えないわあ」

 いまの日本風にいえば、白のワンピースにジャケットを羽織っただけ、といったところか。そんな格好でも日差しがあれば寒くない。ラピオラナ山脈を越えて西に下れば日中でも肌が霜に焼かれているだろうに、山脈ひとつでえらい違いだった。教会領育ちの人間は多少の厚着をしているが、寒気に馴れたウッドランド人にしてみればおかしなものだ。ジャックも白いジャケットを羽織って、長いスラックスを履いているだけである。

 ラピオラナ山を挟んだ東西での温度差はレオーラ大陸の中でも別格だった。レオーラ大陸の寒気は北の帝国で発達する。そこから東西に広がりながら南下するのだが、東方ではラピオラナ山脈が壁となって、山脈を越えた先にある教会領には侵入しにくい。さらに、教会領の南東には巨大な暖流があり、陸地の寒気を奪うとともに、大洋の暖気を地上にもたらしてくれる。信仰の聖地という以上に、冬場は常夏の避寒地として人気の観光地だった。もしかしたら、冬に凄まじい寒気に襲われる大陸気候のレオーラで、常夏を維持し続けること自体が奇跡と思われ、信仰の助けになっていたのかもしれない。

「やっぱりラピオラナを東に下ってきたのは正解だったわね。みんなに最高の休暇もあげられたし」

 などと、ケイティはいっているが、こいつが来たかっただけだろうとジャックは半ば確信していた。バカバカしくて指摘する気にもならないが。

「こうなるとウッドランドに住むことすらバカらしく思えてくるわね」

 黙っていると、ケイティは身を寄せてきて、ねえ、と顔を覗き込んでくる。鬱陶しい。

「バカらしいよねえ?」

「ならここを奪い取るか?」

「そんなことしたらウッドランドに明日はなくなるわよ」

 ケイティは愉快そうに笑う。

 内海を囲う三大陸の民はすべてヘリオス教徒といっていい。ここで騒ぎを起こせば、もしくはここを騒ぎに巻き込めば、三大陸すべての民を敵に回すのは間違いない。暗黙の非武装地帯といっていいだろう。そのために、教会領幹部と多くの領民は、帝国が北を制圧したからといって危機感を抱いていない。そもそも、侵略戦争をしているとはいえ、教会に多額の寄付をしている帝国と敬虔と名高いエドワード帝にそれほどの嫌悪を抱いていない。その辺りは、以前にもやや触れた。

 二人はいま、教会領都サンマルクの海岸線を歩いていた。白い石灰岩の胸壁の下に白浜が数メータと広がって、群青の海に繋がり、その海はきれいな三角に霞む灰色の火山島をすり抜け、遠い水平線の向こうで天空と一体になっていた。

 この景色と冬の日差し、そして波の音を楽しみにこの辺りを歩く人の数は多い。さすがに打ち付ける白波に潜っている人間はいないし、足を浸している者もいないが。

 それにしても、多すぎる人だかりが前方にあった。

「何事かしら」

 ケイティの地獄耳が知らないことをジャックが知るわけがない。彼は彼女の言葉を黙殺した。しかし、彼女も慣れたもので、なんの反応も示さない。

「何事ですか?」と彼女は人垣の最外殻の人に声をかけた。

「いや、なんでも」と漁師風のいかつい男が女の子に声をかけられて鼻の下を伸ばしながらいう。「アントワーヌ船が来るらしいんだよ」

「アントワーヌ」と呟いたケイティの顔に喜色が浮かんだ。「本当ですか?」

「ああ、沖に見える船があるだろう? 教会領には何度か寄せてるから、遠目にもそうだってわかるんだ」

「アンガスの救済に来たのかしら?」

「さあ、どうだろうなあ」

「それにしても急な感じがしますけど」

「どうだろうな、カンピオラの方じゃわかってたのかもしれないけど、おれたちには関係ない話だから」

 と、漁師らしい男は笑っている。本当に関係がないのか、ジャックは疑問に思う。

 アントワーヌ、といえば、レオーラ西方の雄だ。その勢力は王国に次ぎ、勢いは王国など下らず、帝国以上という一貴族だ。それが、この時期に教会領を訪れたのはなんのためなのか。ケイティも、もちろんジャックも知り得ない。だが、興味は持った。おそらく、ここに密集する群衆の誰よりも飢えるような好奇心を抱いただろう。ウッドランドの同盟国である王国と密接に繋がり、いずれ来る帝国との大戦にも重要なカギになると思われるアントワーヌ。ウッドランドの軍幹部として興味を持たないわけがない。

 サンマルクの中央を流れるマルコ川河口から三角帆を広げた中規模の短艇が流れてきた。大きな船房もあり、カンピオラの賓客送迎用のものだと思われる。

「これは、どうやら高貴なるお方が乗船しておられるようね、あのアントワーヌ船に」

 ケイティの目が異様に輝き始める。頬が溶けたようにゆるみ、傾げた顔から垂れそうなその肉を片手で押さえ、

「もしかしたら当主のリリア・アントワーヌさまかも。知ってる、ジャックくん?」

「なにを?」

「聡明で美しく、可愛くて優しい、天使のようなお方ともっぱらの噂よ。きっと貴族の中の貴族のようなお方なのでしょうねえ。お会いしてみたいねえ」

 この世界で、貴族、というと、アイドル的な人気がある。共産主義に近い思想を謳い、貴族を排斥したウッドランドをして本能的に貴族を敬う傾向はまだ枯れていない。そもそも、ウッドランドは王国を同盟国とし大陸の盟主として、大概の人民は尊崇もしている。彼らの市民平等論は思想というより、政治ということだ。

 ジャックはケイティの台詞を無視して波間を眺めていた。その袖が引かれる。

「ねえ、会いたいよねえ」

「おれはいい」

「ええ、世間ずれしてるねえ、ジャックくんは」

 ああ、そうか、とケイティはいう。

「ジャックくんはアレか。リリアさまより、天ノ岐ユウさまか」

 ジャックのこめかみがピクリと震える。

 天ノ岐ユウの噂はレオーラ大陸で武を振るう人間なら聞き知っているだろう。世に卓越した剣豪が三人いる。三傑と呼ばれ、その一人がジャックである。ここ数年、新たに一角が屹立しつつある。天ノ岐ユウ。異世界から現れ、滅びつつあったアントワーヌを救済し、采配を取る新生の英傑。皇帝エドワードを出し抜き、黒騎士ヴェルグリッドも撃退しているという。

 刃を合わせてみたくないといえば、嘘になる。

「探してみる?」

 ケイティが探るように顔を覗き込んで来る。その意地の悪そうな口元といい、目元といい、姑息な匂いが漂って仕方がない。ジャックは小悪魔の顔から視線を逸らし、

「いらん世話だ」

 逸らした視線に黒い外套が映った。薄汚れた、お世辞にも綺麗とはいいがたい布地は元々高価なものだったらしく、仕立はいい。その襟元を掻き合わせるようにして、少年がジャックのそばをとぼとぼと通り過ぎていった。隣に品のなさそうな小さいオヤジを連れてぼそぼそと何事かを話し合っていた。

 ジャックは二人の背中を見送っている。

「なに? どうしたの?」

 ケイティも同じく、旅人らしい少年の背中を見、ジャックに目を戻し、

「知り合い?」

「そんなわけないだろ」

「そうだよね、ジャックくんは友達もいないもんね」

 そしてケラケラと笑っていた。


     ○


 ジャックはカンピオラに密偵を放った。庭園やいくつかある御堂など、基本的に立ち入りは自由で、一年を通して終日、門扉が開かれていて食事さえ自前に出来ればほとんど暮らすことすらできる。先ほどもいった通り、この都市は大陸でも有数の避寒地で、この季節、北が戦地になっているとはいえ、ウッドランドからの旅行者は少なくない。その旅行者の中に密偵がそれに紛れるのも難しくない。ジャック自身が出向かなかったのは顔を覚えられることを避けたためだ。敵か味方か定かならぬ勢力に近づきすぎるのは、元暗殺者としての性が許さなかった。

 その密偵の報告を、ジャックはひなびた宿の屋上で受けていた。八畳一間の宿泊部屋はベニヤ板に壁紙を貼った程度の内装で、話し声が隣に筒抜けになって不思議ではないから密通に適さない。

 ただ立地だけは高台にあって悪くはない。手すりに腕を乗せて、白い町並みと砂浜、その向こうにある青い海と空、そこに浮ぶ綿雲の流れを漫然と眺めながら、やや冷たい風の音と部下の小さな声に耳を澄ませている。

