第四巻 剣乱編 三章 帝国の風
三章 帝国の風
遠く、青空に映る山峰は稜線に白い雪を色濃く残していた。その手前に充満する赤茶けた大地の起伏は苔の緑に刷かれて、極北の春の匂いをむせかえるほど噴き出していた。
頂点にある太陽の下、二万に及ぶ黒鎧の軍隊が西方に向けて進んでいる。向かう先には一万五千余り、と報告を受けた軍勢が起伏の上に小さくまとまって布陣していた。彼らの鎧の色は茶色に緑、紺色などなど様々で、軍旗の色彩も両の手指の数で数えるのは至難なほどあり、主義主張もその色ほどに無数にある、連合団体、であることを窺わせる。
「にしては」とエドワードは馬上にあって顎を撫でる。「なかなか真っ当な陣を組む」
「はい」と、側近の鎧も馬首を御しながらいった。
「ですが、陛下、あの程度の烏合の衆、我々、帝国正規兵の敵ではありますまい」
「侮りは敗北に繋がる。敵は最後の一兵になっても一切の容赦なく冷徹に殲滅するものだ」
「はい。出過ぎたことを申しました」
「よい」とエドワードはいい、風にはためめく外套の裾を引き寄せた。
「さて、帝国貴族の矜持というもの、見せてもらおうか」
黒鎧の軍勢がその足を速め、左右に広く展開し、西方帝国貴族連合軍の陣がある丘陵を包囲してゆく。敵味方の弓槍が交錯し、北部のやや低地では敵騎馬隊も出てきたようだ。砂埃が高く舞っている。その霞の向こうで、十六としたためられた旗印が縦横無尽に動いて、瞬く間に敵軍の旗を倒してゆく。
「第十六旅団か」
アルフレッドを副官に与えたヴェンセントの駐在部隊だ。隊長は旧貴族出身のカレン何某という者だったか。
「さすが、ディクルベルクであのアントワーヌを制圧した部隊なだけのことはありますな。凄まじい活躍でございます」
「うむ」とエドワードは単眼鏡を離して腕を組んだ。
アントワーヌの活躍は帝国にも鳴り響いている。帝国正規軍とヴォルグリッドの追跡を振り切って帝国を脱し、スレイエスの南北軍を出し抜いて彼の国にいた没落帝国貴族を吸収し、いまは王国に領地を得て、その勢力を着実に伸ばしつつある、という。
あの男は、とエドワードは思う。あのとき、帝国東方貴族殲滅戦で、フローデン候が連れていた異邦者の男、天ノ岐ユウ。いまもアントワーヌの参謀を務めていると聞くが。
「あの男、やはり敵になるか」
あの日、旧サンクロ砦群東塔で見た男の瞳が頭から離れない。
いずれ必ずわたしの前に立ちはだかる。
「南方の防御が薄い」と後方から声をかけられて振り向くと、黒い、角の生えた鎧の騎馬がいた。すでに黒い尾を引く剣を抜いて脇に携えている。
「おまえの紫鉄騎士団、少々借りていくぞ」
「いいだろう。好きにやれ」
予備隊に残しておいた紫鉄騎士団二千余りを率いて、漆黒の光が帯となって戦場に向かって伸びてゆく。彼らの蹄が叩く地の音に、放たれる圧に、前線の彼我の兵の時が止まった。剣戟の音は失せ、砂埃の柱は風に断たれ、弓の雨が止んでゆく。その間隙に、黒剣の刃が色鮮やかな敵軍の南方側へ疾風のように食い込んだ。そのまま敵軍を断ち切って北面に出、再び敵中に戻り、黄土色をしていた土煙に濃い緋色を混ぜ込んでゆく。
それから先、稜線は指でなぞるように、帝国兵に占領されたようだ。帝国軍の旗しか見えない。時を置いて、一人の報告兵がエドワードの前に片膝を突いた。
「西方貴族同盟はおよそ死者五千、捕虜八千、その他は散り散りに去り、戦場には一兵もありません」
「晶術部隊を出すまでもなかったな」
わざわざ遠く帝都から連れ出すまでもなかったが、まあ、万全を期すというのはこういうことなのだろう。あと五倍の敵兵がいても苦もなく撃滅できたかもしれない。
「残党を狩る。各旅団は人員を整理して被害状況を報告しろ。手当をして各地に振る。司令部を前進させる。後方の兵もまとめろ」
日暮れにはほとんど損耗のなかった人員を整理し直し、彼らの再配置も終え、捕虜の収容も終え、最後に、第十六旅団のカレンとアルフレッドを自身の幕舎に呼び出した。
「お呼びでしょうか」
鎧から詰襟の平服に着替えたカレンとアルフレッドが敬礼ののち直立する。
「わたしはこれから東に帰る。まだ西域は混乱の途上にあるが、そのすべてをおまえたち第十六旅団に任せる」
「任せる、とおっしゃいますと……?」
カレンの目にはあからさま狼狽があり、声音も震えている。
「ディクルベルクに駐屯して、わたしに代わり掃討戦を指揮しろ。まだ各地に旧貴族ども残党が潜伏している。当然、第十六旅団だけでは無理だ。よって、各地の旅団の指揮権も与える。それによって第十六旅団は、帝国第二師団、ということになる。おって通知が行くことだろう。それまでは口外のないよう努めろ」
「わ、わたしが第二師団の指揮官、ということでしょうか?」
「そうだ。人員の再配置等、運用は任す。以下、質問は軍務省に問い合わせろ。官史を残していく」
「かしこまりました」とかかとを鳴らして最敬礼したカレンの声はもう上ずっていたりはしなかった。青い瞳の中に、覚悟を決めた者の色がある。「不肖カレン・アンダーソン。帝国第二師団師団長の任、この命尽きるまで承らせていただきます」
横のアルフレッドは彼女の行き過ぎたほどの意気込みを、少し呆れたような面持ちで眺めていた。まあ、いい取り合わせだろう。
○
第十六旅団の幕舎へ帰る道中はあちこちに篝火が焚かれていて、決して暗くない。その火に照らされたカレンの顔が険しい。
「後悔していますか?」とアルフレッドは問うた。が、彼女は端正な顔を横に振った。
「いや、陛下はわたしに期待してくださっている。命を受けたことは名誉なことだ。後悔することなどない」
「しかし、一個師団、というと、一万近い人員を指揮することになりますし、各地の旅団っも使って掃討戦をやろうというと、五万を超える人を操ることになります。兵站の調達など、関係する一般市民まで含めれば、その倍は数えられましょう。重圧がおありなのでは?」
「わざわざいうな」とカレンに睨まれる。「いっただろ。陛下はわたしたち十六旅団を見込んで任せてくださったのだ。わたしはただそれに応えるだけだ」
「実に生真面目なことで」
「おまえにも苦労をかけることになる。むしろ、十六旅団の政務はほとんどおまえに任せてるといっても過言ではないんだから」
「ご謙遜を。団長あっての十六旅団です。じきに第二師団ですか。大所帯になりますね」
「だからいうなって」
前の方から赤髪の大男が歩いてくる。よくわかったのは、周りの兵が彼に道を譲って左右に別れるからだ。
「ヴォルグリッド殿」とカレンが脇にずれつつ、声をかけた。ヴォルグリッドも立ち止まって一瞥をくれた。彼も平服だが、毛皮の外套に身を包んで、本物の獣のようにも見える。
「今日の、昼間の騎馬突撃は素晴らしいの一語に尽きました。あやかりたいものです」
ヴォルグリッドは、ふん、と鼻を鳴らしただけで前方に向き直り、ずんずんと進んでゆく。カレンもすでに彼とは何度も言葉を交わしているから、こういう態度にも慣れきってなにも思わないらしい。何事もなく、大きな背中を見送っている。
「団長、ちょっと失礼して」
「なんだ」と訝る目を向けつつ、「まあいいさ。勝手にしろ」
急いでヴォルグリッドのあとを追い、横に並んだ。
「馬の世話でもしてきましたか?」
そういう匂いが物理的に漂っている。彼もノルン峠で馬を失ったのは相当痛手だったらしい。常人離れしたヴォルグリッドの巨体を乗せて疾駆できる馬の数など多くはないから、ずいぶん苦労して見つけた馬だったのだろう。新しく買い入れた馬も意外なほど丁寧に世話をしている。
ちら、と視線だけを向けてきたヴォルグリッドはなにもいわない。
「もしお暇でしてら、エドワードのところに行きませんか?」
「なぜだ?」と素っ気なくいうが、寡黙すぎる彼が言葉を発したことがすでに興味の現れといっていい。
「なに、というわけではありませんが」
内意を含めていうと、ヴォルグリッドは珍しく眉をひそめるように表情を動かした。
「別にいいですけど。ぼく一人でちょっと様子を見て来ます」
エドワードの幕舎に向かうと、ヴォルグリッドもムスッとしながらついてきた。多くいる守衛も彼の巨体を見上げて、道を譲っていく。そのようにしてしばらく、寒中を歩いていたが、ヴォルグリッドに肩をつかまれ、足を止めた。近くの幕舎の陰に引き込まれて、向こう側の様子を窺う。と、一人の一般兵が厩舎の方へ急ぎ足に向かっていくのが見えた。守衛はその背中を見送るだけで、一向に誰何する様子もない。
「エドワードですね」
歩き方からしてわかる。すでに短い付き合いではない。
空では、白色の月が凍えるほど冷たく強く輝いている。
○
この夜、まだ旧帝国貴族の残党がさまよう中、エドワードがどこへ向かったのか、この一章を使って触れて行きたい。
エドワードという男が、なぜこれほどまでに貴族と戦い、民主主義を追い求めるのか、その思想の根幹の部分に関わってくる。
彼がまだ十五歳のときの話である。
「コリオスの村、ですか」
エドワードは皇城の執務室で父の背中に問うた。「そうだ」と父は壁にかけた地図を眺めたまま、一瞥もくれずにいう。ただ、室内灯に照らされた禿頭の頭がてらてらと光っていた。
壁にかかる地図はレオーラ大陸東方の拡大図であり、大陸西の果てにあるというコリオス村は影も映っていない。
どうせアンガスとの次なる戦いのことでも考えているのだろう。思考中であるかないかによらず、常に他人を眼中に入れないのは父の癖である。皇帝には必要な素養なのかもしれない。しかし、エドワードはいくらか辟易しながら話を継いだ。
「一族の者たちは成人してから二、三年の間、彼の地で過ごすという風習は聞き及んでおります」
一族発祥の地でその身に流れる血の野生を目覚めさせろというのだ。この世界においての成人は、十五歳であり、彼は一端の大人と数えられる年齢になったわけだ。確か、とエドワードは続ける。
「オールドウェルのリッジウェイ家という貴族の家に滞在するとか。コリオリ村はそこからさらに山に方だったと……」
「我が一族の発祥はコリオスだ。オールドウェルではない」
「ですが、コリオスでは滞在先がありません」
エドワードの一族は雪深い山奥の、十数件しかない一村の中から突如として勃興したのだと聞く。その発祥の地、コリオスはいまもそのままの姿だと聞くから、どういうところか想像に難くない。それに引き換え、オールドウェルは一個の町だという。北の毛皮や木材の集積地となり、そこから南のヴェンセントやフォローツクに商品を下すのだ。
「おまえは滞在先を斡旋されなければ生きてもいけないか?」
すでに父の声には苛つきが窺える。
「そういうわけではないと思いますが」
「なら自分でなんとかしろ」
「なんとかしろ、といわれても……」
「供の者も必要ない。一人で行け。おまえに割いている人材の余裕はない」
「供もなし?」皇族の者が供回りもなく外出するなど異例のことである。それも次期皇位継承者の自分が。「わたしはコリオスの村には行ったこともなく、道も定かではありません」
「地図がある。古来から地図とは目的地へ向かうための導だ」
「しかし……」
「地図と多少の金はやる。城からは服の一枚も持ち出すな。手持ちの金だけで新たに準備をして明後日には城を出ろ。名は変えろ。皇家の者であると悟られるな。エルヴィスとでもしておけ」
そんな無茶な、という気持ちはあった。が、いったところで受け入れる父ではないことも理解している。
父はぞんざいに金の入った一袋と、地図の五枚を机の上に投げ出した。
これだけあればコリオス村に着けるという。おれができるのだからおまえにもできるだろう、というのだ。
「できないのなら帰ってくるな。その程度の者を帝位に即けることはできん」
捨て台詞をいわれ、追い払うように手を払われると言葉を交わすことすら許されない雰囲気が漂う。
仕方なしに退室したエドワードは袋の中身を確認して必要なものを思い浮かべた。
「はあ……」
と、ため息がついて出る。
エドワードは従者を集め、その中でフョードルという老齢の者がコリオスの村にいたことがあることを知り、彼から旅に必要な物及び様々な知識を得た。長い髭と長い眉毛と毛髪で、顔中が毛玉のような老人である。ふさふさの毛束を揺らしつつ、その隙間から声を出している。
「いまの季節、歩いていては中央荒野で冬を迎えることになります。馬と毛皮は必須ですな。服はダンタイケイのもの、靴はオウリスの皮がよろしいでしょう」
すでに夏の盛りのことであった。大地は苔むし、空は突き抜けるほど青く、からりとした風が吹く。この風は徐々に猛威を増して、温度がなくなり、昼は押し潰されるように短くなり、数日しかない秋を跨いで冬が来る。中央荒野は夜闇と吹雪の檻に閉ざされる。
そういうものか、と呑み込む他ない。なにせ、エドワードはこのころ、馬車でしか帝都の外に出たことがなかった。剣と弓の鍛錬に明け暮れ、城内の馬場で馬を回し、外遊となれば馬車に乗る。車内は冬でもヘリオスフィアの暖房が効いていて、室内着でも平気で過ごせるから外界の常識がわからない。
「どこかの旅人についていくのがよろしいでしょう。人に尋ねることは恥ではありません。それより道に迷わぬことが肝要です。迷えばすぐに冬になり命を落としましょう」
「そういうものか」
エドワードは馬と衣服と剣を買い、馬に積めるだけの食料を買い求め、出立の予定日を迎えた。城内正面大階段の前で父と顔を合わせ、
「まだいたのか。さっさと行け」
と片手で追い払われ、エドワードは嘆息しながら城を出た。今生の別れとまではいわずとも、ニ、三年の別れになるというのにこの態度、父とはこういうものか、と思いながら、馬上、城下を歩き出す。
「そういえば」
二年であるのか、三年であるのか、帰還の日を尋ねずに出てきてしまった。
「まあ、よかろう」
次に顔を合わせれば殴られるかもしれず、エドワードは皇城を背にした。
十年後にでも気が向けば帰ってこよう。
○
沙漠には四つの成立要因がある。
一つに大陸の内部にあって降水する水源がないこと、二つに大陸西岸にあって寒流の影響を受けて降水が少ないこと、三つに山脈が壁となって水源からの雲を遮ること、四つに惑星に置ける大気循環の中で亜熱帯高気圧下にあること。
以上の四因のうちの一つでも引っかかれば、沙漠になる条件を満たしている。一つに引っかかっているにも関わらず、植生があるということはどこかに豊かな水源があるということだ。当然、地球上の沙漠はこれらのどれかに該当する立地にある。アステリアの沙漠も同様である。
レオーラ大陸唯一の沙漠は大陸北部にあって帝国中央部の広大な面積を占めている。帝都、ディクルベルク間にほとんど円上に広がって、この物語の序盤、フローデン候捕縛後にユウが帝都を脱してリリアと合流するため駆け抜けた乾燥地帯である。地質は砂でなく、礫である。沙漠というと、砂丘が茫漠と広がる炎天をイメージするかもしれないが、地球上において、砂丘のある砂沙漠は二十パーセントほどしかないという。世に存在するのはほとんどが礫と岩の沙漠だ。帝国中央荒野も礫沙漠で、しかも、高緯度にあるから暑くない。むしろ寒い。モンゴルやシベリアから、さらに水分を奪ったような土地である。冬には乾燥した寒風が吹き荒ぶ冷徹の地だ。
ユウがこの広大な乾燥地を駆け抜ける百年前、この地には帝都もなく、人は住んでいなかった。キャラバンのような商隊が点在して往還するだけである。これより東はアンガス王国、西は小国の割拠する戦乱の地であった。これら西の小国郡を切り従えたのが、オディオンという男であり、彼が自らを皇帝、世界最高にして唯一の人物であると称したのが、帝国の始まりである。
二代皇帝は温厚な人物であり、内政に励み、国内を安定させた。レオーラ大陸中の歴史学者たちは彼を賢王と呼ぶ。賢王のから四代は多少の甲乙あったものの、およそ凡庸であり、帝国は国威の上下を繰り返していた。この流れを変転させたのが、七代目、後年大帝と呼ばれることになるヘンドリッヒ帝であった。
アンガスの駆逐を掲げたヘンドリッヒ帝は中央荒野西方にあった帝都を東方へ、初代皇帝の建設した砦を新都とし、日夜アンガス王国と戦を繰り返し、ついに東方大地を帝国の占有にしてしまった。このとき、帝国―アンガスの新国境は大陸東部にある大山脈ラピオラナになった。ラピオラナ山脈は急峻な山の連なる天然の城壁であり、アンガスを守って帝国を阻み、大帝は諦めずに兵力を蓄え、ラピオラナの向こう、豊穣といわれる大地強奪の機会を虎視眈々、狙っている。
エドワードはこの第七代大帝ヘンドリッヒの嫡男として生を受けた。
その父は、十五歳になった息子に、死の大地ともいえる極北の沙漠を越えて、西の地へ単騎赴けという。
十五年のほとんどを皇城の中で暮らしていた彼には、死ね、というのに近い。何者かの助けが必要になってくるだろう。
フョードル曰く、酒場にニ、三日もいれば中央荒野の向こう、ディクルベルク辺りまで行く旅人は必ずいるから、その者に案内を頼めばよいといわれ、その通りにした。旅の基本はその者から学べばよい。
