第四巻 剣乱編 一章 内海の波濤
一章 内海の波濤
とんとんとん、と金槌を叩く音が、エルサドルの赤屋根並ぶ町並みに響く。
アントワーヌがシリエス王国に来てから二度目の春、一個の倉庫の上に一枚の看板がかかって、いま、釘が打たれている。
「リリアさまもどうぞ、おひとつ」
「わ、わたしですか?」
そばの大工に差し出された釘の一本を手に取って、前に踏み出すと拍手喝采が鳴った。少女はそれに手を振って応える。看板の高さはさほどでもないが、ささ、と踏み台が用意され、台上になった彼女が爪先立ちになった上に腕を伸ばしきってなんとか届く。釘先を所定の位置に据え、金槌を振りかぶり、その両手と爪先が震えているのを見、群衆に後悔の念が湧いてくる。釘打ちなど頼まなければ良かった、と。しかし、いまさら引き返せず。
振りかぶって、がつん、と一撃。
釘先が板に食い込む。がんがん、と連打され、深々と刺さり、ついに釘頭も板にめり込んだ。おお、と感嘆と安堵の吐息が出る。
もう昔のわたしとは違うのだぞ、と振り返ったリリアが足を踏み外した。ざわめく大衆の真ん中でリリアがジェシカとエイムズに抱えられている。
「ご無事ですか?」
「リリア、気を付けてくださいよ」
「だ、大丈夫です。少し足が滑っただけですから」
「その少しが命取りです」
「命取りって……」緩やかに降りされながら地に足を着け、人差し指は髪先を弄んでいる。「ともかく、ありがとうございました」
「御身がご無事でなによりでございます」といって頭を下げるエイムズはアントワーヌ領代々の風俗からすると少し堅苦しい。リリアの方がぎょっとしてしまう。軽く咳払いをして気を取り直し、
「皆さんにも、ご心配をおかけしました。この社を良いものにするべく、これからもお力をお貸しください」
おお、と激しい歓声が上がり、拳も突き上げられ、帽子がそこかしこを飛ぶ。
そう。アントワーヌはエルサドルに商社を建てたのだ。
「フェルロテア、ですか」
「古代レオーラ語で」とハルが指をふりふりいう。「希望の星、という意味ですわ」
「良い名です。ありがとうございますね、ハルさん」
「いえいえ、さほどのことではございませんわ」
「ところでユウさんは?」
「それは、わたしの口からはちょっと……」
「なんでです?」四方を見遣ると、「ロックスさんもいません」
ついさっき、リリアが台に登る前まで、二人はそばにいたはずだ。
「どこに行ったんです?」
「クラインさまにお訊きになられるのがよろしいかと」
わたくしはこれで、と群衆に紛れてゆく。クラインはまだアントワーヌの中からはやや離れて、人垣の向こうにいた。会が開けたあとで、波止場の隅にいたのをようやく見つけた。リリアも彼の存在に馴染んでおらず、王都でのこともあって、いささかの忌避がある。が、そういう感情を表に出さないのが、貴族の嗜み、というものだ。
「クラインさま、ご機嫌麗しゅうございます」
「別に麗しくはないけれど」といわれ、カチンと来ても態度には表さない。
「ユウさんとロックスさんがどちらへ行ったか、ご存知ですか?」
「リライトに向かったよ」
「リライトに?」王国最大の学術都市、といえば、リリア憧れの都市である。「またわたしに黙ってっ!」
「そういわれるから黙って行ったみたいだ」
「くぅー」と地団駄を踏む。ユウはリリアにアントワーヌ領とコントゥーズ、王都の付近を離れてほしくないらしい。
「いまからわたしも追いかけます。馬を」
呼ぼうとしたとき、アンジュに袖を引かれた。楚々とした彼女はすっかり傍付きの風が板についたようだ。
「お客さまがいらっしゃっています」
「きゃく?」
見たことのある老人が恰幅のいい腹を揺らして来る。
「ああ、タッソーさま」
「リリアさまにおかれましてはご機嫌麗しゅう」
別に麗しくもないけれど、といいかけたのを飲み込んで、
「ようこそおいでくださいました」
「いえいえ、このような建物しか準備できず、まことに申し訳ありません。ダンダロフがアントワーヌの仕事は受けんと無茶をいいまして」
「我々は建築の技術は多少なりともありますから、タッソーさまがお気になさる必要はございませんわ」
「そういっていただけるとありがたいことです」ところで、と彼は手をこねながらいう。「家にささやかながらお茶の準備をしております。ご一緒にいかがでございましょう?」
これが外交というものか。
ユウがリリアの足を止めるために備えたことでもないだろうが、一枚噛んでいるかもしれないうしろのクラインを一瞥し、前に向き直ったときは笑顔を作った。
「お、お招き受けさせていただきます。いいですね、アンジュ」
「はい、リリアさま」
す、と浅く屈むメイドの姿は堂に入っている。まだまだメイドとしての技術は足りないことばかりだが、黙っていれば一流に見え、主に風格を与えすらするかもしれない。こういうところはアンジュの才覚だろう。
そういう彼女に監視され、逃れがたい誘いに乗らざるを得ず、そのすべてがユウの張り巡らせた何かにのように見える。
リリアは怒りを内に秘めながら、タッソー邸へ向かう小舟に揺られていた。
〇
「わからん」とカルヴァンは腕を組んだまま、しきりと首を傾げている。「実験してみないと。なにしろ前代未聞の武器だ」
「おれの細工に間違いがあるわけねえだろ」
と、ロックスが卓を叩いた。
リライトにあるカルヴァンの部屋だ。ユウを含む三人が囲う卓の上には一本の杭がぽつねんと置かれて、なにか動かしがたい物証のように煌々と明かりに照らされていた。その杭の、尖った先端には螺旋状の模様が彫り込まれている。カルヴァンは足を組み直し、耳をほじりながら、
「おれがいってるのはあんたの木工の腕云々の話じゃない。新しいものを運用しようとすれば実験が必要ということだ。これをもし、このまま戦場に持ち込んで失敗すれば味方に被害が出る上に、戦略上でも大きな齟齬が出る」
「わかります」とユウがいう。「おれたちには細かい実験ができません。それにこのことは敵味方、ギリギリまで秘事にしたい。知っているのはここにいる三人とあと三人、クラインさんと船舶班を統括している女性が一人、諜報の男が一人。たったの六人だけです。それ以上には知られたくない」
「だからおれにやれと?」
「前代未聞の兵器のことです。技術者として興味はありませんか?」
「おれの目的は土からのエールの抽出だ。それ以外のことはすべて些事になる」
「では、やりませんか?」
カルヴァンは組んでいた足を解き、頭を掻きながら前にのめった。卓上の杭を取り上げ、上下左右から、仔細に眺める。
「おれの予想では」と杭を卓上に戻しつつ、「これでは無理だ」
ロックスが息を呑むのがわかった。ユウは彼の前に片手をかかげ、
「なぜです?」
「色々ある。だが、もしかしたら大丈夫かもしれない。一週間ばかり預かる」
「一週間後にまた伺えばよろしいですか?」
「わざわざ来るな、息が詰まる。必要があれば人をやるし、呼びもする。それ以外は手紙で充分だ」
「わかりました」
と、頷いて、二人は地上へ戻った。
「いけ好かない野郎だ」
ロックスは石ころを蹴り飛ばし、石ころは石畳を跳ね、壁に当たって高い音を立てた。
「ロックスも修行が足りないね」
「おれがか?」
「例え相手がどれほど暴慢であれ、わたしの道を汚すことはできない、といったのは孟子だ。自分の進む道さえ定まっていればどんな相手でも気にならないってこと。なにより、カルヴァンさんの話は聞いていて一部の理があり、知識がある。耳を傾ける意味がある」
「おれはそこまで達観できないね」
「日々の精進だよ」
数日後、ユウはアントワーヌ領でロックスと別れ、単騎エルサドルに入った。街灯の灯った町を愛馬の足で駆け、磨き上げた元倉庫の扉を叩く。叩いてから二歩下がり、見上げた社屋が感慨深い。星とヘリオストープの光が点々と望める空の下、屋根の赤瓦と石積みの壁、やたらに綺麗に油脂を塗った木目の看板に金で彫られた文字は読めないものの目頭を熱くさせる。
「よくもまあ、ここまで来たものだ」
目元を拭っていると、正面の二枚扉が開き、
「あらユウさま」
「おお、ハル。こっちはどうだ?」
「なんの問題もなくってよ。すべて予定の通り」
「そうか」
促されて社内に入る。広い倉庫を充分に照らす光量がなく、あちこちのパーテーションで区切られたデスクから淡い光が漏れ、人の働く気配が遠くに感じられる。夜も遅いせいか、喧騒というものはない。無闇に高い天井の社内は室内でも一個の小さな町のような趣があった。
「わたしとクラインさまの執務室、それと応接室は作りましたけれど、ユウさまのお部屋はありませんわよ。よかったんですわよね?」
「いい。おれがここに入り浸ることはないよ。クラインさんは?」
「あちらにいらっしゃいます」
奥に野天に晒されたようなプレハブ似の小屋が三軒、倉庫の奥を占めるように立っていて、一際明るい光を放っている。
「あの真ん中のがクラインさまの執務室ですわ」
一枚扉を開けて中を窺えば充分な個室で、奥に執務机があり、真ん中に小卓があり、小卓を挟むようにして大きなソファーが二脚あり、隅には書棚や食器の棚もあり、なにより執務机の向こうにある窓の外が夜闇の黒に染まり、点々とほのかな明かりが浮いているところが、ここを倉庫内でありながら孤立した建物であることを強く思わせる。
そもそも、クラインはこの国において犯罪者である。幽閉されていなければならない身をこういうふうに、一部屋を与え、執務を行わせ、外出の制限をしているとはいえ平素と変わらぬふうに扱っているのを指摘されれば、本来アントワーヌの立場は危うくなる。しかし、クラインは過去の政策でエルサドル市民にずいぶん寛大にしたため、その地での人気はある、アントワーヌも同じく支持者が多い。そのために暗黙されていて、アントワーヌも表向きには現地調査のためにクラインをエルサドルに留め置いているということになっている。
この完全個室の窓に吊り下げられたカーテンを、クラインが閉じた。
「もうこんな時間だったか」
「お勤め、ご苦労様です」
ぺこりと頭を下げたユウをクラインは一瞥し、眼鏡を直した。
「あのね、他人事のようにいうが、君たちが疎かにしていた書類仕事の皺寄せがここに来ているんだぞ」
「まあまあ、こちらも忙しかったのです」
ユウはソファーの上にふんぞり返り、
「こっちは順調です。カルヴァンさんは仕事を請け負ってくださいましたし、あとは船と物資の準備をするだけです」
「簡単にいうけれど、君らからもらった資料を見る限り、そんな金は全くない。むしろ、運営できているのが奇跡だ。コルト候が相当便宜を図ってくれている」
事業というのは大方そうだが、アントワーヌの運営もほとんど借財で出来上がっている。アントワーヌの事業の七割近くがコルト候の出資であり、あとの三割はホーランドを始め、エルサドルの三つの家が分割して、アントワーヌ自身の資金は一割にも満たない。
この世界にも簡単な株式があって、エルサドル五家は日々出資を募っている。例えば船舶による交易。当然、経費がかかる。交易品から船員の食料、生活に必要なスフィアなどの備品まで、相当な額だ。成功すれば多くの収益を得るだろうが、海賊や海獣に襲われたり、座礁したり、失敗することもある。そういう損失はいかにも大きい。そのリスクを分散させるための手段として、出資を募る、つまり株式投資が行われたりするわけだ。
アントワーヌの主な事業は開拓と戦争だが、出資者たちはこれらにアントワーヌが成功し、国土と国威を発展させてくれると期待して金を貸してくれている。実際成功しており、それが人気に繋がり、コルト候が自らの領地の税金で出資していたとしても、領民は文句をいわない。
「一歩間違えば破産している」
一個でも事業に失敗していれば、または王国領内で無用のトラブルを起こせば、アントワーヌは王国民の信用を失い、コルト候が出資する大義も失せて、一息に瓦解することになる。
「ところがどっこい、我々はまだ無事なのであります」
「気楽なものだねえ」と、クラインも執務席に腰を下し、「ともかく、王国とエルサドル五家から引き出さなければ、海賊との戦争など絶対に出来ない」
「わかってますよ、おれだって単騎突入するような無謀は致しません」
「どうだかねえ」
クラインが書類に戻り、ユウはぼんやりと晶機灯の放つ燐光を眺めていたときだった。
ばあん、と音を立てて扉が開かれ、
「たいへんたいへん」とハルが息せき切って駆け込んで来た。
「なにが?」とユウはソファーの上でぐったりとしながら見向きもせずに問いかけた。
「喧嘩ですわよ、喧嘩。アントワーヌとエルサドルの人」
「ぶっ殺す」
跳ね起きたユウは外套のはためく音も高く執務室を出た。
ユウが殺意を抱いているのはエルサドル民らしい相手ではなく、味方のアントワーヌ方だ。
すでに読者諸君も理解してくれていると思うが、金銭的な理由から、ユウはアントワーヌ所属民に揉め事、特に王国民に対する抗争の一切を厳禁させている。その禁則を破った者がいる、ということだ。それを殺す。
「どこにいる?」
「酒場だそうですわ」
ハルも又聞きらしい。アントワーヌ民が酒場に入ると、すでにいた別のグループがエルサドル民らしい老人の胸倉をつかんで締め上げていたという。一人は残って場を収めようとし、一人は駆けてハルを呼びに来、いま商社の外でユウとも合流している。
「理由はどうあれ、禁則を破った者は斬る」
「ユウさま、ここは穏便に」
「ダメだ。例外はない」
「ですが、王国内での殺人は王国民、外国人問わず終身刑か死刑ですわ」
「なら外国に出て斬る」
「無茶苦茶をおっしゃる」
現場は町外れだが、フェルロテア社屋も町外れだから、それほど遠くはない。最寄の酒場といっていい。窓から漏れる明かりの下に萎びた老人が一人頭を抱えてうずくまっていた。それを囲うのはユウも見知った顔の、帝国脱出以来行動をともにしている五人のアントワーヌ兵だった。遠巻きにエルサドルの人々が幾人か眺めている。
しかし、この剣呑な雰囲気はどうであろう。一人が四人を説得しているようだが、残る四人は酒も回って、いまにもリンチに発展しそうだった。
「てめえ、ぶち殺してやる」と彼らの内の一人が一歩踏み出し、拳をかかげた。老人は短い悲鳴を上げて小さくなる。
「やめろ」とユウがひと声かけると、五人は振り向き、ぎょっとした。姿勢を改め、
「あ、天ノ岐さま……!」
「その人に触れるな。それ以上近づけば、おれがおまえたちを斬る」
「しかし……」
「離れろ、といっている。理由はその後で聞く」
ユウが刀の鯉口を切ると、五人はさっと身を引いて、明かりと闇夜の間に整然と並んだ。ユウは刀を収め、老人の前にひざまづいた。
「ご無事ですか?」
「は、はい」と中折れ帽のつばを心持ち下げる。
「それならよかった」と、ユウは老人の手を取って立ち上がらせた。が、その手を離さない。「わたしの部下が失礼を致しました。なにがあったのか、伺いたいのですが」
老人は息を呑んで答えない。その間に、ハルが四人の方から聞き取りをして、悲鳴に似た声を上げた。離れようとする老人の手を、ユウは強く握る。
「どうした?」
「ユウさま、その男、ダンダロフのマロードですわ」
「ダンダロフの?」ユウは老人の方を眺め、「ダンダロフ工房の人か?」
「人どころか、バカ当主の右腕で、アントワーヌにあの場所を、といったのもこのクソジジイよ」
老人が振り払おうとする手を、ユウは逆に引き寄せ、マロードの肩から首へ腕を回した。
「そんな急いで逃げることないじゃないですか。うちのやつらがご迷惑をかけた分のお礼もしたい」
「いいえ、結構です」
「そういわずに」
まあまあ、まあまあ、と、そのまま酒場の中へ引きずり込んでしまった。
○
椅子に腰かけているものの、肩をすぼめてプルプルと震えているのは小動物というより、濡れそぼった老い先短い老犬のようだった。
「なにも取って食おうというんじゃないんです。仲直りの証を」
大麦を発酵させた発泡酒、モートンの大瓶を一本頼み、木製のジョッキに並々と注いで彼の前に差し出した。
