第五巻 大陸蠕動編 二章 異国
二章 異国
東海の南方で暖められた潮はクリフトフ海峡を白波立てて流れ、王国近海に達し、スレイエス国境付近で南下してくる寒流にぶつかり、二つ交わりながら西流する。西流した先には中央列島、かつて海賊島と呼ばれた列島があり、従って、この黒い潮に身を委ねていれば寝ていても海賊島に行き着く。
南海はプランクトンの密度が極めて少なく、透明度が高く、透明度の高い潮が深みに来ると光の加減から黒く見えるという。それが、黒潮、と呼ばれる所以だが、北海のプランクトン豊富な潮と交わる付近、この場合、スレイエス近海だが、その辺りは南北の魚が集合し、餌も豊富ということがあって、豊かな漁場となっている。そのためにスレイエス沿岸は海産が名物となっているが、それは本編とまったく関係ない。
海上は冬の寒気に包まれていて、暖かな海面からは白湯気が立ち昇っていた。ユウは手すりに頬杖を突き、吐息を吐き、黒潮の蒸気を濃くしていた。凹凸豊かな鈍色の空がかすんでいる。
「おれが安易だったよ」
甲板を吹き抜ける寒風に身を震わせるのも忘れて、彼の黒い髪だけがなびいている。
「まさか普通に乗ってこられるとは」タモンは腹を擦りながら笑い、「まあ、こういうこともありましょう」
ユウは頷いて、天を仰いだ。帆柱の中ごろにある見張り台に、身を乗り出して海洋を眺める赤毛の青年の姿がある。その姿があるために、船の見張り番が見張り台に入れないでいる。
「おい」とユウは空に向かって叫んだ。「セオドアくん、そこから降りて来なさい。船員の方々の邪魔をしてはいけません」
思い至ったセオドアは見張り台を飛び出し、器用にもするすると帆柱を降りてくる。
「ああやって降りてこられるのは熟練の船員か、命知らずのバカか、どちらかだな」
「そうかもしれませんな」
ユウは煙る海の方に向き直り、
「正直いって、すっかり忘れてたよ。確かに、おれはあいつに船に乗ってなさいっていったよ」
ハルを代表したアントワーヌ幹部勢の小言の始末、今後の仕事の打ち合わせ、アビーの部屋の手配から、なぜ他の女を乗せねばならないのかと憤怒するハルをなだめ、疲弊して船室の部屋でゴロゴロしているうちに出航して、セオドアを思い出したのがそのあとだった。
「おまえがちょっとおれにいってくれればよかったのに」
「あっしはセオドア氏が船から降りないよう押しとどめていたのです、旦那のおっしゃった通り」
「このマニュアル野郎が」
「しかし、よろしいのでは? コスヨテリは三十年以上政情不安定でなにが起こっても不思議ではありませぬ。便利な用心棒が一人増えたと思って連れていけば」
「コスヨテリはそういうところか」
「三十年以上前のことなので、あっしが駆け出しのころのことで」
「おまえの履歴はどうでもいいわ」
「つれないことをおっしゃいます」毛ほども思っていないことをほざき、「ともかく、それほど昔のことで、すでに年表になっておかしくございませんが、昔は一国が一大陸を統一していたそうです。その家臣が実権を握り始め、別の家臣は反発し、その隙を見て、ある者は独立し、ある者は他領地に侵攻し、またある者は主君を弑して領地を奪い。これの繰り返しですな」
五十にも、百にもなる数の家が、名乗りを上げては消え、また新しい家が興っては翌日には消えるようなことを繰り返し、南から北まで一分の隙間なく、一日でも戦火のない土地はないという。群雄割拠、戦国時代といえるだろう。ただし、このことは大陸東岸に限られて、大陸西岸は状況が違う。過去に少し触れたが、またあとで触れるのでここでは割愛する。
「今日の国境は明日には変わり、今日の静寂は明日の戦雲、などといわれております」
「レオーラの闘争なんて目じゃないってことか」
「ハル殿がこまめにコスヨテリの各港に出入りしてますからの、各地の情勢に詳しいでしょう」
「天ノ岐殿」と息を切らして来る阿呆がいる。「これが海というものですか。いや、海は珍しくもありませんが、船に乗って内海に漕ぎ出すのは初めての経験だったもので、気が昂ってしまいました」
はは、と頭を掻いて笑う。
「それはまったく構わないが、船の人に迷惑はかけるなよ」
「はい、かしこまりました」
「わかったら行け」
「はい」と舳先の方へ駆け出してゆく。
「どこへ行かせたので?」
「知らん、勝手にどこかに行っただけだ」
その間、ぎゃーぎゃーと船室から声が聞こえてくる。船扉を蹴破るようにして出てきたのはハルだった。
「もー、ユウさまったら、なんであんな女連れてきたの? 愛人?」
「なわけないだろ、タッソー家の御令嬢だぞ」
「もー、お高くとまって、チョーやな感じ。わたしたち下層市民とは違います的な感じが滲み出してすごくイヤ」
「ただ、この船の中で仕事がないから奥で大人しく過ごしているだけでしょう。船で仕事し始めたら、それはそれでおまえは文句をいうんだろう? 良くないよ、おまえが階級差別をしてるよ」
「ユウさまったら、あの女の肩を持つわけ? こんなに長くて深い付き合いのわたしを差し置いて」
「長くても深くはない」
「むきー、なにもかもあの女のせいよ」
ハルが貴族以外の金持ちに劣等感を覚えているのはなんとなくわかる。そもそも、彼女の話し方からして、富貴を真似ており、それが地ではないのは時折滲む粗野な言葉使いからわかる。彼女は彼女なりのたゆまぬ努力と果敢な博打によっていまの地位を得たわけで、生まれながらにして地位と富を得ているアビーが気に入らないのだ。ただ、リリアを慕っているのは、レオーラに『血が地位を決める』という価値観があるためだ。特に、スレイエス民はその思想を昇華させていて、貴族への信奉は並々ではない。が、裏切られたときの恨みも一入ではなく、そのためにスレイエス公家は滅びてもいる。
そういう思想が、ハルの中にあるのは、ユウもわかり切っている。
「まあまあ、落ちついて。おれは仕事のためにアビーを連れてきてるだけだし」
「アビー、ですって、仲のよろしいことで」
音を立てて扉が閉められる。
「あいつ、なにしに出てきたんだよ」
「まあまあ、旦那まで頭に来ていたら収拾がつかなくなります」
「おれの頭に来てるのは痛みだけだよ」
ユウは額を擦るようにして頭を抱えた。
○
海賊島は玄武岩で出来た楯状地の上にある。ハワイ島やアイスランドがそうだが、近くに火山があり、噴き出す溶岩の積層によって造られており、その岩塊はかたく、重く、黒い。玄武岩を形成する溶岩はケイ素が少ないために粘度が少なく、火山は爆発力がなく、その噴火は対流圏の外まで噴煙を飛ばすというようなこともなく、マグマを横方向へ流し、なだらかな丘陵地を多く作る。またこの種の溶岩はかたまると体積を大きく減らして、広い空洞のある、目の粗い岩石になったりもする。
海賊島もこういった例に漏れず、一個のなだらかな山がある以外は、丘陵地と、丘陵地が風雨によって抉られてできた断崖絶壁によって構成されている。定期的な噴火と絶海の孤島という条件が重なって植生が極端に少ないために土は少なく、黒い砂と岩肌だけの、不毛の大地といっていい。ちなみに、土というのは礫以下の石砂に微生物によって分解された有機物が混ざったもののことをいう。ここは肝心の有機物が少ない。
以前は即席のはしけに短艇を乗りつけて上陸するのが相場であったが、アントワーヌと同盟を結んで以来、木造の桟橋が複数本建設されて、自走船で楽に乗りつけられるようになった。
ユウも久方ぶりの地面を踏んで伸びをしていた。
「ようやく着いたな」
「ここが内海中央列島ですか」
島の真ん中にある火口から薄い噴煙が上がっている。それを眺めるアビーの眼差しがどこかきらめいて見えた。
「珍しいですか?」
「王国内に火山というものがありませんでしたから。危ないと聞いたけれど、どれくらい危ないものなのかしら?」
「噴火すれば、この島には住めなくなるかもしれません」
「それほど?」
「緩やかな噴火だとは思うけれど、避難する手段は講じていた方がいいと思います。それはヘンダーソン卿とも相談してるけれど」
「隣の島に?」
「ここが噴火すれば、隣の島も噴火する可能性が高いです。この列島はおそらく地下のマグマが繋がっているから」
「まぐまが繋がっている?」
「おそらく、はるか昔に、地中のマグマが沸き上がってきて、レオーラ大陸とアナビア大陸を割り、そのマグマがここまで噴出しているのでしょう」
構造として、アフリカの大地溝帯に近い、とユウは想像している。アフリカ東部は地下から湧出するマグマによって近い将来分離して、ジブチからマダガスカルまで通じる海峡ができることになっている。これと同じことがレオーラ大陸とアナビア大陸の間で起こってクリフトフ海峡を形成し、そのマグマは内海でも湧出してこの火山列島を作っているはずだ、とユウは思うわけだ。
「この世界にはわからないことがたくさんありますわね」
「自然は雄大です」ユウは足元の小石を拾い、「この石、ひとつとっても、なぜこの色なのか、なぜこの重さなのか、なぜこの形なのか、なぜここにあるのか、そのすべてに理由があり、それはこの星のどこにおいても適用できる。過去、未来においても同じ。つまり、岩石を学べば、この星の未来の形もわかる」
「ユウさんの得意分野かしら?」
「おれの領域は科学全般かな」
「ちょっとユウさま」どん、と肩をぶつけられる。「こんなところでイチャイチャしていないでくださる? 邪魔なんですけど」
どん、とさらにぶつかってくる。ユウもアビーも、桟橋の通りからは外れているのに構わずぶつかってくる。
「ハルよ、ちょっと趣味が悪いぞ」
「わたしは仕事に熱心なだけですう、有閑階級じゃありませんからね」
両手に抱えていた木箱を、それがなにかわからないが、ユウとアビーの間に置いて、わざとらしく腰を伸ばしている。ハルはアントワーヌで荷運びをするような職分ではないし、その筋の仕事を手伝うような精神の持ち主でもない。
「さてと、忙しい、忙しい」
小首を捻りながら、またわざとらしく、のしのしと船に戻っていった。
「いわれてしまいましたわね」
「学問をするのも仕事のうちと思うけれど」
「では、わたしも学問をしてこようかしら。海賊島と呼ばれたこの島の文化を学ぶのも面白いと思いません?」
「人文学か、民俗学か。どちらにせよ、見識を広めるのはいいことです。特に、ここの人間は王国にはあんまりいない種類の人たちだから。しかし、淑女が一人で歩く町でもないから、護衛をつけましょう。タモン、セオドア」
二人を呼ぶと、どこからかやってユウの前にかしこまった。
「アビーさんのことを頼む。怪我をさせるなよ」
「かしこまりました」
「お任せください」
「ユウさんはどちらに?」
「おれはヘンダーソン卿と少しお話をしないといけない」
「あら、有閑階級じゃなかったのですね」アビーは柔らかく笑い、「では行ってまいります」
「はい、お気をつけて」
二人の従者を従えていく姿も堂に入っている。
「帰ってくるな」
いつの間にか桟橋を渡ってきていたハルが沿道に塩を撒いていた。
「二度と来るな」
「おまえも強情だなあ」
ユウは頭を掻いている。
○
標高四百メートルもなかろう。
海賊の間では首領島と呼ばれたこの島の中央にある火山のことである。なだらかな斜面の麓は広葉樹が茂り、ほんの何メートルも進まないうちに樹木の高さはなくなって、腰ほどの灌木と短草が植生のほとんどになり、道がはっきりとした傾斜を示したころには黒い岩体が視界の九割を占めるようになった。振り返ると、そこは市街よりもわずかに高く、クワガタの口のように広がった港湾と、それに囲われた翡翠色の海面、灰色の砂浜、二つが交わって鳴るさざ波を境界にして、内陸に敷き詰められたバラックの町並みが見渡せた。木材と鉄材を器用に組み合わせた建屋の群れは生活の臭いを極めて濃厚に醸している。わずかな樹林地帯を挟んで、これらの景色を眺めるユウは風に流れた髪をかき上げ、山肌を迂回する道に視線を戻した。