「とにかく、あなたはなにも知らないのであるから、人から学ぶことが第一です。居丈高になってはいけません。世間のすべてが教師があると心得え、謙虚に学ぶのです。そのようなあなたを侮蔑する人もいるでしょう。あなたをからかい、不遜に見下す者もいるでしょう。しかし、あなたはいずれ人の上に立つ者です。人の上に立つ者の素養として第一は鷹揚であることです。人の失敗を許容し、人の侮りも許す心が肝要です。決して人に感情でぶつかってはいけません。常に他と己を許容する、広い心を心がけるのです」
しかし卑屈になってはいけませんよ、あなたはいずれ帝位を継ぐ者ですから、ともいっていた。
このころのエドワードにも、フョードル爺がいっていることはわかった。が、それは表面上のことである。文字の持つ意味は理解していたが、それがどういう心持を指し、どのような行いを指すのか、まったく理解していなかった。エドワードがこのことを深く考えるのは、ずっとのちのことである。
ともかく、エドワードは皇城を発った。発ったが、初めの三日は城下で暮らした。エルヴィスの名で宿を取り、父と仲違いして金だけ持たされ追い出されたということにして、酒場に向かい、西へ旅する者はいないかと訊ね、寄ってきたのは金目当てのゴロツキばかりであった。
旅に出るのかと思えば、路地裏に連れ込まれ、武器を引き抜いて向かって来る彼らをエドワードは完膚なきまでに叩きのめし、路端に転がした。その人数が二十にも上ったころである。一人の頓狂な男が酒場に姿を現した。
ラッパのように裾の広いズボンを履き、袖も広く、胸元は二枚布を重ねただけでボタンのひとつもないを衣服をまとって、腕は袖を通さずに二枚布の下で組み合わされているらしい。四角い顔とうしろに撫でつけた黒髪が渋い。
「酒」と短くいって注文を終えたつもりらしい。
「オヤジ」と店の者がいう。「酒と一言でいっても色々あるぜ。果実酒とか、蒸留酒とか、清酒とか」
「色のついていない奴がいい。味のしつこくないものを」
店番はため息を吐きながら、帳場の奥の棚に向き直った。
エドワードは彼の挙措と、腰に下げた鞘を見、興味を持った。
それなりの手練れであることは一目でわかる。だが、どこの国の出身者であるのかがわからない。
「そこの御仁」とエドワードから声をかけた。「どこの国の方です?」
「どこといわれると難であるが、この世界とは別の世界から呼ばれたらしい」
「ほう、異邦者の方ですか」
彼の名はヨシムラといい、腰に下げた武器はスレイエス製の刀である。
「なかなかの一品のようですね」
「わかるか? ヘリオス教会領にいたころ、教主殿から頂いたものだ。旅の門出にと」
「ヘリオス教会領の教主さまから?」
なかなか珍しいことである。一国を代表するような剣士でなければもらえるようなものではない。ヨシムラの腕はそういう格であるということだ。なおのこと興味が湧く。
「どちらまで行かれるのです?」
「大陸の西まで行く。スレイエスで刀を見る」
「見てどうなさる?」
「見てから考える。所詮、放浪の旅だ」
「しかし、ずいぶんと遠いでしょう。道に迷われませんか?」
「何度か通った道であるからの。たぶん大丈夫だ」
聞けば、ヘリオス教会の医療団の護衛としてレオーラの地を周り、今回の旅もレオーラの南東にあるヘリオス教会領から北上し、アンガス西部からラピオラナ山脈を越えて西走、帝都に入ったという。
旅慣れた者だ。それもヘリオス教主からの信任篤いという。
「同行してもよろしいでしょうか? わたしも西に行く旅の途中でして」
家を出て遠縁のいるコリオス村まで行くのだと話すと、ヨシムラは一も二もなく承知した。
「構わんとも。旅は道連れ世は情けというからの」
こうして二人の旅が始まった。
○
爽やかな風が吹いていた。
中央荒野の夏風はからりと乾き、日差しは温かく、他三つの季節は氷に覆われて全天が霞む帝国領の者には至宝のように輝く季節だった。平野は苔が緑の絨毯のように広がり、点々と青や紫のほんの小さな花弁が揺れている。所々に湖水が出来上がっているのは北のクロッサス山脈の雪解け水が季節河川を作った結果だ。冬季には凍結乾燥して消滅しても、一年を巡って再度現れ、また新しい命を育んでいる。植生の少ない乾燥地で生きるエドワードには、視界に映るすべてが奇跡に見えた。
ヨシムラもヘリオス教会領から駆っていた馬を走らせ、エドワードはそれに続く。
どこまでも続く蒼天、緑の大地、吹き抜ける清風。皇城の馬場などでは露ほども感じられなかった野生の世界に、この馬も、エドワードの感性も昂っている。
「は」と覇気を乗せ、ヨシムラに馬を並べ、追い抜いていった。
「そのように焦るとすぐに息を上げてしまうぞ」
「自由に駆けさせてやりたいのです」
馬の思うままに走らせてやる。世に満ち満ちた生命の息吹を、手綱を離した両腕を開き、全身へ浴びるように感じる。
「これが世界か」
城の中では永遠に感じられぬ感慨がエドワードを突き抜けていった。
夜は幕舎を張って、エドワードがヘリオスフィアの暖房を起こし、昼間はヨシムラの案内で馬を走らせ、時折苔の上に寝転がって休息し、中央荒野を旅する商隊と交わって食料を買い付ける。中央荒野を行く旅人は保存食を携帯するのが主であるが、商隊は生鮮食品を持っている。多くの馬車を引いていて、その幾台かがヘリオスフィアによる保冷庫になっているのだ。
そして、ある夜半のこと。
商隊から買い上げた酒を片手に、片手の盃を満たし、いささか陽気になったヨシムラがいう。
「帝都は意外に富裕だのう」
二人の間では鍋がくつくつと煮立って、中では野菜と肉が泳いでいた。中央荒野の真ん中で近くに木も葉もないが、ヘリオスフィアひとつあれば熱には困らない。鍋の下で赤々と燃えるスフィアが陽炎を放って、鍋底を焼いている。鍋の中の水も、スフィアによって呼び出したものである。氷河地形の丘陵に挟まれた谷間に、湯気が上がっていた。
エドワードは杓子を持って鍋を回しながら、
「帝国は豊かですよ。現帝の即位以来、帝都の灯が落ちることはありませんし、人の往来も日に日に数を増している、といいます」
はは、とヨシムラは笑っていた。
「富裕であることと、豊かであることはちょっと違う」
「違うのですか?」
エドワードにすれば意外なことをいわれ、目を丸くした。
「帝都の富には、どこか胡散臭いところがある」
「胡散臭い?」父の所業に好感を抱かないエドワードも愛国心はある。母国を貶されれば、さすがに心外であり、眉をひそめた。「ヨシムラ殿、言葉が過ぎはしませんか?」
「わしの個人的な感想だ」とヨシムラは意に介さない。「ありゃ、人をカッスカスになるまで搾り上げて滲んだ汁を煮詰めてできた繁栄じゃ。ああいう国に暮らしたい、とわしゃ思わん」
「搾り上げている?」
多少貧富の格差があるとはエドワードも聞き知っているが、実際を目撃したことがない。ヨシムラが酔ったのか、興にいったのか、身を乗り出して話を続ける。
「帝都の貧民街は行ったかの? まあ、大きな町であれば貧民街などあるものだが、帝都のそれはまあ酷いものだよ。人の住むところではないな」
「それほどですか?」
エドワードも貧民街の存在は知っているが、目にしたことはない。
「ああいうものを見てしまうと、とても街中で飯を食おうとは思えなくなるの。ああいう命から生まれた飯を食ってるのかと思うと途端に不味くなる」
腕を組みながら、しみじみいい、
「地方もよくないところはよくない。しかし、不思議といいところはいいようだのう。あれらは施政者の差、ということかの。貴族制は地方自治と聞いているから、よい貴族が治めているのだろうて。およそ仁者なのであろう」
「仁者?」
「昔、孔子という男がいて、施政者に必要なものはなにかと問われ、仁である、と答えたのだ。その仁を心得た者を仁者という」
「仁とはなんです?」
「例えば、井戸に落ちそうな子供がいる。お主が見かけたらどうする?」
「助けます」
「そうだ。ほとんどの人間が助けるだろう。つまり、人間は咄嗟の判断に人を助けようとする。ということは、人の本性は善なのだ、と孟子という人がいった。曰く、人は天から生まれた。いわゆる神だ。神から生まれたのだから悪いものであるはずがない。生まれながらに良いものなのだ。ではなぜ悪人がいるのか。生きていく中で汚れてゆくのだという。この世には塵が多い。身体も汚れるし、服も汚れるし、汚れないものなどなにもない。人の心もそうだ、という。この汚れを払い落としてゆくのが、仁者の生き方だと、わしは思う」
「というと?」
「曰く、仁とは母のような徳だという。我が子を愛すように、人を想い、人に優しく。曰く、天と己に嘘と偽りをなくし、正しい道を歩もうとし、追求してゆく、正しいことを心掛け、実践してゆく。その姿勢こそが仁へ近づくことだろう。わしも心掛けている。が、まだまだだ。なにかが足りん。足りんものを知るために学問をし、こうして見聞を広めたりするわけだ。孔子曰く、だから学問はやれ」
エドワードは頬を撫でて、鍋をかき回していた手は止まっている。沸騰した汁の泡が沸き出しては割れてゆく。その様子を眺めていた。
ヨシムラも黙って杯を干している。
おれは仁者だろうか? 少なくとも、父は違う。
エドワードが見上げた夜空の星が鮮烈なほどきらめていた。
○
ディクルベルクに到着したとき、エドワードは寂寥感を覚えた。広い原野はここで終わり、以西は鬱蒼とした針葉樹林地帯に入るのだ。街道を馬が通るのは問題ないが、駆けさせて平気という道幅ではなかろうとエドワードは思っており、実際その通りなのである。
この青年は馬を駆けさせることがなにより好きである自らに気づき、父にいわれた二、三年を荒野で過ごそうかとも思案したが、ディクルベルクに雪が舞うのを見、思いとどまった。あと数日もすれば中央荒野は寒気に閉ざされる。決死の人でなければ踏み入れられない。吹雪の中に馬を入れたところで気持ちのいいわけがない。原野に出られないのなら、初期の目的を達した方がよかろう。その方が父の逆鱗に触れることもない。冬季の前に、中央荒野を走破できたことには少なくない安堵を覚えていた。
彼がディクルベルクを訪れたとき、その賑わいは一通りではなかった。車道も歩道も幅広に美しく整備されているが、馬車の行き来が途切れることはなく、人は肩をすり合わせるようにして、狭い隙間を忙しげに縫ってゆく。そういう雑踏が町全体にひしめいていた。にもかかわらず清潔感があるのは市民の徳なのか、それとも行政の働きなのか。ともかく、施政者のダリオ・アントワーヌ侯爵の評判はすこぶる良い。
エドワードが復路、この町を経由していれば彼の鋭敏かつ貪欲になっていた思想観になんらかの影響を与えたかもしれない。エドワードを包んでいた帝国貴族への失望感も緩和され、後年アントワーヌを襲う悲劇も回避され、レオーラはもっと穏やかな形でその未来を紡いだかもしれない。が、そうはならなかった。往路のエドワードは思想的に軟弱で、次期皇帝の意識はあるものの、国家観というものを持たず、施政とはなにかを考えもしなかったし、そういう認識もなかった。先日のヨシムラとの会話で、かろうじてその発芽を迎えたものの、支配者としてはまったくの愚物といってよく、無能者であった。
彼の思想が変転してゆくのはコリオス村に到着して以降である。
ディクルベルクの繁栄など、帝国内であれば当然と思っていたし、皇帝の加護であるとも思っていた。ディクルベルクを帝都と比べれば田舎の一都市と単純に見、一観光者として町を歩いていた。町の外れに宿を取って馬を繋いであるから実際徒歩である。あちら、こちら、と出店の様子をただ珍しげに眺める、年頃の都会の青年となにも変わるところがなかった。
宿に戻ったときも、
「ヨシムラさんはスレイエスに向かわれるのですね」と呟き、彼と別れることだけに落胆した。普通、南方のスレイエスに向かうなら、ここから南に進路を取る。西の果てを目指すエドワードとは道を違えることになる。しかし、ヨシムラが首を振って、この落胆も解消される。
「西のヴェンセントから船で向かおうと思っている」
「ヴェンセントならわたしも行きます。そこから北にコリオスの村がありますので」
旅の友人ともう幾日かを共にできる幸運に、無邪気に喜ぶ程度の青年であった。
○
雨が降っているわけではない。だが、ぽつぽつ、と水滴が落ちてくる。
夜に凍結した枝葉が朝日に溶けて、滴り落ちているのだ。
エドワードはその水滴の向こうに、敵を見据えていた。
鉈を上段に構え、右手にじりじりとにじりながら、エドワードの額を一心に見据えている。背後にはもう一人、斧を下段に構えた男がいる。
大した使い手ではないな、とエドワードは両者を一瞥して察した。身体は大きく、筋肉は発達しているが、それだけで太刀運びを心得た肉体ではない。
エドワードは膝をやや屈めたまま、剣先を地に据えた。呼吸を整えていた。
白い息が風に流れ、散ってゆく。
「でい」と一喝入れて背後の一人が飛び掛かってきた。上段から振り下ろされる斧の間合いの内側へ、身を翻すように滑り込み、エドワードは大剣を一閃、敵の薄い鉄の鎧をひしゃげさせて体ごと吹き飛ばした。時を合わせて鉈の男も襲い来る。が、頭上で回ったエドワードの大剣に怯み、足踏みしたところで小手を打たれ、鉈を取り落とした。
「去れ」
エドワードが短くいうと、二人は痛みを押さえ、雪道の中を駆けていった。
「いやはや、助かりました、旅の方」
と、大男が傾いた革の中折れ帽を直しながらいう。彼の背後には十数人の人数がいて、手当をしたり、すでに倒されて動かない野盗の数人を道脇に投げ捨てたりしている。
「我々は、北のコリオス村からの商隊で、南のヴェンセントに物売りと買い出しに出た帰りだったのです」
毛皮や炭を売った彼らの懐は厚く、野盗に襲われやすいのだという。
「わしらも隊伍を組んでそれなりに警戒はしていたのですが、襲われてしまうとどうにもなりませんな」
ははは、と陽気に笑っていた。
エドワードは剣を鞘に収め、男の話も半分に聞きながらため息をついていた。
ディクルベルクから港町のヴェンセントまで、長い針葉樹林の道をひた走っていたときも、幾度か野盗と出会い、その都度追い散らしていた。今回のように商隊が襲われていることもあれば、エドワードと同様の旅人が襲われていることもあり、しかし、そのどれもがエドワードとヨシムラの姿を認めただけで逃げ去っていて、ついに剣を抜くことはなかった。それがどうしたことだろう、ヴェンセントから、ヨシムラと別れ、北の間道を一人で行った途端、自ら野盗に襲われ、旅人の一人を助け、商隊のひとつを助けて、そのすべてで剣を振るっている。
この労力はどうしたことか。苦もなく追い払ってはいるが、自らの才覚のなさは苦にしていた。二人旅の時の野盗どもは二人を恐れたというより、ヨシムラを恐れていた気配が濃い。
すでに三度、野盗と剣を合わせて、自らの未熟を実感する。
ついに彼、ヨシムラの剣を見ることもなかったし、どれほどの腕であるのか察することすらできなかった。それらの点からしても、ヨシムラと別れたことは改めて悔やまれる。彼はヴェンセントから南に発った。ヴェンセントから船に乗る予定であったが、港はそこここが凍結して、流氷が浮かび、とても船の出せる海ではなかった。だから仕方なく徒歩で街道を行くその背中をエドワードは手を振って見送っている。
「旅の方はなぜこのような地に?」
商隊の男はまだ話している。
「わたしは父に勘当され、路銀だけを投げ渡されて家を追い出されたのです。行く当てもなく西方の果てにあるコリオスの村というところまで行ってみようと思っただけです」
「では、当てもなく、このような西の果てまで? 変わっておりますな」
「そうでしょうか?」
別にエドワードが決めた目的地ではないから、適当に流しておいた。それより、自らの剣のこととヨシムラのことに頭を取られている。いかに剣の腕を磨くべきか。
「最近は徴税も厳しく、猟師や農家では暮らせないようになっておりますなあ」
馬上のエドワードを見上げるようにいうが、その差はわずかなものだ。エドワードの背には馬の足が数十センチも足されているが、男の徒歩の目線とさほど変わらない。
「暮らしの困窮した者はああして野盗に身をやつす他ないのです。我々がこうして普通の生活ができるのは幸運でしかないですな。一歩間違えれば彼らのようにもなっていたかもしれない」
「コリオスの村へ続く間道は寂しいものと聞いていましたが」と、エドワードはいう。「ずいぶんと賑わっているようで驚きましたよ」
「もっと良い賑わい方をしたいものです」
と男は笑う。
ぽつぽつと水滴が降り注ぐ。馬車の幌に当たって低い音を立てていた。
針葉樹に挟まれた、溝のような道である。まっすぐに伸びた剥き出しの土は湿って匂い立ち、両脇に蓄えた雪の堤は凍結していた表面を陽の光に溶かしながらキラキラと眩しい。本格的な冬が来れば、この道は雪に埋まり、コリオス村は孤立して越冬するという。その前に商隊は町から物資を運んでいる。