「それとも」と酒臭い吐息とともにジョッキを卓に叩きつけたのは隣にいるハルだった。すでに酔いが回って目が据わっている。その眼球でマロードを睨み上げる。「それとも、ダンダロフの野郎どもはアントワーヌの酒は飲めないってえの?」
以前のことで、アントワーヌの人間は尽くダンダロフに敵意を持っているといっていい。その当主の右腕が、のうのうとアントワーヌが新設した社屋の横で酒を飲んでいる。なにかの嫌がらせか、また悪だくみかと怒気に震える者がいたのも自然の理かもしれなかった。
いま、このときも、十数卓ある席のすべてを噂を聞き知って駆けつけたアントワーヌ勢が占め、ユウたちが陣取った卓の様子を窺う視線の数は無数にして、すべてが険しい。沈黙と苛立ちが建屋を圧して破裂させそうだ。
「とはいえ、人を縛り上げてリンチしていい理由にはならない」
「ユウさまったら、ここに来る前までは斬る斬るいってたのに」
「おれはこの人を斬るとは一言もいってない」
「じゃあ、どうしますの?」
「お話を聞こうとしている」とユウはいう。「ダンダロフの人が、こんな夜中に、わざわざアントワーヌの新社屋の傍の酒場に来る必要ないじゃないか」
エルサドルという町はその特性上、各派閥ごとに町が分割されているふうがある。例えば、ダンダロフの人間が、他の家が経営する酒場で飲む必要などない。ましてや、アントワーヌの傍の酒場に来る必要など絶対といっていいほど、ない。
「おれはそれに理由があるのではないか、と」
「間諜でしょう」要するに、スパイ、である。
「おれはハルに訊いてない。この人、マロード氏に訊いている」
だから、とユウはジョッキをマロードの方へ、ぐいいい、と押しやった。
「どうぞ、お飲みください」
「そ、その」と、マロードは俯いて、「お気持ちは嬉しいのですが……」
ハルが卓を叩いて立ち上がったのと、入口のドアが開いたのは同時だった。布の塊のようなものが転がってきて、辛うじて覗いた茶色の毛は髪の毛らしい、そこにかけたカチューシャを直し直し、立ち上った子はたぶんユウの膝くらいしかないだろう。小脇に犬のぬいぐるみを抱え、幅広のスカートの裾も袖も襟元もフリルに覆われ、まあ、フリルの塊、といったところだろうか。
「ア、アリッサ」とマロードが立ち上がり、抱きかかえようとしたのを、ユウは片手の一本で制した。助ける必要などない。幼女は自分で立ち上がり、こちらに向かってくる。その革靴のとことこ鳴る音だけが響いていた。フリルの塊が椅子を引いて向き直ったユウの足もとまで来、茶色い前髪の奥にある緑色の瞳を上げた。
「おじいちゃんをいじめないでください」
と、舌ったらずな声でいう。胸元のぬいぐるみが、彼女の二の腕に締め上げられる。
「ア、アリッサ」とマロードが止めようとするのもユウは手のひらで押し返し、
「彼に訊くよりこの子に訊いた方が早そうだ」
続けてきた彼女の両親らしい男女もテーブルに招き、ユウはアリッサの声に耳を澄ませる。大きな椅子に座った彼女は床につかない両足をぶつけながらいう。
「おじいちゃんは家を追い出されたの」
「家を」とユウは驚く。「ダンダロフの家を?」
「うん」とアリッサが頷く。
ここに来て、マロードは観念したらしい、訥々と話し始めた。
「アントワーヌに様々の計略を仕掛けたのは、間違いなくこのわたしです」と呟いた途端、奥の卓の方がざわめいた。これをユウは足を踏み鳴らして鎮めた。
「続きをどうぞ」
「は、はい」とマロードは恐縮しきっていう。「その計略がダンダロフにとって失敗したのはご存知のことでしょう。その責任を取らされ……」
「失職したと?」
「ええ」と力なく頷く。なんでも、少し前までは一族もろとも閑職に追いやられていたらしいが、王国継承紛争でアントワーヌが武功を上げたことを妬んだベイツ、ダンダロフ家の当主のことだが、彼の怒りが頂点に達した。その波紋は大津波となって、マロード一族もちろん、彼の部下数人までも失職させたそうだ。
この商業都市で、失職する、ということは、職と給金だけでなく、自宅も、家財も、当主からの貸付になっているケースが多い。当然、ダンダロフが経営する店舗の優待その他を喪失し、銀行も五家が運営している都合、金銭を預けることもできずに全財産をもって当てどもなくさまようことになる。
「それで」とユウは指を組み合わせて訊いた。「これからどうするのです?」
「東の、ヘンメルという町に遠い親戚がいるので、それを頼ろうかと考えています」
夜逃げするように町を出ようとしていたという。ここにアントワーヌの新社屋があることも知らなかったともいう。町の端まで来て、そこで食料その他を準備しようとして店に入ったところを、アントワーヌの者に捕まったのだ。
「なるほどねえ」とユウは背もたれに体重を預ける。
ハルの顔は、五体満足のままこの町を出られると思うなよ、といっているが、幼子のアリッサの手前、口にすることは差し控えている。周囲の卓、全体がそういう雰囲気だ。
「東の町でなにをして生活するつもりです?」
「もう商売はできませんから、農家に転職しようかと考えています」
「しかし、その親戚が受け入れてくれるかもわからないわけでしょう?」
「ええ、そうなのですが」
「一度に四人の食い扶持が増える、というのは大変なものです。もし、断られれば、他に頼るところもないのでしょう?」
「ええ、まあ」
「それに、どうやら現金も多くお持ちのようだ。王国が比較的治安がいいとはいえ、野盗も多いでしょう。襲われたらひとたまりもありませんね」
「それもそうですが」
ど、とハルがテーブルを叩いた。
「ユウさま、ちょっといいかしら?」
と、部屋の隅を親指でさした。その場で二人は身を寄せ合い、
「ちょっと、ユウさま、まさか、あの男を誘うつもりじゃないでしょうね?」
ハルの目は血走りながらギラギラと光っている。
「冗談じゃありませんわ」
「いやいや、よく考えてみろ。あの人はダンダロフの片腕っていわれるくらいの人だったんだろう? いわゆる技術者だ。そういう人材は捨て置けない。ここで行かせてしまうのはいかにも惜しい」
「ここに引き留めて、後日毒でも盛ろうとかじゃなくて?」
「おれは常に未来志向だ。例え、昨日おれの命を狙ってきた相手でも話し合いはするし、有用な人材なら登用したい」
「リリアさまの命を狙った相手でも?」
「それでもおれは話は聞く。あのエドワード帝を斬って捨てて良かったところを、話を聞いて見逃した男だぞ、おれは」
「胡散臭い、その話も、あの男も。やっぱり、間諜よ、ユウさまのご厚意を見越して」
「アントワーヌに探られて困ることなんてないよ。強いていえば自走船の構造くらいだろう。乗せなきゃいい」
「ですけど、彼らが頷きませんわ。マロード一家が。アントワーヌに所属したとして、ダンダロフの奴らにも、アントワーヌの人たちにも白い目で見られて、今後肩身の狭い思いをするのは間違いありません。とてもじゃないですけど、生活できるわけありませんわ」
「じゃあ、訊いて頷けばいいのかよ?」
「ええ?」と嫌そうに身を竦め、「そうもいってませんわ」
「あのな、おまえも商人の端くれなら利のために感情は捨てていけよ」
「スレイセスの商人は人情が厚いので有名なのよ、情は捨て置けませんわ」
でも、まあ、とハルは桃色の唇をうねらせる。お酒の残り香に火照っている肌が妙な熱を放っていた。その放香と焦点のない目が妖しい。そして、開いた口の中、柔らかくのたうつ舌が、お酒のせいか、薄く糸を引いているのも……。
「ユウさまがおっしゃることも一理ある。利を求めるのが商人の正しい姿」
「うん」とユウは頷き、「彼も利になる」
「うーん」と奥歯を軋ませ、「でも、彼らがここで暮らしにくいのは本当。無理矢理説得するのはなしですわ。その方が両者のためです」
「わかった。すべてはあの人たちの意向次第ということで」
二人は席に戻り、
「これから遠い町まで行くのは骨が折れましょう。それも小さな子を抱えて」
「はあ、そうですね」
「少し小遣いを稼いで行きませんか?」
「は?」とマロードはきょとんとした顔をする。
「アントワーヌで働いて、その間に手紙を親戚のところに出すとよろしいでしょう。向こうが受け入れてくれるのなら出ていってくださって構いませんし」
ざわざわとうしろのテーブルが騒がしくなる。ユウの正気を疑う言葉も聞こえてくるのに、彼は天板を叩いて立ち上がった。
「おい、いいか、おまえたち」とユウはいう。「おれに反対する奴がいるんならそれでいい。しかし反対するのなら、いますぐこの人たちをここから追い出してみせろ。できる奴がいるか? いや、いまい」
ユウはアリッサの座る席の背もたれを叩いた。彼女はなんのことか、まったくわかっていない顔を周囲に廻らせている。
「孟子曰く、子供が井戸に落ちそうになって反射的に助けるのは人が善なるものだからだ。孔子曰く、身内に注ぐ優しさをもって人に接すことは大きな徳への修練だという。また、故人曰く、勝者は敗者に手を差し伸べよ。その手は哀れみでもなく、慈悲でもなく、ともに戦った友として差し出せ。おまえたちが戦士ならそうあるべきではないのか? どうだ? 違うか? 反論はあるか? 反論求む」
誰もなんの一言もいわない。ただ黙って、口をつぐみ、膝の上に握り拳を置いて俯いている。
「では」とユウは席について、「マロードさん、ご家族の衣食住は保証します。働いてくだされば給金も出しましょう。その間に、ご親戚にお便りを出すのがよろしいでしょう。このまま、この地を追い出すのは忍びありません。あなたがダンダロフを追われたのはわたしたちのせいでもありますしね」
「ですが」と、マロードも俯き、「みなさんに向ける顔が……」
「あなたは職務でしただけのことで、我々も被害を克服しました。あれのおかげで成長したといっても過言ではありません。昔のことはお互い水に流しましょう。過去は学んで活かせるのが大人の特権、と、とある人もいっています」
ぽたぽたと涙がマロードの膝の上に落ちる。
「あ、ありがとうございます」
よし、とユウは膝を打った。
「ハルも、これで決まりでいいな?」
「ま、ぎりぎりね」
と、不機嫌そうに頬杖をついている。
○
ここで一つ、ユウは肝心なことを忘れていた。
マロード氏のスキルである。
一切確認せずに登用してしまい、ハルもそのことに気づかなかった。
「タダ飯喰らいだったら、どうなさいます?」
「まあ、仕方がない。確かめなかったのはこちらの落ち度だ。人助けだと思おう」
「お人よしだこと」
マロード一家はアントワーヌ分水路、あの一夜で造成したアントワーヌ領北端の河川のそばに住まわせて、その整備をしているロックスの下で働く予定だ。心配だからユウも朝から現場に出ていた。分水路は盛り土をして土手を作り、狭い河川敷と開拓地を別けている。
「河川敷の侵食を抑えるために、石材を発注しようと思うんだが」と、ロックスはユウにいう。
「おれに聞かれても困るんだけど。ハルか、クラインさんにいってくれ」
「いったけど、予算がないの一点張りなんだよ。おかしいよな、アントワーヌ喫緊の課題だぜ」
「そうだなあ」とユウは頭を掻く。護岸設備は、確かにアントワーヌ喫緊の課題だが、日に日に差し迫ってくる対帝国戦争も大きな問題だった。それを回避するために資本がいる。資本を増やすために元手がいる。護岸の設備など別の手段を考えろ、とクラインはいいたいらしい。「困ったもんだ」
「あの」と二人の会話を聞いていたマロード老人が進み出てきて、ロックスに睨まれる。「差出口をしてもよろしいでしょうか?」
ち、とあからさまにロックスは舌打ちをしていた。
「構いませんよ」とユウがフォローしなければならない。「なにかいい方法がありますか?」
「植物を植えるのが上策かと存じます」とマロード老はいう。「植物の根が深く地中に張られれば、地盤も安定しますし、土壌の無駄な水分も吸い出してくれます。護岸に石材を使うのは、確かに一見強度があるように見えますが、実際は土地の環境によくありません。中州に降った雨は土中に浸透します。土中から川に雨水が染み出し、その栄養を受けて豊かな河川の生物が育まれるのです。河川の生物は川底の泥を掃除し、水質を改善し、土壌を張りのあるものに変え、また岸辺では河川からの水でもって植物を育て、土を育て、人を始めとした生物が育つ。こういう地域では、土中と水中環境は一体であり、両者ともに豊かに育てることが、環境を作る、ということなのです。石材を使うということは、その機会を阻むということで、この地には不向きかと。定期的な補修にかかる費用にも大きな差が出ますし、洪水対策には別のものを当てるのが良策でしょう」
驚いたふうのロックスと目を見交わしたユウは、
「ほらね」
「おれだってわかってたっつーの」と唾を飛ばす勢いでいう。「しかし、植物の種類は……」
「葦や稲類がよろしいでしょう。湿気に強いので。アタカ川流域に生えているもの流用すれば」
「わかってたっつーの」とロックスは地団駄を踏んだ。
「そうそう」とユウもいう。「昔、徳川家光が隅田川の堤防を固めるのに桜の木、要するに美しい花を咲かせる木を堤防に植えたそうだ。観光客を呼んで彼らに土手を踏みかためてもらいつつ、木の根で土手をかためたという」
「実に妙案です」
「おれもそれは思ってた」
「見栄張らなくていいのに」
「バカいっちゃいけねえよ、大将。植物の植え替えならおれたちの右に出る奴らはいねえよ」行くぜ、野郎ども、と声をかけると、待機していた野郎どもが鬨の声を上げた。それと、とロックスはさらに続ける。「爺さんも付いてきな。おれたちの仕事ぶりを見せてやるぜ」
「では、お供させていただきます」
ダンダロフ家で当主の片腕と呼ばれるほど出世したのは伊達や酔狂や太鼓持ちではないらしい。ユウが満足してアントワーヌ領の住宅地を横切っているとき、
「あら、お兄さま」と声をかけられた。
「おや、アリッサちゃん」
胸に抱えた籠いっぱいの洗濯物は頭の上まであり、フリルの多い服と相まって、彼女周りの布の体積は本体を簡単に上回るだろう。
前もろくに見えず、よろよろと歩いている。ユウが洗濯物の半分を抱えて、ようやくまともに歩けるようになった。
「皆のお手伝いかな?」
「そうです。お父さんはどっか行っちゃって、お母さんはお食事とか、洗濯とか。あたしはそのお手伝い」
アントワーヌは帝国から着の身着のまま脱出できた者しかいないといっていい都合、独り身が多い。食事や洗濯は公民館で請け負っていて、公民館まで汚れ物の一切を運んでくる者もいるが、こうして配送を頼む者もいる。
「アリッサちゃんは偉いねえ」
「お兄さまも働いた方がいいですわ、でないと追い出されてしまいます」
「うん、頑張る」とユウは頷き、「ところで、アリッサちゃんはいつもその服なの?」
邪魔じゃないのか、と思ってしまう。
「高貴な者として、当然の嗜みですから」と汚れた洗濯物を抱え直しながらいう。
「高貴な人なの?」
「お兄さまはぜーんぜんわかっていませんのね」
と、もちもちした頬を綻ばせた。
「アントワーヌさまのこと、知りませんの? 可愛くて、お美しくて、優しく賢い、その上、文武両道、戦場に立てば百の敵も一捻りなんです。まさに高貴なる方の鏡です」
あたし、と拳を握り、
「アントワーヌさまに憧れてますの。ですから、こういう貴族の方の格好を」
「ははあ、なるほど」
王国ではアントワーヌの人気が途方もない聞いていたが、リリアも大変な妄想を抱かれたものだ。
「ユウさーーーーーん」と、遠くから駆けてくる影がある。リリアだ。突撃してくるのを胸に抱えた洗濯物で跳ね返す。
「元気そうだなあ」
「怒り狂ってるんですよ、ユウさんがあんまりアントワーヌを留守にするから」
ジタバタと手足を振っているのはあんまり貴族の嗜みというふうではない。
「そうはいっても、おれにもやることがあるし」
「行き先と内容くらいはわたしにも教えていってください、これは領主命令です」
びし、と指をさされる。
「ではおれもこの仕事を辞めるしか」
「ばばばばばかいわないでください」
