第五巻 大陸蠕動編 一章 治政
一章 治政
「ユウさんが消えた?」
と、リリアは片眉を下げて、ジェシカの報告を聞いた。スレイエス公都レイスにある公邸の一隅に構えた診療所で昼食を取っていたときのことである。
このときの公都レイスは地方から革命のために訪れた人でまだごった返しており、そのあおりを受けて病人怪我人は山というほどおり、リリアはその習慣というか、研究者的な気質から、貧富の差なく患者を受け入れ、症状に対するヘリオスフィアの効果を一々書き留めていた。だから忙しく他に目の移る暇がない。だからユウが消えたこともジェシカにいわれ、始めて知った。
とはいえ、ユウが消えることなど、いまさら珍しくもない。彼はなにかの策略を思いつくと、唐突に姿を消すことがあった。リリアに行き先も理由も説明しないのもいつものことだ。リリアに秘事を打ち明けると、どこかでなにかが破綻すると思っている節がある。
しかし、今回は違いそうである。
「あいつは今回の戦いで多くの兵を失ったことを気に病んでいましたから」
「またなにか悪巧みをしている、ということじゃないんでしょうねえ」
リリアは椅子の背にもたれ、腕組をしながら中空を見据えた。
「誰もどこに行ったか、見当もつかないんですか?」
「エイムズはヒオウ山に行ったのではないかと話しています」
「ヒオウ山?」
スレイエスでも北部、ノルン山脈に連なる一峰だった。
「なんでも、ユウが師事する男がいるのだとか」
「ユウさんが師事?」
リリアにしてみれば何事も一人で出来てしまうユウが誰かに師事することなどあるのかと不思議に思うこともあったが、考えてみれば、ユウはクラインを始め、カルヴァン、フランなど、意外に多くの人に敬意を払いつつ教えを請うている。
「なにかの学問かしら?」
「剣、だそうです」
「剣?」耳を疑った。「ユウさんが師事するっていうことは、ユウさんより剣が強い人っていうことですか?」
ヴォルグリッドには何度か負けていると聞いたが、ユウの実力はアントワーヌでは抜きん出ていて、王国内でも並ぶものはないだろう。彼より強い剣士がこの大陸にポンポンいられては困る、というか、信じられない。
「わたしも耳を疑ったんですが、エイムズがいうには剣士なのだと」
「世の中というのは、広いものですねえ」
ほう、と椅子の上に溶けるように脱力する。広い世界に体が溶けていくような気がする。
「それで、いかがしますか?」
「いかが、というと?」
「アントワーヌの今後です」
「別に、いまは特に打つ手もないし、しばらくこのままでしょう」
交易はエルサドルにクラインがいて、フォーラントにはハルがいて、元海賊の船が海路を行き交い、アントワーヌとスレイエスの経済はこの地が帝国側にあったときより盛んといっていい。アントワーヌは公都レイスの治安維持を任されているとはいえ、その仕事もエイムズが的確に務めているし、戦争の被害にあった街道や建屋はロックスが中心になって修復してくれている。行政は前公王以来のものを引き継いでなにも問題ない。
「わたしが口出すこともありません」
「それはそうですが、このままユウに指揮権を預けておくのですか?」
ちょっと信じられないことをジェシカがいうものだから、リリアは跳ね起きた。
「ジェシカ、本気でいってるんですか?」
「いくら帝国脱出以来の親しい仲間を失ったとはいえ、兵は兵です。そのたびに山にこもられては困ります」
「それは、みなさんの総意ですか?」
つ、と見つめ返すと、ジェシカがあからさまに狼狽えて、
「いえ、わたしの個人的な意見ですけど……」
「では、わたしの心の中だけに留めておきます。他から同様の意見があれば考えますが、いまのところユウさんを指揮官から外すことはまったく考えていません」
「はあ……」
「わたしだってねえ、ユウさんに戦場に立ってほしくないんです。この間なんて、九死に一生だったそうじゃないですか」
フォーク将軍率いる騎馬隊に突撃して落馬し、馬群に巻き込まれて奇跡的に生を得たのち、スレイエス最強の槍術士と刃を交えたのだ。普通、命がいくつあっても足りない。一歩間違えていれば、と考え、リリアは腕を抱えて身震いした。
「帰りを待っている身も持ちません」
「あの、天ノ岐の野郎だけですか? 戦場に立ってほしくないのは」
ジェシカの歯軋りするような声に、リリアは慌て、
「ちょちょ、バカなこといわないでください、わたしは皆さんの身を案じてますよ。わたしを非情な人みたいにいわないで」
「みんな喜びますよ、それを聞いたら」と鼻で笑われる。
「ともかく」とリリアは咳払いをし、
「帝国が和平を結ぼうっていうなら、わたしも昔の因縁を忘れるのにやぶさかではありません。それで大陸の闘争がなくなるのなら、父と母のことは不幸な行き違いと思い定めます。ですが、帝国は歩み寄って来ないでしょう」
「それはわたしも思います」
「わたしは、わたしを慕う人たちを守りたいし、アドリアナも守りたい。だから戦うしかない。戦うならユウさんを指揮官に置くしか勝つ見込みがないように思うのです」
ジェシカを見据え、
「ちなみに、ジェシカはユウさんを指揮官から外したとして、誰を立てるというの?」
「えー」と頭を掻いて、「特にありませんが……」
「代案もなく、口にしたんですか? 軽率ですよ」
「ですが、さっきもいった通り、兵を失ったからといって山にこもられては現場の人間が困るといっているんです」
リリアも眉をひそめ、
「まあ、一理ありますが」
「でしょう?」
「わたしは、ユウさんは乗り越えてくれると信じています。さっきもいった通り、いまのところユウさんを指揮官から外すことはまっっったく考えていません」
それより、と卓に向き直り、
「午後の診察の時間です。患者さんを連れてきてください」
「わかりました」とジェシカは出ていく。
リリアは誰もいなくなった部屋の中で腕を組む。
ジェシカのいうことにも一理ある。いまは木枯らしの吹く季節で、じきにこの辺りも白雪に包まれるだろう。帝国はアンガスに侵攻しつつあるというし、それが終わればついに南に侵出してくるに違いない。事実、この数か月後にはアンガスは制圧され、帝国の大陸統一戦は次の段階に入ることになるのだが、このころのリリアはまだ未来のことを知らない。
帝国との決戦まで、時間はかなり限られてきた。正直な話、心に傷を負った指揮官では勝てないだろう。とはいえ、帝国を相手に渡り合い、勝てる可能性を持った人間をユウ以外に想像できないし、ユウのそういう優しさが人を惹き付ける一端なのだとも思う。
兵を失った悲しみに、ユウが討ち勝てるかどうか。
それが対帝国戦の帰趨を左右するのかもしれない。が、リリアにはどうしようもない。
「わたしはユウさんを信じてる」
唱え終わったころ、部屋の扉が軽くノックされた。
○
一方、王国議会では日夜議論が交わされていた。
「オイゲン伯爵などはいかがだろう?」
「まだスレイエスほどの領地を拝するには相応しくないだろう」
「分割統治にするしかないのではないか?」
「それにすれば、どれくらいの数に分割して、それぞれを統治する人間を選ばなければ」
「分割統治など愚策だ。我々が手を出し過ぎてはスレイエス民の反発を受けるのは目に見えている。それよりも、スレイエス公家の誰かを据えた方がいい」
「またスレイエス公家に力を持たせればどうなることか、わからないぞ」
ここ数日はずっとこの調子だった。国境線の防衛は従前の通りであったが、予想外にスレイエスを陥落させたものだから、その統治責任が出てきたのである。誰もアントワーヌが公都を落とすとは思っていなかったし、スレイエスに打撃を与えられればくらいに思って彼らを自由にしていた節がある。その結果が、想像の斜め上をいっていた。
レイスを占拠した以上、王国に牙を剥いた公王を廃さねば国のメンツに関わるし、廃したのなら代わりの統治者を用意しなくてはならない。なのに、それが一向決まらない。あちこちの利権と善意と正義が入り混じってややこしい。
「陛下はなにかお考えがおありで?」
「あまり、わたしも名案がありませんが」
「今日も解散し、それぞれ案を講じてくるということにしますか」
「しかし、ずいぶんと日数が経っていますから、今日のうちにたたき台くらいは形にしておきたいものです。近衛師団はともかく、いつまでもアントワーヌをスレイエスのことで煩わせておくわけにはいきません。彼らには彼らの領地がありますし」
「いっそ、アントワーヌ卿にお任せしてしまいますか?」
誰かがいった台詞の語尾に残った笑声が部屋にこだまして乾いてゆく。
「あれ? 皆さん、ご冗談ですよ」と、また笑う。が、その声は引きつっていた。
「それも一つの手段ではあるが……」と皆、左右と顔を見合わせた。
「彼らの下にはクラインがいる。あまり力を与えすぎるのも考えものだ」
「アントワーヌ卿がクラインを擁して反乱を起こすとは思えないが……」
うーん、と議会が唸る。
「わたしも、それが許されるなら、それがいいのです」
アドリアナは眉間をつまみ、卓の上に肘を乗せた。
「この戦いの功労者というと、コルト候とアントワーヌです。どちらかに任せるというのは筋ですが、コルト候に任せるとその領地はとてつもなく広くなり、さすがに苦労があるでしょう。アントワーヌはスレイエスでの人気も極めて高いといいますから、民の反発も少ないでしょうし、近衛師団の一個を預ければ治安維持も容易でしょう」
なにより、王国の裏に巣食う古い貴族の血統と戦う上で、リリアが力を得るのは願ってもないことだ。
「陛下が決断できない理由がまだおあり、ということですか?」