この辺りまで来ると西は海、といっていい。実際はまだ百キオ余りあるのだが、帝都を出てからだいぶ海浜に近づいた。大量の水を抱える海という場所は温度変化に強く、冬季は陸よりよほど暖かい。いくら、凍結する海、といっても多少の湿気はある。その湿気は空に昇って凍結し、凍結するまでの間に吹き込む偏西風によって陸地に運ばれたりして、陸地に降雨と積雪をもたらす。ディクルベルク辺りまではこの湿った風が吹く、ということだ。この領域内では植生があり、農耕もでき、人の生活の息吹がある。
一隊は、熱と水の恵みである雪を踏んで北上している。
「旅の方」と大男はいう。「コリオス村に行ったとして、まともな宿などありませんよ」
「そうです」とエドワードは喫緊の状況を思い出した。「先ほどもいいましたが、当てのない旅なのです。どこか寒さをしのげる場所があるとよいのですが」
「いまからではコリオス村で越冬することになりますの」
「どこかよいところを紹介してくださると幸いなのですが」
「でしたらわしの家などいかがです? 娘と二人で暮らしていて、亡くなった妻の部屋ですが、余っております」
「よろしいのですか? そのような大切な部屋を」
「人助けに使った方が妻も喜ぶでしょう」
ほほ、と男が笑うのに合わせて、エドワードも微笑んだ。
「ではありがたく使わせていただきます」
○
エドワードは暖炉の前の小卓について、お茶のカップを前にしたまま体をこわばらせていた。膝の上に握った拳が震えている。
「父と村の者を助けていただき、ありがとうございました」
と、正面に座った娘がいう。
「いえ、当然のことをしたまでです」と暖炉で踊る火の先を眺めながらいう。
娘、と聞いてはいたが、こういう娘だとは想像だにしていなかった。エドワードより、ひとつ、ふたつ、年上であろう。ややふくよかで、胸は張り出し、腰は括れ、足は長く、肌は雪より白くきらめいている。たおやかな焦げ茶の髪に縁取られた輪郭は小さく、反して目はぱっちりと大きく、口元には常に笑みを湛えていて美しい。ぱちぱち、とまばたかれる長い眉毛は風を起こしそうで、エドワードは顔を背けた。
考えてみれば、皇城の女人はどれも自分より一回りも年嵩の、凛と澄ました者が多く、同世代の、しかもこういった朗らかな女性に会うのは初めてかもしれない。
エドワードが初めて遭遇する、未知の生き物、という感があった。
「まあまあ」と彼女は微笑みながらいう。「そうかたくならないで。これから半年間は一緒に過ごすんですから」
「半年間?」
「それくらいの間は道が雪に閉ざされますから」
エドワードは椅子を蹴って立ち、「マオ殿、マオ殿」と彼女の父親を探した。大きな顔が玄関の向こうからぬっと覗く。
「何事です?」
「わたしはどこかの厩舎で構いません。ご厚意を無下にするようですが……」
「なにをそんなに慌てているんです?」
「あのような」と荒いだ声をひそめ、マオに身を寄せた。彼も大きな身を縮める。
「あのような年頃の女性と、ひとつ屋根の下というのはどうもよろしくありません」
「ほほ、おかたいですなあ。むしろ、嫁にもらってくださるならありがたいものです」
「マオ殿!」とほとんど絶叫した。身体が熱くなる。
「それとも、里に想い定めた方でもおいでで?」
「イヤ、いませんが」話が逸れかけたのを、エドワードは頭を振ってもとに戻し、「ともかく、わたしは厩舎に失礼します」
「ダメです」と背後から女性の声がして、エドワードは全身を粟立たせた。
「厩舎は馬牛のいるところで、人がいれば彼らが安心して過ごせません。それも、あなたは彼らと親しくはありませんし。わたしのことがお気に障るというのなら、わたしの方が厩舎に……」
「それはいけません」とエドワードは身を乗り出すようにいう。「女性にそのようなことは望めません」
「でしたらよろしいですよね」と手を握ってくるのを、エドワードは怯みながら受けた。「わたしに父の恩人を粗末にさせるような真似、させないでください」
よろしいですね、と笑顔で念を押されると、エドワードは頷くしかなかった。
○
娘の名前はエナといった。
優しく、家事全般をそつなくこなし、村の子供たちの面倒を見ながら、老人たちの話を聞いて、男たちの見栄を受け流し、女性陣には頼られて万事相談役として振る舞い、見目も麗しく、落ち着き払って、父を手伝い、贅沢を好まず何事に狼狽えることもない、となれば村人たちの人気が集中するのも無理はなかった。
村の女神ともいえる人物の家に、旅人が宿泊しているということは日を開けず広まった。村、といっても、十数件というほどしかなく、役所もなく、警史もいない。すべてが自給自足であり、手を取り合い、村民たちが助け合って生きているというふうであり、すでにエドワードにもその手は伸びていて、すべての村人と顔は合わせている。男手に限れば、ヴェンセントからの商隊に遭遇したとき、すでに半数以上の顔と会っていたという。それほど小さな村だ。
なぜエドワードの逗留先が彼女の家なのか、ということが話題にされた。
エドワードはどこかから花嫁を探しに来たのであるとか、エナの噂を聞きつけたとある貴族であるとか。あらぬ噂はエドワード自身が帝都の出自であると口走ったことでさらに加速していった。皇子ではないか、と噂され、なるほどそういった気品がある、ともいわれ、半分図星をつかれてもエドワードは取り合わなかった。彼らに皇子であることが知られたからといって起こる事変など些細なものであろうし、決して花嫁を探しに来たわけではなかった。様々のことで、村の男たちの嫉妬は買っているが、エドワードの腕も広く喧伝されているからか、因縁をつけてくる者もいなかった。
そのエドワードはマオの家の裏にあるひさしの下にいて、毎日薪を割っている。マオが狩りに出ているため、エドワードが代わりに打っているのだ。
傍らに積んである薪を手に取り、短い丸太の台座に乗せ、一息に斧を振り下ろす。と、ぱっかり二つに薪が割れる。ほんの数打でコツをつかみ、あとはひたすらに斧を振り下ろしている。これはこれで剣の修行になる。なにより、なにも考えなくて済む。
薪を乗せ、斧を持ち上げ、目標を見定めて、振る。
ひさしの外ではしんしんと雪が降っている。にもかかわらず、エドワードの顎からは汗が伝う。切れている息を止め、腹に力を込めて、手斧を振る。薪が割れる。
次にヨシムラに会うことがあれば立ち会う。そして勝つ。
さらに精度を上げて、もう一撃。
この程度で勝てるか? 勝てるわけがない。
まだ……。
「エルヴィス」
と、声を掛けられ、エドワードこと、エルヴィスと名乗っている青年はぎくりとした。斧を支えにして、振り返る。と、エナが勝手口から顔を出していた。
「どうしたんだ、エナ?」
「どうって、お茶の準備ができたから呼びに来たんです。全然帰ってこないから」
「まだ薪を割ってたんだ」
「毎日毎日、そんなに薪を割られても置き場所に困ります」
「集中してしまうと続けてしまって」
「ふうん」と目を細め、「まだやるの?」
「もう止めるよ」
「なら早く家に入って。汗をかいたままで外にいると風邪ひいちゃいますよ」
彼女ののびてきた手を躱すようにして斧を捨てた。
「わ、わかったから、先に戻っててくれ」
彼女は訝しげに小首を傾げ、
「早く戻ってきてね」と家の中に入ってゆく。
薪割りより汗をかく。
すでにマオ家に身を寄せて三か月ばかりが経ち、会話は砕けてずいぶん親しくもなっているが、ふとした瞬間、エナが妙に艶っぽく見えることがあるし、手といえども肌に触れることは緊張する。自分が女性を苦手なのかと疑ったこともあったが、エナの下を尋ねてくる友人夫人たちを相手に話していても、まったくなんの感慨もない。たぶん手を繋ぎ、踊りを共にすることもできるだろう。エナ個人に緊張している。これが、と思案して、続きの言葉を呑み込んだ。こんなことをするために父の下を離れたのではない。ではなにをするのかと訊かれれば、その答えもないが。
割った薪を積んで片付け、居間に戻るとエナの友人が数人いて、すでに茶を喫している。エドワードを見つけて手を振り、他愛のない話をして帰ってゆく。
「エルヴィスに興味があるのよ」
とエナはいう。
じゃあ、エナは? おれに興味はないのか?
と問えるはずもなく、暖炉の明かりを見つめている。ヘリオスフィアの供給量の少ない地方の土地では現地調達の可能な旧式の燃料を使う。だから、エドワードは薪を割っていた。その薪が赤々と暖炉の中で燃えている。ぱちぱちと音を立て、熱を放ち、光を放ち、彼女の顔を照らす。常に笑みを湛え、慈愛に満ちた横顔を、美しく照らしている。
「どうしたの?」
不意に振り向かれて重なった視線に慌てたエドワードは「なんでもない」と口の中で応え、温かいお茶をすすった。濃厚なミルクを溶かしたもので、ほのかな苦みの中に乳の甘みがあってわずかに粘る。飲み下すと、茶葉の香りが顔中を包み、心地いい。耳をくすぐる彼女の、細やかな笑声も、心地いい。
「変なの」
そう呟いて、エナは傍にあった針と布を取り、ちくちくと刺し始める。
エドワードには何が変だったのかわからない。なんとなく、こね回した頬が熱かった。
冬も峠に差し掛かり、積雪は日に日に増して、エドワードの仕事には雪かきも加わった。家の二階には屋根に上がる窓があり、マオと二人で朝夕と日に二回、雪を除ける。これをしなければ屋根が潰れるのだ。
「年によっては下に捨てられなくて、上に積むこともあるんだよ」
全身から湯気を出しながらマオがいう。積雪の多い年は一階はもちろん、二階も雪に囲われ、その雪壁の上に屋根の雪を投げるのだ。エドワードが訪れたこの年は例年並みの積雪で、幸い二階の足元までしか雪はない。
「やはり積雪は年々増えていますか?」
エドワードはアステリアの冷却化のことを訊いている。が、マオは笑って、
「そうでもないな。多少、寒くなったかもしれないけれど」
寒くなるからといって積雪が増えるわけではない。先述した通り、雲ができるためにはある程度の熱がいる。寒ければ蒸気が上がっても雲になる前に凍って、降雪はない。地球でも、南極などは寒いが降雪は少ない。
「エルヴィスが来てくれて、とっても助かる」とエナは手を打って喜んでいた。「雪かきも、薪割りも、わたしじゃ力になれないし、お父さんに任せっきりだったから」
食卓を囲みながら、そういう話をする。
雪国の話、狩りの話、エナの日常、帝都の話、エドワードの旅の話。他愛のない話をして日々が過ぎてゆく。
「雪が解けるのが惜しいなあ。エルヴィス殿がここを離れてしまう」
「実にいいにくいことなのですが」とエドワードは恐縮していう。「父に、二、三年は帰ってくるな、といわれていまして、しばらくは帰ることができないのです」
「だったらここにいればいいじゃない」とエナはまた手を打っていた。「あと二、三年。村の若い人たちはどんどん町に行っちゃうんだもの。人手が足りないの」
「末永くいてくださると助かるのう」
「それはわかりませんよ」とエドワードは先を濁す。彼自身、わからない。このまま、この土地で終生を過ごしてもいいと思い始めていた。
食卓は決して豊かではない。秋に収穫したわずかばかりの麦と、野菜、川の魚や獣の肉の乾物、時折その日の狩りで得た獲物が並ぶ以外は、どれも外の深雪で冷凍したものか、冬の前に乾燥させたものであり、貯蓄を切り崩して生活しているというふうであった。
ひもじい。
ひもじいという以外にない。辛うじて飢えをしのいでいるだけであり、食事をするというより、いかに飢えをしのぐかというところに重きが置かれている生活の連続なのだ。エドワード自身、ここに来てから満腹を覚えたことはなかった。にもかかわらず、マオとエナは自らの食事を削って客人に施しているふうがある。それはありがたくもあり、本当に申し訳なくもあった。
これが極北の民の暮らしかと思うと同時に、輝くような感情も彼の中で発芽している。帝都ではついぞ得られなかった家族の温もり。共に生きる、という温かさがこの父娘にはあり、村全体にも共有されている。
その温かさのためだけに、ここを終の住処にしても良いとすら思える。それも自分の甘さか、とも思う。なにせ、自分はここに来て数か月しか経過していない。あと数十年続くと考えればどうだろう。
エドワードは寝台の上で毛布にくるまりながら考える。
一日、一日、
時を経るごとに、雲は薄くなっていった。
鈍色の塊であった雲海は白味を帯び、輝く円がぼんやりと浮かんで、眩いばかりの日を差すようになると、世は春を迎える。日差しによって雪は一息に湿り、夜は凍結し、また浴びた日差しに溶けて、ぽたぽたと水滴を垂らす。大地を濡らし、緑を育む命の雫だ。ほんのわずかな極北の暖気を謳歌するため、緑は一斉に芽吹き、圧倒するほど匂い立つ。もちろん、緑以外の生命も顔を出し、その命を狙う狩人も活性化する。
ある日のこと、エドワードはマオに連れられて狩りに出た。
○
きりきりと、弓を鳴らして引き絞る。矢に乗せられたマオの視線は木立の向こうに据えられており、微動としない。ただ、万力を込められた矢じりだけが震えている。
針葉樹の高い樹冠から水滴が滴ってくる。
エドワードは静かに白い吐息を吐きながら木立の向こうを眺めていた。その先で栗毛が身動ぎして、つぶらな瞳をこちらに向けた。
瞬間、マオの矢じりはひたと宙に静止して、気がついたときには放たれていた。その軌道を目で追うこともできず、空を斬る音だけが耳の奥に余韻として残っている。
「行こう」
とマオが呟く。
木立の向こう、柔らかい腐葉を踏みながら歩いていった先にはトロイエ、見た目が鹿やトナカイに似ているため、以後そう書くが、そういう生き物が一頭が倒れていた。矢は首筋に命中していて、出血がひどい。まだ四肢を暴れさせているが幾ばくもなく絶命するだろう。
「さすがですね」とエドワードは感心する。「これほど強い弓を引いて、寸分たがわず急所に命中させるとは」
マオが鹿の息の根を止めて解体している間、エドワードは彼の弓を借りて弦を引いていた。かなり強く張られている。エドワードの弓術の腕も帝都では五指に入るといわれている。そのエドワードがこの弓を撃てたとして、的に当てる自信はなかった。
「生活の中での慣れですわい」マオは手を合わせて供養を済ませると荷物を担いで立ち上がった。「そこに、ナロウの糞がある。まだ温かいから近くにいる」
ナロウというのはウサギに似た生物のことである。もっと耳が短くて垂れており、鼻先がやや長く、白や黒、茶色の良質な毛皮が取れ、身も美味である。
「ではわたしがこれで仕留めてみせましょう」
エドワードが弓を背負い、歩き出す。
ここ一帯はポドゾルという地質だ。これはあくまで地球の用語で、この世界、アステリアの言葉ではない。寒冷地は微生物が発達せず、一年を通して落ち葉など、腐植が分解されず、ふかふかと堆積して、分解されない落ち葉はそのうち酸を生成するようになる。この酸が土中の養分を溶かして雨水などに含ませて流し、結果、土壌は貧栄養化、白色化してしまう。ただ、厳しい環境下でも生育できる針葉樹が繁茂している。
そう。見渡す限りの針葉樹の密林である。
一面が落ち葉に満たされ、緑など点々としかない。
木立の中を柔らかな日がさざ波のように寒気をかき分けてくる。腐らない落ち葉は厚く積もり柔らかく足裏を押し返してくる。
マオはなんとはなしに歩いているようだが、ウサギの痕跡を見、追跡している。溶けかけた雪の上の足跡、腐植の濡れ方または潰れ方、不自然に折れた枝片、糞の痕跡。歩きながら見つけ、追跡しているのだ。
狩りとはこういうものか、とエドワードはまた感心する。皇城の訓練場内に獲物を放って追う程度の娯楽的な狩猟しか経験のないエドワードには驚異であった。深い観察と必殺の鍛錬。どちらも生活の中で生まれ、一切の無駄を削ぎ落として研ぎ澄まされて、行使される姿に美しさすら感じる。
生きるとはこういうことか、とも思わせてくれる。そういう強さがマオの狩猟の中にあった。
「あれだ」とマオは腐葉の中の一点を指さした。なんのことかわからなかったが、しばらく眺めていると身動ぎする茶色の影があり、首を振っているのか、丸い耳の先が揺れている。
「よくお気づきになられましたね」
「それも生活の中での慣れだ」
マオに矢の一本を手渡され、受け取ったエドワードが踏み出そうとしたところで、肩をつかまれた。
「これから先は立ち入ってはいけない。ナロウが逃げる」
「なぜです?」
「奴は食事を止めて、こちらを睨んでいる。こちらの射程を知っている。警戒している合図だ。これ以上踏みこめば逃げる」
「知っているのですか? 弓の射程を?」
あんな小さな動物が、と疑ってしまう。マオは穏やかに微笑んでいる。
「踏みこんでみなさい」
マオとウサギの顔を交互に眺め、一歩を踏み出したエドワードの足が枯葉を踏んだ。まさに一瞬の出来事だった。跳ね上がったウサギは右手に駆け、一セコンとかからず視界の外へ消えてしまった。呆然とその先を眺めていたエドワードの意識はマオの笑声に引き戻された。