あとから静々やってきたアンジュの胸に飛び込み、嗚咽を漏らす。
「ユ、ユウさんがいじめますぅ」
「よしよし、ユウさんは意地悪な人ですからね」
「そうでもありませんわ」といったのはアリッサだった。リリアも足元の布の塊の中に女の子が埋まっているとは思わなかったのだろう、いま気づいたような顔をしている。
「お兄さまはあたしたちを助けてくださいましたから」
「それは、わたしもそうだけれど」
「それと、お仕事の邪魔をしないでくださいます? 忙しいのです」と舌っ足らずな声でいわれると、リリアも困ったような顔をして、「ごめんなさいね、お姉ちゃんも手伝おうかしら」
「いいです、これくらい自分で持てます」
公民館の方へ歩いてゆく。リリアとアンジュも不思議な生き物のあとを追うようについてくる。
「どこの子です?」とアンジュがユウに耳打ちする。「ユウさんの妹さんですか?」
「そんなわけあるか」
マロード一家のことを話すと、リリアは涙を流し、「なんて非情な」と憤った。
「ダンダロフのやり方は間違っています。ユウさん、よく彼らのことを拾ってくださいました」アリッサちゃん、とやや屈んで、「困ったことがあれば、なんでもお姉さんに相談していいからね?」
「いま一番困っているのは仕事を邪魔されることです」
と、いわれて、リリアは身を退いた。
「よ、よくできた子です」
首を傾げながら頷いていた。
○
「やはり、間諜が紛れているようですな」とタモンがいう。夜、アントワーヌ領の端に張ったユウの幕舎の中である。「帝国、海賊、両者ともに、アントワーヌ領の中をうろついている形跡があります」
「帝国側の間諜は面倒だな」
ユウはゆったりとした椅子の背もたれに横たわり、
「どうするべきかな、始末すべきか」
「海賊の方は見逃すので?」
「そっちは使いようだろう」
決めた、とユウは起き上がり、
「帝国の方も放っておこう。始末したところでまた新顔が出てくるだろう。むしろ、いま所在をつかんでいる奴らを追跡したり、偽情報を流したりするのがいいだろう」
「そうかもしれませんな」
「ただ、リリアの身の回りは気をつけさせろよ」
「いわずもがなで」
「ところで、今度エルサドルの酒場でちょっとした会議を開く。いつものところだ」
「酒場ですと、間諜を退けるのは難しいかと」
「いや、奴らがいることを逆手に取って、メッセンジャ―に、伝令にしようって話だ」
「なるほど」とタモンは歯の隙間から空気を漏らしながら笑う。「紛れさせろ、とおっしゃるのですな」
「敢えて聞かせる」
頷いたユウは、数日後の夜、予定の通り酒場に人を集めた。会議というより、宴会の席、という雰囲気が強い。しかし、リリアを始め、ロックス、ジェシカ、ハル、エイムズ、クライン、主立ったアントワーヌの面々が揃っている。
平の商人も兵も、適当に店に入れ、外にもテーブルを並べて騒ぎは一入だった。こうして見ると、ずいぶんな大所帯になったものだ。
月の浮かぶ空が温かい。風には花の香り、土の匂いが混じり、人の醸すのはアルコール臭と賑やかな声。歌い、踊り、酒樽もすでに何個か空いている。
「おれは海賊と同盟したい」とユウはいった。「別に戦いたいわけじゃない」
「わかります」とリリアも手を叩いた。「わたしだって戦いたいわけじゃありません。帝国とだって、できることなら戦争を回避したい」
「しかし、降りかかる火の粉は払わねばならない」
「それもそうです」と次は肩をすくめ、「わたしは皆さんを率いる者として、皆さんの総意を示す務めがあります」
「戦うにしても、戦わないにしても、力は必要になる。勝つためには当然だが、対等な同盟を結ぶためにも対等以上の力が必要になる」
「簡単にいうが」とジェシカが苦い顔をする。「帝国はともかく、海賊と対等の力がほしいとなると、船数が圧倒的に足りない」
アントワーヌは一隻しか所持していない。
「海賊は二桁は船を持ってるんじゃないかって、もっぱらの噂ですわ」といったのはハルだ。
「おれたちも船を作りたい」
「そういうことなら」とロックスはジョッキを振り、「マロードのジイさんが詳しいんじゃないか?」
あの一件以降、二人の仲は悪くないらしい。よく二人で話しているともいう。
「確かに、船の作図と施工はしたことがありますが」とマロード老はいう。「造るとなると、半年から一年は待たねばなりません。なにかの支障があれば二年、三年はかかります。アントワーヌでは初めての設計ですから、一年で出来上がる、とは確約しかねます」
「実に明快な回答です」とユウは腕を組む。「海賊を威嚇するという意味では、すぐさま、半年くらいで一隻以上を手に入れたい」
「ものを選ばなければ、中古のものを買い入れるのがよろしいでしょう。新造するよりずっと費用の節約にもなりますし」
「では一隻、選んでいただきたい」
「また無茶をいう」とクラインがため息をついた。「金はない」
「そんなこといっても、船がないと戦いになりませんし。ちょっとくらいあるでしょう?」
「ない。ちょっともない。少ないんじゃなくて、ないんだ」
「まあまあ、じゃあ、金さえなんとかすれば買っていいんですか?」
「船を買うために集めた金なら、船を買うために使っていいだろう。というか、そうするべきだ。集まれば、の話だけれど」
「やったぜ」
「ユウさま、頑張ってお金の調達してくださいましね」とハルが組み合わせた両手を頬に添え、「これで我が家も二台持ちのちょっとした商家ですわ」
「火の車だけどね」
「船の件、本当に選んでよろしいので?」
「ええ、マロードさんに一任します」
これだけの情報を海賊に流し、ユウは彼らの反応を待った。
○
「ちょっとエルサドルに行ってくる」
コントゥーズのハーバード邸だった。リリアはまだここで医療所開いていて、ユウはそこを訪ねていた。彼の話を聞いたリリアは満足気に頷き、
「それで良いのです」などと偉そうにのたまっていた。
「リリアちゃん」
「はい」
「権威をかざし始めたらおしまいだぞ」
「わわわわたしは別に権威をかざしたわけではなく、あんまりユウさんが勝手をするから仕方がなく」
「では行ってくる」
さっさとエルサドルに入り、向かった先はタッソー家だった。約束の時間は日も暮れ始める十七アウル。いま、エルサドルの時計塔から五回の音が聞こえてきた。
鉄柵門をくぐり、分厚い二枚扉のノッカーを叩くと、何事かの会話が聞こえて片側の戸が開いた。顔を出したのは、ユウとさして変わらない年頃の女の子だった。ウェーブのかかった茶髪をうしろで一本にまとめて、細い眉毛の端正な顔をこれでもかというほどにしかめている。
「押し売りはお断りです」と低い声でいわれる。
「いえ、ご当主とお会いする約束をしております、天ノ岐ユウというものです」
彼女のつり目がちの目が丸々と見開かれ、片手が口元を押さえた。
「まあ、失礼しました。あのアントワーヌの天ノ岐さま? そんな薄汚い、失礼、お供も連れずにいらっしゃるとは思っていなかったもので」
ユウは袖を広げて自らを省みる。確かに、ぼろきれのような外套とボサボサの髪で、お世辞にもきれいとはいいがたい。いまさらユウの身嗜みに口を出す人間がいないから、この体のままやってきてしまった。気恥ずかしく思ったが、もはや彼女は気にしたふうもなく身を引いて扉を開いた。
「わたくし、アビゲイル・タッソーと申します。お話は祖父から伺っております。祖父は奥でお待ちしておりますので、ご案内いたしますわ」
「どうも、申し訳ありません。諸事立て込んでおりまして、身嗜みを整えてくる間もなかったものですから」
「天ノ岐さまの噂は前々から伺っておりましたわ。なんでも、表舞台には立たず、民衆に隠れて、彼らの声を聞きながら民政を取っていらっしゃると。あれは本当のことだったのですね。敢えて貧民の姿に身をやつし、形から民を理解しようとするなど、その姿勢は尊敬に値します」
「まあ、そうですね」
確かに、民に紛れて生活しているが、ユウの意図したことではない。ないのだが、敢えて伝えることでもないからユウは黙った。
「剣の腕も相当立つとか」とアビゲイルはいう。「その腰のものですか?」
「ええ。いまさらですが、持ち込んでよろしいでしょうか?」
「このエルサドルの町は自由を尊んでおりますの。法に触れない限り、他人の見た目と行いに苦言を申すことはありません」
「実に良い気風ですね」
「いずれお目にかかりたいものです、天ノ岐さまの剣技」
「剣など抜かぬに越したことはないのです。道の極みは場を制すことにある。剣を極めた者は抜かずして勝つのです。武で事を収めようとするのは二流のやりようです」
アビゲイルの足がピタと止まり、驚いたような顔が半分だけ振り返る。
「おや」とユウは愛想笑いをして、「いらぬことを語ってしまいました。少し前に、剣の道について、考えることがあったもので」
「いいえ、素晴らしいお考えだと思います。わたくしも新しい世界を見た気分です」
アビゲイルは再び歩き出し、また止まった。いまさらだが、ずいぶんと広大な屋敷である。旧アントワーヌ邸やバーナード邸に比べれば十分の一程度だろうが、この水上都市の土の少なさを考えれば、匹敵する地価があるといっていいのかもしれない。
目の前には玄関と同等の大きさの二枚扉がある。
「祖父の応接室です」こんこん、とノックして、「お爺さま、天ノ岐さまをお連れしました」
「入りなさい」
老人の声に促され、彼女が開いた扉をくぐると、奥の向かい合わせになったソファーの上に恰幅のいい老人の姿があった。その老人が立ち上がる。
「ようこそ、お越しくださいました」
ユウと握手を交わしている間に、アビゲイルは退室してしまった。二人だけが残される。
「お初にお目にかかりますな、天ノ岐さま」と老人はソファーに腰かけ、「わたくしが当家の主、フィリップ・タッソーと申します」
白毛の髭を撫でながら、ほくほくと笑う。ユウも簡単に名乗り、
「海賊征伐とクライン閣下の流刑のことですが」
「どうぞ、包みなくお話ください」
「いま、アントワーヌは離島の様子を探索している最中です。安全が確認されれば、閣下を移送する予定ではありますが、如何せん、海賊の脅威がある。我々、アントワーヌはそれを排除したい。膨張しつつある帝国とスレイエスとの戦争に先立って、内海を制したい。それを置いて、王国の勝利はあり得ません」
「そうかもしれませんな」とタッソー老が頷いたところで、扉が開いた。アビゲイルが盆に乗せたティーセットを卓の上に並べて茶を注ぐ間、二人は黙って彼女の美しい所作を眺めていた。彼女が退室してから、老人はいう。
「我々、エルサドルの民は、内海の交易の自由と航海の安全のために、海賊を排除したい。最悪、王国船を襲わない、と彼らに約束させられれば、それでよいのですが、そのために法外な富を要求されては困るのです。話し合いの場をもって、彼らがあまりに無法であれば、我々も海賊を排除するのに資金を供出するのもやぶさかではない。ただ、力がないために、戦闘自体はあなた方と王国にやってもらわねばならない」
「そのための準備はしています。船を増産しようとしているのです。もしよろしければ……」
「我々に出資しろ、と?」タッソー老はあからさまに渋い顔をする。
「設計だけアントワーヌに任せていただければ、決戦ののち船は王国に納めていいし、エルサドルで公共のものにしてもいい。ただ、海賊と戦うとして、アントワーヌが独断で扱える船舶が数隻ほしいし、その準備は海賊との講和会議の前に設計を進めておかなければ、帝国の南下に事が間に合いません」
「そもそも、アントワーヌに造船の技術があるのですか? 内陸の領地だったように思いますが」
「それがかくかくしかじか」
マロードのことを話すと、タッソー老は吐息を漏らし、軽くのけ反った。
「彼のことは知っています。ダンダロフを追い出されたと聞いていましたが、そうか、アントワーヌに身を寄せたか」
「彼にアントワーヌ船と同じ規模の船舶の設計をお願いしてあります。あとは金がない」
「マロード氏の腕の確かさは、あなた方よりわしの方が詳しいでしょう。造船には疑いありません」
「では……」
「もう一つ、心配なことがあります」
「なんでしょう?」
「勝算があるのか、ということです。現在の王国の海軍力では、まったく海賊には敵わないでしょう。それをひっくり返すだけの力が、アントワーヌと、あなた方が運用する集合晶術にあるのか」
王国継承紛争の折、集合晶術の威力は王国民にもつまびらかになり、その筋の情報に敏い商家は当然詳しいはずだ。
「おれは勝てない戦いはしません。まず、敵のことを知らないうちに勝てる、とはいえない。しかし、勝算がないわけではない。そのためにはいまのうちに、船のもう一隻以上を準備しなくてはならない。勝つためには、なにもいわずに金を出していただくのが手っ取り早いのですが」
「こういっては失礼ですが、それは詐欺のやり方ですな」とタッソー老は笑う。「天ノ岐殿が勝てない戦いをしないように、我々も利の出ない事業には投資しかねます。我々も、勝てるなら勝てるだけの確証がほしい」
「すでに一計を案じています。ですが、アントワーヌにもエルサドルにも海賊の間者が入り込んでいて、こちらが動けば彼らの情報網に引っ掛かる。一つ、お見せしたいことはあるのですが、タッソーさまが動けば、当然彼らの知るところとなるでしょう。それだとこっちの秘密兵器の所在がバレてしまう」
「あるのですか? 秘密兵器が」
「あるのです、リライトに。まだ実験中ですが」
「確かに、おっしゃる通り、わしが動けば海賊どもの情報網に引っ掛かるでしょう。天ノ岐さまとともに行動して怪しまれず、わしが信頼している人間を、リライトに送れれば……」
こんこん、とノックされて、アビゲイルが入ってくる。
「お爺さま、お茶を代えに参りました」
「うん?」とタッソー老は彼女の方を向き、「おお、おまえならいいか」
「なにがです?」と彼女は眉をひそめて、小首を傾げていた。
「アビー、おまえ、天ノ岐さまについてリライトに行っておくれ」
「リライトに?」
「アントワーヌがリライトで、とある商品を作製している。その出来を見て、わしにその完成度を教えてほしい」
「はあ」と呟いて、じ、とユウの方を見つめてくる。
「この子なら、物を見る目は確かで、わしの代理として充分でしょう。彼らも男女の遠出を追跡するほど暇ではありますまい」
「まあ、確かに……」恋仲とでも思われるかもしれない。エルサドルの大富豪とアントワーヌの幹部がともに行動している、という状況より、よほど密偵の気力を削ぐだろう。しかし、それでいいものかどうか。ユウは頭を掻いて、
「おれは構いませんが、お嬢さんのご予定が」
気を悪くしないかな、とユウは思う。
「構いません」と、アビゲイルの肩に届かないポニーテールが揺れる。その妖艶な雰囲気の流し目がユウをさした。「天ノ岐さまとの逢引、面白そうですわ」
濛々とそびえる綿雲の山脈の白さは冬の終焉を思わせる鮮やかさで青空の中にある。天頂の濃紺は放射に広がり徐々に色褪せ、地平に触れて深緑の芝となる。乾いた風に打たれて波打つ緑の波紋の一つを踏みつけた蹄の感触も柔らかい。そして、いまユウの胸の中にある肉の感触も柔らかい。そよ風になびいて、鼻をくすぐる髪先の香りは艶やかに甘く、白いうなじに細い指がかかる。その先にある貝殻のような爪の輝きがユウの網膜に焼き付いて、瞬きをさせた。
リライトまでもたないかもしれない、おれの精神力が。
「どうなさいましたの?」と後ろ毛を押さえながら振り返ったアビゲイルの体が、腕の中で身をくねらせる。
「どうもしていませんが、アビゲイルさんは馬車でお越しいただいても良かったんですよ?」
「アビーとお呼びください、天ノ岐さま。わたしもユウさんとお呼びしていい?」
「いいですけど」
「それはよかった、ユウさん」
と、笑った顔が愛らしい。
タッソー邸の玄関で出会って以降、応接や今朝の迎えなど、何度か顔を合わせたが、終始不愛想で、これほど見事に笑ったことはなかった。その、いわゆるギャップがグッと来たのが、顔に出たかもしれない、とユウは思った。声色も初めて会ったときに比べて格段に明るく、年相応の少女のと変わらない。やや低いかもしれないが。
