第五巻 大陸蠕動編 三章 旅をすること
三章 旅をすること
クラインの部屋に行くと、珍しいことにカルヴァンがいて、応接用のソファーの上に靴を履いたまま寝そべっていた。
「これは、珍しい客人がいらっしゃる」
「アントワーヌの船が港に入ったって聞いたからな」
立てた腕で頭を支えながら、もう片手で卓の上に投げ出してあった資料を叩いていた。
「これ、ウラカ台地に建設する工場の資料だ」
「ついに着手するときが来ましたか」
ユウも向かいのソファーに腰かけ、資料の一頁ごとを眺めていくが、図案といくつかの文字がようやく認識できるだけだ。なにが書かれているのか定かではない。
「同じものがレイスの公邸に送られている」とクラインがいう。「あとはリリア嬢がスレイエス民を説得するだけだ。が、目処はついている。帝国からの安価なヘリオスフィアが輸入されなくなったために、スレイエスの今冬の燃料費は高騰している。アントワーヌが連戦の中で集合晶術を乱発したことにもよるだろうけどね。まあ、その辺りの資料と、ぼくの説明案も併せてリリア嬢のもとへ届けさせた」
「では、現地で確認することにします」
「おや、レイスに行くのかい?」
「かくかくしかじか、こういうことがありまして」
ムガから一子を託されたことを正直に話す。クラインとカルヴァンは事を共にすると決めた人間たちだ。一切の秘密が必要ない。やはりというべきか、カルヴァンは興味なさそうにしている。自分の研究のことにしか興味を示さないのだ。
一方のクラインは「なるほどね」と眼鏡を上げ、
「しかし、アントワーヌが独自にジジオ家と同盟を結ぶのはいかがなものかと思うね。力を持ちすぎたアントワーヌは王国の脅威になり得ると思われる。それでは印象が悪い。王国議会、各地の貴族、あちこちの民衆から反感を買うことになるぞ」
「まだ正式なものではなくて、小さな茶室で話した内々のことです。アドリアナ陛下にも王国議会にも伺いを立てますし、王国が同盟してくれたっていいんです。どちらにせよ、アントワーヌはジジオ家と今後昵懇にしていくのは決めました。そういう覚悟です。内海討伐のときと同じ」
「君は正義の塊だね」とクラインは口元だけで笑い、「まあ、運営について、ぼくは口出しをするつもりはないし」
「ツレないことを。おれはクラインさんを頼ってますし、クラインさんが反対するなら考えます」
「いや、実際、悪いことはない、気をつけなさいといっただけだ。ぼくには判断する材料がないんだよ。なにせその茶室にいなかったから。きっと君はコスヨテリをその目で見、彼らが有望だと思ったんだろう。信じるよ、君の直感を」
「はは、そういっていただけると自信が持てますねえ」
それとカルヴァンさん、と標的を変える。カルヴァンは寝そべったまま、耳の穴をほじっている。
「なんだよ、政治の話は興味ねえぞ」
「ひとつ、考えてほしいことがあるんです」
「またかよ、悪い気しかしねえな」
「まあまあ、工場の建設が決まるまでまだ時間があるでしょうよ。その間のちょっとした頭の体操ですよ」
「おれは別に頭の体操の材料に困っちゃいない。むしろ、多すぎて困ってる」
「端的にいうと、新しい兵器を作っていただきたい、というより、考案していただきたいのです」
「兵器?」と眉をひそめ、「対帝国用、ということか」
「戦争を決定づけるのは常に新しい技術であり、武装です。新しい力の前には国力も兵数も無意味になることがままあります」
「かつての石器文明は青銅文明に敗れ、青銅文明は鉄の文明に敗れ、ということかな」クラインが机の上を指で叩きながら、「人工ヘリオスフィアの登場もそうかもしれない。まあ、無きにしも非ずだ」
「それほど劇的な技術革新は文明が加速していたとしても数百年に一回、あるかないかだ」
「その劇的な革新をカルヴァンさんがやればいいじゃないですか。歴史に名が刻まれますよ」
「別に刻まれたくない」
「ともかく、船の中でおれの案はまとめてきましたから、目を通しておいてくださいよ。異世界人の妙案、気になるでしょう?」
ユウは傍らに抱えていた紙の束をカルヴァンに手渡した。
「おまえ、字が書けたのかよ?」
「付き人に口述筆記をさせました」
カルヴァンは冊子に指を添えてパラパラとめくり、
「ま、目だけは通しておいてやるよ。気が向いたらな」
「それだけでも光栄でございます」
ユウは頭を下げ、
「クラインさん、そういうわけで、おれはレイスを経由して、フォーラントから教会領に向かいます。向かう途中に一度ここへまた寄ることになるでしょうが」
「楽しみに待っているよ」
と手を振るクラインに見送られて、建屋を出た。厩舎ではタモンがセキトと自分の馬に荷物を積んでいる。
「イオリは行ったか?」
「ええ。なかなか馬術の筋もよろしいようでしたが、セオドア殿には及ばないでしょう」
「いまから出て追いつけるかな?」
「それは旦那の腕次第で」
「足を引っ張るなよ」
セキトにまたがったユウは原野に出、雪の混じり始めた風を切った。
○
エルサドルから公都レイスまで三百キオ余り、早馬で駆けても四日はかかる行程だが、セオドアは三日で駆け通したらしい。イオリもそれに付き合ったようだ。二日遅れて公都入りしたユウが再開したイオリは真っ青を通り越してコンクリートみたいな顔色のまま、寝台の上で横になっていた。
「よくセオドアについて行けたな」
「ぼく、ここの地理がわかんないんですよ、置いていかれたら死ぬしかないじゃないですか」
「そりゃそうだ」
ははは、とユウは笑っていたが、イオリからすれば笑いごとではなかったらしい。実にいかめしい顔をしている。
リリアが公邸を改築して、重篤な患者を入院させている一棟だった。実験施設、という人もいるが、多くの患者が治癒していて、巷でのリリアの評判は聖女のようだ。施設を運営しているのはリリアが統率している晶術士たちと、有志のスレイエス民。その中に、フリルの塊のような幼女がいた。
「おや、アリッサちゃん」
「あら、お兄さま、遠くの海に出ていったって聞きました。帰っていらしたのですね」
「そうね、今日帰ってきたばかり」
「ジェシカさまは、あいつは二度と帰ってこないとおっしゃってましたけど、なにかの間違いだったのかしら」