「どうだ?」
「驚くことばかりです」
自嘲して返し、またウサギのあとを追ってゆく。
途中、突然しゃがんだマオが「ここで引き返そう」と呟いた。
「なぜです?」
「これはグリオリの爪跡だ」と指し示したのは、一本の針葉樹で、幹の下に太い爪痕が三本、白々と刻まれている。
「グリオリ?」
「話はあとだ。早くここを離れよう」
珍しくせかせかと足を動かすマオに続こうとしたエドワードの視線が森林の中を泳いだ。遥か右手、木立の向こうを行く人の影を捉える。
「人がいます」
「なんと?」
若い男が二人、グリオリがいるらしい方へ向かってゆくのだ。
「村の若い連中だなあ」とマオは顔をしかめる。
「知らせますか?」
「声を出すといけない。奴を引き寄せるかもしれない。弓を」
マオに手渡すと、矢をつがえて撃ち放った。風を裂いて飛んでゆき、若者たちの頭上を過ぎて、向こうの木幹に突き刺さる。と、彼らもエドワードたちの存在に気付いたらしい。マオは手を振って駆け出した。
○
そのときも、ぽつぽつ、と水滴が落ちていた。
あの日、マオと出会った日と同様、枝葉の融雪から垂れている。これも同様であるが、エドワードは抜剣して敵と向かい合っていた。
その敵であるが、あの日と同様、野盗、ではなく、
「ぐおおおおおおっ!」
低い唸り声に慄いた樹幹から残雪が雪崩れ落ちてくる。
グリオリ、というのは、クマに近い品種の生き物である。立ち上がるとおよそ五メートルに達し、手のひらは人の頭より大きく、口は人の頭を一飲みして余りあり、顔はまん丸、シロクマというよりやや大きい灰色のパンダを想像すれば正しいだろう。
「ひいい」と低い悲鳴を上げて尻でにじり下がる若者が、背後に二人。その隣にはマオがいて、弓を引き絞っている。
つぶらな瞳に狂気を湛えて睥睨されると、この怪物の巨体のどこを打てばいいのやら、皆目見当もつかない。ゆうにエドワードの身長の倍はあるのだ。正面は毛深いみぞおち、次いでつぶらな瞳を見上げ、相手が動くのを待った。なにより、うしろの若造二人がさっさと逃げてくれるのを待っている。
グリオリが動いた。というより、倒れかかってきて、その腕は自らを支えようとしたのか、敵に向けられたのか、とにかく激しく振られて柔らかな腐植の地面を抉った。
すでに双爪の範囲にエドワードはいない。五歩ぶんはあとずさっている。タイミングを計って、眼前の毛深い眉間に大振りの一振りを叩き込んだ。が、手ごたえがまったくなく、エドワードの手の方が痺れている。
「ちい」と舌打ちしたエドワードと、怪物のつぶらな瞳が交錯した。牙をかみ合わせた口元からは歯茎を覗かせ、唾液を垂らし、闘争の臭いを立ち昇らせている。
ぐ、と後ろ足に力がこもるのがわかった。飛び掛かってくるか、突撃してくるのか、ともかく回避運動を取ろうと大剣を立てたが、必要なさそうだった。むしろ、ここに立って相手を釘付けにした方がいい。
しゅ、と風を切る羽根が一矢。
「がああああっ!」
と、凄まじい悲鳴を上げてのたうち回ったグリオリは片目に刺さった矢を折り、しかし、抜くことはできずに刺されたまま身を翻して森の奥へ駆けていった。
ほっと気の抜けた体が崩れ、膝をついていた。
向こうのにいたマオは弦を指にかけたまま矢の行く先を見送って、何事かを若者たちに話していた。彼らは腐植を掻くようにして村の方へ逃げてゆく。それも見送ってから、マオはエドワードの下へ来て、手を差し伸べた。
「大丈夫か、エルヴィス」
「え、ええ」と答える舌にもまた力が戻っていない。「大丈夫でした。ありがとうございます」
しかし、とエドワードは続ける。
「世の中にはあんな化け物がいるんですね」投げ出していた装備品を集め、ひとつひとつを確認してゆく。若者二人と合流した途端、背後から現れたのだ。あまりの迫力に、いくつかの死線をかいくぐってきたエドワードですら足が震えていた。いまも震えている。
「あれはクロッサス山脈より北の極北域に住む生き物でね。あの辺りはグリオリのような生き物がゴロゴロしておるよ」
マオだけが飄々としている。左右を確認して、近くに危険がないことを確かめているのだ。
クロッサス山脈はレオーラ大陸の植生北限である。この連峰より北は植物もなく、植物を主食にする草食動物が存在しない。プランクトンを食う魚と魚を食う肉食獣と肉食獣を食う肉食獣がしかいないと思ってもらって構わない。負けたら即捕食される世界であるため、力のない者は淘汰されてああいう怪物しか跋扈していない。
「恐ろしいところですね。そういった強者しか生き残れない地というのは」
「強者、か」とマオは笑う。
「なにかおかしいので?」
「力が強いだけでは生き残れない。現に、あのグリオリはあと三月もすれば死ぬ」
「なぜです?」
「北の生き物は北の寒さがなければ生きていけないのだ。厚い肉とかたい革、太く豊かな毛は確かに身を守るためには役立つだろうが、南側の夏の気温では体を冷ませず、体力を失っていずれ死ぬ。あれだけの巨体を維持するのはもの凄い食料を必要とするし、それは北側の大型獣を捕食できるから得られるもので、南側では手に入らない。南側の生き物は小さいものが多く、素早く長い距離を走る。グリオリはなかなか捕まえられない」
「なるほど」
「あれは、ここでは弱者だ」
「あれが、弱者?」
あれほどの力を持ってしても弱者であるのか。
「おそらく、北の競争で負けて、南に下ってこざるを得なかったのだろう。北では生きていけなかったのだ」
「敗北したから弱者であると?」
「なにが弱者というか、難しいところだが、少なくとも、ああして生きていけなくなることは弱者だろう。自然とは苛烈なもので、生きる力のない命は瞬く間に奪われる。生きることはとても難しいことだ。その点、この世に生きる命のすべては強者だ」
「生きる命のすべてが強者、ですか」
「あの草も、この木も、そこを飛んでる小さな虫も、おまえが逃がしたナロウも、みんな強者だ。なにか一つ、絶対に他者には負けない強みがあるものだ。他の種とは違うものを食べるとか、特殊な場所で生活できるとか、とてつもなく足が速いとか、種の撒き方が巧緻であるとか、とにかく何かひとつ、絶対の特徴があって、それを生かして生きている」
「この花にも?」とエドワードは足元の小さな黄色の花に触れる。
「セントウカだな。この植物のない大地で咲くこと自体、強さだと思わないか?」
訊かれて、エドワードは頷くしかなかった。辺りを見回しても、色どりなど落ち葉の茶色と雪の白しかなく、息が凝るほど寒い。そもそも、この厚い腐植の上では土が遠い。どうやって根を張って、栄養を補給しているのか、まったくの謎だ。それでも、この花は咲いている。
「セントウカは針葉樹の幹に咲く。そういう植物はいくつかあるが、セントウカは花を咲かせるのが最も早い。雪解けとともに花を咲かせて、たぶんそいつもあと二、三日もすれば枯れるはずだ。落ち葉の降り積もったの中で極北の冬を耐え忍び、春とともにどの植物より先に芽吹いて種を蒔く、そういう力がある」
力がある? この花にも?
エドワードのくるぶしより低いところで、髪のように細い茎をのばして、辛うじて腐植の中から顔を出した、小指の先より小さな花弁。ふわ、とそよ風に揺れ、頷くように踊っていた。
「力のない者はこの世界から消えている。それが自然の在り方だ。弱者は死に絶え、わしらの目に映ることはない。いや、例外があるな。あのグリオリのように、死にゆくものは目にすることができるよ」
「死にゆくもの……」
この言葉がエドワードの人生観を大きく変えることになるのだが、いまの彼は恵まれていて理解できず、へえ、と頷く程度だった。
そのときが来たのは、数日後のことである。
エドワードは狩りの途中、溶けかけた雪を踏み外して、崖から転落したのだ。
よくある事故だった。
崖の縁に雪が積もっていて、本来地面のないところにまで張り出しているように見えた。まだ雪の山歩きに慣れていなかったエドワードにはその感覚がわからず、崖の縁まで出て単純に滑り落ちた。
雪が深かったことは滑落の原因であったから不幸である。だが、幸いでもあった。雪がクッションになって数百メートルという距離を滑落したというのに深手を負うことはなく、崖下の雪に埋もれたのちも自ら這い出して動くことができた。しかし、ある程度の怪我を負わなかったのも、雪で滑って崖の中ほどに一度も停止できなかったのも不幸なことで、マオが崖の上でその場を動くなと叫んでいる声が聞こえることもなかったし、怪我がなかったためにその場を動いてしまった。村に続く道を探したのだ。
こういう場合、普通、転落したところに留まって助けを待つのが良い。崖の付近であれば、横に穴を掘れば雪洞にもできる。しかし、平地に出てしまうと、一人で雪洞を作るのは非常に難しい。吹雪にあってしまうと、雪洞作りは困難な作業になる。実際、彼は吹雪に遭って、雪洞を作ることを諦めた。持っている道具は、獲物を回収する革の袋、弓、矢が数本、獲物を解体するための短刀、少しの干し肉と小さなヘリオスフィアだけであり、この程度のヘリオスフィアでは大した熱も出せず、掘雪はできない。短刀で掘っても吹雪が押し込んでくる雪片の方が多い。
四方は吹雪の白に閉ざされ、同じような針葉樹が立ち並び、もはや東西南北どちらを向いているのかも定かではない。
白雪の牢獄に中にいる。
○
ごうごうと雪が舞っている。吹き付けてくる。鹿の一頭を仕留めて、腹を裂いたエドワードは内臓を取り出して、獣肉の間に自らの身を潜ませた。
血と脂が肉から溶け出して滴り落ちてくる。生臭く、気持ちが悪い。ただ、温かく、吹雪の音も遠ざかってくる。
まだ吹雪の中にある爪先を、膝を畳んで肉の中にしまい、鼻で息をするのを止めて、口で呼吸を繰り返す。はあはあ、と呼吸の音がいやに耳につく。吹雪の音がさらに遠ざかってゆく。意識が朦朧としてくる。
吹雪は止む、とエドワードは信じていた。もうじき春である。昨日までは陽光に満ち満ちていた。数アウルと経たず止むであろうと信じていた。しかし、それは根拠があるわけではなく、彼の願望だった。
吹雪は止むことなく、鹿の死体とその中にいるエドワードを雪で覆ってゆく。
外の景色は見える。可能な限り、体を縮めて鹿の中に潜んでいるつもりではあるが、どうしても無理がある。人一人を丸まる呑んで腹を閉じることは難しく、顔の前だけ閉じきれず、外に晒されている。
寒い。このまま死ぬのかもしれない。
鹿の遺体も冷えてきて、視界も霞み、飛びかけた意識の先に赤い瞳を見た。
ウサギが歩いている。
長い顔の先にある黒い鼻を引くつかせて、真っ赤な瞳でエドワードを見、背中を向けて駆け去っていった。
吹雪の中を。
この、吹雪の中を。
駆けてゆく。信じられない。いったいどういう生き物なのか。
エドワードの頭の中で、鮮烈なほど明確な意識が結ばれて、形作られてゆく。
そうか、と思う。
彼らは強い。自分より、よほど強い、ということを骨身に染みて理解した。
自分の弱さ。この山に生きる命の強さ。自然界に生きる命の強さ。当たり前の草花にも強さがあり、彼らは強いからこそ生きている。
おれはどうだ?
こんなところで死にかけているおれは!
おれは弱者か?
エドワードの中で沸々と熱が湧き上がってくる。
「うおおおおっ!」
嵐の中で絶叫した。
おれは生きる。生き延びてやる。
冷えかけた鹿の遺体を捨て、外に飛び出したエドワードは雪原の中を走り出した。
吹雪が止んだのは、それから三日後のことである。
○
ぱちぱち、と暖炉の火が燃えている。
「目が覚めた?」
エナの声が聞こえる。優しい声が。
柔らかな手に、手を握られ、握り返した手に手が重なる。
「エナ、おれは……」
「ダメじゃない。道に迷ったんなら、その場を動いちゃいけません」
「もっと前に知りたかった」
「山歩きの常識でしょう」
ぱち、と手を叩かれる。ごめん、と小さく謝ることしかできなかった。
「でもよかった。あなたになにもなくて」
「ああ」とエドワードは浅く頷いた。
手と手を握り合う。
三日間、吹雪いた嵐ののち、結成された捜索隊が山に入り、数アウルの捜索ののち、エドワードを見つけた。彼が生きていたことも驚きだが、自分の足で歩いて捜索隊の方へ向かってきて、手を振る余裕すらあった。駆け寄ったマオの胸に倒れ込み、意識を失ったが、五体は満足であり、凍傷もなく、指の一本も欠けることもなかった。
「どうしてたの?」と、エナは、エドワードが体を起こせるようになってから訊いた。彼は寝台の中で、おかゆを食べている。
「温泉にいたんだ」
「温泉?」
クロッサス山脈が火山帯であることは以前に触れた。火山帯の下にはマグマがあり、マグマは地下水を温め、温められた地下水は噴き出すと通過路の地質を含有していて通常の湧き水とは性質がちょっと違ってくる。これを温泉といい、その流路にある岩石などによって泉質が異なる。
エドワードはクロッサス山脈が火山帯であることも、温泉があることも知っていて、北面から獣が降りてくるほど近いなら、当然、噴出口のひとつや二つがあると信じた。見つけられなければ死ぬ、とも思った。
吹雪の中を走り回り、流れる小さな川を見つけ、それが悠々と雪を溶かしているのを見、温泉であることを確信して上流に向かった。降雪の中、積雪した斜面を必死に昇り、夕暮れを前にして、源泉を見つけた。濛々と湯気が立って、乳白色をしている温泉であった。
エドワードは歓喜し、それでも冷静さを失わなかった。ここで慌てて湯に浸かると、濡れた体を乾かす手段がない。濡れたまま服を着、絶望的なまでに体温を奪われるはめになる。
エドワードは、獲物を入れるはずの革袋に温泉を汲み、雪にかけたのだ。その熱で穴が掘れる。どんどん掘って、雪洞にし、風雪をしのいだ。雪にかけた温泉は冷えて、夜間には壁が凍り、小さな雪洞の強度は飛躍的に増して、安心して暮らせるほどになったという。残っていた干し肉を少しずつ食し、露出した土の上に腐葉を置いてヘリオスフィアを発火源にして焚火にも当たった。近くを通るウサギを見つけて、矢を放ち、一匹を仕留めて食料にした。火は体を温め、肉を焼くのにも役立つ。ただ、常に飢餓状態であることに変わりはなく、雪洞から輝く朝日を見た日、下山を試みてマオたちと合流した後、力尽きた。そしていまに至る、というわけだ。
「本当に運がよかった」
「そうだね」とエナは、その話を聞いて笑うだけであった。
この美しい笑顔にまた出会えた奇跡に、心の底から感謝したエドワードも笑っていた。
○
エドワードの体調が元に戻って起き出したころには季節はすっかり春であった。道端に雪の影はなく、苔とシダの緑が茂り、針葉樹は青々と輝いている。
「春になると小麦を蒔くの」とエナがいう。
この村で蒔く小麦は、地球でいうところのライ麦に近い黒っぽい色の種だ。寒冷地でも逞しく実る品種で、北国では重宝されている。
村の者総出で畑を耕して種を蒔き、蒔き終わって豊穣を祈る祭がある。祭といっても、なんということもない。夜、大きな篝火を焚いて、その周りに卓を並べて食に酒に舌鼓を打つのである。出店などがあるわけではない。単なる大きな宴会である。去年の蓄えと春に芽吹いた山菜、冬の間に脂を蓄えた川魚や獣たちの肉がテーブルに並ぶ。若い男女は篝火を囲んで手を取り合って踊るともいう。
「祭が始まる前に約束しておくんですよ」と村の男がいっていた。「小さな村でのことですからね。大抵、意中の相手に申し込んで、受け入れてもらえればいずれ夫婦になるって流れです」
「へえ」とエドワードは適当な相槌を打っていた。エドワードの下には幾人もの女性から申し込みがあったが、断り続けていた。自分は村の外の人間であるから必要以上に関わるのを控えたのだ。そもそも、どういう踊りなのかも知らない。それともう一つ、エナも男たちの申し込みを断っているようであったから。
「わたしは朝から会場の手伝いをしないといけないから」
そんな暇はない、という。すでに村のご婦人方と当日の献立、役割分担、下ごしらえなど忙しい。
エドワードの中で、誘わなくてよかった、という想いと、誘うつもりだったのか、という自問が錯綜して彼を煩悶とさせる。
おれはいずれここを出て帝都に帰る。村の人間に必要以上に深入りするな。
しかし、とも思う。
感情というのは、自らの意志でどうにかなるものばかりではない、ということも、このときに知った。
祭の当日、燦然と日差しが降り注いでいる。
人々は朝から慌ただしく、卓には料理が並び始め、村の中央にある広場では真ん中に篝火の準備が始まっていた。誰もがこの地方の民族衣装であるらしい。あちらでは酒盛りが始まり、あちらでは楽器を鳴らして歌を歌い、あちらでは剣闘などをやって、弓術に興じている者もいる。
「エルヴィスさんもどうです?」と誘われた。名をアルフレッド、といったか。ぼさぼさの頭を掻きまわしながら嬉しそうにいう。「剣の腕は遠く及びませんけれど、弓の腕ならいい勝負ができるかも」
「はは、おれだってそれなりに覚えはあります」