「ユウさんはそうおっしゃいますが、恋人同士の相乗りというのはこういうものですわ。秘密裏にリライトに行くのだから、人の目を欺くには必要でしょう?」
「人の目を欺く、ですか」
逆に人目を引く。タッソー家の娘と相乗りしていて、エルサドル民の噂を呼ばないわけがない。しかも、エルサドルからリライトまで二百キオ弱、どんなに馬を急がせても二、三日かかる。
「その間ずっと相乗りしていくわけですか?」
「嫌?」
「おれは構いませんが、あまり親しくない男の腕の中で二、三日を過ごすのは苦痛でしょう?」
「そういうこともありませんよ、今日は身嗜みも整えてきてくださいましたし」
確かに、今日はいつもの一張羅ではなく、新調の服上下と外套を揃えてきた。
「それと」とアビーはユウの脇の下辺りに顔を埋め、「嫌いな臭いでもありません。むしろ、好きかも」と艶やかに笑う。
あまりにも大胆な振る舞いにユウが慄いていると、彼女はまた笑い、
「失礼、冗談です。適当な町で馬の一頭をお借りしますわ」
「勘弁してくださいよ」
「でも、好きな匂い、といったのは本当のことです」
ユウがぎょっとしている間に、アビーが馬腹を蹴って、セキトが芝生を駆け出した。
リライトに着くと、ユウが委託したカルヴァンの研究は順調で、様々の改良が施されてほとんど実用できるのではないかというところまで迫っていた。
「あとは海洋で実際に扱ってみて、修正点を見つけるしかない」とカルヴァンはいう。
「そのためには……」
「お爺さまとエルサドルの出資が必要になるわけですね」とアビーが頷いた。「わかりました。お爺さまにはわたくしからお話を通しておきます。それにしても……」
アビーはリライトのスラムとも呼べる町を眺め渡し、
「こういうところがあることの方が、わたくしには驚きでした」
あまり紳士淑女の来るところではない。
帰路も彼女と同道して、計七日、無事にタッソー邸までアビーを送り届けたユウは始終凝り固まっていた肩から力を抜いて、エルサドルに碇泊するアントワーヌ船に乗り込んだ。
「あらユウさま、お帰りなさいませ」と手ごねしてくるハルを見ると、なにか安心する。
「なんですの? なにかバカにされたような気がしますわ」
「いやあ、ハルちゃんはおれの魂の安らぎだよ」
「ええ、またそんなこといってえ」と蕩けたような顔をして、頬が落ちないように両手で支え、「愛の告白? 結婚しちゃう?」
「いや、しないな」
「魂の安らぎなのに?」
「ハルだって、可愛い小動物に会ったら安らぐだろう?」
び、と頬を叩かれた。
○
実際、クラインを島流しにしないと様々な方向から不平を買う恐れがあるので、できるかどうかはともかく、その下準備だけはしておかなければならない。そのための偵察に、アントワーヌ船は走っている。目指すはエルサドル半島の先、内海中央列島最南端に当たる小島だ。
青空に濃紺色で浮き上がる島影を、ユウは単眼鏡をもって眺めている。
高い山はなく、せいぜい丘陵程度の塊が一つ、二つ、場所によっては切り立った断崖があり、一方で黒い砂のたまった浜があり、そこに幾筋かの煙が立ち昇る様子は人の生活の査証だろう。
「浜辺に漁師の集落がありますわ」とハルがいう。「エルサドルの方から一々出るより、漁期はここに留まって漁をした方が楽だそうです」
「それは海賊に襲われないのか?」
「どうかしら。たまにいざこざはあるみたいなことは聞きますけど、あまり詳しくはないですわね」
母船は沖に錨を投じて、短艇に乗り換えたユウたちは浜辺に乗り上がった。安普請の掘立小屋が点々とあり、その前後で体格のいい男たちが網を直したり、釜を焚いたりしている。
「なかなかいいところじゃないか」
意外に緑が多い。浜辺から数十メートルで草はもちろん、灌木、広葉樹、針葉樹、照葉樹まで鬱蒼としている。その緑がまったくの手つかずで野性を滾らせているのがまたいい。
「実にいい島だ」
「なにもないところですけど」
ハルは風になびく髪を押さえながら、碇泊した海の方を見遣っている。
「島流しにはいい島かもね」などといって笑う。
「しかし、この感じなら、クラインさんを送るのにも問題なさそうだ」
「そうですわね。世捨て人が住むぶんには一向構いませんわ。家を建てる木材もありますし、水も、魚も豊富で、農業もきっとできるでしょう」
クラインがいまのアントワーヌの財政を管理している都合、もしかすると、ここに支部のようなものを建設しなければならなくなるかもしれない。
その打ち合わせではないだろうが、アントワーヌの商人と漁師が数人、向こうで話し合っているのを見つけて、ユウもその輪に加わった。
「なんでも、先日、海賊が来たそうで」とアントワーヌ商人がいう。
奴らもエルサドル漁師の漁期を心得ていて、みかじめ料的な金銭と物資の要求をしてきたらしい。
「もう何十年も続いてきたことだ」と漁師の中でも年嵩の男がいう。「多少の金さえ払えば確かに手出しはしてこないんだが」
「法規としてどうなんだ? ここは誰の領有なんだ?」
「あやふやですわ。どこの島がどこの国、という法はレオーラ大陸どころか、内海三大陸すべての国家、国際法にありません。元々原住民がいるような島がありませんでしたから」
「無法地帯、というわけか」
「海賊の島は、おそらく土地が少なく、工業もなく、できることは商業くらいでしょうが名産がないために生活をするには奪うしかなく、むしろ、奪えばいい、と知ってしまったことが奴らの悲劇ですわね。三大陸国家も彼らを干上がらせるには海洋交易を止めれはいいと理解はしていますけれど、それは実質無理というものです。人は富が得られるのなら、多少の無茶もする生物になってしまいました」
「まずはそれを決めなければならないな。彼らが無法なのか、それとも商売をする気がある、海の民なのか」
「どうなさいますの?」
「とりあえず待とう。ここに大きな船が止まっていると知れば、偵察なりなんなり来るはずだ」
「は」とハルは肩を竦め、「いったいいつになることやら」
その時は意外に早くやってきた。
三日後、クラインの居館、というか、執務棟の縄張りを浜辺の高台の上に打っていたときだ。
「あれ、船じゃありません?」
ハルが手びさしして眺める晴れ渡った水平線の上には黒い点が一つあり、それがみるみる大きくなってくる。
「どこかの商船かな?」
「こんなところを通る商船があるならバカです」
話している間にも、船は近づき、帆柱の上、風にはためく旗が見て取れるようになった。黒地に白色の海獣、イルカのような姿が描かれている。
「海賊旗ですわ」
浜辺の方でも鐘が鳴っている。ユウも丘を駆け下り、ハルたちアントワーヌの商人たちもついてくる。ユウが浜に着いたときには、もうアントワーヌ船の隣に一回り小さな、やや薄汚れた船が止まっていて、そこから短艇が浜に漕ぎ寄せてくるところだった。
「海賊だ」と呆れた顔を隠しもしない漁師の頭に、ユウは頷くだけで応えた。
舳先に片足をかけた人影がひとつ、いやに目立っていた。庇の広い黒の帽子を目深にかぶり、下の赤毛を潮風にたなびかせ、筋骨の発達した腕を長袖の服に通さないまま、膨らんだ胸の前に組んでいる。舳先にかけた右足の大殿筋の見事さといい、剛腕と見ていいだろう。獲物は腰に負った反りの深い長刀だろう。そういう褐色の肌の女の背中の向こうで、男たちが小さくなりながら懸命に櫂を繰っている。
船底が砂浜を噛むかどうかというところで、彼女は船を飛び降り、波を踏んだ。帽子の庇をつまんで心持上げ、陽気そうな視線を浜辺に巡らせた。白い歯をきらめかせ、粗野な声を上げる。
「あの船の持ち主は誰だい?」
「おれだ」とユウが一歩前に出た。
「この辺りがあたしたちの縄張りだって知っていて、船を止めているんだろうねえ」
ずい、と向こうも一歩進み出し、腰に手をやり、ユウと胸を突き合わせる。ユウより少しだけ身長が高いが、意外に細身で、身のこなしは武術の鍛錬を匂わせる。
なかなかできそうだが、相手ではない。足の運びが不自然で、怪我の兆候も伺える。右足の付け根辺りも痛めているのかもしれない。かばう様子がある。
「なんだい、じろじろと」と女はの垂れた赤毛の隙間からユウを睥睨し、「あんた、この辺りじゃ見ない顔だね。南方の出かい? それともコスヨテリか、教会領か?」
「異邦者だ。訳あってあの船を預かってる」
女の目がみるみる大きくなり、烈しく失笑し始めたからユウも驚いた。
「あんた、あれか。アントワーヌの俊英とかいう」
「なんて呼ばれているのかは知らないけれど」
「しかし、アントワーヌさまだからって、舐めた真似してもらっちゃ困るね。ここいらはあたしたちの土地だ」
「それはおかしい。ここをあなたたちの土地だと認める法はないはずだ」
「法がなくても、命の対価だっていうなら払わはなきゃいけないものはあるだろう?」
「組織の意味は他人に信用されることで初めて生まれる。ここ、内海で組織として成立するには周辺国の信頼がいる。信頼を得ていない組織には協力できない」
「難しいことをいうな」
「難しくない。あなたたちは、きちんと、ここからここまでを我々の土地にしたい、というべきだ。少なくとも、王国には話を聞く準備がある。それで、この島があなたたちの土地で、おれたちが駐留するのに費用がかかると決まったのなら、おれたちは喜んので金を払う。話し合いの場にもつかず、自分たちだけで決めて、その決定を通そうとするのは傲慢で卑怯だ」
「卑怯?」女の目つきが変わった。「あたしが卑怯だっていうのか?」
「あなたを卑怯だといったのではない。あなたたちの組織のやり方が卑怯だといっている」
「どうやら死にたいらしい」
黒い帽子の庇をつかんで投げた。風に舞うそれを彼女の部下の一人が追ってゆく。それを傍目にすることもなく、この女は腰の大太刀に手をかけた。赤髪を激しくなびかせ、大股の一歩を浜辺に突いた。間合いを計る姿はさすがに堂に入っている。
ユウは腕を組み合わせ、一連の挙動を眺めていたが、諦めたように首を振り、
「やめた方がいい」
「なんだと?」女のこめかみがぴくりと脈動する。
「あなたは右足を怪我している。確かに、あなたは強いかもしれない。しかしどうだろう、体を痛めた状態で怒りのまま戦って、また怪我をするのも馬鹿馬鹿しくないか? 万一死んでしまえばこれほどつまらないこともない。むしろ、怒りを収め、ここは退いた方が己の成長だと思わないか? 死合はいつでもできるが、万全なときにやった方がいい」
「ペラペラと喋って、腰が退けたのかい、アントワーヌの俊英さんよ?」
「それよりもどうだろう、船で勝負しないか?」
「船?」と彼女は意表をつかれたような顔をする。「どういう?」
「あと三日のうちにおれたちの船はこの島を出てエルサドルに帰る。それをあんたちが阻止できるかどうか」
「あたしたちと船で勝負しようってのか?」ははは、と豪快に笑った彼女はすでに刀から手を退けて、姿勢も直立に戻している。「三日間、おまえたちをこの湾の中に閉じ込められればあたしたちの勝ちってわけか?」
「いや、違う。おれたちはエルサドルに向かう。途中半島を越えてエルサドル湾に入る。そこまでおれたちが逃げ切れれば、おれたちの勝ち。この島の湾の外はあらゆる手段を使って足止めしていい。ただ、湾内だけは船への直接的な攻撃はなしだ」
「湾の外に出たら、攻撃していいのか?」
「いい。あらゆる手段を許す」
「ちょっとユウさま」とハルが耳打ちしてくる。「アレに頼ってのことでしょうけど、少し無茶すぎやしません?」
「大丈夫だろう」
「大丈夫かもしれませんけど、ダメかもしれないじゃない」
「それで」と海賊の女はいう。「あたしたちが勝ったらなにをしてくれるんだい?」
「王国金貨の十枚をやる」
ざわ、と一同がどよめいた。金貨十枚あれば、王都にだって家が建つ。
「ただし、おれたちが勝てば、そうだな、今年一杯くらいは王国の漁師たちにタダでここを使わせてやってくれ」
「あり得ないことだけど、いいだろう」
「ちょっとユウさま」とハルが再び耳打ちする。「割に合いません。博打として成立していませんわ」
「ちょっと気風のいいところを見せた方がいいんだよ、また評判が上がるぜ」
「それ含めて、割に合わないっていってるの、バカ」
「アントワーヌは破天荒と訊いていたけど、噂以上ね」と女は仁王立ちし、不敵な笑みでいう。「気に入った」
「受けるか?」
「ここで退いては、この内海の女帝ジュヌヴィエーヴの名が廃る。受けて立とう」
双方の部下たちは唐突なことでなにが起きているのかさっぱりわからず、己の首魁を見遣り、相手を見遣り、首魁同士は不敵な笑みを浮かべ合ったまま目を逸らさない。
かっかと日の照りつける黒色の砂浜に白波が打ち寄せては泡立ち、星に吸われるように引いてゆく、その音だけが蒼天に響いていた。
○
島は五日目の月のように、わずかに抉れ、出来上がった幅広な湾口を東の海に向けている。北からの寒流を防ぎつつ、クリフトフ海峡から来る黒潮も南方の岩壁に当たって弾けるから、湾内は湾口の広さの割に波濤が少ない。その沖合に、一隻の大型船と、中型船が寄り添うように並んでいた。が、いま、中型船は錨を上げ、帆をいっぱいに張り、東の湾口を目指し始めた。
その後甲板に立って、ジュヌヴィエーヴ、通称ジュディと呼ばれる海賊は食い入るように、アントワーヌ船を眺めていた。
「動きませんね」と副長がいう。「しかし、よかったんですかい、船長。こんな勝負をして」
「名が廃るっていったろう」
勝負をする上で、いくつかの規定を決めた。
湾内での抗争厳禁、海賊船の湾外待機、アントワーヌ船は三日以内に湾外に出なければならない、無事湾を脱出できたのならエルサドルを目指し、海賊船はあらゆる手段を用いてそれらのことを阻止する。当然、衝角攻撃や火計をもって、アントワーヌ船を沈めても良い。
「あの船を海の藻屑にしてやるよ」
「女帝の名に賭けて、ですかい?」
じ、と睨むと、副長は片手で額当に触れるようにして目元を隠しただけで、薄く笑った口元はなにもいわなかった。それならそれでいい。
「まあ、どうせ夜闇に紛れて逃げるつもりだろう。いまのうちに休ませておけ」
「かしこまりました」と失笑混じりにいう。
自分でも子供じみた賭け事をしたものだと思う。だが、いま思えば悪い選択ではなかった。あの男がいうように、手足を痛めていたのは事実だし、その場の激情にかられて命を賭すのもバカらしい。それに、あの男の腕、果たして刃を交えて勝てたかどうか。
「どうかしている」
ジュディは顎を振って、弱気を振り払った。
こういう手練手管で相手を翻弄するのが、アントワーヌのやり方であり、あの天ノ岐ユウという男なのだろう。自分はただ、あのアントワーヌ船を沈めればいい。そうすれば、王国金貨十枚をあの男が渡す気があるのかどうかともかく、ほえ面をかかせてやることはできる。
「当面、それで満足してやることにするか」
自室に戻り、大太刀を外しただけで毛布をかぶった。常時自在に休息を取れる、というのは戦士に重要な素質だと思う。その点、ジュディは優秀だった。意識を失って、どれほどの時間が経っただろうか。激しく戸を叩かれたときには丸窓の向こうにある海が橙色の光にきらめいていた。寝起きの目に痛い。
「うるさいぞ」と一声怒鳴り、目元を擦りながら簡単に身嗜みを整えた。大太刀は船内ではかさばるために、短刀を腰に帯びる。
「なんなんだよ、うるせえなあ」
廊下では、血相を変えた子分たちが息を呑んで言葉を詰まらせていた。
「なんだよ、さっさといえよ」
「そ、それが」と一人が唾を呑み込んで、「アントワーヌ船が消えました」
「なにい?」
一人を蹴り飛ばして、退いた子分たちを押し退けるようにして廊下に躍り出た。一息に駆ける。
いくら幅広の湾口といえども、両端の岸が眺め渡せる程度でしかない。潮も弱く、どう加速したところで、こちらの監視を抜けられるはずがない。にもかかわらず消えただと?