「あいつにはおれからきつくいっておく」
「それと、リリアさまがずうっとお兄さまのお話ばかり。いまはどこにいるのかしら、とか、今日も元気でいらっしゃるかしら、とか、また無理をしてないかしら、とか。恋する乙女みたい」
「アリッサちゃんも、あんまり人の話を他人に漏らすもんじゃないよ」
「わたし、そんな口の軽い女じゃありませんわ」
などといいながら、ヘリオスフィアを光らせてタライに水を溜めていた。小さな手で布巾を絞って、イオリの額に乗せている。ユウは、おや、と思う。
「この世界の人はやはり本能的にヘリオスフィアが使えるものなんだな」
「ほんのうてき?」
「勉強や努力をしなくても」
「使える人もいますけど、使えない人もいます。わたしは危ないからって、触らないようにお母さんにいわれていました」
「いまはいいの?」
「リリアさまに教えていただきましたから」
「リリアに?」
「学校を作りたいんですって。最近、時間の空いているときにヘリオスフィアとか、応急手当とか、そういうのを町の人たちに教える会を開いているんですの」
「講習会だな」
「ユウさーーん」と叫んでくる声とともに荒々しい足音がやってきた。「なんでいっつも急に帰ってくるんですかね。少しくらいお手紙とかくれてもいいんじゃないですかね」
リリアは地団駄を踏むようにしていう。
「船がついてすぐにここに来たんだ。手紙を書いてる余裕も、出す余裕もなかったんだよ。おれより先にセオドアのやつが来ただろう」
「でもそれだけ」と腰に手をやって仁王立ちしていた。「まったくもう」と唸っている。
遅れてアンジュがやってきた。
「やあやあ、ユウさん、お元気そうでなによりです」
「おまえも呑気そうでなによりだよ」
「ユウさんったら、わたしが呑気でいられるっていうことは、それだけ世の中が平和だってことですよ」
「吞気すぎて平和でないことに気づいていないのかもしれない」
「なにおう」
「アンジュ、茶番はそれくらいにしておきなさい」
「茶番て、リリアさま、わたし、罵倒されてるんですけど」
「ユウさんは今度こそしばらくこちらにいられるんでしょうね」
「いや、すぐに教会領に行くつもりだけど」
「教会領」と呟いたリリアの顔が華やいだ。「教会領ということは、フラン先生にも会われるんですね。わたしも行きます。色々とお伺いしたいことができましたし、フラン先生の近況も伺いたいですし」
「おまえ、患者さんとか、いるんじゃないの?」
「大丈夫です、わたしの代わりができる人はもういくらでもいるんですよ」と彼女はいう。のちに聞いた話では、晶術部隊の幾人かを選んで、治療部隊を組織しているという。さらに医学研究室を立ち上げる計画まで立てていたが、予算と時勢の都合、見合わせている。以前から、リリアには奇人の要素があったが、一時の平穏と富を得て、それが活発に蠢き始めたらしい。
「わたしが教会領に行ったところで、医療的にはまったく問題がありません」
「でも、アントワーヌの当主が教会領に入ったとなると、政治的に問題じゃないのか? アントワーヌは反帝国派、アンガスはいま帝国に攻撃されていて、もし占領されれば、帝国は教会領にいい印象を持たないだろう」
「教会領は政争から独立した永久中立領です。宗教的な聖地でもあり、誰が尋ねても問題にされることがあってはいけない場所です。エドワード帝も敬虔なヘリオス教徒ですから、その辺りのことはよく心得ているはずです」
「そうはいっても……」
ユウは頭を掻いている。建前はそうだろうが、レオーラ大陸の人間心理には必ず影響してくる、とユウは思う。レオーラ大陸民がどれほど敬虔か、まだユウにも定かではないが、アントワーヌが教会と親しいとなれば、レオーラの民がアントワーヌになびくこともあるだろう。それを帝国が恐れることもあるだろう。
「少なくとも、独断でやるわけにはいかない。アドリアナ陛下と王国議会、コルト候の許可はいる。おれたちはいま、彼らの管理下にいる」
「じゃあ、みんなから許可が下りればいいわけですね」
びし、とリリアは指を突き出し、
「必ず許可を得てみせます。出立は一、二週間くらい延ばしてくださいね」
「まあ、それくらいは……」
「楽しみですねえ、ヘリオス教会領」とアンジュが両手を胸元で握る。「常夏の楽園と聞いてます。冬でも海に入れるらしいですよ。わたし、寒いのは苦手でねえ」
へらへらと笑うアンジュは宗教の聖地より、気温の話をしている辺り、信仰が薄いようだ。もしかしたら、レオーラ人のジョゼへの信仰はこの程度なのかもしれない。
○
ユウはフォーラントにいるはずのハルに使いを送り、出航がひと月近く遅れることを伝えると同時に、自身はイオリと向き合っていた。
「まず、おまえがどうしたいのか、だけれど」
「ぼく? ぼくですか?」
「だから、おまえがっていってるだろ」
「どうしたい、と聞かれても……」
「わからないってか?」
「はあ……」と覇気のないことをいう。ユウの口からも、はあ、とため息が出る。
「なら、おまえはおれが帝王学と剣術を極限まで教え込むといえば従うのか?」
「はい」とぼんやりした顔でいう。ユウのこめかみがピクリと震えた。
「わかった。これからおまえに地獄を見せる」
ユウは不味いで有名な兵糧のフィプとヘリオスフィアを少量買い込み、交易品を詰め込んだの荷物を背負った。現実的な数字にすると四、五十キログラムもあるだろうか、自体重より一割、二割軽いくらいだ。旅の目的地は北のフォーラント、距離にして百五十キオ。イオリはまだ体重が軽いために、それに合わせて荷物量を調整し、どうしてもついてくるといって聞かないセオドアにはもっと多くを背負わせている。
その装備で原野を徒歩で駆け抜け、野宿ばかりを繰り返し、三日後にはフォーラントで物資を売り払い、また補給して、南下を開始、レイスへ向かった。この時点で、イオリは死にそうな顔をしている。五日目、ついに泣き言を漏らし始めた。
この日、曇天の下で、小さな雪がちらついていた。
「う、馬に乗って来ればよかったじゃないですか」とイオリはユウの速足に辛うじてついてきながら短い息継ぎを挟みつついう。