風雨に削られて、右の景色に突き出すようになった断崖の上に、赤い屋根の小さなお家がある。ここだけは総木材で、その建材も太く、また厚く、表面には油脂が塗られ、装飾も王国流のそれを用い、豪商か、小貴族の別邸を思わせる小粋な建築になっていた。元々はいくつもの派閥を抱えていた海賊たちが集会を開くための建屋で、内海を行き交う商船からせしめたもので飾ったそうだが、現在はその装飾のほとんどが処分されたという。海賊討伐戦ののち、中央列島を采配するようになったヘンダーソン卿の趣味が情緒の中に美を見出す、いわゆる侘び寂びに通じていたらしい。
警備というにはガラの悪い男たちに白剣の鯉口をわずかに切って道を開かせ、行きついた奥の間には海賊時代を思わせる大きな円卓が、どん、と置いてあった。その上座にヘンダーソン卿がいて、山のような書類に目を落としていた。片手のグラスに入っている琥珀色の液体はおそらくアルコールだろう。そういう匂いが部屋の中に満ちていて、空気のみで酔えそうになっている。
ヘンダーソン卿はユウの到着を聞いていたのか、察していたのか、グラスの中で酒を回しながら微笑んだだけだった。相変わらずのキザで役者じみた挙措だったが、不思議とそれが鼻につかないところがある。
「ようこそいらっしゃいました、天ノ岐殿」
「ヘンダーソン卿もお変わりなく」
ユウは彼の隣の席を引いて、
「移住の手続きですか?」
「ええ、王国との協議が終わりましたから」
ヘンダーソン卿はここを離れ、もっと王国寄りの島に拠点を移そうとしている。
かつての海賊の居島は植生なく、土壌もなく、耕作も難しく、従って食料を奪う他なく、その手段に長けたため海賊と恐れられる集団と化してしまったが、ヘンダーソン卿の望むところではなかった。
「火山島が危険なのは周知の事実です。この島の一部を王国やスレイエスに開放することで安全で平らかな一島を手に入れられるのなら望外の幸運といったところですかな」
そのために王国側と、同盟直後から幾度も会談の席を設けた。
当然、この筋の会談が円滑に進むのは難しい。王国側には国防のため信ならない元海賊を領海に入れたがらない者がいたり、また自国の領地をわずかでも譲渡するなど狂気の沙汰と主張する者もあり、会談は長期に及んだという。これに介入したのがエルサドル商家だった。
エルサドル商家は航海の利便のため、中央列島の一拠点が咽喉から手が出るほど欲しい。そのためならエルサドル近海の一島をくれてやることくらい些事ですらない。もし海賊が攻めてきたところで、沿岸が戦場になるだけで内陸まで持ち込めば王国が破れるはずがない。そういう戦いを現商船団を率いるヘンダーソン卿がするはずがない、とこの男の人柄を見て断じたようだ。
それ以外の作用も様々働いたようだが、ともかくヘンダーソン卿の希望が通り、首領島に住む人の多くは移住することに決まった。
「もちろん、離れたくないという者は残していきますし、ここは王国と共用になるだけで我々の領地でもあります。その維持には数人とない人が必要でしょう」
王国側も、このことは認めている。内海は大型の海獣も多く、船乗りの多いエルサドル民といえど不慣れな環境といっていい。首領島を管理する人間はあくまでヘンダーソン卿配下だった。
そういう近況報告と世間話を重ね、
「ところで、このたび尋ねたのはコスヨテリまでの海図が欲しかったからなのです」
「簡単なことです」とヘンダーソン卿は笑う。「アントワーヌの船中にもあるでしょう?」
「あります」とユウは頷く。「それをホーランド家に貸し与える許可がほしいのです」
少し前までこの辺りの海図は秘中であったが、アントワーヌは商船団と同盟したために貸し与えられている。ヘンダーソンのいう通り、アントワーヌの船中にあるものを写してホーランドに渡してもいい。しかし、この経緯があるために、ユウはヘンダーソンの許可を取りつけようとしたのだ。
「同時に、エルサドル商家が中央列島に乗りつけられるよう取り計らっていただきたいのです」
「律儀な方だ」ヘンダーソンはグラスの中の酒を干し、「世間はもはや国際協力の時代に足を踏み入れています。以後、ここにも多くの王国勢が進出してくるでしょう。そうなれば、航路など瞬く間に開拓されるもので、わたしはそれを不愉快には思っておりません。天ノ岐殿とエルサドル商家にはこのたびのことで骨を折っていただきましたし、快く提供してくださって結構です」
「そういっていただけるとありがたい」
「とはいえ、操船は一筋縄にはいきません。航路を外れれば海獣の餌食になりますから。おそらくエルサドルの船乗りではしばらく安全安心な航海とはいかないでしょう。我々がお手伝いしても構いませんが、そこまで無償というわけには参りません」
「あなたはしたたかな方ですね」ユウは笑い、「わかりました。そのこともホーランドさんに伝えておきましょう。ところで、今回の仕事は、布に使う糸とそれを作る虫の調達も含まれていて」
「イレティオのことですか」
「それほど有名ですか」
「コスヨテリ全土で使われていますから、有名というより、一般的です。わたしの知っている限り、あの虫はコスヨテリ以外で生存できません」
「ここで育てたこともおありですか?」
「人を育てるのも苦労するところで、虫を育てようとは思いません」
「では、おれがやってみましょう。コスヨテリと一言でいっても、レオーラに匹敵する大きな陸地でしょう。良港はどこかありますか?」
「良港と聞かれれば、シデン港でしょう。交易量は大陸随一で、ちょうどイレティオの生産量も大陸随一のはずです。ですが、製糸産業が国策になっていて、虫は国法によって守られていたはずです。国外への持ち出しは難しいでしょう。その辺りはハル殿の方が詳しいかと思います」
他にもいくつか港の話を聞いたユウは、
「一応、シデン港に向かってみましょう。大陸最大の港湾というのを見てみたい」
「確かに、コスヨテリの文化を代表する地域といってもいいですから、コスヨテリ民を理解する上では最上かもしれません」
ヘンダーソンはグラスを掲げ、
「これで小難しい話は終わりでしょう。いかがです? 一杯」
「いえ、おれは酒は……」
ど、と音を鳴らして扉が開いた。壊れなかったのが不思議なほど頑丈にできている。
「ユウはいるか」と、どこかの鬼のような掛声とともにジュディが顔を出した。「おい、おまえ」と、ぞんざいに指をさしてくる。
「どうしたの、そんなに怒って」
隣のヘンダーソンを見ると、指先で額を擦りながら首を振っていた。その間に円卓を土足で踏み越えたジュディがユウの前に太腿を投げ出して腰を下した。あられもない褐色の肌がユウの前にさらけ出されていたが、本人は気にしていないようだ。むしろ、その発達した腿で、ユウが逃げないようにしているふうにも見える。
ユウはわずかに椅子を引きながら、息を詰めて視線をあちこちに踊らせていた。
「どどど、どうしたの?」
「外海に出たい」
「はあ?」
ユウは片眉を下げた。
「対帝国政策が落ち着くまで、こちらに専念してもらうって話だったけど」
「飽きた」
「勝手な事いうんだから」
ユウが呆れた声を出すのに対し、ジュディが詰め寄ってくる。これを受けて、ユウはまた椅子を下げる。
「わたしはね、間違ってたよ」とジュディは感歎する。「商船ばかりを襲う毎日で至極つまらんと思っていたけれど、あれは気が向いたときに仕事をすればいいだけで、毎日が自由だった。内海を出て広い海の上を泳ぎ、そのまま知らない土地に船をつけて白浜の上で遊んでたっていいんだ。それがどうだろう、いまはおまえらがあっちに行きたい、こっちに行きたい、ぎゃあぎゃあと喚き散らすのに付き合って、こっちはへとへとだよ。あの自由だった日々に戻りたい」
頭を抱えて身悶えし、ユウの胸倉をつかもうとした手を彼がつかむものだから、二人は手を取り合ったような形になる。
「おまえにはわからないか」
「わからなくはないけれど、契約事項だから」
内海海戦は王国とエルサドルが肩入れをしている以上、商船団の調印した契約はアントワーヌひとつに集約されるものではない。
「王国とエルサドル商家にまたがっている以上、これをどうこうするのは不可能だ」
「わかってる。それは充分わかってるつもりだ。だからこうして相談してるんじゃないか」
「相談って感じじゃないな」
「なんとかしてくれないんなら、このまま勝手に漕ぎ出すしかない」
ぎゅう、と手が握られる。
「契約事項の中には、このあとジュディたちの外海航路開拓に資金を提供する事も盛り込まれている。これを棒に振りたくもないだろ」
「それでもどうしようもないんだよ」
飛びつかれたユウは柔らかな肉の感触を一緒になって床の上を転がり回り、身をくねらせて彼女の拘束から逃げ出した。壁に追い詰められて、まだ迫り寄ってくるジュディと、吐息を交換できるほどの距離で向き合っている。
「どうもしてくれないんなら、わたしにだって考えが……」
粘度の高い唾液が口の中で糸を引いているのすら見えて、ユウは咄嗟に彼女の肩をつかんだ。
「わかった、わかったから、落ち着いて話し合おう」
「ホントか? また騙してるんじゃないだろうな?」
「おれはおまえを騙したことなんてない」
「いーや、何度か騙ったことがある」
「だとしても、今回は本気だから」
「ホントか?」と問い詰めてくる声が高い。思いの外子供っぽい女だった。
「ホントだから」と彼女の肩を叩きながら席に戻すと、ユウは襟を正して、一息ついた。
「えー、我々はこれからコスヨテリに向かうわけですが、内海に面した東海岸はともかく、外海に面している西海岸の調査はあまり芳しくないものと思われます。いかがですか?」
「そうですね」とヘンダーソンが頷く。「東海岸に比べたら、西海岸の情報は非常に少ないでしょう。コスヨテリより西は大海洋を挟んで、オルドネラという原生林が密集する大陸。コスヨテリ西海岸線に共人族はなく、一般に巨人族と呼ばれている異人種が居住しています」
レオーラでは鬼として知られる民族で、少し前までは内海海賊も同種のものと断じられて蛮族と恐れられていた。巨人族の実際もその身長は二メートルを少し超えるくらいで、性格は温厚だという。が、西海岸の情報は古い旅行記が何報かあるばかりで、現代の旅人で巨人族の居住地を歴訪した者はいるのかいないのか。少なくとも、アントワーヌにコスヨテリ西岸の情報は皆無といっていい。
「アナビア大陸南方の小人族はその交易品とレオーラ大陸東方航路の途中にある都合、厚い交流がありますが、コスヨテリ西方には交易品、主要目的地その他諸々なにもないために一切の交易、開拓が進んでいないといって過言ではありません」
「正しいでしょう」
「はい、そこで、コスヨテリ西方海岸と沿岸の調査を依頼したい。例えば、これからオルドネラ大陸に旅立つときの中継地点に使える場所もあるだろうし、コスヨテリ人と交渉する上でなにか新しいことを思いつく材料になるかもしれない。巨人族の情報も、彼らが友好的なのかどうか、交易することが出来るか、その意味があるのか、おそらくエルサドルの商人たちも興味があるだろう。知識はあって悪いものじゃないとおれも思う」
「なるほどな」とジュディは斜め上を向きながら顎を撫でている。「確かに、未知の海洋だ。オルドネラ航海への布石にもなる」
「そういうことだ。この内容なら、おれもエルサドルのみんなを説得できる」
「よし」とジュディは卓を叩いて立ち上がった。「じゃあ、あたしたちは早速行く」
「そう焦るなよ。コスヨテリの近くまで一緒に行こう。道々話を詰める」
「いいだろう。が、ともかくあたしは出航の準備をしてくる」
じゃあな、と後ろ手に振って、部屋を出ていった。