村に来て、幾人かの弓を見ているが、自分より上なのはマオくらいのもので、他に負けている気はなかった。
「では、受けて立ってくださるんでしょうね?」と訊かれて、
「武人として、挑まれれば当然受けて立たねばならない」
弓術場、といっても、土を踏み固めた広場だったが、そこには八人ばかりの人がいた。五十メーターばかり先の木の枝には木板が太い紐で吊るされていて、その板には五重の丸が描かれている。この丸を狙って、三本ずつ矢を放つのである。七人が終わり、誰もが木板に直撃させて円の中に入れるものの、中心点を射抜く者はおらず、エドワードが弓を取って引き絞っていた。
そのときのことである。
「勝った奴はエナさんに踊りを申し込むってことで」
と、誰かがいい、放たれたエドワードの矢は高く浮いて明後日の木幹に突き立った。ははは、と笑声が立つのをエドワードは恨んで眺めた。
「緊張していらっしゃる」
「おれの辞書に緊張などという言葉はありません」
エドワードは弓を引き絞る。静寂が辺りを包んだ瞬間、放たれた弓は空を裂いて五十メーターの距離を飛び、木板の中心をぶち抜いた。紐を跳ねさせて、木板は裏に表に、激しく揺れている。エドワードは続けざまにもう一射、揺れる木板に直撃させた。一本目の弓の根本をへし折って、新たに中心点に突き立っていた。
おお、と歓声が上がる。
「こんなものだ」とエドワードは弓を一人に手渡す。
「弓の腕まで一流かあ」
「大したもんだなあ、まったく」
「これはエナさんを譲るしかないなあ、畜生」
「エ、エナのことは関係ない」とエドワードは本当に稚拙な憤慨をして、村の中を歩いていった。その視線は落ち着かずに左右をうろうろと、しかし、彼が意識して誰かを探しているわけではなく、むしろ、意識して誰かを探さないようにしている。
「おう、エルヴィス」とマオに声を掛けられて、彼は他数名と卓を囲んでいて、木のジョッキ片手にすでに顔を赤くしていた。エドワードはその隣に腰かける。
「エナには会ったかい?」
「会ってませんよ」
「ルースさんの家で料理の手伝いをしているよ」
「いるよ、といわれましても……」
「夜の踊りには誘ったのかい?」
「誘ってませんよ」と歯を食いしばっていう。今朝はそればかりである。マオは穏やかに笑っている。向こうでは別の会話の輪ができて、こちらはすっかり二人だけで言葉を交わしている。
「まあ、君は旅の人だからね」
「家を追い出されただけですけれど」
「でもいつかは帰るんだろう?」
「帰るつもりではいます」
帰って帝位を継ぐ。そういえば、ここを出るとき、父はアンガスに攻め込む様子だったが、あれから半年、どうなったことか、大陸東部の戦況はこの村には届かない。まあ、先日まで雪に閉ざされていたし、官公庁もない小さな村だから、仕方のないことではある。
「この村は長くないかもしれない」とマオは杯を干していう。「年々、土が枯れてきている。今年の収穫もあまり期待はできないだろう」
エドワードはなにもいわない。寒冷化は極北の植生を奪う。極北に人は住めなくなる。そんなことはわかっている。わかっていることを話したところで意味はない。
「あの娘には、ここを出ていくという道もあるんだがな」
遠く、煙突から煙を吐く木屋を眺めて、マオは長いため息をついた。
喧騒が遠くに聞こえ、眺めた青空を小さな鳥が横切ってゆく。
○
この日のエドワードは本当になにもすることがなかったし、しなかった。
鳥の羽ばたきを眺め、雲の数を数えているだけで日が傾き、やがて夜になった。村人の大半からしてそうである。
ぼんやりとしていたエドワードは村のあちこちにある松明に火が灯ったのを見、日没を知った。ずうっと空を見上げていると、案外明るいもので、雲が赤みを帯びていても地上は暗黒色である。
ぱちぱち、と篝火が燃えている。村の広場にある大組木にも火が入り、赤々と燃え、それを囲む祭囃子はより盛る。太鼓が鳴り、笛が鳴り、高低の音を交えながら篝火の周りを男女が踊っているのも遠くに見えた。
しばらく眺めていたらしい。周囲に人はいなくなり、細い月が高くなっていた。足の速い雲に追われて見え隠れを繰り返している。
今日一日、あらぬことに希望を抱き、無為に過ごした気がする。
自嘲気味に笑い、もう寝てしまおうか、と立ち上がったエドワードは踏み締められる草の音に気がついて、そちらを向いた。月と篝火の明かりの境、その薄闇の中に人がいる。
「こんばんは」と彼女は朗らかにいう。
「ああ」と応じたエドワードの声はややうわずっていて、手は頭を掻いていた。「エナは行かなくていいのか?」
「いいんです。わたしはみんなが楽しそうにしてるのを見ている方が好きだから」
「エナが楽しくなくても?」
「好きなことをしているのは楽しいものよ」とエナは笑っている。
彼女が心の底からそう信じているのも、彼女の性質がそうであることも、エドワードは知っている。エナは人の幸福を望み、人のために尽くす柄である。父の面倒を見、村の子供たちの面倒を見、老人の話を聞き、友人たちの相談に乗り。それで誰かが幸福になるのなら、それが自らの幸せであるという。本気でそういっていることはわかっている。彼女の性質に合うこともわかっている。わかっているが、
「あの」と手を差し伸べた。エナの端正な顔が不意に上がり、月の明かりに美しく彩られる。穏やかな微笑みを湛える顔が。
「一緒に」と口走ったエドワードの声はまた上ずっていた。彼女が小さく笑い、エドワードは咳払いをして、もう一度、
「一緒に、踊ってくださいませんか?」
涼やかな風が流れるとともに、エナは顎を引き、
「はい」
と短く答えた。
手を取り合った二人が広場に現れると、鼓笛は音を止めて、周囲の視線は釘付けにされた。一度手を解いて距離を取ったエナがスカートの裾をつまみ、お辞儀をする。エドワードも引き受けて頭を下げ、手を取り直す。と、鼓笛の音は目覚めたように響き出し、他の男女も歓声とともに踊り出し、遠く針葉樹の梢も細やかに鳴る。
篝火の薪が音を立てて燃えていた。
○
事件が起きたのは、それから数か月後、秋口のことである。村に徴税人が入ったことに端を発する。
帝国法は完全に地方自治で、徴税権は各地の領主に預けられている。軽いところでも収入の三割は取られるといわれている。コリオス村はリッジウェイ家の領内にある。領内には商業もあり、産業もあり、辛うじて農業もできる環境から、経済は活発といっていい。活発な経済は豊かな富を生み、豊かな富は豊かな税収を生む。こんな田舎の村落相手にそれほどの暴利をする必要はあるまい、とエドワードは思っていた。
「どれほど取られるのです?」とマオに聴いた。
「六対四だ」
「四割も取られるのですか?」
「いや、六割だ」
あまりの暴利にエドワードは絶句した。
例えば、百万円分働いたうち、六十万を税金に持っていかれるということだ。
「そんな暴利、許されるのですか?」
「領主の決めたことだ。なにもいえない」
徴税人たちは穀物庫を調べている。
「これで全部か?」と官史の一人がいう。「どこかに隠しているのではないだろうな?」
「とんでもございません」とマオと村の長老たちは土の上に片膝をついている。その隅にエドワードも並んで、かしこまっていた。官史は居丈高に睥睨し、
「貴様ら、隠していることがわかれば、あとがひどいぞ」
「断じてそのようなことはございません」
ふん、と官史は鼻を鳴らし、
「まあ、よかろう」と大きくはない村の穀物庫を見上げ、「帝国は戦時下に入る。伯爵閣下もなにかと入り用であるから今年は七割方を徴収してゆく」
その言葉に長老たちの顔色が変わった。何度か触れているかもしれないが、村の生産能力は年々減少している。やや正確な数字を挙げると、この年は数年前の七割にまで落ち込んでいたこれも一つの例だが、毎年百万あったはずの収入が七十万に減っているのに、そこから七割引かれるということだ。四十九万を吸われ、二十一万しか残らない。そもそも、四十万の収入でもかつかつだったコリオス村から、さらに二十万引かれては生死に関わる。
「それでは生活がままなりませぬ」とマオが頭を下げたまま前ににじり、「どうか、ご容赦を。慈悲をくださいませ」
「バカをいうな」と官史は笑い、「おまえたちは閣下の土地に住まわせていただいているのだ。それだけでもありがたいと思え」
「今年の収穫から七割を引く、ということは、我々に死ねといっているのに同義。どうかご容赦くださいますよう、なにとぞお願い申し上げます」
「黙れ、この下郎が」
官史はかたい革靴でマオの顔を蹴り上げた。のけ反ったマオはすぐさま片膝突きの姿勢に戻り、深々と頭を下げた。その頭に官史は唾を吐きかけるのを見、エドワードのこめかみがヒクヒクと蠢いた。
「貴様ら愚民どもが意見できると思っているのか」
穀物が徴税人たちの手で運び出されてゆく。この官史もその方へ身を向けて、
「生きていけぬ、というなら死ね」
「待て」とその背中に、エドワードが声をかけた。官史も思わぬ粗雑な言葉に振り返り、エドワードの怒りに燃える瞳を見た。
いまだかつて、これほどの怒りを覚えたことがあっただろうか。エドワードは全身を震わせて、官史に詰め寄り、彼の上に影を落として、その背をのけ反らせるほど圧迫した。
「わたしがリッジウェイ家と話をつけてくる。それまでこの村の穀物には手を出すな」
普通、市民が高級官史に居丈高に詰め寄れば斬られても文句をいえない世界だ。この官史はエドワードを市民を思っているなら通常斬る。しかし、彼の圧に屈し、彼の言葉使いに口を挟むことも、態度にも文句をいうこともない。
「な、なにをいっているのか」と震える声で交渉にもならないことを喋っている。「閣下が貴様らの言葉に耳を傾けるなどと……」
「わたしは是か否かを訊いている」
有無を言わさず問われ、官史は小さな悲鳴を上げて尻もちをついた。
「ま、まあ、おまえたちが行くというのなら……」
「では待っていろ。すぐ帰る」
厩舎に向かおうとするエドワードを長老たちが囲み、
「エドワード」
「おれはリッジウェイ家に行ってきます。帰ってくるまで、こいつらに麦の一粒も与えてはなりません」
「わたしも行こう」とマオがいうのを、エドワードはよほど断ろうかと思った。リッジウェイ家に行けば自分の素性を明かさねばならず、できることならコリオス村の者たちには秘匿しておきたい。しかし、なにかしらの証人は必要になるし、エドワードがコリオス村に不利なことをしない保証も彼らにはない。
「わかりました。共に行きましょう」
他に若い二人を連れて馬を駆けさせた。針葉樹林の中を、どう急いでも一日の距離だ。エドワードたちが領都に入ったのも日が暮れてずいぶんしてからだった。
リッジウェイの町は主要道路は舗装もされて、煉瓦の官庁舎も立ち並び、馬車の行き来もヘリオスフィアの街灯も豊富にある。ただ、町の中心部から離れれば道路は剥き出しの土になり、明かりもなく、建屋も木板を張り付けただけの貧相なものであった。町に建つ八割方の家が木製の貧家といっていいだろう。
いま、この町を見れば官民の格差が明確にあることがわかる。あらゆる業種から六割近い法外な税を徴収し、商工業のみを円滑にするために主要道路を舗装し、官のみが利益を上げる。その中心に一際巨大できらびやかな建屋がある。前庭に据えられた街灯は夜空を照らすほどあり、敷かれた白石の目地も夜闇の中でくっきりと見える。赤煉瓦の建屋は両翼もあり、奥行きもあり、三階のさらに上にある屋根は緑の瓦に覆われて、無数にある窓からは温かな光が眩いほどに漏れている。
富の集積だ。ヨシムラが言っていた、民から富を絞り上げて作り上げた、この上なく醜悪な御殿だった。
鉄柵門の前に馬を止めたエドワードは、左右に立って長槍を交差させる衛兵らを見下ろした。
「なに用か?」と右の衛兵が問うた。
「コリオス村の者である。税について当主殿に伺うことがあり、参上した。ここを通されよ」
「ダメだ。伯爵閣下はお忙しい身であられる。何者も通せん」
「わたしは第七代皇帝、ヘンドリッヒ陛下の嫡子エドワード・ボルナレフである」
その名乗りを聞いて動揺したのは門兵だけでなく、コリオスの村の者たちも、だった。
「通さなければ後々皇家と禍根を残すぞ。いかがする?」
軽く脅しただけで長槍は退き、門扉が開いた。かつかつと蹄を鳴らしながらエドワードは歩みを進める。
「エルヴィス」とマオが馬を並べた。
「父が厳しいもので、偽らざるを得ませんでした。ご容赦ください」
「いや、それは構わんが……」とまでいって、軽く笑った。「この言葉使いも改めねばならないな」
「いえ、わたしは村の者たちを友人と思い、マオ殿を第二の父と慕っております。そのままで」
「ふふ、ならいいか」とまた笑って、エドワードも併せて微笑む。
邸宅の中は吹き抜けの広間があり、赤絨毯が敷かれ、頭上には小さなヘリオスフィアをちりばめたシャンデリア状の晶機が下がり、きらきらと輝いて、なにより、温かい。廊下が温かいなど、僻地では考えられないことだった。どれほどのスフィアを乱用しているのか。
これが帝国貴族かと思うと、全身の血が沸騰したかと思われるほどの熱を持つ。握った拳が震えていた。
「リッジウェイはどこだ?」とエドワードは努めて冷徹に問うた。皇太子の突然の出現に屋敷内は上に下にの大騒ぎで、取次に出た執事も片膝をついて声は震えている。
「皇太子閣下、いまリッジウェイ卿は取り込み中でございますから、また日を改めて」
「ならん」と一蹴し、無数にある扉の一つずつを蹴破るようにして開いていく。と、一際大きな二枚扉の向こう、長い重厚な食卓の奥に丸々と太った若い男がグラス片手に分厚いステーキを頬張っていた。くちゃくちゃと肉を噛みしだく、その眉間に深いしわを寄せていた。
「リッジウェイ伯爵だな?」
「バカな奴ら」と肉の垂れ下がった顎を揺らしながら、イヤに甲高い声でいう。
「なんだと?」
「バカな奴らだなっていったのさ」とリッジウェイは卓にグラスを置き、「皇太子がこんな最果ての町に来るわけがないだろ。偽物に決まってる。ひっ捕らえろ」
リッジウェイは食器を叩いて命じるが、エドワードの左右に控えていた兵は主と客を交互に見、狼狽えるばかりだった。エドワードは彼らを無視し、
「皇家の一族は十五でリッジウェイの領地を訪れ、二、三年過ごすしきたりになっている。ここにいて不思議はあるまい」
「陛下の一族が西に下られる際はわたしの家に逗留なさる。薄っぺらい知識をひけらかすと恥をかくぞ」
「父はリッジウェイ家で学ぶことは一つもないといっていた。その意味がよくわかったよ。まったく正しい」
投げられたグラスは壁にぶつかって盛大に割れた。怒りに頬を震わせたリッジウェイは卓を叩いて立ち上がり、
「貴様、身分を偽った上にわたしと陛下まで愚弄するか」
「父の愚弄はしていない」
「いいや、おまえは皇家とリッジウェイ家の絆を踏みにじった」エドワードを激しく指差し、「ただじゃおかない」
「絆などあるか」とエドワードは首を振り、「貴様のような暴利な支配者と結ぶ絆などない」
「暴利?」と呟いたリッジウェイは腹を叩いて笑った。「おかしなことをいってもらっちゃ困る。わたしは規定の通り税を集め、期日通りに陛下へお納めしている。むしろ、お褒めいただいていいほどだ」
「領主に任されているのは税だけではない。その土地に生きる民を任されているのだ。治安を守り、仕事を作り、富を作り、民の生活を円滑にする。それがおまえの責務だ。この土地は豊かかもしれない。しかし、おまえがどれほど民のための責務を果たしているか。この温もり、この輝き、おまえの食卓はなんだ?民がどういう生活をしているか知ってのことか?」
「下々の者と比べられても困る。わたしにはわたしの富があり、それをどう使おうか、わたしの自由だ」
「わたしは責務を果たせといった。民を守れと。守れないのならそれ相応のなら、貴様は領主の資格はない」
「おかしなことをいう。わたしが領主なのは誰に決められたことではない。運命だよ。血のさせたことだ」
「わかった」とエドワード頷き、「訪いの理由をいうのを忘れていた。我々は今年七割の税収をかけられている。それを下げていただきたいのだが、いかがか?」
「笑わせるな。税率は例年決められている。陛下からの勅書もある。戦争はわたしのせいではないしな。わたしも苦しいのだよ」
「この生活をしている人間が苦しいとは思えないが」
「凡人にはわからない苦しみがある」
「どうしても聞けないということだな?」
「貴様のような無礼者を拘束しないで解放してやるだけありがたく思ってもらいたい」
腰の大剣に手をかけたエドワードの肩を大きな手が撫でた。振り返ると、俯いたマオが首を振っていた。
帰り道でのことである。
よほど緩慢な歩調なのは、エドワードが先を急がず、ずっと俯いているせいである。四方が口々にいう。
「エルヴィス、落ち込むことはないよ」
「仕方がなかったのさ、貴族なんてあんなものだ」
「村に帰ってどうやって冬を越えるか、考えないといけないな」