「アントワーヌの総員は五十に及ばないほどかと思われます。それもその大半は商人で、兵は十人あまり、といったところでしょうか。目的は来たる帝国との決戦に備えて、王国の医療施設を強化したく、そのための人員を借りに来たということのようです」

「医療か」ジャックは唇をわずかにつまみ、「筋は通る。しかし、なにか裏があるのではないのか?」

 帝国がアンガスを脅かしているこの時節に、わざわざ船を出して、要人を教会の本部に送り込んで来る。

「帝国を威嚇しているのか、それとも、他の、なにかしらの示威行為か」

 しかし、威嚇にしては人数が少なすぎる。挑発といった方がいいだろうか。それとも教会の方が王国への協力を示して帝国を牽制したいのか。教会がアントワーヌを招いたのだとしたら、教会は王国側についたことを表明しているようなもので、帝国の反発を招くのは必至だ。永久中立を謳うヘリオス教会のやることではない。アントワーヌを賓客としたことは、危険行為かもしれない。

「アントワーヌの言い分では、両国が決戦となれば、多くの被害者が出ることが確実と思われ、勝敗によらず、敵味方を治療するためにヘリオス教会医療団の力をお借りするのだということです」

 なら戦わなければいいだけのことのように思われるが、帝国が引かないだろう。王国は受けて立つしかない。これに帝国が文句をつけるようなら、戦争などするな、と各地から、それこそ帝国内からも怒号が飛ぶかもしれない。

「どちらにしても、世間からは教会が王国側についたように見えるな」

「元々、教会は反戦派ではありますが。中立とはいえ、当然戦いを推奨しているわけではなく、むしろ忌避しています」

「それも当然だろう」

 でなければ人の信仰を集めるなど到底不可能だろう。

「もう少し探ってみます」と密偵が頭を下げる。

「頼む」とジャックは短くいい、また海浜に目を戻した。まだアントワーヌと王国の意志が定かならない。考え込みながら宿の廊下を歩いていると、見覚えのある外套が部屋の戸を叩いているのを見た。隣には宿の主がいて、外套の男が一室の扉を開けたり閉めたりしているのを眺めていた。

「ちょっと建てつけが悪いですねえ」

「はっきりいうねえ、あんた」

 などと笑い合っていた。

 ジャックはその背後を通り抜け、斜向かいの部屋にこもった。扉に背を預けて、廊下の様子を窺う。

 あの男、普通ではない気がする。一挙手一投足、その気配が常人と異なり、死地を抜けてきた人間に見える。名のある戦士ではないか?

 廊下では特になにか意味のある話をしているわけでもない。天気の話だったり、観光地の話だったり、どの飯屋がオススメかなど、何気ない話ばかりだ。いずれ激しく扉の開く音がして、また笑声が聞こえた後、廊下は静寂を取り戻した。

 その夜、

「大変よ、大変よ」と、壁より薄い扉を蹴破るようにして、ケイティが部屋に飛び込んできた。

 騒ぎ回る彼女はここの十倍はする価格の宿に身を寄せているから、日が暮れてジャックの部屋を訪ねてくるのは珍しい。そもそも、彼女が日中の早い時間から姿をくらましてジャックを煩わせなかったのも珍しい。

 小さな椅子に腰かけて、酒に口を湿らせていたジャックは振り向きもしない。

「静かにしろ。隣の部屋に聞こえる」

「隣の部屋って、そんなわけないでしょう。紙じゃあるまいし」と鼻で笑い、壁を撫で、全身で張り付いてその感触を確かめてからジャックに向き直った。「それよりも大変なことがあるの」

「部屋の壁の薄さより」大変なことはあるだろう。

「冗談いってる場合じゃなくて」ジャックに身を寄せて口元を片手で覆い、「リリアさまがお会いしてくださったの」

「なに?」とジャックはグラスを置き、体ごとケイティの方へ向けた。「おまえ、カンピオラにいってたのか?」

「それがね、そうなの」

「リリア・アントワーヌに会いに?」

 それで、会った、という。ジャックは左右を見遣り、

「ここじゃ場が悪い」と部屋を出、屋上に登った。

 昇降口や暗がりに人がいないのを確かめ、手すりに寄りかかった。月の沈んだ夜、空と町の境目がわからず、町の灯は星の海と一繋がりになって、上下を問わず星の渦の中だ。

「いい景色ねえ」とケイティは全身で手すりを引っ張るようにしている。

「わたしもこっちに引っ越してこようかしら」

「そんなことより」

「町の灯の美しさより?」

 と笑い、ケイティはいった。

「ウッドランドから巡礼の旅に来たんだっていって、その折にリリアさまがいらっしゃった奇跡、これを機にどうかお顔だけでも拝見したいっていったの、わたし。ところで、石持ってない? スフィア。ここ、少し寒い」

 ジャックはヘリオスフィアを発光させると同時に少し発熱させてケイティに放った。両手で受け取った彼女の丸い顔を淡い光が舐めるように照らす。手のひらの上で転がされ、頬に擦られ、下顎と喉の間に挟まれながら、それでもめげずに照らし続けている。

「まったく、軽はずみなことをしてくれたな」

 ジャックの口から小さく舌打ちが出た。

 普通、この季節、避寒で来たというのが多く、巡礼に来たというのは少ないはずだ。巡礼したいのなら、温かい季節にラピオラナ山脈を越えてくる。この季節にその経路は凍結と積雪で絶望的だった。避寒旅行というと、南のクリフトフ海峡を潮の弱い陸地伝いに遡り、教会領に入る。後者はその旅程も安楽で、巡礼という感じではない。

 敏く、神経質な連中なら、ケイティの嘘を疑うだろう。亡国の姫を守る人間というのは、それらの要件を満たすはずだ。

「ジャックくんたら、いうことが細かい。仕事のし過ぎじゃない? 休んだ方がいいよ、って休みに来たのか、ここに。なのに、こんなことになって、また神経をすり減らして、かわいそうに」

「そう思うなら少しは慎め」

「まるでわたしがジャックくんの神経をすり減らしてるような物言い。こんなに優秀な秘書官、他にいないのに」

 ジャックは頭を抱え、

「それで、なにを話したんだ。カンピオラの中で」

「それは女同士の秘密……」

「じゃあもういい」

「ちょっとお茶目しただけ、置いてかないで」

 ケイティはジャックに抱きついて引き止めると、その日中にあったことを話し始めた。


 まず、アントワーヌがどこにいるのかわからないためにあちこちを訪ねたという。

 カンピオラといっても数十の施設、宗教上の必要施設はもちろん、学術分野や福祉分野の実動班から、それらの研究施設も別棟があったりして、これらだけで王都や帝都に匹敵する規模、ともいわれている。

 ケイティは早朝からその広大な敷地内を歩き回って、時にはタライ回しにされ、ようやく医療棟で見つけたという。右の訪いを告げて、しばらく待たされたのち、来賓者用の一室に通されたという。ケイティが来賓者扱いされたわけではなく、リリア・アントワーヌがまだ来賓者室にいたということだ。

「ウッドランドの方とお聞きしました」

 リリアは鈴を転がすような声音で囁くようにいい、しかし、部屋の隅々にまでよく通る美声だったという。帝国育ちらしい真っ白な肌に、背中まで垂れた艶やかな黒髪、柔らかく微笑む姿はまるで天女で、ケイティの身を感動に打ち震わせた。

「いま、わたくしが身を寄せている王国とウッドランドとは同盟の関係にありますし、このような出会いも大切にしていきたいですわ」

 そばには護衛の兵の他、平民らしい素朴で愛らしい少女がいて、ケイティとリリアが挟む卓の上に茶器を並べ、ポットからカップへ、丁寧に茶を注いでいた。こういう品のいい女の子を侍らせているのも好感が持てる。指先につまむ陶器のカップを桃色の唇に据える様子も気品があり、貴族の出を窺わせる。

「ウッドランドからの巡礼者の方は多くいらっしゃるのでしょうか」とか、「アンガスの方々はご無事に暮らしておられるでしょうか」とか、「王国に比べてもこの地域は暖かくて過ごしやすいですね」とか、他愛のない話をした。その甘い舌の調べも人の耳を引き寄せる力があって、ケイティはその声に没頭したりした。