「おれは訓練を兼ねてやっている。馬ではまったく意味がない」
「そうはいっても……」
ぜえぜえと息を切らせながら、両手で突く木の棒もおぼつかない。
「ダメだな」とユウは空に向かって大きく手を振った。たいぶ先行しているセオドアを呼び戻しているのだ。
「今日はここで休む。いいか? おまえは足を引っ張っているぞ」
「そんなこといわれても……」
棒を投げ出したイオリは崩れるようにその場に倒れ、冷たい芝が濡れているのも気にせずに大きく胸を上下させ続けていた。
「人間とはなにか、考えたことがあるか?」
「なにかといわれても……」
「二本の足で歩く生物のことだ。人間は二本の足で歩かなければその基本動作すらおぼつかなくなる。要するに、下半身を鍛えなければ人間は人間ではなくなる」
「でも、世の中には歩けない人もいます」
「そういう人たちのためにも、歩ける人間には足腰を鍛える義務が発生する。それが種を守る、ということだ」
その手段として徒歩での交易をしている、という。
「短距離走と長距離走、徒歩での移動はどれも違う筋肉を使うために、すべてを行わなければ歩行訓練とはいえない」
「なるほど」と戻ってきたセオドアは感心していた。「兄者の強さは下半身の強さか」
「しかし、ぼくには無茶です」
「おまえがなんでもいいみたいなこというからだろ」
ユウは手早く幕舎を張り、その中にイオリを放り込んだ。彼自身も幕の中に入って、無心にフィプをかじっている。もそもそして粘土をかじっているようだ。美味しくない。
「いつか兵糧の研究もしないといけないな。これじゃ兵の士気にかかわる」
その隣でイオリは膝を抱えたまま意識の飛びそうな顔をしていた。その頬をユウが叩く。
「おまえも食え。無理にでも食わないと明日中にレイスに着かないぞ」
「食べたくありません」
「バカ野郎。食う体力があるうちに食わないと食えなくなるぞ。そのまま死ぬぞ」
「フィプも煮込めば少しは食えるものになります」とセオドアがいうものだから彼に任せた。調味料を多少用意していたらしく、鍋に水を沸かし、フイプを千切って放り込み、軽く味付けをすると、なるほど、多少食べられるものになる。ショウガなどの香辛料を利かせた水団といったところか。寝床から這い出してきたイオリは泣きながら、フィプのスープをむさぼっていた。
「今日進めなかったぶん、明日は少し距離が伸びる」
「無理です」とイオリは嗚咽混じりにいった。
結局、さらに二日を費やしてレイスに戻り、リリアの件に関してまだ王国から連絡が来ていないことを知ったユウは二往復目の準備を始めた。
「ま、まだやるんですか?」
「おまえがどうしたいともいわないから」
「ここで剣術と馬術の練習をします」
イオリが即答したのをユウは笑った。
「剣術と馬術の練習がしたいか」と頷き、「では教えてやろう」
翌日から、公都レイスの外にある原野の上を全速力で走らせている。さすがにセオドアは軍の訓練を受けていて、しっかりした筋肉を備えている。しかし、イオリは五十メートルを三本も走ると、その場に倒れてしまった。
「足が千切れる……」
「中二日をおいて、繰り返せ」とユウはいいながら、木の棒を地面に突き立てた。「これを滅多打ちに叩け。構えもなにも必要ない。ただ叩き続けろ」
いって、ユウは木刀を持って木杭に凄まじい乱打を浴びせかけた。瞬く間に、木杭は地中に抉り込み、頭はささくれ立って、木質を広げていった。
「宮本武蔵曰く、剣というのは敵に接近して力押しに押して斬る、先に一太刀浴びせた者が勝つ、いかに先に一太刀浴びせるか。接近する手段、間合いの正確さ、撃ち込みの早さ。突き詰めればこの三つしかない」
例えば、幕末、薩摩士族たちは初撃の早さと威力に無類に秀で、最強の士族と呼ばれた。
「その戦士たちも木杭に剣戟をひたすら打ち込むという訓練を繰り返していたという。難しくないだろう?」
やってろ、と、イオリに木刀を投げ渡し、セオドアに向かった。
「おまえの稽古もつけてやる」
「本当ですか?」
セオドアの顔に喜色が浮かんだ。すでにふた月ばかりの付き合いになるが、ユウがこういうことをいうのは初めてだった。
「ただし、おれには槍術のことがわからない。細かい技術は自分でつき詰めろ。実戦の相手だけしてやる」
「は、かしこまりました」と軍隊式の礼をする。
その後のセオドアは哀れになるほどユウに叩かれ、また蹴り飛ばされ、地面に転がされること十数度、イオリの足もとに倒れ伏し、少年を震わせた。
「つ、強い……」
「馬上ならまだしも、地上なら負ける気がしないな」
ユウは木刀で空を斬った。
「父上の足もとにも及んでいないぞ」
セオドアは飛び起き、長棒を構えた。
「まだまだ」
ユウは木刀を地に突き立てて動かない。踏み出したセオドアが一突き、持ち上がった木刀の左手を擦るようにしてユウを狙うが、彼はすでにそこにない。木刀の右手に逃げ、くるりと回って勢いそのまま相手の脇腹に肘鉄を放り込んだ。うずくまるセオドア。
「戦場の武器が剣だけだと思うな」
「承知のこと」
再び立ち上がって、槍を一突き。ユウは大きく下がる。槍を引き戻し、振った柄がユウの剣を叩いた。が、ビクともしない。さらに体ごと回ったセオドアは遠心力を用いつつの乱打を上下左右から繰り出してゆく。それもユウの剣はほとんど動きもせずに的確に防いで、一歩踏み出し、木刀を一閃、セオドアの胴を打った。膝から崩れ落ちるが、今度は長棒を支えにしてかろうじて立っている。
「なにをしている?」
「はい?」とイオリは自分に声をかけられたことに遅れて気が付いたようだ。
「おまえにはこいつを打ってろといっただろ。ぼんやりおれたちのことを見ていろとはいっていない」
「は、はい」
と、背筋を伸ばし、木杭に向かい合って打撃を繰り返し始めた。意外に筋のいい打ち込みをしている。コスヨテリにいたときも多少の稽古をしていた様子が窺える。
そのとき、芝を踏む音を聞いて、ユウは身を翻した。襲いかかっていたセオドアとすれ違い、すれ違いざま木刀を上段に上げ、打ち下ろす。と、セオドアの背を叩いた。今度は槍を支えにすることもできず、前のめりに倒れ伏した。