「越えられるのか?」とエドワードは陰鬱な声で問う。「あの糧で、冬を越え、春と夏を越えて、次の収穫期まで耐えられるのか?」
誰もなにもいわず、俯くばかりであった。
「それが世というものだ」
と、マオが諦めたようにいうが、
「違う」とエドワードは絶叫した。「違う。あなたたちは強い。生きるということの厳しさを知っている。生きる力がある。強くなれる。死にゆく命ではない」
「貴族を倒せというのか?」
マオの一言に誰もが黙った。それ以外に村の者たちの命を守る手段がない。
「戦って勝てるというのなら」とマオは頷いた。「戦うこともしよう。しかし、無駄な命を削ることはできない」
「勝てるというのなら」と呟いたエドワードの声は震えていた。頬を伝って涙が落ちる。
「勝てるというのなら、戦ってくださるのか? この腐った世界を討つために」
エドワードはすぐさま四方に人を放ち、近隣の村の状況、リッジウェイの内情を探った。
○
それから数日後、エドワードは卓を叩いていた。
「勝てるか」と自らに問いかけている。
リッジウェイ家は悪党ではないかもしれない。だが、無能者には違いない。施政者でありながら、無能なのは罪に近い。
領内の農工商、漏れなく莫大な税を徴収し、遥か南方の王国から大量の食糧と酒、調度品を輸入し、莫大なヘリオスフィアを買い入れて自家で垂れ流すようにして消費している。そのためにだけではないのかもしれないが、ここ一帯のヘリオスフィアが他所より二割から三割高騰しているのは事実だ。その影響はリッジウェイ家の領内だけでなく、近隣の領地まで及んでいる。
各地に怨念が充足しているのは間違いない。これを噴き出させれば戦いになる。
しかし。
リッジウェイ家の領内には極めて小さな村落しかない。百人にも満たない集落が点々とあるだけだ。コリオス村で戦える人数というのは二十人前後といったところだろう。他の村落も同様だろう。それが十個結束したところで、二百人余りの人数にしかならない。対して、リッジウェイ家が抱えている兵数は、千二百、といわれている。六倍の数を揃える戦士階級に素人集団で挑まなければならない。
どうしても勝てない、という想いが浮かぶ。
村の若者十人ほどがエドワードに賛同し、様々のことを偵察してくれて、いまも公民館に集って、同じ卓を囲み、頭を悩ませてくれている。いまのところ、案のひとつも出ず、暗い空気があるだけだが。
「今日は解散にしよう」とエドワードは頭を振った。「一晩寝れば、いい案が浮かぶかもしれない」
沈鬱な空気のまま出ていく仲間たちの背中を見送って、エドワードはまだ卓に向き合っていた。この地域の地図と、偵察によって得た情報の要点をまとめた紙片が数枚。鹿の脂の塊に差し込んだこよりの先に灯した、極めて貧弱な明かりに辛うじて照らされている。
この世界の明かりは普通ヘリオスフィアを用いた機械、晶機によって得るが、コリオス村は節制のために、このやや臭う脂を少しずつ燃やしながら夜間の明かりにしている。この村がどれほど困窮しているか。いや、この村だけではない。リッジウェイ家の領内にある民のどれほどが困窮しているのか、それを考えるだけで、エドワードの拳は震えてくる。
「まだ考えてるんですか?」と、暗闇の向こうの椅子から声がした。
「アルフレッド」とエドワードは見えない彼を一瞥し、「今日は解散だといっただろう」
「勝てないでしょう?」
エドワードは沈黙している。アルフレッドの方が続けた。
「リッジウェイ家の方が圧倒的に戦力が豊富です。勝てる見込みはまったくありません」
「わかっている」
「それでも戦おうっていうんですか?」
「おれは勝てない戦いはしない」
「では、これからどうするんです?」
エドワードは黙っていた。その手は膝に立てかけていた剣を強く握っている。
「エルヴィス一人で、もう一度リッジウェイ家に行き、刺し違えてでも伯爵を殺しますか?」
エドワードは自らの一案を射抜かれて、眉間にしわを寄せた。
「よくないですね。こんなことであなたが死ぬことはありません」
「他に手段があるか?」
帝都に帰ったところで父は力を貸してくれないだろう。エドワードのいまの立場では一兵も動かせない。
椅子をアルフレッドが椅子を軋ませて、思案の雰囲気を漂わせた。さらに一息ついて、
「エルヴィスは皇太子と聞きました」
エドワードは暗闇の中を見据えるだけで黙っている。
「こんなところで無駄な闘争に加担せず、帝都に戻って帝王学でも学んだ方がいいんじゃないですか?」
「おれは」とエドワードはかたく目をつむったまま唸るようにいった。「おれの一族がこの程度の国家を作ったのかと思うと虫唾が走る。いや、違うな。なにも作ってなどいない。ただ搾り取っているだけだ。おれがそれを継ぐんだと。笑えてくるだろう?」
エドワードの乾いた笑いだけが公民館に弱々しく響いた。
「おれは、この一事を始末しない限り、皇位を継ぐことはできない。おれ自身の矜持のために」
「矜持のためにぼくらを使うんですか?」
「そういうことになってしまうな」と、またエドワードは軽く笑い、「弱いな、おれは」
長い沈黙が続いた。唐突に、アルフレッドの髪を掻く音がした。
「これはぼくの独創ですから、実際できるかどうか」
アルフレッドから語られる策を聞いたエドワードは椅子を蹴って立ち上がった。
「アルフレッド」と叫ぶようにいう。「おまえは天才だ」
「ですが、机上の空論です」
「それをおれが現実にして見せよう」
窓辺に近づき、外の空気を取り入れた。いっぱいに吸い込んだ肺と頭が清々しい。
○
翌日、アルフレッドの献策を村の有力者たちに申し立てた。
「やる他あるまい」とマオを含む男たちは俯いたまま頷き、この一事でコリオスの村を上げたリッジウェイ家との決戦の火蓋が切って落とされることになった。
エドワードは各村々に使者を送り、同時に帝都から持ってきた金のすべてを吐き出して傭兵を集めた。
さらに、右に書いたような、エドワードの論調を主にしたため、リッジウェイ家に送っている。文末には、「異存あれば兵をもって語られたし」と入れた。
リッジウェイ伯爵はその書状を握りつぶし、その拳で卓を砕くほど叩いた。
「奴らに目にものを見せてやれ」と手持ちの兵と傭兵、千二百をコリオスの村に向かわせることになるのだが、それより少し前、エドワードがこの書状を執筆している最中、エナが彼のもとを訪れた。
時間がないために、エドワードは睡眠時間も削って工作に走っていた。書状の執筆もまた獣の脂の臭いに包まれながら、もくもくと執筆を重ねていた。
「エルヴィス、いい?」とエナが入ってくる。
「どうした? おれは忙しいぞ」と筆を走らせながら、一瞥もくれずにいう。
「どうしても、戦わないといけないことなの?」
問われ、エドワードの筆はぴたりと止まった。筆を置いて体ごと振り返ると、エナの強い視線がそこにあった。
「わたしたちはまだ耐えられる。ひもじい思いをしても、まだ生きていくことができるの。あなたが本当に皇太子なら、あなたが皇帝に即位してからリッジウェイさまと戦えばいいのではないの? なにも、ここを戦場にしなくても……」
「エナ」とエドワードは返し、「おれはいつか貴族を、高貴なる血、というものを殲滅しようと思う」
「高貴なる血?」
「人の能力は血によらない。よらないなら支配者が血で決まる必要はない。ただ、血が権威を持っただけのことだ。その血脈を断ち、新しい体制を敷く。誰かがやらなければならない。例え血を流すことになっても」
「あなたが、高貴なる血の頂点にいるのに?」
「いったはずだよ。支配者に相応しい人はおれの他にも多くいる。ならその人に譲りたい。例えば、エナとか」
「わたし?」と彼女は目を丸くする。「わたしが、支配者だなんて、そんなこと……」
「だからおれは戦おうと思った」
「わたしは支配者になんてなりたくない」
「だから良くない。人はもっと自信をつけなければならないよ。わたしは強い、この世界を変えられるほどの力があると、古い世を打倒するだけの力があるということを民が自覚し、行使しない限り、新しい世は訪れない。一人一人が、世の頂点に立つ、立てる可能性のある生き物であることを自覚させる」
「一人一人が、世界の頂点に?」
「そうだ」とエドワードは頷いた。「そのための楔を、おれはここで打ちたい。市民によって貴族を倒すことができるという証明を、ここで打ち立てる。帝国の民の目を覚まさせる戦いをする。おれが放浪者である、いまのうちにしかできないことだ」
「でも、この村は犠牲になる」
窓の外を見遣ったエドワードは立ち上がって、エナの手を取った。ひざまずいて、その白い手の甲に口づけをし、
「約束する。十年ののち、必ず、この国を大国とし、皆が平等に、豊かな暮らしを享受できるようにすると。エナと、君の子供たちが、幸福に暮らせる国を作ると、ここに約束する」
だから、と祈るように彼女の手を額に掲げた。
「いまは、すべてをおれに預けてほしい」
彼女の指先には困惑の色がある。
戦うこと、人を殺すこと、殺されること。それも未来のために必要なことなのだと。いまの人が血を流さなければ、子供たちをこの腐った世界で生かすことになる。それは子供たちを井戸の底に突き落とすのに似ている。
エドワードはヨシムラの話していた。井戸と子供の話を思い出していた。子供が井戸に落ちかけたとき、おれはそれを救うのか。
当然、救う。例え、代わりに井戸へ落ちることになっても救う。
民は子のように愛せ、ともいっていた。ならば、民を救うためにおれは代わりとなって井戸に落ちることも厭わないはずだ。それを躊躇するのはおれの心が汚れているから。躊躇なく決断しろ。魂の汚れを落とせ。
おれたちが犠牲になろう、とエドワードは思う。そんなことは彼女もわかっているはずだ。わかってくれるはずだ。
ふと、指先に力がこもる。伝わってくる決意の意志に、エドワードは顔を上げた。
「約束、ですよ」
大きな瞳を潤ませた、エナの微笑みがあった。温かな二つの手のひらがエドワードの手を包み込む。
○
コリオス村には続々と勇士たちが集まってきている。リッジウェイの圧政に苦しむのはどこの村も同様であり、エドワード挙兵の書状を授かった村々は共闘を誓って腕の立つ若者たちをコリオスの村へ派遣して、反乱勢の抱える戦力は瞬く間に百の数を上回った。
もう一つ、エドワードに幸いだったのは大陸西方において、名を上げたい士が意外に多くいたことである。東のアンガス攻略のため武を磨いていた者たちで出遅れた者は中央荒野を渡る時期を逸し、西の地に残っている。そういう連中が血の匂いを嗅いでコリオスの村周辺に入っている。腕試しということだ。
「わたしは皇太子エドワード・ボルナレフである。リッジウェイの首を上げれば多少の報酬は約束しよう」
帝都からの旅程で余った金のすべてを支出し、戦勝の折は帝都にてそれ相応の階級を望む者には約束した。
当然、リッジウェイ側でも傭兵を入れている。エドワードが皇太子の名を語っているからといって、彼の側に入るなど、よほどの酔狂といっていい。このころの皇帝というのは自らの兵を帝都にしか持たず、地方貴族から兵を借りて戦争をするという状態であった。ヘンドリッヒが即位して以降、中央軍は再編されて相当数の兵を抱えたとはいえ、その権威はまだ貧弱である。そもそも、彼を本物の皇太子であると信じている人間の数は、コリオス村の中でも手の指で足りるような状況であった。
よって、エドワードが戦おうとすればまさに民兵のみの戦いであり、敗北は必至に違いない。自然、傭兵の数も信用と資金の豊富なリッジウェイ側が多く抱え、エドワード側は筆舌に尽くしがたいほどの劣勢にある。
が、先に幸いと書いた。なぜなら、ここでひとつの出会いがあり、エドワードの運命を、引いては、レオーラ大陸とアステリアの運命までをも軋ませるからである。
その日、エドワードはコリオスの村の中を歩いていた。人の数は増し、秋の収穫はすべて支出することになりそうである。だが、リッジウェイを討てば、その館には蓄えがあるはずで、なくてもリッジウェイの家の家財を担保に手に入れられると踏んでいた。この戦いに負ければ、コリオスの村だけでなく、この挙兵に関わった村が尽く全滅することになる。全滅すれば、リッジウェイの領地も極端に人を減らして自然衰退していくことになる。リッジウェイはいずれにしても破滅の道を突き進んでいることになるが、それにも気づかなかったことに、当主リッジウェイ伯爵の質が窺える。
話が飛んだが、エドワードはコリオスの村を歩いている。
中央広場には無数の幕舎が張られて、篝火が立ち、公民館は共同の宿営地兼炊き出し場となっている。公民館を出たエドワードは寒風吹きすさぶ中央広場の一角、暗闇の隅に置かれた卓に、一人の男が腰かけているのを見かけた。
エドワードも自らの長身には自信があったが、それを越してあまりあり、身体の幅においては向こうの男の方が倍もあろう。赤い髪をうしろに撫でつけ、丸太のような腕を組み、一人瞑想をしているようであった。
一目見て傭兵だろうと思った。しかし、そろそろ霜の張る寒さである。なにを思って、焚火も遠ざけ、寒風の中に身をさらしているのか。
その異様をじっと見つめるエドワードに気づいたのか、巨躯は薄くまぶたを開き、太い首を回して琥珀色の瞳をエドワードに向けた。
「寒くはないのか?」とエドワードが訊いた。
「寒い」と男は呟いた。「だが、それもまたいいものだろう」
おかしなことをいう。エドワードは男の向かいに座っていた。興味を持ったのだ。
「わたしに加担してくれてありがたく思う。必ず勝たせる」
「戦いというのは一時の運だ。必ず勝つ、ということはない」
「まさにそうだが」とエドワードは笑った。「わたしは将としてそういうことをいわなければならないんだよ。わたしが負けるかもしれないなどといえば誰もついてこない」
「おれは負けて構わない」
「ほう?」とエドワードは意外な思いで訊き返した。「なぜ?」
「おれは腕を試したい。この剣の切れ味を試したいだけだ」
男は鞘ごと腰にぶち込んだ刀剣の柄を撫でて、
「できる限り、険しい戦場を望んでいる。できることなら、貴公の側が負けてほしいとも思っている」
「負ければ普通生き残れないぞ」
「万の敵に囲まれれば、万人ぶんの試し斬りができる」
「貴公は狂人だなあ」と眉をひそめた。しかし、口元は笑っている。エドワードはこの男が本気でそんなことをいっているとは思わなかったのだ。「名は?」
「ヴォルグリッドという」
「ヴォルグリッド、か。エドワードだ。よろしく頼む」
エドワードが差し出した片手を、ヴォルグリッドは一瞥し、億劫そうに、それでもしっかりと彼の手を握った。
○
コリオス村はリッジウェイ家麾下の戦闘部隊千二百人に包囲されたその日、失火した。ごうごうと火の手が上がり、家屋の尽くが燃え尽きたのだ。リッジウェイ隊は失火の直後に突入、村には老人しか残っていないのを見た。
「若い者たちは皆、山に入った。ここには一人もいない」と老人たちはいう。
「皆はわしらも連れてゆこうとした。だが、足手まといになるのは嫌じゃ。だから、ここに残った。人質にするのも構わんが、彼らはまったく意に返さないだろう。そういってある。さっさと殺せ」
老人たちは無言のまま座り込み、まったく抗戦の意志を見せない。リッジウェイ隊長は彼らを捕虜とし、そのように遇した。縄で捕らえ、後方に輸送するのだ。ただ、その前にコリオス村近辺の地図を広げ、エドワード率いる反乱勢がどこに潜伏しているのかを問い質した。
「ここじゃ」と老人たちは簡単に答えた。「この山の斜面に洞窟がいくつかある。そこにこもって抗戦するつもりじゃ。皆は正々堂々おまえたちと戦い、勝利するつもりでいる。疑うなら隣の山に登れ。ここの斜面から洞窟の様子が窺えるはずじゃ」
放たれた斥候は老人のいう『隣の山の斜面』から、反乱勢のこもると思われる洞窟の近辺を調査した。確かに、篝火が焚かれ、人の気配がある。また、別の斥候は、洞窟のある山のふもとまで接近し、主要な道といわれる三本を確認、そのすべてに兵が伏せられているのも見ている。
洞窟までの道に、平地はほとんどない。崖と傾斜と礫と岩石の重なった旧勾配があるばかりだ。あるところでは針葉樹が生い茂り、地面には腐葉が積もってよく滑り、あるところでは岩と岩の境目ばかりで、人が横になってようやく通れるような、道ともいえない道しかない。天然の要害といっていい。
「しかし、百人ばかりの手勢など、一息に踏み潰してやる」
リッジウェイ隊隊長は大見えを切っていう。百人あまりの民兵など、戦闘を生業にしている貴族階級とそれに準ずる者たち千二百人からすればお笑い種だった。負けるわけがない。
それ以外にも様々の事情がある。
敵の拠点を知りつつなにもしないまま、老人のみをひっ捕らえて帰れば、伯爵の怒りを買うのは間違いない。この隊長はその職を免じられることとなる。兵糧攻めをしても同じだろう。彼らを包囲して冬を迎えれば必ず勝てるが、撤退は伯爵が許さないために、この部隊も山の麓で冬を越すことになる。降雪の激しいこの辺りでは、補給がままならず、おそらく多くの餓死者が多発することになるだろう。
