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幻想剣客史譚  作者: りょん
15/23

第四巻 剣乱編 五章 西岸の波濤

     五章 西岸の波濤


 すでに大陸東部の戦いは決着までをしたためたが、西方でも同時期に激しい乱が巻き起こることになる。

 その始まりは、海賊討伐を終えた天ノ岐ユウがクラインの執務室でヘリオス教会領のパーシヴァルからの手紙を受け取ったときまでさかのぼる。

 手紙の内容は、帝国がアンガスに侵攻を始めた、ということだった。まだ制圧ではない。ラピオラナ山脈西部には以前から帝国軍が駐留していたが、その動きが活発になり、登攀の様子を見せているという。そういう時期まで時間が戻っている。

「あり得ない」とユウはパーシヴァルからの手紙に何度も何度も目を通し、しまいには投げ捨てて、部屋の中を歩き回った。「おれたちが王国に入ったのが去年。その前の冬、ようやく帝都軍は帝国西部に進出したんですよ。たったの一年半、西部を制圧したとしても、次の戦争をする準備を整えたにしては早すぎる」

 その間、アントワーヌも幾度となく政策と戦争を繰り返しているが、コルトと王国とエルサドルの金でやっている。

「あり得ない」と天を仰いだ。「それをエドワードは帝国一個の金でやろうとしている。パーシヴァルさんには悪いけれど、なにかの間違いとしか思えない」

「まあまあ、ユウくん、取り乱すことはないよ」クラインが紙片を取り上げ、内容を確かめながら、「帝国の国力が絶大なことはすでに知れていたことだし、エルサドルに匹敵するか、もしかしたら、それ以上なのかもしれない。多くの富商がいてもいいし、彼らから金を集めたのかもしれない。ぼくもいまの帝都の経済状態に詳しいわけじゃないけどね。なにより、西方征伐を完了させて、権力のすべてを皇帝に集中させたのは、やはり大きいだろう。兵と資金のすべてを自分の意思で操れるのだからね。王国はまだ封建制であり、議会制だから、帝国ほど身は軽くない」

「おれは」とユウは肩をすぼめ、「アンガス侵攻まであと一年、長くて二年はかかると踏んでましたよ。あと半年もすれば、帝国は雪に閉ざされ軍事行動はできなくなる。彼らの行動期間は王国の半分と見ていい。なのに……」

 うなだれて、首を振った。

「まさかこうも早く動くとは」

 エドワードの死に急ぐほどの情熱がどこから出ているのか、この頃のユウには皆目見当がつかなかった。

「そうか」とクラインは眉をひそめ、「この間、諜報部の方から便りがあって、スレイエスとファブルの動きも活発らしい。王国に仕掛けて、アンガスへの援助を妨害するつもりなのかもしれない」

「こっちも騒がしいのか」とユウは顎をつまみ、思案する格好をした。「アンガスは帝国と拮抗すると思いますか?」

「無理だね。アンガスを訪ねたことがあるけれど、実に悠々自適としていて、気候は温暖、寝ていても作物は育つし、海産、木材、石材などの物資も豊富。貴族が土地を管理しているが、なにもしなくても生活できるものだからなにもしていない。ただ、蹴球という球を蹴る遊びがあってね、これに勝つことだけに情熱を燃やしている、といったところかな。民の端々までが似たようなものだろう」

「平和な時代に生まれついていれば……」

「でもぼくが訪ねたのも十年前のことだからね。大きな革命があったりしたら一大強国になっているかもしれない」

「夢ですね」とユウは言い捨てて、「どちらにしても、その手紙は妹陛下に送ります。どう扱うかはあっちに任せます」

「ぼくらはどうするんだい?」

「どうもしません」

「おいおい、スレイエスが国境を越えればここまで一日とかからないぞ」

「だってお金がないんだもの」

 ユウは大声で嘆いた。


     ○


 これらの噂はエルサドルはもちろん、コントゥーズや王都など、王国北部に瞬く間に広まった。

「帝国がアンガスに侵攻したってよ」

「スレイエスとファブルも王国に攻撃してくるんじゃねえかって噂だ」

「またかよ、あいつら」

「一度痛い目見せてやらねえといけねえなあ」

「コルト候も王都も迎撃の準備をしてるけど、アントワーヌは動かねえってよ」

「前の戦いでずいぶん金を使った雰囲気だもんなあ」

 海賊討伐のことである。アントワーヌは物資だけでなく、船の一隻も買い入れている。当然、相当量の出費があったと見てよかろう。

「王国船は何隻も船が潰れたんだろ?」

「でも、アントワーヌの船は二隻とも無事だったって」

「この間も船が出てたぜ」

「海賊島の拠点構築だとよ。タッソー家とか、ホーランド家とか、アントワーヌと仲いい商人たち共有の施設らしい」

「そりゃいいが、まさかスレイエスとファブル相手にアントワーヌが動かねえとはなあ」

「あいつらがやってくれりゃスレイエスなんて一蹴だろうに」

 などと、酒場では盛んに会話が交わされている。

 この頃、タッソー家が主導してエルサドル基金が立ち上がった。エルサドルと王国の発展のために使われる資金の獲得を目指しているが、当面の目標は対スレイエスのための資金集めだという。

 エルサドルという町は思いの外スレイエス国境に近い。かつてスレイエスが王国領であったためだが、現在彼の国の脅威はかつてないほどに高まっている。通常のコルトの兵力で抑えることは難しくなかろうが、できることならスレイエスの親帝国政権を打倒し、親王国派の勢力を押し上げたい。この基金は、そのために使うのだという。

「そのためなら武力行使も厭わない」

 と、タッソー老は声を大にしていった。

 タッソー老のいう武力というのはエルサドルとその周辺の民にアントワーヌを想像させた。タッソー家とともに基金を設立させたのはホーランド家で、両家ともアントワーヌとは昵懇といっていい。王国民はアントワーヌの出陣を渇望している。彼らが立ち上れない理由も理解している。この基金でアントワーヌが立ち、スレイエスの脅威が払拭されるのなら、と、基金への出資は相次いだ。

 しかし、アントワーヌは立たない。

 沈黙の中で、海賊島への航海を繰り返している。

 ひと月あまりの時が経過し、王国北部国境には南北の軍勢が相見えていた。王都の近い北東戦場はこの物語の舞台からは遠いために放置するとして、北西方である。

 戦場は構造平野が連続して波打つ丘陵地、ウラカ台地だ。コルト兵と二つの王国近衛師団を主力とした王国軍が南方に、スレイエスの強兵と謳われるスレイエス南軍が北方に、それぞれ横陣を構え、五キオほどの距離、二、三の丘陵を挟んで睨み合っていた。平時でも二桁あまりの人を抱えた小部隊の競合いは珍しくもないこの国境の台地だが、二万を超える軍勢が集結するのは十年に一度の珍事といっていい。

 両者斥候を出し合い、小部隊が牽制をしあい、まだ直接の戦火を交えないまでも、近いうちに爆発的な反応が起こり、この緑の大海とも呼べる大地を血潮に染めるのは確実と思われた。

 さらにひと月、真夏の炎天下の中での対陣が続く。両陣営には南北から増援が送られ、その規模をやや増していた。王国方およそ三万、スレイエス方およそ二万五千といったところだろう。王国方に供給される物資はエルサドルを起点にして潤沢といっていい。これらの状況を見る限り、王国方の優勢は明らかで、スレイエス方も無用の被害を避けるために撤退するのではないか、ただ王国軍をアンガス方面に出兵させないための牽制なのではないかと、大方の王国民は予想していた。

 しかし、次のひと月の間に状況が動く。

 スレイエス公国軍が南下したのだ。

 王国軍はこの二月あまりの間に側溝を掘り、乱杭を打ち、木柵を組んで土嚢を置き、丘陵の上に陣を敷いて充分な拠点構築をしていた。スレイエス南軍は、これに近づき、盾で弓を防ぎながら格闘に持ち込んだ。攻防は二日、三日と続き、接戦であったが、スレイエスの前線がじりじりと王国国境に近づいてゆく。一方の王国軍はこの状況を打開しようと、側面から近衛騎士団を主体をする騎馬隊を放つ。しかし、受けて立ったスレイエスの騎馬隊も優秀だった。双方牽制し合い、それだけで王国軍騎馬隊は進路を遮断され、敵陣深くに切り込むことも、大きくぶつかり合うこともなかった。

 スレイエス軍の着実な攻撃に対し、王国軍は耐えられずに退いている。後方のウラカ大城塞を足掛かりにして、周囲に防御陣地を構築し直した。スレイエス軍はこの大城塞を眺め渡せる丘陵の上に布陣、こちらも防御陣地を構築した。その作業を阻止するために王国軍は奇襲部隊を放ったが、敵騎馬隊に一蹴されたという。その騎馬隊を率いたのが、南軍総大将フォーク将軍だった。彼の握る黒い槍は一振りで十人の兵を貫き、十の馬を薙ぎ払ったという。この競り合いに勝利したスレイエス軍は陣地構築を進め、一個の砦ともいえる施設をウラカ大城塞の前に建築してしまった。緩衝地帯だったウラカ台地は圧縮されて、実質的にはスレイエスの領地が増えた格好となってしまった。

 エルサドルの噂も戦線の状況で持ち切りだった。

「フォーク将軍が出てきたらしい」

「噂には聞いていたが、やっぱり相当腕が立つんだってよ」

「まさか王国軍が押されるとはなあ」

「しかし、ウラカの大城塞までは落とせないだろ」

「まったく、アントワーヌはなにやってんだか」

「そうはいっても彼らも連戦だし」

「だが、海賊と戦ったのだって、もう三月も前だぜ」

「たったの三月っていうんだよ」

「あいつらが王国に来たのは帝国と戦うためじゃなかったのか」

「やっぱり結局は北の人間たちだったってことか」

 このころになると、アントワーヌに対する失望と中傷が色濃くなってきている。

 当然、コントゥーズでも戦線の状況は話題になっているし、アントワーヌの動向も注視されている。それが気になったリリアが、ユウが農作に使っている掘立小屋に駆け込んで来たのは一度や二度ではない。

「ユウさん、わたしたちも兵を上げましょう」と地団太を踏んでいった。「ミリシアム小父さまに申し訳が立ちません」

 コルト候は前線に出て、総指揮をしている。リリアはそれを無視してコントゥーズの屋敷に居候しているのだ。肩身が狭いだろう。

「なにをいってるの、リリアちゃん」とユウは眉をひそめる。「金がないんだから、動けないじゃない」

「そんなこといって、タッソーさまやホーランドさまにいえば……」

「また借金を増やしたら破産するよ」

「むきー」と顔を赤らめる。「ユウさんが聞いてくれないならクラインさまを説得に……」

「絶対おれより取り付く島がないでしょう」

「くぅー」と唸る。「でもユウさん、このままなにもしないと皆さんの不平を買ってどっちにしてもアントワーヌは瓦解します」

「まあまあ、そうならないようハルが一生懸命お金を稼いでくれているよ。もうじき麦の収穫だってある」

「せっかくのお金と麦を右から左に戦争に投資するのも心苦しいですが……」

「だから戦争などできないという」

 コントゥーズに向かうリリアの足は弾まない。

「まあまあ」と追従していたアンジュも慰めている。「ユウさんは偏屈ですから」

「そうねえ、なにか深い深いお考えがあるのかしら」

 とぼとぼと歩き、

「あ、ソフィアさま」

 コルト候夫人が自邸の前庭で空を眺めていた。きれいな黒髪が風になびくのを片手で押さえ、端正な顔を振り向けてくる。実に美しい、絵に描いたような淑女だった。

「あら、リリア」

「も、申し訳ありません。本来小父さまのお力にならなければならないのに」

「気にしなくていいのよ」とソフィアは涼やかに笑う。「あなたたちにも、あなたたちの事情があるんだから」

「はあ……」

「あの人もねえ、無理をしなければいいけれど」

 ぶつぶつといいながら屋敷に戻っていった。

「ソフィアさまも心労がかさみますねえ」とアンジュは頬を撫でながら主を見、おののいた。ものすごい勢いで泣いていた。涙がぼたぼたと零れ、肩が震えている。

「わ、わたしはなにもできずに……」

「リ、リリアさま」

「わたしのバカッ!」と叫んで顔を覆ってしまった。「やっぱりユウさんを説得してきます」

「ええ」とアンジュは眉間にしわを寄せて、「無理だと思うけどなあ」

 それから幾度となく、リリアはユウの下を訪ね頻りに説得を試みるが、ユウは頑としてはねつけている。

 その前後、ユウは巨大な中洲地と化したアントワーヌ領の真ん中で、農業に勤しんでいた。稲穂は垂れるほど肥え、金色に照り、水蒸気の濃い西風に揺れている。

「じきに借り入れ時だな」とロックスは田畑の土をつまみながら、「アタカ川からの栄養がずいぶんと豊富だからか、それともここの温かさとちょうどいい雨量のせいか」

「全部かもしれないな」

「それよりいいのかい、大将」

「なにが?」

「リリア嬢、北の戦線に行きたいって何度も大将を口説こうとしてるって噂だが」

「来てる。でもおれたちは動けない」

「そうかい」とロックスは頭を掻く。「ま、おれは大将のこと信じてるからよ。ともかくリリア嬢とは仲良くしなよ」

「仲良くしてる」

 ロックスは笑いながら街道を歩いていった。

 アントワーヌ領を囲う街道には葉の垂れた樹木が植えられ、春にはきれいな花を咲かせるらしい。領内を升目状に区切る掘割も徐々に出来上がってきている。そこから掘り出した土を積み上げて中洲の土台を嵩増しし、灌木や草花を植え、だいぶ地盤は固まって景観もよくなってきたように思う。マロードの提案で領の南北に設けられた遊水地も出来上がり、多少の洪水には耐えられそうな構造にもなった。