「隙、というのは、敢えて作られていることもある。迂闊に襲えば逆襲を食らうぞ」
「くうう」と芝を握りながら呻いていた。
さらに数日後、公邸の一室でユウはイオリにいった。
「おまえは父上の国を継ぐことになるわけだ」
「はい」とイオリも強い覚悟を秘めた瞳で頷いている。
「では、国家とはなにか、考えたことがあるか?」
「はい?」と首を傾げていた。
「なぜ国家が必要で、国主がいるのか、考えたことがあるか?」
「いえ、国があるのだから、国主がいるのは当然かと……」
「とある哲学者はいった。人は個人でも生きられる。しかし、群れで生活した方が効率がいい。手の器用な人間は細工をすればいいし、力のある人間は耕作をしたり、群れを守る仕事に従事したり。双方足りないところを補い合って生きていった方が効率がいい。だから人は群れ、群れれば国という団体になる」
「なるほど」
「国主と国家機関というのは、その群れを円滑に活動させる人間たちのことをいう。人間が生きる上で最も必要ない、最低の汚れ仕事だ」
「最低の仕事?」
「人間の生活から染み出た汚物を処理するような仕事ばかりだ。民というのは、そういうロクでもない仕事を敢えてしてくれているということで官史たちに敬意を払って税を納めている。法で定められた義務で収められているなどと思うな。彼らの善意だ。国家など簡単に潰れる。法など力の前では無力だ。人の善意だけで守られている。他国の善意であり、国民の善意によって守られているだけだ」
イオリは目を丸くして聞いている。
「おまえも敬意を払われるような男になれ」
「どうすればなれます?」
「故人曰く、人は生まれながらに正しいことを知っている。ゴミが落ちていれば拾うのが正しいと知っている。散らかしたものは片付けるのが正しいことも知っているし、服は畳むのが正しいとも知っている。大概の人間はそうだ。問題は正しいことを実行する意志の力だ。常に正しいことを模索し、行うことによって徳というのが磨かれてゆく。人を助け、身を正し、常に自らを律して正義の道を模索する。こういう人に敬意は払われるのだろうが、おまえが日々精進しても敬意を払われることはないのかもしれない」
「なぜです?」
「世間というのはわからないからだ」
「わからない、ですか」
「他人のことはわからない。同じように世間のことはわからない。正しいことをしても、おまえは遠巻きに見られるだけで誰もついてこないかもしれない。おまえは世間から浮き上がるかもしれない。しかし、それは関係ない。正しいと思っていた道が間違っていることがあっても、正しい道を模索することが間違えているはずがないからだ。例え世間に理解されなくてもやらなければならないことはやらなければならない。正しい道を探し、これと思えば実行する。いつでも、どこでも、誰でも、すぐに入門できる徳の道。あとは信念の問題だ」
「信念の問題?」
「徳の道は死ぬまで続ける。曰く、重き荷を負って、遠き道を行くが如し。例え人に褒められなくとも、常に自分と戦い続ける。人は極めて簡単に堕落する。堕落してゆく自分と戦い続けろ。それが徳の道だ」
イオリは震える瞳で膝の上に握った拳を見つめていた。
「なにか、わかったような、わからないような」
「正しいと思うことをし、正しいと思うことを常に模索しろ。おまえが正しいと思うなら、例え万人と戦ってでも貫き通せ。それだけのことだ」
○
「あの人のいってることはよくわからないよ」とイオリは愚痴をこぼしている。
この日はユウの定めた休息日で、ユウ自身は昼前からレイスを離れて姿が見えない。悪態を吐いたところで聞かれることもないだろう。
イオリはあまり運動してはいけないことにもなっている。してはいけないといわれても、体の節々が痛くて、動きたくもない。だが、洗濯物の盛り上がったカゴを抱えて、公邸の廊下を歩いていた。隣にはアリッサが、同じものを抱えて歩いている。
彼女に看病してもらって以来、年齢が近いこともあって、親しくしていた。この辺りでは、彼女だけが王国民で、スレイエス民の中では少しだけ浮いている。そういう立場の近似も二人を近くしていた。
「訓練は厳しすぎるし、あんなこと繰り返してたら死ぬんじゃないかな」
「お兄さまはお優しい方です。話せばわかるし、子供だからってバカにしないし」
「まあ、確かに」子供を子供と思わないから、イオリは過酷な訓練にぶち込まれている。「優しいのかな?」
「よくわたしの話を聞いてくれますもの。わたしの話をちゃんと聞いてくれる大人なんて、リリアさまとお兄さまくらいのものです」
それもそうかもしれない。話せばわかるのだろうか? 訓練が厳しすぎるのでもう少し緩くしてくれと頼んで頷くだろうか? たぶんまた何事か理由をつけて却下されることだろう。たるんでいる、といわれて、さらに過酷な訓練を施されるかもしれない。
洗濯室に汚れ物を置くと、昼食の準備を手伝いに行く。これが半端な量ではない。公邸の調理室だけでは足りず、外に天幕まで張って鍋を煮込んでいたりする。
「こんなに必要なの?」
「レイスは戦後でまだ仕事に困っている方もいらっしゃいますし、色々な理由で食事ができない人もいますし、なによりアントワーヌの人たちが食べに来ます」
「寮や長屋のようなものか」
「というより、アントワーヌの人たちはいまはほとんどの給金を寄付していますから」
「寄付?」と首を傾げた。「報酬を返上しているってこと? でも、アントワーヌは商売もしているし、だいぶ儲かってるはずだと思っていたけれど、金がないわけじゃないんでしょう?」
「いろんなところに投資してるみたい。どこかで船を造る場所を作ってたり、道路を直したり、なにか他にもいっぱい」
「給料を返上して? みんなで?」
そういえば、公邸のあちこちに募金箱があって、溢れていたりする。
「あれって、誰のお金かと思ってたんだ」
「リリアさまのところに診療に来る人たちも入れていくし、授業を受けに来る人も入れていくし、それ以外にも色々」
「ははあ」
「わたしももらっていますけど、全部募金箱に入れてます」
「全部?」