 一アウル、つまり一時間あまりもして、リリアがそわそわとしてきたらしい。話題がなくなってきていたのかもしれない、とケイティも思った。そこで侍女が咳払いし、

「いかがでしょう、ケイティさま、ご一緒に夕食でも」

「よろしいんですか?」というあたり、この女は図々しい。

「はい」と侍女が微笑み、「ウッドランドのことはわたくしたちもあまり情報を持ち合わせていませんから、なにかとお話を伺えれば」

「それがよろしいですわね」と向かいに座るリリアが無邪気に手を打っていた。

 それから侍女と数人の護衛に囲われて教会の医療施設やアントワーヌ船を見学したり、日が暮れてからは町の料亭で宴会を催してもらい、いまに至ったのだという。


 ジャックは頬を撫でて一考する。

「それで、宴会が終わってからここへ来た、と」

「そういうこと。一巡礼者にこんなに丁寧にしてくれるなんてホントお優しい」

「そんなわけないだろ」

 なにか裏があるとしか思えない。

 やはり、ケイティがただの巡礼者でないことが向こうに知れているのだろう。それで興味を持ち、宴会に招かれたのだろうが、大した話をしたわけでもないというし、アントワーヌ側の意図がわからない。

「どっちにしても、いいじゃない。わたしはリリアさまにお会いできて楽しかったし、アントワーヌがわたしを怪しんで興味を持ったのなら、それはそれで、話し合いになったとき、こっちが主導権を握る材料にもなるかもしれないし。あっちはわたしを訪ねてくるってことよ?」

 それでいいじゃない、と軽々しくいう。こういう計算を簡単に思いついて、呼吸するように実行して、一切悪びれるところを見せたりしない。あいつの娘だな、と思わせるところだ。

 ケイティは一通り、喋り尽くすと、身が軽くなったのか、弾む足取りで宿に帰っていった。

 その足音が遠ざかってから、ジャックも宿を出た。

 アントワーヌが無駄に長い話をしたのも、宴会に招いたのも、なにかを待っていたとしか思えない。もしかしたら、夜を待ち、ケイティを追跡するためだったのかもしれない。しかし、ジャックの宿の周りに怪しい影はない。あとは彼女の背後か。

 ジャックはケイティが辿ったはずの道を走っている。ケイティの宿までの道のりは知っている。しかし、尾行者がいるのなら、彼女の背を追っていかなければならないはずだ。追跡者がいるのなら、見つけられる。

 暗い路地に入り、家屋の石壁に背中を預け、通りを窺うが、それらしい人影はない。

 もっと近づいてみるか。

 実際のところ、ケイティがどれくらいの速度で移動しているのかわからない。意外に先行しているのかもしれない。

 通りに出ようとしたとき、背後で人の気配がした。そいつが動かない。

 誰だ? アントワーヌの人間か?

 斬る、か?

 人斬りの血が騒ぐ。

 細剣の柄に手をかけて、薄く鯉口を切った。

 まだ間合いが遠い。

 背後の誰かが半歩ほど踏み出したらしい。こちらの間合いを計るように。明らかにジャックを観察している。まだ、わずかにジャックの剣の範囲の外にいる。

「ウッドランドに」と背後で若い男の声がした。「ジャック・キンケイド、という剣の手練れがいるらしいですね。キンケイドというのは軍部の一称号だそうですが」

 振り向きざまに細剣を一閃。男の外套の裾をかすめた。暗闇の中、男は余裕をもって一歩下がっている。が、遅い。うしろに進むより前に進む人間の方が当然早い。

 ジャックは腰だめに柄を据えて、光速の突きを放った。瞬間、闇の中に白い烈光がほとばしる。天に昇り、瞬きする暇もなく男の腰元に引き戻されていた。

 何事か、考えたジャックは、剣先に慣れた肉の感触がないのにも気が付いた。さらに、しばらくの間を置いて、金属が遠くの路上に転がる音が路地の中でよく反響していた。

「確かな腕です」と男は居合の構えを崩さずにいう。「ですが、得物の差が出ましたね」

「おまえが天ノ岐ユウか」

 ジャックの突きに応じられた男は過去に一人しかいない。ああいう人間がこの大陸に何人もいるわけがない。

「お会いできて光栄です」と、彼はいう。「光栄ですが、その剣、捨てていただけませんか?」

 ジャックは鼻で笑って、短くなった細剣を投げ捨てた。


     ○


 ここで会ったのもなにかの縁、などというユウについて、ジャックは傍の酒場に入った。縁などであるわけがない。

「宿が同じだったのは偶然ですよ」とユウは隅の席に座を決めて、給士に適当な注文を通していた。「確かに、ケイティさんがいらっしゃって、目をつけたのはそうですし、時をかけたのも夜の方が追跡が簡単だからだし、こちらにも色々と準備があったからです。ですが、おれの宿の前に来たところで追跡を中断しました。あなたとは何度かすれ違っていましたから。さぞ名のある剣士だろうとは思っていたんです。あなたの眼光や足運び、間違いなく一流の剣士、それもずいぶん血を吸った剣士だということはわかっていましたから、彼女が宿の前に来た時点で、あなたがジャック・キンケイドなのだろうな、と、そう思ったわけです」

 この男がいう通り、海岸でも、宿でも、二人はすれ違っている。ジャック自身もこの男から不思議な覇気を感じていた。初見の際に有無をいわさず斬ってしまえばよかった。

「なんのために呼んだ?」

 冷淡に問うと、ユウはまばたきをし、破顔した。

「我々も情報がほしいのです。あなた方がここにいるということは帝国とアンガス戦に無縁のことではないでしょう。あなた方も情報収集でこちら側に下りてきたんですか? それとも、別のなにかのために?」

 顔を背けて沈黙を守る。エドワードがラピオラナ大要塞で足止めを食らっているのも、帝国のアンガス侵攻が予想以上に手こずっているのも、それでも春までアンガスは耐えられないだろうことも知っている。が、教えてやる義理などない。ユウは苦笑したまま話を継いだ。

「ウッドランドにはお願いしたいことがあるんです」といわれても耳を貸さなかった。「これから話すことは、王国ではまったく話に出ていなくて、アントワーヌの中でもおれと数人しか知らずに、リリアにも持ちかけていないことです」

 そんな不明確で重要な話を、こんなところで、こんな奴に話すのか、とジャックが驚く。が、周りには酔っ払いしかいないし、うるさくて隣の卓の声など間違っても聞こえないし、ジャックも一応軍幹部である。それほどの不思議はないのかもしれない。

「それで、話というのはですねえ」とユウは笑顔のままいう。「ウッドランドには帝国と王国、両者の中立の立場にいていただきたいのです」

 思わぬことをいう。

 ジャックは平然としているユウに目を向けた。沈黙している。ジャックに話をさせようというのが見え透いている。苛立ちを覚えたが、興味の方が先に立った。

「なぜだ?」

「いずれアンガスは落ちるでしょう。次に狙われるのはウッドランドです。もし、東のウッドランドを落とさずに西の王国に仕掛ければ、帝国は背後を取られることになる。特に、帝都は大陸東方にあるんですから、帝国軍が西に行ってしまうと防御が手薄になる。王国との緩衝地帯はファブルがある。しかし、ウッドランドにはそれがない。となると、まず、背後のウッドランドを潰さなければならない。ウッドランドが帝国と戦って勝てればいいでしょう。王国はファブル自治領と戦って、大した援軍は送れなくなります。どうです? ウッドランドは勝てますか?」

 ジャックは答えない。内心、勝てないだろう、とは思っている。帝国の集合晶術に圧倒的な威力があるのをこの目で見た。いまからウッドランドが集合晶術を得るのは難しくないかもしれないが、ヘリオスフィアの総量で絶対的に劣っている。勝つなら強襲しか目がないが、運に頼り過ぎるところがある。

 ユウはジャックの沈黙をどう受け取ったのか、一人で頷いた。

「まあ、それは二次的な理由です。最も重要なのは、終戦の手続きをしてほしいということです」

 ジャックは眉をひそめた。いまいち話の趣旨がつかめない。

「戦争に勝つ、というのは、戦争が終わった段階で、優位に立っている、ということです。そのためにはまず戦争が終わらなければならない。どう終わらせるか。当事国同士の話し合いではまず決着がつきません。どちらも都合のいい時を待ち続け、際限がないからです。では、どうするか、というと、強力な国家が半強制的に仲裁に入ることです。例えば、帝国と王国が戦争をする。おそらく、ゴルドバ大平原辺りで大きな合戦をすることになるでしょう。その結果がどうあれ、終わればウッドランドが、そろそろやめろ、というわけです。ここでウッドランドは帝都に攻め込むこともできるし、クリフトフ海峡を下って王国の背後を取ることもできるわけです。それくらいの強制力を持って、この戦いを終わらせていただきたい。おそらく、王国も帝国も死力を尽くしていてウッドランドに勝つ術があるとしたら、二国が手を組む、くらいしかなくなっているでしょうから、まあ、終戦になるはずです」