「礼をいいます、天ノ岐殿」とヘンダーソン卿は改めて注いだ酒を舐めて、グラスを置いた。「最近、外に出たい輩がずいぶんと増えて困っていたんです」
「礼をいわれるほどのことでは。ヘンダーソン卿にはよくここを抑えていただいています。むしろ、感謝をしたいのはおれの方です」
「お互い、苦労が耐えませんな」
ヘンダーソンはグラスを掲げ、一息に煽った。
○
コスヨテリ東岸は全体的に海抜が低く、氾濫した河川の土砂、海からの沖積で出来上がった、いわゆる、後背湿地や三角州が大半の地域だった。広大な河川がのたくって広がり、葉の長いイネに似た植物が鬱蒼と茂り、その群落の中に点々と巨大な緑のキノコと見紛う広葉樹林がある、などという景色がどこまでも広がって、いつの季節も地平線は水分の多い空気に霞んで消える。
中でも、シデン港は古い三角州が沈水して出来上がった三角江型の、広い港湾口を備えた町だった。地球でいうと、ロンドン湾が有名かもしれない。氷河期に出来た三角州が温暖期に入って海面上昇に遭い、水没して湾になる。湾口はラッパ型の三角形になり、外海の波を防ぎつつも極めて広いのが特徴だ。
古代の河川上のみが下刻作用によって削られて意外に深い。アントワーヌ船も青空の下、悠々と乗り入れている。掘割を這わせた町並み、白漆喰に似た土塀の建屋が通りを埋めて、屋根は乾燥させたイネ科の植物で葺いている。建物の高さが概ね二階までしかなく、船上からでも案外の遠くまでを見渡せた。
「きれいな街じゃないか」
柳のように枝葉を垂らした街路樹と石垣の河岸も合わせ、江戸時代の景観をユウに思わせた。主食も米が多いし、米という言葉がそのまま伝わる。レオーラとは異なる大陸といっても、言語は通じるし、ヘリオス教徒が大半を占める。顔の彫りは深く、肌はやや色づき、レオーラ人にいわせると毛深い印象があるというが、ユウが町を行く人の様子を見る限り、よくはわからない。ただ、服装だけがまったく独自の進化を遂げていた。着物や袴に近い形をしていて、袖を紐でしぼり、色合いは原色やパステルカラーが氾濫していて眩いほどだ。レオーラにはない装いである。
「おれには住みやすい町かもしれない」
建物の内装も畳状のものが多く、引戸式の窓はガラスと紙張り、いわゆる障子や襖に近い建具もあり、壁の代わりに部屋部屋を仕切っている。椅子があるのも外国人向け店舗が主らしく、一般家庭的には座布団を用いることが多いという。
東海岸というのは沿岸に暖流を抱えているケースが多く、冬でも湿度と温度が約束されているといっていい。地球でも、大陸の西海岸は乾燥して沙漠になるが、東海岸は湿潤で森林地帯になる。
ここシデン港もその例に漏れず、冬に床に座っても苦にならないほどの温度があるのだろう。王国は原則家屋内土足であったが、こちらは厳禁。ちなみに帝国の家屋では屋内外で履物を変えるのが一般的。冬季になると雪が降り、濡れた靴を暖かい室内に持ち込むと非常に汚れるとか、冬の外履きは室内で非常に蒸れるからとか、理由は色々ある。これの繋がりで、王国人に比べて帝国人の方が室内の汚れを気にしやすく、リリアがアンジュを小姑のように怒ることも多い。
非常に余談を挟んでしまった。
ユウは畳のある宿屋を選んで宿泊し、二階の出窓の手すりに腕を乗せつつ店の表通りを眺めていた。こうしていても、王国やスレイエスに比べればずっと風が温かく感じられる。
眼下の掘割を行き交う小舟は荷物を満載させて、艫の船頭は櫓を漕いで流れてゆく。左右の通りを行く人々も大らかで節度を保っている様子がある。店頭の仲居や手代なども懇切丁寧で気持ちがいい。
「商家の町だな」
「礼節を弁え、相手を敬いつつ、様子を窺う。実に商人らしい町でございます」
タモンがいい、セオドアは部屋の隅に寝転がり、アビーは足を畳んで優雅に茶を喫し、ハルは真似しようとしてすねを痛めている。
「おまえたちはついてこなくてよかったんだぞ」
「わたしは天ノ岐さまを師と仰ぐことに決めましたから、離れるわけには参りません」
「その割には師匠に対する恰好じゃないな」
「わたしも町に出たいと思っていました」とアビーが茶碗を置き、両手を膝の上に揃えて置いた。「わたしは外国に出る機会が乏しかったものですから、この機会に色々と学びたくて。隣のお部屋も予約させていただきました」
「いつの間に……」
「町宿に泊まるのは町の雰囲気が肌身に近づいて、とてもいいですわね。勉強になります」
「ユウさま、夜はきちんと鍵を閉めて人を入れないようにね」
アビーの冷めた視線をハルは鼻で笑ってやり過ごし、
「ユウさま、ホーランド家の依頼の件ですが、別の港に行くことを薦めますわ。ジジオ家はイレティオを独占産業にしています。生地と糸は国策ですから大量生産されていて、確かに価格は下がってますけど、虫の買い付けができません。ですから、別の港で資材を買い入れることを条件に虫の買い付け交渉をするのがいいでしょう」
「早計です」というアビーに視線が集まった。「町の様子はすこぶる良好です。良い市政が敷かれているのでしょう。町民のジジオ家に対する評価、その他を調べてから行動を決めても遅くはありません」
「アビーさまったら」ハルは哄笑し、「ジジオ家がどんなに優れた施政家でも、イレタの輸出を禁じている以上、わたしたちのお呼びじゃありませんわ」
「わたしたちはアントワーヌとタッソーという、二つの組織を代表してきている身です。例えば、わたしたちが同盟でも持ちかければ、ジジオ家も耳を貸すことでしょう」
「コスヨテリの豪族と同盟するのは愚策ですわ。明日には滅びる可能性があまりに高く、投資先としてあり得ません」
「だから調査しようといっているんです」
「その調査費用と滞在にかかる金が無駄だといってるんですわ」
「まあまあ」とユウが割って入り、「あんまり声を荒げると店の人に聞こえるよ」
アビーは居住まいを正し、ハルもしかめっ面を逸らす。
「わたしが思うに」とハルは腕組して、「ジジオ家の命脈も一年とないでしょう。シデン港は激戦地です。豪族たちがここを戦場にしないのはここに金が溢れているからです。一度負けてこの地を撤退したとしても舞い戻ってくることはできます。ですが、ここを戦地にした豪族は町人の不快を買って二度とここの富を得ることはできません。外で戦うわけです。いま、この土地は四方から狙われています。わたしが知っているだけでも六家の豪族がこの町に接近していますわ」
「ハルさんのおっしゃる通り、コスヨテリの状況は刻一刻と変わっているのでしょう。悪い変化の一方、いい変化もあるはずです。これからこの地域がどう変化するか、いい方向か、悪い方向か、まったくわかりません。ですが、大きな商売のできる土地、ということは変わらないでしょう。だからこそ、繊細な調査はしておくべきです。ハルさんがいつ調査をなさったのか、存じ上げませんが、今日昨日、ということはないでしょう。なら、もう一度しておくべきです。彼女自身、この地域の動向は激しく変化しているといいます。そういう動きに応じるには情報以上の武器はありませんわ。調査経費は決して無用な出費ではありません。利益を得るための、または過剰な損失を防ぐための先行投資です」
「むくく」とハルは唸る。
「これは決まったな」と笑ったセオドアは彼女に睨まれ、大人しく口を閉じた。だが、また顔は笑っている。
「ハル、調査するってことでいいか?」
「ユウさまがそうおっしゃるなら、もうわたくしからいうことはありませんわ」
ふい、と背を向けてしまった。
ユウは苦笑してその小さな背中を眺めている。
○
夜、するすると忍び込んでくる人の気配があった。
「誰かと思えば」と窓辺の桟に腰かけていたユウが笑う。
窓から差し込む風は冷たく、月明かりは明るい。真っ暗な部屋の中にふくれっ面のハルを浮かび上がらせた。宿に備え付けられている浴衣一枚の寝間着姿である。湿気の多い国のために、こういう通気のいい服を用いるのだろう。彼女は肘を抱えて、ぶるっと震えた。
「こんな時間に窓を開けてるなんて、相変わらず奇特ですわねえ」
「夜の風を浴びるのは冬でもなかなか楽しいものだよ」
いいながら、ユウは窓を閉めて、畳に下りた。ハルが壁に触れると、その下にある隙間から温風が噴き出してきた。ほどなく部屋が暖かくなるのだから晶機の力は偉大である。ハルが別のスイッチを入れたらしく、部屋の隅の間接照明が小さく灯った。
「もう寝るから必要なかったのに」
「わたしは寒いのは嫌です。暗いとなにをされるかわからないし」
「なにかするわけないだろう」
ハルは浴衣の裾を気にしながら足を折って腰を下した。
「慣れないのよね、こうやって座るの。裾も乱れるし」
やや足を崩して、なんとか座を整え、自らを省みるハルのくねらせた肢体、零れ落ちる茶色の髪先、それをすくって耳にかける仕草がどこか色っぽい。ユウはなんとはなしに、間接照明の方を向いた。
「いったいこんな夜更けにどうしたんだい?」
「わたしゃね、あの売女がユウさまのとこに夜這いに来ないか見張ってたのよ」
「下らないことしてないで部屋に戻りなさい」
「や」と首を振る。「戻りません」
次の間にあるユウの布団を見つけたハルは頭から潜り込んでいった。
「なにをそんなにへそを曲げているの?」
「ユウさまだって、わたしがどんな思いでいまの位置にいるのか知ってるくせに」
頭まで蒲団を被り、布団越しに呻く声が聞こえる。
「わたしはね、家族も故郷も捨てるつもりでアントワーヌの誘いに乗ったのよ、それで四苦八苦働いて、なんとかアントワーヌを成り立たせたと思っても、稼いだ金は右から左に流れていくし」
声が涙に濡れ始めている。耳を染ませれば嗚咽も聞こえてくるかもしれないが、ユウは畳の上に転がって、床を這う温風を浴びている。
「それはおれが悪かった。だけど、おそらくこれからも迷惑はかける」
「また勝手なことを……」
「いいや」とユウは首を振る。「それはおれがハルのことを誰よりも信頼してるからだ」
布団の震えがピタリと止まった。
「おれは、ハルを誘ったときから、ハルにすべてを賭けようと思ったし、実際、いままでも賭け続けてきた。これからだっておまえに賭けるし、アントワーヌの金の運用は任せきる。誰よりも信頼してるから」
「あの女は?」ぼそりと呟く。
「アビーのことか?」
沈黙は肯定らしい。
「いっただろ、彼女を連れてきたのは仕事だよ。アビーだってわかってるさ」
「ふーん」と布団の中が身動ぎし、小さく顔を出した。「わたしのこと、す……」
と呟いたきり、また布団の中にもぐっていった。
「おい、いい加減出ろよ、部屋に戻りなさい」
「やーだ」
布団を引っ張っても剥がれそうにない。
「ユウさまがわたしの部屋で寝て」
「無茶いう」
布団を離すと、ゴムのように戻ってゆく。ハルはカメのように縮こまって動かない。どうやら本気らしいことを察して、ユウは頭を掻いた。
「仕方がないな、まったく」
ユウは部屋を出ていこうとする。
「あの女の部屋に行っちゃダメだからね」
「だったらおまえが出ていけばいいだろ」
ぴしゃりと入口の襖を閉めた。
点々と豆粒じみた灯があるだけの暗い廊下。覚えのある香りがふと鼻先をくすぐった。なんだったかな、と頭に想い浮かべ、アビーの顔が浮かんだが、まさかと思い直して振り払った。
ともかく、ハルの部屋がどこにあるのかわからない。タモンを部屋から追い出して寝ることにしようか。などと思いながら、誰もいない廊下を歩いてゆく。
○
内海に面したコスヨテリ大陸東部はとにかく湿地が多い。泥と水の混じった沼地と沼地の間に黄土色の粘土質の道があり、それがまた沼地に突き当たって消失するか、葉の長いイネに呑まれるか、といったような土地しかない。