「服はお父さんとお母さんが買ってくれるし、ご飯はあるし、家だっていまは公邸に住まわせていただいてるし、リリアさまの授業を受けて、お手伝いまでさせていただいているんです。お金があっても使う時間がありませんし、リリアさまが困っていらっしゃるならお助けして差し上げたいです」
この巻の序盤、レイス公邸で会議を催したとき、ユウは危うくアントワーヌ幹部から金を巻き上げるところだった。そうなると、彼らの部下は世間からの目を恐れるあまりに安んじて給金を貰えなくなるかもしれなかった。そういう圧力をかけてしまうと、個人の不平を招き、集団の不和を招き、汚職を招き、組織の瓦解を招きかねないのだが、匿名の寄付金制にされて、その危険が回避された。出資者も非出資者もまったく人目を気にする必要がなくなったからだ。
とはいえ、かなりの人数と金が寄付されているのは間違いない。
「始めはお兄さまがおっしゃったみたいです。もう金はいらんて」
「いらんてことないでしょう」
「それよりも大事なことがあるっていう話です」
外遊のときに宿を用い、外食もするが、持ち家がなく、財産というものが古びた外套と常に腰に帯びた一振りの太刀、愛馬が一頭いるだけだという。
「あなたもお兄さまを見習いなさい」
「はあ……」
いま、イオリは多少の小遣いといっていいものをユウから貰っている。おそらく、アントワーヌの財布から出ているだろう。一向、寄付してしまって構いやしないが、それにしても、アントワーヌの人員は気が狂っているとしか思えない。欲、というよりも、なにかしらの狂気によって動いているだ、と考えに至り、確かにそういう気配があった。狂気というより、熱狂といおうか。その中心にはリリア・アントワーヌと天ノ岐ユウがいる。
これがユウの帝王学の実践だろうか、とイオリは考えるのであった。
ちなみに、このころ、アントワーヌはもちろん、スレイエス兵にも、軍部に所属している人間には酷薄なまでの減給を行っている。
理由はずいぶん前に書いた通りだが、辞職は一向に構わない。むしろ、辞職を推奨している。金が欲しければ外で働けといい、そのために外には法外なほどの仕事量と給与を作っている。アントワーヌ組織内で汚職が見つかれば首を落とすとまで公言し、部隊を引き締めていた。彼にしてみれば、帝国戦争までの数年間、このシステムが耐えて、大量の兵站と活力を準備してくれればそれいい。そのためにアントワーヌとスレイエスの富と物流を利用しているだけにすぎない。
話が逸れた。少年少女のことである。
公邸の裏には農場や養鶏場もある。農場は刈り取ったばかりで閑散としたものだったが、養鶏場は鳥で賑わっていた。これをシメて料理に使い、糞を肥料に使うという。切妻作りの奥に深い建屋は下の方にばかり壁があって、上部は吹き晒しで冷たい外気がぼうぼうと入ってくる。下には藁が敷かれていて温かいが。
「さあ、わたしたちも捕まえます」
アリッサがフリルの施された袖を捲って白い腕を露わにする。そのか細さが心配させる。が、周りの大人たちが温かい目で見守っているところを見ると、いつものことらしい。
藁の上をとことこと歩いて、鳥の群れを角に追い詰めたところで、追い詰められた鳥たちはアリッサに突撃してゆく。
「ぎゃー」と悲鳴を上げた彼女はまた小走りに逃げ、しまいには転んで頭を抱えてしまった。
「アリッサッ!」
慌てたイオリは傍にあった木の棒を咄嗟に抱え、鳥の群れと少女の間に割って入った。イオリが中段に構えた途端、鳥たちは痺れたように立ちすくみ、身を寄せるように小さな塊になってゆく。そこを大人たちが囲い込み、何羽か、連れ去っていった。
「た、助かりました」とアリッサは息を切らしながらいう。その茶色い髪に藁が刺さっているのを、イオリが取ってあげた。
「なかなか凶暴なのよね。イオリも気を付けるのよ」
「うん」と素直に頷く。しかし、なんだろう。鳥たちに向かい合ったとき、自分の剣圧というか、立ち姿がさまになっているように感じた。重心を地下深くに置き、敵が間合いに入れば立ちどころに一刀両断できる自信があった。
訓練の成果が出ていることは間違いない。間違いないが当たり前のことだ。出てなければユウに詰め寄っていたところだ。現実にその状況に置かれて詰め寄れていたかは別として。
「さて、お昼は美味しい鳥料理です」とアリッサは意気揚々と引き返してゆく。
「あの鳥たちが殺されるのかと思うと、なにか哀しいね」
と、イオリは何気なくいった。
「でも仕方ないです。お肉を食べないと大きくなれません」
「そうかもしれないけど」
「前にリリアさまがおっしゃってましたわ。動物には草食と肉食とどっちも食べる雑食がいて、雑食はどちらも食べられるんじゃなくて、どちらも食べなければならないのだと。草食は草だけで、肉食は肉だけで、体を作ることが出来るけれど、雑食の人間は肉で体を作り、野菜で健康を保ち、穀物で力をつけるんですって。どれか一つでも欠けると人間は本当の力が出せないのよ」
「でも、残酷なことには変わりないだろ? 鳥をしめろっていわれて、はいそうですか、とすぐにはできない」
「それはそうかもですけど」
この日にした、ほんの世間話のことを、アリッサは後日も覚えていて、「あの件ですけど」とわざわざ持ち出してきた。
「リリアさまに伺ってきました」
「わざわざ?」
神経を疑う。アリッサがリリアを慕い、敬うこと尋常ではない。階級も一国の姫と一土建屋の娘という関係で、隔絶しているといっていい。そういう人にあの程度の世間話について、よく訊けたものだ。
「リリアさまがいうにはね、種の繁栄のため、ですって」
「なにが?」
「鳥をしめるのが」
「鳥をしめるのが種の繁栄?」
曰く、人類は人類のために生きている。そのために他の命を犠牲にする。残酷なことかもしれない。では、種の繁栄を捨てるのか。いや、捨てない。命は犠牲の上にある。それを理解している。理解しているからこそ、感謝して、敬意を払う。それが人間なのだと。
「そういうことです」とアリッサは得意気にいう。イオリは残酷かどうかなど、もう問題にしていなかった。生きる上で肉食が必要なのはわかる。手っ取り早く力になる。必要なものを取るためなら、多少の殺生は仕方がない。イオリが問題にしたのは、敬意、という言葉だ。ユウもいっていた。敬意を払われる人間になれ、と。