甲板に出ると、子分たちは太陽の沈みかけた西方の欄干に、船が傾くほど乗り出して、指をさしたり、手ひさしをしたりしていた。
「おい、なにが起きている?」
と声を上げたジュディに、隣に立った副長が笑って答える。
「見間違いですよ」
「なに? 見間違い?」胸を撫で下ろし、「おまえたちの勘違いであたしを叩き起こしたのか?」
「しかし、異常なのは異常です」
「どういうことだ?」
「いま、奴らは太陽の中にいます」
すでに丘陵に触れそうなほど高度を落している太陽をしかめた顔で眺めると、確かに、帆船の姿がある。幾ばくの時間も眺めていられないが、彼のいう異常はジュディにも違和感としてわかった。なにかがおかしい。しかし、眺めていられない。なにもわからない。
目頭を押さえて、うつむいた。
「まったくわからん」
「まったくわかりません。どうやら旋回し続けているらしいんですが。時折、太陽の中から出てきたと思うと、また戻っていきます」
「あんなところで旋回?」ジュディはまた太陽の方を見、潰れかけた目を副長に戻した。「こんな白けた湾の中で出来るものか」
「ですが、彼らは実際右に左に移動しています」
「いったいどういうことだ?」思案顔を浮かべたジュディは、「ともかく、見張りに長時間の目視はさせるな。短い間隔で交代させながら監視させろ」
と、いった直後のことだ。帆柱の上から声が降ってきた。
「アントワーヌが北東方向に向かっています」
振り返ると、太陽の中から飛び出した船体が猛烈な勢いで、北東方向へ走り出した。このジュディの船、大クリフトフ号の船尾方向に当たる。
「なんだ、あの船速は?」ジュディは手すりに縋りつき、単眼鏡を覗いた。まるで暴風に吹かれる木の葉のように、水面を駆けてゆく。西風を捉まえたとしても、潮の弱い湾内であの速度はあり得ない。
「離岸流を見つけたのかもしれません」と副長がいう。しかし、と続け、「奴ら、やる気ですぜ」
「それは間違いない」とジュディは単眼鏡を離し、
「全速前進、取舵一杯」高らかな声が夕空に響く。
「取舵一杯」
「取舵一杯」
男たちが輪唱のように叫んでいる。それに呼応するように、帆柱から帆布が垂れて風をつかんだ。大きく膨らむ。
「取舵一杯」
舵取りが激しく操舵を回す。
「奴らの横っ腹に大穴を開けてやれっ!」
ジュディの宣戦に、甲板が熱狂する。
大砲を始めとした目ぼしい遠距離攻撃のないこの世界のこの時代、船首による突撃攻撃、いわゆる衝角攻撃と接岸による白兵戦が主な攻撃手段になる。大海の中で小さな目標に直撃させなければならないために、操船技術が海戦を左右するといわれているわけだ。
手すりを越えてくる風の流れは徐々に増し、船体は傾いて、砕ける波濤が甲板を洗う。船首は左手へ、船体の加速とともに角度を険しくして直進に戻った。アントワーヌ船は遥か北西、北上するこの大クリフトフ号の航路の先にいる。
ど、と船首で白波が弾ける。
「間に合うか?」
「どうでしょうねえ? あちらがこれ以上速度を上げなければ」
「こんな湾であれ以上の速度が出るか」
「あの速度だって普通は出ませんぜ」
この湾を、普通の王国船が帆走すれば、いまのアントワーヌの半分の速度が精一杯といったところだろう。正直な話、この大クリフトフ号をもってして、あの速度が出るかどうか。
すでに東の空は藍色に濡れている。気の早い星が輝き始め、西の空は明かりもない。ただ炎の残り香のような赤が仇花を咲かせているきりだった。
その境目に、二船はいて、交錯しようとしている。
単眼鏡を覗けば向こうの船体の様子はよく見えて、舷側に寄りかかるあの男の姿も難なく見える。奴もジュディと同様、単眼鏡に目を当てて、その二つの筒越しに目があった。
笑いやがった。
それがわかる。舐められたものだ。自然と笑みがこぼれてくる。
「もっと速度を上げられないか?」
「もう目いっぱいですぜ」
「火矢を持て」
衝角攻撃できるかどうか、きわどい。ただ、船尾は擦る。かなり接近する。その間に火矢の一矢や二矢、撃ち込んでやる。
もう一度覗いた単眼鏡に、アントワーヌ船の船尾が映る。その航跡が黄緑色の燐光を放って、輝いて見えた。ジュディは単眼鏡を離し、瞬きをして、もう一度船尾を見据える。
緑色の輝き。夜光虫の類とは違う。
「お頭」と副長に耳打ちされ、「アントワーヌ船が加速しています」
単眼鏡から目を離して、全体を見遣ると、確かに、アントワーヌ船の速度が上がっている。間違いない、こちらの船を上回っている。認めがたいことだが。いや、あちらは順風を受け、湾を回って海に帰る海流を見つけたのかもしれない。そのぶんだけ早いのかもしれない。
すでに彼我の距離は百メータ足らず。肉眼で甲板を動く人の影が窺える。その隙間をもって、アントワーヌの船首が眼前をよぎってゆく。舷側が抜け、船尾が行き、大クリフトフ号は夜光虫に似た光の残滓を踏むばかりだった。
放たれた火矢の数々は虚しく空を切り、水中に没落してゆく。
「ちい」とジュディは舌を鳴らし、「取舵だ。アントワーヌを追え」
帆布が傾き、すぐさま大クリフトフ号は東を向いた。アントワーヌの輝く航跡を追ってゆく。すでに一キオ近い差が開いている。
いま思えば、出だしの数瞬、太陽の中にいた奴らの監視を徹底できなかったのは痛い。驚異的な速度に驚き、数語の言葉を交わしたのも時間を無駄にした。その差が決定的な、埋め合わせがたい距離になりつつある。
「こりゃなんです?」副長は船員たちと手すりに食いついて海面を見遣っていた。「夜光虫ではないでしょう?」
「知らん、あたしに訊くな」
二船は夜に向かって走ってゆく。
「速すぎる」
ユウは手すりにしがみついて、後方を見遣っていた。夕暮れの中にある黒い船影がぐんぐん近づいてくる。
「どうなってる? 離れないぞ」
夕日を背にして自走し、彼らが休んでいる間に充分な加速をし、最高のスタートを切ったまではよかった。それから先は紙一重で、いまも窮地といっていい。
「たぶんですけど」とハルは考え考え、いう。「潮目を見つけたんですわ」
「潮目?」
「潮の境目。わたしたちはいま、東からの潮の帯の上にいます。これを西からの順風と自走能力で逆走しているわけです。一方の海賊船は順風だけで航行しているように見えますけれど、たぶん、逆流する潮目を見つけて、風と潮の力で航行しています」
「もう日が暮れるぞ。海面が見えるか?」
ほとんど黒いぬめりのある怪物が横たわっているのではないかという海面が広がるばかりだ。
「潮目が見えるわけがない」
「目で見て見つけたんじゃないかも。奴らの習慣的なものかもしれませんわ」
「習慣的に?」
「だからいったでしょう? 海は奴らの庭だって。変化の激しい湾内はともかく、外海は奴らの潮読みに敵うのは内海三大陸中にいません」
「奴らの前に西からの潮があるわけだろ? その筋にこの船を乗せればいい」
「潮の位置は微妙に蛇行したりしているものですわ。それを探すために船を蛇行させれば無駄な時間を食ってしまいます」
「厳しい戦いになったなあ」
「他人事みたいに」
ハルは大げさに嘆く。
「これは追いつかれる」
「どうするんですの? 金貨十枚払いますの?」
「そんなことをしたらクラインさんに怒られる」
ユウは一考し、
「自走を止めよう。明かりをすべて消せ」
「闇に紛れて」
「奴らをまく。潮は感覚的にわかっても、大海に浮ぶ小さな船の位置が見えるわけがない」
「くそ」とジュディは単眼鏡を左右に振って、「完全に見失った」
星と墨のような海の境界だけがある大海の真中に、この船一つだけが浮かんでいる。時折波に船底を叩かれて上下する以外の変化はどこにもない。
「お頭、どうします?」
「もはやここで奴らを見つけるのは無理だ」砂場に落とした麦粒を目隠しして探すのに等しい。「南へ向かえ。エルサドル湾を封鎖する」
「しかし、王国に近づきすぎるのは奴らを刺激しやしませんか?」
「刺激したところで奴らは動けないさ。海で戦う力なんてない」
「まったく」と副長は笑って額当を叩いた。「面倒は御免ですぜ」
すぐさま伝令されて、船首は南の星を向いた。
「振り切ったか?」とユウも単眼鏡を左右に振っていた。
「どうでしょうねえ?」とハルもいう。「なにも見えないからなにもわかりませんわ」
眩いほどの星と船底を打つ波の音しかない世界の中心で、ユウは単眼鏡を畳んだ。
「いまは身を潜めるしかない。見つかったら逃げきれるか五分だ」
「じゃあ、日が昇って周りの様子が見えるようになるまで待機ってこと?」
「待機だ」
「朝になって周りに誰もいなかったら?」
「エルサドルに向かう」ただ、とユウは顎を撫で、「そのときは、あいつらはエルサドル湾にいると思っていいだろうな。他にやることがない」
「そうねえ、そうかもしれないねえ」
満天の星の中を、流れ星が尾を引いて流れてゆく。
○
右手の空が靄の向こうで光を宿し始めていた。その光に照らされた左手、遠く、宙に浮くように見える黒い塊は、海上に張り出したエルサドル半島の突端だろう。正面、北方の水平線の上にも、一つ、黒い塊が浮かんでいる。
「アントワーヌの船です」
その影の形からおおよその察しはつくし、半日前に取り逃した宿敵の船影を忘れるわけがない。網膜に焼き付いて、まぶたを閉じれば目の前に忌々しさとともに浮かび上がるのだ。
「次は取り逃さん」とジュディは単眼鏡を腰元に戻し、「奴らと並走して逃がすな。湾に侵入しようとしたところの脇腹を突くぞ」
薄墨を流したような海洋とほんのり明るい白色の空。波間に漂うもやが流れ、両者の視界をときに遮り、ときに見える影も惑うようにまたもやの中に沈む。
「まだだいぶ遠いですね」
「このもやに乗じてくるわけじゃないのか」
「またなにかを待っているんですかね?」
「ふむ」と腕を組む。「こっちから仕掛けてやろうか」
時が経るにつれて、もやも薄くなってゆくだろう。奴らはそれまでの時間を利用してなにかを準備しているのかもしれない。それをさせたくない。
「お頭」と伝令が来、「奴ら、また旋回しているようです」
「間違いないな」とジュディは嘆息した。「奴らはああして加速する手段を得ているんだろう」
「自走術ってことですかい?」腕を組み、「王国も、帝国も、エルサドルの商人たちも作れねえもんを、アントワーヌが?」
「そう考えるしかあるまい、奴らの挙動を見る限り」
あの加速力は尋常ではなかった。もはや、奴らが世界で初めて自走船を開発したと考える他ない。
「問題は、それが恒久的なものなのか、一時的なものなのか」
「しかし、昨日くらいの距離を航行できるなら、ここからエルサドルくらいまでならもちますぜ」
「やはりこのまま待つか」
奴らの位置は完全に捉えている。アントワーヌが南下運動に入れば、見落とすことは絶対にないし、昨日程度の速度であれば必ず追いつき、横っ腹をぶち抜ける。
「近づけばそのぶんこちらの対応に隙が出ますか」
斜め前方方向にいるアントワーヌに接近すれば、まだ東西に運動している奴らと東西方向の距離は開き、南北方向の距離は狭まる。つまり、加速して南下してくる敵船に対応する時間が減る。
「あたしは奴らを侮っていたよ。陸の上の干物どもが海の上でなにを、と思ったが、まさかあんな真っ当な奴らがいるとはね」
その中心にいるのが、あの天ノ岐ユウという男だ。
噂には聞いている。帝国を欺き、スレイエス南軍を抜き、王国を平定し、そしてつい昨日、この大クリフトフ号の封鎖する小さな湾から鮮やかに脱した。最後の一件は間違いも誇張もない事実。そういうことをする、できる男と、いまこのとき、一騎打ちの形で向かい合っている。戦士としての本懐だ。強い者と戦えることが。
くく、とジュディは笑う。久しく感じたことのない昂揚に炙られて。
「滾ってきたねえ、あたしも」
手のひらに拳を打ち付ける。と、高い音が明け方の空に響いた。
この戦い、勝つ。
「敵船、来ます」
と、帆柱の上で叫ぶ。
甲板上には緊張と覇気が漲る。手すりに張りついて敵船を探すと、みるみるその船体が大きくなる。
「こっちに向かってきてやがる」と副長は呆れたように額を撫でた。
直進。確かに、衝角攻撃は軟かい横合いから打ち込んで効果を最大にするものであり、正面からの攻撃では威力が出にくい。なにより、向こうの方が図体が大きい。ぶつかり合って壊滅するのはこちらの方だ。
しかし、
「ナメられたもんだ」とジュディは笑う。「全速前進」
いままでも同様の作戦を敢行してきた敵は多い。そのたびに葬ってきた。敵の衝角を直前でかわし、緊急方向転換、わきばらを突くのだ。海賊戦術の十八番といっていい。
「ぶち込んでやれ」
おお、と鬨の声が上がる。
両船、見る間に接近して霧の中から巨大な船体が浮き上がってくる。突き出した衝角、船底の板目、甲板で立ち働く人の影まで見えてきた。その闘志漲る瞳すら。
「面舵いっぱいっ! 続けて取舵急速旋回っ!」
叫ぶように指示を飛ばし、舵取りは操舵輪を激しく回す。同時に船員たちは左の前方に押し寄せて手すりを押し込むと、船体が傾いた。海面が手すり越しに間近に迫り、船底はアントワーヌ船の舷側に擦れ、軋みを上げる。甲板は反り立つ壁の如く、その険しい傾斜を男たちは駆け上ってゆく。右の前方に押し寄せ、水平に戻った甲板の揺れ返しとともに船体を右手へ深々と沈ませた。船尾の舵が海面から覗くほど船首が傾ぎ、その尖端はアントワーヌ船の脇腹に向かっている。
もらった、と思ったとき、衝撃的な出来事が起きた。
アントワーヌ船が大きく、甲板を船底で隠すように傾いたのだ。次の瞬間、大型の船体が尻を振るようにして旋回している。
激しい揺れが大クリフトフ号を襲ったときには、なにが起きたのかわからなかった。
尻もちをつきながら手すりにしがみつき、揺れる視界の中、山吹色の航跡を描いて南東に駆るアントワーヌ船を見送っていた。
「なにが起きた?」
「わかりません」と副長も手すりに寄りかかりながらいう。「アントワーヌがなにか奇策を使ったのは確かでしょうが」
「そんなことわかっているっ!」
近場にあった樽が激しく蹴られ、中の生水を噴き出していた。
のちに聞き集めた話では、アントワーヌの急旋回がまぼろしではなかったらしい。あまりに激しく回頭したため、その船首にこの大クリフトフ号の船尾が叩かれたというのだ。
こんな屈辱は他にない。海賊が海の上で陸の人間に遅れを取っただけでなく、船尾を叩かれたという。完全に劣った、と見られておかしくない。このことはジュディの血を沸騰させるほどに熱したが、それはしばらくのちの話だ。このとき、彼女は多少昂って、追撃命令を下している。
「お頭、これ以上は王国の領内です」
と、忠告されて聞き入れる冷静さは保っていた。
○
「やったーーーーー」
アントワーヌ船の上では歓声と拍手が鳴り響き、抱きしめ合い涙を流す者までいた。
「ユウさま、卓抜した指揮でしたわ」
「みんながよくやってくれたからだ」
元々、アントワーヌ船は自走中なら旧来の舵を取らなくても旋回できるようになっている。左右の船底に施したヘリオスフィアの出力に差を出せるからだ。車を見るとわかりやすいが、ハンドルを回すとタイヤが向きを変える。外輪の方が早く激しく動く。アントワーヌ船も外輪に相当する船底片側の出力を上げればある程度の急速回頭は可能になる。さらに舷側を沈めてやれば船底と海水の接地面が増え、回頭速度も増す。海賊船と同じように、船員を片側に突撃させて船を傾げさせたのだ。ただ、そのタイミングがシビアで、作戦を成功に導いたのはユウの一令に従った仲間たちの信頼と勇気に他ならないとユウは思っている。
「今回はおれの無謀に付き合わせて悪かった」
「いつも無謀ですけれど、今回のは指折りですわ」ハルは指を折って、「その割には見返りが少なく」
「それはどうかな」と笑うユウを、ハルの訝しむ目が貫いた。
「なにかお考えがあってのことなの?」
「なにも起きてないかもしれない。でも、なにか起きてるかもしれない」
「本当に、ユウさまが悪徳のように見えるときがありますわ」
そういうのもキライじゃないですけど、とハルは流し目を送ってくる。こういう性質が、意外に二人の間で腹蔵なく話し合わせる理由になっているのかもしれない。
そのころ、エルサドルは騒然としていた。
「あれは海賊船じゃないか」
「出航は中止かな」
「冗談じゃない。船を出せないんじゃ仕事にならないんだよ」
「命には代えられないだろ」
「おいおい、一日港が封鎖されただけでどれだけの損害が出ると思ってるんだ」
海賊に対する憤怒と諦観が渦を巻いていた。町のあちこちで、囁かれ、旅人らしい姿の人どもの耳にも入っているところを見ると、数日のうちにこの一件、つまり、突如海上に出現した海賊船によってエルサドルの港湾が一日封鎖しかかったという話は王国中に広まってしまうだろう。もし、エルサドルの港が封鎖されれば、王国経済は傾くどころか失墜するといっていいかもしれない。経済の失墜は国力の衰退であり、来たる帝国決戦での勝ち目も消失することになる。
「王国民、特に王都民は議論好きで王国の威信を信じて疑わないからな。たぶん世論は一気に海賊討伐に傾くだろう。傾かなくとも、海賊と事を構える大義が出来たわけだ。王国が海賊と戦うことを国民が許す」
「ユウさまったら、お人が悪い」
「ほほ、おれほどの善人をつかまえてなにをいう」