物資の輸送には水牛に近いカリプラタという動物がよく使われるようだが、基本的に水運が発達しているために、町村は河川沿いに多く、この生き物が使われるのも用地を耕作するのにその資材を運搬するときくらいだという。足が鈍重なために、人の移動には適さないともいう。人の移動にはカラカラという大型鳥類を使う。ダチョウか、某ロールプレイングゲームに出てくる黄色い大きな鳥に似た、二足歩行の鳥類だ。首はダチョウより短く、羽毛に覆われ、どちらかというと後者に近いかもしれない。羽根はよく泥に濁った水を弾き、色は主に茶と灰、黒があり、稀に白もあるという。細い足が泥に突き立っても容易に抜けて、沼地の中でも滑るように駆け抜けるのが最大の特徴だった。この鳥類がなくてはコスヨテリの内陸移動は不可能ともいわれ、名人の駆るカラカラは芝を駆ける優駿より速いともいわれる。
「一度見てみたいものだな」
などといいながら、ユウはこの奇妙な動物の手綱を握っている。操舵は馬と変わらないため、苦労もない。もうしばらくすれば芝上の馬より早く沼地を駆けられるかもしれない。一方で、少し前を行くセオドアはすでにその域に達しつつある。彼の駆るカラカラのかかとは泥水を跳ね上げることもなく濁った水面を脱し、見る者には脱したことも悟られぬ速さで次の泥地に埋没している。それが無限に繰り返されて、水面だけを見ればこの湿地を動物が移動しているとも思われないだろう。
「天ノ岐さま、なかなか良い乗り心地です」と、わざわざ馬首、ならぬ鳥首を返して戻って来、いらない報告をする。
「それくらいのこと、おれだって乗ってるんだからわかるよ」
「行けっ!」とセオドアが一声かけ、鳥腹を蹴ると茶色い羽毛が夢幻のように木立の中へ溶け込んでゆく。
コスヨテリの内地は暗い。豊富な水分で鬱蒼と茂ったイネ科の中に突如大木が突き出し、その樹冠は広く、密に繁茂して地上にまで日差しの届かないところも多く、巨大なマングローブ、マングローブというと汽水域のことなので、淡水しかないこの地に相応しくないが、景観としては大木の林立するマングローブに似ている。巨木に覆われた釧路湿原、だろうか。
季節柄か、葉の色彩は緑だけでなく、赤や黄色に美しく変色していて、森の中は種々の絵の具を乱雑に刷いたようになっている。それらの葉が散っては落ち、水面に波紋を広げながら地上にも色彩を添えていた。
足もとを覆う水下には湿った爬虫類と両生類、蛭やそれに類する正体不明が楽しげに蠢いており、あちこちに甲殻類の這う姿もあり、木の幹を見れば足の長い節足動物が停まっており、透明な翅を激しく微動させていたりする。コスヨテリ内でも比較的南方といわれるシデン港付近は特に生物種が多いのだろう。王国の良家の子女なら悲鳴を上げて卒倒しているかもしれない地だった。
ユウは長い棒を持って水面を探りながら、時には樹木の大きな根の上に下りながら、その周囲に生息している生物種の様子を眺めつつ、ゆっくり歩みを進めている。手を突っ込んだ水は温かく、泥は柔らかい。本格的な冬が来てもこれだけの水量なら凍結もなく、動物たちは温かな泥の中で冬眠したりするのだろう。
遠くの水面で魚の一尾が跳ねて、樹冠から漏れるささやかな日を銀の鱗で跳ね返した。
「天ノ岐殿、なにをなさっているのです? この歩調では日が暮れてしまいます」
もちろん、ユウたちは目的もなくこの大自然の中に身を投じているわけではない。この先の平地でジジオ家が他豪族と陣を構えているとの情報を聞いて、その見聞のために向かっているのだ。軍事スパイかもしれない。
「戦いが終わってしまいますぞ」
「バカ野郎」とユウはいう。「陣を張る、ということは、その地形に適した用兵をしなければならない、ということだ。その地形に適した用兵というのは、まずその土地を知らなければならないということだ。だからおれはいまこの土地を見ている。土地を見ずして用兵の評価はできないし、陣の評価もできない。いまのおれたちにジジオ家の戦を評する資格がない。いまその素養を養っている」
「なるほど」と感嘆したセオドアも鳥から降りて、三十メータはありそうな樹冠の先を眺めていた。「わたしはほとんどスレイエスから出たこともなく、ましてやレオーラから出ることが初めてなので、戦地といえばどれも同じ用兵かと存じておりましたが、違うようです」
「そうだろう、そうだろう」とユウは得意顔でいうが、この地を見聞しているのは多分に彼の趣味かもしれなかった。「なんだこれ、三葉虫みたいな形をしている」などといいながら、木の枝で甲殻類を突き、また水の中から引き揚げたりしている。
そんなことをしながら緩やかに歩んできて、唐突にひらけた丘陵地に出たときには日が高くなっていた。短い芝の生え揃った坂道を登ってゆく。と、見えてきたのは人の列であった。左手に赤い鎧兜の群れがあり、右手には青い鎧兜の群れがあり、両者の所々に色々な紋の描かれた旗があり、後背には炊飯の煙が上がっている。
「オビン家は丘陵を背に陣を敷いています」
セオドアは鳥上、器用に地図を開き、実景と見比べながらいう。オビン家というのが青い鎧で、右手側、手前から地平の向こうの丘陵とその間を覆うように一万人以上が密集していた。その一団と、広大な沼地と数本の畦道を挟んで対峙するのが赤い鎧のジジオ家、ユウたちの観察対象だった。
「布陣は長大ですな」ジジオ家の陣は南北に長く、この位置からではどこまで続いているのかも定かではない。「領地への侵入を恐れているのか、後背を取られるのを恐れているのか」
「まあ、どちらもだろう」
ユウは足踏みするカラカラの手綱を引いて御し、
「どちらも動く気配がないな。兵数は?」
起伏が複雑で、草木が萌え、そもそもの戦場が広く、一望で兵数が予想できる状態ではない。
「二万から三万くらいで、ほぼ同数では、という噂でしたが。まあ、噂程度の話です」
「それが事実なら、愚策だな」とユウはいう。「敵と同数か、それ以下の数で敵を攻めるというのは愚将のすることだ。例え勝てる策があるとしても、そういうのを策に溺れるというんだ。戦はいかに多くの戦力を戦場に投入できるかで決まる」
「どちらが愚かです?」
「当然攻め手、オビン家の方だな。攻めるということは勝つ算段があって攻めるんだろうに、戦闘力が揃ってないのに攻めるんだから算段もなにもない。バカ野郎だ。大量の伏兵がいれば話は別だけど。攻められる方は備える時間と選択肢に限りがある都合しょうがないだろう。ありもので耐えるしかない。にも関わらず、敵に匹敵する数を集められたのはジジオ家の優秀さを物語っているかもしれない。この数でなにができるか、まあ、見物だな」
それと、とユウは左右の陣を指さして、
「この様子じゃ、今日は動かないかもしれないな」
「そう思いますか?」
「故人曰く、決戦の前日は兵の士気を上げるため、食事の量を華やかにすることが時折あるという。オビン家はそれかもしれない。ジジオ家に比べて炊飯の煙が多い。兵数の差かな」
「なるほど」とセオドアは感心の声を上げる。「聞いたことのない観察です」
「レオーラ西部は米食じゃないからな。炊飯することが少ないんだろう」ユウはカラカラから降り、「ジジオ家はヘリオスフィアを利用しているかもしれないから実数は定かじゃないな。もっと近づこう」
カラカラの口輪を取り、かたい芝の上を歩く。風は意外に柔らかく、高空に小さな白綿を並べている。腕を伸ばした小指の先ほどしかない雲がふかふかと流れてゆく。
「ここだけならスレイエスを思い出します」
セオドアの声には答えず、ユウは太陽の方にある戦場を眺めた。大きく戦地を迂回してきたから、どちらかというとオビン家陣地の方が近い。時折両軍の斥候のような影が十騎、二十騎と二人のそばをかすめていったが、そのたびに森の中へ姿を隠す二人を追ってくる様子もない。もしかすると、二軍の本陣の方では怪しい二人組が北の丘陵にいるという報告がされているかもしれない。
そのまま一晩が過ぎ、じきに夜が明けようとする時刻、
「来ました」とセオドアがユウの枕元でひと声、実に静かに上げた。もちろん、芝を布団にした野天の下である。ユウも寝返りを打って伏せたまま、戦場を見た。が、漆黒の中に刀槍と鬨の声が唸るだけだった。あちこちに点々と七色の明かりがあるのはヘリオスフィアの光だろうが、どちらかの軍か、両方の軍か、ともかく、彼らのなにかしら目印なのだろう。灯っては消え、消えては灯りを繰り返している。
「どちらが優勢でしょう?」
「わかるわけあるか」
銅鑼の音とほら貝のような音も聞こえる。それに合わせてヘリオスフィアの明かりが東西に動く。
「夜明け待ちだな」
ユウはまた芝生の上に寝転がり、地下の物音に耳を澄ませた。兵がこちらに向かってくる様子もない。ぼんやりしながら東の空が白むのを待っていていい。ほんの少し離れた戦場では兵士たちが血みどろになって戦っているだろうに、えらい違いだった。
そろそろ地平線が白く染まり始めた。瞬く間に丘陵の緑が照り、東の雲が茜に燃えて、熟れた太陽が稜線の上を転がり出した。
丘陵間の湿地には兵が満ちていた。両軍、人を入れているようだが、およそ中心にオビン家の旗があり、彼らを囲うようにしているのがジジオ家だった。
「オビン家は中央突破を目指していますね」
ジジオ家は丘陵の低いところに様々の障害物を建て、人も集めて突破しがたくしている。だから敢えて、オビン家は丘陵の少し高い、比較的防御の手薄な位置に戦力を集中させて突破口を開こうとしている。これを破り、敵の後背に軍を入れて左右の敵兵を前後から殲滅させようというのだ。湿地の上に船のようなものを浮かべ、歩兵の移動を容易にしてもいる。夜の間にオビン家が備えたのだろう。
対したジジオ家はその中央部に予備軍を割きながら左右の兵を前進させてオビン家の軍を包囲、前後左右からの攻撃で殲滅しようとしている。この両翼も湿地を抜けなければならないのだが、そこに騎兵を備えていて、この機動はすこぶる早い。すでに敵陣の後方に達しつつある。
「オビン家が勝つかもしれません」とセオドアがいう。確かに、オビン家の兵が丘陵をじりじりと登り、ジジオ家は後退を余儀なくされている。敵歩兵の移動能力がジジオ家の予想を上回っているのかもしれない。
「なにかおかしい」とユウは顎を撫でている。「敵の後方に回り過ぎている」
ジジオ家の両翼は味方を引き離す勢いで進み、敵を見捨てるふうにして、オビン家が昨日まで陣を張っていた丘陵上を占拠してしまった。
「あそこから逆落としをかけるにしてもどれくらいの威力があるものか」
当然、オビン家は後方を取られたことを知っていて、その備えを施しているだろう。ジジオ家は後方の騎兵が敵陣を砕くことに一縷の期待をかけているとしか思えない。そして、その騎兵にそれほどの攻撃力があるとも思えない数だ。せいぜい二、三千といったところだろう。十倍するオビン家を一蹴できるとは思えない。そうしている間にオビン家はジジオ家の包囲を抜いて、戦場を掌握することだろう。
「これは決まったかもしれません」とセオドアは双眼鏡を下す。ユウも腕を組んだまま戦場を眺め、
「これは、ダメだな」と呟いていた。
「ジジオ家には投資するほどの価値はありませんな」
「いや、オビン家は殲滅される。たぶんもうどう足掻いても何人も生き残れないだろう」
ぎょっとしたセオドアはユウを見つめ直し、
「なぜです?」
「ジジオ家の下がり方が胡散臭くなった。たぶん、味方騎兵が敵後方を取ったのを認めて伏兵を出すんだろう。前後から逆落としをされて、沼地にたむろするオビン家は逃げ場もなく壊滅する」
「胡散臭い?」
セオドアの視線が戦場に戻るより早く、オビン家の攻める丘陵の上から無数の騎兵が姿を現した。むろん、ジジオ家の兵だ。攻めの勢いに乗っていたオビン家の陣に動揺が走るのが遠目にもわかった。
「もういいな」とユウはカラカラにまたがり、「帰るぞ。これ以上ここにいると敗兵に巻き込まれる」