 アントワーヌ領は安定しつつある。

 ユウは木竿を振り回して稲穂に寄る鳥を追い払いつつ、不要な草を抜き、川のせせらぎに耳を澄ませて、木陰の下を行く風に身を晒しながら昼寝をしたりしている。

「旦那」と木の裏手から声がした。河川の上に船はなく、左右の街道にも人はなく、揺れさざめく稲の中にも人の気配はないのだろう。「準備が整いました」

「うん」とユウは身を起こし、「じゃあ、そろそろ行くか」

 農具を担ぎ、家路を歩く。


 同じころ、大きな事件があった。エルサドルの民がフェルロテア社屋を取り囲んだのだ。

「なにやってんだ、おまえら」

「肝心なときに役に立たないのかよ」

「コルト候の恩を受けておきながら仇で返すとは」

 恥を知れ、恥を知れ、と合唱されている。

 いまにも暴発しそうな群衆の前で、扉が開いた。群衆はその先にいた人影に飛び掛かろうとしたものの、思わぬ人の出現にその足も止まってしまった。

「静まりなさい、君たち」と、フェルロテア社屋の扉を閉めつつ、タッソー老は片手を挙げた。「アントワーヌ卿とその民たちを中傷するのは間違っている」

「しかし、タッソーさま」と誰かがいった。「奴らはこんな、王国が大変なときになにもしないんですぜ。おれたちが出資してやってるっていうのに」

「彼らはもうここにはいない」

 その言葉に民衆はざわつく。

「じゃ、じゃあ、どこに行ったっていうんです?」

「彼らはスレイエス北方、フォーラントの町の占領に向かった」


     ○


 天ノ岐ユウはこの三か月、交易と見せかけて、ただひたすらに海賊島へ物資の積み込みを行っていた。

「ここを拠点にしてフォーラントに攻め込む」

 スレイエス北方、帝国国境にほど近い立地にあってフィヨルドに建てられたこの国家最大の港湾都市、フォーラント。ユウは帝国脱出直後にここを訪れ、その道中ハルに出会い、その町でアントワーヌ船を強奪している。

「これを奇襲にするためにおれたちは一切動かないと豪語して、王国民から非難されるのも厭わなかった。すべてこの一事をスレイエス側に知られないためだ。フォーラント攻略の準備はここ海賊島でしたし、作戦内容は極めて少ない人数にしか打ち明けなかった」

 ユウはスレイエスの地図を卓に広げ、

「南の守りはかたい。北から迂回して南下し、公都レイスを制圧する」

「そ、そんなことが出来るんですか?」とリリアは目を丸くしていた。「たった六百人ばかりの人数で……」

 アントワーヌの戦闘部隊が三百五十、晶術部隊が五十、海賊勢が二百、およそこういう計算で、六百人。アントワーヌの総勢はこの程度だった。

「その準備はずうっと前から施しているのだ」

 ユウは紙の束を卓の上に叩き乗せた。

「タモンを始めとした諜報部に、フォーラント及び各都市にいる親王国派勢力と連絡を取らせて有事の際は手を貸してもらう約束を立てている」

 スレイエスは過去は王国領で、国家元首が公王を名乗っているのは、元々王国の公爵級であったためだ。そのため、スレイエス国内には親王国派の人材が多い。

「彼らと連携してまずフォーラントを落とす。スレイエス側からどれくらいの協力が得られるか、まだ正確にはわからないが、まあ、少なくとも、港湾の封鎖くらいはできるだろう」

 ユウはアントワーヌの船舶の戦闘力に自信があるし、実績もあるし、海賊勢もいてくれる。

「それだけでもスレイエスの混乱は間違いありませんね」とアンジュが手を叩いた。

「あたしもこの船の実力を実戦で試したい」といったのはジュディだ。不敵な笑みを浮かべ、「相手はスレイエス海軍。ちと小者だが、面白いじゃないか」

 彼女の船と、ヘンダーソン卿の船はすでに自走船に改造されている。

「港湾の掌握は我々が間違いなく保証しましょう」とヘンダーソン卿も頭を下げた。「その後の物資の海上輸送もできるでしょう。問題はそのあとの陸戦ですか。北軍はもちろん、北の帝国、もしかしたら、東のファブル方向からも増援が来るかもしれません。どうなさるつもりです?」

「それにも考えがある。リリアには相当過酷な作戦になるけれど」

「わたしに?」

 リリアは小首を傾げながら船に揺られていた。

 いま、十隻に及ぶ船舶がアントワーヌ船を先頭に白波を切っている。その舳先に片足をかけて、ユウははるか西の海を見据えていた。


     ○


 フィヨルドというのはとてつもなく大きな氷河の重みによって凹まされた谷間に海水が流れ込んでできた湾のことをいう。例えば、現在の地球でいうところの南極の大氷塊みたいなものが、大昔フィンランドやノルウェーのあるスカンジナビア半島一帯を覆っていて、特に低い谷間を侵食し、地球の温暖化とともに氷塊が溶け、その窪地に海水が流れ込んで湾となった、ということだ。実際、スカンジナビア半島は大氷塊消失以来、身軽になって、地盤が浮上している。つまり、半島全体の海抜がわずかずつ上がっているのだ。北アメリカのハドソン湾も氷河で凹んでできた湾だから、年々水深が浅くなっている。この規模の氷河があったというのは想像を絶するほど凄まじい話だが、地球は過去何度か赤道付近まで全体が凍結したというから、これくらいの規模の氷河などまだまだ小さいのかもしれない。自然の驚異だ。

 話が大きく逸れたが、フォーラントという都市も、右で語ったフィヨルドの奥にある。フィヨルドの特徴として急峻な山麓に挟まれた、長く、平静な、入り組んだ湾を形成するのだが、フォーラントの町は特殊で、フィヨルドの奥にありながら海から数キオも離れておらず高台に登れば外海も見える。理由は異世界から流れ込んできた土砂に埋められたためだが、特に重要でないため、置いていく。ともかく、この湾が、フィヨルドであるにも関わらず、特に奥行きがあるわけではなく、しかし、波もなく、西からの風を受けて入るのは容易いが、出るのは静かな潮流に乗って緩やかにして行くのが常道だという話をしたかった。

 そういう特性の湾にある港町へ外海から攻撃を仕掛けるのはすこぶる楽であった。帆を張れば風を掴み、自走船は旋回も楽々、搭載している魚雷の威力は一撃で船舶を沈める。対して敵は鈍重にして武装も貧弱、操船さえままならずに乗員たちは次々と海に飛び込んでいった。

「無駄な攻撃はするな。敵兵も人だと思え」

 ユウは指示を出す。船員など、殺されないと知ればとっとと逃げ出すものだ。無理押しをせず、浮いている船を遠くから狙い撃ったり、放火したりすればいい。

 外海にはすでに出航していた数隻のスレイエス船があった。しかし、海賊船に追われ、悠々と入港するアントワーヌ船の敵ではない。その敵船らも、逃げに逃げ、フォーラントからほど近い岸壁に囲まれた入江全体が渦を巻いている地点に押し込まれて操作不能に陥ったという。

「アントワーヌさま、お待ちしておりました」

 フォーラント民が束となって出迎え、

「我々がスレイエス軍の施設までご案内いたします」

 エイムズに指揮を任せた第一部隊をそちらにやり、リリア率いる晶術部隊、ジェシカ率いる第二部隊はユウとともに馬に乗った。フォーラント商人の準備した、どれも駿馬たちだった。

「案内頼むぞ」

「お任せください」

 タモンが先頭を切って、風となる。その尾を追って一団が疾駆する。遠くに望めるノルン山脈の谷間にはスレイエス北軍の砦がある。天嶮といわれるノルン山脈の縦走路、つまり唯一といっていい、帝国との越境路だ。

 守備隊にはスレイエス兵がいる。数はそれほどでもなく、施設の規模もそれほどでもなく、軍事機関のために民間人もいない。交易のための町があるのはやや離れた場所だ。

「この距離でどうだろう?」とユウが振り返ると、リリアが頷いた。

「充分に届きます」リリアがヘリオスフィアを掲げ、「第一晶術詠唱」

 リリアとその辺りに密集する晶術師らから放たれる光線は密集して、夏の日差しの中でも円錐状の赤い輝きを放っている。その先端で赤色の光球がみるみる膨れ上がる。一方のスレイエスの砦の中からは軍馬が湧き出し、砂埃を上げ始めた。

「迎撃する」とジェシカが手綱を引いた。「リリアに一人も近づけるなよ」

「その必要はありません」とリリアがいうのに、誰もが振り向いた。「あれは避難する方々です。わたしたちの方から軍馬を動かす必要はありません」

「しかしリリア……」

「わたしたちの目的は帝国国境の封鎖です。スレイエス兵の無益な殺生ではありません」

 頭を掻いたジェシカに目を向けられたユウは、

「リリア、撃て」

「避難が完了するまで、しばらく待ちます」

「おれたちは戦争をしている。民間人がいるというのなら攻撃はためらうが、戦闘者だというのなら容赦なく殺す。もし、あの兵がこちらに来ればおれたちがやられる」

「逃げる者をわたしは討ちません」

「戦争をするために兵を上げて欲しいって懇願してたのはおまえの方だぞ」

「まだ攻撃できません」

 どう言葉を紡いでも通じない雰囲気に、ユウも口を閉じた。ここ数ヶ月の連戦に、リリアの精神も相当摩耗しているのではないかと思える。博愛主義を謳うことが多くなってきた。

 仕方がなく、もしスレイエスに攻撃されれば命を賭けて衝突するしかない。だが、幸い彼らは南に向かって駆けていっていくれた。その後、光球はゆるゆると落ちて、スレイエスー帝国国境のスレイエス側関所を吹き飛ばした。ガラガラと、轟音と白っぽい噴煙を立てて崩れるノルン山脈を尻目に、ユウは馬腹を蹴った。

「次はファブル国境を封じる」

 一路東へ。二百キロを三日で駆け抜け、ノルン山脈東端にたどり着き、同様の業で山体をぶち壊した。

 これでスレイエスは王国以外の国境線と、海洋の玄関口を封鎖され、完全に孤立したことになる。その代わりというか、これらの作戦ののち、リリアは疲弊のためにぶっ倒れてしまったが。


     ○


 夏のディクルベルグは世界で一番過ごしやすいのではないかと思えるほどの好天だった。雲はなく、太陽はきらめき、気温は上がりすぎず、かといって、夏の暑さというのがないわけでもない。が、湿気がなくて、不快指数は極めて低い。

 ヘリオスフィアを使って室温を調整する必要もなく、窓を開けているだけで、清々しい風が入ってくる。実に心地いいもので、仕事も順調、各地から上がってきた報告をまとめて上へ報告する内容を抜き出し、アルフレッドが処理できる内容には指示を出して始末し尽くしてしまった。まだ太陽も高いのに、やることはなくなってしまった。帝国第二師団の拠点となった元公民館の窓から見える街並みは今日も美しく、平穏であった。

 丘陵の上にあるアントワーヌ邸の修繕もすっかり完了していた。カレン団長がアントワーヌ邸の修繕を指示したのはアルフレッドも呑み込めたが、修繕が完了したのちも、師団は公民館と周辺に建設した長屋に住み続け、アントワーヌ邸には一切触れることがなかった。カレンがなにを考えていたのか、そのときは判然としなかったが、いまこうして屋敷と街並みが一体になった景色を見、ようやく意味を理解することができた。あの邸宅は、町の人間たちの象徴だったわけだ。あの邸宅を破壊した上で占領までしたとなれば、町民たちの反発はいまの比ではなかっただろう。町民たちは協力的といえないまでも、反発する様子もない。町は治められているといっていいだろう。その点、カレンの、他人の誇りを敏感に感じ取り、敬意を払うことを怠らない、元貴族の素養が実に的確に作用した形だ。

 今日も至って平穏である。

 アルフレッドは窓枠に足を投げ出して、背もたれにのけぞるようにして椅子の足を浮かせたり、落としたりしている。

 アルフレッドの執務室はカレンと相部屋だが、彼女は調練に出ていて、日が傾くまで帰ってこない。

 この昼寝でもしてしまおうかとまぶたを閉じかけたとき、

「アルフレッド、いるか」

 とカレンが駆け込んできた。アルフレッドの、二本になっていた椅子の足が滑って転び、大きな音とともに机の上の書類を空に舞わせた。

「なにをしている、アルフレッド」

 しかめっ面のカレンが頭の上で仁王立ちしていた。

「いやあ、団長がこんなに早く帰ってくるとは思わなかったもんで」

 頭を掻きながら膝立ちになって書類を拾う。

「冗談をやってる場合じゃないぞ」

 カレンは眉間に深いしわを寄せ、

「スレイエス国境で崖崩れがあったらしい」

「崖崩れ?」

「調練中に南から伝令があったんだ」とカレンは席に戻りながらいう。「いまは戦時体制だ。復旧作業はフォローツクの司政官がやるだろうが、わたしたちからも人員を送ろう。その選抜してくれ」

「それ、ただの崖崩れですか?」

 卓上の書類を取り上げたカレンの指先がぴたりと止まる。

「ただの崖崩れ以外、なにがあるんだ?」

「人為的なものが」

「人為的って、どうやって……」

 カレンは笑いかけて、真顔に戻った。火薬のないこの世界でいったいどうやって山を砕くのかと考え、ひとつ思い当たったらしい。

「おまえ、集合晶術が使われたと思ってるのか?」

「だって、あんまり時機が合いすぎていて、不自然でしょう」

アルフレッドの知る限り、東ではアンガス侵攻があり、中央ではファブルと王国が、西ではスレイエスとコルトが対峙している。

「こういう時期に、それも雨季ならまだしも夏ですからねえ。最近、国境で雨が降り続いてるみたいな話も聞きませんし。地震でもないのでしょう?」

「それはそうだが」とカレンは席に収まって、足と腕を組んだ。「しかし、帝国晶術部隊以外に集合晶術を使えるのはアントワーヌだけだろう。なんでアントワーヌがスレイエスにいる? それもこんな北に」

 アルフレッドは技術の発展は日進月歩だから、集合晶術の使い手がアントワーヌだけとは限らない方がいいとも思ったが、口にしなかった。話がややこしくなる。

「船を使えば簡単にスレイエス北部に乗りつけることできます。そこから帝国国境まで半日とかかりません」

「フォーラントが落とされたといいたいのか?」カレンは片眉下げ、「アントワーヌに?」

「事実はどうあれ、国境向こうの状態を確認すべきです。我々の職務は国境の回復より、軍事活動とそれに利する情報収集です」

 腕を組んだまま沈思したカレンは、おもむろにアルフレッドを見据えた。

「よし、南に偵察を送ろう。登攀路のないノルン山脈を越えることになるが」

 あの辺りは難路である上に凶悪な怪物の巣窟であるために、この任務は命懸けといっていいだろう。しかし、そういう無謀な任務を名誉なことと好む人間も少なくない。海路でもいい。いかに戦時とはいっても、商業が停滞するほどではないので、上手くすればエルサドルでもフォーラントでも潜入するのは難しくない。