「空論だな」

「そうでしょう」とユウは笑う。「国家なんて浅はかなものです」

「なに?」と返したジャックの言葉を無視して、ユウは続ける。

「この世界には、色々な思想があります。大陸から戦乱を除こうとする者、大陸の頂点に立とうとする者、己のため、一族のため、巨富を得ようとする者。様々います。様々いますが、国家というのはその集合体であり、集合すればなんということはありません。目指すのは富国です。いかに肥えるか、ということにのみ観点が置かれます。人のため、星のため、といっていても、結局は国を保ち、肥えさせることに存在の理念があります」

「帝国もそうだというのか?」

「そうです。帝国にしても、利益のために動いています。利益のためなら動かざるを得ない。それが国家です」

「そうかもしれない。だから、帝国は自らを肥やしている」

「そうです。でも、この場合は恐ろしくはありません」

「なに?」

「所詮、利で動いています。富で解決できます。話し合いの中で解決する道筋が必ずあります。それを見つけないのは施政者の怠慢だし、そうできないのもまた同様です」

「レオーラの施政者は愚かというか?」

「おかしな話ですよ」とユウは続ける。

「人が効率的に生きるために集まって出来上がった組織が国だといいます。農家は農業を、狩人は狩猟を、靴屋は靴屋を、鍛冶屋は金属加工を、それぞれがつきたい仕事について、それぞれの生産品を分け合ったのが国家の最初期の形だと、ある哲学者がいいました。おかしいでしょう? 人がよりよく生きるために人を殺さないといけない組織、というのは。国家の主人は政府ではなく国民、といいます。政府が国家を作るのではなく、国民が政府に国権を委託し、国家を育む。これが真っ当な国家であり、国民です。国家は政権を委託されているにもかかわらず、国民を犠牲にする。おれは、これがどうもおかしいと思う。戦争をするのも、されるのも、施政者の怠慢です。従前、国家に力を備えておけば必ず回避する手段はあるはずです。それを閃かない、施政者の怠慢ですよ、戦争は」

「アンガスが滅ぶのも、国王の怠慢か」

「そう思います。アンガスは下らない戦争をして、無駄に人を死なせた」

 ラピオラナ山脈の谷間を流れていったおびただしい量の溺死体を思い出せば、ユウの話していることも否定はできなかった。彼らはなんのために死んだのか。

「しかし帝国は攻めてくる。おれたちの事情など構いなしに」

「だからウッドランドには中立の立場にいて、戦争を終わらせていただきたいのです」

「同じだな」

 ジャックの声は得体の知れない興奮に震えていた。ユウの言葉の一つ一つが、鋭い光を帯びた瞳が、ジャックの内心にあるなにかを刺激していた。

 震えている。背筋を駆け抜け、喉元を震わせる。ジャックは強いてそれを沈め、さらにいう。

「おまえも帝国と戦争をしようとしている。おまえのいう愚かな施政者とまるで同じだ」

「まさに」とユウは笑った。

「おれはまだまだ愚かです。だから、おれは色んな人に会いたい。おれより優れている人はたくさんいます。そういう人たちと話して、色々な見識がほしい。帝国と、アントワーヌが戦わなくていい道を見つけるための知識が、おれはもっと欲しいのです」

 ジャックは自らの心臓が冷たくなるのを覚えた。

 あの男と、同じことをいう。

 そう思った瞬間、ジャックの口から激しい笑声が湧いて出た。酔っ払いの衆目を集めるほどの声音に、ユウもぎょっとして目を見開いた。

「あと、五年」

「五年?」

「あと五年、おまえが来るのが早ければ、世界はもっと色鮮やかに変わっていたことだろう」

 この男が、キンケイドと会っていれば、エドワードの時代などきっと訪れなかったであろう。世界はもっと色鮮やかに、美しいものになっていたに違いない。ジャックは自らが生き残り、あいつの死んだ運命の妙を呪わずにいられなかった。

「天ノ岐ユウ、おまえの言葉を信じよう」

「力を貸してくださるので?」

「おれはおまえの言葉を信じる。力も貸す。しかし、中立の件、おれの一存ではどうにもならない。おれは一介の軍人にすぎない。それに、ウッドランドは政府も民衆も圧倒的に反帝国派だ。それを変節させて帝国と同盟を結ばせようなどということは不可能に近い」

「ありがとうございます。おれはジャックさんがおれを信じてくれただけで」

 ユウは飛び上がって、ジャックの手を取った。その両手で握った手を振りながら、

「おれはおれを慕ってくれる人たちを死なせたくない。戦争などという愚かな結末など絶対に許されません。そのために全力を尽くす。尽くすけれど、理想が常に実現するとは限りません。そのときは、おれたちも戦うしかありません。諸事情あって、アントワーヌは、というより、おれは、いまの帝国と共にあることはできません。おれはそれが悔しい」

「諸事情?」

「アントワーヌがサンマルクへ来たのは医療団の受け入れ要請だと聞いているでしょうが、実は、その諸事情に関する知識をおれ自身が得るためでもあったのです」

 ユウはわずかに悩むようにしてから、顔を上げた。ジャックを上下左右から、怪しい瞳で観察して、口元を笑みに歪めた。

「あなたはイイ人だ」

 と、どこかを指さし、

「明日、カンピオラへ行く予定なのです。よろしければご一緒しませんか? 朝の十アウルにここにいます。諸事情のこと、わずかながらお話できるかと思います」

「おれも耳に入れておいた方がいい話なのか? おまえの個人的な、その諸事情というやつを?」

「そのことがどれほど根の深いことかわからないのです。おれの見たところ、キンケイド卿は正直な方です。口もかたそうだ。信頼に値する。聞いておいてもらいたいと思いました」

「おれのことはキンケイド卿と呼ぶな。ジャックと呼べ」

 この男を見ていると、いまは亡い男のことを思い出す。この男の前でキンケイドと呼ばれる資格はないだろう、とジャックは思う。が、この男は当然、察したふうもなく、「では、ジャックさん、ご同行願えますか?」

「まあ、ラピオラナの雪が融けるまでは暇だからな」

「ありがとうございます」と深々と頭を下げていた。

 本当に、この天ノ岐ユウと、キンケイドが顔を合わせていれば、と苦笑せざるを得なかった。


     ○


 時間的に前後して、ユウとジャックが道端で剣闘をする前日のこと。ユウは聖堂カンピオラを訪ねていた。そこでフランやパーシヴァルと顔を合わせ、マグにも会っている。

「それで、どうです?」とマグが表情のない幼顔を傾げて、「ジョゼの研究は進んでますか?」

「それが一向に」とユウは頭を掻きながら苦笑した。「あちこち大変で。ファブル自治領にはまったく近づけませんし」

 親帝国領であり、スレイエスからの交通路はノルン山脈にあったものをユウ自身が集合晶術で破壊している。

「そうかもしれませんね」とマグは頷く。「いまのアントワーヌは大陸の星だと、東側でももっぱらの噂になっています」

「流れ星にならなければ良いのですが」

「わたしの方は色々と調べましたよ」

「それはありがたいことです」ユウは両手を打ち、「おれのことで煩わせてしまって」

「ジョゼのことを調べるのはわたしの趣味であり仕事のようなものですから、お気になさらず。むしろ、ユウさんは生ける資料です」

「そういわれると、ちょっとアレですが」とユウは言葉を濁しつつ、「マグさんが手間をかけてお調べになったことを濡れ手に粟で教えてもらうのは心苦しい限りですが、よろしいですか?」

「よろしいですよ」とマグは小さな顎を引いて、「ジョゼは魔障を封じた英雄であり、アステリアの世界にマナを復活させた救世主のことですが、彼はこれらの偉業ののち、世に四つの遺産を残した、といいます」

「四つの遺産」

「星の太刀と光の鎧と兜、そして恩恵の庭園。剣、鎧、兜は彼が装備し、魔障と戦った武具のこと。庭園とは彼が創った理想郷といわれています。ここまでは一般に知られていることですが、ここから先は知られているかどうか」