「アントワーヌ卿はわたしと昵懇です。彼女にスレイエスほどの土地を与えるのは、なんというか、あまりに贔屓しているように見える気がします。これはわたしにとっても、彼女にとっても、非常によくありません」
「では、このまま保留、ということにしてはいかがでしょう? 戦時下非常処置として」
近いうちに帝国と戦火を交わすのは目に見えている。そのための非常処置ということだ。保留になれば、アントワーヌがスレイエスに居残るのは自然だし、そのままの流れで管轄下に置ける。
「確かに、妙案です」
「しかし、クラインはどうする?」と誰かがいう。「彼らに力を与えすぎれば反乱の危険がある。これを忘れるわけにはいかない」
「幸い、まだエルサドルに勾留されているらしいから、エルサドルに軟禁ということでいかがでしょう? 陸地の上なら我々の方でも監視は容易です」
「むしろ、海賊島に送られて不明な動きをされるより良い、ということか」
ふーむ、と議会は唸る。
「他に、意見のある方はいらっしゃいますか?」
誰もが沈黙をしている。
「なにもなければ、アントワーヌ卿へ一報を送りましょう」
というわけで、リリアの下に一報が届くことになった。
「ここここここ、これはいったいどうしたことでしょう」手紙を手に、あたふたとレイス元公邸内を走り回っていた。「ユウさん、ユウさんっ!」と叫んで、彼がいないのに思い当たり、足を止めた。顔が泣きそうなほど歪む。
「うくく……、です」
「リリアさま、どうなさったんです?」と陽気なアンジュが片手を振りながらやってくる。「こんないい天気の日に。あ、運動してたんですね? いっつも診療室と研究室を行ったり来たりしてるだけなんですから、たまには外で運動した方がいいですものね」
「アンジュ、本気でいってます?」
「わたし、いつでも本気ですけど。手加減なんてしてると癖になっちゃっていざというとき本気が出せないんですよ」
などと、得意気にいう。
「では、その意気に期待して、ユウさんを連れてくる任務を命じます。大急ぎで」
「どこにいるかわかりませんけど」
「ヒオウ山のどこかだそうです。詳しくは自分で調べてください」
「そのヒオウ山がどこにあるのか……」
「詳しくは自分でといいました。二度、同じことをいわせないでください」
「いやしかし、そんな無茶な……」
「なんです?」
リリアが詰め寄ると、アンジュはしぼむように小さくなってゆく。
○
葉の落ちた森の中に注ぐ朝の木漏れ日は、薄くかかった早朝のもやに散乱されて、さしずめ光の柱だった。その光と水滴を吸った白剣が異様なほどきらめいていた。柄を伝った朝露は玉となって落ち、腐葉を叩いて高い音を鳴らす。それを合図にしたように、宙へ引かれる一本の白線。ほんの一瞬ののちには、白剣は元の中段の構えに、寸分の狂いなく収まっている。その姿勢から再び繰り出される白光を帯びた突き。
吉村曰く、
「剣には八双、突き、居合。様々あるが、究極の実戦においてはこれほど必要ない」
という。
「斬る、と決めたなら、剣を抜いて押し込み、振り下ろす。突くと決めたなら、電光より凄まじい勢いで突き出す。敵より早く動き、敵より早く敵の急所を打つ。最も速く、鋭い技が勝つ。つまり、最も速く、鋭い一撃を打てるようになれば勝てる。手段は問題ではなく、ただ速攻を仕掛け、確実に決めること、そういう技を身に着けることが必勝の道だ」
だから、と吉村はいう。
「剣術に工夫はいらない。相手を突くと決めたなら誰よりも速く突けるようにし、斬ると決めたなら誰よりも力強く斬れるようになればいい。ただ同じ技の鍛錬あるのみだ」
「しかし、同じ技ばかりでは簡単に相手に見切られるのでは?」
「相手は見切る前に死んでいる。それが実戦というものだ」
死んでいなくとも手傷を負えば万全ではなくなる。万全の敵を相手にするより、万全でない敵を相手にした方が万倍いいだろう、ともいう。
曰く、幕末最強の剣客集団、新選組は突きの技を極めた。曰く、幕末最強の藩士と呼ばれた薩摩藩士は初撃の切込を極めた。
「細かい作法、足運びや構えなども必要ない。ただ、剣を抜き、相手を間合いに入れ、究極の技を繰り出す」
そのために自らの間合いを完全に知り、技に入る挙動、筋肉の動き、視野、呼吸、すべてを知り抜いていなければならない。あらゆることを一体にして、誰よりも速く、究極の一刀を振る。そういう機械になる。そのために一万、十万、百万の素振りが必要なのだという。
「それが、極みの道、というものだ」
ただ、だからといって基礎を疎かにしていいというわけでもないがの、ともいっていた。
「こういう技は鬼にしか必要ない」
相手を殺し続けることを決めた鬼にしか必要ないのだという。当たり前でもある。いまの話は一撃で相手を殺すことを前提にした、一撃で相手を殺す手段の話だ。
以前、天ノ岐流の奥義のひとつ、決戦の居合を使ったが、あれはやはり背水の技でしかない。居合というのは、鞘を梃子にして剣に力を溜め、間合いに入った相手へ極めて速く強い一刀を放つ技だが、斬撃の速度を究極にまで引き上げなくてはいけないため、鞘と刀身の接触面積が少ない白刃でないと真価が発揮されない。天ノ岐流では長い道場剣術の歴史の中でその真価が発揮しづらくなっていた。フォークとの決戦では、確実に相手に致命傷を与えることだけを考えて、仕方なく使ったのだ。
少なくとも、いまの天ノ岐流の剣の極みは神速の突きにある。最も挙動が少ないため、狭い空間でも打てる上に、起動が速い。要するに、あらゆる斬撃の中で最も手軽に、そして速く、相手を殺せる技なのだ。このことでも吉村のいう極みに通ずる。
白剣を手元に戻し、一本踏み出し、切っ先を突き出す。葦に似た植物を束にして枝に巻き付けた、いわゆるワラ人形の胸元を的確に抜く。
普通、刺突というのは相手の肉に剣を突き立てる。都合、敵の肉に刀身が固定され、次撃はひどく遅れることになる。よって、一対一の決戦でしか繰り出さないのがセオリーだ。乱戦では用いない。
ただ、ユウはヴォルグリッドとの対決のためだけにこの技を磨いている。磨く中で、己の限界とも向き合っている。
肉体の限界、技の限界、精神の限界。
あの戦いで多くの仲間を殺し、またフォークという人材まで失った。
おれはなんのために戦っているのか。
おれを慕うみんなのために戦っているのか。アントワーヌ再興のために、リリアをディクルベルグに帰すために、皇帝に意趣返しをするために戦っているのか。ヴォルグリッドの野望を砕くために戦っているのか。それとも、強者に勝つために戦っているのか。
あれほどの英雄を殺して。
おれはなんだ?
ワラ人形へ、さらに一突き。白剣を引き戻し、体も元の位置へ。
ひらり、と木の葉が落ちる。
そこへ一突き。葉が二つに裂けたときには、ユウの体は元の位置に戻っている。
究極になる。究極への道の途中にいる。
「旦那」と不意に声をかけられて、ユウの切っ先が初めてぶれた。視線だけで振り向くと、タモンが巨岩の上に蹲居していた。「まさか、一晩中剣を繰っていたので?」
「なんの用だ?」
「アントワーヌから使者が」
ユウは大きく踏み出し、身を翻すとワラ人形の腹を斜めに打った。刃がすり抜けて、ずいぶん経ってから、思い出したようにワラ人形の胴から上が地に落ちた。
「吉村さんのところを騒がせることになるとは」
「それほどの大事があったということでしょう」
「おれがいなくてもアントワーヌは回るはずだ。そういうふうにしてある」
ユウは白剣を鞘に収め、歩き出した。その足が速い。タモンも腐葉を踏みながらついてくる。
「帝国でも攻めてこない限り、おれを呼ぶ必要があるか」
「帝国が攻めてきたのでは?」
「そんなバカな話があるか」
吉村の小屋が見えてくると、女の泣き声まで聞こえてきた。
「誰が来たんだ?」
「アンジュ殿です」
「またろくでもないヤツを送ってきたもんだな」
木戸を引くと吉村は徳利を片手に、アンジュが両手で差し出すお猪口に並々と酒を注いでいた。
「まあまあ、そう泣くこともあるまい」
「そうはいわれても……」
よよよ、とまたすすり泣く。
「吉村さん、まだ朝ですよ」
「ユウさん」
振り向いたアンジュが飛びついてきて、腰に絡みつく。それを引きずりながら板の間に上がったユウは腰を下ろした。
「そうかたいことをいうな。向かい酒というやつだ」
「効果ないでしょう」
「人間、素面だといらんことを考えすぎる。少し酒を入れてぼんやりした方がいいもんだ」
「酒飲みの理論を」
「ユウさん、離しません、離しませんよ」
あぐらの上に乗ってくると、彼女の柔らかな肉の火照った感触が下半身を刺激する。
「やめなさい、アンジュさん」
「離しません」
両手で頬を挟みながらぐいぐいと押しやり、離れないから胴を持ち上げて肩に抱え、背中から板の間に叩きつけた。ぐげえ、とヒキガエルのような悲鳴を上げて、アンジュは板の間に転がった。
「いったいなにごとです?」
「なんでも、天ノ岐殿を呼んでくるよういわれたらしい」
吉村はお猪口に一杯の酒を満たして一息に煽ると、勢いよく立ち上がった。
「さあて、炉に火でも入れてくるかのお」
「怪我しないでくださいよ」
「心配性だの、天ノ岐殿は」
ははは、と哄笑しながらピシャリと木戸を閉めた。それでも隙間風が止むことはなく、ユウは囲炉裏に薪を焚べ、熾にこすり合わせた手をかざした。
「で、なにしに来たんだ?」
「リリアさまがユウさんを連れて来いって。連れ帰るまで帰ってくるなって」
「そんな過激なことをいったのか?」
「いってませんけど、雰囲気の話です」
「おまえの被害妄想を語られても困る」