「そこのところはぼくが探しておきますよ」

「では、わたしはなにをすればいいかなあ」と唇に指先をやって悩んでいる。

「別に悩むことはありません。団長は兵の様子を見て、調練に励んでくれさえいれば」

「おまえ、帝国国境が大変かもしれないときにそんなこと……」

「団長、先にも言いましたけれど、我々の職務は軍事活動です。古今東西、軍事において最も重要なことは、兵の練度を上げることです」

「まあ、そうかもしれんが」

「正直、我々は帝国第二師団といわれて、だいぶ大きな所帯になりましたけれど、現行、団長以上に指揮官適性の高い人間がいません。ここ、ディクルベルクに駐留している人間たちは団長が調練して、いずれは帝国西域の中枢部隊にしていかなくてはいけません。そのためにはいま、一日の調練も欠かすわけにはいかないのです」

「そうかもしれんが……」

「団長、耐えて部下に任せるのも上司の仕事の一部です」

「う、むう」と唸ったカレンは背を向けた。その後頭部には几帳面なほどきれいに金髪がまとめられている。

「どうですか、団長?」

「どうもこうも」と渋りながら、わかったよ、と頷いた。「この件はおまえに任せる」

「ありがとうございます」

「わたしは調練に戻る。日が暮れるころには帰ってくるから、報告できるようにしておけ」

「かしこまりました」

 ばたん、と不機嫌そうに扉が閉められると、アルフレッドは一人になって、一室はようやく静かになった。せっかくの静謐な時間をこんな浅い時間に壊されては困るのだ。

 それはそうと、とアルフレッドは首を捻った。

 万が一、アントワーヌがスレイエス軍部の活発化を機に、帝国国境を封じたというのなら、なかなかの賭博といわなければならない。王国は北方国境線を隙間なく圧迫されている。それを絶対に防ぐためにかなりの人員を割いているはずだ。その中で、果たしてスレイエス北方に人員を割くだろうか? 否だ。王国はそんな博打は打たない。国境線の守備に全力を尽くす。ということは、アントワーヌは自前の戦力のみで戦わなくてはならない。さすがに一万も、もしかしたら一千も兵を抱えていないかもしれない。それでスレイエス北軍に抗しようとすれば戦術は極めて限られることになる。フォーラントに籠城すれば多少の日時は稼げるだろうが、南軍に脅威を与えることはなかろうし、野戦になればいくら集合晶術を得ているとはいえ、北軍一万を超える敵を相手に出来るかどうか。いずれにしても賭博性が高いといわざるを得ない。

 ただ、そういう戦いを強いられたときが、アルフレッドの過去にもあった。極めて少ない兵数で敵領内の中枢を攻め落とすには、あれ以外の手段はないかもしれない。


     ○


 公都レイスにある公城は、城というより館に近い。三階建て、王国風の白亜の建屋は屋根から窓、その柱の装飾趣も四角のフラクタル的な模様をしている。丘陵の上にあって、北面を切り落とし、残りの三方には堀を何重にも穿ち、東のノルン山脈から流れてくるタムデア川から水を引き入れ、いまは水面に夏の日差しが輝いている。

 その光に眼球を刺激されて顔をしかめた少年が甲高い声でいう。

「戦況はどうなんだ?」

 は、と片膝ついた男は頭を下げている。公都を守備する北軍の将、シフ将軍だ。慇懃な声で丁重にいう。

「南の戦場は我が方が優勢で、近々のうちにいまの緩衝地帯は陛下の領地になりましょう」

「そうか」と青白い顔を頷かせ、「コルトが余の手に落ちるのも時間の問題だな」

「はい。まもなく陛下の掌中に」

「皇帝の富は不可能をなくすのう。いずれ王国も余のものになるな?」

「左様で。皇帝陛下は西方征伐とアンガス侵攻に時を使い、終わった後も疲弊しましょう。ファブルには王都の力を削いでもらい、コルトを得た我らが王都軍を食いつぶせば」

「ほほ」と隈の濃い目元を綻ばせる。「良い策だ。シフ将軍、褒めてつかわすぞ」

「ありがたきお言葉」シフは深くした頭をやや上げて、しかし、主の顔は見ず、「ただ一つ、懸念が」

「なんだ?」と、不機嫌な声が鋭い視線とともに飛んできた。

「北にアントワーヌが出現し、フォーラントとその近辺を脅かしております」

「アントワーヌ」と身震いしながらいい、「以前、フォーラントで不埒な真似をしていたな」

「は、皇帝陛下の船舶の一つを強奪した、卑賤な奴らのことでございます」

「あの蛮族どもめ、恥ずかしげもなく戻ってくるとは」卓の上にあった好物の干し肉を食いちぎり、口の中でくちゃくちゃと鳴らす。「皇帝陛下にも困ったものだ。あのような輩どもを打ち漏らして野放しになさる。思いの外無能なのかもしれん」

「皇帝陛下も人ということでございましょう」

「まあいい。そういう無法者たちを懲らしめるためにおまえを公都に置いているのだ。アントワーヌなど一蹴できるな?」

「は、必ずご期待に添いましょう」

「期待しているぞ」

 公王はまた干し肉をつまみながら窓に向き直った。シフはかしこまったまま退室し、扉を閉じてため息をついた。

 あのバカめ、と思う。

 皇帝がアンガスを落とすために活動を始め、大陸東方に王国の増援を送らせないよう牽制せよと書状が来たのは確かだった。それをどう勘違いしたのか、あの小僧は欲を剥き出しにした。王国を切り取る機会が来たなどと夢想を吐き、南方遠征を始めてしまったのだ。そのために王国との拮抗が破れ、アントワーヌには侵攻の大義を与え、北部への侵入を許してしまった。

 正直にいえば、スレイエスは弱小国だった。王国の一領地だったこの国家は、その過去の通り、王国の一領地ほどの国力しかない。交易で栄華を極めているコルトに比べてさえ卑小なものだった。ただ穀物の生産能力が高く、飢えにくいというのが豊かであると間違われやすい。飢えない国は平和なときは良かろう。だが、戦乱では生き残れない。小国が生き残る道は一つしかない。敵を作らないこと、ひたすらに乱を避けるしかなかったのだ。どこで戦いが起きていても、関せず、複数の大勢力にすり寄り、大局の決しかけたところでようやく姿勢を示す。例え、誰に罵られようと、外様に捨て置かれようと、小国が生き残るにはこれ以外に手段などない。

 あの小僧は豊かな食料と帝国から流れてくるヘリオスフィアの量に浮かれて、王国を切り取れるなどという愚かとしかいいようのない夢を見たのだ。

 この戦いは十中八九負ける。南軍は強い。コルトを取るかもしれない。しかし、取ったところで維持ができない。維持しようとすれば国力を浪費し、そこを王国に攻め込まれ、国は独立を失う。この戦乱は、始めた瞬間からスレイエスの滅亡が決まっている戦い、といっていい。南軍も、いくら命令とはいえ、生真面目にウラカ街道などに侵出しなければよかったのに。しかし、シフも軍人として、軍務に忠を尽くした南軍を責めることはできなかった。

 泥船からは降りた方がいいのかもしれない。

 手早く降伏しすれば、アントワーヌは悪いようにしないだろう。当主のリリア・アントワーヌは慈悲深いというし、没落した帝国貴族どもがスレイエス国内を抜けるときも北軍は大きな攻撃をしなかった。ただ手をこまねいてしまっただけだが、結果としてはそうなっている。あの没落貴族どもはのちにアントワーヌと合流しているというから、何事か、便宜を図ってくれるかもしれない。

「どうするべきか」

 シフが執務室に戻ると、新しい報告が上がってきていた。

「フォーラントは陥落。アントワーヌは北と東の国境を封鎖して、この封鎖部隊は西に走り、フォーラントに帰還したようです」

「奴らの合流をみすみす許したというのか?」

「それは」と報告兵は狼狽えたものの、気を取り直し、「はい。交戦した形跡はありません。いくつかの拠点を集合晶術で粉砕されたために命令系統と情報が混乱したためと思われます」

「奴らはフォーラントに船で来たのか。物資は?」

「エルサドルの商船がフォーラントに乗り入れている、という報告も上がってきています。彼らには海賊も味方していて、もはや制海権は絶望的と思ってよろしいかと」

「補給線も完璧、ということか」

 付け入る隙がない。大軍をもってフォーラントに追い詰めて、そのまま押し潰す他手段がないだろう。しかし、相手は集合晶術を持っていて、迂闊に近づけば一網打尽にされることも請け合いだ。フォーラントに繋がる街道と平原はそれほど広くない。

「他に、こういった報告も上がってきています」

 と、一枚のチラシを差し出された。その紙片にはこうある。

 王国を慕う者、現政権に奮い立つ者、アントワーヌに依る者は公都に集え。

「公都にも撒かれているようです。アントワーヌの手の者でしょう。民を煽動して公城を圧迫しようとしているようです」

「なんということだ」

 もし大衆に集まられれば手の施しようがなくなる。

 血の気が引きかけたシフの耳に、かすかな怒号が聞こえてきた。

 ちら、と見遣った窓外の城下には黒山の人だかりがあった。手に手に取った刀槍が日差しに閃ていた。


     ○


 なぜスレイエス民がこれほどまでに怒り、公都レイスを取り囲んでいるのか、というと、彼らが潔癖であり、進退の爽やかさを求める国民だからだ。

 身を挺してなにかを守り、命すら小石を蹴るように扱い、富や名声に屈託を持たず、戦場があれば出、死を前にして怯まず、戦いが終われは敵味方を称賛し、笑い合って手を握り合う。こういう性癖は貴族の理想とされていた。現行、実践している人間はほとんどいないが。その貴族文化の発祥地が王国といわれている。元々、スレイエスは王国領で、領主にもその品格があったことだろう。しかし、近年になってスレイエスは帝国にすり寄り、王国を捨て、しかもそのすり寄った帝国は貴族文化を抹消しようとしている。怒り、というより、一個の、百年以上信奉してきた文化が消滅するという危機感に襲われている。

 そこで、アントワーヌである。当主のリリア・アントワーヌには多分な貴族適性があり、実際の大貴族であり、スレイエス民が敵視する帝国に打ちのめされたという悲劇性まである。これとともに帝国を叩こう、という機運がこの国土にいま渦巻いている。

「もし」とユウはいう。「これで民衆が公都に押し寄せるなら、おれたちは民の総意を実現するために南下すればいい。民衆が押し寄せないのなら、まだスレイエスを落とす機運が熟していない。フォーラントに留まって、南軍を脅かすのはいいが、公都までは行かずに撤退する他ない。が、結果、どうだろう」

 フォーラントからレイスへ続く街道は人と馬車の列にごった返している。彼らはアントワーヌの旗を見つけては熱狂的なほどに手を振っていたり、声援を送ったり、献上品を運んでくる者まである。

 アントワーヌには大量の兵站がある。エルサドルからも、海賊島からも、どんどんピストン輸送されてきて、フォーラントの活況は古今に例を見ないほどであった。それもこれもエルサドルの富と、クラインの手腕によるものだった。どの船にどれくらいの、どの物資を乗せていくと、どれくらいの期日がかかり、どれほど消費されて、なにがいつなくなり、また必要とされるのか、などという計算が彼ほど得手な人間は他にいなかっただろう。その物資がアントワーヌとエルサドル、フォーラントの商人たちによってアリの行列のように運ばれている。アントワーヌ兵のためではない。スレイエス民のためだ。ここからまだ公都は遠く、道々かかる食費やなにかは半端な量ではない。その多くをアントワーヌの物資が負担している。炊き出しは当たり前で、ヘリオスフィアも潤沢にあり、夜は幕舎すら提供されて、その中の室温も調節されて寝具まである。

 その至れり尽くせりの、アントワーヌの下心が透けて見えそうでありながら、なかなか本音の見えない優しさに、少なくないスレイエス民が感動を覚えていた。彼らのすべてがアントワーヌの力になる。北軍は市民を攻撃することを恐れて、ほとんど攻撃らしい攻撃をしてこない。少ない騎馬を寄せてきて、小競り合いをしながら、市民からの罵声を浴びて去ってゆくくらいだ。もしかしたら集合晶術を警戒しているのかもしれないが、守るべき民から罵声を浴びせられるというのは惨めなばかりである。決して士気は上がっていないだろう。

 ともかく、こういうことのすべてが、クラインの功績、といっていいだろう。フェルロテアの事務作業だけでもクラインの才覚を称えていたユウは今度のことでいよいよ小躍りするほど喜んだ。

「おれの人を見る目は正しかった」

「実に卓見でしたな」というタモンの笑みには多少の皮肉が込められているようで、ユウは眉間にしわを寄せた。タモンはそれすらもせせら笑って、

「公都から報告が上がってきております」

「ほほう」と、ユウは彼の馬と馬を並べた。「なんだって?」

「すでに公城と周辺施設の門前には民衆が殺到し、アントワーヌの到着を待って爆発寸前だそうです」

「公王の評価はおれが思っている以上に低いな」

「一方で、南の戦線に動揺の色はないようです」

「噂の、スレイエス最強の将は、おれが思っている以上に手強いかもしれない」

 南軍の兵は、スレイエスのため、というより、フォーク将軍のために戦っている雰囲気が強い。そのために、公都がどうあろうと、将軍さえ健在ならいくらでも戦えるし、動揺もない、といったところだろう。

「厳しいな」とユウは顎を擦り、「そういう人が率いている軍隊はさぞ強いことだろう。おれも南軍とは戦いたくないし、彼らと向かい合ってるコルト候は大変だろう」

「南軍が撤退してくる前に、公都を降伏させなけれなりませんな」

「計画を前倒ししよう。例の立て札を掲げさせろ」

「レイスの様子をその目で確認しなくてよろしいので?」

「いい。街道のこの様子を見て、レイスが平静ということもないだろう」だが、しかし、ともいう。「おれたちは先行しよう。敵襲があってもエイムズとジェシカで、充分だろう。あの二人でダメならおれがいてもダメだ。ちなみに、北軍に動きはないな?」