「ご冗談を」と手の甲を口元にやって笑うハルをしり目に、さて、とユウは手を叩いた。
「おれはタッソーさんに根回ししておこう。あの人に一言言い添えておけば、エルサドルは海賊討伐に動くだろう。リリアにもほのめかして、アドリアナに持ち掛けてもらう」
「でもいずれ、あの海賊船がエルサドル湾に姿を現したのはユウさまのバカげた博打のせいだと知れ渡りますわ。漁師たちは知ってますもの」
「バカげてなんていない。おれは彼らのために、おれたちの仕事のために、島を使えるようにしたかっただけだ。血を流さず、島の使用の言質を取ったことは褒めてほしい」
「あいつら、なんて名前でしたっけ? 約束を守るのかしら?」
「ジュヌビエーヴ、だ。あいつが約束を守らなかったら、海賊島のジュヌビエーヴはアントワーヌに競艇で負けた上に嘘をついたと大陸中に言触らして生活できなくしてやる」
「本当に陰湿」
ユウがタッソー老の応接室を訪ねると、彼はユウの機転を大いに称賛し、
「わたしがアントワーヌを擁護しましょう。そうすれば天ノ岐殿のバカげた博打の件はもみ消せましょう」
「別にバカげてはいなかったと思いますが」と反抗した声は小さい。
「エルサドル側の世論はお任せくだされ。アントワーヌにはコントゥーズと王都、そして実際的な準備の方をお任せいたします」
実際的な、というのは軍事面のことだろう。
「準備するにも、金銭的な面で……」
「ほほ、そのこともお任せくだされ。じきに基金を設立して、それを軍事費に当てればよろしい。あなた方はいずれエルサドルの代表として、海戦に挑むことになりましょう」
「実に良い案です」
次いでユウはコントゥーズのリリアを訪ねた。バーナード邸の応接間にはうららかな春の日差しが差し込み、窓から見える庭園の緑も麗しく、またかぐわしい。
「またバカな真似をしましたねえ」とリリアは呆れたふうにため息をついた。空気が抜けるにつれて、座椅子に埋まるように沈んでいく。
「なんだか、ずいぶんと不評だなあ」
「当たり前です。ユウさんが出すといった金貨十枚はアントワーヌのお金でしょう。アントワーヌのお金はわたしに与してくださるみなさんの努力と、出資してくださるコルト領の民の血税で成り立っています。ユウさんはそれを勝手に天秤にかけたんです」
「それはそうだけど、戦いは機を見るに敏という」
「ユウさんは敏であり過ぎます」それともう一つ、と人差し指を立てる。「ユウさんがやっているような、相手をけしかけて戦争に持ち込むようなやり方は、わたしは賛成しかねます」
「あのなあ、リリア」とユウは笑う。「それが海賊のことをいってるなら、大きく間違っている」
「どういうことです?」
「前にもいった通り、おれも戦争をしようとは思っていない。ただ、放っておくわけにはいかないのも事実だ。海の自由は損なわれ、殺されることすらある。話し合えば分かり合えるかもしれない連中と話し合わないために、だ。これはいい状態じゃない。問題の先延ばしだ。なぜ先延ばしにされていたか、面倒だから目をつむっていただけだ。実に卑劣な理由だ。そのために子孫の代に問題を押し付けている。これはいまの代で清算しておいた方がいい。違うか?」
リリアは唇をかたくしたまま、辛うじて開き、
「違いません」
「そうだろう」とユウは窓辺に向かい、日差しの中で、「これで王国民の目は海に向いた。おれたちはこの問題を、話し合いだか、決戦だかで解決して、彼らを味方に引き込んで帝国との戦いに向かう。ところで、国家間の話し合いというのは拮抗した力がなければ成立しない。王国、少なくとも、アントワーヌには、海賊と拮抗する力がある、と彼らに知ってもらわなければならない。そのための出費が手始めに金貨十枚必要だったというだけの話だ」
リリアは腕を組んだまま、しかめっ面を俯けさせている。おもむろに上げ、
「ユウさんは、なんだか、こう、小賢しい感じがしますねえ」
「誉め言葉じゃないぞ」
「褒めてませんもの」とリリアは小卓のティーカップを取り、「まあ、今回のことは大目に見ましょう。なにより、わたしに行先と仕事内容を報告してから行きましたから。博打の件は聞いてませんでしたけど」
ユウは数日ここコントゥーズとアントワーヌ領を行き来し暮らしていた。その間に、アントワーヌの天ノ岐ユウが海賊と漁師の居住権を賭けて博打をぶち、勝ったという噂が広まってきた。それも競艇で勝ったという。意外にも、エルサドルの町は激しく熱狂した。例え天秤の一方の皿の支払いが自分たちの税金から払われていたかもしれないと知っても海賊に一泡噴かせた彼を称賛したという。それほどエルサドル民は海賊の行いに憤っていたということだ。
一方、コントゥーズや王都の方ではだいぶ呆れられているという。彼らは海賊に対する知識と認識が薄く、鬼と呼ばれる種族が内海中央列島付近で猛威を振るっていると思ってすらいる。それと船で競争するというのは少し滑稽で、むしろ、金貨十枚などという大金、それも公金で一勝負したことの方がやはり興味をそそったらしい。バカ野郎と罵る声も高かったが、その気風の良さというか、大胆さが一部の喝采を浴びた。特に、飲んだくれのオヤジたちの。連戦連勝のアントワーヌの人気の高さが後押しをしたというのもあるのかもしれない。
「天ノ岐さまは天衣無縫というか」王城でリリアを迎えたアドリアナも嘆息して、「少し常軌を逸していらっしゃるのかしら?」
「わたしもそう思います」
「でもいい面もあるのです。国民が海賊対策を熱狂的なほどに支持してくれるようになりました。王国近海の島を漁師たちが使うのに、海賊に脅されているということも知らなかったのですから。なぜいままで放っておいたのか、と憤る者も出てきています」
それで、と続ける。
「わたしたちの海賊に対する準備も順調に進んでいます。造船はもちろん、他国船の買い入れもして、人も育てて、王国の海軍力は着実に向上しつつあります。少し付け焼刃だけれど」
「うちも一隻買い入れたようです。近々エルサドルに入るとかで。ハルさんなんかは商売が大きくなるからって、大喜びですけど、わたしたちはまた借金です」
「借金、ですか」と冷たくした顔を俯けたアドリアナをリリアは不思議そうに見つめた。
「なにかあったのですか?」
「わたしたちが海軍に注いだ資金も国債によるものです。つまり、国の借金。同じものよ。その買い主が、どうやら方々の貴族らしいのだけれど、どうも、ロッテンハイム卿と繋がりのある貴族がとても多いようで」
「ロッテンハイム卿、ですか」
王国継承紛争でアドリアナの傍に立ち、総指揮を取った彼は功を認められて、いまはアドリアナの宰相、実質的な国政の担い手となっていた。その権威はいまや王国でも上位に位置するだろう。彼の強みの一つに、無尽蔵とも思える資金力がある。爵位は伯爵級であり、領地は平々凡々とした陸上交易と農業の土地のはずだ。それだけの資金を捻出できる力があるとは思えない。が、家は古く、指折りの名家。領地は王国の南北を繋ぐ重要な一点と取ることもできる。
リリアは、以前アドリアナが話していた言葉を思い出した。王国という国体の体現者たち。
「やはり、彼も王国の意志の体現者たちの一人で、いまの王国にはその資金が流れ込んでいる、ということ?」
「そうでしょうね」とアドリアナは何気なくいう。
「そんなお金に手を出して大丈夫なの?」
「大丈夫でしょう。彼らが王国の意志の総体であるのなら、わたしが王国のために戦う限り力となってくれるでしょう。海賊がいまの形では、王国に不利益なのは間違いありません。それに抗おうというのです。彼らも無碍にはしないでしょう」
「でも、わたしは」といいかけたリリアは諦めたように、背もたれに背中を埋め、「わたしは心配です」
「いまはまだ争う段階ではないということですね」
「少なくとも共通の敵を倒すまではね。わたしはそう思っています」
共通の敵、と聞いて、帝国のことがリリアの頭に浮かぶ。
「その前に、彼らの正体をつかめればいいのだけれど」
「わたしもユウさんに相談してみます」
「あなたの大切な彼にね」
「その言い方はなにか引っ掛かります」
リリアは顔を赤くして卓を叩いた。
○
椀をひっくり返したような、なだらかな黒色の山体がひとつ、いまも白煙を上げて青い空を塗ろうとしている。その陸へ、一艘の短艇が近づいてゆく。舳先に足をかけるジュディがおり、その背中には男が三人、顔を上げる余裕もないほど櫂を回して翡翠色の濃淡を施した海面に波紋を広げ、また色彩を添えていた。
火山島の端には木で組み上げたはしけが沖に向かって列し、短艇が幾つかもやわれていた。ジュディの船もその列に連ね、彼女自身は浜にある天幕の下へ向かっていった。その日陰に豪勢な食卓と酒樽を並べて宴会をしている男女が計六人、正確には男が五人と女が一人。
「遅かったじゃねえか、ジュディ」
円卓の奥に座った男がだらしのない腹を揺らしながらいう。片手にはジョッキ、片手には鳥の手羽を持って、ジュディを睥睨していた。
「ずいぶんと楽しげじゃないか」
ジュディは鞘ごと抜いた刀を抱きながら、海寄りの椅子に、どっと腰を下した。
「みんな揃ってなんの用だい?」
「あんた、王国の船に手玉に取られたらしいじゃない」
ジュディの眼光とともに、大太刀の刃が光る。激しい金属音とともに火花が散った。別の女が振り下ろした鉄扇としのぎを削りながら震えている。
「別に殺し合ってくれて構わねえがよ」と奥の男が前にのめりながらいう。「この島でのいさかいはご法度だぜ」
得物を重ねていた二人は残りの男たちの呆れた視線と失笑に、目配せし合い、どちらともなく距離を取った。女の小さな舌打ちに、またジュディの神経が逆撫でされる。
「まあまあ、今日は誰かを非難するために集まったわけではないでしょう」
紳士然とした男がゆったりと腰かけたまま、組んだ足の上で両手の指も組み合わせている。格好も王国貴族にかぶれているようで、それもジュディの気に入らない。
「おう、そうだ」と奥の男がジョッキを卓に叩きつけた。「おまえらを呼んだのは他でもねえ。その王国のことだ」
一同を睨め回し、
「王国の奴らはなにを狂ったのか、おれたちと一戦交えるつもりでいるらしい。が、講和の使いも来ている。これだ」
一枚の紙片を広げて、一同の前にかざす。同様の手紙はジュディのところにも来ているし、他の五人の下にも届いているだろう。
「内容は簡単なもんだ。王国側の大使とエルサドルで会談をし、領土の策定と交易の自由化を図りたいという。要するに、自分たちの船は襲うな、物が欲しけりゃ金を出せ、といいたいらしい」
会場には失笑が起きる。その声を手のひらで収めた上座の男は、
「ここで相談だが、おまえたちはどう思う? 話し合いに乗るか、講和に乗るか、全部踏み倒して奴らに身の程を知らしめてやるか」
「そりゃ三つ目だろ」とこの中でも指折りに若い男がそのがっしりした体を跳ね起こして地団太とともに怒鳴る。「虚仮にされて黙ってられるかってんだ」
「別に虚仮にされてるわけじゃねえだろうが」と眼鏡の男が嘲笑すると、二人の視線がぶつかった。剣呑な雰囲気が濃厚になる。
「やるなら島の外でやりな」と上座の男は呆れ声で、「確かに虚仮にされてるわけじゃねえ。奴らはおれたちを、帝国やウッドランドなんていう大国と同等に扱おうってんだ。それほど悪い待遇じゃねえ」
「確かに、いままでどこからどこまでがおれたちの領土かってことは話し合ったことがなかったな」
「バカ野郎、海にある島は全部おれたちの島だぜ」
「それはわかりませんが、話し合うくらいの価値はあるかもしれません」
「ちゃんと縄張りが決まってれば、あんな小娘みたいに喧嘩をふっかけられて恥をかくこともないしね」
「この年増っ!」
再び抜刀しようとしたところに、上座にあった卓が蹴り上げられて皿と料理がジュディに降りかかってきた。
「頭冷やせっていってんだろ。エルシー、てめえもだぞ」
年増女は羽扇子で口元を隠し、ジュディはそれを尻目に天幕の外に出た。
「おい、ジュディ……」
「知らん。おまえたちの勝手にしろ。話し合おうが、殺し合おうが、わたしはその決定に従う。それで文句はないんだろ?」
ジュディははしけを渡り、大太刀を短艇の子分に投げ渡すと服も脱いだ。
「お頭」と呼ぶ声も聞かず、海に飛び込む。そのまま、母船に向かって泳ぎ出した。
なぜ泳いでいるのかと問われてもわからない。汚れを落としたかったこともあるだろうが、それが肉体的なものなのか、精神的なものなのか。
どうだっていい。
ともかく、どこまでも泳いでいきたい。すべてを振り切るほどに自由に、誰よりも早く、どこまでも、どこまでも泳いでいきたい。あの天幕の下にいる腐った奴らにはわからないだろう、この衝動。
ただ、一個の激情のために必死に水を掻いている。
○
ユウはこのひと月あまりの間、憑りつかれたように調練を繰り返していた。元々、アントワーヌはその馬術と訓練を兼ねて、王国中の陸運に一役を買うようになっていた。
輜重隊は荷駄を引き、騎馬隊は荷物を背負って一心不乱に国土の東西南北を駆け巡る。その速さは折り紙付きで評判だったが、殺気立った雰囲気は荷物の受取側に不評だった。なにせ、食事はパンをぎゅっとかためたような小麦の塊、通称フイプと塩と水だけで、宿は露天で日中は馬を休ませる以外は走り続ける。騎手には息つく暇もない。そのため、アントワーヌの騎馬隊は常に飢えている、ともっぱらの噂であり、ほとんど事実であった。
ユウが参加して、その移動速度に拍車がかかっている。
「おれについてこられる者だけがついてこい。馬を潰すほどの無理はするなよ」
という、彼より、馬の扱いはアントワーヌ兵の方が慣れている。馬と関わって生きてきた時間の長さが違う。ただ、彼はストイックさにおいて、誰よりも劇的だった。睡眠の時間すら削って進軍し、自分の肉体の限界に挑んでいる。
「死線をさまよってこそ、自分の限界の先が見える」
などと持論をのたまい、父からそのように訓練されてきている。もはやマゾヒズムといっていいのかもしれない。
王国を東奔西走し、半生半死の部隊を引き連れてアントワーヌ領に戻ったのは夜。彼が自家にしているあばら家のドアを引いたときは、もう寝ることしか考えていなかった。それなのに後ろから声をかけられたから、その声の主を斬って捨てようとすらした。
「あ、天ノ岐さん、帰ってきてたんすね」と駆け寄ってきた顔には見覚えがある。ロックスの部下の一人だ。暗いから顔色はわからないが、よくはないだろう。狼狽えている雰囲気がある。
「なんだい、こんな夜更けに」
「それが」と身振り手振り、彼がいう。「エルサドルで、ロックスさんが倒れたようです」
「なに?」
ユウはすぐさまセキトを引き出して、エルサドルへ向かった。アントワーヌからエルサドルまで、馬を飛ばしても数時間がかかるが、それだけの時間が経ったいまでも、いつもの酒場が騒がしく、人も扉から溢れている。
「なにをしてる? ロックスはどうした?」とユウはセキトから飛び降りるなり周囲に問うた。「倒れたって、大丈夫なのか?」
「ああ、天ノ岐さん」と答えた一人はへらへらとしていた。「もう大丈夫ですよ。さっきまではだいぶ吐いてましたけど」
「吐いてた?」
「酒の飲みすぎです」
「それで倒れたのか?」
「ええ、まあ」
「バカ野郎」といままでしていたグローブを投げ捨てて踏みにじった。「そんな下らないことなら先にいえ」
「わざわざ伝令が行ったんですか? いやあ、本当に申し訳ありません」
「いいよ、もう」フェルロテア、アントワーヌ商社の建屋に仮眠所があるからそこで寝る、と決めたユウの背中に、また声がかけられた。
「そこの殿方」
妖艶な雰囲気の声音に振り向くと、声に似合った美女がいた。薄い紫のワンピースに褐色の肌、柔らかそうな肢体を酒場の軒下の柱にしなだれかからせ、長い赤毛の隙間から青色の瞳を覗かせてユウを見据えていた。それらの色彩が月下に輝いている。
面識のない人物かつ、ユウの苦手なタイプかもしれない。
甘い香りの匂ってきそうな女は細い顎に笑みを浮かべたまま、沈黙を保っている。彼女を眺めるアントワーヌの取り巻き連中もなにもいわない。恍惚と畏怖の間をさまよっているようだ。
「何用です?」
「よろしければ二人でお話しません?」
千鳥足とはいかないまでも、不確かな足取りで寄ってくるその体臭は、女の匂いと潮の香り、酒の臭いが混じってずいぶんと濃い。酒場の高床から降りた身長はユウよりやや高く、じんわりとコンプレックスを感じる。
「申し訳ありませんが、今日は日が悪い。また日を改めておいでください」
彼女の唇がユウの耳元に来、
「あんたに話があるんだよ」
と囁いた声には聞き覚えがあった。
「ジュディか?」
「まあ、覚えていてくださったの?」と片手を頬にやった彼女の瞳が光りを失ってずいぶんと暗い。
○
水差しからコップに注ぐ水の波紋がふるふると光る。一息に飲み下した液体の冷たさに頭が冴え、睡眠に向かっていた頭をかろうじて現世に繋ぎ止めておいてくれる。ユウは口元を手の甲で拭い、会談のされている一室を振り返った。仄かなヘリオスフィアの灯火の中、二人の人がいる。
「で」とそのうちの一人、クラインがいった。執務机の上に肘を突き、組み合わせた指で口元を覆うようにしている。「ジュヌヴィエーヴくん、といったかな。中央列島の家長の一人、という話だが」