タモンが水瓶の中からすくった水をコップに移し、それを受け取ったアンジュは座り直して、勢いよく飲み、むせ返る。口からこぼれた水は、彼女のやや開いた胸元まで濡らし、肌を伝って深い乳の谷間に吸い込まれていった。白い手は襟元を直すのかと思ったが、甲で口元を拭ったあとは板の間をつかむだけだった。
「おまえ、そんなに飲んだのか?」
「そんなに飲んでないっすよ」
「まあ、いいよ。飯にしよう。おれも休みたい」
「わたしも休みたいっすよ」
ごろんと寝転がってそのまま動かなくなってしまった。
「リリアもこんなやつを使いに寄越すとは」
日が傾いてから、ようやく正気を取り戻したアンジュがいう。吉村はまだ戻ってきておらず、タモンは夕飯の食材を調達に行っている。要するに、二人だけだ。
「王国は戦時下ということで、スレイエスの統治を保留、しばらくアントワーヌに預けたいみたいです」
「ほう」
「それで、リリアさまはお受けするかどうか、懊悩されているようで。だって、アントワーヌは開拓したばかりの領地が南にありますし。あそこが軌道に乗ったばかりなのに疎かにするわけにもいきませんし。それに、いまのアントワーヌの人数で、スレイエスを運営するのは難しいし」
「なるほどねえ」ユウは囲炉裏の薪を崩しながら聞いている。薪が爆ぜて、火の粉が散り、暗くなり始めた屋内を蘇らせるように光を放つ。しかし、ほんの僅かなものだ。
「では、帰ろうか」
「いいんですか?」
「おまえがいつまでもここにいると、吉村さんの静寂を乱すことになる」
「ユウさんがいても乱すんじゃありませんか?」
「その通りだ」ユウは笑い、「しかし、もう一晩だけ世話になろう。いまから山を下ると夜になる。おまえももう少し休んだ方がいいだろう。それと、一人で来たのか?」
「案内に三人ほどついてきてくれましたけど、帰しました。大変だったんですよ、意外と遠くて。山の中で野宿して、寝てるときに変な獣に襲われそうになったり、命からがら逃げてきて……」
などといって、また泣き始める。
「この辺りは獣が特に多いらしい。気をつけないといけないよ」
「いまさらいわれても」と長く黒い毛先を指先で回し、「でも、帰りはユウさんが守ってくださるでしょう?」
アンジュの細めた目から視線をそらしたユウは、別にどこを見るわけでもなく、片隅の闇に目をやった。
「まあ、そうだな」と軽く頷く。
あとは熾の爆ぜる音だけがある。
○
この日もリリアは診察室にいて、机に突っ伏していた。片づけを手伝っていたジェシカは不審な目を向ける。今日は一日この調子だ。
「なんです? ユウのことがそんなに心配ですか?」
「いえいえ、そうじゃないの」重そうな上体を持ち上げ、背もたれに体重を預ける。「少しアンジュにいい過ぎたかもしれない」
「アンジュに?」
「あのときは少し気が立っていたものだから」はあ、とため息をつき、「わたしも精進が足りませんね」
「まあ、そのうち帰ってくるでしょう」
「もう帰ってこないかもしれない。キツくいい過ぎてしまったから」
「そんなことないと思いますが」アンジュが慌ただしく出て行ってからの日数を指折り数え、「確かに、結構な日にちが経っていますが」
「はああ、帰ってこなかったらどうしよう」
などといって、また机に突っ伏す。
こんこん、と扉を叩く音がした。
リリアが跳ね起きて背筋を伸ばすのを横目に、ジェシカが扉を開けた。見たことのある顔だと思ったら、エイムズ麾下の兵だ。
「確か、アンジュに同道していたと思ったが……」
「は」と彼は敬礼する。「アンジュ殿を無事に天ノ岐さまの下へ送り届けて参りました」
滞在先があまりにも狭かったために、先に帰されてきたのだという。
「では、アンジュはユウさんを連れて帰ってくるんですね」とリリアは安堵の息をついていた。窓を開いて鼻歌を口ずさんだりしている。「今日はいい天気ねえ」
「じきに冬になりますね、この辺りはそれなりに雪が降るといいます」
「そうねえ、ディクルベルクを思い出す」
灰色の雲が青い空を流れて太陽を隠した。
それから数日後、
「お帰りなさい、アンジュ」とリリアは彼女の手を握った。「あのときはいい過ぎましたが、よく務めを果たしてくれました。これからもなにかと気苦労をかけると思いますが、よろしくお願いしますね」
「リ、リリアさま」と呟いたアンジュの瞳がうるうると潤む。「勿体ないお言葉。不肖、アンジェリカ、リリアさまに終生付き従わせていただきます」
「よしなに」
馬の口輪をタモンに預けたユウに向き直り、
「ユウさんも、よくお帰りくださいました」
「また無理難題を押し付けられたか」
「わたしとしてはアントワーヌ領に戻りたいのですが」
「いや、むしろ都合がいいのかもしれない」
「スレイエスにいることが、ですか?」
「ああ」とユウは頷く。「帝国と戦うのに、いまのアントワーヌじゃまったく相手にならない。しかし、スレイエス南北軍六万があれば、いくらか手の打ちようがある」
「六万? 六万、ですか」リリアには想像もできない人の数だが、それを指揮して帝国と戦おうという。確かに、それくらいの人数があれば、充分な軍として成立する。「帝国はどれくらいの人数を用意してくるでしょう?」
「十や二十万はかたいだろう」
「二十万?」
六万ばかりでは勝てないではないか、とリリアは思う。
「おれたちが帝国と戦うとすれば、主力は王国軍だ。彼らが十万余りを用意してくれればいい」
「じゃあ、わたしたちは?」
「六万の軍勢を麾下にする確約がいる」
「では、そのように、アドリアナに伝えます」
「それと、ヘリオスフィア工場を建てる」
「工場を?」リリアは戸惑った。「ですが、ユウさん、反帝国思想は、反ヘリオスフィア工場思想で、必ずついて回ります。ヘリオスフィアの工場を国内に建てたくないばかりに反帝国思想といっても過言ではないはずです」
ヘリオスフィア工場を建設すれば、その周辺の気温が著しく下がり、大地は枯れると信じられている。実際、これの乱立によって惑星レベルの気温低下が予測されているが、局地的には、大地を枯れさせるほどのものではない。二十年あまり稼働している工場の周りにも緑が豊富にある場所は多い。ただ排熱と騒音があるため、人里離れた地に建てることが多く、荒野の真ん中にあるイメージが強い。なにより、工場は帝国に多いイメージもあり、帝国のイメージは荒野なのだ。そのため、局地的な被害が発生するように思われているのかもしれない。
「反帝国が反ヘリオスフィア工場というのはわかる。だが、いまの時代、衣食住と並んでヘリオスフィアは生活の必需品になりつつある」
以前、ユウは南方に航海に行った。凄まじい炎天の下であったが、ヘリオスフィアを用いた機械、いわゆる晶機によって温度調節された船内は西暦二千二十年の現代日本と同等の快適さがあった。
「いまはああいう生活が普通になりつつある。スレイエスは帝国と盛んに交易していたぶん、安価な人工スフィアが大量に調達できただろう。しかし、これからはそうはいかない。王国は日照時間が安定していて、温かいから光熱費もたかが知れているが、この地域はそうでもないはずだ。ヘリオスフィアにかかる費用は必ず市民を圧迫する。それにこれからの戦いのためにも、スフィアはいる」
「そうかもしれませんが」
「では、すぐにヘリオスフィアの価格を調べさせろ。ハルに聞けばすぐのはずだ」
いま、スレイエス北方に流通している商品のすべては彼女が支配しているといって過言ではない。交易は海路陸路あるが、当然海路の方が主流である。元海賊と同盟したアントワーヌとフォーラント商家の船舶数は同等程度だが、その船速において、アントワーヌ勢が圧倒的に優越している。アントワーヌが物流を支配するのは自明だった。
「あまりに高騰しているなら、工場を建てる理由になる」
「わかりました。その手配もしておきましょう」
「できればウラカ台地辺りに造る」
「ウラカ台地に?」
王国とスレイエス国境、ついこの間まで係争地だった地域だ。
「確かに、空き地は多く、町も少ないですから」
「しかし、建設は最低限、王国の許可が必要になるだろう? 六万の兵の確約と工場建設の許可が下りない限り、おれたちはここを撤退する」
「それ、脅しじゃありません?」
「おれたちはここの差配を任されたわけじゃないんだ。だったら撤退するのが道理だろ。ここはおれたちの領土じゃない。ここで産まれたわけじゃないし、誰に譲られたわけでもないし、統治してくれといわれたわけでもない。おれたちはおれたちに与えられた領地を守るために仕方なく攻撃したけれど、脅威がなくなった以上、ここにいる意味も道理もない。さっさと帰る」
「それは、まあ……」中空を見据え、「まあ、そうかもしれませんけど」
「それ以外にもやらないといけないことは多い。人を集めてくれ。クラインさんとも話したいが、ここまで来られないだろう」
クラインは政治犯で、本来ならエルサドル沖合の孤島に幽閉されているはずだ。が、アントワーヌとエルサドル商人が一緒になってうやむやにして、結局エルサドルにいる。
「誰かに口述筆記させて手紙を送る。その間に、リリアはアドリアナへの書状と、いまの話で必要なところにも手紙を送ってくれ」
「はい」とリリアの応じた声が弾んでいる。
「ユウさん」
「なに?」
「わたしはユウさんのこと、信じていましたし、これからも信じています」
「なんの話?」
「そういう話です」
彼女の、細めた瞳が優しく微笑む。
○
レイスの公邸の一室には、リリア、ジェシカ、ロックス、ハルなど、アントワーヌ運営の根幹に携わっている人間が十数人、集められていた。上手の壇上に立ったユウが咳払いひとつ、いう。
「えー、これより、アントワーヌの事業計画について、説明させていただきます」