「どういう話です?」

「魔障との決戦ののち、ジョゼは星の太刀を天と地に裂いたというような記述があります。色々な解釈がありますが、わたしは一刀を二刀に打ち直したのだと思い、おそらく一本は地を思わせる特徴があり、一本は天を思わせるような特徴があるのだろうとも思いました。天は天に還り、地は地に還ったともあり、もしかしたら、星の太刀の片方はジョゼとともに異世界に消えたのではないかと思ったわけです」

「ほう」とユウは目を丸くした。星の太刀、ジョゼはそれを二つに割った、その力を見てみたい、と、ヴォルグリッドが話していたかもしれない。帝国脱出のときだろうから、はるか昔の話だ。以来、様々のことがあって、すっかり忘れていた。

「ああ、ああ」とユウは何度も頷いた。

「お心当たりがおありで?」

「まあ、あるというか、なんというか」

「わたしもいまの世に二振りの有名な太刀があるのを知っています。その一振りの所持者が異界から来て、ジョゼのことを調べている」

「マグさん、これはおれも忘れていて、決して黙っていたことではないのです」

 白剣のこと、ヴォルグリッドとの会話のことを話すとマグも頷いていたが、その視線がいつもより冷たい。

「四つの遺産を手に入れれば、体現者になるそうです」

「なんです、体現者って?」

「世界を創造できるほどの力、といわれていますが、実際のところはどうか。過去のこと、特に英雄のことは誇張して書かれるものですからね。ですが、世界を分かつ壁を創造するほどの力ですから、ユウさんが秘匿にしておきたかったお気持ちはわからないでもないですけれど、まさか、信頼されていないとは……」

「マグさん、何度もいいますが、忘れていたことです、どうかご容赦を」

「しかし、ヴォルグリッドの目的に直結する言葉を忘れるというのは」とまで口走って頭を振った。「ま、いいです。これからのユウさんの行いに期待しましょう」

「ありがとうございます」

 ユウは冷や汗をかきつつ、頭を下げて、

「ということは、ヴォルグリッドはおれの白剣を狙っていて、あと兜と鎧、それと、庭園ってなんです? 不明瞭ですね」

「庭園というのがどこにあるのか、どこのことをいっているのか、どういうものか、まったく定かでないのです。たぶん、サンマルクか、ウッドランド辺りと思われていて、それらしい候補の遺跡はいくつかありますけど。ちなみに鎧と兜の所在もわかりませんよ」

「鎧と兜、か」

 ヴォルグリッドがジョゼの遺産を欲しているなら、白剣だけでなく、その三つも探しているはずだ。すでにいくつかを手に入れている可能性だってある。

「それと、これが参考になるかどうか、わたしにもわかりませんが、地下の石室に入る許可を得ました。ユウさんもご一緒にいかがです?」

「石室?」

「ジョゼ時代の壁画が残っているんです。紙よりも、木簡よりも、壁画なんですよ、最良の記録媒体は。一万年は残る、といわれています」

「超古代の技術をもって、壁画を作製したわけですか、古代人は」

「わたしたちも、ヘリオスフィアに音声を刻む術を心得ています。そのうち、映像やその他も記録できるようになるでしょう。ですが、そういった類の優れた技術を古代人が持っていたとして、再生する技術が未来人になければ、誰も記録に触れることができなくなってしまうわけです。しかし、壁画を見るぶんには目視さえできればいいわけで、しかも、一万年も残ります。実に賢い方法です」

 壁画は地球でも有名なものはたくさんあって、例えばエジプトやラフコーなど、何万年も前の情報を我々に伝えてくれている。デジタル媒体など人が管理しなければ数年と保たない。

「なるほどね」とユウは肩をすくめて、「いまからですか?」

「いいえ、明後日です。お昼過ぎ、というのはいかがでしょう?」

 その翌日、ユウのもとにケイティの件が報告され、ユウは彼女に目をつけて、ジャックの存在を知り、その夜の騒動に至る。

「というわけなのです」

「おまえが? 伝説の子孫?」ジャックは小首を傾げ、「にわかには信じられん」

「おれだって信じられません。だから、詳細を知りにサンマルクに来たし、マグさんに会ったし、これから地下室に行こうとしてるわけです」

 マグと合流し、カンピオラの中央聖堂を抜けてさらに奥、その片隅に重厚な木戸があって、さらに先の一室は窓のない個室で、地下にのびる暗黒の階段だけがぽっかりと口を開けている。マグが灯した晶機ランタンの明かりを頼りに暗闇の中を下っていった。

「あまり大きなお声は立てないように。壁画の保存状態に関わります」

「帰る」

 ジャックが背を向けて階段を登りかけるのを、ユウが彼の袖をつかんで引き止めた。

「まあまあ、そう気を立てないで」

「やはり断る」

「そういわずに。おれの協力者が大陸東部に極めて少ないのです。マグさんしかいません。そこで、ウッドランド周りのことにはジャックさんが目を光らせてくれれば。腕が立ち、知略があり、口の堅く、志を一にできる方を求めていたのです。ジャックさんはまさに適任」

「おまえと志を一にした記憶はない」

「力を貸してくれるっていったじゃないですか」

「対帝国戦にはな」

「この白剣」ユウは腰の太刀の柄を撫で、「ジョゼ時代に出来たものかもしれません。ジョゼ時代の謎が解ければ、この剣の造り方がわかるかもしれません。そしたら、最初の一振りはおれの友人に差し上げることになるかと」

 淡い光の中でも、ジャックのこめかみがヒクリと蠢いたのがわかった。

「おれを物でつるか?」

「そういうわけではなくて、手伝ってくださった報酬は差し上げたいといっています」

 ふん、とジャックは鼻を鳴らして、しかし、足はユウのうしろを大人しくついてくるようになった。

 ここです、とマグが立ち止まり、ランタンを掲げる。一帯は十六畳敷きくらいの直方体の部屋で、天井は二メートル程度といったところだろう。跳ねれば届く。その部屋の壁、ぐるりに彫刻が散りばめられているらしい。ランタンの光だけでは弱く、全体を照らせない。

「右手、入口脇からジョゼの降臨、大陸統一、竜の一族との戦い、海洋制覇など、順に並んでいて、最後が入口の左手、奥から順に、神託、魔障封印、昇天、とそれぞれ呼ばれる有名な壁画です」

 どれもこれも、抽象的な絵だ。棒人間が集まり、四足の獣と戦い、または羽根の生えた獣と向き合い、球体が重なったような塊がたくさん描かれていたり。中でも後半は少しわかりやすいかもしれない。神託は小さな人が巨大な羽根の生えた人の手に包まれて胸元に引き寄せられており、魔障封印は後光を放って浮かぶ円盤に様々な輪郭を持った生き物たちが向かうところであり、最後は人型が後光の中へ昇ってゆくシーンである。壁画の上下にも法則性のありそうな絵、おそらく文字が列を成している。

「古代レオーラ語です。まだよく解析されていませんが、各場面ごとの表題や注釈のようです。それで、これらの壁画の各場面は場面ごとを切り取るようにして、各地に点在しています。例えば、ジョゼの降臨から竜の一族まではファブル自治領に、海洋制覇は南のアナビア大陸、チーム半島というところにあります。終盤、神託から魔障封印のあたりは中央大海を越えてさらに南、ガムル大陸のどこかにあるといわれていますが、見つかっていません」

「ガムルは国交がないと聞きます」

「そうです。ガムル大陸は大陸全土で他大陸との国交を断絶しており、侵入禁止。近海も荒れやすく、近づく船は雷に打たれて炎上、沈没するといいます」

「ふーん」と呟きながらユウは部屋を一回りしている。が、ジャックはつまらなそうに、

「それで、ここに来てなにをするというんだ?」

「白剣とユウさんがここを訪ねて、なにかがあるかと思いましたが、なにもありませんでしたね」

 マグにいわれて、ユウは白剣の鯉口を切って刃を見てみたが、何事もない。思えば、ヴォルグリッドがあちらの世界に来たとき、この剣は反応らしいものを見せた。ここになにかあるなら、また反応してくれそうなものだが。