すでに走り出している。セオドアはその背中をぼんやりと見送っていたものの、顔を綻ばせ、勢いよくカラカラにまたがった。鳥腹を蹴り、勢いよく駆けてゆく。簡単にユウに並んでしまった。
「さすがです、天ノ岐殿。スレイエスがああも容易く落ちるわけだ」
「スレイエスを落としたのは天運だ。二度目はない」
「しかし、おれは心が洗われた気分だ。どこまでもついていくぞ」
「ついてこなくていい」
しかし、振り払おうにも振り払えない。そういう速度と気魄がある。
○
「ムガ・ジジオさまは商人の出のようです」とアビーがいう。以前ユウが取ったのと同じ宿の一室である。右の部屋はアビーが、左の部屋はハルが入っているから、誰かに聞き耳を立てられている心配もないだろう。
「商家であったために、名家にあるような驕慢さもなければ節度もありません。身分、出身、出自を問わず、有能と思えば将軍にも据える器量があります。実際、彼の側近の文官は他国の商人や元教師などもおり、農家出身の将軍もいるといいます。人を見る目が確かなのは、実績が証明しているでしょう」
「確かに」とハルも唸る。ショートパンツからのびた白い足が畳の上で胡坐をかいている。「確かに、町民の評価もすこぶる高いわ。税が低くて、治安も安定していて。商人には願ったり叶ったりの世なわけよ。商人上がりなだけに、扱いがよくわかってる。ずっとジジオさまの世が続きますように、とまでいわれているわ」
「戦争となればジジオ家に出資する商家は多いようですな」とタモンが手ごねしながらいう。「シデン港はもちろん、ジジオ領内はどこもそのようで。他家の領土になってしまうと税を搾り取られますからの、金を払ってでもジジオ氏には勝っていただきたい、というところでしょう」
他家は収入の四割か五割を徴税するのに対し、ジジオ家は三割程度しか取らないのだという。百万の収入のうち、四、五十万取られるか、三十万取られるかというくらいの違いがあるということだ。この違いは大きいだろう。
「ユウさまはどう? 戦場を見てきたんでしょう?」
「ジジオ家の指揮は悪くなかった。けど、一戦見ただけだから。相手が無能だっただけで、もっと優れた軍はあるかもしれない」
「他家にも豪将は多くいるようです」とタモン。「兵力も多いでしょう。いま、ジジオ領はオビン家を含む六つの大家に囲われ、この六つが同盟を組んでジジオ家を圧迫しつつあります。ハル殿が初めにおっしゃった通り、ジジオ家は明日にも潰れるかもしれませぬ」
「とはいえ」とハルがまた唸り、首を傾げる。「ずうっと前から新興勢力のジジオ家なんて明日には滅びるといい続けられて、すでに数年、えっと、九年かしら? 中堅豪族への卸し問屋から会計になり、参謀になって、君主の亡くなった国を継いで九年、いまや飛ぶ鳥を落とす勢い、といっていいのかもしれない」
「おや、ハルが折れるのかい?」
「ユウさまったら、わたしだって商家の女よ。感情でモノを見ていたわけじゃないわ。純粋にジジオ家が投資対象として信に値しなかったから、シデン港での買い付けを反対したの。しかし……」
と渋く舌を打つ。
「もはや時代は変わっているのかもしれない……」
「レオーラはアントワーヌ。コスヨテリはジジオ、ですか」と、アビーの細めた目が光る。「よろしいのでは?」
「待ちなさい。決めるのはユウさまよ。外野が口出しするんじゃないわよ」
「では、ユウさんに決めていただきましょう」
「うーん」と唸ったユウは、よし、と膝を打った。「ジジオ家に友好の使者を送ろう」
ということに決まったものの、送り出した使者が空手で帰ってきてしまった。
「当主さまは非常にご多忙とのお答えで、後日出直してくるように、と」
「アントワーヌの使者とはいったのでしょう」とハルから凄みが滲み出して来る。
「はい、当然のこと」と使者はいう。
「舐められています」とハルは膝を叩いた。「わたしたちの調べではムガは屋敷にいて昨夜は宴会までしていますわ。それで会わない、というのは完全に舐められています。ユウさま、このような家はいますぐ見限りましょう」
「舐められているというか、試されているというか」
「ハルさんはまた早計ですわ」
「外野は黙ってなさいよ」
「アントワーヌはレオーラでこそ一目置かれているかもしれませんが、海外に出れば一貴族の名でしかない、ということです。一方で、ジジオさまは一国の主という立場にあります。例え、数年前に君主になったとはいえ、です。他国の一貴族が国主に同盟を申し込む、というのが、考えてみれば不遜なことです。それも当主が来ているのではなく、せいぜい参謀となれば、いわずもがなでしょう」
「う」とハルは呻いて、腕組みをして俯いた。
「確かに、一理ある」とユウが頷く。「ジジオ氏は国外の一貴族が尋ねてきて安易に会えば、対内的にも対外的にも舐められるって話だ」
国家とは、侮られれば立ち行かない。
「おそらくは」とアビーも頷く。
「おれたちが調子に乗り過ぎていた。それは認めよう」
しかし、とユウは続ける。
「おれだってこのまま引き下がるわけには……」
す、とふすまが開かれ、タモンが入ってきた。セオドアもいる。
「旦那、そろっとよろしいようで」
「そうか」と頷いて立ち上がった。「船に戻ろう」
ハルとアビーがぎょっとしてユウを見上げた。
「このまま引き下がれないのでは?」
「これは、アレよ」とハルが嘆息した。「ユウさまったら、またろくでもない仕掛けをしてるんでしょう?」
「ろくでもない?」
「そういうのが趣味だから」
「人聞きの悪い。おれは世界中の人々と事柄に誠心誠意尽くしているだけだ」
「バカらし」
「明日の夕方には帰るぞ」
「帰る?」とハルは耳を疑ったようだ。「帰るって船に?」
「いや、レオーラ、エルサドルに帰る」
「まだイレティオの買い付けもしてないし、イレタの入荷目処もないけど」
「とにかくイレティオ、生地だけ買い入れて帰ろう。ホーランド氏にはおれが話をつけよう。航路開拓だけでも良しとしてもらう」
「大した成果ではないけどね。元々海賊が使ってた航路だし」
「それと、商船団、ジュディたちに岸へ上がるよう連絡してくれ」
またハルが驚いて、
「ユウさま、それはオススメしかねます」
「なぜ?」
「ずいぶん前にもお話しましたが、内海に面した町の商人にとって、海賊は悪魔と同義語です。それはエルサドルでも、スレイエスでも、ここ、シデンでも、まったく変わることはありません。エルサドルやスレイエスはアントワーヌへの理解のために元海賊と友好を保っていますが、ここはわけが違いますわ。町の方々の反感を買います。商船団と名前を変えても同じ。船と船員の質でわかります。わたしだって、コスヨテリとの交易を商船団に手伝ってもらうことはあります。でも、彼らをこの近海まで連れてきたことはありませんわ。今回だって、向こうの岬に碇泊しているはずです」
「彼らはいまは海賊ではなくて、中央列島を統治する一組織であり、アントワーヌとの同盟者だ。かつて戦争をしていたとしても、戦争を終えた国家とは同盟を結んで和平を築き、通商を保って不思議はないはずだ。だったら、元海賊という組織でも、闘争を控えたのなら、一個の組織として遇するべきだ。彼らは人であり、おれたちの仲間だ。そういう差別は許さない」
「それはアントワーヌ側の言い分で、コスヨテリの人たちは……」と、いいかけて、ハルは唇を結んだ。「ユウさま、ジジオを脅す気ですの?」
「また、おまえはそうやっておれの評判を落とそうとするんだから」
「ユウさん、海賊を港に寄せて無理矢理話し合いに持ち込ませるつもりなのですか?」
「アビーさん、おれは別にジジオ氏を脅迫したいわけじゃない。ジュディたちはこれから西海の調査に向かいます。おれは彼らを労ってやりたい。補給もしていませんし、いくら海上の住民とはいえ陸に上がって酒も呑みたけりゃ飯も食いたいでしょう。ここをおいて他にどこでやれっていうんですか?」
「それはそうですけれど」アビーは頬を撫で、「ハルさんも、ご苦労なさってるようですね」
「半端じゃないわよ」とハルは歯を食いしばり、「ところで、ユウさま、いまのユウさまのお小遣いは全部スレイエスに投資されているわけですけど、海賊たちの飲食費はどこから出すつもりですの?」
「そこはなんとか」とユウは手を合わせる。「今度のホーランドとの取引で儲けが出るはずだから」
「儲けが出るたびに使っていては商売は成り立たなくってよ」
とさすがに怒る。と、アビーが噴き出した。
「ハルさんたら、大変ですわね」
腹を抱えて笑い、目尻の涙を拭っていた。ふうふう、と息を整え、
「ですが、ユウさん、取引の手段として、脅迫は最低の部類に入ります。そのお覚悟はよろしいですか?」
「ユウさまはただの脅迫者より質が悪いのよ」
「なにをいう」
「ユウさまに比べたら言ったうちに入らないわ」
ハルが蹴りをかまし、ユウは受けつつ転がり、ハルがさらにのしかかってくる。アビーは畳の上を転げ回る二人を眺めながら、首を傾げていた。
○
ムガの内腑は煮えくり返っていた。怒りのあまり、いまにも全身を打ち震わそうとしていたが、実際に震えなかったのは彼の自制心の強さの現れかもしれない。ただ、浅黒い顔のしわがヒクヒクと痙攣し、こめかみには血管が浮き出し、右に撫でつけた髪の毛先に隠されても目視で脈を測れるほどだった。片腕を脇息に預け、もう片手に握った扇子を胡坐の上で忙しなく開閉していた。和紙に似た地紙が擦れ、骨同士が激しく叩かれる。
この地位を得るまで様々の手練手管を用い、人を懐柔して、なびかぬ者は蹴り落とし、邪魔する敵は尽く粉砕してきた。コスヨテリ最大の良港シデンを手に入れ、もはや大陸内に並ぶ勢力はないものと信じて疑わなかったが、まさか、外からこれほどの恥辱を受けるとは思っても見なかった。
どどど、と畳の上を駆けてくる足音が聞こえる。
「閣下」
ふすまが開かれ、小姓の一人が頭を下げるのを横目にしたムガは扇子を閉じて息を詰めた。その重苦しい雰囲気は小姓も感じ取ったらしい、生唾を飲み下し、上げた顔も浅い。
「申し上げます」と前置きをして、「海賊船の引き込みはやはりアントワーヌの行ったことのようです。彼らがいうには、海賊はもうその旗を降ろしていて、すでに商船団と名を変えている。商いをするのだから入港してもいいだろう、と。実際、シデン側の商人も何軒かほだされ、飲食と商品の提供を行っています」
「信じられん」とムガは唾を吐くようにいった。「二百年だぞ。海賊が内海を荒らし回って二百年だ。それが唐突に鉾を収めたといわれて、そうか、などというバカな話があるか。そのアントワーヌというの、海賊と結託しているのではあるまいな?」
レオーラの一貴族が、友好を、と出しゃばってきたときも胡乱に思えたが、海賊船が寄せてきたのと聞き合わせ、すぐに思い当たったのは侵略だった。奴らはこちらを懐柔できないと知り、強硬手段に出たとしか思えない。
「海賊と結託して侵略に来たのではあるまいな?」
だとしたら、小さく見られたものだ。つい半年前の血族だけの腐れ豪族がここを治めていたときにはそういう仕草を露とも見せず、庶民出身のムガが領主になった途端これだ。田舎の商家上がりと侮られているとしか思えない。いますぐにでも打って出て、蹴散らしてやろう、と喉元まで出かかっている。
「どうでしょう」と小姓は首を傾げた。「アントワーヌはレオーラでも指折りの名家。失脚したとはいえ、賊に成り下がるかどうか」
「海賊が足を洗うより、昨日の名家が賊になる方が充分あり得る」
「我々の得ていた情報を整理して参りました」と小姓は続ける。「アントワーヌは帝国を下り、王国に亡命、そこで勢力を伸ばし、半年前に王国の行った海賊征伐戦において随一の武功を上げているとか。その戦いの折、寝返った海賊たちと王国との橋渡しをしたのがアントワーヌと思われ、その過程でアントワーヌと海賊どもが接近したものかと思われます」