「なによユウさまったら、改まっちゃって。さっさと始めてよ」
「大将も偉くなっちまって、ついに外聞を気にし始めたのかねえ?」
「そんなわけないじゃない。外聞を気にしてるんなら、あんな薄汚い恰好で外を出歩けないでしょう」
「ははー、違いねえ」
ははは、と笑い合う。
「おまえたちは黙れ」びし、といって、まだ小さな笑声の残る中、ユウは再び口を開いた。「リリアとは話したが、アントワーヌはこれよりスレイエス六万の兵を抱える予定で、ウラカ台地近郊にヘリオスフィア工場の建設も予定している」
二つの話はすでにユウが意図的に噂を流していて、この会議の参加者が集まるのにかかった数日のうちに、レイス近郊に浸透していた。だから驚く者はなかったものの、以前のリリア同様の疑義が持ち上がり、これも以前と同様の論調で沈黙させた。
「以上、二つのことはおれとリリアで手を打つ。他にも計画している事業があって、その実行のためにみんなの意見を聞きたい」
「他の、といいますと?」とリリアが促し、ユウが頷いた。
「スレイエス最大の問題は、大きな商業がないことだ」
出席者たちは顔を見合わせ、リリアがユウに向き直る。
「スレイエスには、ウッドランドや帝国ほどでないにしろ、木材も石材もあります。なにより穀物の一大生産地です」
北のディクルベルクの生産量が激減しているために、いまはスレイエス近郊がレオーラ大陸でも三指に入る穀倉地帯といわれている。
「わかる。穀物はいい。だが、商品はいくつある? 王国と比べてどうだ?」
と問われて、一同はまた顔を見合わせた。
「そりゃ、比べるまでもありませんわ」とハルがいう。「月と小石ほどの差があります」
「そう。下回っている以上、弱点といっていい」ユウは壇上を左右に歩きながらいう。「国家の責任とはなにか。第一に国民の安全を守ること。第二に、自らの力で富を得、国民を富ませる力を持った組織でなければならないこと。富とはなにか、商業であり、外貨を獲得する能力、つまり生産力だ。生産力のない国家は国家として二流、三流、下の下の国家といわなければならない」
「そりゃまあ、そうね」とハルが同意し、「でも、王国に匹敵する生産力を得ようとするのは実質無理ですわ。王国は五家の人脈と知識と技術、なにより富がありますもの。富は富を使えば使うほど大きくなるもので、金のない人間はそもそも同じ位置に立てません。国家も、事業も同じですわ」
「まだ諦めるのは早い」とユウは卓を叩いた。「仕事、というのは、固有のスキルが重宝されるものだ。要するに、各人の持つ特色特徴。スレイエスなら第一に穀物、第二に刀剣、第三に造船技術だ」
「造船技術?」ハルが眉をひそめた。
「王国の造船業はダンダロフ家が独占している。船舶の設計が家屋などと違って極めて特殊な技術を用いなければ充分な設計ができないためだ」
船底の曲線や水に強い木材の選定、耐水処理や加工、あらゆることが船舶にしか使わない技術といっていい。
「しかし、スレイエスも船を持っている。海賊も船を持っている。我々にはダンダロフ家を出奔したマロード氏もいらっしゃる。造船技術はふんだんにある。技師も多くいる。木材もノルン山脈にある。さらにいえば、エルサドルの、アタカ川が下刻作用で削ったエルサドル湾より、氷河で出来たフォーラントの湾の方が深く、圧倒的に広い。船渠の数も増やせるだろう」
「確かに」とハルが卓を激しく叩いた。「造船業に食い込むことができれば、ダンダロフの富の半分、いえ、三分の二近くはわたしたちが手に入れることもできますわ。タッソー家もホーランド家もわたしたちを贔屓してくださいますし」
「まあ、それも測量してみないとな」とロックスが腕組していう。「船渠を造るってのは。海のことはおれも詳しくないが」
ロックスの視線が同席していたマロードに向いた。この二人はスレイエスに来て以降も、専業が近いためか、意志の疎通を密にしていて、もはや師弟に似た関係にある。マロードは殊勝に頭を下げ、
「天ノ岐さまのおっしゃる通り、その可能性は大いにあります。わたくしに任せていただければ」
「では、それはマロードさんに任せます」
「は」と丁寧にお辞儀したのを見届けて、ユウは議場に向き直った。
「次いで、第二の刀剣について。余談だけれど、スレイエスで産出される鉄は特殊な鉄だ。普通、鉄鉱石は太古の海にいた植物性プランクトンが光合成して生産した酸素に水中の鉄元素が化合して海底に沈殿したものだといわれている。あくまで、おれのいた世界では。これがレオーラ大陸全般で採掘される鉄だ。一方、スレイエスの砂鉄は火山性の岩石、火成岩に含まれる要素の一つだ。比較的脆くて白っぽい花崗岩からよく採掘される。山体が花崗岩のノルン山脈が風化して、その麓にあるスレイエスで盛んに産出されるんだろう」
ともかく、とユウはいう。
「砂鉄の特徴として、鉄鉱石より柔らかい、といわれている。柔軟にしてしなやかだ、と。まあ、様々な加工の仕方で変わるんだけど。つまり、砂鉄は、この地域特有の鉄であり、この地域特有の鉄で造られた刀剣はやはりこの地域独特の美と強さがある。これを商品にしない手はない」
「それはそうだけれど」と席に戻っていたハルが首を傾げる。「スレイエスの刀剣は、まあ、そこそこの人気があるのも確かですわ。しかし、武器としては鎧を砕けるほどではないし、美術品としての価値の方が大きいかも。その筋で売りさばけば可能性はありますわ」
「王国の、二、三の貴族に献上しよう。アドリアナ陛下とコルト候に持ってもらって、彼らを広告塔にする」
ぎょっとした一同は顔を見合わせ、ハルだけがほほと笑っていた。前にのめった彼女の瞳が金の色に光る。
「ユウさまったら、少し大胆ですわね。ですが、一理あります。兄を退けて戴冠したアドリアナ陛下は老若男女問わず非常な人気がありますし、ミリシアムさまも王国の富の象徴です。お二人に贔屓していただければ、王国の貴族の間で噂にされるのはまず間違いないでしょう。問題はリリアさまの手腕にあります。受け取っていただけるかどうか」
リリアは頬を掻きながら、
「ま、まあ、献上するだけなら、受け取ってもらえると思いますよ」
「リリアさまがそうおっしゃるのなら、刀剣業を少し増産させましょう。献上品はわたしの方で見繕いますわ。とびっきりの二振りを」
「え、ええ、お願いします」というリリアはまだ腑に落ちない顔をしている。商売に友人と恩人を利用するのに躊躇いがあるのかもしれない。清廉潔白はリリアが信奉する貴族思想の一柱だ。が、任せる他ない。
次、とユウは続けた。「穀物か」
「まだ生産量は増えるかもしれないが」とロックスが言葉尻を濁す。
「スレイエスの土は耕す必要もありません」とリリアが立ち上がった。最近は医療事業が忙しいために忘れられがちだが、彼女は元々土壌研究者だ。商売の話と違って、生き生きと話す。「耕せば、むしろ、土の団粒構造の破壊に繋がります。いずれ大地はディクルベルクのように枯れることでしょう。スレイエスの地質なら、断固不耕起栽培です。これ以上人が手を施すところはあまりありません。強いていうなら、収穫期の前後に種や堆肥も蒔くとして、それに人手がいる、ということくらいです。もっといえば、農業は自然が相手の産業です。焦れば環境を損ないます。無理な収量の増強はディクルベルクの二の舞になります」
「リリアのいうことは正しいかもしれない」と、ユウも首肯した。「穀物の問題は、生産量以上に、流通にあるのかもしれない」
「確かに、スレイエスの道は王国北方に比べて、格段に狭くなっています」
この時代の街道というのは荷駄の一台が通るのが精一杯で、すれ違おうとすれば片側が道の脇に寄らなければならないのがほとんどだった。例外的に王国北方、エルサドルからコントゥーズ、王都を繋ぐ街道だけが双方向に通行ができ、船舶の移動も発展していて、そのために、この三都市の物流は他国に類を見ないほど盛んになっている。スレイエスにはそれほど大きな河川がないし、河川を流通に使うというふうに町が建設されていない。各町が内陸の真ん中に点々とある。物資の運搬より、耕作地に適した場所を選んで自給自足的に発展したせいかもしれない。
「簡単に荷駄を動かせるくらいあれば」
「近いうちに帝国との戦争が始まるのは目に見えている。これに備えて、王国でも兵糧はほしいだろう。いかに王国も豊かとはいえ。スレイエスの穀物を王国に持ち込めれば、また利益になる。道が拡張されれば軍隊の移動も楽になる」
「そのためには金が要るな」とロックスがいう。「資材もいるし、人件費もいる」
「税収を上げるしかありませんわね」
「いや」とユウは首を振り、「税収は減らす。税は取らない」
衝撃的に会議室自体が揺れたようだった。
「ユ、ユウさん」とリリアが申し訳なさそうに手を挙げた。「いくらなんでも、取らないというのは……」
「徴税に使う金と人を経済に使いたい」
「ですが、法規と治安の維持、道路整備などの土木、軍事、スレイエス六万の兵への給金は必要です」
この時代、医療も地域地域にいる自営の薬師が自らの知識と経験に則って処方するもので、国家資格などではない。そのために国に責任がないし、出費がない。消防も同様で、また学校はスレイエス内にない。町の知識人が人を集めて小さな学習教室を開いているのがせいぜいだった。政務としては、治安維持とインフラ工事、軍事だけが残る。
「王国からの補助金がありますが、とても足りません」
「正確に計算したか?」
「してませんけど。計算するのも人を使います。人件費がかかります」
