第四巻 剣乱編 四章 天嶮の彼方で
四章 天嶮の彼方で
ラピオラナ山脈。
レオーラ大陸東部にあり、大陸を南北に縦断する大山脈である。天ノ岐ユウ、エドワード、ジャック、三人の運命が交錯しているこの当時、山脈の北は帝国―アンガス国境であり、南はウッドランドーヘリオス教会領国境も成している。
峰々の標高は平均にしておよそ三千メータ前後であり、高いもので六千メータほどあり、山の頂は冠雪して、夏になっても融解しない、いわゆる万年雪がある。万年雪は動き始めると氷河と呼ばれる。万年雪と氷河の違いは、動いているか、いないか、だけである。ラピオラナ山脈には氷河もあり、万年雪もある。
南は比較的標高も低く、およそ二千メータ前後の峰々が縦横に乱立し、豊かな植生を見せている。低地には広葉樹をふんだんに抱き、高所には低木、草花、シダ類などの高山植物を茂らせて、ラピオラナ固有種は非常に多い。こういった高地に固有の植物が多いというのは、星の温暖期に寒冷地でしか生息できない植物が山麓の上部へ避難したためだ。避難した植物たちは他山との交雑がなくなり、その山の固有種となる。気温が低下するに従って低地に移動し、花を咲かせたりする。日本においては、那須や北上山地の固有種も同様の歴史を辿っている。
北へ歩みを進めるに従って、わずかに高山の数が増える。およそ、見渡して望める山頂の数々は三千メータと少しといった高さが一般であろう。植生は麓に針葉樹や苔を生やし、高地に至ると植生はなくなり、礫地帯となる。森林限界というものだ。高地に適応しているはずの高山植物ですら生活が困難となる。当然、北に向かえば寒くなり、寒くなれば植物が生きることも困難となり、森林限界は低くなる。南北の同じ高さを比べても、北方は明らかに植物の数は少ない。帝国―アンガス国境は針葉樹帯を越えると、ほとんど礫地帯である。
こういう山々の隙間を縦走してゆくのがレオーラ大陸東部の国境越えである。登山道、というものはない。あれは山屋の方々が善意で整えてくださっているもので、戦雲渦巻くレオーラの地に、真っ当な登山道を築こうとする者は、ほぼない、と思ってくれて構わない。
よって旅人たちは獣も通れるか知れぬ道に足を踏み入れ、斜面を登り、下り、谷を越えて、岩壁を登り、また下り、ほとんど這うようにして、このレオーラの天井を切り抜けてゆく。登山技術のまだまだ未達なこの時代、ラピオラナ山脈の六割方は前人未到の地でもある。
ウッドランドの西、ラピオラナ山脈を越えるとヘリオス教会領であり、ヘリオス教徒の巡礼地である。この地は湿潤にして緑も豊富で温かく、果てしないほどの海がどこまでも、どこまでも、広がって尽きることのない南洋の楽園である。寒風吹きすさぶ二千メータ級の山々を越えてきた巡礼者たちは地獄の苦行を乗り越えたことと、生きていることに感謝を捧げ、この奇跡ともいえる自然の恩恵に涙するともいう。その快感のために巡礼者はあとを断たないのかもしれない。
やや長めに、この大山脈の景観について触れたのには意味がある。
いま、西方貴族征伐を終えたエドワードはこのレオーラの天井を越えて、アンガス王国領へ侵攻しようとしている。
○
空は曇天、雪がちらつき、冠雪した峰々の様子を見えにくくしている。
エドワードは礫地帯の只中に立ち、傾斜の下、盆地の中に屹立した独立峰とも見紛うばかりの山体を傍観していた。流れの速い綿雲はその尖峰に触れて斬り裂かれ、裂かれたことにも気づかないように流れてゆく。
「あれがラピオラナ要塞であります」と帝国第一師団の将、ボイドがいう。総髪の、壮年の男だ。細身だが、身長はエドワードに劣らないどころかやや高く、筋肉は厚く、面長の顔は日に焼けて、いかにも武働きをする男の顔である。すでに習慣と化したのだろう皺の跡をまた深々と抉って、彼は要塞と呼ぶ施設をひたと眺めていた。
別に、なにか建物があるわけではない。ラピオラナ要塞とは、礫の転がる盆地中の山、そのもののことをいう。
「ご覧になったことはおありでしたか?」