中央列島もいくつかの島にいくつかの集落があり、それぞれに代表がいて、代表同士が話し合い、中央列島の、いわゆる海賊団としての総意とする。その代表の一人が、この女だという。
ソファーの背もたれに腕をかけ、肘掛けに体の半分を預け、ほとんど横たわるようにして、彼女はクラインと、そのうしろの薄闇の中にいるユウを見据えた。
「あたしとしては」と喋った彼女の片手にあるグラスの中で、琥珀色のアルコールが回っている。氷が壁面とぶつかって音を立てていた。「アントワーヌの側についてもいい」
ユウは驚いてクラインの方を見たが、彼は眉ひとつ動かさず、ジュディに険しい視線を据えて動かさない。
「その言い様だと、中央列島住民の総意としては、我々と同盟は組まない、ということか?」
「わからない。王国との話し合いには応じるかもな。だが、無理難題をふっかけるだろうよ。そういう奴らだ」
「なぜ君だけが我々に味方する気になった?」
「あいつらは下らない欲にまみれすぎている。挑発されればすぐに噛みつくバカと金の亡者の巣窟だ。あたしの肌には合わない。むしろ、その男の方がいいねえ」
二人の視線がユウの方へ向く。
「一杯食わされたのは気に入らないけど、まあ、勝負のことだ。それは置いといて、自儘に海を駆けてるってえ感じがして実にいい。あたしも、久しぶりに思い出したよ。なんであんな小島に身を寄せて生きているのか」
「なんで?」とユウが問う。
「自由だからさ。中央列島には法もなければ掟もない。ただひとつ、列島の総意は家長の会議で決める。いまとなっちゃそれもバカらしいが。わたしは人のために海賊をしてるんじゃない。束縛されるのが嫌で海にいるんだ。法も秩序もない、自然が支配するだけの海の上にね。そりゃ、生きるだけなら陸の上、レオーラの地に足つけた方が楽さ。しかし、陸の上じゃ細かいことが多すぎる。あたしは嫌だね」
「断っておくが、我々も無法の集団ではない。王国と国際法の法規の下に運営されている。海賊より規制は厳しいだろう」
「あたしには夢があるのさ」
意外なことをいわれ、ユウとクラインは丸くした目を合わせた。彼女は構わず話を続ける。
「未知の大陸の開拓さ」酒が回ってきたのか、夢見心地の瞳を虚空に据えて、「クリフトフって、いるだろう? 初めてクリフトフ海峡を無補給で逆行した天才航海士だ。あの男がやったのはそれだけじゃない。東のオルドネラ大陸の発見、南のガムル大陸の発見。小さな島と探索は数え上げればキリがない。あたしも海に生まれて、漕ぎ出して、潮の匂いを嗅いで思ったよ。このままどこまでも、どこまでも漕ぎ出して、未知の大地を踏みしめて、その土の匂いを嗅ぎ、緑の匂いを嗅ぎ、未知の世界を、まだ見ぬ、誰も見たことのない絶景を探し出して歴史に名前を刻むんだって。クリフトフのように、このジュヌヴィエーヴの名前を地図の上に刻み込んでやるんだってね」
しかし、どうだね、と自嘲気味に嘆息し、
「いまのあたしは部下を引き回して、小賢しい船に因縁つけて、泡銭を掠め取るセコい商売さ。海賊連中はそれで身内と誇りを守って、自分たちは海の王者気取り。ちゃんちゃらおかしいったらないね。要するに、愛想を尽かしたの」
ぐい、と酒を飲み干し、熱い吐息とともにグラスを卓に放るように置いた。
「だから、あたしは抜ける。あんたたちの側について、一通りのことが終われば海に出る。未知の世界を開拓する、あんたたちにはその出資をしてもらう」
それともうひとつ、と人差し指を立て、
「あたしの大クリフトフ号を、アントワーヌ船と同じ自走船に改造してもらいたい。そうなんだろう? おまえたちは自走船の開発に成功したんだろう?」
ジュディが自走船に気づいているだろうことはユウも承知していた。ただ敵に切り札を見せただけになるか、それとも、自走船に惹かれてなにかしら接触を試みて来るかもしれないとも思っていたが、まさかこうも直接的な行動をしてくるとは。しかし、彼女の酔いもずいぶん回ってきている。呂律もはっきりしない。アントワーヌで酒豪と鳴らすロックスと飲み比べをして倒したというのだから、ここに来る以前から相当量のアルコールを摂取していたんだろう。古い夢の話など、素面ならしていなかったかもしれない。そこに言い知れぬ決意が垣間見える。
今度見据えたクラインの目にも得心の色があった。ユウがその意志に頷いて返すと、クラインはジュディの方へ向き直った。
「君の意思は理解した。しかし、こちらにも色々ある。今日この場で返答というのはできない。二、三日の猶予は欲しい」
「アントワーヌもお硬いねえ」
「いったはずだ。我々は規則に従って行動している。もし、我々が君を受け入れるんだとしても、君にもこちらの規則に従ってもらう」
「わかってるよ、そんなことは」
「宿を用意させよう。我々の結論が出るまでそこに留まるといい」
「ここでいい」と腕を枕にして、完全に横になってしまった。
「それではわたしが困る」クラインは人を呼んでいびきをかきはじめたジュディを運ばせて、誰もいなくなったのを見計らい、ユウに向いた。「どう思う、彼女の話」
「信じられるのでは。彼女、おれとの約束を守って例の小島に漁師が入ってもちょっかいを出してこないといいます。クズなら腹いせにとっくに攻撃してきているでしょう」
「それどころではなかったのかもしれん」
「そうかもしれませんが、おれたちに彼女を断る理由があまりありません。強いていうなら、彼女の裏切りが発覚したあとの海賊同士のごたごたを収めるのが骨だということくらいでしょう」
「他にも、間諜の疑いがある」
「いまさらなにを調べられるっていうんです? 海戦するにしたって、海戦時期や戦法なんて、おれたちの秘匿することじゃないでしょう。作戦は王国軍がやるんです。おれたちの船なんて一隻、マロードさんが作ってるのも合わせても二席しかないんですよ」
「そうだがねえ」とクラインはため息を吐く。「ともかく、一晩寝かせよう。こういう話は一人でじっくり考える時間を置くものだ。君の疲れた脳では頼りない」
「わかりますか?」
「わかるね。顔色は白いのに目ばかり光ってる」
「そんな奇相に」頬を揉んで柔らかくするが、なんの意味もなかろう。
「もう一部屋準備させた。今日はそこに泊まっていくといい」
「これだけでもクラインさんを引き込んだ価値があったというものです」
ユウは出口に向かいつつ、ああそうだ、と振り返る。
「リリアにも伝えて、彼女の意見も聞いておきましょう。アントワーヌは彼女の組織です」
「それは君の方でやってくれ。ぼくと彼女は、どうも相性が悪い」
クラインは椅子を回して、重いカーテンに見入っていた。
○
「実に耳寄りなお話です」とリリアは手を打った。「そのジュディさんが戦いを望まないというのなら、これ以上の吉報はありません。お話を進めてください」
「しかし」とこの日、リリアの様子を見に来ていたジェシカがいう。口も頭も軽そうなアンジュは外に使いに出していて、バーナード邸の応接室にはこの三人だけがいる。
「リリア、クラインのいうことも一理あります。自走船は我々の強みです。いま、これの情報が他所に流れるのはいかにも惜しい」
「わたしはユウさんを信じます。ユウさんはその人を信じられると思うんですよね?」
「信じられると思う」
「ユウ、適当なこというなよ?」
「信じられるものを信じられるといって悪いか?」
「ジェシカ、アントワーヌの運営は期日を置かずユウさんに一任するのは帝国を出て以降決めていることです。いまさらどうこういうこともないでしょう。海のことは海の人に任せ、あなたは陸のことを考えるべきです。一軍の将たる者、割り振られた任務を遂げることに専心なさい」
ジェシカはむっとしたものの、丁寧に頭を下げて一歩下がった。
「でも、諫言してくれたのは嬉しく思います。これからもよろしくお願いしますね」
「はい、かしこまりました」と頭を下げる。
「ということは、ジュディを信用して、リリアは構わないということだな?」
「賛成します。友好的な人とは友好的にしたいです」
実に快活でわかりやすい方針である。
バーナード邸をあとにしたユウは、その背中をジェシカに叩かれた。
「本当に信じられるんだろうな、その女?」
「来る者全部拒んでたら周りはすべて敵ばかりだぞ」
「そうかもしれんけどなあ」
しばらく、二人は白石の壁が眩しい春のコントゥーズを歩き、アントワーヌ領に向かっている。
「ところで、マロードさんの船の様子は見た?」
すでに中古船を一隻買い入れていて、エルサドルの船渠で改修工事が施されている。
「いや」とジェシカはしかめっ面で腕組をして、「見ておく必要があるのかねえ? ダンダロフのやつのことなんて」
「おまえも大概過去思考だな」とユウは嘲笑し、「見ておいた方がいいぞ」
「なんで?」
「海戦には晶術師も連れて行くから、リリアも来るだろう。あいつを守るのはおまえの仕事なんだろう?」
「それはそうだが、わたしは海戦じゃ役に立たないよ。リリアは置いていけないのか?」
「たぶんそうはならないだろう。船の操舵はハルの商人勢がやるけれど、白兵戦になれば兵がいるから、やっぱり兵も乗せるし」
ユウの手応えとして、大軍を預けるならジェシカよりもエイムズだ。彼に留守を預け、スレイエスーエルサドル間で船酔いを見せなかったジェシカと彼女の率いる一隊をリリアの護衛につけた方が良い。
「なら部下を船に馴れさせておかないといけないな」
「そのことはハルと相談してくれ。船はあいつの管轄だ」
「わかったよ」とジェシカは肩を竦めて、アントワーヌ領内の調練場へ向かっていった。
それから三日あまりの間、この話題が二人の間で交わされることはなく、ユウは畑の手入れを手伝う日々を続けていた。冬に蒔いた小麦は緑の波となってアントワーヌ領に茂っている。
「今年も豊作も実りが期待できそうです」とエイムズがいう。
アントワーヌ兵は遠征にない限り、朝夕を畑仕事に使い、日中を訓練に使う。農業は基本的に力仕事で、肉体作りにはいいし、戦争が始まれば食糧の過多が勝敗を決する要因にもなる。それにユウは戦争が終わったのち、兵の多くを農民に還すつもりでいる。帝国を打ち破ったのちは、北辺の大地を耕さなければならない。そのことはエイムズも、承知していて、部下の多くも察している。実際は個人の選択に任せることになるだろうが。
「天ノ岐殿はどうするのです? 戦いが終わったら」
「北の荒野を耕すのもいいかもしれないですけど、新天地を探しに行くのもいいかもしれないですね」
先日のジュディの話に影響を受けているのかもしれない。
「どこかで元の世界に帰る方法がわかるといいのですけど」
「やはり元の世界が恋しいですか?」
いわれて思い出す街の風景はある。
「しかし、恋しいとも思いませんな」いうほどの感慨もない。人生はできる範囲のことで最善を尽くす他ないのかもしれない。「いまはまだやることがありますから、帰ろうとも思いませんが、やることがなくなったらどうだか」
「なくならないと思いますよ」とエイムズが笑う。「リリアさまは、きっと終生天ノ岐殿を必要としています」
吹き流れた風が草葉を鳴らす。空に登って、点々と浮かぶ綿雲を揺らしたようだ。遠くにある雲の影が濃淡を変えながら、いつの間にかユウたちの頭上を行き過ぎていった。その雲の陰影をユウの目が追っている。
「わたしは行きます」とエイムズが立ち上がって尻についた葉を叩き落としていた。調練の時間だろう。「天ノ岐殿はどうします?」
「クラインさんのところに行きます」
ジュディのこと、そろそろ決断しているだろう。あの人は考え事を始めると、一切の人を排して己の思考の海に溺れる癖があるらしい。あらゆる状況を想定して考え抜き、おもむろに一手撃ち抜くという感じだ。才能があるだけにそれが的確過ぎて、他の追随を許さず、異を唱える人間を置いてけぼりするのは、あの人のいいところであり、悪いところだろう。
以前、それをハルに話したことがある。
「わたしは理解していますわ。クラインさまは明晰で、全体を見る目を持ち、頼りになります。わたし以外でも、商家出身の人たちは理解していると思います。武闘派の方々には理解が難しいかもしれませんけど」
「ならいいけれど」
かつての敵だったクラインの味方がアントワーヌの中にいるのは、彼を引き込んだユウとしては安心できる。
「わたしが心配してるのはユウさまの方です」
「おれえ?」
「クラインさまは考えて思考のついてこれない人を置いてけぼりにする癖がありますけど、ユウさまは考える間もなくあらゆる人を置いてけぼりにする癖があります」
「そうかしら?」
「ついていけるのはタモンの小父さまくらいじゃない?」
「え、なんかヤダな」
確かに、どんな窮地でもあの男だけ忍び寄るようについてくる。最近は対海賊工作とスレイエス工作に使っているから、あまり見ないが。
「以後、気をつけようかしら」
「お気をつけあそばせ」
そんなことを考えながら、ユウはクラインの執務室の扉を叩いた。
「どう決断しました?」
「悪くない」とクラインはいう。「彼女を受け入れるのはいいだろう。しかし、海賊側を裏切らせる、という行いはのちに軋轢を生む。それはできない。だから我々が彼女に接触して、交渉を開始する。表向きには、ね。ちょうど、王国が海賊の情報を集めている。海賊の情報が最も多いのは、ここ、エルサドルだ。そのエルサドル商人が、彼女が与しやすい、と保証すれば、王国はそうするだろう。事実、君は彼女と面識があるわけだし、エルサドルにその情報があって不思議でもあるまい。で、そうなると、だ。海賊側はもちろん彼女を頼るはずだし、その過程で彼女が親王国派になることは実に自然なことだ。いずれ戦うとなっても、アントワーヌ側についていい」
「天才的です」とユウは膝を打った。「ただ受け入れるだけじゃなくて自然な形に見えるように世間を騙す。政略を任せてクラインさんに匹敵する人も少ないでしょう」
「戦略で負けたけどね」
「なんだか本気で帝国にも勝てる気がしてきたなあ」
「勝てる気がしてなかったのか」
その後、クラインの執務室に呼ばれたジュディは、
「別に構わないけどね」とドレスの裾から出ている艶めかしい足を組み替える。「そっちはこっちの要求を呑むのか? 自走船への改造と、未開航路の開拓への出資」
「自走船に改造するのは構わない」とクラインは組んだ指を机に置き、「しかし、技術を渡すわけにはいかない。そもそも、自走船自体、まだエルサドルを始めとするレオーラ大陸の各町では知られていない。船の操舵はともかく、自走の晶源、操作はこちらが管理させてもらう」
「それじゃ話が通らない」
「まあまあ」とユウが割って入る。「ジュディ、おれたちは帝国と戦い、そして勝つ。勝つには制海権がいる。制海権を得るには自走船を独占しなければならない。負ければ当然アントワーヌは出資できない。ただ、勝てば航路開拓の出資は間違いなくする」
「おいおい、ユウくん」
「いいのです、クラインさん」ユウは手を振り、「出資は絶対にする。しかし、帝国に勝たなければならない。勝つには自走船の秘密は絶対だ。秘密は知っている人間の数が増えれば漏洩する危険も増える。おれだっていつか情報は漏洩すると思っている。しかし、そのころには百隻のアントワーヌ船を内海に浮かべて、帝国とその同盟国の船を内海から一掃する。そのために最善を尽くしたい。おまえとおまえたちの仲間が秘密を守ると自信をもって言えるなら」
「あたしはあたしの夢のために戦い、命を賭ける」立ち上がったジュディはユウと胸を合わせ、「そのことに嘘はない」
じ、と見据えてくる瞳を覗き込み、ユウは頷いた。
「信じよう」
どーん、と、ふくよかで軟かい胸部に押されて、ユウはその衝撃に物理的にも、精神的にも、よろめいた。
「それでこそ男だぜ」
と、ジュディの腕が首に絡み、引き寄せられ、軟かい肉に圧迫される。
「ちょっと、やめなさい」
「まあまあ、いいじゃねえか。今日から仲間だぜ」
盛大に笑う声が耳に痛い。
「いいのかい、ユウくん?」と眺めてくるクラインの目も心配そうだ。
「良いのです」とユウはやや絞め上げられながら、「しかし、ジュディの船をいまエルサドルの船渠に入れることはできない。全部、海賊とのことが終わってからだ」
「いいぜ、おまえの気風を信じよう」
「おれはいままで約束を違えたことはない」
ジュディの腕から解放されたユウは彼女の手を強く握った。
○
アントワーヌの情報網を掌握していたクラインの観測は実に正しく、タッソーのところに王国からの使者が来訪しており、種々の情報を集めていた。
「前後してアントワーヌにも使者がお伺いするはずです」
タッソー老はユウに話していた。タッソー老は、情報をまとめてみます、と話して一度使者を帰し、今日訪れていたユウの内意を聞いて賛同した。
「よろしいでしょう。それであなた方の策が円滑に進むというのなら、支持しましょう」
「大変助かります」
それからひと月あまりのち、王国は想定の通りジュディを通して海賊との交渉を始めたらしい。海洋に縁遠かった王国で海賊の情報を集めようとすればエルサドルを始め、東海岸の商人や漁師たち、それとアントワーヌくらいしか伝手がない。自然、彼らの上げた名前を頼らざるを得なかった、といいうクラインの観測も正しい。