「おれの給料と貯金を当てよう。フェルロテアを立ち上げてから時間が経ってるし、アントワーヌには継承戦争以来、王国からの褒賞があるから、それなりに蓄えてあるだろう」
再びざわつく会場。
「古代ギリシャの哲人プラトン曰く、支配者とは金も幸福もすべてを捨てて、市民のために専心尽くす。結果、不幸な貧乏人になるのも厭わずやるのが理想なのだそうだ」
「ユウさんが全財産を寄付するんですか?」
「そうだ」
「でも食費やなにかは?」
「ここにいる限りは公邸で寝起きするし、外に出れば野宿か船を使うし、飯は炊き出しで充分だ」
アントワーヌはスレイエス戦が始まった直後から各地で炊き出しをしていて、レイスでも行われている。ちなみに、王国にあるアントワーヌ領でも、食堂を開いていて、格安で食事ができた。
ユウの覚悟にリリアが絶句し、他も目を丸くしている。
「でもでも」とリリアはまだいう。「ユウさんのお金だけでもまったく足りないかもしれません」
アントワーヌの大幹部として働いていて多少の蓄えがあるとはいえ、アントワーヌ自体薄給だ。運営がそもそも赤字である。
「食費を供給するのがせいぜいですわ」とこれはハルである。「ユウさまがどれくらいの期間のことをおっしゃっているのか、定かではありませんが、治安や軍隊維持にはとても足りません」
「スレイエス兵六万、といったが、いまの説明で兵を辞めたい者には辞めてもらう」
つまり希望退職を募る、ということだ。
「軍事の仕事などない。王国以外の国境線はおれたちが封鎖したし、王国国境は当然心配ない。わずかな治安維持が必要なだけだ。しかし、野に下れば土木も農業も仕事は掃いて捨てるほどある。むしろ、ある程度商工業に人を割きたい。辞めてもらった方が都合がいい。商工業に人を流し、税も取らず、経済を狂ったように回す。いずれ来る帝国戦で人材が欠乏するが仕方がない。アントワーヌ兵とスレイエス兵に衣食住は提供する。が、金はない。極めて薄給になるだろう。辞めたいという者には去ってもらう。最悪、王国兵だけでも戦えるんだから、スレイエス兵がいてくれるんなら望外の幸運と思うくらいにしておこう。時が来れば再募集できるかもしれないし、また力を貸してくれる者がいるかもしれない。いまはそれで行く」
「ですが」とハルが手を挙げた。「それにしたって、無税ではいずれ窒息します。アントワーヌは破産しますわ」
「スレイエスは王国と違って五家のような企業的な体制はなく、町ごとの組み合いはあるものの、すべて小売業といっていい。おれたちは彼らから商品を買い上げて、あちこちで売り捌くわけだが、商品が多ければ多いほど利益が上がる、可能性がある」
「可能性があるだけで売れ残れば赤字です」
「それをなんとか切り回すのが、商人の腕じゃないのか?」
「そうはいっても、できることとできないことがあります」
「おいおい、ハルちゃんよ」とユウは嘲笑い、「おまえ、大陸一の大商人になるんじゃないのか? スレイエス国民をまとめ上げて一組織に出来れば、エルサドル五家にも劣らない富を作ることが出来るぞ。それとも、ハルちゃんは小銭を稼いで満足しちゃったのかな?」
「そ、そんなわけないじゃない」とハルは唾を飛ばす。うーん、と一頻り唸り、「わかったわよ。わたくしが必ず売り捌きますわ。でも、下らない商品を作られたらどうにもなりませんから、わたしの管轄外の皆さん、そこんところよろしくお願いしますわよ」
「まあ、大将がそういうんならよ、おれは構わねえが」
「わたしも」とエイムズが挙手して、衆目を集める。「わたしの貯蓄もスレイエス兵のために割きましょう」
「いいんですか?」
「わたしはあまりお金の使い道がないので」と困ったように笑うのが、またサマになっている。「食事も住居も支給のもので充分ですし、そもそも、毎日調練に出ていて、使う暇もありませんし」
「ならわたしもいらん」とジェシカがいう。なぜか憮然としている。「貴族として当然の務めだ」
「わたしもできる限り協力したいですが」とリリアは頬を掻く。「元々、あんまりもらっていませんけど」
おれも、わたしも、とあちこちから手が上がる。
「おまえたち」とユウは腕を組んで、「ありがたいとは思う。だが、良くない。軽率なことはいわない方がいい。本来、上の者はそれなりの報酬をもらうものだ。でなければ、下は落ち着かないだろうし、汚職の原因にもなりかねない。貰えるものは貰っておかなければならない。おれも軽率だった。今回もまた匿名の寄付を募ることにしよう」
匿名の寄付、という戦法は、アントワーヌの得意技のようになっている。金は集めないが、くれるになら拒まないという姿勢。
「リリアのもとにその旨、届けてほしい」
「バカいうな、アントワーヌの騎士に二言はない」
「ジェシカ、もうここでいい合うことではありません」
「わたしは放棄しませんわよ」
「一年だ」とユウはいう。「できれば、三年回せればいいが、まあ、無理だろう。一年のうちにスレイエスを経済大国にする。いずれ、学校を作りたい。特に医療とヘリオスフィア関係の技術を教えて、スレイエスの各地に病院を開いたりしたいものだが、まあ、未来の話だ」
「夢物語よねえ」
「一年じゃ船の一隻だってできてねえぜ」
「でも、素敵な夢だと思います」
「それで、大将はどこでなにするんだ? また農家に帰るのか?」
「いや、おれはすぐにエルサドルに向かう」
「ええ?」
「あとは任す」
いうが早いか、壇上から飛ぶようにして、部屋を出ていった。
○
「旦那、ご出発で?」
「ああ、急ぐぞ。誰かの小言につかまるといけない」
セキトにまたがって、流れるように公都を抜けると、草原に出、一心に駆けた。外套の上からでも冷たさのわかる風が吹き、掻き合わせた襟元から衣服の中に流れ込んで肌を舐める。
「もう冬だな」
「帝国は寒に閉ざされましょうな」
しかし、大草原を駆ける馬の体温を下げるにはちょうどいい。セキトの首元で蠢く脈に強い覇気を感じる。さらに馬体を沈み込ませて加速する。
エルサドルまで、普通、四、五日の旅程だからこういう走り方をすると馬が潰れてしまうものだが、彼が疲れれば休ませるつもりだったので、気にしなかった。むしろ、こういう機会に存分に走らせてやった方がいい。
気になったのは後ろの方だ。
「誰かついてきておりますの」
「刺客かな?」
「この速度で走る旅人はいますまい」
リリアへの刺客は充分に警戒している。彼女が人に会う時に一対一になることはないし、常にそばに置いているアンジュも多少は剣が使えるし、ジェシカも周辺に気を付け、護衛を配している。タモンの放っている隠密もいるらしいが、詳しいことはユウも聞いていない。あちこち、単独で動き回るユウに放たれる刺客の方が、深刻なのかもしれなかった。
「おれに小言をいうために誰かが追ってきたって速度でもないな」
「いえ、それだけ恨みを買っているかも……」
「うるせえ」
「しかし、現実的な話、いかがいたしますか?」
「まったく引き離せないな」
「そう思います」
この速度についてくるなど、相当の腕の者と思っていい。そもそも、高価な北方の駿馬でなければセキトに追いつけないので、それなりの出の相手なのはまず間違いない。
ユウは手綱を引いて馬首を返した。慣性のまま数歩先に行ったタモンも止まる。
丘陵の尾根を伝って、栗毛の馬にまたがった麻の外套が来る。頭までを布に覆い、一個の人型をした塊のように見える。肩に、同じく麻の外套に包んだ長い棒を抱えていた。片手を荷物に取られていながら、ユウと同等の速度で駆けていたことになる。馬の扱いに関しては、ユウの方が劣っているのを認めざるを得ない。
麻の外套は下馬し、肩に担っていたものの封を切った。一本の長槍が姿を現す。
「周囲に敵は?」とタモンに囁く。
「おりませんな。単騎で来たようです」
「後顧の憂いはここで断とう」
ユウも下馬し、白剣を抜いて切っ先を足もとに垂らした。
「なぜ狙われているのか、訊いてもいいかな?」
麻の外套が駆けた。その槍穂が突き出されるのを、ユウは身を引いて躱した。さらに、一突き、二突き、自らの体を軸にして石突きを振り回し、上下左右とユウを狙う。ユウは一方的に下がり続け、敵の攻撃をいなしてゆく。
「残念だが、退いていただきたい。若い命を無駄にすることになるぞ」
と、ユウは突き出された穂先を屈んで躱しながらいう。が、相手はさらに大きな一歩踏み込んできて、踊るように槍の柄を振った。
突如として大きく身を退いたユウは中段に構え、横合いから来る槍の柄に向かって突き出した。音もなく、長槍は分断されて、下半分が飛んでゆく。ユウは突き出した勢い、刃を寝かせ、敵の腹を一閃、残心を斬って、白剣を鞘に封じた。
まだ麻の外套の片手に残っていた槍穂が落ち、彼の膝が地を突く。
「御見それいたしました」と麻の外套が頭を下げた。「無礼のこと、お許し願いたい」
フードを外した顔には見覚えがある。
「フォーク将軍のご子息、セオドア、といったかな」
何度か顔を合わせている。先日の戦闘ではもちろんのこと、まだエイムズが元帝国貴族と呼ばれていたときにスレイエス国境で刃を交えているはずだ。あのときはわずかに交錯しただけだったが。
このころ、セキトも連れて戦場を離れていたタモンが戻ってきた。ユウはセキトの鼻先を撫で、
「お父上の仇討ちかな?」
「いいえ。父のことは天ノ岐さまに感謝しております。父は戦士らしく戦い、戦士らしく散ってゆきました。天ノ岐さまはその遺言も実行してくださっている」
元公王の助命のことだろう。確かに、フォーク将軍に頼まれなければ、有無もなく斬っていた。彼が王国に連行されて以来、どこにいるのか、どうなっているのか、まったく定かではないが。