「いや、ない。父は何度か攻めていたようだが」
「三度です」とボイドはいう。「三度、包囲しては火の出るような勢いで攻め立てましたが、そのすべてに耐え忍んだ、大陸一の大要塞ともいわれています。高さはおよそ六百メータ、外周は数十キオにも及びます。要所に洞穴を掘って、兵を入れ、洞穴を中で繋げて連携されており、麓には石垣が設けられて、その合間を行く道は急峻にして狭隘。侵入は容易ではありません。なによりの問題は、その硬さでしょう。頑健な岩盤が露出した山肌で、父君の集合晶術をもってしても表面を削るのがせいぜいでした。中の連絡路に影響を与えたかどうか。どちらにせよ、決定的な一打にはなり得ませんでした」
「穴を掘るのは、さぞ骨が折れただろうな」とエドワードは大要塞の礫の散らばる斜面、はたまた頂点にある白雪を眺めながら感心している。「父を退けたこと、ここまでの普請をしたこと、敵ながらあっぱれという他ない」
「その通りかと存じます」
「敵兵の様子は?」
「敵は籠城を決めたようです。東方平野には敵の増援が窺えます。十日の内には麓を囲うように布陣されることでしょう。わが軍は背後に帝国の寒波を背負い、内にはラピオラナ要塞、前にはアンガス本国からの増援を迎え、味方の中には浮足立っている者もいるようですが、おおむね士気は安定しているかと」
二人の足下、ラピオラナ大要塞の周囲は急峻な斜面に囲われていた。氷河によって削り取られたのだろうことがわかる。いわゆるU字谷だ。ラピオラナ大要塞として改造されたこの巨大な山体は、複数の氷河がぶつかった隙間に残った岩塊、いわゆる氷食尖峰だろう。特徴として、鋭い刃のような山頂を持つ。ラピオラナ大要塞はその典型だった。地球でいうと、剣岳やマッターホルンなど。
そのU字谷を、いまは白っぽい土砂が埋めて、幅広の平地を形成している。安山岩や花崗岩など、火成岩の礫と砂の集積だ。南には柱状節理の断崖絶壁が屏風のような壁になって一峰を成しているため、過去に大きな火山活動があったことが容易に想像できる。ユウなら想像していただろう。エドワードにはそこまでの地質学知識がない。ないが、あったところで、エドワードが考案したこのたびの作戦には一個の益もなかっただろう。
敵が打って出てくれば、下の平野は主戦場になるはずだ。エドワードのいる中腹から、大要塞の裾野、アンガス兵が設営した乱杭や柵、積み石などの防御施設まで二、三キオほどもあるだろうか。充分に刀槍を交えるだけの幅がある。およそそれだけの幅がある平野が大城塞のぐるりを囲っているのだが、いまは四万の帝国兵があちらこちらに点在していて、土木工事を行っている。穴を掘り、側道にし、柵を巡らし、近くの山肌から切り出した石を壁のようにして並べてゆく。まるで大要塞全体を囲うように罠を張り巡らせているふうだが、見ようによっては大要塞の外殻を強化しているようにも見える。
時折、思い出したように白煙が上がるのはアンガス側が帝国の工事を妨害しようと仕掛けてきているらしい。が、敵味方ともに本格的にぶつかる気がなく、出会ってはにらみ合い、剣も抜かずに退がる程度の小競り合いが、集まっては散り、集まっては散り、餌に群がる小鳥のように繰り返していた。あまりに工作範囲が長大なために、一度工作したところに帝国兵が駐在していないこともあり、これをアンガス兵が攻撃して破損させることもあった。
「しかし、工事はおおむね順調です」とボイドは皇帝に報じる。
「うむ」とエドワードは頷いて、「なんとしても落とす。この国境と東の王家を」
○
さて、大要塞の南面に柱状節理の絶壁がある、とさらりと触れた。溶岩が噴き出して固まり、似たようなひび割れを連続させた地形を節理と呼ぶ。同一組成の溶岩が固化、収縮する際、同一の形、収縮率で一定範囲毎に固化するため、同じ形状が連続するのだが、それはいい。この壁が五、六十メータ近くそそり立っている。大体、十階建てのビルが建っているようなものだ。屏風岩の奥行きは別の山体と一つになっていて、大要塞のある平野部から登攀するのは至難の業だっただろう。その屋上に人の影がある。だが、伏せているため、下方の帝国兵が勘付くのは、これも至難の業だっただろう。