「敬意ってなんだろう?」と呟いていた。その答えも、後日アリッサが持ってきた。あくまで、リリアの中での答えだ。
「両親とか、先生とか、イオリにはいままで出会った人の中で素晴らしいと思った人はいる?」
アリッサの短い舌を借りて、おそらくリリアの言葉が語られる。
「いるけれど」
父や母は強く、優しく、ジジオ領の者なら逆らうことなどないだろう。イオリはそう信じている。
「それ」とアリッサが人差し指を立てた。「それが敬意ってことよ」
曰く、人は一生の内で尊敬できる人間に出会えないかもしれない。出会えた人間は幸せなのだと。尊敬の念を覚えた。その感情を肉親に示し、明日には隣人に示し、さらに翌日には通りの向こうの人に示し、やがて世界全体に示せるように目指すこと。これが愛情と敬意の磨き方だとヘリオスの聖典にあるという。
「わたしはリリアさまに対するように、世界中のすべての人と接するの」とアリッサは無邪気にいう。そうすることができれば賢人と呼べるのかもしれない。
ヘリオス教の聖典。コスヨテリでも盛況な教えだが、イオリは深く読んだ覚えがないし、ジジオ家がそもそも信心深くないし、家に聖典もなければ町々にある小さな教会に行ったこともない。父もそうだろう。
知りたい。敬意とはなにか、正義とはなにか、強さとはなにか、聖典の教えとはなにか。
心の奥に、知への欲求が生まれつつある。
○
今朝から邸内が喧しい。
「王国から使者が来たんです」とアリッサがいった。「リリアさまとお兄さまは、それで教会領に行くそうです」
「教会領って、レオーラの東の果てだって聞いたけれど、簡単に行けないでしょう?」
「船で行くんです。詳しくは知らないですけど」
「へえ」
確かに、アントワーヌの船は速い。外洋にいるときはあからさまに速い。帆に風を受けなくても快走するのだ。普通の船と違うのはイオリにもわかるが、なにが違うのかまったくわからない。外から見た感じでは、ただの大型船となにも変わった様子は見られなかった。
「わたしもついていくことにしました」
「なんで?」
「こんな機会滅多にありませんもの。お爺さまもお母さまもお父さまもいいって。よくよくリリアさまのお世話をするようにって」
「リリアさまのお世話はアンジュさんがやるんじゃないの?」
常に女給姿でリリアに付き従っていて、艶やかな黒髪を背中に流して淑やかに歩く様子はまるで理想の女性を絵で描いたようだ。アントワーヌのみならず、公都の男たちの中でも少なくない噂になっている。
「みんな簡単に騙されていますけど、アンジュさんはダメです」
「ダメ?」
「素っ頓狂な人で、役に立ちません」
「あのアンジュさんが?」
ダメ、といわれても、にわかに信じられない。万能の人、という雰囲気が痺れるほど漂っている。
「遠くから見ているだけにしておいた方がいいですわ。憧れってそういうものです」
「憧れって……」腕を組み、「それでいつから行くの?」
「もう明日には。今日中に準備しなくっちゃ」
「急だな。ぼくもなにか持って行くか」
「イオリはお留守番ですわ」
「留守番?」
「お兄さまが置いていくって。さっきリリアさまのお部屋で会ったときに聞きました」
「なんで?」
「これも詳しく知りませんわ」
置いていかれるのは一向に構わない。あの地獄の特訓からしばらく離れられる。だが、急に突き放されたようで気持ちが悪い。ユウはイオリの鍛錬に身を入れてくれているのだと思っていた。
ユウはいったいどういうつもりなのだろう。その思惑を、この日の稽古が始まる前に聞いた。
「おまえは教会領で宗教を学ぶより、このホフマン君ととある場所に行った方がいい」
ユウの隣には知らない若い男がいて、直立のまま踵を合わせて敬礼していた。
「とある場所というのは?」
「山の奥だ」
「山の奥?」
「またあちらには迷惑をかけてしまうことになるが、きっと許してくれるだろう。よろしくいっておいてくれ」
翌日のこと、リリアとユウを含めて十数人がレイスを発ち、その最後尾に結局イオリとホフマンも並んだ。雪の薄く積もったフォーラントに寄って、アントワーヌ船の出港を見送り、一路東へ。雪を踏みながら、途中、宿泊しつつ、山脈にぶつかって南下。イオリは地図を片手にしていたがどの辺りまで来たのか、もう定かではない。北東方向に進路を取り直し、森の中に入っていった。細い幹と枝ばかりの寂しい木々が膝丈の積雪に林立している。斜面は険しさを増してゆく。背の高い木々も増え、細い葉に弱い日が遮られるようになっていた。ぽ、ぽ、と、枝葉から滴る雫が淡々と積雪を掘っている。
「この辺りはまだ雪が降るんですね」
イオリは息を切らしながら、前を行くホフマンに訊いた。コスヨテリにいたころは数年に一度ちらつくかどうかという頻度だったが、ここはどうしたことだろう。もうじき春の暦になろうというのに、膝を埋める積雪がある。レオーラに来たとき、雪が盛んに降ることに心をときめかせていたが、吹雪の中で訓練をし、さらに積雪を渡るこの旅程を重ね、降雪が障害でしかないと実感した。生活する上で、楽しいものでは決してない。
「もう雪の降る時期は過ぎていますから、あとは融けていくだけだと思います」
雪の間にわずかに覗く細い道を、腐葉を踏みながら歩く。そろそろ針葉樹林が目立ってきた。太い幹を持った木々の先端は細い葉を茂らせた樹幹の遥か向こうにあるらしく、見上げても到底認められないものではない。
はあはあ、と吐息が漏れる。白く、温かい吐息が、かすかな風に流れて、長い長い尾を引いている。その行方を追うともなく見遣って、しかし、足は前に向かっている。時折盛り上がった木の根を踏み、さらに一歩を踏み出している。遠くから鐘を叩くような音がした。気のせいかとも思ったが、二度、三度、と繰り返されると現実らしい。
「あのカネの音の方へ行きます」
「あのカネは、この森の奥ですか?」
「そうです」
「じゃあ、ぼくはこの森の中でしばらく過ごすことになるんですね」
「そうなります」
梢から落ちる雪が重い音を立てた。
「こんな食べ物もなさそうなところ……」
人の生きていける環境だろうか?