「では、おれの実力を計りに来たか? 父上がどれほどの敵に敗れたか見るために」
「いいえ」とセオドアは首を振り、「天ノ岐さまにお仕えしたく、お力を計らせていただきました」
「仕える?」
タモンと目を合わせるが、彼も肩を竦めただけだった。
「わたくしは父の下で鍛錬を積み、スレイエスでは父に次ぐ武を誇ると信じ、そのことに満足しておりました。天ノ岐さまと、父の戦いを見、自らの無知と惰弱さを呪うばかりでございます。どうか、わたくしを天ノ岐さまの従者としてくださいませ。この広い世界を天ノ岐さまとともに見、自らの武をもう一度鍛え直したいのです」
ユウは頬を掻き、「セオドアくん」と彼に声をかける。この星の上で数年を過ごしたユウより、ひとつか二つ、年下だろう。コーカソイド系の彼らはユウの目からは大人びて見えるから、年齢的にはもう少し下かもしれない。
「君、南軍の所属だっただろう? それをどうした?」
「あの戦いの直後、辞して参りました」
「辞めた?」
「それからアントワーヌの拠点になった旧公邸の前に座り込んで、天ノ岐さまがお姿を現すのを待ち続けておりました」
「待ち続けた?」
あれからもう二十数日経つだろう。その間、朝から晩まで公邸前で座禅を組み、風雨にさらされながら待っていたという。
「どうかしてるな」
「どうか、わたしをお供の一人に加えてくださりませ」
「そうはいっても」ユウは頭を掻き、「おれは少し前に自分の武を見つめ直してきた。だから、またしばらく見つめ直さないだろう。これから先、武を振るうことも、君に教えを与えることもできない。そういう暇がないし、おれは槍を使い、教える技術もない。君はノルン山脈にこもって技を磨くのもひとつの手だし、自分の足で世界を見て回るのもいいだろう。おれと来ても、王国紙幣の一枚もくれてやれないぞ」
「ここで斬っていただきたい」と、彼はいう。「戦いにも敗れ、天ノ岐さまの下にもつけないというのなら、生きていても仕方がない。ここで斬っていただきたい」
「無茶いうなあ」
ユウはまた頭を掻いている。
「よろしいのでは?」とタモンはいう。「彼の馬術と指揮能力の高さ、戦闘能力の高さは折り紙付きです。いずれ帝国と戦う折に、必ず助けになりましょう。ここで失うのは忍びない」
「そうはいっても」ユウは気を取り直し、胸を張って一歩踏み出す。セオドアを見下すようにして、「正直いって、お荷物だ。隣のジジイだけでも重いのに、もう一人は抱えられない」
「ほほ、ジジイとは」とタモンは笑っている。
「では」とセオドアは懐から短刀を抜いた。切っ先を腰だめに抱え、ユウに向かってくる。当然、この程度の攻撃、ユウに手傷を負わせるものではない。身を引いて簡単にかわした。セオドアはそのまま駆け、短刀を投げ出すと、飛び跳ねるようにしてセキトにまたがった。
「おい」
「この先はエルサドルでしょう。そこでまたお会いしましょう」
セキトをいななかせると、疾風のように走り出してしまった。
「あのバカ野郎」
「快男児、といったところでございましょうか」
「ただの盗人だっつーの」
ユウはセオドアの残していった馬にまたがり、愛馬の蹄を追ってゆくしかなかった。
○
エルサドルにあるフェルロテア社屋の前の馬止めには見慣れた馬が繋がれて秣を食みつつ水を飲んでいた。
「天ノ岐さま、こいつはとてもいい馬ですな」
と、セオドアはセキトの鼻面を撫でている。
「やはり、あの草原の上でおまえを叩き斬らなかったのは、おれの間違いだったかもしれない」
ユウが白剣の鯉口を切った。
「旦那、ここで人を斬れば王国法に触れます」
「そうですぞ、ここは法治国家です」
「貴様がいうか」
ち、と舌を打ったユウは神妙になって頷いた。
「わかった。じゃあ、ひとつ使いを頼む」
「よろしいのですか?」とセオドアは前にのめり、「なんなりとお申し付けください」
「近いうち、そうだな、二、三日のうちに港にアントワーヌ船が入ってくるだろう」
無茶なことをいい放ったまま出てきたために、いまごろ追手が放たれているはずだ。間違いなくそれが来る。
「おそらくハル辺りが来る。おれはフェルロテア社屋にいると伝えておいてくれ。そのあとは船で待て。おれもその船でフォーラントに帰る」
「お任せください」と敬礼ひとつ、港に駆けていった。
「旦那は船には乗らないのでしょうね」
「当たり前だろ。出航前はおまえが行って、あいつを船内に引き留めてくれ」
「あっしはそのままフォーラントに行くので?」
「別に、海に飛び込んで戻ってきてもいいけど」
「ご冗談を」
タモンには町の情報収集を任せ、ユウはクラインの部屋に向かった。
「実によくやったものだよ」とクラインは背もたれに寝転がるようにしながらも、労ってくれた。「まさか、スレイエスを落とすとはね」
「ああまで戦い、それも勝つというのは、おれ自身も予想外でした」
「しかし、勝つための準備はしていた」
「おれはいつだって準備を怠りません。故人曰く、戦いは始まる前に決している」
「その通りだ」ところで、とクラインは上体を起こす。「君からの手紙はもらった。金はいまレイスに向かっている。君とは入れ違いになったんだろう。ヘリオスフィア工場の件、カルヴァンにも伝えた。もう建設地の選定のためにウラカ台地に向かっている。もう候補が絞れているようだ」
「実にお仕事の早いことで」
「ぼくも詳しくは知らないが、地中からヘリオスフィアを抽出するとなると、やはり地中のマナ濃度の高いところがいいようだ。どこが高いか、ということはすぐにわかるんだ。空のヘリオスオーブは集合すると重くなって地上に降りて来、繭のようになる。それが大地に染み込んで、鉱石に付着し、採掘されるのが天然のヘリオスフィア。この繭の落ちてくるところはおよそ決まっていて、過去に落ちているところもおおよそわかっている。ウラカ台地で、ヘリオスオーブの落下したところというと、限られるわけだ」
「そりゃ、勉強になりますし、カルヴァンさんの行動が早いのもわかりましたけど、あっちこっちに指示を出してるクラインさんの手回しが早いなといったのです」
「こんな狭い部屋に幽閉されて、日ごろ暇にしていればそうもなる」
実際のところ、ユウはクラインに外出の自由を与えている。にもかかわらず、彼はほとんど外出することはないし、稀に出かけても本屋辺りしか行かないらしい。
「君も無理をしたものだな」とクラインは笑う。「無税というのはさすがに思い切った試みだが、まあ、徴税のためにも金がかかるからな。短期で見れば徴税など無駄かもしれないな」
「スレイエスの経済を狂ったように回転させます。回して回して、カラッカラに干からびるほど回転させて、おれたちはその上澄みを回収して、その力でもって帝国を脅かす」
物流を支配するアントワーヌは物資が回れば回るほど潤う仕組みになっている。徴税に金を使わずとも、物資が動けばアントワーヌの収入は湧くように出来上がるのだ。
「帝国も勝てないと知れば挙兵しないかもしれない」
「そうかもしれないな」と気もなくいうクラインは帝国の挙兵を確信しているだろう。「王国の民、特にエルサドル民の、アントワーヌに対する熱狂はさらに過熱しているよ。王国民にとって、スレイエスの公王は裏切者という意識が少なからずあったからね」
ほんの五十年あまり前までは王国の一領地でしかなかった国が独立するまではまだしも、仮想敵国である帝国側についたのだ。裏切者と見る者も少なくないだろう。
「連戦連勝、無敗無双のアントワーヌは英雄的人気だ。君たちにその自覚があるかどうかはともかく。エルサドル対外基金も活況を呈していて、莫大な金が集まっている」
「そのうちのいくらかをスレイエスの安定に当てたいものですが」
「基金はタッソーとホーランド、カラヒナの三家が監督している。彼らから許可が下りれば使えるだろうさ。ちょうどいい話がある。タッソー老とホーランド家の当主、ヴィーダ・ホーランドから、君かリリア嬢に連絡を取りたいといわれている。行けば会えるだろう。そのときに聞いてみればいい」
「ホーランドは男とは会わない、と聞いています。リリアでなくていいんですか?」
「それは過剰だな。彼女は奥の院に男を入れない、というんだ。ぼくだってホーランド嬢に会ったことはあるし、タッソー老だってそうだろう。でなければ町の会合にも出られない」
「まあ、確かに」
「女性の方が取っつきやすいというのは事実だろうが、今回は君と仕事の話をしたい、といったところだろう。別に個人的なお付き合いという話じゃないってことさ」
「そうですねえ」とユウはこめかみを撫で、「わかりました。会いに行ってきますよ。もう数日エルサドルには留まる予定ですから」
「なにかあれば人をやるよ、好きにしてくれ」
「ところで、もうひとつ、まったく別の件で、手紙にも書かなかったことですが」
「なんのことだね?」
「スレイエスの元北軍将軍、シフ氏のことですけど、彼の扱いをどうするべきか」
いまのところ、アントワーヌ預かりということになっており、コントゥーズの公館に軟禁されている。
別に戦犯として首を落としてもいい。彼と並び立っていた南軍の将は激戦の末に命を落としているのだ。彼も戦争責任を負わして死罪にしてしまっても違和感はないだろう。
「終戦前にこちらに寝返った都合、斬首、というのもいかがなものかと思って」
しかし、ユウの知る限り、武力、胆力、気力、信用、どれもあるとは思えない。果たして、使いようがあるものかどうか。
「人の生死に関わることですから、手紙に書くことは避けたのです」