 マグは小さな明かりの中で話を続ける。

「ジョゼの至宝、正確には星の剣、光の鎧と兜、恩恵の庭園。これらは各地に散らばった壁画遺跡にある暗号を解くことによって、辿り着いた場所にある、とされています」

「ガムル大陸には行けないのに?」

「そういう観測がある、というだけで、遺跡を訪ねたところであまり意味がないかもしれません。なにせ、法具の一つは異世界にあったようですから」

「まあ、確かに……」

「そこで、わたしは別の角度から鎧兜、それと庭園の場所を探そうと思います。ここで話せることはそれくらいでしょうか」

「おれはどうしたものか」とユウは腕を組んでいる。

「ヴォルグリッドに訊けばいい。まずは帝国に勝つことだ」

「実に端的でいい回答です」

 ユウは笑い、

「しかし、見識が広まりました。鎧兜と庭園、世界各地に散らばる遺跡。なかなか面白そうなお話です。あとはジャックさんですが……」

「おれは骨董品探しには付き合わないぞ」

「ジャックさんは小耳にはさんだ情報を時折話してくださればいいんですよ。それより、ウッドランドの政略の件の方が大事です」

「それも無理だといった」

「まあまあ、心に留めておいてください」おれの方は、とユウはいう。「エドワードがなぜヴォルグリッドに肩入れするのか、謎ですが、いずれエドワードからも切り離して孤立させ、捕縛します」

 やりますよ、おれは、とユウは一人覇気を発する。

「この下らん戦争を阻止して、ヴォルグリッドの野望も挫き、ジョゼの秘密を解き明かしてやるんです」

 やりますよ、と拳を突き上げたものの、誰一人追随しない。

「一人でやってろ」

「ユウさん、ここで大きな声は厳禁です」

「そりゃ、申し訳なかったですけど」

 歯を食いしばったユウの顔が深々と皺を刻んでいた。

「人選を間違えたかもしれない」


     ○


 これからレオーラ大陸は南北を二つに割った戦乱の炎に包まれていくことになるのだが、その前に一つの出会いを描きたい。

 このころ、アリッサもリリアに連れられてサンマルクにおり、カンピオラを訪れていた。

「ふむふむ、ふむふむ」とリリアは頻りにメモ帳にペンを走らせている。フランは若い寝たきりの患者の腹にヘリオスフィアを当てつつ、症状とそれに対応する技術の説明をしているのだが、まだ幼いアリッサには謎の暗号が取り交わされているとしか聞こえなかった。

「ヘリオスフィアの明度は五十四ルアンから六十二、三といったところかしら。色合いはやや緑がかった灰、この色彩を維持すること。少し触れてみなさい」

 患者の腹部にあったヘリオスフィアにリリアがフランと入れ替わって触れる。

「ああー、なるほど。よくわかります。こういうことなのですね」

「リリアちゃん、明度が少し落ちてきているわ。色彩も少し緑が薄い」

「はい」

 フランは先ほどまで蒲団を被っていたのとは別人のように生き生きとして、むしろ、目を爛々と輝かせ、患者を仔細に観察しては様々の治療を施している。患者のあちこちにヘリオスフィアを当てて、時にはスフィアを両手で抱えているだけのように見えるときもあり、どこからどこまでが検診なのか、治療なのか、アリッサには判断できなかったが、呻いていた患者たちがたちまち安らかな呼吸を取り戻すあたり、彼女の実力は本物なのだと思わざるを得ない。

「わたしも、わたしも」とアリッサもリリアのうしろで背を伸ばす。

「アリッサちゃんもやってみますか」

 踏み台に乗って、リリアの代わりにスフィアへ手を添えてみたものの、その輝きはすぐに鈍いものに変色し、色合いも黒ずんでゆく。石の向こうにかたい肉の感触があるのみで、特に変わったことはなにもない。

「なにも感じませんわ」

「アリッサちゃんはまだまだスフィアの初歩を学ばないといけないわね」とフランは苦笑し、「リリアちゃんのお弟子さんかしら? それとも、お手伝いをしているだけ?」

「わたし、これから学校を開こうと思うのです」

 リリアは意気込み、

「人に教えるというのはどういうことか、アリッサちゃんに学ばせていただいております」

「ははあ、なるほどね」

 フランは金髪を払い、寝台から離れた。三人は退室しながらまだ会話を続けている。

「病院ではなくて、学校を作るの?」

「直近では病院を作るつもりですが、帝国とのいざこざが終わったあとの話です」

「遠い未来のお話か」

 ヘリオス教会の施設は付加帯の傍にある都合、石灰岩とその変成岩、大理石などが多いが、ここの建屋はさらに木材も織り込んで組み上げられていて、温かさや柔らかさもある。支柱のみに岩石を用いたり、壁は一面に木材を利用したり、腰板を使ったり。その方が災害に柔軟で、破損の修復も容易なのだという。

 二階に当たる木床の上を歩いているとき、アリッサは開け放たれたままの病室に目を向けた。明らかに『人』とは違う姿が、寝台の中にちょこんと座っていたのに驚いた。黄色い体毛は背中を覆い、肌が剥き出しになった前面は白磁より白くのっぺりとしていて、その中で輝く青い瞳を窓の向こう、外の枯れ枝に向けていた。

「アリッサちゃん?」とリリアが足を止め、アリッサの視線の方を見る。と、アリッサと同じように驚いたようだ。ほんのわずかな表情の変化でしかなかったが。フランは目だけで二人を促し、三人に戻ってまた廊下を歩き出す。

「あの子は近くにあった獣人の村の生き残りの子よ」

 ゴルツィオ教信団を名乗る狂信者たちに襲撃された村は教会騎士団が派遣されたものの壊滅、その場に居合わせたユウが彼女を保護したのが一年前だという。

「まだ動けないのですか?」

「動けない、というより、動かないのね。まあ、家族も友人も目の前で殺されて、ひどい心的傷害を受けたのでしょう。ヘリオスフィアでもどうにもならないわ」

「そうでしょうね」とリリアも暗い声を出し、胸元に握った拳をかたくする。「その気持ちはなんとなくわかります」

「あとは、ある種の薬物を投与するか……」

「フラン先生」

「しないわよ。違う生き物だから適量も難しいし、効用も同じとは限らないし」

「そういう問題ではありません」

 いい合う二人を前方に見つつ、アリッサはまだ開きっぱなしの病室の扉を振り返った。


     ○


 青い空、白い雲、黄色い木漏れ日、風に揺れる木々のざわめき。

 見える世界は変わらない。しかし、全てを失った。

 父、母、祖父、祖母、友人も顔しか知らないおじさんおばさん。不条理にこの世界に呼ばれ、世間から爪弾きにされながらも懸命に生き、世代を重ね、身を寄せ合い、助け合って生きてきた人々。

 すべて燃えてしまった。なにもかもなくなった。

 なにがいけなかったのか、わからない。

 異形者と呼ばれ、この世界のいわゆる人間たちから好奇の目を、あるいは忌避の目を向けられ、奴隷になるか、殺されるか、山里に身を隠しつつ慎ましやかに暮らすしかなかった。なぜこの世界に呼ばれたのかもわからず、呼ばれたくもなかったが、もはやどうしようもなく、隠れるようにして生きてゆくしかなかったと祖父は語った。人間に悟られないように、静かに、ただ家族を愛して生きていたかっただけだった。

 それがすべて燃えてしまった。

 人間。

 人間が憎い。

 殺したい。

 けれど、その力もない。気がついたときにはヘリオス教会の病院の寝台の上で数日を過ごしており、全身の筋肉が失われていた。

 死にたい。

 殺せないのならこのまま枯れるように死んでいきたい。しかし、日に三度運ばれる食事に手が伸びる。数口だけ呑み下す。身体が死ぬことを許さない。生きろといっている。嫌だ。死にたい。

 今日も、あの村と変わることのない青い空と白い雲を、ただ眺めている。

 ただ一つ、いつもと違うことに気がついた。寝台の周りを歩く異様な生き物がいる。なにか無数のヒダを体中にまとい、床の上を這うようにして進んでいた。

 同類かと思いつつも、その異様さに身をかたくしたが、実際はひだの多い服を着た人間の、小さな女の子だった。身体が小さすぎるわりに、服の嵩が多く、一見そういう塊の生き物かと思わされた。

 水を蓄えた桶を顔を真っ赤にして持ち上げて小卓に乗せ、自分は身長が足りずに踏み台に登って、桶の中に布巾を浸し、小さな手で懸命に絞っている。開き直した布巾を丁寧に畳んだ彼女は、

「はい、どうぞ」

 と、それを差し出してきた。

「顔を拭くんです。ここに来てから一回もお風呂にも入っていないし、身体も拭いていないっていうじゃないですか。ちゃんときれいにしないといけませんわ。そうじゃないと病気になるって、リリアさまはおっしゃいます」

 はいどうぞ、とさらに押しつけられる。顔を背けて無視していると、彼女は寝台に乗り出して、布巾をこちらの頬に当ててきた。その強引さと布巾がまだびしょびしょに濡れそぼっていることに驚いた。