森の中に不自然な雪塊が唐突に現れたのは、建屋の上に積雪していたから、らしい。実に貧相な壁の建物が雪の下から覗いている。この下で寝るんだとしたら、いつ屋根が崩れるかわからない恐怖に怯えながらになるだろう。カネの音は、というと、隣の建屋から聞こえている。雪の合間からもうもうと煙を上げる掘っ立て小屋だった。
「ヨシムラさん」とホフマンが掘っ立て小屋の戸を叩いた。
「おや、ホフマン殿か」
低い男の声がして、カネの音が終わった。しばらくして開いた木戸の向こうには、汗みずくの壮漢の四角い顔があった。
○
囲炉裏のそばでずっしりと胡坐をかいたヨシムラという男は難しい顔をしてユウからの手紙を読んでいた。ユウはまだ文字が書けないため、口述筆記である。最近、多少読めるようにはなってきたらしい。
「わかった」とヨシムラは膝を叩き、「しかと心得た。天ノ岐殿には承ったと伝えておいてくれ。それとも、もう出立してしまったか?」
「はい」とホフマンが頷いた。「天ノ岐さまは我々があちらを発つその日に出帆いたしました。ヨシムラ殿にお断りされれば非礼を詫びてそのまま帰るつもりでしたから、特に返信はいらないとのことで」
「天ノ岐殿も寂しいことをいう」
「では、こちらの方、しばらくお預けさせていただきます」
ヨシムラが、うむ、と頷いたのを潮に、ホフマンは一礼して小屋を辞していった。冷たい、冬の沈黙がある。ヨシムラが囲炉裏を掻いて、熾が爆ぜるだけだった。イオリは膝を擦り合わせ、
「あの、ぼくはどうすれば……」と聞いたところで、口をつぐんだ。
悪い癖だった。何事も人に訊くのは、コスヨテリにいたとき、何事も父のいう通りにして父のいうこと以外のことは遠ざけていたからだ。その悪癖がいまでも残っている。ユウとの修行のときに意識し始めた癖で、彼との修行の中でやや直りつつあったものだと思っていた。それがいたたまれなくなるとまた疼く。
「どう?」とヨシムラは熾をかく手を止めて、イオリを見据えた。その眉がひそめられて、「まあ、好きにすればいい」
「好きに?」
「天ノ岐殿の手紙では、ひと月ばかり預かってほしいとあっただけだ。なにをしろとも書かれていない。お主が決めればよい」
「では、ぼくはなんのためにここに来たんでしょう?」
「それを訊かれても困る。わしが送り込んだわけではない」
それはそうだ、とイオリも思う。愚問だった。
なぜここへ送られたのか。あの人が無駄なことをするわけもないし、見捨てられたわけでもないだろう。そう思いたい。充分に彼の課す修行に耐えていたはずだ。もしかしたら、彼の望むところまで届いていなかったのかもしれないが。
熾火に手をかざして、頭を悩ませること半日、上げた目が格子窓の外の闇を捉えた。すでに夜になっている。どこかに出かけていたヨシムラが帰ってきて、窓のつっかえ棒を外し、木板を下した。
「飯でも食おう」とヨシムラがいう。イオリが頷くまでもなく、小一時間で囲炉裏の上に吊るされた鍋の中で様々の具材が煮えていた。
本当になにもしていない。
イオリはまた自分がここへ送られてきた理由に考えを巡らせていた。
翌日から、イオリは適当な木杭を見つけて小屋の前に刺し立てた。持参していた木刀でその頭を打ちのめす。直ぐに汗をかき、服を変えて山の中を、小屋を見失わない程度の距離歩き回った。雪の中、薪に使う枝を集めに出たのだ。
森の空気は冷たい。肺を凍らせるほど冷たい。
その凍るような空気の中でも融雪の蒸気が立ち込め、木立から降り注ぐ日差しを黄色く浮き立たせていた。とろとろと溶ける雪の音すら聞こえてきそうな森閑の中で、鳥のさえずりが遠くから聞こえ、さらに向こうから獣の咆哮が聞こえ、それに重なって得体のしれない何者かの絶叫も聞こえる。
「この山の上の方には怪鳥が群れをなして住んでいて、迂闊に近づくと食われるぞ」
と、ヨシムラはいっていた。その怪鳥の啼き声が、あの絶叫らしい。恐ろしいところに送り込まれたようだ。なぜこのようなところに住んでいるのか、とイオリが問うと、ヨシムラは、刀を打っているという。刀のような生き方をしたいのだ、ともいう。さらに翌日、その様子を見、また手伝ったりもした。炉を起こし、その中で真赤に焼けた鉄を取り出して打つ。ヨシムラが巨大な鋏で鉄をつかみ、縦横と鉄の位置を変え、イオリが金槌を振るう。日々、木刀の打ち込みを行っていたから、こういう運動に体が慣れてきている。しかし、力不足を如実に感じる。半日も作業小屋にこもり、汗みずくになって自分の不甲斐なさを知る。
水につけ、砂を振り、泥のようなものを塗りつけてさらに焼く。出来上がった長棒を濡らした砥石で磨き上げる。一本の鈍色の刃が、窓から差し込む日を跳ね返して白々ときらめいていた。滲む波紋、浮き出た星の美しさは人知の領域を越えている。しかし、イオリは自らの未熟を痛感している。もっとうまくやれる。
「それほど悪くはあるまい」とヨシムラはいってくれる。「形にはなっている」
「ですが、もっと良くなるはずです」