「ではやはり昵懇なのではないか」ムガはいかつい顔を歪め、「その海賊討伐戦も、海賊同士の内部闘争としか思えん。王国がいかに大国とはいえ、海賊に海戦で勝てるとも思えん」
海賊は二百年、内海の波の中で生きてきた生物であり、陸の人間が陸を走るような自在さで海を駆るのだ。陸の人間が勝てるはずがない。
「海賊が海賊を討ち、新しい長を立てただけの話だ。海賊が海賊であることに代わりはあるまい」
「ですが、調べたところ、ここ半年、シデン港の積み荷が海賊に襲われたという話が上がってきていないのも事実です」
「そうか?」とムガは眉を上げた。
半年前といえば、彼がシデンを制圧したころと重なるから、海賊どもは自分の威光に恐れをなしたのかとも考えたが、やはり違うだろう。自分の海軍ともいえない海軍が海賊を畏怖させるとは思えない。
そっ、と、ムガの中でいままでの思案が揺らぎ始めた。アントワーヌの弁は事実ではないのか、と。二百年あまりの固定観念も簡単に揺らがせられること、明確な説諭の前では自分の拙い考えなど風の前の塵のように消し飛ばせてしまうことが、このコスヨテリに覇道を敷こうとしている男の最大の武器だったかもしれない。優秀な者の意見を聴く、そして受け入れる、その習癖を知った優秀な者たちが彼の元に集まってくる、その循環を最大限まで発揮できる。
観念が揺らぐともに、怒りも霧散されてきた。アントワーヌが事実をいっているのなら、ムガが怒るのは筋違いだ。それに合わせて、小姓の頭も高くなってきていた。すでに背筋が伸びている。
閉め切った障子から滲む明かりが弱くなってきた。じきに日が暮れる。
「もっと話せ。なにかあるのだろう?」
「以下はここ数日で集めた情報のため、真偽のほどが定かではありません。おそらく、アントワーヌが故意に町に噂を広めていたものかと思われますから、ご了承のほどを」
「よいよい」と扇子を振って、ムガは先を急かした。小姓はひとつ咳払いをして、
「アントワーヌはレオーラでは飛ぶ鳥を落とす勢いだとか。最近、スレイエス公家が滅んだのも、アントワーヌの手引きといい、現在、スレイエス北の港、フォーラントはアントワーヌの支配下にあると。彼らはまたエルサドル五家のうち、タッソー、ホーランド、カラヒナと懇意にしており、その後ろ盾を持っているようです。今回の渡海もホーランドの商用と、タッソー家の御令嬢の御遊学を兼ねてだとか」
「なんだと」とムガが大喝して扇子を叩き折ったものだから、小姓は身を竦めて頭を下げた。立ち上がったムガの巨体が足音荒く小姓に寄って、腹から出した声が唾を飛ばす。
「それは事実か?」
「それ、とは……?」
「タッソー殿の御令嬢がいらっしゃっているのか、アントワーヌとともに」
「いらっしゃっておられるそうでございます」
「バカ者が、それを早くいえ」蹴り飛ばさないまでも、扇子を床に叩きつけ、「わしはタッソー家の御令嬢に不遜を働いたことになるのだぞ」
商家の中では、王国の名より、帝国の名より、エルサドル五家の名の方が通るときがある。土地に依存する国家より、自由な商家の方が将来が明るい、という共通認識が仲間意識を育むのだろう。特に、国をひっくり返してきたムガの中では国家という組織に対する信頼が特に薄かったのかもしれなかった。商人には富というわかりやすい尺度もある。富を持つ者が正義。独自の産業と大交易拠点をようやく持ち始めたジジオ家の資産はタッソーの一族に遠く及ばない。そのぶんだけ尊敬があり、下心もあり、ある種の神を見る気分もあった。
「おまえ、タッソー家の御令嬢といえば、アビゲイル殿か。母君ではあるまい?」
「それはなんとも……」
「バカ者が」
今度は蹴飛ばされそうになって、小姓は転がって避けた。怒りを散らしたムガは敷居に座り込んで、
「会わねばなるまい」
「お会いになられるので?」
「会う」
「明日には発たれるそうです。早速使者を立てましょう」
「明日?」と小首を傾げて片手を挙げた。「しかし、普通に会うのでは癪に障る」
アビゲイルのもとにはアントワーヌの一団がいるはずだ。それと顔を合わせることにもなるだろう。癪に障る。
なにか考えねばな、とムガは意外に大きな四角いを撫でている。
○
雲のない夜空は、真白な月があってだいぶ明るい。しかし、地上はなお明るい。そして喧しい。
商船団の男たちが太鼓を叩き、笛を吹き、唄って踊って両手は拍子を取っているか、酒をあおいでいるか。向こうではセオドアも一緒になって、武闘大会が開かれていた。一戦、決着がつくたびに歓声が上がってまたうるさい。
「いくらなんでも近所迷惑だ。もう少し静かにさせてくれ」
ユウは向かいの席にいたジュディに怒鳴るようにいう。こうでも声を張らないと聞こえないくらいに喧騒がある。外なのに。
「仕方がないな」とジュディは上機嫌にいう。宴会を催したユウの気風と彼女を待っている西海冒険譚への期待にずいぶんと機嫌がいい。
「おおーい、おまえたち、少し静かにしろーい」と手を振りながら仲間たちのもとへ歩いていった。何事かを話してだいぶ静かになった。途端にユウは少し眠くなってくる。
「こんな寒いのによくやるわよ」と隣のハルは毛布に頭までくるまったまま、椅子の上で小さくなっていた。ヘリオスフィアの暖房をあちこちの食卓の足もとに焚いているが、彼女のホットパンツの下から覗く生脚を暖めるには弱い。
「そんなに寒いなら部屋に戻ればいいのに」
「なにをいってらっしゃるの、ユウさま。そう簡単にわたしは負けなくってよ」
歯をむき出しにして、ユウを挟んで逆隣にいるアビーを威嚇していた。彼女は気にした素振りもなく、おちょこに注いだ清酒を嗜んでいる。こちらは足もとを毛布で覆って、上は柔らかな毛皮の外套を羽織っていて、それほどの寒もなさそうだった。
「アビーさんは寒くありませんか?」
「ええ、ご心配ありがとうございます。これくらい寒い方が温かい料理が美味しいかもしれませんわ」
「ちょっとユウさま、なんでわたしには優しい声をかけてくれないの?」
「だから、部屋に戻っていいっていっただろ」
「優しくないいいいい」
鍋が目の前でぐつぐつと鳴っている。魚介もそうだが、森の中で取れたキノコの類も多く、いい出汁が出ている。
「お酒もお米から作っているそうです。王国ではまだ有名ではないから売れるかも。このキノコも、王国ではあまりキノコの種類が取れないからいいかもしれません」
「そうかしら?」とハルもキノコの笠を頬張り、「これくらいのならスレイエスにある奴の方が美味しい」
「どちらが美味しいか、というより、料理というのは風味の違いを味わうものです」
「いーや、スレイエスにあるキノコだって、複雑な風味を醸すのよ。アマオタケとか、クラマタケとか、アンバースレタケとか……」
「だから、どちらが複雑かいうのではなく、これにはこれのいいところがある、といっているの」
ユウを挟んで言い合いを始めてしまったので、極力無視してユウも鍋をつつく。確かに甲殻類のミソとそれに負けない森の風味はなかなか味わえないものかもしれない。濃厚なスープが美味しいし、なにより温まる。
ユウは木製の椀一杯に鍋を盛って、両手に抱えて暖を取っていた。取りながら報告が来るのを待っている。商船団員たちはあらかた静まったものの、今度は両隣がややうるさい。
そのうるさい中、「旦那」と背中から声をかけられ、背中の方へ意識を移した。
「動きがあったようでございます」
「そうか」とユウは頷く。
「しかし、様子のおかしいことが」
「どんな?」とユウは薄く背後の闇を見遣った。気づいた両隣の二人も口論をやめていた。
「旦那の予想より、だいぶ人数が多いようで。もはや行列でございます」
「行列?」ユウは頭を掻いて、「わからないな」と嘆息し、「まあ、待つことにしよう」
などと話ながら時が過ぎたのも十数分あまりだった。明るい行列が通りの向こうからやってきた。夜も遅いというのに町人たちも通りに駆け出し、手を打ったり、頭を下げたりしている。アントワーヌの宴会も一時閑散としてその明るさに惹かれていった。
「何事かしら?」とハルが震えながらいう。
「あれは、もしかすると……」といっただけで、アビーは考え込んだままなにもいわない。
行列は総勢百数十人といったところだろう。騎馬あり、笠持ちあり、扇子や反物をもって踊る者もあり、鼓笛を鳴らす者もあり。服飾の生地、装飾、それらの意匠、どれをとっても異国の目から見ても一級とわかる、やや和を思わせる盛列であった。ランタン風の晶機を棒に乗せた明かり持ちもいたが、彼らがいなくともこの集団は輝いて見えたかもしれない。
行列はさらに進み、中ほどにあった金蘭の馬車がアントワーヌ宴会場の隣に止まった。馬車横の簾が引き上げられ、中から降りてきたのも金蘭の上着を羽織った男だった。見るからに成り上がり、というふうが強い。日の焼けた顔にシワとアクが強く浮き立ち、豪奢な服を着こなせているとはいいがたく、常に引き上がった口元は絶対の自信を現わしている。体格も大きく、ユウより一回りも大きな、筋肉質の体をそびやかして、前後左右を彼より大きな体格の男たちの刀槍と威圧に守らせながらこちらに来る。
そのあまりにあからさまな集団に、商船団員たちは剣呑な目を向けている。いまにもどこからか刃物が飛びそうだったが、タモンがあちこちを飛び回って抑えていた。
ユウとアビーが立ち上がり、ハルも毛布を投げ出して直立した。
「いやあ、月見に出たつもりだったが、こちらの方が騒がしそうで誘われてしまった」
中央の着飾った男が空に響くかと思われるほどの声で明快にいう。
「アントワーヌの諸賢と見受けられるが」
「ジジオ閣下ですか」とユウが進み出たところに護衛の刀槍が動いて、かたい音を立てた。ぎょっとして立ち止まったユウの耳に、アントワーヌ側の刀槍の音まで聞こえてきた。が、ジジオが片手を挙げたために彼の周囲は武器を収め、ユウも一渉り眺め回し、闘争の気を散らした。
「天ノ岐ユウと申します。いまはアントワーヌの運営を任されている者です」
「お噂はかねがね。レオーラ大陸随一の剣士と伺っております。天ノ岐殿の差配でアントワーヌは大陸一の勢だとか」
「そういうわけではありませんが」
護衛を割って、ユウに握手を求めたジジオは彼の左右に目を配り、
「もしや、こちらはタッソー家のアビゲイルさまでは?」
わざとらしく目を丸くする。目を向けられたにもかかわらず、アビーと間違えられなかったハルはムッとしている。一方で、アビーは貞淑に頭を下げていた。
「アビゲイル・タッソーと申します、閣下」
「拙者の方こそ、申し遅れた。ムガ・ジジオと申します」アビーの手を取って振り回し、「いやあ、まさかあの内海の雄タッソー家の御令嬢にお会いできるとは、このような僥倖信じられませぬ」
「わたくしも、閣下にお会いできて、嬉しい限りでございますわ」
アビーはさすがで、暑苦しい歓迎と激しい握手を受けてなお笑みをまったく崩さない。
「我々も月見に出ようとしていたところ。珍しい酒肴なども持参しております。いかがかな? 座をともにしても?」
ジジオは人懐こそう周囲を見遣っていた。苦笑したユウは頷くしかない。
「構いませんよ」
「ほほ、実に気風の良い男よ」
と大笑し、ユウの背中を幾度となく叩いた。
出鼻を挫かれたというのはこういうことなのだろう、とユウは痛感していた。
元々ユウが事の主導権を握るつもりで様々の噂を流し、相手の焦りを誘い、強い印象を与えてなにかしらの行動を引き起こさせるために開いた酒宴だった。が、これほどまでにうまく立ち回られるとは思っても見なかった。ムガ・ジジオの快活さと勢いに場の空気が呑まれつつある。商船団員も大量の酒が運ばれてきて、もう気をよくしている。第三者が傍から見れば、アントワーヌは圧倒的に見劣りするだろう。
これは、とユウは腕を組んでいる。