「あのねえ、キドちゃん」とケイティは顔をしかめた。ほとんど顔面の全部を布で覆っているから、そのしかめた眉間と目元しか表に現れておらず、かろうじて、しかめた、ということがわかる。「この寒さ、なんとかなりませんか?」
「ならん。じっとしてろ」
「してたら死にますわな」
普段ならにゃーにゃーと喧しく愚痴とも悲鳴ともつかない戯言を大声でのたまうところなのだが、今日はさすがに自分の立場をわきまえているのだろう、着ぶくれして丸くなった体を大儀そうにうずくまらせるだけでなにもいわなかった。
ジャックは双眼鏡を目に当てて、帝国軍の動きを仔細に観察していた。観察していたが、いつまで経っても彼らの意図がわからない。
「帝国軍はなにをしている?」
「なにって、堀でも掘ってるんでしょうよ」とケイティはさも当然のように応える。「要塞から打って出てこられたら防御がなにもないじゃない」
「いつか要塞側から攻めてくるとでも思っているのか?、むしろ、攻めてきてくれた方が彼らにとっては有利だろう」
天嶮の要害を捨ててくれるなら、これほどうれしいことはない。
「他になにかないか?」
「他?」と何重にも厚手の布を巻きつけてほぼ曲がらなくなった首をほんのわずかに傾げ、「塹壕じゃない? 上からの弓とかを避けるわけ」
「ないな。この標高、この季節じゃ弓は役に立たない」外套がはためいて鳴るほどの風が常に吹いている。季節が進めばさらに強くなるだろう。「溝が要塞に向かってないのも不自然だ。進軍用のものではない」
周囲を囲うように掘られ、ケイティがいったように堀に見える。
「だから堀だっていったんじゃないの、最初に」
「わからん」とジャックは双眼鏡を首に垂らし、「戻るぞ」
屈んだまま、足早に動き始めた。
「ああん、待ってよう。もう足の血が止まって動かない」
ケイティが転がるようについてくる。はああ、痺れた、動かない、足が死んだ、わたしも死ぬかも、と、こまめにうるさい。
途中、十人ばかりのウッドランドの軍服姿と合流し、さらに南へ足をのばす。先にあるのはウッドランド軍の野営地である。低木に紛れるような幕舎を張り、一方では岩の影にひっそりと張られた幕舎もある。そうこうしながら、千人の人数がこの一帯に募って、左右の地形、帝国軍の動向を調査し続けている。
「帝国軍の本陣はラピオラナ要塞西側に固定されたようです」と一人が報告する。また別の一人は、
「新たに要塞の西側に降りられそうな道を発見しました。まだ予備調査が必要ですが」
「よし」とジャックは頷いた。「地図に印を打っておけ。それと時間が限られるようになった。西側の調査に人を割こう」
向こうでは炊き出しを行い、向こうでは武器の手入れをし、また向こうでは刀槍の稽古をしている。火の使用は煙を上げるため厳禁で、煮炊きのみ、ヘリオスフィアの発する熱を用いて行われている。細いながらも補給線が確立され、兵糧の心配もなく、本格的な降雪があるまでは耐えられる。なにより幸いなことは、近くに温泉が湧くことである。温かな湯は、浸るだけで体が弛緩し、争乱を前にした兵の神経を和らげてくれる。
余談だが、ジャックはもっと前線に宿営地を作ろうとした。しかし、ケイティが譲らなかった。
「ここを宿営地にすべきです」と言い張った。「敵に近づきすぎれば感知される恐れもあり、我々の探索も後方にあって、より広範にすべきであります。進路のみならず、退路の確保を入念に行い、仕掛けの時期を測るより、進退の確保と生存にこそ万全を期すべきです」
などと理路整然いってのけていた。
ジャックの下に五人の隊長格がいるが、その誰もが反論の余地もなく、ケイティの案に一決した。一千の人数が協力して幕舎を張り始めたときにはケイティはその場を外れていて、すでに温泉の中にあった。周囲を木塀で囲い、そこから出ようとしなかった辺り、彼女の魂胆が窺えるというものだ。