「いまのところは」

「では行こう」

 ユウは王国から送られてきたセキトに乗り換えている。そのあぶみを踏み込み、草原を疾駆し、爽やかな風を巻いて一台の馬車に並んだ。

「あら、ユウさん」とメイド服姿のアンジュが顔を出した。「どうなすったんです?」

「おれは先に行く。兵の指揮はエイムズとジェシカに任す。リリアによろしくいっておいてくれ」

「ユ、ユウさん」とリリアが青い顔をアンジュの下からにょきっと出した。その声もずいぶんと濁っていた。「どこ行くんですか?」と苦し気にいう。

「レイスへ向かう。作戦を急がないといけないかもしれない」

「わ、わたしも……」

「ダメです、リリアさまが強行軍をすれば死にます」

「わたしはそんなに貧弱では」と呟いて眉間をつまみ、そのまま窓の下に沈んでいった。

「まあ、リリアさまのことはお任せください」

 アンジュが笑顔でいうのが、意外と心強い。

「では頼む」

「ユウさんも、お気をつけくださいね」

 手を振って見送ってくれるのに手を振って返す。

 馬車との隙間を徐々に広げて、手綱を打った。セキトの身が加速してゆく。蹄のリズム、頬を撫でる風の感触、馬体から伝わる熱と呼吸の音。セキトの首元に添えた指を震わす脈拍はすこぶる良い。

「は」と覇気を入れると、人馬ともに疾風となる。タモンの姿もやや後方に置き去りにしてゆく。

 数日という期間、馬蹄を鳴らして到着した公都はデモというより祭りに近い雰囲気があった。あちこちで人が集まり、プラカードを持っていたり、横断幕を飾っていたり、焚き火を焚いていたり、炊き出しをしていたり。浮かれている、というよりも、この喧騒を楽しもうという雰囲気が強い。王都民も、教会領民もそうだが、お祭り騒ぎがあるなら便乗して楽しもうという地域性が、レオーラ大陸南部には見られるようだ。対して、北部の帝国民はもっと手堅く辛抱強い雰囲気がある。が、まあ、それはいい。

 街の所々に立札を立てようとしている人の姿がある。内容は降伏勧告で、文末にはアントワーヌの署名もある。かいつまんで、以下にいう。

 我々には集合晶術がある。公城など一蹴のうちに殲滅できるが、公爵閣下とかつての王都という街を粉砕するのは忍びない。公都を守備する北軍とは正々堂々野戦で決着をつけたい。

「あとは向こうの反応を見るだけだ」

 ユウは腕を組んで公城を見上げ、ふと視線を下げて、後ろのポケットに入れていた財布の残金を見直した。かろうじて一食分くらいの残金があるのを認め、近場の食堂を探し始めた。


 北軍も城下に人を放っていたために、この立札のことはすぐに知れた。

「こんなバカな話があるか」とシフは執務机を叩いた。「向こうは集合晶術を持っているんだぞ。まともに戦いを挑んで勝てるはずがない」

「ですが、アントワーヌの潔さに、民衆は沸き立っています。この申し出を断ると、世論は沸騰しかねません」

「なんといわれようと受けかねる。非人道的な術を使う輩と、我々は正面切って戦うことはしない。わたしには公都を守る義務と同様、部下の命を守る義務もある」

 と、シフは応答として城下に右のごとく立札を出した。これにユウも反応する。

 部下を守る義務を達したいのなら城門を開き、降伏されれば良い。兵を退き、今後親王国派といわず、親帝国派ともいわず、中立の立場に立つのならコルト候にも兵を退くよう説こう。返答はいかに?

 この話を公王は一考もせず跳ねつけた。

「帝国の落ちこぼれ無勢がなにをいうのか、片腹痛い」神経質そうに爪先で床を叩き、「将軍、さっさと出撃して、あの羽虫どもを蹴散らしてこい」

「陛下、彼らは集合晶術という術を備えていまして」

「それで、余に降伏しろというのか?」

 シフは頷くことはできずに頭を深くしただけだった。

「余は貴公が戦えるように兵を預けている。それを使えといっているのだ。できんのなら罷免する他ない」

 ほほ、と薄く笑う。

「良いのう、罷免、罷免。お主の首など余の指一振りで決まるのだ。それを心得よ」

 シフは顔も上げずに退室していった。おそらく、そのときのシフの形相を公王が見ていれば、北軍の将を差し替えるか、はたまたどちらかが死ぬか、していたことは間違いないだろう。


 ユウは賭けをしている。

 北軍は来ない、と踏んだのだ。そのことは民衆が証明している。

 潔癖と潔さと決戦を望む国民がこれほど怒る、ということは、公都の政治家にはこれら三つのことが欠けているからだ、と判断した。決戦がない以上、アントワーヌがいる、という士気の高ささえあれば、民衆の手によって公都は落ちるとも期待した。そのために南下した。

「出てきたらどうなさいます?」とタモンが問う。

「出てきたらヤバいねえ。負けちゃうかも」

「なにを呑気な」

 北軍は総数三万といわれ、公都に駐留しているだけでも一万弱いるという。対するアントワーヌは四百人余り、うち五十人は晶術部隊。他に民兵がどれくらい集まっているか。彼らをジェシカとエイムズが調練しているはずだが、戦力としてはたかが知れている。

「いいんだよ」とユウはいう。「この国を変えるのは王国ではなく、この国の人間の方がいいだろう?」

「きっかけは旦那がけしかけたことでも?」

「火種がないと、油を注いでも燃え上がらないだろう」

 スレイエスには革命の起こる資材が充分にあって、あとは着火するだけだったということだ。ユウはこの戦いでそれを試した。結果がこれだ。

「これで民衆が自信を持つのも良かろう」

 高貴なる者を倒す力を憶えてもいい。民にはその権利がある、とユウは思っている。例え、はるかな未来、王国を脅かす思想となっても構いやしない。

 ユウは炊き出しの手伝いと幕舎の設営を手伝いながら時を過ごしていた。そのうちに、「アントワーヌが来たぞ」と噂が立った。

 遠くの丘陵の上に幕舎が張られ、アントワーヌと王国旗がはためいている。


 一方で、シフ将軍も全軍を費やせばアントワーヌに勝てると知っている。相手は多く見て一千。こちらは一万、北方に連絡して彼らの退路と補給線を断ってもいい。フォーラントが落ちたとて、北方すべての砦が落ちたわけでも、兵が消失したわけでもない。動員すればアントワーヌは袋のネズミにできる。できるが、彼らが干上がる前に、公城が民衆に倒される方が早いかもしれない。すでに四枚あった門の二枚までが陥落して、三枚目も変形を始めている。

「民衆を門から引き剥がせ」と命令は出したものの、

「やっていますが、民衆はもはや我々を恐れていません」

 もし、強引に引き剥がして一人の人でも殺してしまえば反乱は過熱し、手の付けられないものになるだろう。そもそも、守備側の士気が高くない。他国の者と戦うならいざ知らず、同国民と戦う、それも一般大衆と戦うとなって、士気が上がるはずがない。シフ将軍自身、気が乗っていない。臣下をああやって侮辱する王に仕える意味があるだろうか?

 降伏するか?

 情報では、帝国、ファブルとの経路は断たれ、王国側についたところで不利なことがない。むしろ、これからは北との貿易は陸海ともに難しくなるため、王国との交易を盛んにするしかない。

 降伏する他にない。スレイエスの未来は。

 するなら、一切の戦闘行為が不利になる。

 この戦いは勝ち負けの如何に関わらず、始まったときからスレイエスの滅亡が定められた戦いであったが、その勝敗もアントワーヌに背後を取られた時点で決していたのかもしれない。もっといえば、海賊が彼らに協力を決めたとき、彼らが海賊との競り合いに勝利したときに、スレイエスの敗北は決していたといっていいのかもしれない。

 この頃、日に数回公王に呼び出されることがある。

「なにをしている、シフ将軍」とこの小僧は無駄に豪奢な座椅子の肘置きを何度も殴り、「アントワーヌを始末しろといっている。なぜまだ城内にいる?」

「公城が民衆に囲まれ、我々も身動きが取れません」

「なにが身動きが取れない、だ。踏み潰せばよかろう。国軍の邪魔をするのは非国民だ。罰して構わん」

 これが表の民に聞こえていれば、この日の晩にも公城は陥落していただろう。幸い、ここは密室で、公王とシフの二人しかいない。

「陛下の仰せの通りに」とはいったものの、実際、できるはずがない。もはや公城を出れば興奮した民に叩き殺されるかもしれない。

 いっそこのクソガキ暗殺してしまおうか、と頭によぎる。

 しかし、アントワーヌは慈悲深いともいい、スレイエスの民衆も暗闘のような薄汚いことを極端に嫌う。暗殺は体面が悪かろう。

 しばらく静観する他あるまい。

 シフは窓辺に近づき、輝き揺れる水面の青に目を細めた。


「天ノ岐殿」と、大衆食堂の隣の席に座ったツィバイは、平民の格好だった。ぎゃあぎゃあとうるさい食堂の中で献立表を見ながら、話を続ける。「第二門の突破に成功しました。じきに第三門も破れましょう。そうなれば残りは一枚、公城に取りついたも同然です」

「実にいい調子だ」

 北軍はだんまりを決め、北に幾つかある砦も沈黙している。南軍はミリシアム率いる王国軍が足止めをし、民は時流に乗って、革命を起こそうとしている。もはやアントワーヌがいなくなっても公王は倒れるかもしれない。

「もう撤退の準備をしちゃおうかしら」

 南も北も、紙一重の戦いをしている。アントワーヌは敵地の真中にあって、一線を踏み誤れば全滅もあり得る。できれば長居をしたくなかった。

 ユウの卓のそばを通った男が、そろりと卓上に封書を落としていった。どうやらユウ宛の密書らしい。まだ文字の充分に読めないユウに代わって目を通したタモンが、ほほほ、と声を上げて笑った。

「どうした?」と問うユウに、タモンが耳打ちする。

「南軍が北上して参ります」

 ユウは椅子を蹴って店を出、馬上の人となると一目散に駆け出していった。


     ○


「皇帝陛下はアンガスをお切り取りなさる」

 スレイエスの王国侵攻が始まる前、公王は帝都からの手紙で自らを扇ぎ、不敵に笑っていた。

「我らには王国を叩けと仰せだ。ファブルが王都に仕掛けて、その主力を引きつけてくれるとも仰る。その間に我らはコルトを頂こう。これは我々の悲願であり、王国最大の商業都市を攻め落としたとなれば、皇帝陛下もさぞお喜びになられる」

「陛下、お言葉ですが」と南軍を率いるフォーク将軍は頭を伏せたまま、前ににじり、「王国への過度の攻撃は世論が許しますまい。施政者は民の器という言葉がある通り、例え、帝国がどうあろうと、我々は独立国家として超然とあるべきかと存じます」

「それとこれとは関係がない」と公王はいう。「いうたであろう? これは我らの悲願だ。その機会があれば利用する。なにか悪いことがあるか? のう、シフ、どう思う?」

「は」とシフはより深く頭を下げただけで沈黙を守っている。

 各省庁の大臣たちも顔を伏せ、一言もない。

「ほれ、みな余と同じ意見だ。フォーク将軍だけ変わっておる。武が過ぎるとそうなるのかの」

 ほほ、と笑い、

「南軍は兵馬を揃え、速やかに南の国境に向かい、ウラカ大城塞を攻略せよ。北軍は兵糧の備えをしつつ、各地の民を治めよ。よろしいか?」

 は、と満場が声を合わせる。

「済まなかった」とシフは退室してからフォークの肩を叩き、「わたしもこの戦いが失策なのは理解している。だが、陛下が我々の言葉をお聞きにならないのは周知のことだろう?」

 どこかで育て方を誤ったのかもしれないな、とシフは誰にともなく呟いていた。一言の返答もないフォークを訝るふうにして、なにかに思い当たったらしい、息を呑んでいだ。

「まさか、本気でウラカ城塞を攻撃するつもりではないな?」

「陛下はそう仰せだ」

「王国と事を構えてどうする? 国が滅ぶぞ」

「わたしはやるべきことをした。これからも変わらない」

「フォーク殿」

「北のことはそちらに任す」

 ここ、ウラカ台地の真ん中に兵馬を構える前のことを、フォークは思い出している。幔幕の空は星が散らばり、明かりは卓上の小さな晶機が一機、居並ぶ人の顔も確認できなかったが声と仕草で名前がわかる。

 フォークは上座に座し、腕はかたく組み合わせ、まぶたは閉じていた。耳は彼らの声に澄ませている。人によっては眠っているのではないかとよく取られる姿勢で話を傾聴するのが近年の彼の癖であった。将校級はそれを心得ていて、整然と一人一人案を述べ、述べたあとは身動ぎのひとつもせずにフォークの決断を待っている。南軍の軍議、というのはこういうものだ。

 撤退と進軍、二つの案がある。王国を討つ力があることを国民に示せば公都を包囲している民も理解を示す、という者がおり、また、例え王国を討ったところで民は逆上するだけだ、という者もいる。即刻撤退し、公都の治安維持に努めるのが火急のことという案が多い。

 すべての議論が出尽くしたふうを受けてから、フォークはおもむろにまぶたを開けた。

「明朝、撤退する」

 たった一言だけで南軍の方針は決まる。将士は一言もない。熱烈に進軍を主張していた者ですら、整然とした敬礼をしただけで幔幕をあとにした。これが南軍の練度、ということだろう。フォーク将軍の人望が厚いということでもあるかもしれない。

 夜のうちに撤退準備は終わって、屋根もない草地で一泊した南軍は日の出とともに北に向かい始めた。早さが尋常ではない。騎馬が速いのは当たり前だが、人も騎馬と同等の速度で駆け足をしているとしか思えない俊足で北に駆け上がっていった。

 これに驚いたのはウラカ大城塞、つまり王国側だった。

 大将のミリシアムはユウから従前連絡を受けていて、アントワーヌがスレイエス北面を突くことを知っていた。それに合わせて南軍が撤退することも予測していた。その後背をつき、南軍に打撃を与えておこうと思っていたのが、まさか、夜明けとともに姿を消すほどの速度で北進してゆくとは思わなかった。二万五千余りもの人が地上を埋めていたのに、それが日の出とともにすっかりなくなっていれば誰だって驚く。

「急ぎ追撃部隊を出せ」と令を下し、近衛第五師団とコルト兵を中心に、他領地からの援軍を加えた二万の軍勢を先発させた。近衛第三師団とコルト騎兵を予備隊として手元に残して後発し、先発部隊を遠くに望んだのだが、その景色は驚くべきものだった。

 王国先発隊が反転したスレイエス南軍の猛攻を受けて、壊滅状態に陥っていたのだ。砂塵を上げて襲い来る群青の鎧の群れが白銀色の鎧でかためた王国軍を包み込んでゆく。両翼は熱湯の中の氷のように溶けてゆき、持ちこたえているのは中央のコルト兵がわずかにあるのと、その後方を守る第五師団だけだった。が、彼らもすでに包囲されかけていて、全滅は時間の問題だろう。