これがコスヨテリを制しつつある男の強さか。一個の英雄、人たらし、とは、こういう才覚をいうのか。
○
宴はまだ続いている。もうずいぶんと夜は更け、空気は冷たい。幸いなのは風の少ないことだ。
「こういう日は熱燗に限りますな」とムガはヘリオスフィアを放り込んで沸かした湯に徳利を浸して温めている。
「お酒を温めるのですね」
「アビゲイルさまも、どうぞ一献」
酌をしてもらったアビーは熱燗を一口舐めて満悦の体である。
「なかなかよろしいものですね」
「体が温まりましょう」
「フラド酒も温めて美味しいものでしょうか」
などと、ユウの隣で話している。逆隣のハルは鼻をすすっていた。毛布はマントのように肩にかけただけだ。
「ハル、大丈夫か?」
「お客さまの前でみっともない真似できませんもの」
「もっとあったかそうな恰好して来ればよかったのに」
「いいの、お洒落は我慢なの」
「それで風邪を引かれても困るんだよ」
ユウは上着を脱いで、彼女の膝の上に乗せてやった。
「ま、ユウさまったら」とハルは頬を抱え、「もう少しきれいな上着だったらよかった」
「返せよ」
「いやよ」
「ところで天ノ岐殿」とムガが脂ぎった笑みを向けてくる。ユウはハルの膝にかかった上着を引っ張りつつ、彼の方へ向き直った。
「アントワーヌにも多くの武人がおられることでしょう」
「そうですね。いまのアントワーヌは元々帝国の騎士階級だった人間たちの集まりですから」
「それと海賊でしょう。そのお噂も伺っておりますよ」
「彼らは海賊ではなく、商船団員です。それと、アントワーヌ所属ではなく、同盟関係にあるだけです」
商船団はアントワーヌに下ったわけでも、王国に下ったわけでもない。内海の真ん中にあって、いまも独立勢力を貫いている。
「海賊の長はあの女性ですか」
ジュディは砂地の上で、余興なのか、部下たちと木棒片手に格闘し、ときに叩きのめして、ときに投げ飛ばし、そのさまは鬼を夢想させて、レオーラ人が海賊は鬼といっていたのがあながち間違いではなさそうに見えた。死人が出る前に止めようかとも思ったが、海の戦士たち同士のやり様に口を出すのも無用のことと思い直した。海の酒宴というのはこういうものらしい。
一人を砂の上に投げるたびに歓声が上がり、拍手が起こり、指笛が高く鳴る。ムガを含めて、コスヨテリ人も手を打って喜んでいた。
「ジュディ殿」とセオドアが踏み出し、「なかなかの手練れと見た。手合わせ願いたい」
「いいだろう。稽古をつけてやるぜ」
ユウの見たところ、この二人は群を抜いて強い。ジェシカやエイムズよりも、一騎打ちとなれば、この二人に及ばないだろう。二人のどちらが強いかと問われれば難しいもので、ユウもこの一戦には少なくない興味を抱いて見守ることにした。
セオドアは長槍のようにして棒を振り回し、ジュディは片手剣のようにした棒を体の横に下げて、セオドアの曲芸を不敵な笑みで眺めていた。
棒を小脇に抱えたセオドアが突如間合いを詰めて一突き、ジュディは身を引いて躱し、片手の剣を敵の槍先に添えつつ接近、一刀を振ろうとしたところ、槍を盾にしたセオドアに詰められ、鍔迫り合いになり、顔が真赤になるまで力を競わせていた。歓声が高くなり、拍手も激しさを増してゆく。
セオドアが身をそらしてジュディをやり過ごし、前につんのめった彼女の背中を叩こうとするが、ジュディの体当たりを食らったセオドアが後方に下がる。それから幾度かの激しい撃ち合いののち、セオドアの槍がジュディの喉元、皮一枚のところに突き立てられた。
「ち」とジュディが舌打ちをして、セオドアは口元だけで笑ってみせた。
ふむ、と唇を撫でたユウは背もたれに体を預けた。
いまの一戦ではセオドアが勝ったが、実戦ならジュディの方が強いかもしれない。たかが木の棒では彼女の怪力を活かせるわけもなく、もっと質量のある剣なら、彼女の勢いと相まってなかなかの力を発揮していたことだろう。
「どうでした、天ノ岐殿」とセオドアが息を切らして駆けてきて、「おれもなかなかのものでしょう」
「ジュディの実力はこんなもんじゃない。実戦なら負けてただろう」
「しかし、おれは勝ちました」
「一度、それも模擬戦で勝ったからってなんだよ。それくらいで喜んでいると程度が知れるぞ」
「ぐ」と息を呑み、「まあ、確かに……」
「もっと上を目指せ。おまえには才能があるかもしれない」
セオドアの顔がぱあっと華やいだ。単純で純粋な男だな、とユウは思う。だからこそ、戦士としての適性は高いかもしれない。
「いや、素晴らしい武でした」とムガが手を打ち、卓から乗り出してセオドアの肩を叩いた。「わしの配下でも君より強い武人は二、三しかおらん」
「ほう」とセオドアの声に少し険が混じった。「二、三ですか」
「わしの見たところ、アントワーヌの中で相手になるのは天ノ岐殿くらい」
ちら、とムガの流し目が送られてくる。
そういうことか、とユウは合点するところがあった。が、セオドアは侮辱と受け取ったらしい。卓の上に乗り上げ、ムガの頭を棒の一突きで叩き抜こうと構えた彼の前にユウは片手をかざした。セオドアの周りにはすでに三人のムガ配下の男たちが寄ってきていて、刀剣の先をセオドアに向けていた。宙に縫い付けられたように、その切っ先が固定されている。
「わかりました。おれが手合わせしましょう」
「ユウさま」とハルもうしろの方から渋い声を発し、「いいんですの?」
また舐められてるといいたいのだろう。
「ムガ殿はおれの腕を見て、アントワーヌについて飛び交う噂の真偽を確かめたいとおっしゃっている。であるならば、一戦交えた方がわかりやすい」
「実に話のわかるお方だ」
ムガは、にっと笑い、手を三度打った。一人の若者が向こうの卓を立って広場に立った。色の白い、大柄の青年だ。身体は縦横ともにユウより一回り大きく、筋骨もしなやかなものが厚く重なっている。肩にかかる黒髪が夜の寒風に流されていた。
「よろしいか?」
「かしこまりました」
ユウは卓を周り込んで、広場に出、まだその場にいたジュディを一瞥する。
「いいのか?」
「いい」
投げ渡された棒を握り、中段に構えた。相手も中段に、同じ木の棒を構えている。
一気に喧騒が消え、しんとした空気だけがある。人の生唾を呑む音まで聞こえてくる。
いい立ち姿だ、というのが、ユウの彼を見た感想だった。しかし。
一歩踏み出したユウの剣が、敵の切っ先に触れたときには彼の左肘を叩いていた。すでにユウは元の位置に戻って、元の構えにも戻っている。敵の顔は驚きに塗られ、額に汗が噴き出している。呼吸に荒さが目立ってきた。
いまの一撃、実戦であれば彼は片腕を失っていただろう。
彼はまだ動かない。怯えているわけではない。ただ驚いているのだ。
来いよ。
ユウは一、二度相手の切っ先を軽く叩いた。
挑発と取ったのか、彼の身に闘気が宿ったのがわかった。
ユウの頬も笑みに歪む。
なかなかの闘士。
一歩、退いた相手は上段に構え、ユウの剣を叩こうとする。が、ユウは先に右手に避けて、突撃してくる彼をかわした。二つ、足踏みをして彼の左手を取る。が、彼の方でもすぐさま態勢を立て直し、同時に逆袈裟、から、さらに大上段へ移行した、その胴をユウの一刀が抜いた。馳せ違い、残心を斬って、得物を腰元に。
うおおお、と夜の町に似つかわしくない絶叫が上がる。
「まだまだだな」とユウは歓声の中で青年にいう。「剣は素振りだけで強くはならない。格闘技というのはすべからく下半身のスポーツだ。たまには走らないとダメだぜ」
目を丸くしたままの彼をおいて、ユウは席に戻ってゆく。そこにいたムガは卓の上に身を乗り出すように立ち上がって、開けっぱなしの口が閉じていない。
「ご満足いただけましたか?」
「え」とムガはようやく意識を取り戻し、「ああ、いや、少し信じられないものを見た。まさか、ああも簡単に」
ど、と腰を下し、
「天ノ岐殿の強さは認めざるを得ませんな。とすると、アントワーヌの噂も真正のことか」
「わたくしも保証いたしますわ」と隣のアビーもいう。
「しかし、いかに耳に聞いたとはいえ、鵜呑みに出来ぬのが商人の性というもの」
「それはそうかもしれませんが」
「いや、しかし、わしが悪かった。失礼をした。貴公らを試すような真似をして」
顎を撫でて一考したムガは、
「つきましては天ノ岐殿に詫びをしたい。明日、出立前にわしの屋敷を訪れてはいただけぬか?」
「屋敷に?」
ここにもまたなにか秘したものの匂いを、ユウは嗅いだ。香ばしい香りがする。
「わかりました。では、明日の朝、伺いましょう」
このオヤジはいったいなのを考えているのか。ユウにも底が知れないし、想像もできない。だが、興味はある。
さらに賑やかになる宴の音とともに夜が更けてゆく。
○
翌日、朝に弱いユウは眠い目を擦りつつ、軽はずみに朝に伺うといったことも後悔しつつ、とぼとぼと一人町を歩いてジジオ邸の門を叩いた。
「天ノ岐ですけど」と門番に告げただけで、奥に通されてしまった。レオーラならユウがどんなにめかしこんでも乞食の仲間かと追い返されるところだが、さすが商人上がりの豪族である。客人への配慮がよくなされている。玄関に上がると、
「閣下は茶室にいらっしゃいます」と従者の一人らしい男に三つ指ついて丁寧に頭を下げられ、「ご案内いたします」と、先導までされる。
「ささ、どうぞ。どうぞ」と愛想よく手のひらで足元を示すようにされれば、ユウも悪い気はしない。こういうのをほだされるとかいうのだ。
ろうそく石を用いて床下を支え、土壁は照り返しが眩しいほどの純白、太い梁を通した天井に乗ったイネ科の植物は葺いたばかりのようで、手入れの行き届いた感じを漂わせていた。町家とはさすがに家格が違う。
ユウは黒くてらてらと光る木床の縁側を歩いた。横には湿潤なコスヨテリの里山を模したらしい庭園がある。一見、雑多な広葉樹と灌木、シダや地衣類を並べているようだが、枝葉を切り落として陽の光が入るようにされていて、人の手を入れながらも可能な限り自然に近づかせようというふうが感じられる。
ユウは吐息を漏らし、
「実に良い庭園です」
「閣下、ご自身が手入れされているお庭にございます。毎日見て回り、自らお手を入れられることもあるほどで」
「ほう、左様ですか」
権勢家になれば誰しも庭園に興味を持つものなのか。しかし、この造園はなにかしら、ジジオの内面を移すような示唆的な雰囲気を感じる。
二人は大きな広葉樹の樹冠の下を抜け、やや開けた暗がりの中に一件の小さな建屋を見つけた。
「閣下はあちらにいらっしゃいます」
ここまで案内してくれた従者は苔むした地面に片膝をついて、深々と頭を下げていた。ユウは緑の中に据えられた飛石を踏みながら行く。
小宅は茶室ふうであるが、ににじり戸ではなく、簡素な引戸になっている。中は土間があり、先に六畳あまりの畳敷きがあり、奥にはムガともう一人、十歳にも届かないのではないかという少年が真っ直ぐな視線をどこかに据えて微動もしていなかった。
「おお、よく来なさった」とムガが手招きし、「さあ、どうぞ、こちらへ」と彼の向かいに、ユウは座らされる。
丸障子から、冬の弱い日差しが差し込んでくる。奥の違い棚には掛け軸のようなものが飾られ、下には花を活けた陶器まである。
日本と変わらない。
故郷を思い出させる。ムガの右手側にある茶釜の底が赤く光っているのが、通常、ユウの世界では目にしない光景だった。彼の手前に急須をおいているあたり、この大陸の茶というのも抹茶を点てるようなものではないのだろう。
釜蓋は穏やかに湯気を噴いて、部屋の湿度を少し上げている。それほど寒くないのは、茶釜の下の光のせいか、それとも別に暖房を備えているのか。ユウは周囲を観察したが晶機らしいものはない。壁の中に隠されているのかもしれない。
「よく昔を思い出すことがある」
ムガは片手の杓で茶釜から掬った湯を急須に注いでいた。茶葉のふくよかな薫りが狭い部屋に行き渡ってゆく。