この日にしても、宿営地に帰るなり肩に手拭を引っ掛けて、
「覗いたら殺すからね」と唸り声をあげてから礫の転がる道を下っていった。
「覗くわけがあるか」
その背中に投げつけたジャックは中央の一際大きな幕舎の入り口をまくった。司令部に使っている幕舎である。中には一枚の大判の木板が立てられていて、ラピオラナ大要塞以南の地形が詳細なまでに記載されている。この屏風岩の周辺、特に西部には十にも及ぶ赤丸が記されていて、そのすべてが下山可能と思われる壁面の位置である。その丸が、また一つ増えた。
すでに読者諸賢はお察しのことと思うが、ジャックはこの高地に潜み、エドワードの本陣を強襲しようとしている。
帝国とアンガスは遥か昔からの仇敵同士であり、隙を見せれば侵略し合う仲であり、帝国が南方へ外征するにしても背後のアンガスを黙らせてからでなくては何事も始まらないことはわかり切っている。まず、その主力をもってアンガスを粉砕する。ウッドランドはラピオラナ山脈があるために、アンガスの支援はままならない。せいぜい、ウッドランドー帝国国境を脅かす程度のことしかできないというのがこの時代の常識だった。それをジャックは打ち破った。ラピオラナ山脈の調査を徹底させた結果、この山脈を縦走してラピオラナ要塞まで到達できるルートを構築したのだ。目的は、エドワードの暗殺にある。その指示を出したのが、なんとキンケイドが息を引き取った翌月、彼がキンケイドの称号を継いで初めて下した指令がこれだった。以降、数年間かけて調べ続けている。
アンガスと戦う上でラピオラナ要塞は欠かすことのできない要地であり、帝国が足止めを食らうのはわかっている。よほどの長期戦になるのもわかっている。ジャックはその間に、帝国軍に気づかれることなく、その背後を取り、エドワードを見つけ、突き殺せばいい。皇帝の覇道は潰えることとなる。
建国当初からこのラピオラナ山脈の西面を領地としてきたウッドランドと、前帝ヘンドリッヒ期にアンガスとの国境争奪戦勝利によってようやくこの山岳地帯に足を踏み入れた帝国とでは、山に対する知識量と慣れ親しんだ人民の数が違う。ウッドランド人の方が圧倒的に山慣れした人間の数が多い。
この作戦において、その差が大きく響いた。帝国人に登攀不可能と見えた壁面も、ウッドランド人は苦もなく登れる。
帝国がアンガスに侵攻すると聞いた日、ジャックは喜び勇んで軍備を整え、登攀に発った。夏、三千メータ級の峰々を越え、この高地から敵陣を見下ろしたとき、エドワードの姿がないことにどれほど失望し、一月後になって彼の赤い鎧を陣中に見つけたとき、どれほど身の内が沸き立ったことか。
キンケイドはこの大陸には三人の剣豪がいると話していた。黒騎士ヴォルグリッドとヘリオス教会領のヨシムラ。そして、もう一人があの、皇帝エドワードである。
強敵と戦う。
ジャックの人斬りとしての本性が煮えたぎるほどに昂っている。
「帝国軍から要塞側に必ず仕掛ける。そのとき、要塞側も応戦し、山脈のふもとに駐屯するアンガス軍も要塞へ向けて登ってくるだろう。戦場は混沌とする。おれたちはその隙を衝いて、エドワードを暗殺する」
ひとつ、重いため息を吐いて、ジャックは続けた。
「必ずエドワードの首を取る」
滞陣中、何度この言葉を吐いたことだろう。それでも一同は飽きずに一声応じ、目の奥をぎらぎらと光らせている。
士気は高い。帝国軍に気取られている気配もない。
これなら勝てる、とジャックは期待を膨らませた。いや、勝つのだ、と自らにいい聞かせた。必ず勝つ。
「必ず勝つ」と声にもして自らにいい聞かせている。
○
エドワードは頻りに兵站のことを気にしていた。
今回の作戦でものをいうのが土木工事の進捗だからだ。工事は兵の質によって支えられ、質は充実した衣食住に支えられている。工期が遅れれば、大要塞を落とすことができないまま冬を迎え、エドワード麾下は帝国荒野に撤退しなければならない。そんな無様な姿を晒せばまたどこかで反乱の火が上がらないとも限らない。だから、出陣の前から現在に至るまで、エドワードの懸念は兵の生活の質、兵站にしかなかった。