「どういう人間かは、ぼくも噂には聞いているけれど」ふ、とクラインは中空を見据えて考え込み、ユウの方へ向かい直った。「わかった。一度ぼくが会ってみよう。曲がりなりにも北軍の将まで成り上がった人間だ。なにかしらの長所があるんだろう」
「ではそちらの手続きもお願いします」
ユウがその日のうちにタッソー家を訪ねると、すぐに応接間に通された。座椅子の中に納まっていたタッソー老が立ち上がって愛想よく、ユウを迎えた。柔らかい肉の厚い両手で、ユウの手を握りしめ、幾度となく振ったりする。
「いやあ、実に素晴らしい。まずは、おめでとうございます、というべきか、ありがとう、というべきか。ともかく、素晴らしい成果です。まさか、スレイエスを陥落させるとは。誰も想像だにしておりませなんだ。天ノ岐さまが出航する直前まで、アントワーヌを罵倒する声すらありましたからのお。騙すならまずは味方から、とはよくいったものです」
「すべて金を工面してくださった皆さんのおかげです。戦いは始まる前から決しているものですから、その備えをさせてくださったのがとても大きい」
「作戦を立案した天ノ岐さまと、切り回したクラインさま、皆の意志を一つに出来るアントワーヌ卿の人徳と精強なアントワーヌ一団あっての成果でございましょう」
一通りの謙遜を交換し合い、座席に腰かけたタッソー老は手ごねしていう。
「さてさて、ものは相談なのですが」といかにも人が良さそうに前置きし、「アントワーヌがスレイエスを制圧したことで、スレイエス国内での王国民に対する危惧がなくなったわけです。ということで、我々も大々的にフォーラントやレイスにも出店し、スレイエスの素晴らしい品を買い集め、王国の者たちに広めたいと思うのです。そうすれば、スレイエスの民も富みますし、王国は彼の国に対して親交を深くすることになる。同時に不足する物資、例えば、我々の得意とするのは陶器などですが、そういうものを輸出して、スレイエスの復興に協力できれば、と。フォーラント以外で市街戦はなかったと聞きますが、物資不足は起きているでしょう。我々の出先機関がフォーラントにでもあれば、大きく復興の手助けになり、かつ経済を円滑にできると思うのです」
「元々、国外に支社を作ってはいけないという決まりはないのでしょう? アントワーヌが口を出せる話ではありません。もし、出店してくださるとおっしゃるのなら、もちろん応援はさせていただきます」
「ありがたいことです」とタッソー老は手を叩いている。
ですが、とユウは話の腰を折った。
「アントワーヌも資金が尽きかけています。スレイエスの治安と公共事業の維持をある程度までできなくては、地域の安定統治は叶いません。軍を維持する資金も帝国戦を見据えれば必要となるでしょう。いまのスレイエス軍をそのまま解体するのはあまりに惜しいですから。そのための資金が、王国から賜った金だけではまったく足りないのです。ですから、エルサドルの対外基金を多少回していただきたい」
「それは相談が必要ですな」とタッソー老はほくほくの笑顔で、髭を撫でている。「金が必要、といわれ、はいそうですか、というわけには参りません。対外基金は他の二つの家も同じく監督していることですから、わし一人が頷いても通らないでしょう。ですが、天ノ岐殿のおっしゃる通り、治安維持と公共事業、軍制の継続には少なくない意味があるのは理解できます。まずは必要経費をまとめられることですな。必要な資金がわかって、意味のあることと納得できれば、我々も安心して投資できるというもの」
「理解していただき、ありがたい限りです。近いうちにそういう資料を送ることが出来るものと思います」
「では、その話はまたそのときに」ユウの手を取り、「ともにスレイエスのため、王国のため、手を取り合って参りましょう」
「はい。ありがとうございます」
ユウは握手を交わして応接室を辞した。
タッソー老がスレイエスへの資金提供に賛成してくれたのはありがたいことではあったが、まあ、彼も商売人だからなにかしらの利益を思い浮かべて頷いたのだろう。純粋な善意でユウの意見に賛成したとも思いにくい。
タッソー老がスレイエスに商売を拡大させて富を膨らませたいのはわかる。それが商人というもので、そのためにアントワーヌに出資しているのだ。タッソー家がスレイエスに進出すれば、スレイエスの陶器はもちろん、その他あらゆる商品が、彼の息のかかった商品と競争することになって、スレイエスの小売店は消滅するか、タッソーの傘下に入るか、二択の道を辿ることとなるだろう。結果的には、スレイエスは自活する力を失い、王国の商業、五家に牛耳られた経済体制に呑み込まれるはずだ。
王国商業の干渉は、スレイエスにとってマイナス面が大きいだろう。が、仕方がない。アントワーヌにとって、エルサドルとタッソー家はスポンサーであり、彼らの機嫌を損ねればアントワーヌは立ち行かない。まあ、意志が二、三人に統一されているぶん、公開株式のような不特定多数が文句をいってくるややこしい事態にならないのは、せめてもの救いだった。
それよりも、このあと、もう一人のスポンサーであるヴィーダ・ホーランドに会いに行かなければならないことの方が気にかかる。顔を合わせたことはないが、かなり色気のある大人の女性という話を聞いている。ユウの苦手なタイプだった。
色々なことで気が重い。戦場で敵と剣を交えていた方が気楽かもしれない。
ふう、とため息を吐くと、
「あら、ユウさん」と不意に声をかけられて、そちらを向いた。
「ああ、アビーさん」
タッソー老の孫娘だ。以前、アントワーヌ船を高速化させるときに、タッソー老を説得してもらった経緯がある。その情報収集のために、ともに学術都市のリライトまで旅行したこともある。
「とてもいい日和ですわね。スレイエスの方はそろそろ冷え始めているころでしょうけど」
「アントワーヌは帝国の生まれですから、寒いのには慣れっこです。むしろ、温かいくらいでしょう。こちらの冬は暑すぎたかもしれません」
「そういうものかしら」彼女は小さい顎をつまみ、「スレイエス陥落、おめでとうございます。やはり、わたしがユウさんを見込んだのは間違いじゃありませんでした。これからも、わたしの期待に応えてくださいませね」
「ええ、ご期待に添えるように」
ユウは頭を掻きながら笑って応えるが、突如思い当たり、
「ところで、アビーさんは、ヴィーダ・ホーランドさんと面識がおありで?」
「ヴィーダさま?」とアビーは眉をひそめ、「それは、同じエルサドルの大家に名を連ねる者ですから、お顔は拝見したことはありますし、時々お屋敷にお邪魔させていただくこともありますわ。といっても、深い仲ではありませんが。あちらも、少なからずわたしのことを警戒しているみたい。お爺さまの間者じゃないかって」
「それはちょうどよかった」とユウは手を合わせる。「これからホーランド邸に行かなければならないのですが、アビーさんに橋渡ししていただきたいんです。もし非常に暇で、気がすすめば、ですけど」
「ふふ」とアビーは上品に、美しく笑み、「ユウさんったら、そんなに謙遜しなくてもいいですわ。二人きりで旅もした仲なのですから」
アビーの人差し指がユウの頬を優しく叩いた。あまりに親しい仕草にユウはなにが起きたのかしばらく理解できなくて瞬きを繰り返してから飛び退いたが、彼女は楽しげに笑っている。
「構いませんわ。ご一緒して差し上げます」
「ありがとうございます」という、ユウの声はまだ狼狽えている。
「でも、ユウさん、服装を改めた方がよろしいですわね。相手は大陸の服飾と流行を司る魔女ですもの」
アビーは魔法を使うように、人差し指を振っていた。
○
ホーランド家の応接室はなんだか花のような香りがした。花の一輪もないのに。
左右とうしろをきっちりした背広風の格好の女性に囲われて、腰かけたソファーは応接卓の向こうにある座椅子に向けられている。
ユウはタッソー邸の風呂を借りて旅塵を落とし、アビーの選んだ服を全身に着込んで、ここにいる。アビーが選んだといっても、ユウが普段着ている外套に似たものをタッソー邸にあるものから見繕っただけだった。ただ、綺麗に洗濯されていて、袖の折り目までついている。帝国脱出時から羽織って、時には毛布に布団にと乱用していたアレとは雲泥の差だった。
こうしているだけでやや緊張する。急な訪問だったために待たされるのは仕方がないが、まだいくらも待っていないのに、背中が汗ばんでいる。
「ユウさん」と隣のアビーは口をつけたカップを卓に戻し、小さな声でいう。「本当に、女の人が苦手ですのね」
「そういうわけではないですけど」
「そういうところ、わたしは好感が持てますが、ヴィーダさま相手では簡単に手玉に取られてしまいますわよ。もっと大胆に、勇気を持って相手を口説くくらいの姿勢で挑まなくては」
「おれは別に口説きに来たわけでは……」
「姿勢の話です」
「口説くように?」
「できそうにありませんね」
なにやら失望されたようで、ユウがいい返そうとした、が、横合いにある扉が開いてその機を逸した。
「お持たせして申し訳ありませんでした」
白磁の人形ではないかと思わせるような人が立っていた。肩を露出し、豊満な胸元の開いた丈の長いドレス。彼女が一歩踏み出すたびに、スカートの引きずりそうな裾がわずかにたなびき、ふわりとイイ香りがする。その香りを嗅ぐたびに、ユウの頬が痙攣したようになる。スカートの切れ目からチラチラと覗く桃色の太腿にも神経をかき乱される。
フラン先生も大人の美貌の持ち主だった。だが、その使い方に無頓着だった彼女に比べ、目の前の淑女は男女というものを心得ている気配が濃厚にある。むしろ、それを相手に知らしめているようでもある。わたしは人間の最も原始的な感性の支配者なのだ、と。