「時々、わしは間違えたのではないかと思うときがある。田舎の小さな店子で満足していれば、こんな気苦労も負わずに済んだ。だが、男子として生まれた以上、一旗上げたいと思うのも性だろう。他にやることがない」
静かだ。
茶釜の火も止められ、厚い壁は外の音を通すこともない。三人の男の静寂だけがある。
「それでこんな侘しい建物や庭を造らせてしまったのかもしれない。故郷の里山が懐かしくて。わしも、小さい頃はこの庭のような野山を駆け回ったものだよ」
そういうセンチメンタルだ。この空間とここを取り巻く敷地の景観にあったのは。確かに、男のセンチメンタルが造らせた臭いがしていた。
「人というのは、そういうものだと思います」
「天ノ岐殿は異邦者と聞いた」ムガは三つの湯呑みに茶を注ぎながらいう。「故郷が恋しくならないか?」
「おれの私情がまだこの地にありますから、それを始末するまでは恋しくもならないでしょう」
「私情か」
一羽の小さな鳥が丸障子の向こうを飛んでいって、茶室に小さな影を横切らせた。
「わしが天ノ岐殿を呼んだのも私情だな。ひとつ、相談したいことがある」
ユウは押し出された湯呑みを受け取り、高い薫りを昇らせる湯気の中に顔を埋めた。焼き物の肌はじっとりと熱く、また唇に触れた湯も熱い。だが、心地よさもあった。一口含むと、渋味の中に仄かな甘味が広がって、上質なほうじ茶を思わせる。合わせて練切の菓子も小皿に乗って、押し出されてきた。
「そこにおるのは、わしの息子でイオリという」
少年は紹介されて、手指を畳に預け、深々と頭を下げた。
「これを、レオーラのシリエス王国に留学させたい。アントワーヌと天ノ岐殿にはその際の後見人になっていただきたいのだ」
なんのため、とは訊かなかった。単なる遊学のためと思った。
「わしは」とムガは猪首を捻りながら、「あと二、三年も生きられんような気がする」
ユウは驚きに目を開いて、
「なぜです? お元気そうですが」
「コスヨテリの君主というのは、明日の命も知れん。家臣も身内も、明日の君主を狙っていて信用ならん。いかに部下を可愛がったとて」
茶を一口喫し、ほう、とため息をついた。
「と、まあ、そういうことだ。わしが危うければ当然子も危うい」
そういうものか、とユウは思ってしまう。奥の壁際に端正に座るだけの子供をまじまじと見、殺す理由を見つけられなかった。
「しかし」ともムガはいう。「コスヨテリはこういう世情だ。息子を国外に逃がしたと思われたり、アントワーヌへ人質にやったと思われれば、また厄介なことになる。だが、例え厄介なことになったとしても、息子の命には代えられない。そこで、だ。天ノ岐殿、わしが貴公を信頼できるなにか。息子を預けるに足ると思わせる、なにか、一押しがないか?」
こちらを見つめるムガの顔には冷徹な君主の顔があった。彼はずっとこの顔を貼り付けてここまで来、またこれから先も生きていくことになるのだろう。命を失うその日まで。
なんと応えるべきか。ユウは彼の瞳、あまりに悲しい色をした瞳を見返して頷いた。
「一切、ありません」
ユウの答えに、ムガの顔が驚嘆した。構わず、ユウは続ける。
「人が人を信用するために必要ななにかなど、誰も持ち合わせていないでしょう。おれにできることはただひとつ、待つことだけです。あなたが決断するまで、出港は延期しましょう。ひと月でもふた月でも、いつまでも待ちましょう。おれにできるのはこれくらいのことです」
「お主」といったムガの声が震えていた。俯いて、深い思案の間を置いた肩が震えている。「いや、延期しなくとも良い。バカなことをいった」
ムゲの足の裾が雫に濡れる。
「わしは、いい男に出会ったのかもしれぬ」
○
ムガはアントワーヌとの同盟を内々に許し、独占していたイレタのサナギも販売してくれた。サナギの取り扱いには重要な条件が付与された。アントワーヌはホーランド家以外に販売してはいけないし、ホーランド家もイレタの養殖成功したとして、売買を行ってはいけない。自家でイレティオを生産し、織物を作るのはいいという。ホーランドは話せば必ず約束を守るだろう。商人とは信用がすべてだからだ。問題は、いまだレオーラでイレタの繁殖が成功していないことだ。だが、それはホーランド家に任せるしかない。アントワーヌとユウには、他にやるべきことがある。やるべきことを為すために、いま、航海の途上にある。途上にあるうちは暇である。ユウは寒風の吹く甲板に出て、欄干に寄り付いた。幸い、波は小さく、舷側の浅いところを濡らしているだけだ。とはいえ、物資を一杯に積んでいて、喫水は低く、海面は近い。
ほお、とユウはため息をついた。
なぜムガが涙を流していたのか、彼の立場になってみなければわからないのかもしれない。ただ、彼が飢えるほど誠実の一念を求めていたことはユウも感じていた。単純にそれに応えようと努力した。たったそれだけのことに、涙を流すほど感じ入ったというのか。
孤独、かもしれない。
支配者の孤独、というのは、ユウには想像もできない。想像できない方がいい。ユウもアントワーヌを支配しているに近い立場にあるとはいえ、孤独とは無縁にしている。敵が多いだろうことも心得ている。しかし、それ以上に仲間が大勢いることを信じている。
なぜムガは孤独なのだろう。持ちすぎているためか。ならばすべて捨てていかなければならないのか。おれが目指す場所には孤独では行けない。帝国の打倒とヴォルグリッドの撃破。そこに到達するためにはすべてを捨てなければならないのか。無駄を削ぎ落し、鋭い刃物のように生きる。
船の欄干に片肘ついたユウは灰色に霞む水平線をぼんやりと眺めていた。雪が降るかもしれない。
「ついに陸地も見えなくなってしまったなあ」
ロープを支えに欄干の上に立っていたセオドアは手ひさしをして西の空を望遠していた。
「落ちても知らんぞ」
「いまの時期の海は寒そうですからなあ」などと笑って、欄干から甲板へ飛び降り、「坊主は船は初めてか?」
ユウのそばにいた少年に話しかける。ムガの息子のイオリだ。『訳あって船に乗せることになった子供』とだけ船員には通達している。ハルやアビーはイオリの身分を察しているだろう。
少年はユウ以上にぼんやりと舳先を眺めていた。セオドアに声をかけられ、瞳に色を取り戻し、慌てて背筋を伸ばしていた。
「はい。国を出たのも初めてです」
「そうか。世界は広いぞ」と、少年の黒髪を掻き回すように撫でる。
「おまえだってろくに世界を歩き回ってないだろうに」
「だからこそ、広い世界に驚いているのです、兄者」
「兄者いうなし」
「あの、天ノ岐さま」
「ユウでいい。さまもいらない」
「あの、ではユウさん」と彼は尻すぼみに喋る。「ぼく、どうしたらいいでしょうか?」
「どう、というと?」
また言葉を選び、時折セオドアの方を見、躊躇する様子が窺える。
「別に、どうということもないが」ユウは欄干に背中を預けながらイオリを見た。「君はなにがしたい?」
彼は小首を傾げながら「なに?」と不思議そうにいっている。
「学問をしたいとか、武道をしたいとか、王国の文化を見て回りたいとか、王国いえば農業大国だからそれを学び、食べ歩くのもいいだろう。エルサドルに入れば商業も学ぶことができるし、王都やコントゥーズ、学問都市のリライトにも知り合いがいるから、そっちで生活することもできるし、貴族邸や王城の見学もできる。可能性は無限大だぞ。おれはできる限り君の支援をしたいし」
広大な前途があるんだ、ユウは身振り手振りで語り尽くすが、手応えがない。
「はあ」
呟いたイオリは眉をひそめただけだ。
「なにかないのかい?したいことは」
「ええっと……」と呟いたきり、中空を見つめ、甲板に視線を落とし、なにもいわない。
「本を読みたいとか、魚を釣りたいとか、船室でごろごろしたいとか」
「はあ」
これがムガから預けられた息子でなければ殴っていたかもしれない。強いて堪え、ユウは自分の額を撫でるだけにした。
コスヨテリを出る前に、ムガが話していたことを思い出す。
「少し息子を過保護に育てすぎてしまったかもしれない」
この子が物心ついたときからムガは一国の領主の立場にあった。暗殺を避けるためにイオリ周囲には常に護衛が立ち、外出が制限され、するにしても護衛の渦の只中だった。自分で帯の一本を結ぶということすらしなかったかもしれない。要するに箱入り息子だ。
にしても、度が過ぎる。
「寒くないか?」
「まあ、多少は……」
「船室に戻ってもいいんだぞ」
「そうですか?」と左右を見、なにを思ったのか、ユウにまっすぐの視線を戻す。しかし、なにもいわない。動かない。少し震えているだけだ。
ユウはまた額を撫で、
「イオリ、剣はするか?」
「はい、少し」
「セオドア、稽古をつけてやれ」
「おれがですか?」
「海に落とすなよ」
「いいでしょう。請け負います」
二人を残して、ユウは船室に戻っていった。廊下まで暖房がかけられていていきなり温かい。上着がいらない。あの少年は訳もなくここを捨てて、寒空の甲板に突っ立って、どうしたらいいでしょう、などと呑気な顔で訊いてくる。少し尋常ではない。
どうしたものか。
考えつつ、ユウはハルの部屋の扉を叩いた。
「あら、ユウさま、どうなさったの? 人肌恋しくなっちゃった?」
「恋しくなってもおまえのところには来ない」
「ばっ」と息を呑んで目を吊り上げた。「このバッカヤローが。乙女が恥を忍んで訊いてるのに、死ね、死んで詫びろ」
「恥を忍んでる感じじゃなかった」とユウは一蹴し、「これからエルサドルに行くな?」
「行くに決まってるじゃない。荷物のほとんどはエルサドルからの発注だもの。特にイレタはナマモノだから、さっさとホーランドさまにお届けしないと。ナマモノといえば、あの女もそうだけどね」
歯をむき出しにしていうのは、アビーのことだろう。
「まだ仲良くなってないのか」
「終生なりませんわ」ふい、と顔をそらし、「あと、ホーランドさまから報酬を貰わないとお金がありません、ユウさまが海賊どもに奮発したから」
「そっちもまだいうのか。必要経費だっただろ」とユウはハルをなだめる。海賊たち、もとい、ジュディ率いる商船団はアントワーヌ船とともにシデン港を出たあと、針路を南に取り、コスヨテリ大陸西方探検に漕ぎ出していった。
「おれはあいつらに生きて帰ってきてほしいだけさ、なにせなにがあるかよくわからない文明の果ての地だ。ああいう良い思い出が厳しいときの助けになるんだよ」
「そういうものかしら」
「話を戻して、エルサドルのあと、フォーラントに向かってほしいんだけど」
「フォーラント?」とハルは片眉上げて、「そりゃ、行くこと自体は問題ないけど、わざわざユウさまがお願いする辺り、なにか深い考えがあるんでしょうねえ」
腕を組んで、ユウの様子を窺ってくる。
「あのお子ちゃまのことでしょう?」
「察してるならわざわざいわなくたっていいじゃない」
「察してても確証はないもの」
「あいつをリリアのところに置いてくる。だから、おれはクラインさんと少し打ち合わせてからすぐ陸路で北に向かう。またフォーラントで拾ってほしい」
「拾われてどうなさるおつもり?」
「教会領に行く」
「教会領に?」またハルは眉をひそめる。「あそこに儲けになるようなものはないけれど」
「アンガスのことが気になる」とユウはいう。このころ、まだアンガスは落ちておらず、エドワードもラピオラナ山脈に足止めを食らっている。「それと、人命に関わる人たちがいる。じきに戦争になりそうなら、少しこちらに人員を割いてもらいたい。いまは東側が大変なんだろうけどさ」
「なるほどね」とハルは得心し、「いいでしょう。異論ありませんわ」
「頼むよ」
「ええ、お任せあれ」
ぐ、とユウの腕が掴まれる。それを振り解いて、ハルを部屋の奥に押し込み、叩きつけるようにして扉を閉めた。