宿営は幕舎といえど、風雨も寒気も遮り、毛皮と断熱材を施して、内装は充実している。衣類も充分に支給していて、昨日の汗を引きずっているなどということはありえない。ただ、兵糧だけは湯水のように減ってゆく。四万の軍勢を数ヶ月養うというのは大変なもので、持ち込んだ資材の半分以上が兵糧ともいえる。アンガスまで下れば、敵地から多少の麦を強奪できるのだが、鉄壁の要塞が一個あるだけの天嶮の上ではそういうわけにもいかない。
兵糧の調整に比べれば、戦闘行為などなにほどのものでもない。小競り合いのような戦いは多少ある。しかし、怪我人すらわずかで、人的損耗はもちろん、武器防具の損耗すらない。アンガスの主観が籠城にあるため、当たり前だろう。四万を超える人数が、北の山岳の中で越冬できるわけがないと考え、本格的な冬が来るまでのひと月あまり、その期間耐えれば勝てると踏んでいる。そのため、無駄な動きはしない。
向こうは冬待ち、こちらは土木。当然、兵力の損耗はない。
この日まで、兵糧は寸分の狂いなく消化されて、エドワードの計画に狂いはない。しかし、兵から不満が上がっているらしい。
「兵の作業も、戦闘ではなく、本来の働きではない土木作業がほとんどを占めている上、内容は重労働を極めています。疲労の蓄積が尋常でありません。いざ、攻城となれば存分の働きができるかどうか……」
あちこちの大隊長勢がいう現場の声だ。暖気の溢れる大きな幕舎の奥で、エドワードは指を組み合わせた両手に額を乗せながら各隊から上がってくる発言に耳を澄ませていた。
「君たちのいいたいことはわかる」とエドワードはいう。「わたしは君たちの家族と、友人たち、その子孫までがより良い世界で生きられるように、この戦いをしている。君たちはそのことを理解してくれて、わたしの戦いに身を投じてくれているのだと思っていた。しかし、違う者も当然いるということだろう。わたしはそのことにも理解を示したい。だが、いまこの状況ではわたしは君たちの努力に報いてやることが出来ない。どうか、この東方征伐が完了するまでは堪えてほしい。作戦が完了すればそれなりの手当てをしたいと思っている」
誰もが沈黙している。
「陛下」とボイドがいった。「少し休暇を増やしてはいかがでしょう? 工期は予定通りに消化されていますし」
額を擦ったエドワードは低く唸り、ため息とともに卓を叩いた。
「いいだろう。この戦場は将軍に任せているのに、わたしの口が過ぎた」
「いえ、陛下の国と民を思う心、痛く染み入りました」
ボイドがさらにいくつかの指示をして、会は解散になった。エドワードは足早に幕舎を出、雲に煙る大山谷を眺めた。今日も雪がちらつき、地面は所々に白い。
工期は予定の通りに進行しているのだろう。だが、もし、予定より早く寒気が訪れれば計画は水泡に帰す。
腕を組んだエドワードの爪先は激しく地を叩いている。
その後姿を、ウッドランド軍に観察されていることには気づいていない。
○
それからひと月あまり。
眩しいまでの星がきらめく漆黒の空は東の方が白々と揺らめき、地平は朱を帯びて輝いている。冬を前にしたラピオラナ山脈では見ることはできないともいわれるほど珍しい、快晴の日であった。
まだ闇の満ち満ちた山肌に、青い光がぼうと灯る。西と北、その間の北西の山、それぞれ一か所ずつ、光点の一つ一つが宙に伸び上がって無数の線を描き、まだ夜を残した西の空に三つの円錐を浮かび上がらせた。
幾ばくもなく、水滴が絞り出されるように、円錐の頂点が膨らんで、光の球になった。円錐によって支えられた巨大な光の星が三つ。さあ、とオレンジ色に染まってゆくラピオラナの山景は、光球の直下、大要塞のみが青白く照らし出されている。
何事か、と外を窺った籠城側にとって、この光は滅びの象徴でしかなかった。
ぶおおおお、と鳴ったのは角笛の音、帝国軍が種々の連絡に用いる角笛の音だ。