「いったいなにが起きている?」

 平素穏やかといわれるミリシアムも狼狽した。なにせ前線から逃げてきた敗兵がミリシアムの本陣のそばを横切るようになっている。彼の狼狽は全軍の狼狽だっただろう。このとき同行していた近衛第三師団長トマスが諫言していなければ、第五師団も瓦解して、王国の戦線は崩壊していたかもしれない。

「閣下、お気を確かに。わたくしが急ぎ援軍に参りましょう。伏兵の様子もありませんが、コルト兵を残していれば閣下の身辺は足りましょう」

「おお、貴公のいう通りだ」

 ミリシアムは即決し、近衛第三師団をすぐさま放った。南軍は敵増援の到着を見るや、脱兎のごとく、しかし、整然と北に向かっていった。

 収容した王国先発隊の損害は死者一千、負傷者五千、行方不明者四千人といった具合だ。先発隊は半数の戦力を失ったことになる。

 生存者曰く、先発隊は南軍に追いつき、丘陵を越えた彼らの影を追って丘陵を登りかけた。その背後に南軍が現れたのだという。のちの斥候の報告では、問題の丘陵を北から菱側を通って迂回してくる姿が認められている。どうやら先行していた騎馬隊に丘陵をぐるりと回らせて、王国軍の背面を衝かせたらしい。直後、丘陵の向こうにいた南軍も引き返してきて、王国軍は混乱、逆落としを受けながら、後方には敵騎馬隊が密集しているという状況で、瞬く間に壊滅したという。

 のちにスレイエス軍から徴取した話で、フォークは王国軍がウラカ城塞から出てくるだろう、と踏んでいたらしいことがわかった。出てこなければそのまま北に走り続けていただろう。が、これらのことは部下に一切漏らさなかったという。

 フォーク将軍は丘陵を越え、唐突に先行部隊に丘陵の迂回を命じ、全軍を止めてからようやく追撃してくる王国軍への攻撃命令が出、このとき初めて兵は追撃されていることとと、これと戦うことを知ったという。にも関わらず、これほどの戦闘能力を発揮したのも恐ろしいが、王国軍をなにより震え上がらせたのは、王国軍を叩きのめし、眼前に勝利を見ておきながら蹴り飛ばすようにしてそれを放棄し、北に進路を取ったその冷静さだった。南軍二万五千が押し込めば八千余りで数に劣る王国近衛第三師団も撃破できただろうし、南下して人の少なくなったウラカ大城塞も陥落したかもしれなかった。それらすべてを冷淡すぎるほどの態度で投げ捨てて北に向かったのだ。

 王国側はここに留まって隊列を立て直さざるを得ない。


 王国軍壊滅、南軍北進、という手紙をユウは放っていた斥候から受け取ったわけだ。

 そしていま、アントワーヌの野営地に飛び込んでいる。

「いますぐ撤退する。幕舎を畳め」

「おや、ユウさん」とアンジュがへらへらとしながら奥の幕舎から顔を出した。呑気に宙を手のひらで仰いでいる。「そんなに慌てふためいて、どうしたんですか? みっともないですよ。高貴なる者はいついかなるときも冷静沈着であるものです」

「おまえはお花畑だなあ」

「なんですか? わたしがお花の妖精さんに見えますか?」

 ははは、と笑い、

「可愛いでしょう?」

「真正のバカだ」

 ユウは目を丸くする彼女を無視して、野営地の奥に踏み込んだ。そこにエイムズが駆けてくる。

「天ノ岐殿、南軍が北上して来ます」

「え」と真先に声を上げたのはアンジュだった。「なんでです? コルトと戦っていたんじゃないんですか?」

「詳しくは?」とユウはエイムズに身を寄せた。

「王国軍は被害甚大、およそ三万のうちの一万を失ったそうです。ですが、バーナード閣下はご健在で軍の再編をされていると。おって、王国軍からも連絡が来ましょう」

「思ったより深刻のようです」とユウは頷き、「ここを撤退します。野戦では南軍を押さえきれません」

「承知しました。そのように手配しましょう」

 エイムズは駆け足で去ってゆく。ユウの袖につかまって頻りに揺らしているのはアンジュだ。唇を尖らせて、

「ちょっと、なんで無視するんですか、なにが起きてるんです?」

「おまえはちょっと黙ってなさいよ」

「やーです」

「お話ならリリアを相手にやってろ」そうだ、と膝をうち、「おれは南に行く。南軍が北上していることと併せてリリアに伝えておけ。それと、王国軍は大きな損害を被ったらしい。しばらく動けないだろうが、ミリシアムさんは無事だという」

「コ、コルトが大損害」

 両手を上げて驚いた彼女の拘束からようやく解放されて、ユウは駆け出し、ひらりと愛馬に飛び乗った。

「あとは任す」

「任されても……」

 あー、というアンジュの悲鳴を遠くに聴きながら疾駆した。道中、タモンが追いついてきて、馬を並べる。

「南へ行かれるので?」

「おまえも来い。道がわからん」

「ほほ、人使いの荒いことで」

 ユウは手綱を繰って、加速してゆく。


     ○


 草原が揺れている。風の流れ以上に、人馬が大地を踏み鳴らす音に、揺れている。

「大変なことになってるなあ」

 丘陵と丘陵の間一面が青みがかった鋼鉄の鎧で、所々に掲げられた軍旗は黒地に波のシンボルを白抜きしたもの。どれもスレイエス軍の装備だ。総数は二万を少し越えたくらいといったところか。

「あれがフォーク将軍でございます」とタモンが指さした方向に単眼鏡を据えると、騎馬の巨漢がいた。四角い顔の肌は浅黒く、白髪をうしろに撫でつけ、胴を覆う鎧の大きさも左右の兵の二、三倍はありそうな巨体だ。彼を乗せている馬も大柄だが、さぞかし大変だろう。

「槍の腕は大陸随一と謳われる豪傑でございます」

「ヴォルグリッドより強いかな?」

「さあ、武を交えたという話を聞いたことがありません。ですが、スレイエス民にいわせると、俗にいう大陸三傑に並ぶのではないか、むしろ上回っているのではないか、などという者もあるとか」

「それは贔屓目じゃないのか?」

「そうかもしれません。三傑は戦場に立ち、実際に武を振るう機会が多いために話題に上りやすくありますが、スレイエスくらいの小国では国内人以外に話題にすることはありませんからの。彼らのいうことが事実やも」

「ともかく、それだけの評判がある男ということか」ユウは腕を組み、「なかなかの強者と見なけりゃならないな」

「噂では、単騎でジークベックを討ったとか」

「それは嘘だろう」

 アントワーヌがノルン山脈を越える際に遭遇した竜のバケモノだ。ヴォルグリッドでさえ手が出せず、ユウなどリリアの晶術がなければ死んでいただろう。あれに勝てる人間がいるわけがない。

 単眼鏡越しに窺えるフォークは、肉体、挙措、その他雰囲気から豪傑の匂いはする。ここから見た感じ、ユウが真剣で戦えば勝敗は五分だろうが、白剣の絶大な切れ味があるぶん、こちらが有利だろう。しかし、戦いはなにがあるかわからない、とよくいう。

 ユウはこれらの景色を離れた丘陵の尾根から眺めており、時折、スレイエス側の斥候に追い立てられたりしながらも、つかず離れず、南軍の様子を窺っていた。

「もうじき公都だな」

「あと十キオほどでしょうか」とタモン。「夕暮れには着きましょう」

「リリアたちは撤退できたかしら?」

「はて、さすがにここからではまったく見えませんからの」

 遠くに、馬を急かせながら近づいてくる青い鎧の影があり、ユウは馬腹を蹴った。丘陵の上を駆け、坂を下り、追手が来ないことを確かめて歩調を緩め、再び丘陵地に登る。と、敵陣が意外に進んでいない。

「どうしたんだろう?」

「野営の準備をしておりますな」とタモンが単眼鏡で敵陣を眺めるのを、ユウも真似する。確かに、荷駄から荷物を降ろし始め、火など起こし始めている。

「ここで野営するのか」とユウは驚いた。「アントワーヌは目と鼻の先だぞ。というか、公都が目前なんだぞ」

「なにか、卑小な我々には窺い知れない深淵ななにかがあるのかもしれませぬ」

「そうだなあ、卑小なおれたちには窺い知れないなにかがあるのかも」

 ユウはふと考えて、

「おれたちもここで野営をするぞ」

「敵の真ん前で?」

「ご冗談を。おれたちはずうっと前から敵の真ん中で寝泊まりしてるよ」

「それもそうですが」

「おいおい、知りたくないのかい、彼らの企むおれたちじゃ窺い知れないなにかを」

「どうやって知るのです?」

「見ていればわかるかもしれないじゃない」

「わかるものですかのう」

 タモンのジジイの目にあからさまな猜疑が浮かんでいる。

「卑小なおまえにはわからん深淵な考えがおれにはあるんだよ」

「そうは思えませんな」

「なにおう」

 などといいながら下馬し、保存食のしょっぱくてかたいパン状の食い物、フィプを噛む。一般的な非常食なのだが、本当にかたい。一口目は歯を立ててかぶりつき、全身の力でもって引き千切り、唾液でふやかしながらガムみたいに噛む。塩味だけで、まったく美味しくなし、顎が疲れる。

「本当は汁にふやかして食うものなのです」

「こんな偵察兵に脅かされながらお湯が沸かせるか」

「リリアさまくらいの腕があれば、ヘリオスフィアひとつでお湯も出せるのですが」

「おまえも学べよ」

「もしかしたら、空中でフィプを煮込むこともできるかもしれませぬ」

「夢だ」

 仕方がないからフィプだけをかじり、引き千切り、口の中で転がす。

 日が没し、空は黒色の背景に星とヘリオスオーブの網目が輝く時刻になった。ユウの背には広大な地面があり、人の気配もずいぶん遠い。夏も暮れかける時節に入り、こうして寝ていて肌に触れる空気が心地良い。そばのヘリオスフィアは淡い光を放ちながら、爽やかな芳香を放っている。虫よけらしい。ヘリオスフィアの表面に塗られた油脂がスフィアの放つ熱で溶かされ、立ち昇る臭いが虫を追いやるそうだ。ユウにいわせると、人でごった返したいまのレイスより、この屋根も壁もない大草原の方がずいぶんと暮らしやすい。

 ごろんと転がると、暗闇の中にさらに黒い丘陵の影がある。

「旦那」と声をかけられて、空を見直す。空しかない。「そろそろ交代の時間ですぞ」

「わかってるよ」と呻いたユウはのそのそと起き上がり、這うようにして傾斜を登ってゆく。丘陵の上まで来ると、隣の丘陵に野営の火が見えた。幕舎などは張らずに、露天のまま過ごしている。

「では、あっしはこれにて」

 ユウはタモンがそそくさと丘陵を降りていくのを見送りもせず、星空を背にした一軍の様相を注視していた。

 特になにがあるわけでもない。

 じきに東の地平が白み、夜が明けてゆく。

 こういう、山岳のない一面の地平線から沸き出す太陽の輝きというのは、日本では味わえないかもしれない感動がある。ただ、夜露に湿った芝が冷たい。風もやや肌に寒い。こういうことがあるから、夏でも外套が手放せない。夜など、地面に敷いて断熱材にもなる。まあ、そういう使い方をしているから、ユウの外套はボロ切れのようになっているが。

 ユウは擦り切れかけた外套の襟をかき寄せ、手を擦り合わせ、視線は這うように傾斜を登ってくるタモンに据えた。

「何事かありましたか?」

「ないね」

「だから本当に野宿するのか、と何度もお伺いしましたのに」

「そういうのを後出しだっていうんだよ。一見無駄に見えても、これは良い結果を得ようとした努力だ。その努力をしたことに価値がある。おれはまたひとつ、努力をできる男に成長したのだ」

「言い訳も結構ですが」

「言い訳じゃない」

「北から人が来ております」

 北を向くと、確かに人馬が三騎、蹄の音を忍ばせるようにしながら来る。ユウはセキトを呼び、逃げ出そうと飛び乗ったが、三騎の様子がどうもおかしい。

「アントワーヌですな」とタモンがいう。「伝令のようです」

 ユウは馬首を返し、彼らを出迎えた。

「今朝、このようなものが」

 手紙が一通届いたという。その判断をユウに仰ぐため、持参したそうだ。

「リリアさま宛ですな」受け取ったタモンはすでに開かれた封書の裏表を見、中をあらためた。タモンの目配せに、伝令の三人は二人の声の聞こえないところまで下がってゆく。「公都のシフ将軍がこちらに内応したいようでございます」

「おやおや、じゃあ、公城は陥落ってことか」

「南軍のフォーク将軍はここまで北上しましたが、北のことは北軍がやるのが分別であるとシフに伝令をやったそうです。要するに、アントワーヌと戦い、その務めを果たせ、というわけですな。そのためにここで駐留しているようです」

「確かに、おれたちが撤退したところで、北軍が一戦も交えなかったとあれば汚名だからな。シフの進退に関わる」

「フォーク将軍は慈悲深いですな」

「それで終わりか?」

「いいえ」とタモンは首を振る。「シフとしてはこのまま公都を守る体を取るが、公城が近く落ちるのは自明だからそののちに公王を捕縛して、投降したい、と。その後の身柄を約束してほしいそうです」

 問題は、とさらに続け、

「フォーク将軍がそうさせないかもしれないということだそうです。古騎士的な男で、公家に忠誠を誓い、誓った上は頑として譲らず。おそらくは公家のために、たった一騎になっても戦い続けるだろう、と。彼らが北上してきたのも、万一のときは武を奮い、レイスを解放し、公家を守るためだといいます」

「公家のために、ねえ」

「こちらはリリアさまからですな」もう一枚の紙片を開く。「真偽のほど定かならぬ情報のため、旦那の決定を待って行動したい、とのことです。全隊は陣を畳んで、いつでも北上できる状態になっている、と」