その辺りの理由からもこの隊長には侵攻の一手しかない。
「全隊前進」と号令を下した。
エドワードも右のことは見越している。人は要所に配しているのも事実だし、リッジウェイ側の斥候に見透かされるのもわかっていた。むしろ、見えるようにした。彼にしてみても、攻めてきてくれなければ困るし、そのために自分たちの居所と多少の手の内を開いてみせた。
「敵兵の数、およそ千二百」と数人の斥候から連絡が来る。
「まさか全兵を出してくるとは」とエドワードは驚いている。
「リッジウェイ家も傭兵も雇っている、という話でした」とアルフレッドがいう。「彼らが混ざっていることを考えれば、二、三百人は町に残しているかもしれませんね」
「なるほどな」
全兵を出したと思ったのはエドワードの早計かもしれない。物事の判断は常に余裕を持たなければならないようだ。学ぶことはまだまだ多い。
「エルヴィス」とエナが心配そうな顔でいる。
「エナはここにいてくれ。子供たちのことを頼む」
手を取り合い、身を寄せて、額を預け合う。
「うん」とエナが呟き、「気を付けてね」
「ああ」と頷いて、身を離した。
外套を翻し、寒風を切りながら洞窟を出る。
○
リッジウェイ隊はおよそ千二百ある人数を三手に分けて押し寄せてくる。対するエドワードも三手に人材を割かざるを得ない。手元に予備兵も割く都合、一か所辺りの数は三十に満たず、相手の実に十分の一に近い。しかし、道は極めて狭く、登るにはどうしようもなく険しく、ただでさえ登攀の容易ならざる場所にもかかわらず、妨害者がいるのだから侵攻側はたまったものではなかった。極端な話、十人が十人、縦列に並んで岩石の間を抜けることしかできず、防衛側はそれを前から一人ずつ射抜いてゆく。しかも、彼ら、防衛側は一人一人が狩りの名手であり、五十メーター離れた指の先すら打ち抜く技量がある。鎧を着固め、盾を持って、にじるように前進してもほんの小さな隙間を狙って、三十近い矢じりが殺到し、串刺しにされる。
針葉樹林地帯でも同様であったといっていい。二十度を上回る斜面は壁のようで、さらに腐葉に満ちていてとにかく滑る。張り付いては腐葉が崩れ、慎重に進まなければ簡単に滑落する。にもかかわらず、頭上から矢の雨が降り注いで来る。
唯一、礫地帯方面だけが、侵攻側に可能性を感じさせた。富士山の八合目付近の様子を思い浮かべてもらえればいい。剥き出しの土の上に無数に転がる大粒の礫はしゃがめば肉体の八割ばかりは覆えるほどで、登攀の障害物になるのは間違いないが、壁にもなって侵攻側には有利に働く。
「ここが要衝でしょう」とアルフレッドがいい、エドワードも頷いた。そのために、兵を多めに割き、予備兵をいつでも送れるよう、特に連絡を密にしていた。が、その心配も杞憂に終わることになる。ここに一人の悪魔が誕生したからだ。
のちに、黒騎士として名を馳せる、ヴォルグリッドである。
このころの彼は、まだ市販の鈍色の鎧に身を包んでいた。しかし、腰には黒剣がある。それを引き抜いた。
漆黒の円弧が宙に刻まれる。
「おまえの力、試させてもらうぞ」
その太刀は目にも止まらないほどの速度で、矢を薙ぎ、鋼鉄の鎧を裂き、四方を囲まれてなお袈裟斬りで一人を始末し、敵の一刀を躱して踏み込み、逆袈裟に一人、上段から振り下ろそうとする敵の胴を一閃してもう一人、逃げようとした一人を背中から串刺しにして、計四人をものの五セコン程度で斬り殺している。
返り血を浴びたヴォルグリッドの鎧は真っ赤に染まり、乾いて黒ずんだその姿を黒騎士と呼んだともいう。
リッジウェイ隊側はこの日、ヴォルグリッドの猛威に煽られ、ただ逃げ惑い、半日と経たずに甚大な被害を出して、礫地帯から撤退している。
○
そういう攻防が七日間も続いた。その間、リッジウェイ隊側は礫地帯にかける人数を厚くしてみたり、様々に登攀の可能そうなところを探させて少数を向かわせてみたり、夜襲をかけてみたりと様々のことを試みている。
しかし、その尽くはエドワードの想像する内側のことであり、彼の防御網を看破するには至らなかった。
少しでも登攀の可能性があるところには伏兵を据え、夜には夜目の効く狩人を配していた。夜行性の動物の毛皮などは狩る機会が少なく、市場に出回る量も少なく、従って特に高く売れるといい、専門に手掛ける人間がいる。当然、昼間に巣を狙う猟師もいるし、罠を仕掛ける猟師もいるが、夜に森を歩き回って矢を放つ猟師も、またいる。彼らにとって夜間、野生の動物を狩ることと、森に不慣れな都会の人間を狩ることと、どちらが楽か、比べるまでもない。夜戦は戦いにならないため、リッジウェイ隊は野営地としたコリオスの村跡地まで引き下がった。エドワードの諜報によると、リッジウェイ隊は後方からの資材とともに、人員も補充されているという。彼らにはまだ二百以上の人数が確保されている。対して、エドワード側は毎日一人、二人と同士を失い、それを補填するために日々編成を替え、辛うじて戦線を取り繕っている、というふうであった。
二つの勢力の衝突はただ一点、礫地帯に絞られつつある。
弓兵の援護を受けながら、リッジウェイ隊百の人数が刀槍を閃かせつつ、急坂を駆け登ってくる。これに対して、坂上からも矢が放たれ、人はバタバタと倒れてゆく。が、その遺体を盾にするように攻めかかり、反乱勢の群れに飛び込んで白刃をきらめかせる輩はいくらでもいた。その都度、エドワードが雇った傭兵部隊が突出し、ヴォルグリッドを中心として剣戟をかわし、追い払う、ということが度々あった。
「ヴォルグリッド、よくやってくれた」
と、エドワードは何度彼の肩を叩いたかわからない。ともに戦った者たちもヴォルグリッドのことを神かなにかのように慕い、敬った。この男とともに戦場に立てば負けることなどありえないのではないかという興奮が、そういう神話に近いものを目の当たりにしているという興奮が、同士たちの端々にまで溢れている。
リッジウェイ隊は苦闘の果てに、侵攻を取り止め、作戦の練り直しを図った。
「どうやら、塹壕を掘って、それを壁にし、進軍する計画のようです」
礫地帯に、長い溝を掘って進み、掘り出した土を土壁にする。その場合、弓兵はほとんど効果を為さなくなり、防衛側の攻撃力は著しく削減されることになる。問題は冬の前にどこまで掘り進められるかということであるが、リッジウェイ側は力押しを諦めたということだ。
大きな戦闘のないまま三日が経ち、反乱勢力が籠城してから十日目のことである。リッジウェイ隊が塹壕工作も取り止めたらしい気配があった。
「リッジウェイ隊の一部に撤退の動きがあります」と斥候から報告がある。また別の方面から人が駆けてきたのは、別の村からの連絡員である。山に慣れた彼らは軍が登攀不能と断じた道も通ってこられるのだ。
そういう難路を登る連絡員は十数人もいて、彼らは下界の状況を口々にいった。
「仲間たちは村を出て、リッジウェイ邸を取り囲みました」
「よし」とエドワードは頷く。
アルフレッドの計画は、伯爵の持つ兵の尽くをコリオスの村に引きつけることにあった。兵さえなければ伯爵の館は容易く包囲できる。
このリッジウェイ家打倒の戦いに賛同する者は数千人といた。しかし、そのほとんどは武器を振るうには非力な者が多かった。彼らを使って、無防備になったリッジウェイ邸を囲い込む、というのがアルフレッドの献策だった。
エドワードは賛同者の一人一人にまで、貴族を打倒できるのだという意識を植え付けたいために、戦いをするとしても、この非戦闘者にならなければならない者たちの扱いにも苦慮していた。その面から見ても、アルフレッドの立案した策は天才的といっていい。
エドワード率いる戦士たちを囮とし、非戦闘者たちを主力とする。可能な限り、この愚鈍な伯爵を挑発し、手持ちの兵をすべて出させ、山岳部の奥の奥にまで食い込ませて、足止めをしなければならなかった。
その計画がいま、最終段階を迎えようとしている。
○
夜の帳の中、梢の擦れる音と、鳥の鳴き声が、よほど遠くに聞こえた。ばさばさ、と羽ばたきの音もいくつか聞こえたが、寂しい森の野営地にとっては子守歌である。
焼き尽くされて消し炭の残ったコリオスの村にはリッジウェイ隊の幕舎がいくつも張られ、幕内に灯った明かりがほんのりと夜を朱に染めて、それなりに美しい光景であった。点々と小さく灯る篝火の明かりとそこから噴き出す火の粉もまた美しい。その合間を兵士の一人、二人が歩いてゆき、左右を警戒し、また次の篝火に向かってゆく。
ばさばさ、とまた鳥の群れが厚い雲のかかった空を走っていった。
通常、夜間警戒の兵は二人で一組、または三人で組み、異常があった場合は一人、二人がそれに対応し、一人が全隊に通達する。その通達方法は様々あるが、リッジウェイ隊の場合は笛であった。帝国では獣の牙や骨を削ったものを使うのが一般的であり、この家もその例に漏れることはなかったが、まあ、それはいい。
二人の兵が篝火の明かりの中を歩いている。
ぱちぱちと閃く火の粉の向こうで茂みの鳴るのに一人が気づき、足を止めて眺めていた。彼の手は剣の柄にある。
「どうした?」とわずかに先行していた一人が振り返って彼に問う。
「いや、なにかいた気が……」
茂みから飛び出したのは、一匹のキツネ、正確にはキツネではないが、それに似た生き物である。
その小動物は茂みから飛び出し、兵らに一瞥をくれ、いま出てきた茂みにも一瞥をくれ、別の方角の方へ駆けていった。
「なんだよ、驚かすなよ」と二人して笑い合う。
警備兵の二人が茂みから背を向けた瞬間、一人の胸元から黒い切っ先が飛び出した。驚き振り返った一人はその鼻先に矢じりを食いこませ、仰向けに倒れてその生を終えた。
ぞろぞろと黒い装束の男たちが森の中から湧き出して、四方へ散ってゆく。
兵の一人を串刺しにしたヴォルグリッドは黒剣を引き抜き、血を払い、そばの幕舎を捲った。そのころには満天に悲鳴がこだまし、野営地のそこここを装備もままならない兵が逃げ惑い、ある者は森の中へ逃げ込み、ある者は街道をひた走ってゆき、またある者は武器を手に取り、刃向かっては取り囲まれ、絶命している。
「降伏した者は手にかけるな。我々は虐殺をしているのではない」
エドワードも森の中から姿を現し、幕舎の間を駆けた。中央付近の一際大きな幕舎の周囲に無数の馬が止められているのを見、幕舎内を強襲して鞍や鐙、その他を回収して瞬く間に馬上の人となった。他、六人ばかりの人数がエドワードと同様、手綱を握っている。
「一通りの襲撃が終われば山に戻ってくれ。我々はこのままリッジウェイ邸へ向かう」
エドワードはいうが早いか、夜の街道を駆け出していた。
○
「なんだ、どうなっている?」
リッジウェイは狼狽えながら部屋の中を忙しなく歩き回っている。
彼の屋敷が包囲されてすでに五日が過ぎている。日に日に献立は貧弱になり、彼の旺盛な食欲と趣向を満たすには足りなくなり、足りなくなったとて、補充される見込みもない。屋敷に運び込まれる物資のすべてを民衆が差し止めている。
すでに屋敷の使用人の半数以上が屋敷を飛び出して、包囲側に加わり、掃除する手も足りなければ、風呂も沸かせず、自ら身支度もできない彼の身嗜みは乱れに乱れている。
「やはり税のことに民は腹を据えかねたのではかなろうかと」
執事が頭を下げるのをリッジウェイは、ふざけるな、の一言で黙らせた。
「わたしは帝国法に許されている範囲の中で徴税している。なにを非難されることがある、寝言は寝ていえ」
「しかし、閣下がわずかでも節制してくだされば……」
「おまえはバカか。わたしの領地で得られた富だぞ。わたしは奴らを住まわせてやっているんだから、その礼を受けて当然のはずだ」
執事はため息ひとつ、話を変えた。
「リッジウェイさま、反乱勢を代表するマオという男はリッジウェイさまに投降するように、と」
「おいおい、面白い冗談だな」と椅子に思い切り腰かけた。「あんな理性のたがが外れた狂人たちに投降すれば袋叩きにあって死ぬのがオチだ。いや、いや、待てよ」
リッジウェイは手のひらをかざし、
「その男はどこだ?」
「外で民衆を率いております」
「よし、その男を殺そう。敵の指導者さえ殺せば散り散りになるはずだ」
「では閣下が……?」
「おまえ、脳みそが足りないな。なぜ私がそんな危険を犯さなければならない? おまえがやってこい」
「はあ」
呟いた執事は退出し、リッジウェイは満足げに安楽椅子に腰を下ろした。これで万事解決である。と思ったのだが、いつまでたっても包囲の解ける様子がない。どうしたのかと窓から外を窺ってみると、自分の執事が包囲勢と肩を並べてリッジウェイ打倒のプラカードを掲げていた。
「あ、あの男っ!」と卓を何度となく叩き、「帰ってきたら、クビにしてやる」
顔を真っ赤にしていたが、当然帰ってくることはない。翌日の朝を迎え、彼が寝台から身を起こしたときには屋敷には一人の従者もいなくなっていた。
さらにしばらく時が経ち、明かりも必要な時刻になったころのことである。この日、水しか口にしていないリッジウェイは朦朧とする意識の中で、扉が激しく開かれる音を聞き、飛び上がって入口に向き直った。
「久しぶりだな、リッジウェイ」
「に、偽皇太子」
「わたしが本物であるかどうかはもはや問題ではない」
黒い外套に身を包む彼の左右から、同じ格好の男たちが六人、部屋の中に忍び入って、リッジウェイを取り囲んだ。
「すでにおまえの生き死には外に集まる民衆の手の内にある。なぜこうなったか、貴様にわかるか?」
「ふ、ふん、あいつらが馬鹿だからさ」
エドワードはリッジウェイの乗る安楽椅子を蹴り飛ばし、彼の巨体を絨毯の上に転がした。呻いて座り直す彼の前に、エドワードは干し肉の一切れを差し出した。
「食え」
リッジウェイは不審に思いながらも空腹に苛まれていたために、受け取ってむしゃぶりついた。とはいったものの、一口と少し程度でしかない量だった。ものの数秒で彼の胃に落ちてゆく。
「満足か?」とエドワードが問う。
リッジウェイは、ふん、と鼻を鳴らし、
「こんな不味い肉片で満足するバカがいるか」
「これが一日の食料になる民がいる。それがおまえの領地だ」
リッジウェイは目を見開いたのも一瞬、鼻で笑い、
「仕方ないな。そういう星の下に生まれたんだと思えば……」
ぱん、と甲高い音を立てて、エドワードの平手がリッジウェイの頬を打った。リッジウェイは受け身も取らずに絨毯の上へ倒れ、
「な、なにをする」
「これが最後だ」とエドワードは腕組をしつつ、「投降するのか、それともまだ抵抗するのか」
「投降などするものか」と悪びれもせずいう。「わたしは悪くない」
「貴様は貴族だな?」
「だからなんだ?」
「ではそれらしくしてやろう」
従者たちは窓を開け、リッジウェイを蹴り出すと、エドワードも寒空の下に出た。民衆の熱狂が足下から湧き上がってくる。それをエドワードが両手をかざしてやや鎮めた。
「彼は徹底抗戦の意志を示している」とエドワードはいう。「ならばその意志を称えてやろう」
従者に一瞥をやると、彼は腰に差していた剣を鞘ごとリッジウェイの前に放った。甲高い音を立てて転がるそれをリッジウェイは理解できないような顔で見つめている。
「抜け」とエドワードはいった。彼はすでに腰の剣を抜き放ち、両刃の鈍色を篝火の下に晒している。「おまえが貴族であるのなら、貴族らしく決闘しよう」
「ちょ」とリッジウェイは両手をかざし、「冗談だろ?」
「おまえは自分のことを貴族と称した。称した以上はそれらしく振舞ってもらおう」
「わたしが剣など……」
「抜かないのなら、ここから下に放り込むぞ」
足下には群衆がその熱を潜めながらたむろして、手には刀槍を閃かせている。
「うくく」とリッジウェイは脂汗を流しつつ、鞘を握った。白刃を引き抜き、中段に構える。エドワードも中段に構えた。
群衆は完全に静まり、篝火の弾ける音が風に混じって響いている。
突如、リッジウェイの奇声が空を裂いた。おもむろに上段に変じ、エドワードに殺到してゆく。
この振り下ろされた剣の切っ先をエドワードの剣が激しく弾いた。弾くと同時に片足が踏み込み、刃は寝かされ、一閃を引いた。リッジウェイの胴は腹部から上下二つに分かれて、血飛沫を散らしながらバルコニーの上を転がっていった。
わあ、と群衆は沸く。
「これはわたしの勝利ではない」とエドワードは声高にいう。「君たちの勝利だ」
民衆による熱狂の渦が帝国の最北西の地に湧き上がり、はるか後年、エドワードの手によって大陸全土を巻き込んでゆくことになる。
○
この、いわゆるリッジウェイの変と呼ばれる争乱は、団結した地方民兵による反乱ということになり、エドワードの関わりは年表から消えることになる。