その瞬間、地上から生えていた円錐は消失し、地上を闇が覆った。光の玉も消失したのだ。その質量を、水に変えて。
凄まじい水量は大気を鳴動させて、ウッドランドの兵の隅々までを叩き起こし、大陸北東部の大地を揺るがした。崖は崩れ、帝国兵すら立っていられずに地を這う者がいたともいう。
やがて太陽が昇っても水の怒号は止むことがなく、その日差しは要塞天頂に生じた噴水を眩しく照らし出し、飛沫は上空まで昇って、帝国軍の上に氷の粒を降り注がせた。半時間もして、噴水の威力も止み、太陽は地上を照らすようになったけれど、その被害のほどはまだ定かではなかった。要塞を溢れさせた水流は、氷河のU字溝と帝国兵が掘削した溝を通って、さらに下方、山脈下にいたアンガス軍をも押し流したのだ。
ジャックは千の人数を連れて、この惨状を眺めている。
「これが、集合晶術……」
帝国軍が、対外国家に初めて使用した集合晶術の威力に、ウッドランド軍の端々に至るまでが戦慄している。
○
ラピオラナ大要塞南方に、浸水しなかった洞窟がわずかにある。それもいくつかは降伏している。が、抵抗している者たちもいる。生まれる以前から争乱を繰り返してきた帝国憎しの感情一心で繰り広げられる玉砕戦であった。彼らは山頂に登って、土嚢を築き、周囲から攻め寄せてくる三万の帝国軍を防いでいる。
「敵の中にも勇者がいるものだな」とエドワードは本陣を動くこともなく、要塞山頂を取り巻く黒い鎧の群れを眺めている。そこに斥候兵が来、ひざまずいた。
「山脈下のアンガス軍も壊滅の体とのこと。我が軍の追撃を受けて散り散りになっております」
「山脈下の平原に砦を築いて兵糧を持ち込め。そこを拠点にアンガスの四方へ兵を送る」
は、と一声発し、本陣を退いたのと入れ違い、また一人の兵が飛び込んできた。
「陛下」と慌てた声を出している。「兵糧庫から火が……」
「なんだと?」
エドワードは皆まで聞かず、そばの馬にまたがって、その連絡兵に前を走らせた。予備隊の隊列を抜けると、すぐ隣の山腹、目の上に黒煙を上げる火の手がある。エドワードは鞭を振るって山を駆け下り、谷を越え、礫地の山をまた登っていった。進むほどに炭の臭いは濃さを増し、木組みの崩れる音も聞こえる。あたふたと周囲を右往左往する兵が、哀れなほどで、兵糧が燃えていることより、その無様さに腹が立った。
「なにをしている」
「へ、陛下」と兵糧長の男がエドワードの前で悠長に片膝つこうとするのを、下馬したエドワードは蹴り飛ばした。
「バカ者が。晶術部隊を呼べ。第二晶術部隊が近い。急げ」
「はい」と応じるのももどかしそうに、兵糧長は伝令兵に指示を出し、その伝令兵が坂道を下ってゆく。
「火の手の回っていないところの建屋を破壊しろ。延焼を防げ」
エドワード自身が部署し、辺りを回って、ふと振り返ったときであった。
きらり、と山上の礫の上に、きらめくモノを見た。
エドワードは咄嗟に腰元の大剣を抜き放ち、振るっていた。殺到した矢の三本を打ち砕き、他の二本までが彼の左右の地に突き刺さる。
「何者だ?」
とエドワードが問うたときには、山上の礫の間から、灰色の鎧の集団が姿を現し、
「うおおおおお」
鬨の声も高らかに駆け下ってくる。
エドワードは敵の刺突を身をそらしてかわし、すれ違いざまに胴を薙ぎ、続けざまに来る一人の剣を剣で受けて、身体を入れ替え、蹴り飛ばし崖下に転がしてゆく。さらに殺到する弓を右手に駆けてかわし、駆け寄ってくる一人の脳天を上段からの一撃で砕き、もう一人の頭を横薙ぎにして吹き飛ばした。
敵の得物に細剣が多い。細剣の術を得意とするのはウッドランドの者か。
「こいつら、ラピオラナ山脈を渡ってきたのか」
エドワードの周囲には輜重兵と兵糧庫の守備兵がわずかに五十人ばかりである。隣の本陣にも敵の襲撃があったらしく、精鋭の紫鉄騎士団も、こちらの山に駆けつけようとしているが、その数はわずかである。
いったい、どれほどの軍勢が襲撃してきているのか。