ぼんやりしていると簡単に支配される。
ユウは気を入れ直し、向こうの座椅子に収まったヴィーダと向かい合った。
「アビーさまもご一緒だとは思いませんでしたわ」とやや低い声でいい、片手の煙管に草を詰めていた。「タバコは吸ってよろしいかしら?」
「はい。構いません」とユウはかたい笑みで頷いた。
背広の女性の一人が懐から指の先ほどのヘリオスフィアを取り出して、それを擦り、小さな火を灯した。ヴィーダのふっくらした唇に加えられた煙管にその灯が投じられて、紫煙を噴かす。一呼吸したヴィーダの胸から吐き出された甘い香りの煙を吸っていると、彼女の中に落ち込んでゆくようだ。
「天ノ岐さまは」とアビーが平然とした調子で、「先ほどウチの祖父をお訊ねになられて、その足でこちらに向かうつもりだったのが、お一人では心細いからと」
「ちょっと、アビーさん」
それはいわない約束でしょう、といいたいものの、女性陣二人に優雅に笑われ、憮然と口を閉ざすしかなかった。
「天ノ岐さまは皇帝エドワード陛下にも、黒騎士ヴォルグリッドにも、相手が男性とあれば一歩も引かない英雄気質の御仁ですが、女性相手には奥手で優しいとても紳士的なお方です。なにとぞお手柔らかに」
おや、とユウは思う。別にアビーにデリカシーがなかったわけでなく、場の空気を和ませつつ、主賓二人の緊張を解いて、ユウの評価と人間性を伝えようとする、一挙三得か、四得ともいえる会話術だったらしい。さすが、エルサドル五家の一家に名を連ねる者といったところか。
ヴィーダも穏やかに笑っている。
「わたしも天ノ岐さまを取って食うつもりはありませんわ。ご心配なく。ただ、スレイエス陥落のお祝いと労い、あとは、少しお仕事をお願いできればと」
耳心地のいい声音でいう。
やはり、スレイエス進出に関することだろうなあ、とユウは思っている。当然、新しい市場はほしいはずだ。
「わたしは席を外した方がよろしいかしら?」とアビーが伺うのを、ヴィーダは首を振って、
「いいえ、同席していただいて結構」
彼女がいう話はユウの思っていたことと違ったようだ。
「ご存知の通り、わたくしたちホーランドの主要な収入源は服飾産業です。服飾において、もっとも大切なものがなにかおわかりですか?」
「えーっと」ユウは中空を見、「意匠とか、装飾とか」
「天ノ岐さまったら」というアビーはまた失望の色を見せる。元々期待もしていなかったようにも見えるが。「服でもっとも大切なものは布地ですわ」
「布地?」
ははあ、なるほどね、とユウは頷く。ヴィーダも頷いている。
「主に使っているのは王国産のラートですわ」
ラートとは綿花に似た植物、つまり植物由来の糸と生地を使っているということだ。
「それとは別に、コスヨテリ産のイレティオという生地も使っております。これなどもそうなのですが」
と、ヴィーダはドレスの裾をつまんで見せ、
「柔らかくて軽く、肌触りもよく、薄くしても破れず、通気も良い。光を浴びたときの光沢はまさに宝石のようで、着る宝石、とも呼ばれております。ですが、価格も同様に宝石のように高くなっています。理由はお察しになられますか?」
「輸入費用がバカにならない、ということですね?」
「その通りです」とヴィーダは頷く。「コスヨテリの南方に生息するイレタという虫の吐く糸が原料なのです。つまり、この生地を手に入れるには、こちらで虫を育てるか、生地を直接輸入するか。幾度となく飼育を試みているのですが、大概のイレタは一月あまりの航海の途中に息絶え、生き残った数匹も王国の環境に適応できないのか、航海の間に極めて弱ってしまっているのか、数日と持たずに死んでゆきます」
ヴィーダは煙管を一吸い、紫煙を吐き出した。
「そこで」と妖艶な眼差しをユウに据える。「スレイエスとの戦いが終結して一段落したいま、アントワーヌには高速艇を使って、イレタを王国に持ち込むと同時に、わたしの家の船でも中央列島に乗り入れ、コスヨテリ方向へ向かえるよう、その手筈を整えていただきたいのです」
「ははあ、なるほど」とユウは何度も頷いた。
旧来、エルサドルからコスヨテリに渡ろうとすれば内海を南に下り、下り切ったのちに西走し、ようやくコスヨテリ大陸を見、そこから北上して目的の港湾に入る。そこから逆順の帰路を通るのは海流と風の都合、帆船では不可能で、船はさらに北上し、北限海流に乗ってようやく東走し、帝国沿岸にぶつかって、南下し、スレイエス近海を抜けてようやくエルサドルに帰還できる。
一方、中央列島を経由する航路なエルサドルからの進路を北西に取り、クリフトフ海峡から流れる潮に流されるまま内海を泳ぎ、中央列島の中を抜けて、そのままコスヨテリに行きつく。帰路もコスヨテリから中央列島を経由する海路があるらしく、それを用いる。
必要な日程は旧航路の三分の一とも四分の一ともいわれていたが、かつてこの航路最大の問題事が海賊だったわけだ。その航路を手に入れるために、エルサドル商家は、先回の内海海戦に莫大な資金を提供している。が、実質、その航路を自在に行き来できるのは海賊こと、商船団の協力を得ているアントワーヌしかまだなく、エルサドル商家は自家の船舶ではなくてアントワーヌの船を利用してコスヨテリと交易しているというのが現状だった。そもそも、他の船舶以上に、アントワーヌの高速艇が速いためにそれ以外を使うメリットが極めて少ない。が、数が限られているために、自由とはいいがたい。
「やっていただけますか?」
「ええ、ヴィーダさまのご依頼とあれば、お断りするわけには参りません」
「ヴィーダさまなどと、かしこまっておっしゃることはありませんわ」煙管を皿の上に置くと、するりと立ち上がり、卓を回ってきた。「お姉さま、と呼んでくださってもよろしくてよ?」
ユウの隣に何気なく腰を下し、細い指先が彼の顎下から頬を撫でる。甘い吐息がねっとりと耳をなぶり、真赤な口元でねばつく唾液の音まで聞こえ……、
「天ノ岐さま」とアビーからよほど重い声をぶつけられて、ユウは立ち上がった。
「ヴィーダさま、ご依頼の件、かしこまりました。交易班と話し合ってみます。きっとご期待に応えられると思います」
「そういってくださると、心強いですわ」
くすくすと笑っている。ユウは愛想笑いで応えつつ、頭を掻いた。アビーも席を立ち、
「ご商談はこれにておしまいのようですわね。ヴィーダさまのお時間を無駄にしても申し訳ありませんから、もうお暇致しましょう」
「天ノ岐さま、せっかくですからお泊りになっていかれては? 部屋も用意させますわ」
「ごめんくださいませ。天ノ岐さまはこれからわたしと逢引の予定が入ってますの。夜の予定は埋まってますわ」
「ちょっと、アビーさん」
「まあ、それは残念」ヴィーダが不敵な笑みで足を組み替える。と、スカートの切れ目から太腿の桃色がわずかに覗く。「お若いって、羨ましいですわ」
「ヴィーダさまだって、それほどのお歳でもないでしょうに」
ほほほ、と重みのある笑声を立て合い、
「では、これにて」アビーが一礼し、ユウの二の腕をつかんだ。そのまま千切るほどの勢いで引っ張りつつ、ホーランド邸を辞した。
「ちょっと、アビーさん」とユウは慌てる。「逢引って、また適当なことを」
「ああでもいわないと、ユウさん一人だけでは館に取り込まれて出てこられなくなってましたわよ」
「そうかしら?」
「それくらいは自覚していただきたいですわね」
藍色に染まり始めた町に、燐光を放つような晶機の明かりが点々と灯ってゆく。あちこちの窓からオレンジ色の灯が漏れている。
二人は水路を行くゴンドラに乗っていた。艫では船頭が水音も静かに櫓を漕いでいる。アビーはそれを尻目にして、船の縁に頬杖をつき、難しい顔を暗い水面に向けていた。
水面に反射する町の灯、その中に淡く浮かぶ彼女の横顔が波間に揺れる。桃色の頬、鳶色の瞳、冬の風になびく短いポニーテールと、その下に覗く真っ白なうなじ。彼女にはヴィーダにはない美しさがある。ああ、そうか、とユウは思う。着飾ったヴィーダは人工的なのに対し、アビーには育てて身につけた強さから来る美しさがあるのだ。
「わたしも行こうかしら」
ぼそりと彼女がいう。
「どこに?」
「ユウさんはコスヨテリにいらっしゃるのでしょう?」
「そうだねえ、おれもコスヨテリに興味があったし、いまのうちに一度訪ねておいた方がいいとも思うし」
ヴィーダも話していたが、海賊、スレイエス、と連戦が落ちついて、帝国との戦いまで間のあるいまのうちに始末しておいた方がいい案件かもしれない。
「それにわたしも同行しても?」
「え」とユウは頓狂な声を上げた。なんで、といいかけたのを、デリカシーがないかな、と思って呑み込んだ。
「うちは一向に構わないはずだけど、アビーさんの予定やお爺さまの許可なんかは?」
「お爺さまはたぶんいいというの。わたしに広い世界を見てほしいと日頃からいっているから。予定は、あちこちの家に呼ばれているから、お断りを入れるのに少し手間取るかもしれない」
「そういうことなら、船の中に一部屋準備させておきましょう」
「よろしくお願いしますわね、船長さん」
「船長ではないけれど」とユウは声を立てて笑い、「そういえば」
「そういえば?」
「色々と、付き合ってくれて、ありがとう」
と微笑んだ。アビーはちょっと驚いた顔を笑みに崩し、
「わたしこそ、楽しい思い出をありがとう」
空の星と、町の灯と、水面に浮かぶ天地の明かりが一緒になって、まるで宇宙に投げ出されたような感覚にも陥る。そこを泳ぐ船の中で身を寄せ合っている。
逢引の話があながち嘘ではなくなっているのかもしれない。