「なにするの!」

 久しぶりに出た声はしわがれていたが、意外に大きく、はっきり響いた。その強さに自分で驚く。

「きれいな肌です」と少女は顔を和ませ、「大事にしないといけませんわ」

 人間のくせに。

 思ったときは片腕が少女の胸ぐらをつかみ、捻り上げて寝台の上から投げ落としていた。

「ぎええ」

 悲鳴に鈍い落下音が重なり、騒音になる。

 やり過ぎたか、と思ったものの、構うことはない。彼女が死んだところで問題ではないのだ。人間は死んでいい。布団を頭から被ると、世界は白に覆われた。

「いてて、仕方のない子ですねえ」と布の向こう、寝台の下から声がした。しばらく寝台の周りをがちゃがちゃいわせていたが、いつかしか気配がなくなっていた。

 久しぶりに力を振り絞った片腕が、じんじんと、ひどく痛んでいる。


     ○


「特に異常はないようです」と、女の人がいう。昨日痛めた片腕に、ヘリオスフィアを当て、転がしつつ、「少し筋肉が痛んでいますが、これくらいは自己治癒に任せましょう。以後無理をしてはいけません。きちんと段階を踏んで身体を動かさないと。一年以上動いていないと聞きます」

「よかったですわね」とひだまみれの少女が寝台の横で満面の笑みを浮かべている。「リリアさまの診察は間違いありませんわ」

 リリアと呼ばれた女性は小柄だが、落ち着いていて、診察していた腕から手を離す所作、ヘリオスフィアを腰元の革袋に戻す動作、仕事を終えた手をお腹の前で組む姿勢も、すべて優雅で気品というものがあり、隣の少女との格の違いがすぐわかる。理想の女性、こういうふうになりたいと思わせるきらめきのようなものがあった。しかし、特段これという特徴があるわけではない。ただ、全体的に容姿が整っていて愛らしいということくらいか。昔、人間の描いた絵本を読んだことがある。その中にあった、お姫さま、という部類に入るのかもしれない。

「お名前は?」

 と訊かれて、不覚にも人間無勢に答えそうになった。が、一年あまりまともに動かしていない咽は急に動かない。リリアは無視されたにもかかわらず、微笑んで、

「いいんです、ご無理なさらないで。少しずつ機能を回復させていきましょう」

 彼女の優しさに耳が慣れ始め、心が冷静になっていく。機能を回復させる必要なんてない。もう動いても仕方がない。顔をそらして、寝台の布地を見つめた。

「アリッサちゃん、この子のこと、お願いしますね」

 それは困る。

 ひだまみれの少女、アリッサに始終付きまとわれることになる。だが、声は出ず、出せてもいまさら出すわけにもいかず、アリッサが伸び上がるほど元気に片手を挙げるのを見ているしかなかった。

「お任せくださいませ、リリアさま」

 それから先、案の定、アリッサは付きっ切りで世話を焼き始めた。

「ご飯、冷めてしまいますわ」

 匙で粥をすくって口元にまで運んでくる。口を閉じて、顔も逸らす。

「仕方がありませんね」と呟いた彼女が粥を食べている。なんでわたしのぶんを食べているのか、なにを考えているのかわからない。

「少し味が薄いですわ。もっと濃いのが好み?」

 そういうわけではないけれど、と思いつつ応えない。彼女は小さいわりにそれなりに食べる。

「もしかして、こういうの食べないとか? 草食? 草食ならお粥は食べるか」

 食べるけど、どちらかというと肉食、とも思っただけでいわなかった。

「カリブとかも温めたもの食べないか」

 一緒にしないで、ともいわなかった。

 夜になって体を拭こうとして来るアリッサと格闘し、食べ物を食べていない体ではなかなか勝てず、なし崩しに押し潰されて体を拭かれた。

「背中の方はどうしたらいいのかしら? もっとたくさん水がいるわね。頭を洗うみたいに。大浴場に行きましょう」

 寝台の下から引っ張られてもさすがに降りず、布団にくるまって寝台の中に留まり切った。アリッサは諦めて、なにをしているのかと思えば、自分の服を脱ぎ始めていた。肌着一枚になって布団の中に入ってくる。

「温かいですわね」

 枕を引き寄せ頭の下に敷いたところを見ると、ここで寝るつもりらしい。

「なんで?」とさすがに聞かざるを得なかった。アリッサは不思議そうな顔をしている。

「なんでって?」

「なんで一緒の布団に入ってるの?」

 がらがらに枯れ切った声を彼女は用心深く聞き取って、うんうんと頷いた。

「だって、あなたの看病をするんですもん。わたしが別のところで寝てる間になにかあったら大変でしょう?」

 なにもない。この一年半、なにもなかったのだ。いまさらあるわけない。

「あなた、病気なわけでもないし。一緒に寝ていいでしょう?」

 ダメ、といおうとしたが、声を出すのも、抗うのも億劫になっていた。アリッサと格闘した体が慣れない声を出して疲れている。

 もうどうにでもなれ。元々そのつもりだったはずだ。こんな小娘が隣にいたところで、わたしの一念は変わらない。


     ○


「アントワーヌ領に帰る?」

 アリッサは卓を叩いて立ち上がった。足は柔らかい綿を詰めた布地のソファーに埋まっている。

「アリッサちゃん、椅子の上に立ってはいけません」

 リリアは注意し、ユウに向き直った。暗い部屋には数台の晶機照明が据えられいて、小さな橙色の光が壁や棚にある瀟洒な飾りを濃い陰影の中に浮き立たせていた。その明暗の狭間で、ユウは夕食後の茶を喫している。

「ユウさんのここでの務めが終わりましたか」

「うん。フラン先生は一緒に来てくださるし、北の雪が溶けて、帝国が次の動きを取る前に王国に帰りたい」

「あとは医療団の荷物の積み込みでしょうか。どれくらいかかるか……」

「ハルに聞いたけれど、あと三日ほどだという。少し長くなっても四、五日。どちらにしても終わり次第ここを発つということだ。リリアもアリッサも、そのつもりでいてくれ」

「お兄さま、もうひと月、いえ、一週間、なんとかなりませんか?」

「なんともなりません」

「そんなあ」

「アリッサちゃん、椅子の上で跳ねてもいけません」

「はあ」とアリッサは椅子から飛び降りると、肩を落として部屋を出ていった。珍しいほどに落ち込んでいる。

「彼女のことか?」

 ユウもアリッサが、例の異形者の少女と親しく、一方的なものらしいが、親しくしているのを聞いている。

「アリッサちゃんは、ちゃんとお話しできるというんですが、声を聞いたことがあるのはあの子だけです」

「まあ、いいだろう」

「ユウさんは会いに行かないんですか?」

「まだまだ」とユウは乾いた声で笑い、「おれが行っても仕方がない」

「ユウさんが助けたのに?」

 リリアの訝しむ顔にはユウの情を疑う色がある。

「これでいいのさ。もし、おれがあの子と接触して百言尽くして回復させたとする。しかし、おれが吐こうとしている言葉はあんまりに凶暴だから彼女を修羅の道に誘うことになる。それは良くない。怒りと憎しみを生きる糧にするよりも、アリッサが心の支えになった方が彼女のためだろう」

「そうかもしれませんが……」

「まだ三日もある。しばらく様子を見てみよう」

 ユウはまた茶を一口含む。

 晶機の明かりが光の粉を撒きながら、ゆらゆらと揺れていた。


「と、いうわけなのです」

 とアリッサがずいぶんと落胆したふうにいう。

「わたしがいなくなって、あなたがちゃんとご飯を食べたり、体を清潔に保ったりできるのか、本当に心配です」

 ともいって、嘆息を漏らしていた。

 こちらとしてはいなくなってくれてせいせいする。わたしはご飯を食べるつもりもないし、体を清潔に保つ必要もない。このまま寝台の上で野垂れ死ぬようにして絶命できればそれでいい。ただ、あとは死ぬだけだ。なのに、この小娘が来てから、食事の量が増え、日々行われる寝台の上での格闘で筋肉が目覚め始め、体も拭われて垢がすっかり落ちている。要するに、健康に向かっている。これは目指すべきところではない。

 足の速い白雲の様子を眺めていると、じっと眺められている気配があった。アリッサが寝台の上に乗り出して、左右に揺れながらこちらの様子を窺っているのだ。

「あなたもアントワーヌに来ない?」

 ぎょっとして、アリッサを見つめ返した。が、感情を露わにしたことを悟られたくなくて、再び顔を外へ戻す。

「お兄さまに頼めば子供一人くらい船に乗せてくださいますし、アントワーヌにはお仕事がたくさんありますから、お小遣いに困ることもありませんわ。その前にあなたは体を治さないといけないですけど」