変事ののち、エドワードは近在の領主たちに親書を送り、皇太子である自分が民を率い、奸臣リッジウェイを討ち取ったのだと説明した。それで誰もが納得してしまった。この時代、地域の貴族というのは、自分たちの領内のことにしか関心がなく、領外のことはどうでもよかった。ただ変事が自領に飛び火するのを恐れたが、それは絶対にない、とエドワードが皇太子の名をもって確約したことで一応の平穏を得た。そもそも、この時期、この地域は降雪と寒気と足の速い闇夜によって完璧に閉ざされて戦乱などまったく想像もできない。その半年ともいわれる長い冬季が民衆の頭を冷やしきっていた。
春、リッジウェイの変の報は帝都にまでもたらされ、ヘンドリッヒ帝の耳にも入ったが、
「貴族の失脚など無能のため」
といっただけで一蹴してしまった。このころのヘンドリッヒ帝はアンガス侵攻計画と酒豪晶術の研究に余念がなかったためでもあるだろう。貴族の一人を偵察に向かわせ、そのまま管轄に据えただけで一切の関わりを断った。
たったこれだけのことで、リッジウェイの変は終焉を迎えている。
一方で、エドワードは春になれば討伐軍がどこかから向けられるものと思って、冬のうちに蜂起勢を解散させていた。傭兵たちにもリッジウェイ家にあった金を持たせて去らせているし、反徒の拠点であったコリオス村の住民もあちこちに潜伏させて足跡を辿れないようにしている。
ただ、幾人かが、エドワードと深い関わりを持っていた。
まず、ヴォルグリッドとアルフレッドである。
三人はリッジウェイ邸の一室にいて、暖炉を一つだけ焚いている。時は長い夜の中で、外は黒。明かりも薪の燃える輝き、一つだけだった。
「この戦いで勝利できたのはおまえたち二人のおかげだ」とエドワードはいい、二人に友情以上のなにかを感じていた。「これからもおれの力になってほしい」
「これからというと、なにかするつもりなんですか?」とアルフレッドが片眉を下げた。ヴォルグリッドは表情の筋肉一つ動かさず、椅子に座っていても背もたれに背中もつけず、かたく腕を組んだまま黙然としている。
「おれはこの国に跋扈する貴族、いや、このレオーラ大陸に蔓延る古い血の信仰を駆逐する」
ちら、とヴォルグリッドがエドワードの方を見、次いでアルフレッドと目を合わせた。アルフレッドは苦笑しながら頭を掻いて、
「おやおや、おかしなことをおっしゃる」と冗談交じりに、「ということは、エルヴィス、いえ、エドワード自身、駆逐されることになります」
「ああ、いずれはおれも駆逐される。おれ自身の手によって」
握り込まれたエドワードの拳を見、アルフレッドはぎょっとした。ヴォルグリッドが声を上げて笑ったことに、さらに驚いた。
「いいだろう」とヴォルグリッドは唸るようにいった。「アンガスも、王国も、すべて呑み込み、帝国も解体して、新たなる国家を打ち立てるというのだな?」
「そうだ。アンガスも、王国も粉砕する。そのためにはおまえたちの力がいる。おまえたちがいてくれれば、きっとできる。この大陸に、民による民の国家を建築する」
「そうなればもっと人を斬れそうだ」
「参ったなあ」と失笑したアルフレッドはまた頭を掻いて、「ずいぶん大きく出たもんだ」
「じきにおれは帝都に戻る。おまえたちもいずれ訪ねてきてくれ」
ヴォルグリッドは元の形に戻ってなにもいわなかったが、アルフレッドだけは目を丸くしている。
「帰るんですか?」
「帰る。春になればな」
「そのこと、彼女には伝えたんですか?」
エドワードは息を呑んで、アルフレッドから目をそらした。暖炉の、崩れゆく薪の光を眺めている。
リッジウェイを斬って以降、ずいぶん長い日時が経過しているが、エナと言葉を交わしていなかった。たった一度だけ、
「殺す必要があったの?」と沈鬱な表情で問われただけだった。この問いにも、エドワードは答えていない。
それからさらに時が進み、この地域にも緑の芽吹く季節が巡ってきた。
すでに民兵は解散されて、傭兵たちはもちろん、ヴォルグリッドもこの地を去っている。
エドワードには意外なことに、どこからも討伐部隊が派遣されることはなく、彼らは完全な沈黙を保っていた。これを見て、エドワードはコリオス村の再建に着手し、その事業も軌道に乗りつつあった。
そして、とある夜のこと。
天頂に美しい月が浮かんでいた。地上には広々とした畑地があり、その隅に点々と残雪がある。
一頭の馬が、蹄をひそめて、白銀の世界を闊歩してくる。
針葉樹の影から顔を覗かせたエドワードは明るい空を見上げ、背後に満載した荷物を見、馬首を街道へ向けた。
「行くのか?」
そばの針葉樹の影から聞こえた声はマオのものである。
エドワードは馬を降り、
「マオ殿、本当にお世話になりました。あなたを第二の父とお慕いしています」
「エナには伝えたのか?」
あの日から、一言の口もきいていない。だが、その必要もなかった。
エドワードは顔を背け、
「おれの行く道は修羅の道です。リッジウェイのような輩の死体を踏みつけてゆく道です。彼女には似合わない」
「そうか」とため息に混ぜて呟き、「おまえのこと、息子と思っている」
短い抱擁を重ね、
「いつでも帰ってこい」
肩を叩かれたのを潮に、身を離して駆け、馬上の人となった。疾風を巻きながら街道を行く。
南天に輝く純白の月へ向かって、息の限り、足の限り、駆けさせる。
このまま、死ぬかもしれぬというほどに駆けている。
喉が干からび、凍える空気が肺を刺す。
「エナ……」
彼女の顔が眼前の闇の中にちらつく。
置き去りにしろ。すべてを置き去りにしろ。人としての妄念を捨て去って、純粋な一個の修羅とならねばならない。でなければできないことをしようとしている。そのために駆けている。この白銀の道を。
汗が噴き出し、涙と混ざって、風に散った。
おれは戦う。彼女と彼女の子供たちが搾取されない未来のために。この大陸に無数に存在する、温もりのために。誰かの愛する誰かを守るために。
おれが一個の修羅となって、世界を変革させる。あらゆる『支配者』を打倒する。このおれさえも打倒する。
エドワードは駆けている。
吐き出す息が、いまだ白い。
○
以後、エドワードは南下して、スレイエスに入った。ここでヨシムラを探そうか、とよほど悩んだが、果てのないことになるかと思い直して、さらに南を目指した。いまの彼には志があり、それを成すことに生のすべてを捧げる覚悟があった。
南には王国があり、コルトがある。
彼は大陸にある支配者とはなにかを知ろうとした。いずれ戦う既得権益を学ぼうとした。そのため、一度通ったディクルベルクを通ることを考えなかった。ディクルベルクにはアントワーヌの善政を信奉する者が少なからずいる。そういう言葉を聞いていれば、貴族に対する意識はいくらか良いものになっていたはずだし、のちの悲劇は回避されていたかもしれない。が、そうはならなかった。
エドワードの足は南へ向かっている。
率直に言えば、王国も帝国と変わらなかった。
貴族という堅牢な岩盤の上に立った支配者層が、足下に広がる民を見下ろしている。帝国に比べ豊かであることは確かであり、間違いない。だが、それは立地がさせることだろうと断じた。種を蒔けば芽を出し、放っておけばいずれ実る。王国とはそういう土地の上にある。生きることに苦労のない民であり、その余裕が下々にまで行き渡っている。ただ、それだけのことである。
ウッドランドは輪をかけて腐っていた。共和国、という新しい国体を得て、民政を施しているという話だったが、どうであろう。前戦乱で政権を得た、いわゆる成り上がりが貴族の皮をかぶろうとしている姿は見るに堪えなかった。王国には、二百五十年に及ぶ時間が下地にあって、その生地に貴族という色合いを繊維の一本にまで染み込ませた布の如く出来上がっているが、ウッドランドは表面に絵の具を塗っただけの浅ましい似非貴族の跋扈する国家であった。
これは民政ではない。
民政とはなにか。一年を費やして、大陸を放浪したエドワードは帝都に帰還して、フョードルに聞いた。この章の序盤、コリオスの村に行く方法を説いてくれた重臣である。彼は真白な髭をもふもふと動かしながらいう。
「答えがあるわけではありません」
「ないのか?」
「ないわけでもありません。決まっていないのです。皆で錯誤していくことこそ、民政の原型です。皆で法律を決め、それを皆で施行し、皆で従う、そういう国家のことをいいます」
「では国民に立法させればいいのか?」
とエドワードは問うたが、フョードルは首を振る。
「民政とは、パンのようなものです」と彼はいう。正確にはパンとはいっていないが、レオーラ大陸で小麦を練って焼いた食べ物のことを例に取り、「生地のままでは不定形で、よく練り込まなければ美味しい生地にはなりません。ただ練り込んでも美味しくありません。工夫をしなければ。味付け、水の量、粉の具合。そういったことを学ばなければなりません。国家も同じです。特に、民政となれば、国を作るのは国民です。一人一人が国を作るのです。国民全体が学ばなければなりません。それによって、法の理解が進み、法が施行され、また新しい法が求められ、民政という生地が出来上がるのです」
「学ばなければならない、か」
「殿下が本当に民政を目指しておられるのなら、学問を推奨なさい。民の学がなければ、そして、一人一人が国家を作っているという自覚がなければ、国家を形成することは絶対にできません。民に国家を学ばせるのです。それはいずれ国家だけでなく、文化、文明の発展に寄与することでしょう」
それに従い、エドワードは帝都に学問所を開いた。彼の私費であり、入学に制限は設けなかった。身分の高低、金銭の有無、年齢の上下、男女の差異など、まったく頓着せず、来る者を受け入れ、学問を推奨した。ここで優良な成績を修めれば帝国の高官にもなれるといわれ、ある程度の人数は集まったが、やはり貴族、と称される者たちが多かった。彼らには余暇があり、市民にはそれがない。余暇があれば仕事をして、家計の助けをする、というのは老若男女に関わらない、一般の常識であった。この習慣をエドワードは深く恨み歯噛みして、就学者数を増やそうと試行錯誤するのだが、細かい話になるため省く。
ともかく、帝都では学問が推奨されて、国民の生活水準を大いに引き上げた。例えば、ヘリオスフィアの工場は技師が増えたことで数を増やし、晶術士と呼ばれる詠唱に長けた者たちも数を増やして、集合晶術の運用を簡便かつ円滑にした。潤沢なヘリオスフィアは夜の街を明るくして、暖房も水も安価にした。こういった恩恵は数え上がればキリがない。他にも、学問には書籍を用いる。書籍は増刷される。増刷された書籍は地方にまで運ばれて、各地の探究者たちの飢えを満たした。リリアが晶術士として栄達した素地もここにある。
なぜ学問をするのかと問う人がいるけれど、そういう質問をしない、させないために学問をするのだ。
エドワードはコリオスの村を出てから一年後、帝都に帰還している。このころ、すでに帝国東隣のアンガス王国はヘンドリッヒに追いやられ、二国の国境はラピオラナ山脈にまで移っていた。が、二国の争いは一旦休止することになる。大帝ヘンドリッヒが病に倒れ、崩御したのだ。その間を縫って、アンガスは領土を取り戻そうとしたが、エドワードにコテンパンにやられ、休止状態になるのだ。帝国の方からも動きはなかった。なぜなら、新皇帝に即位したエドワードが国内貴族の掃討に取りかかったからである。
ヴォルグリッドを呼び寄せ、兵制を整え、父の編み出した集合晶術を運用可能なものとし、各地の諸侯を併呑しては中央集権体制を強めていった。地方の権力もすべて自らの手中に収め、全土を平らかにしたのちに、理想国家を形成する。
そのためにエドワードは奔走していた。そのときである。極北のディクルベルクへ、天ノ岐ユウが降り立った、というか、墜落したのだった。
○
そして数年後、月のきらめく夜、彼は再び、この凍てつく街道を駆けていた。
あの日と変わらず、吐く息が白い。
まだ早い。
彼が彼自身に戒めたのは、この大陸全土を平定したのちでなければ、二度とこの土地は踏まない、ということだった。だが、たったひとつだけ、どうしてもやらなければならないことがあった。そのために、自らの戒めを振り切って駆け出している。
ヘリオスフィアの小さな明かりを頼りに針葉樹林の間道を通り抜けていった。
曲がりくねった道、揺れる梢、流れてくる土の匂い、暗闇の中でも懐かしく思う。帝都に帰ったときもこれほどの感慨に包まれたことはなかったのに。
再び月の光に包まれたとき、エドワードは遠くに民家の屋根を見た。高床になった切妻の建屋は屋根から煙突を突き出して、隣には申し訳程度の屋根を備えた薪小屋を備えている。
この建屋もまた懐かしい。どの家も窓に厚いカーテンをかけて中は窺えないが、もう寝静まっているだろう。じきに夜が明けるのではないかというほどの真夜中であった。
エドワードは一軒の家を眺め、かつてそこに滞在していた淡い記憶に駆られ、よほど扉を叩こうかと思ったものの、背を向けて馬の足を進めた。
村の外れに墓地がある。とはいっても共同のために大きな石碑が、人の身長ほどもあろうかという丸岩を半分に割ってその断面にささやかな弔いの言葉を刻んだだけの石碑がひとつ、あるっきりだった。
いま、その断面を月明かりが照らしている。
墓地を前に下馬したエドワードは柔い土を踏んで墓石に歩み寄ると、片膝をついた。祈るように、指を組み合わせていた。彼の背に、
「よく、わかったわね」
と、声をかけられた。
弾かれたように背後を見遣ったエドワードの視線の先、暗い樹冠の下から女性が一人、月光の下に姿を現した。
「エナ……」
「たったの三月前よ。父が亡くなったのは」
エドワードは墓石に向き直っている。その隣にエナが膝を折って腰を下す。
「すまなかった」
「別に、エルヴィスが謝ることじゃないわ」
「そばにいたかった」と、呟いた声は重く沈んで彼の膝元にわだかまったようだった。「マオ殿を、おれは第二の、いや、実の父以上に、父だった。あの人とともにいたのはほんの短い間に過ぎなかったが、多くのことを教えてもらった」
空を見上げ、
「あのときの旅で学んだことが、いまのおれを形作るすべてだ」
月を映す鳶色の瞳は、夜気より澄んで見えた。エナは薄く笑い、
「父は、あなたの活躍を喜んでもいたけれど、半分、危ぶんでもいたわ。あまりにもやり過ぎなのではないかって」
「おれはやり過ぎているかもしれない」と、自ら認め、「しかし、それでいい。それで世界が変わるなら」
民衆は確実に力をつけ始めている。貴族の時代はそう長くは続かない。例えエドワードが戦わなくとも終焉を迎えるだろう。が、その寿命を早めたい。自らの手で断ち切りたい。
「それが皇家に生まれた、おれの使命だから」
「父は」と呟いたエナは視線を落とし、「父は悔いてもいたわ。あなたを戦場に追いやったのは自分のせいかもしれない、と。あのとき、父があなたを止めていれば、この大陸はいまとは大きく違った未来を歩んでいたかもしれない」
さらに声を落とし、
「たくさんの人が死ななくてもよかったかもしれない」
「そうかもしれない」とエドワードは頷き、「だが、かもしれなかった世界はない。それに、おれはおれの過去に後悔はない。むしろ、誇りに思う。マオ殿に出会えたこと、彼に息子と思うといってもらえたこと。君のために……」
呟いて、言葉を呑み込んだ。隣を向くと、エナの茶色い瞳があった。
息の停まるほどの沈黙、長く、月だけが動いている。
思い出したように、さあ、と風が流れ、草木がざわめきを取り戻した。その中にわずかな枝の折れる音がして、
エドワードは立ち上がって腰元の大剣を抜いた。
ざざ、と枝葉が騒ぎ、黒い影が飛び出してくる。
月光に閃く白刃を躱し、敵の顔面に肘鉄を食らわせ、さらに横合いから来る敵を撫で斬りに叩いて吹き飛ばした。
「エナ」と叫んで彼女を引き寄せ、背中に押しやり、正面の敵三人と向かい合う。
どこかの貴族の残党だろう。バカらしくもきらびやかな服装を落人になっても嗜んで、恥じることがないらしい。
右手の一人が一歩、踏み込もうとしたときに、ひゅ、と風が鳴った。気づいたときには眼前の敵の首元に弓が一本突き刺さって倒れていた。
何事か、と思う間もなく、正面の一人のそばを黒い影が蠢いて、敵が気づくより早く斬り倒した。漆黒の尾が銀光の下に閃く。
瞬く間に三人目も斬り倒されて敵の気配は消えてゆく。
「ヴォルグリッド」
呼吸の一つも乱すことなく立ち尽くしている。彼の背後からもう一人、弓を片手に、もう片手は頭を掻いたアルフレッドが姿を現した。
「いやあ、邪魔しないつもりだったんですけど、エドワードになにかあればきっと団長がうるさいですから」
などといって笑っている。
「おまえたちは」とエドワードは眉をひそめつつも口元には微笑が浮かんでいた。アルフレッドはその横でひざまずき、墓石へ祈りを捧げている。
「おれは心配されがちらしいな」とエドワードがいう。「あっちもこっちも心配してばかりで、少し監督してくれる人がいるのかもしれない」
その手はエナに差し出され、
「来てくれるか?」
エナは瞳を丸くしたあと、綺麗に笑い、
「仕方のない人」
と優雅にいって片手を差し出し、その手をエドワードがつかむのだった。