「ちい」と舌打ちして、さらに一人、二人、と敵を斬り倒したとき、わずか数歩先で、三人の帝国兵が悲鳴もなく倒れ伏した。血払いをしたウッドランド兵の鎧の肩には将校の印がある。
敵の指揮官か。
す、と、その鎧の男の剣が持ち上がり、柄は顔の横に、切っ先はこちらに向け、瞬間、エドワードの視界から消えた。
「こいつ」と悪態をついたエドワードの掲げた大剣が悲鳴を上げて火花を散らした。
細剣の切っ先が持ち上がり、彼の頬を擦過して、ぬるりとした液体を垂らす。
「やってくれるな、ウッドランド人」
「お命、頂戴する」
しなやかに身を揺らして、左手に逃げるウッドランドの将校、エドワードがそちらに大剣を振るうと、再び火花が散っただけで、敵の姿はすでにない。
うしろか。
と察したエドワードが身を翻すと、脇の下をかすめるようにして細剣が飛び出してくる。
「北の剣豪、噂ほどにもないな」
「調子に乗る」
久方ぶりに血が湧いている。心臓が高鳴る。
エドワードがうしろへたたらを踏むと、敵は深追いせずにその場に立って構えを直した。次は中段に、切っ先はやや右手に傾け。
ヴォルグリッドがよくやる刺突の構えである。ウッドランド人も細剣という敵を突く武器を得意とする都合、刺突の名手が多いとされている。この男は、中でも指折りに違いない。
「ウッドランドの、ジャック・キンケイドか」
ウッドランド一の剣豪と名高い男のことである。
ゆらゆらと揺れていた敵の剣先がぴたりと止まった。
「おれの名も知れたものだな」
噂には聞いていたが、これほどの実力とは。
エドワードは背中に流れる冷たい汗を感じながら、中段に構えて敵に対峙した。
「軍司令の男が、じきじきにわたしを殺しに来るとはな」
「皇を誅し、世をひっくり返すのだ。人の手には委ねられない」
「その忠勤、褒めてやりたいところだが」
「ならば」と口走った男が一歩踏み出す。低い。姿勢が、地を舐めるように低い。
「貴様の首を褒賞に」
エドワードは上段に移っている。体軸をずらし、刺突の射線を外した。外したはずだ、とエドワードは思った。渾身の打ち下ろしで敵の脳天を砕くつもりでいた。
しかし、どうであろう。
エドワードの想定以上の速度で浮き上がった細剣は彼の肩口、鎧の間を突き抜け、大剣は大地を叩く。
焼けるように熱い肩口。地を打って痺れる両手。エドワードは歯を食いしばって、悲鳴を耐えた。
「ちい」とジャックの方も狙いを外して舌打ちをし、一方のエドワードは大剣を放り投げた。
刺突、という剣術は、一撃必殺でなければならない。敵を突いて、突いた剣は肉に埋まって自由を失う。
両手を自由にしたエドワードはジャックの首元をつかみ、敵の足にかかとをかけて、力の限り投げ飛ばした。そのまま組み伏せて首をねじ切るつもりでいたが、肩に力が入らず、ジャックの背を地に叩きつけるのが精いっぱいだった。
「ガハッ」と息を失っている敵司令の隣で、エドワードはうしろにたたらを踏み、そのまま尻餅をつく。
ここは二千メートルを超える高山の上である。多少の運動でも息が上がるのに、命の取り合いの剣術となれば疲弊は一入である。
二人の周囲ではウッドランド兵が弓を放ち、帝国兵が盾を構え、また別の帝国兵が剣をもって二人の間に入ろうとして、別のウッドランド兵と剣を交える。
混沌とした喧騒に満ちている。
土埃が立ち、礫が転がり、敵味方の矢が降り注いではあちこちに突き立ち、また転がってゆく。
ジャックは転がっていた大剣をつかみ、杖にして立ち上がった。エドワードも肩に刺さったままの細剣を引き抜いて我が物とする。
血が噴き出し、鎧の下着を濡らしている感覚が如実にあって気持ちが悪い。
両者、中段に構え、再び交錯しようとしたときであった。
ふもとから紫鉄騎士団の群れが駆け上がってくる。
「ち」と舌打ちをしたジャックは、「前言を撤回してやる。おまえはなかなか強い」
勝負は預けた、と大剣を投げ捨てて、山を駆け登っていった。横合いから走ってくる騎馬と空馬があり、その空馬に颯爽と騎乗して駆け去ってゆく。
どこからともなく、甲高い笛の音が鳴って、ウッドランド兵は潮が引くように、戦場から姿を消してゆく。