「どっちも燃やしておけ」

「はいはい」とタモンがヘリオスフィアを発光させると、手紙は炎に包まれて灰となり、風に揉まれて消えていった。

「いかがなさいますか?」

「とりあえず、伝令の三人を呼ぼう」

 ユウは呼び寄せた三人に、

「書状の件、了解したとリリアに伝えておけ。アントワーヌは警戒態勢のまましばらく待機。おれはもう少しここに残る」

 駆けてゆく伝令の三人を見送ったタモンがユウの顔を窺う。

「このお話、信じるので? いくぶんいかがわしいように思われますが」

「どちらにしても、北も南も敵は動かない。なら、もう少し様子を見ていい。じきに公都が陥落するのは事実だし」

「やれやれ、また様子見ですか」タモンは呆れたように首を振り、「では、もうしばらくここで野営ですか」

「いや」とユウも首を振って返す。「フォーク将軍に会いに行こう」


     ○


 フォークは馬に乗って陣内を回っていた。とはいえ、部下の端々まで日頃の調練が行き渡っていて、新兵もおらず、いまさらいうべきこともない。ただ、陣の端の方で、ひとつ騒動が持ち上がっていた。なにか激しい言い合いをしているのが、遠くにいても聞こえてくる。その中心には黒い外套を羽織った青年がいるようだ。

 彼がこちらに目を向けて、驚いた顔をした。

「おや、あれがフォーク将軍でしょう?」と青年がいう。

「頭が高いぞ」と兵が警棒を青年の前にかざす。フォークが片手を挙げて、次の動きを制した。

「何事だ?」

「それが、アントワーヌからの使者を名乗る小僧が来ているのですが、書状もなにも持っていなくて」

「ないけど、そうなんですって」

「アントワーヌは帝国でも指折りの高貴なる御家だ」と兵の一人が胡乱そうにいう。「そんなみすぼらしい恰好の男を使者に寄越すとは到底思えん」

「まあまあ、急ぎの用だったためにこうなのです。あなたたちもわかってたでしょう? 昨日から向こうの方に偵察がいたこと。そのまま野営をしてここに来たもので、身の整えようも、人を選ぶ余裕もなかったのです」

 と、青年は身振り手振り、熱弁をする。その様子を見て、ほう、とフォークはため息をついた。かたく腕を組み、彼の仕草を爪先から頭の天辺まで見遣る。

 この青年の身のこなしや足運び、一介の人ではないことが察せられる。さぞ名のある戦士だろう。身嗜みに気を使わない一流の剣士と考えて、思い当たる人物が一人いた。フォークは組んでいた腕を解き、

「名はなんと申される?」

「さすが、将軍はよくわかってくださる」と彼は手を叩き、「天ノ岐ユウと申します」

 兵がざわつき出す。おそらく、レオーラ大陸の軍人で天ノ岐ユウの名を知らない人間は昨今いない。

「アントワーヌの天ノ岐は白い尾を引く剣を持つという」

「いまはありません。置いてきました。話し合いをするのに武器は必要ありますまい」

「然り」とフォークは頷き、馬を降りて手を差し出した。「アーネスト・フォークと申します。スレイエスの南方軍を任されています」

 ユウはフォークの手を握り、じっと目を見据えてくる。

「お噂はかねがね伺っております。今日はアントワーヌを代表してお話を伺いに参りました」

「拝聴させていただきましょう」

 野営地の奥、幔幕を張り巡らせた中に招き、床几を二つ。人払いをして二人だけがいる。

「して、お話とは?」

「閣下がなんのために戦っているのか、お伺いしたいのです」

「自明のことです。軍とは国家のためにあり、国のために戦うのが軍人です。わたしも軍人の末席に名を連ねる者としてその心積もりでおります」

「国家、というのは人の集合体です」とユウはいう。「以前、アドリアナ陛下が王国民は王国を信じて身を委ね、国民なってくれているのだと説いたそうです。わたしも事実だと思います。しかし、いまのスレイエスの状態はどうでしょう? 民は抗議のために公都に押し寄せている。にも関わらず、公王は一言の弁解もない。わたしはスレイエスが帝国に近づいて、その連合のために戦うというのならそれで良いと思うのです。大衆が間違っていることだって大いにある。ただ、自分の理を説かないことが間違っている。自分に理があると思うのなら、民衆の前で自説を述べ、説得を試みるべきです。これが君たちとその子孫の安寧に繋がるのだと、話すべきです。そうしないのは民の放棄であり、国政の放棄、国の放棄です。放棄しておきながら、国の富と人材を勝手に使う、これは明らかな悪です。あなたが国のために戦う、というのなら、敵は王国でも帝国でもなく、国政を放棄しておきながら国の富を牛耳る者たちではないのですか?」

 フォークはユウをじっと見据える。向こうも目を逸らさず、わずかに笑んだ表情も変えない。

「つまり」とフォークはいう。「わたしに降伏しろ、と?」

「安直にいえば、その通りです」

「報告によれば、アントワーヌは五百に満たないという。我々が全軍をもって攻め上がれば、アントワーヌは苦もなく叩けるだろう。アントワーヌが散れば、公都を囲む民衆の失望も一入だろう。それだけで霧散するかもしれない。貴公らが戦わずして撤退しても同じことが起こるかもしれない」

「その通りです」とユウが素直に認めたことに、フォークは驚いた。軍、というのが自分の弱みを認めることは普通ない。「アントワーヌは南軍に攻め込まれれば、一撃で粉砕されます。南軍でなくとも、レイスにこもる北軍、北に駐屯する各地の砦の兵が集結して襲ってきても危ういでしょう。人民の盾と集合晶術の脅威が辛うじて彼らを押しとどめているだけです。一方のおれたちは戦えば負けることがわかっているので無駄な戦闘の一切をしていません。公都の外に陣を敷くだけにしているのです。おれたちはそれほど強くありません」

 フォークは声を出して笑ってしまった。

「わかっていながらスレイエスに侵攻してきて、レイスの前に駐軍しているのですか」

 なんと無謀で命知らずなことか。

「わたしには愚かな策、としか思えん」

「これしか手段がなかったからしているまでのことです。その意味では、スレイエスの方から侵攻してきていただけたのは良かった。スレイエスに進軍する我々の大義が立つ」

「貴公は、なんのために戦っている?」

 そこまでの危険を冒して、この男はなんのために戦っているのか、それを知りたい。

 ユウは我が意を得たりとばかりに膝を打ち、

「あなたと同じ、アントワーヌのためです」

「それもそうか」とまた笑ってしまう。

「アントワーヌには高貴な者の務めを果たす気高さがあります。当主のリリア・アントワーヌはそれを体現している。人を惹きつける才があり、慈しむ心があり、自己を犠牲にして厭わない勇気と覚悟がある。これを失うのはいかにも惜しい」

 皇帝は、と、ユウはいう。

「この精神を一顧だもしないで消滅させようとしている。おれはその主義とは相容れない。だから争う。ただ、争う前に、百の言葉、万の言葉を尽くし、最善を尽くして、争いは回避したい。争うことで損なわれる人材は人類の未来に対する損失です。最善の努力をせずに未来に負債を残すのは卑劣なやり方です。だからおれは言葉を尽くす。しかし、主義が合わないというのなら、争うこともやぶさかではない。勝つために全力を尽くす。果たして、あなたはどうか? まだ国のために戦うというのなら、国とはなにか、示していただきたい」

 再びにらみ合う沈黙のときが流れ、フォークはおもむろに瞼を閉じた。

「確かに、万の言葉を尽くしていただいた」と、わずかに喉を震わせる。「少し、考えさせていただきたい」


 星の海の下で、一人立っていた。北西の方の地平がわずかに白んでいるのは都にある反徒の、いや、民の総意の輝き、といったところか。

 フォークの頭の中には、天ノ岐ユウの言葉が渦巻いている。

 あの男は颯爽と去っていった。なんという鮮やかな男であろう。春風のようで、また会いたい、と思わせる魅力がある。

「父上」と聞こえた声に振り返ると、セオドアの姿があった。足音を消す様子もなく、丘を登ってくる。「天ノ岐ユウという男、いかがでした?」

「うむ」と、フォークは北に向き直り、「セオドア、おまえの麾下から百騎を選んでおけ」

「百騎、ですか?」

「うむ」

 と、浅く頷いただけで、沈黙している。

 北の空を注視し続けている。


     ○


 太陽は東の地平を赤くして、北を遮る山岳の峰々を淡白な霞の中に青々と浮き立たせていた。緑の匂い、かすかな潮の香り、肌に触れる風は夏を過ぎて柔らかく肌をなぶる。

 ユウは朝焼けに白む南の丘陵を眺めていた。

「王国軍も二個師団、総勢一万八千名が北上してきています」と隣のリリアはいう。風に流れる髪を細い指で押さえながら、視線は南の、中空のどこかに据えられていた。「どうなさいます?」

「フォーク将軍は来ると思うか?」

「来ます」とリリアは頷き、「騎士とは、そういうものですから」

「そういうもの、か」ユウは頭を掻き、「戦いたくないな」

「ユウさんには申し訳ありませんが、決断していただかないといけません」

「行く。行かなければここまでおれたちを連れてきた人々のすべてを無にすることになる」

 ここまで送り出してくれた王国の人々や海賊たちだけではない。リリアが帝国を脱出したときに散っていった無数の命、アントワーヌを信じて力を貸してくれる人々の心。ここでアントワーヌが退けば、スレイエス革命の火は消えて、リリアは信を失い、すべてが無になってゆく。

「おれたちは行くしかない」

 総軍一千にも満たない。正規の軍人といえるのはディクルベルク以来のジェシカ隊と帝国東方から流れてきた騎士の一団であるエイムズ隊、総勢二百五十人余り。残りはロックス率いる農林業隊がおよそ百弱、晶術部隊が五十。あとは実戦に耐えられるのかどうか、定かならぬスレイエスからの志願兵たちが三百人。

 一万八千の王国軍が北上してきている。南軍はそれを押さえるのに忙しいだろう。そこにアントワーヌが参戦したとして、一撃を与えられるかどうか。

 しかし、右でいったように、やらざるを得ない。

 戦況を見、戦術を立て、周到に立ち回れば、集合晶術をぶつけられるかもしれない。

「行こう」

 ユウが南下の一令を発しようとしたとき、

「リリア、ユウ」とジェシカが駆けてきた。「敵に動きがあった」

「どんな?」

「軍勢のほとんどを南に釘付けて、騎馬二百だけが北上してきている。どうやらレイスに向かってるようだ」

「二百か」ユウは眉間にしわを寄せ、「ジェシカ隊とエイムズ隊だけで出る。敵がレイスに入る前に食い止める」

「わかった」とジェシカはうなづいて下がり、

「ユウさん、わたしは?」

「リリアはここにいろ。ロックス隊と志願兵は残していく」

 話している間にも、ジェシカ隊とエイムズ隊の人数が南面に馬首を並べていて、ユウもその一つに紛れようとしている。

「ユウさん」とリリアがついてくる。その背中にロックスとアンジュもいた。

「おれたちは留守番かよ?」

「リリアを守ってやってくれ。なにかあればフォーラントまで下がって海から逃げろ」

「頑張ってくださいね、ユウさん」というアンジュだけがまた気の抜けた笑顔をしている。戦場に立たなくていいことが決まった解放感だろう。戦地に行く人間を見送る顔じゃない。

 すでに騎馬隊は駆け出している。日は白さを増し、空は青さを増してゆく。朝露を含んだ風が肌身をわずかに湿らせている。リリアの戸惑いとロックスの苛立ちももはや遠い。

 もし、フォークが公都に入れば、民衆は人望の厚い彼に道を譲るかもしれず、彼に道を譲られれば公城は簡単に奪還され、そこにくすぶる九千の兵と北に駐留する北軍残存部隊がどう動くかわかったものではない。

 つまり、フォークはこの北上する二百騎の中に間違いなくおり、この二百がレイスに入る前に撃破しなければ、王国とアントワーヌに勝ちはない。

 こういう理由からユウは、迅速に、強力に当たれる人選しかしなかったということだ。晶術部隊は足が遅く、敵騎馬に狙われれば壊滅は間違いない。農作業と土木工事の多いロックスの部隊では練度が低い。騎馬隊というのは、非常な練度が要求される兵科なのだ。戦場を高速で駆けるだけではない。高速で駆けつつ、その高速の中でも前後左右に足並みを揃え、時折陣形を変え、突撃とあれば馬体同士ぶつかるほどの密集隊形を造り、刀槍を掲げる敵に向かってゆく。それも手は武器で塞がる都合、あらゆる作業を手綱を握らずに行う技術が要求される。すべての兵科の中で、最も練度と勇気が試され、その差が最も如実に現れる領域といっても過言ではなかろう。個々人に練度の差があれば、その差は岩石のヒビのように部隊の弱点となり、場合によってはたった一人のミスによって部隊全体が破滅的な被害をこうむり得る。そのため、ロックス隊は置いてこざるを得なかった。

 一秒の遅れが命取りとなるこの戦況において、リリアとロックスに言葉を要す時間は当然惜しく、この点、日ごろ仲違いをしているにも関わらず、指揮官の指示であれば即時に従ったジェシカの方がやはり軍人としての素養がある。

「天ノ岐殿は後方にお下がりください」とエイムズが馬を並べてくる。

「いえ、前に行きます。フォーク将軍がいなければ牽制に終始しますし、いるようなら突撃します。その判断はおれに任せていただければ」

 ジェシカも馬を寄せてきて、

「なにか策があるのか?」

「戦術に奇策はない」

 敵は同数。一万八千から選抜された二百はさぞかし精強だろう。こちらは練度、馬の質でやや劣っているのかもしれないが、勝てる可能性を信じて激突する他ない。

「こういう状況で奇策とか、駆け引きをしようとするから、策士策に溺れるといわれる」

「おまえが真っ当な人間で助かったよ」

「おれになにかあれば、指揮はエイムズさんに。その次はジェシカだ。四番目以降はジェシカに任す。あと二人くらいは決めておけ」

「わかった」とジェシカは頷き、「安心して死ね」

「死なねえよ」

 ジェシカは馬を離し、駆け去っていった。

「あいつはともかく」とユウはエイムズに向き直り、「おれはフォーク将軍一騎を狙います。叩ければ僥倖でしょう。エイムズさんに指揮権が移ったら、敵指揮官に全戦力を投入してください」

「そうならないことをお祈りしています」

 エイムズも敬礼して馬群後方に紛れてゆく。

 ユウは白剣を抜いた。その切っ先が鮮やかな円弧を宙に刻んでいる。セキトの馬腹を蹴り、馬体を加速させてゆく。隊列の前へ。追い越してゆく仲間たちが手を振って応えてくれる。帝国脱出以来の、友人ともいえる男たち。スレイエス越境という大事業で信じ合い、命を預け合った者たち。彼らの先頭を駆け、かざした白剣が朝日を照り返した。