「そりゃそうだ」とヨシムラは笑っていた。「例え、一万回やっても、次はもっと良くなるはずだ」
鉄を打ち、木杭を打ち、残雪の中を駆け、明け方に凍り付いた雪の冷たさに驚き、日差しの温かさに身を震わせる。日が立つにつれ、温かい日も増え、緑の匂いも増してきた。柔らかな土から緑の芽が顔を出し、知らない虫も、爬虫類も這い出してきて、木の幹に這う姿も見られるようになってきた。雪は木立や崖の影に残るばかりで、地表は腐葉をみなぎらせた黒土が多い。濡れそぼった枯葉と枯れ枝と、その間をのたくる奇妙な生き物たち。それを餌にする四足獣も現れ、積雪を踏み、鼻先で土の香りを嗅ぎながら、ふと顔を上げてイオリの姿を見、耳をひくつかせながら森の中に逃げてゆく。
春が訪れつつある。
「飯でも食うか」と、この日もヨシムラがいった。
「ぼくが準備します」
イオリは立ち上がり、雪の下から掘り起こした野菜と肉を切り、鍋に入れて、少々の味付けをする。セオドア曰く、軍人である限り、料理は出来なければならないのだという。遠征で保存食だけを頼りに延命するわけにはいかず、また士気にもかかわる。うまい飯を作れるのも軍人の必須技術の一つであるという。その点、ユウはほとんど無関心だった。彼が異邦者であるためにヘリオスフィアを使えない不便があるからかもしれない。
セオドアに仕込まれて一応の調理はできるようになっている。ただ、ヨシムラのところにある調味料は変わっていた。穀物を発酵させたもののようだが、独特の臭気を放つ。
「豆を発酵させて塩を混ぜ込んだものだ」
そういうものの詰まった樽が母屋の裏の庇の下で、薪と並んでいる。なんでもウッドランド地方や教会領の調味料で、ヨシムラの故郷の味に似通っているらしい。ヨシムラは元々教会領の騎士をしていたのが放浪の旅に出て、ここに留まったのだともいい、そのころに所持していた調味料をこの地の材料で増やしつつ、使っているのだそうだ。その他、茶葉も自家で処理していた。しかし、畑やなにかの姿は周辺に皆無で、イオリがここへ来て十数日、春が来ても農作業に赴く様子がない。
「下の村で分けてもらっている。明日、そこへ行こう」
翌日、大きな木箱を背負い、黒土の坂道を下ってゆく。土の匂い、柔らかな感触、歩きにくいが、体の関節には優しいのだろう。
「この箱、なにが入っているんです?」
がちゃんがちゃんと音がする。
「村の者たちの農具が入っている。いつもなら何往復かしたり、村の者たちを呼んだり、大変だったが、イオリ殿がいてくれて助かった」
春に使う農具を冬のうちに直したり、新しく設えたりしていたのだという。村には刃物を直す技術者はいるものの、新しく作ることのできる人間と設備がなかったのだという。ヨシムラの工房も、村の者たちが一緒になって作った窯なのだという。
「感謝してもしきれん」
ヨシムラは呟くようにいっていた。
村は樹皮で葺いた、こけら葺きに近い小さな寄棟作りが数十戸あるばかりの小さなものだった。南に向いた傾斜にあって太陽がまぶしい。残雪の輝きとその中にある細いあぜ道が、歪に曲がりくねりながら傾斜と村の中を上下して、黒土の田畑を囲い込んでいる。さらに隙間のあちこちを清流が下っているのは森の川から引いた用水だろう。浅い水底が描写できるほどに澄み、段差を落ちる際は日差しを受けて白い筋を浮き立たせていた。水の弾ける音が耳の奥で心地いい。よく晴れたこの日、緑の空気と人の息吹が輝くほどに村の中で調和されていた。
「いらっしゃい、ヨシムラさん」と村の、壮齢の男が出迎えた。身嗜みの良さと家の大きさから村の長者といったところか。抱擁するほどの歓迎を受け、荷を下ろし、いくつかの刃物を渡して、手厚いお辞儀を受けて爽やかに屋敷を発った。あちこちの家を訪れ、そのたびに村の人々は綻びが耐えられないといったふうな顔をしてヨシムラを迎えていた。
「ありがとうございます」と、彼らは深々と礼をする。
「いや、良いのだ」とヨシムラは照れたように笑い、手を振った。「わしも助けられているから」
「これは少ないですが」
村で取れた肉と野菜だという。
「ありがたく」とヨシムラも礼をして両手で掲げるようにいただいていた。
「また茶葉ができればお届けにあがります」
「そのころにもまた来るよ」
家中の者、老若男女、家から出てきて、大手を振って見送られた。それにヨシムラも大手を振って、恥ずかしげもなく応えている。あちらの家でもそう、こちらの家でもそう。
「わずかばかりですが」と、イオリも礼を貰うことがあった。それを両手で押し頂いて、「ありがとうございます」と、礼をいう。
二人は日が沈むより早く、帰路についた。夜の山道は避けなければならない。
「ヨシムラさん」と贈り物で重くなった木箱を背負って山を登る彼の背中に声をかけた。「ぼく、なんでここへ来るようにいわれたのか、わかったような気がします」
黙々と歩いていたヨシムラの足がわずかに止まり、
「そうか」
と呟いたきり、また黙々と歩き始めた。
まだ春になり切らない日は短い。