エドワードは我知らず膝から崩れ落ちていた。
「陛下、ご無事で?」
「わたしは無事だ。周りの者の救護と消火作業を急げ。敵は捨て置いていい」
「は」と紫鉄騎士団は方々に散ってゆく。
「なにが、なかなか強い、だ、くそ」
エドワードは細剣を地べたに投げつけて座り込み、しばらく動けなかった。
その顔は不思議と笑みを湛えていたという。
○
ほどなくして、ラピオラナ要塞は陥落した。帝国軍の作業として重かったのは、要塞に対する攻撃、ではなく、遺体の処理の方であった。谷のそこここ、山岳の洞内、至る所に流れそこなった溺死体が転がっており、その埋葬に想像以上の手間がかかった。埋葬のために、帝国軍は攻勢前に掘削した堀を死体の山にして埋設した。
一方で、アンガス側の平地にも砦を築き、ボイドに大軍を預けて進駐させた。エドワードは、というと、山を下りることができなかった。元々は全軍をもって東の平地に進み出、その豊かな穀倉地の蓄えを奪取して越冬しつつ、四万五千の兵を駆り、四方を制圧するつもりであった。しかし、それができなかった。
ウッドランド軍を恐れたのである。
この近隣に、どれほどの規模のウッドランド軍が隠れているのか、エドワードと帝国軍には定かならない。万に一つ、ウッドランドが南に大砦を築いていて、どこかの機会に北上してきて、この要塞を取られれば帝都とアンガス遠征軍が完全に分断されて命取りになる。それだけは絶対に避けなければならない。
ウッドランド勢はほとんど断崖と思われる岩壁を登っていったらしい。その奥がどうなっているのかわからない。山屋でも連れてくればよかったのだろうが、平野が国土の九割を占める帝国で、その筋の人間は極めて少ない。つまり、どうしようもない。
自分は帝国の武力の上に胡坐をかいていたとしみじみ初心を改め、また兵糧の調達に腐心した。山を下ることはできない。にもかかわらず、兵糧の四分の一を失った。その衝撃がどれほどのものであったか。当然、ウッドランド軍が焼いたせいだろうが、そのために兵に、毎日の食事を四分の一にしろ、とはいえない。
エドワードは二千の兵をもって大要塞に留まり、残りの兵を東の野に放った。全軍の兵糧は限りなく少なく、特に大要塞側は相当にひもじい思いをして極寒の冬季を過ごす羽目になった。
ラピオラナ山脈の冬は全日が全天を覆う吹雪といって過言ではない。兵糧も拙く、そして洞内は薄暗く、寒い。ヘリオスフィアの常備はこのようなところで使用することを想定していない。東の制圧に用いるため、ほとんどを下山させている。
帝国兵に課せられた刻苦は並々ならぬもので、一面を真っ白に埋め尽くす吹雪の中、攻め寄せてくるウッドランド軍の幻影を見、発狂した者もあるという。そういう時期が百日も続き、末期にはエドワード率いるラピオラナ要塞駐屯軍は疲弊し尽くしたといっていい。全日、ウッドランド兵は一人も姿を現さなかったが。
エドワードが東の地に降りても一向に構わなかった。ボイドを要塞に入れれば良かった。その方がアンガスの侵略は円滑に進んだことであろう。彼がそうしなかったのは、部下の手柄を将士が取ることの卑劣さを恥じたこともさることながら、ウッドランドが襲撃してくることを待ち望んでいたからである。
彼は寒風吹き荒ぶ当地において、淡々とジャック・キンケイドとの再戦を待ち望んで冬季を過ごした。彼の中で熾きのように燻る熱の量がいかほどのものであったか、想像に余りある。
ともかく、この冬季の間はラピオラナは戦術的に平穏であり、主戦場はアンガス大平原に移っていた。アンガス侵略軍も指揮官を替え、戦力を削がれ、相当に苦戦の冬を過ごしていた。
これらの点、ウッドランドの奇襲は成功したといえる。
エドワードが下山したのは春の中ごろ、ようやくラピオラナの融雪が始まった時節である。東の地は花が咲き乱れ、広葉樹の緑も美しく、小麦は黄金の頭を実らせて垂れていて、刀槍の音は遠くにも聞こえなかった。
アンガス王国が武装解除した後だったのだ。