「狙うはフォーク将軍一騎だ。おれに続け」

 うおおおおお、と鬨の声が上がり、熱気が増してゆく。西の地平に点々と見え始めた家並みは公都の外れである。南にある緑の起伏の中に土煙があった。

 来たか。

 自軍のだけではない蹄の音が重なって、空の中で交響をしている。

 アントワーヌ隊は丘陵の尾根を駆けている。下には街道が東西に走り、西は公都に至る。南、二キオ余り離れた丘陵の上に馬の群れが姿を現した。彼らは一分の迷いも見せず、高地の理を捨てて丘陵を下り、街道目掛け、やや西に傾きながら駆けてゆく。その先頭を駆るのは、日に焼けた巨体だった。黒い槍を掲げ、後方もそれに倣い、一心不乱に駆けている。

 樹木の一本もない、大草原の丘陵地、その谷間は幅一キオという、緩やかな起伏を降りれば即激突といっていい狭隘な土地。

 ここが決戦の土地、いまが決戦の時。

 ユウは唾を呑み下し、

「行くぞ」と馬腹を蹴った。敵は南西方向。これを押し潰す。鬨の声とともに、怒涛の覚悟が丘陵を下ってゆく。

 スレイエス軍も馬首を返し、北東へ、こちらの右手を取るように旋回してくる。自然、アントワーヌも敵軍の右手を取るような軌道に入り、さらに旋回行動を取れば両者尻を追いかけるようにしてぐるぐると回るようになるだろう。そのうち、側面を取れるかもしれず、遅れがちな後方を撃滅させることも可能になるかもしれない。が、それは敵にもいえることで、むしろ、敵の方が精強と思われるぶん、巧みにやるだろう。こちらはジリジリと数を削られいずれ戦えなくなるのだ。

 敵最大の弱点はフォーク一人を討たれれば負ける、ということにある、とユウは信じている。戦闘など、指揮官をいかに叩くか、これ一点だけで構成されているといっていい。いま、その弱点が最前線に露出されて、道筋さえ見える。

 惑う理由は己の怯懦以外にない。ここで死ぬつもりなら、フォーク一人討つなど容易い。そのあとで死ぬ。死ぬ覚悟さえできていれば、勝利など容易い。

 ユウは吐息をはいた。全身から力が抜ける。手綱を捨てて、右手から白剣を垂らすように構えた。フォークも黒い、人の腕ほどの太さがあろうかという槍の穂を背に、石突きを前にして、脇の下に抱えるように構えている。その背後は、馬の一頭も乗り入れることもできないほどの密集陣形。無事に抜けるには神がかりが必要になるが、まあ、無事であろうとは思っていない。

 フォークを斬る。それ以外のことはすべて些事。己の生き死にさえも些事。そう思えるようにする訓練を自らに施している。

 スレイエス軍は徐々に軌道を調整し、その先はあからさまなほどユウに据えられている。ユウも単騎、敵に乗り込むつもりで、フォークを斬ることだけを考え、馬首を回す。二百騎がついてくる。

 ぶつかる。

 互いの先頭、二騎が交錯したのはまさに一瞬の出来事だった。先に動いたのはフォークだった。大きくうしろに振りかぶっているにも関わらず、槍穂を振らなかったのだ。石突を突き出してきた。

 その一撃が、敵斬撃をセキトの思うままに任せて躱そうと決めていたユウを驚かせた。馬を無視し、直接自分だけを狙ってきた。咄嗟に振り上げた白剣のしのぎが激しく打たれ、ユウの身体は簡単にセキトの上から弾き飛ばされてしまった。

 その直後、凄まじい迫力をもって、無数の馬体が交錯した。


「父上っ!」

 フォークが先頭の敵と交錯した瞬間、ぐらりと揺らめくのが遠目に見えた。その後どうなったか。普通、両軍四百の騎馬の蹄に揉みしだかれ、ひき肉にもならない肉片に変じるのだろうが、父がそんな無様な死に方をするものか。

 セオドアは騎馬のまま敵陣を抜けて血に濡れた槍を立て、馬首を返した。砂埃が濃く、状況が判然としない。しかし、父を欠いたのは間違いない。味方は健在でありながら、天下無双と信じる父を欠いたことに激しく動揺している。

「我々は南軍だぞ」とセオドアは一喝した。「指揮権はこのわたし、セオドア・フォークに移った。大陸最強の騎馬団の誇りある者は我に続け」

 鬨の声を上げた味方の士気は高い。まだ戦える。

 父は天ノ岐ユウ一人を討ち果たし、レイスに入るつもりだったようだが、果たしてその敵も生きているかどうか。

 薄らいできたもやの向こうに巨大な馬群がある。すでにこちらへ圧力を駆けるように、向かってきている。

「行くぞ、皆の者」

 セオドアは槍を掲げ、その穂先を倒し、白銀の鎧を乗せた騎馬団に向かっていった。

 鋼鉄の悲鳴が南北の丘陵にこだまして響く。


     ○


 奇跡、という他ない。

 ユウの体重が軽かったせいで思いの外遠くへ、主戦場の外側まで飛ばされたのか、多少の傷があるものの、動く分にはまったく問題ない。周辺には人馬ともに遺体が転がり、負傷者が呻き、馬も苦しげに地面を掻いていたりしている。その中でも無事な人間たちは剣を取り、振り、鍔を競り合わせ、しのぎを削り合っている。

 たった一団だけが、疾風を巻くほどの勢いで武を奮い、その疾風が吹き抜けるたびに、鋼鉄を着ているはずの兵の身体が軽々と飛んでゆくのだ。

 その武闘の中心にいた巨漢は、あらかたのアントワーヌ兵を蹴散らすと、自らの大きな図体より長い槍の石突を地面に抉りこませるようにして立ち、やや高所となっている凸地の上から、呼吸も乱さずにユウを見下ろしている。

「手合わせ願えるかな?」

「老体でも手加減はできませんぜ」

 ユウは白剣で相手を透かすように構えた。

「老兵の力、存分に見せて進ぜよう」

 フォークは、槍穂を倒して、脇の下に抱え、その切っ先をユウ一点にひたと据えた。

 気迫。

 全身を痺れさせる圧迫感が風のような確かさで肌身に押し寄せてくる。近づけば殺される、と思わせる力は圧倒的で、正直、恐ろしい。膝が震え、胃が裏返りそうになる。普通なら発狂するだろう。が、おれも戦士。恐ろしいが面白くもある。これほどの力を持つ人間がまだいたのか、と。おれはまだ強くなれる。これを乗り越えて、ヴォルグリッドに近づき、奴も越える。そう、ヴォルグリッドを斬るまで、少なくともそれまでは無限に強くなりたい。

 強く。

「行きます」

 ユウは芝を蹴って駆け出した。彼我の距離、五メートル。完全に槍の間合いの中だろう。

 フォークが上体を旋回させた。

 残念だが、白剣の切断力をもってすればこの世界の鋼鉄は容易に断てる。断つつもりで白剣を上段から振った。が、弾かれた。

 なにが起きたのかわからない。

 傾いだユウの頬を、槍の切っ先が抜けてゆく。風の渦巻く音が遅れて耳朶を叩く。

 彼我の距離、三メートル。フォークは上段に振りかぶり、石突をユウの眼前に、槍穂を自らの後方に、堂々と構え、にやりと笑った。

 ああそうか、と理解した。

 舐められたものだが、舐めていた。フォークの旋回速度がユウの想像を絶したために白剣の打点がズレたのだ。フォークはさらに前がかりになればユウを斬ることも余裕だったろうが、敢えてといっていいほど生かしたとしか思えない。

 舐められている。

 頬から血が流れてくる。そいつを手の甲で拭う。

 足を肩幅に開き、白剣を中段に。足元は傾斜、ほんのわずかにフォークが上にいる。ユウが体重を爪先に持ってゆく。ほんの数メートルの空間に緊張が凝縮されてゆく。

 ユウの大きく踏み出した一歩。

 石突が突き出される。早い。が、軌道は見える。その軌道に白剣に据え、逸らし、体軸を動かせば躱すのは難しくない。しのぎが火花を上げ、押し潰されそうな圧がのしかかって来る。しかし、それだけ。さらに前に進もうと、ユウが前足に体重を預けたときには石突は引き戻されていた。驚異的な速度。こちらが二歩目のモーションに入るときには三撃目も終わり、四撃目に入ろうとしている。右、左、右、と胸元、胴、膝と来る石突を躱して接近、次はこちらの間合い。白剣を倒して胴を狙う。当然、相手は逃げるために下がる、と思う。だが、フォークは踏み込んできて間合いを殺したのだ。

「ちい」とユウは舌を打つ。槍との鍔迫り合い。充分に振れなかった白剣は槍の表面を削っただけ終始した。体重差に押しのけられる。距離は取りたくない。フォークの右手に回り、白剣の柄を抱く。敵の脇腹に刃を忍び込ませようとしたところを、横合いから凄まじい圧力が飛んできた。旋回された槍の柄である。

「ちい」と舌を繰り返すしかない。

 無理せず下がる。押された力に乗るようにして跳ねて下がった。踏み込んでくるフォークの槍が烈しく旋回運動を繰り返している。上段から、横合いから、左右、袈裟、自在に襲いかかってくる。踊るように、槍の柄を背中に回し、肩にかけ、力をためて梃子を繰るようにした打ち込みは地を叩き、軽い地震すら起こす。

 ユウの方から全く打ち込めない。むしろ、いままでフォークの攻撃をしのいでいるのを褒めてほしい。

 間合いに踏み込み、白剣を振る。槍の柄を削り、しのぎで火花を散らし、しかし、全く決定打というには遠い。

 穂先の刺突を二、三度白剣に受け、四度目を上げた足裏の下にやり過ごし、旋回してくる槍柄のやや高くなったのを屈んで躱し、ユウは一歩前へ、白剣を突き出す。ぬるい。敵の手甲と火花を上げて表面を削いだだけで、空を斬る。

 しかしまだ。

 すぐさま体勢を立て直したユウは、槍を胸元で斜めにしたままうしろにたたらを踏んだフォークへ、小手打ち。したつもりが、フォークの踏み込みの方がやや早い。打点がズレる。白剣はフォークの肘を軽く打っただけで、鎧の破壊もできていない。鍔を押し退けられたユウは二歩下がる。再びフォークのペースに呑まれてゆく。

 強い。

 躱しつつ、接近し、再び機会を窺う。フォークも生半な攻撃ではユウを仕留めきれないと察し、牽制に近い打込をしただけで機を窺っている。

 隙を見て、一撃、二撃、ユウは打ち込んでゆく。当然、決定打には遠い。しかし、戦えているという手応えはある。攻撃の機会が増えていると思え。あとは精神力の戦いだ。


     ○


 兵がざわついている。

 白い軌跡を宙に刻みなが舞うアントワーヌの剣士とスレイエス史上最高の武と謳われる戦士の決闘に。白兵戦を交えていた兵たちは敵と合わせていた鍔から力が抜け、戦場を捉えた目は二人を捉えて離せなくなり、馬も二人から放たれる圧に歩みを緩め、戦いの中心を注視して、すでにアントワーヌもスレイエスも、戦場を駆けるのを止めてしまっていた。

「いったいどういう男なんだ」

 セオドアは兜を脱ぎ、馬首を激戦に向けた。アントワーヌ騎馬隊は遠い。彼らの馬も動かなくなってしまったのだろう。全くこちらに来る気配がない。セオドアはゆるゆると馬を歩ませ、戦地へと向かった。

 大陸三傑といわれる英雄たちは大国に属するために名が売れているだけで、実際に武を交えれば、父の槍と戦える人間がいるとは思えなかった。今日、このときまで。

「こんな男が他にいるのか」

 南軍の訓練なら、父の打ち込みを三度耐えられれば誇っていい。セオドアでも五度はもたない。それを、アントワーヌの剣雄は数十とやり過ごし、短い得物で打ち込んですらいる。スレイエス内ではちょっと信じられないことだ。

「三傑というのは、これほど強いのか」

 アントワーヌの天ノ岐ユウは三傑に並ぶ、といわれている。世界の武というのは、これほどの領域に達しているのだ。全身を震わせずにはいられない。戦士であれば。この決闘を目にすることのできた幸運に。

 セオドアは馬上、腕を組んで二人の決戦を注視している。この戦場にいる誰もがそうだった。アントワーヌも静々と近づいてきて、決闘を見つめている。そうだろう。戦士であれば、この決闘は見逃せないし、目が離せない。戦場の誰もが固唾を呑んで、決闘の行く末を傍観している。


     ○


 汗が散る。

 白剣の柄が湿り、その湿り気が柄に巻いた布の中に染みていくのも手のうちに感じる。振り抜かれる槍からも水滴が散ってくる。フォークの四角い顎から流れる汗のきらめきも手に取るように見える。

 ふとした拍子に攻撃が途切れ、足が止まり、ユウも息が切れているのを実感した。それは敵も同じ。思い出したように打ち込まれる打撃に、ユウも反応して反撃を仕掛ける。

 すでにずいぶんと長い時間戦っている。一時間や二時間、いや、もしかしたらまだ二、三分経っていないかもしれない。精神力だ。諦めた方が負ける。

 袈裟からの打ち込み。屈んで躱す。踏み込み、胴貫。浅い。鎧の表面を撫でただけだ。槍穂の刺突。一歩、二歩と下がる。外套の、二の腕のところに切り込みが入る。一、二、三、刺突をさばき、間合いを詰めようとして、相手が下がり、こちらも下がり、白剣は中段、やや右に傾けて構え、相手は槍の最上段、じりじりと間合いを図り合い、どちらともなく踏み込み、しのぎを削る。

 終わらない。

 これほど強い相手と長時間刃を重ねるのは未知への挑戦。まだ生きている。両者、生きている。攻撃の手が止まる。呼吸が浅いのを知って、意識的に深呼吸する。その合間に打ち込みを繰り出される。戦いが続いてゆく。

 ユウの足が千鳥を踏んだ。ハッとして、かざした白剣が石突に激しく叩かれた。身体が浮いたものの、体勢を崩すほどではない。両足で地面をつかみ、白剣は正常に中段から敵に据えられている。狂いはない。ないはずだ。が、内奥に疑心が生じたことも否めない。

 限界。

 己の限界が近いのをユウは知った。

 あと、何度攻撃をかわせるか。敵も精度は落ちてきている。疲労は見える。飛び込め、敵の間合いに。接近して、斬れ。

 白剣を中段に、やや右に傾けて構えた。槍穂をうしろに、最上段に構えたフォークがじりじりと来る。その凄まじいほどの闘志。じり、とユウの足がわずかに下がった。

 ダメだ、と察したユウは眉をひそめ、白剣を鞘に納めた。何事か、とフォークもほんのわずかに眉を上げる。しかし、構えは解かない。ユウも諦めたわけではない。腰を落とし、片膝をついて、左手で鞘を支え、右手は柄に。