 お兄さま? 彼女の兄がアントワーヌの偉い人なのだろうか、と疑ってしまう。なんの苦労も知らないから、こんなに能天気で、綺麗な服を着、人の心の中にずかずかと乗り込んで来るような子が出来上がったのか、とも思う。

「お兄さま、ご存知ないの?」

 アリッサはなにを勘違いしたのか、こちらの疑う眼差しを『お兄さま』に対する疑義だと誤解したらしい。

「お兄さま。あなたをあの村で助けて、ここまで運んできた人です」

 わたしを助けた人、と思えば、少なくない興味が湧いた。あの日、すべてを失ったとき、誰かに抱えられて風を切った感覚がある。あれは母だったのか、父だったのか、それとも彼女のいうお兄さまだったのか。もはや定かではないけれど。

 わずかな好奇心をアリッサに悟られないよう、努めて無表情を装った。

「一緒に行きましょうよお」と腕を取って振るアリッサを振りほどき、布団にくるまった。彼女も一緒に潜り込んで来る。追い出そうとしてまた格闘になる。最近は食事量も増えてそれなりの腕力が戻ってきている。が、片腕の痛みを思い出して本気になれない。結局アリッサに抱きしめられたまま、彼女の寝息を耳元に聞くことになった。

 これもあと数日の我慢だ、と思うと、なぜか涙腺が熱くなってしまった。


     ○


 アリッサはアントワーヌに帰る準備が忙しいらしく、早々に船に戻っていったこの夜、誰かが部屋に入ってくる気配があった。アリッサではない。匂いでわかる。しかし、どこかしら嗅いだ記憶のある匂いだった。

 起き上がり、青い瞳で闇の中を注視した。侵入者は手にしていた晶機に小さな光を灯し、男の人の姿を部屋の片隅に浮き立たせた。

「おや、起きていたか」

 遠い記憶の底にある声、のような気がする。しかし、この世界の人間など、アリッサとリリアの他は誰も知らない。

「自己紹介をしよう」と彼はいう。「おれの名前は天ノ岐ユウ。いまは、アントワーヌの差配を任されている異邦者だ」

 異邦者、と聞いて、寝台の上で起き上がったわたしの目は丸くなっていただろう。自分と同じ境遇にもかかわらず、彼はこの世界のいわゆる人となにも変わるところがない。

「君に会ったのは、あの日以来だ。記憶にないかもしれないが」

 もしや、と思い当たる人物がいた。アリッサのお兄さん。家族と村を失ったあの日、遠い記憶の中で、彼の匂いを嗅ぎ、声を耳にしたかもしれない。アントワーヌの差配者であり、教信者を叩き斬って自分を救った戦士だというから、もっと壮年の、体格のいい男性を想像していたが、柔らかい雰囲気の、どこにでもいそうな、まさにお兄さん、といった雰囲気だった。

 寝台の隣にある卓の上には水差しがひとつ、底が晶機になっていて、ボタン一つで水が沸き出して来る。ユウはそれを作動させて、そばの棚からコップをひとつ取り出し、丁寧に水を注いだ。おもむろに、一口、飲み下す。

「アリッサはひどく落胆していたよ。君を誘ったけれど断られたって」

 膝にかかったシーツを握り、顔を逸らした。ユウは患者の横顔に視線を注いでいる。

「もちろん、アントワーヌに来る来ない、それ以上に、君の生き死にも君の勝手だ。命の扱いなんて好きにすればいい」

 ユウの方を向きかけた顔を意地で止める。

「ところで」と彼は構わずに話を続ける。「じきに帝国との戦争が始まる。わかるかな? この大陸の北にある大国だ。アントワーヌはこれと戦わなければならない。それが終われば敵味方戦うべき相手がいなくなり、大陸に溢れた兵が行き場を失うわけだけれど、おれはその戦力をゴルツィオ教信団に向けようと思う」

 ついに彼の方を向いた。彼がなにをいいかけているのか、わかる。

「まあ、未来の話だ。まったくわからない。帝国との戦いでおれが生き残れる保証もない。もし生き残れれば、やるつもりでいる。おれも異邦者という立場にある。姿形がこの世界の人に似ているからいまの役を与えられて不自由もないが、一歩違えれば君のようになっていた。異形者でもおれは助けたいと思うし、異形者を始末して回っているゴルツィオ教信団は絶対に許すわけにはいかない」

 そこでどうだろう、と彼はいう。

「一緒に来る気はないかい?」

 彼は片膝立ちにしゃがみ、

「異形者は一般的に戦闘力に長けている、という。君も戦い方を覚えれば復讐する力を得ることができるだろう。君のご家族と同胞たちを殺したクズどもは命を奪っておいて、その成功を笑い、まだのうのうと生きて次の獲物を探している。これを見逃して君が苦しんでいるのはバカらしいと思わないか? 生きて、奴らを血祭に上げた方が、世のため人のため、この世界の未来のためだとも思わないか? 君の精神的にも満足だろう」

「本気で、いってるんですか……?」

 かすれた声が咽喉から漏れた。眉間が熱を持ち、涙を湧かす。彼はにっこりと笑い、

「世には復讐などバカげているという人もいる。しかし、誰かに勝ちたい、負けたくないという精神が人を成長させるなら、理由はなんでもいい気がする。正しいことは成長の中で探していけばいい。君のように、寝床の中で日長外を眺めているよりはいいだろう」

「わたし……」

 揮えた拳に握られたシーツが、ぽ、ぽ、と音を立てる。黒い水玉が真白なシーツに浮んでゆく。

 復讐。奴らを……。

「わたしに、出来ますか?」

「わからない。なにせ、君の体はずいぶんと弱ってるからな」

 彼は卓の上に晶機の灯りを置くと、その晶源を落とした。小さな部屋に闇が満ちる。彼の声だけが響いている。

「一晩考えるといい。とはいったけれど、夜に考え事をすると良くないことばかり考える、ともいう。ひと眠りして考えるといい。明日の日没にはおれたちはここを出る」

 蝶番の軋む音がして、扉が閉まった。

 考えるまでもない。わたしの答えは決まっている。


     ○


 アリッサは足音も激しく、洋服のひだも乱して、病棟の廊下を走っていた。

 今日の夕方にはアントワーヌ船は出航してしまう。その前にあの子を説得して、王国に連れて行かなければならない。

 あの子、そういえば、名前も知らない。

 思い至ったアリッサの歩調は自然と緩まり、知らない名前のことを考えながらとぼとぼと歩き、男の人の足にぶつかって倒れた。続けざまにに、別の男の人に踏まれそうになったりした。

「ごめんごめん」と彼らはいう。「大丈夫かい?」

「ちゃ、ちゃんと気を付けてほしいですわ」

 顔を赤くしながらいい放ち、アリッサは廊下を駆けていく。

「廊下を走っちゃいけないよ」

 といわれながらも走っている。ぼんやりしていた自分が悪かったのはわかってる、それを認めずに悪態を吐いてしまったのもわかってる。その場から離れたい駆け足であったが、目的地に急ぎたい駆け足でもある。

 あの子の名前のことはもういい。とにかく連れて帰るのだ。ここにいると、一人でいると、あの子は死んでしまう。それが幼いアリッサにもわかるほど、あの子は闇を抱えている。

「急がないと」

 もう日は昇り切って白々とし始めている。

 いつもの扉を叩くようにして押し開く。と、寝台の中は空になっていた。捲れた布団があるっきりだ。

 どこに行ったのか。

 名前を呼ぼうとして、知らないことにまた気づかされる。が、気にするほどでもない。呼ぶ手間もなく、彼女は寝台の奥に立って、こちらに金髪の背中を向けたまま、空を眺めていた。

 立って?

「あ、あなた……!」とアリッサが叫ぶ。と、彼女は振り向いて、青い瞳を瞬かせた。

「ジーニャ」

「じーにゃ?」

「わたしの名前。お父さんとお母さんがつけてくれた」

「ジーニャ」と叫んで彼女の細い体に飛びついた。

「ちょっと、抱きつかないで」

「ジーニャ、ジーニャ」

 頬擦りして肌の滑らかさと柔らかさを確かめる。柔らかい。やめなさい、といいながら、抵抗するジーニャの腕に力はなかった。

                                 了


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