 天ノ岐流の奥義の中に、決戦の居合、という技がある。一対一の決戦に際し、敢えてあらゆる抵抗を止め、敵を引き寄せ、間合いの極限まで詰め寄らせ、一撃を打ち込ませて、その一撃をかわし、踏み込んで必倒の一撃を見舞う。要するに、後の先を極める。

 実戦においては先手は必勝。勝利のコツというのは、初手を取り、取った以上は力押しに押せ、と、宮本武蔵はいい、あらゆる剣客が初手は命という。初手を取るということは攻撃回数が多くなるということだし、その初手でわずかでも傷を与えられれば相手は本領を発揮できなくなる。実戦の基本は初手にある。

 決戦の居合はそれを捨て、以降、防御の一切をしない。ただかわして、限界まで近づき、斬る、ということに奥義がある。

 七割は初手を失った使用者が死に、三割は勝つ、といったところだろう。どちらにせよ、敵味方ともに絶好の好機、ここぞという一撃を使ってくるだろう。どちらかが死ぬ。そのため、戦いを決する居合、決戦の居合、と呼ばれている。

 普通なら使わない。ユウもこの技は嫌っている。しかし、いま、このタイミングならこれしかない。ここまでの長期戦、ユウは幾度となくフォークの攻撃をかわしてきている。白剣を盾にしてきたとはいえ、間合い、速度、威力、圧。そのすべてを肌身に刻んだと信じる。そして、もはや自分の肉体は限界ときている。

 もう一度、避けることはできる。むしろ、一度しかできないといっていい。一度だけなら、敵の渾身の一撃をかわそう。その先に勝利を掴もう。

 ユウは薄く目を開けたまま、呼吸も定かならぬほど浅く、フォークの顔をじっと見つめている。フォークもこちらの意図を察したのか、一度構えを解き、左足を大きく踏み出した。ど、と鳴った激しい足音に世界が揺れる。続けて、槍穂を前にして柄を脇の下に据え、照準を緩やかにユウの喉元から背骨の線に置いた。表情の筋肉一つ動かさず、その時を測っている。ユウは全身、微動としない。

 初秋の日差しはよほど高くなり、地上の影をずいぶんと小さくした。雲は小さく高く、時折日を遮っては地上をわずかに暗くする。それでも気温は上がり、蹄に踏みしだかれた緑の匂いは濃さを増し、吹き抜ける風が血と鉄の匂いをさらってゆく。

 ちちち、と虫が鳴いている。踏み荒らされた芝生の中で、すべてのことから超然としたように鳴いている。その横で、誰かが生唾を呑み下す。

 ぱ、と芝の中から虫が飛び上がって、芝生の上に黒い小さな影を落とした。

 槍先が動く。

 白剣がきらめく。

 二つの影が交錯し、槍を地に突き立てた男の背後で、白剣が残心を斬った。か、と音を立てて鞘に収まるのと、巨漢が槍の柄にしなだれかかるのと、ほとんど同時だった。

「うおおおおおおおおおおお」

 群衆から歓声が鳴り、青空を揺らした。その中を、下馬して走る男が一人。

「父上っ!」

 地から抜けた倒れる槍とともに崩折れたフォークの上体を抱えたのはユウだった。

「父上」

 駆け寄ってきたセオドアに、ユウは父の顔を見せる。息子は父の震える手を取り、父は震える声でいう。

「セオドア、軍を退かせろ」

「かしこまりました」というセオドアの声も震えている。

「あとは天ノ岐殿の指示に従え」

「はい」と潤む瞳を父に据えて離さない。フォークはもはや動きがたくなった首を回してユウを見、

「天ノ岐殿、兵たちのこと、よろしいか?」

「はい。お任せください」

「どうか、この老体に免じて、陛下のことも……」

「はい。わかっております」

「そうか」と呟き、あとは満足そうに空を見上げた。このころには鬨の声も収まっていて、しんとした空気だけがある。

「感謝、を……」

 呟いたきり、スレイエス最強の戦士は息を引き取った。


     ○


 以下のことは、ディクルベルクにいるカレンの下へ届けられた報告に依る。

 彼女の放った偵察はノルン山脈の道なき道を越え、スレイエス入りを果たした。北辺は民衆の蜂起と兵の指示系統の乱れによって混沌としていたという。数人の偵察は民衆に紛れたまま各地に散り、一人が公都の地を踏んだ。そのころ、公都東郊ではアントワーヌとスレイエス南軍が衝突しており、都内では公城の第四門が民衆によって破壊され、前庭は人いきれに埋め尽くされていた。

「公王を探せ」

「見つけて殺せ」

「叩き殺せ」

 手に手に角材、棍棒、鉈などを持ち、厩舎、兵舎、武器庫を破り、藪の中に隠れていた北軍兵を引きずり出して滅多打ちにしたりしていた。ついに宮廷の中央入口も破壊され、四方の窓もぶち壊されて、一階は人が入り乱れ、正面広間は市民がすし詰めという状況になった。そこにある大階段の上段、二階踊り場に数人の兵がいた。その中央にいる肥満気味の男が、北軍を統べるシフ将軍だった。

「諸君、どうか聞いていただきたい」とシフ将軍は左右の兵に槍を持たせ、階段を登って来ようとする市民たちを牽制している。「我々はアントワーヌに降伏する旨、書状を出した。元公王もこうして捕縛し、彼らの手に委ねるつもりでいる」

 シフの足元には荒縄でがんじがらめにされた元公王が泣きべそをかきながら転がっていた。その背をシフは爪先で突くようにして、

「どうか、これ以上の荒事は避けていただきたい。建屋の損壊はその補修に君たちの税金を使うことになる。無駄なことだと思わないか?」

「公王を寄越せ。公王を寄越せば帰る」

「敗戦国の首長は戦勝国の法で裁かれるべきだ。君たちが私怨で裁いていい法はどこにもない。スレイエス国民が公王を裁くというのなら、それも公国法に則ってやるべきであり、君たちのような武器を持って城門を破壊すような集団に渡すべきではない」

「負け犬が口ごたえをするか」

「貴様も打ち殺すぞ」

「我々は法を守る義務がある。この、元公王は法によって守られている。守られているなら、我々も守らなければならない。君たちが来るというのなら仕方がない。無駄な血を流すことになるか」

 シフが片手を上げると左右の廊下から兵が湧き出し、大階段状に槍衾を形成させる。さらに欄干に弓兵を並べ、矢を引き絞らせている。

 じりじりと、武器を構えながら一段ずつ階段を登る民衆たち。牽制するように槍穂が彼らの前にちらついている。

「止めなさい」と後方で叫ぶ、少女の声がする。「お待ち下さい、双方武器を収めてください」

 下馬したリリアは左右に数十人の兵を従え、その威光に怯えたように人々は左右に分かれて、道を譲る。段上のシフを始め、スレイエスの兵も槍を立てて、片膝を突いた。

「スレイエス国民の皆さま、このたびの戦いは皆さまの勝利です。以降、この土地は皆さまのものとなることでしょう。どうか、いまはそのことで満足してください。いずれ王国からに使者が来て、代表の方と話し合われることでしょう。それまではどうか、ご自愛ください。これ以上、この美しい国を血で汚す必要はまったくございません」

 民草は目を見交わし、頭を掻き、すっかり興奮は収まってしまったようだ。ただ、立ち尽くして、人垣で出来上がった道の間を堂々と歩くリリアの姿を見送っている。

「シフ将軍閣下。公城の守備、まことにご苦労でございました」

「もったいなきお言葉でございます」

「手数をかけますが、これよりウラカ大城塞に赴き、コルト侯へ降伏の旨、伝えてきていただけませんか?」

「かしこまりました」

 そこでシフは左右の兵に目配せをして下階に降り、屋敷を出ていった。さて、とリリアはいう。

「この者の拘束を解きなさい」と足元の元公王を指さした。背後にいたアインスたちの手で縄が解かれると、元公王はその枯れ枝のような身体を大儀そうに折り畳んで、床に額をこすりつけた。

「アントワーヌ閣下、貴殿の御慈悲に深く感謝いたします。このたびのこと、帝国にたぶらかされてしたまでのことであり、わたくしとしては王国とアドリアナ陛下に刃を向けるつもりは毛頭なく、ましてやアントワーヌ閣下におかれましては古くから噂を聞き及んで、友人のように思っており、敵対するなど甚だ思いもよらず……」

 しばらくの沈黙が流れ、リリアはその間にこぼれた髪を耳にかけた。

「もうおっしゃりたいことはございませんか?」

「いえ、なにとぞ、命だけは。このたびのことはなにかの手違いでして」

「ふう」とため息をついたリリアが、なにかしら命令しようとしたとき、また新しい人影が邸門に現れた。

 黒い外套の青年である。天ノ岐ユウだと、この偵察は一目でわかった。この偵察はアントワーヌ追撃戦にも参加していて、天ノ岐の顔や立ち姿を知っている。

 民衆たちはただ漠然と、彼の背中を眺めていた。彼を誰と理解しているわけではないが、彼から放たれる異様な雰囲気に、縮こまるしかなかったのではないか、ともいう。大型獣を前にした小動物のように、本能的に縮こまったのではないか、と。

 外套を翻して足早に階段を登った彼はおもむろに白剣を抜いたという。

「ユウさん」とリリア・アントワーヌが駆け寄ろうとしたが、彼の目を見て、息を呑んだまま、数歩下がったという。

 白剣はすでに元公王の肉の薄い首元に吸い付いて、彼の咽に呼吸することすら許さない。刃を擦り上げて、顎の血管を薄く裂いた。

「貴様」と天ノ岐ユウの冷たい声がいう。「殺しはしない。おまえの命はフォーク将軍が拾ったものと思え」

 白剣は円弧を描いて鞘に収まり、天ノ岐ユウは踵を返している。二人の兵を引き連れて出て行ってしまった。その間、数セコンといったところだろう。場の空気が浮き立つほどに軽くなり、民衆には安堵感すらあったという。もう闘争の気配は完全に散っていた。一個の怪物を前にして命拾いした、という安心の気持ちの方が彼らの中に充満したからだろうと、この偵察はいう。彼にしても同様だったらしい。暗殺など思いもしなかった、という。ただ、元公王だけが嗚咽混じりに泣いていた。

 リリア・アントワーヌはまたため息を一つ、

「地下に牢がありますか?」

 スレイエス兵はリリアに視線を向けられ、姿勢を正し、

「ございます」

「では、この者を放り込んでおいてください。二度とわたしの目につかぬように。いずれ王国軍に引き渡します」

「はい」と頷いたスレイエス兵は泣き崩れて動かなくなった男の体を手際よく縛り上げて引きずっていった。

「皆さま」とリリアは民衆に向き直り、「今日のところは、どうかお引き取りくださいませ。遠くから来られた方もいらっしゃるでしょう。郊外の方に、多くはありませんが、幕舎と炊き出しの準備をさせております。帰りのための資金もわずかですがお渡しできるかもしれません。どうか、今日のところはお引き取りください」

 戦う目的を達し、戦意を失った民衆たちは、憑き物が落ちたように従順に退邸していったという。偵察のこの男も紛れるものを失って、これ以上のアントワーヌの偵察が出来ずに帰還したという。

「天ノ岐ユウは公王を殺さなかったか」とカレンは笑い、「意外と寛大だな」

「そうではないでしょう」と偵察の男はいう。「おそらく、フォーク将軍が殺さないでくれと言い残したのでしょう。彼一人なら間違いなく殺していました」

「そういうふうに見えたか」

「はい」

 ほとんど二人だけで話している。アルフレッドは隣で腕を組んだまま、沈思していた。

「どうした、アルフレッド?」とカレンが問う。「なにか思うところがあったか?」

「いえ、どう、ということもないのですが」

 アルフレッドは噛むようにいう。

 エドワードは彼と同等か、彼以上の激情の持ち主と対峙しなくてはならないのかもしれない。


     ○


 ユウは緑の起伏の上にいて、彼我の埋葬作業を眺めている。

 土饅頭と枝を折って作った重ね十字の数は数えるに堪えない。薄闇を帯び始めた空の下では、無限の広がりをもって見える墓標の列であった。

「どうしたんだ、そんな沈んで」ジェシカが隣に腰を降ろし、無造作に芝の数本を引き千切った。緑に濡れた指の香りをわずかに嗅ぎ、密やかな風に乗せて飛ばしている。「おまえらしくないじゃないか」

「ジェシカのいうところのおれらしさは皆目検討もつかないけれど」とユウは薄く笑い、「リリアをエイムズさんに任せるなんて、おまえらしくもないな」

「たまにはいいだろう? あっちの兵はリリアに近づくことも少ないから」

「おまえにしてはずいぶんと思慮深いことを」

「悪かったな、いっつも思慮に欠けてて」

 夕焼けの空を背負いながら、夜の始まりを眺めている。徐々に寒が増してゆく。

「情けない戦いをした」とユウは呟いた。ジェシカはその横顔を静かに窺う。

「将軍が降伏してくれさえすれば、これほどの犠牲を出さずに済んだものを」とユウはいう。

 騎馬隊による幾度かの衝突によって、アントワーヌも二十に及ぶ死者を出していた。常備兵の一割に近く、なによりユウに堪えたのは、その多くが帝国脱出以来からの同士だったことだ。ユウ自身が剣を教え、共に冬季の北方荒野を駆け抜けて、帝国国境を脱し、新しいアントワーヌ領を整えた同士たちが少なくない犠牲になってしまった。帝国脱出時、ノルン峠戦以来、最大の犠牲である。

「どうして将軍は降伏してくれなかったのか」

 戦う意味など絶対になかった。こちらに理があったと信じている。いまのスレイエスと公王を守る価値などなかったはずだ。

「おまえ、本気でいってるのか?」とジェシカが眉をひそめていた。「例え、リリアがどうしようもないバカに育ってたとしても、わたしはあの子のための命を賭ける。ディクルベルグから、わたしたちはずっとそうやってきた」

 ユウは目を見開いたものの、すぐに細め、そうだな、とわずかに笑んだ。

「そうかもしれない」

 ユウは抱えた膝の間に顔を埋め、頬から落ちる雫が大地を濡らす音を聞いた。

 刻々と、夜の帳が落ちてくる。

                                   了


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