結論からいうと、この和平案は丸く収まらない。七つある海賊の家のうち、和平案に賛成したのはジュディを含めて二つ。残りの五つは要求が受け入れられない場合は海戦も厭わない姿勢を見せた。その内容というのが、内海の孤島の使用権の独占と内海を航海する船舶からの金銭の徴収権、などという無茶なものであった。王国側は譲渡を望んだが、海賊側は譲らず、決別。シリエス王国は建国以降、いや、ジョゼ時代終焉以降一千年、最大の海戦がいま始まろうとしている。
タッソー邸の応接室に十人に及ぶ人がいる。
「あの噂に名高いアントワーヌ卿にお目にかかれ、光栄の極みにございます」
四十より少し上だろうか、顎髭を蓄えた細面の男性は王国風の、やや裾の長い紳士服を着、片目には小さな眼鏡、後ろに撫でつけていた黒髪を隠していた中折れ帽を胸に抱え、ひょろりと長い背を折ってひざまずく姿は堂に入っている。海賊、という身元を知らなければ、王国出身の名のある貴族かと思ってしまう。
「わたくしもヘンダーソン卿にお会いできて嬉しく思います。よくわたしたちの意を汲んで折れてくださいました。アドリアナ陛下からも感謝の言葉を賜っております」
「もったいなき儀でございます」
さらに深く頭を垂れるヘンダーソン卿を数歩下がったところにいるジュディが鼻で笑う。彼女は腕を組んだまま直立していて、その気概が窺える。一方、リリアの背後ではジェシカが剣の鞘を撫でながら、客分の一挙手一投足を伺っていた。怪しい動きをすれば、否応なく殺して、自らも死ぬ覚悟だろう。
他にいるのは、タッソー老と孫のアビー、ホーランド家の当主ヴィータやアントワーヌを支援しているもう一家、カラヒナ家当主、コントゥーズや王都、その他内海に面した領地からの外交官もいる。要するに、決起集会なのだ。アントワーヌに味方するエルサドルの商家、王国の要人が集まり、互いの決意を見合い、戦力と作戦の確認を行う。外では、アントワーヌ船や海賊船はもちろん、エルサドルの商船、王国の軍船、王国南方からの軍船も集って、その整備補給に余念がない。
「わたしも、アドリアナ陛下も、中央列島に身を寄せる方々と戦うのを良しとはしていません。ですが、王国民の利益を大幅に損なう上に話し合いにも応じないというのなら、我々にも覚悟があることを示さねばなりません」
「閣下とアドリアナ陛下が、下劣な海賊どものためにお心を痛められることもありますまい。奴らは法を知らぬ野蛮人という他なく、学を尊ばない野蛮人には痛みとともに教訓を教え込まなければならないでしょう」
「わたしの口からは、そこまではいえませんが」と逸した目をヘンダーソン卿に戻し、「これからのこと、よろしくお願いいたしますね」
「必ず勝利を、閣下に奉じましょう」
拍手とともに会は引け、ヘンダーソンとジュディは連れ立って部屋を出ていった。ユウは彼らのうしろを歩いている。リリアと商家ら、それと外交官は部屋に残ってそれぞれのパイプを強固なものにしているだろう。
「よくあんな言葉がすらすらと出てくるもんだな」
立派なもんだよ、とジュディは皮肉交じりにいう。
「奴らが蛮族なのは事実だ」とヘンダーソンはいう。「じきに海賊の時代は終わる。船の大型化や高速化、戦術の変化など、活発になりつつある。あの蛮族どもは海の潮流には乗れても、時代の潮流には乗れないのさ。いまのうちに王国に従うのがいい。わたしは王国に悪感情はないし。むしろ好意的だ。それよりも、おまえがアントワーヌにつくと決めたことの方が意外だったよ」
ヘンダーソンはユウの方をちらと見遣り、歩調を落してユウと並んだ。自然、ジュディと彼の間に挟まれる格好になる。
「どう海賊と戦うおつもりです?」
この時代の海戦というと、大砲がないために遠距離攻撃は大型の弩弓、火矢、火炎瓶程度しかない。その上、移動は風と潮に任せるために旋回に莫大な時間を要す。例えば、横に広がった横陣同士でぶつかり合い、衝角や遠距離武装、白兵戦などを交えるのだが、二つの陣はすれ違ってしまえば旋回運動を繰り返して、再会するのは数時間後、もしかすると、二度と巡り合えないことすらある。これがこの時代の海戦というものだ。
海賊の最大の強みというのは、この旋回運動と船速であり、例えば敵が縦に長い縦陣を形成している。海賊はその影を見つけると、自在に旋回運動を繰り返してその横腹をつく。敵は強襲に応じるために旋回運動に入るが、その間に両者の交錯は終わっていて戦いにならない、というのだ。例え、同時に両者の姿を認め合ったとしても、海賊を上回る機動力のない海軍は規模の違いがあったとしても、右と同様の目に遭うことが極めて多い。現代社会で例えるなら、車で走っている時に横合いから追突される。その追突者を追いかけようとして車を回したときには犯人の影が見えなくなっている、というのに近い。
ちなみに、海戦に作戦など不要、と地球でも古い時代はいったらしい。帆船はいまほどの操舵の自由がなく、徒党を組み、計画的に一点を狙う、という行為が極めて難しい。結局、おおよその攻撃の方向を決めて突っ込み、運よく遭遇した敵船を襲うしかない。そのとき、味方が傍にいてくれるか、敵の方が多いか、というのは、操舵の実力が関わるとはいえ、陸戦以上の運が必要になってくる。
ところで、アントワーヌ船は旋回運動が自由で、船速もあらゆる船をぶっちぎっている。この点、海賊を上回る戦力を有している。だが、一隻では戦闘にならない。それをどうするのか、とヘンダーソン氏はユウに訊いている。
「アントワーヌの天ノ岐ユウ殿は稀代の参謀と謳われています。その天ノ岐さまがなんの手もなく海賊と戦おうとは思っていますまい」
「それを頼りにこちらになびかれたので?」
「半分はそうかもしれませんな」とヘンダーソンは意外に爽やかに笑う。空と海の青さの中で生きてきた男とは、こういうものなのかもしれない。ユウは新鮮な驚きに目を開きつつも、
「おれも、二十に及ぶ敵船を、王国軍が討てるとは思っていません」
二人の情報によると、そういう数が敵中にあるという。
「そのうちの五、六隻を、アントワーヌが始末できれば、勝機が見えるものと思っているのです」
先ほどもいったように、この時代の海戦は集団と集団がすれ違うだけだから五隻や六隻も沈められるわけがないのだ。にもかかわらず、ユウが豪語するものだから、ヘンダーソンの片眼鏡の奥の目が丸くなって、次いで声を上げて笑い始めた。
「面白いことをおっしゃる。でしたら、わたしも五、六隻の船を沈めて差し上げましょう」
「バカをいってやがるぜ」とジュディは鼻を鳴らし、「そんなことできるもんかねえ」
「しかし、やらなきゃ勝てないだろう」
「まあ、確かに」と頷いて、膝を打った。「よーし、あたしも五、六隻、沈めてやろうじゃないの。こうなったら競争だな」
いまのエルサドルは、前代未聞、古今稀に見る活況を呈していた。南からは王国の有する船舶群が群がってきて、王国方についた海賊船の数も四隻、それらの船に補給、補修する物資と人材の量も一入で、海路、陸路から押し寄せる荷駄は町の外まで張り出した幕舎に寝泊まりしなければならないほどであった。
「しかし」とのちにユウの下を訪ねてきたタッソー老はいう。「この活況も王国とアントワーヌが勝つ、と信じているからのものです。もし万一にも負けたときにはこの期待が逆襲してこないとも限りません」
「充分に心得ております」
そのための準備をユウは綿密なまでに行ってきた。
「まず負けない」と、アントワーヌ船に来たカルヴァンがいう。「必ず勝てる。二十隻くらいの船は瞬殺できる」
「そういってもらえるとありがたい」
「おれは技師として、装備の効果を見るために乗せてもらう。あれはアントワーヌ船と二号艇に積み込み終わっていて、取り扱いはロックスにすべて任せてある」
「人事は尽くしました。あとは天命を待つだけ、といったところでしょう」
「人事は戦場でも尽くしてくれないと困る」
「正論でございます」と、ユウは笑う。
その翌日、エルサドルに碇泊する船が一斉に錨を上げた。
○
冬の季節が行き過ぎて、輝く波間は穏やかなものだった。
「天気晴朗なので波高くなしだな」
「なにいってますの、ユウさま」
ついに狂ったんですの、と正気を疑う目をハルに向けられる。
「天気はいいし、波も高くない。視野も良好で操船も楽だ、腕の差は出にくい、勝てる確率が高い、というのが一言でわかる」
「誰に伝えようとしてるの?」
「あったんだよ、そういう文章が。いってみたかっただけ」
「前線から連絡」と、そばの配管が鳴る。帆柱の上まで延ばされていて、要所に繋がっている。その出口の一つだ。海戦が始まる前にユウが発案してアントワーヌ船の各所に這わせ、足場その他の邪魔になるかとも思ったが、そうはならず、性能も良好なため、実戦に使用している。「敵船を発見」
およそ縦陣を組んで縦長になった王国軍船団の、前方から送られてくる手旗信号だ。船数は王国の軍船だけでなく、商人から借り受けたものや、他大陸から急遽買い入れたものもあり、総計四十隻を下らない大軍勢であった。一見多国籍軍の様相を呈している。操船も軍人、商人、外国人がおり、戦闘要員のほぼ八割を王国軍が占めているものの、あとはアントワーヌと傭兵、外国からの義勇兵だ。
アントワーヌ船と新しく買い入れた二号艇、通称ライガー号は、その長大な陣形の後方をゆるゆると流れていた。海賊船四隻は最前線で水先案内しているはずだ。ここからでは青霞の向こうになって、影も見えない。
「敵は横陣、西へ回頭、縦陣に変形して快走中」とまた配管がいう。
「日本海海戦みたいだ」
「ユウさんユウさん」とリリアが駆けてくる。後ろには落ち着き払うジェシカと怯えるアンジュがいる。二人とも動きやすさを重視して軽鎧とそれに準じた鉄鋼具足だ。
「ついに来ましたね」
「うん。おれたちと晶術部隊の出番がないことを祈ろう」
「はい。王国軍の方々を信じます」
「つつつついに海賊との決戦ですか」とアンジュの握った拳が震えている。「ここここれは武者震いです」
「ところであれはなにをしているんだ?」と訊いてきたのはジェシカだ。ロックスとその部下が下甲板にある倉口に群がって、木製クレーンを用い、船倉から引き上げた丸太を舷側に結びつけている。
「あれはおれとロックスとカルヴァンさんで造った新兵器だ」
「新兵器? 衝車みたいなものか?」
先の尖った丸太を備えた車を衝車と呼び、陸戦では城門を破るのに使う。
「どちらかというと投石器だ」
「信号あり」とまた配管から声がした。「左八点、一斉回頭」
海賊の向かった西へ回頭し、横腹を突かせず、正面からぶつりたいということだろう。しかし、風が西から吹いているから向かい風に向かって進むことになる。その操船は非常な困難を極め、案の定、王国船の半分は回頭したもののまともに泳げず、残りの半分は回頭運動すらままならない。たったこれだけのことで、密集陣形が解消し、王国水軍は、広大な戦場を漂う個、という状態になりつつある。その上、海賊船に風上を取られようとしている。遠くない未来、攻撃されたときには滅多打ちになるとみていい。
アントワーヌ船の前には水平線とかなとこ雲があるきりで、右手にはライガー号が一隻、さらに奥、はるか北方に帆の白色が四隻ばかり。おそらく海賊船だろう。
「もしかすると六隻で敵二十隻を粉砕しないといけないことになるかも」
「ユウさま、ご冗談を」とハルが笑い、「逃げます?」
「前線に向かう。右四点回頭、スフィア出力微速前進、ライガーは我に続け」
「やっぱり死地に向かってるとしか思えませんわ」
「ハルさん、ユウさんと皆さんを信じましょう」
「リリアさまは実に貴族的ですわねえ」
純粋無垢に仲間を信じる、というより、疑うことを拒絶するように仲間を信じる。裏切られれば死ぬだけ、ともいうような壮絶な覚悟に裏打ちされた信頼だ。その貴族的な覚悟に、身を震わせなかった者は声の聞こえる範囲で一人もいない。
「リリア、後甲板で一言いういい。声が通るかしら?」
「わたし、そういうことには自信があります」
後甲板に登ったリリアに気づいた船員たちの目が彼女を射る。その数は瞬く間に増え、何事かと船倉から登ってきた者も増え、彼らの眼差しは漏れなくリリアに据えられた。
「皆さん」と発した声が潮風と波の音の中でよく通る。一種の才能かもしれない。「わたしたちは海賊の方々に恨みはありません。わたしたちに刃を向ける脅威とも呼べないでしょう。ですが、世の意思を一にし、話し合いで事を収められる未来を作るのはいまを生きるわたしたちの務めです。わたしはこの務めから逃げません。未来を生きる子、孫たちのため、わたしたちの自由と、信頼してくれた方々のため、わたしは血を流すことを拒みません。どうか、皆さんのお力をわたしにお貸しください」
うおーー、と鬨と拳が上がり、わけもわからず近くの者と抱き合い、泣いて震える者もいる。甲板上の熱は陽炎を立てるほど上がったろう。
「おまえはいいのか?」とジェシカがユウの方を見る。その眼差しが意外に優しい。
「おれの言葉選びじゃ、場に泥を塗っちゃうよ」
「そうだなあ、おまえが恥をさらすのはいいけれど、戦意が冷めるのはなあ」
などといっているうちにも船体はぐんぐん進む。アントワーヌ船の波紋にライガー号も続いている。瞬く間にジュディとヘンダーソンの船の甲板も眺められるようになったし、その向こうには敵船の群も窺える。
「ヘンダーソン艇から信号」と配管が鳴る。「貴船の健闘を祈る」
「同文、返信しておけ」
「了解」
「ロックス、あれの準備は?」
「いつでもいける」
「では、敵陣に向かおう。右四点回頭、スフィア出力中速前進」
舳先が北を向き、快走を始めた。その独走に気づいた海賊船四隻がやや方向を西に進路を取りながら追走してくる。敵船団の先頭ははるか北西方向にあり、その後尾すら北北西といったところだろう。その後尾の数隻が針路を南に転じた。要するにアントワーヌ船に向かってくる。
「数、五」と帆柱の上から報告が来る。
遅れて続々と海賊船は南に下ってきて、その陣形は斜めに伸びたといっていいだろう。アントワーヌ船の左手はるか前方である。
「敵先頭艇に試し撃ちをする。ライガー号はこちらが外せば同目標を、命中を確認したら二隻目を狙え。以降、第一射終了まで指揮権をロックスに移す」
「あいよ」と配管の向こうから威勢のいい声がし、「舳先を敵船に向けろ」
敵陣最後尾にいて、最も早く操舵を切り替えた船が近い。そろそろ帆柱の上にたなびく旗の模様も確認できるようになり、帆の膨らみ、そこにつかまって監視する人の眼差しも見える。アントワーヌ船は船尾の輝きを強くして、左手に回頭してゆく。南下してくる敵船を舳先のさらに先にとらえ離さない。さらに近づく敵船団と回頭するアントワーヌ船。
「撃て」
とロックスがひと声上げると同時に、アントワーヌ船の両舷側に縛られていた綱が解かれ、二本の丸太が落下してゆく。海面に沈むとともに白泡を噴き出して、水中を走り出した。リリアもジェシカもハルも、誰もが手すりに張り付いて、その白線を追ってゆく。先には船が一隻、突如舳先を浮き上がらせて水平に戻したと思う間もなく、海面に向け、そのまま沈んでゆく。
「命中だ」とロックスと仲間たちの歓喜が配管を震わせた。さらに横に並んだライガー号も敵の後続船を捉え、発射。見事直撃させて、敵船を海の藻屑にした。さらに後続の三隻は、狼狽えるように西方へ舵を切った。斜めに伸びていた後続も同様に西方へ転じ、みるみる小さくなってゆく。
「敵が逃げていくぜ」とロックスがいい、「効果は絶大だ」とユウも喜ぶ。
「なにをしたんです?」とリリアが不思議そうな顔をした。
読者諸賢はすでにお察しのことと思うが、
「魚雷を造った」とユウはいう。丸太の先を鋭くし、アントワーヌ船と同様のヘリオスフィア処理を施すことによって、水中を進む槍を造ったのだ。ロックスが切っ先へ螺旋の細工を施し、カルヴァンが後尾に羽根と掘り込みを入れ、さらに微調整を施し、直進性能も上げている。アントワーヌ必勝の新装備だ。
「ユウさんの世界の兵器ですか?」
「まあねえ。発想はね」
「ずいぶんと発達しているというか、なんというか」
「野蛮な世界ですよ」
ユウは配管に口を近づけ、
「追撃はしない。敵の動きを伺いつつ、後続の到着を待つ。それまで遭難者の救助を行う」
轟沈した二隻の痕跡は木片と船員が浮くきりで、船があったとは夢にも思うまい。
アントワーヌ船が短艇を下し、海賊船員を救助している間、うしろからジュディの船が接近してきて、アントワーヌ船に横付けした。渡しをつける。出てきたジュディは、
「いったいなにをしたんだ?」
「要するに、海中を自走する丸太だ。あれを水中に落とすと、前方にまっすぐ走っていく」舷側には船倉から引き出された二組目の魚雷がもゆわれている。「それ以上は聞かなくていいだろう?」
「あんなもん隠し持ちやがって」
反対の舷側にヘンダーソンの船がつき、
「あれが天ノ岐殿の秘策ですか。実に見事なものです」と驚いた様子もない。「この様子ならアントワーヌは実際以上の戦力になりますな」
「彼らは何度も同じ手にかかるものですか?」
「我々が追い込みましょう。仕組みはよくわかりませんが、どうやらアントワーヌ船とライガー号は正面にある船を沈められるようだ。ジュディとわたしで、敵船の二つか三つを囲い込みます。そこを天ノ岐殿が始末してくださればいい」
「おい、勝手にあたしを数に入れるな」
「白兵戦のない方が、部下を傷つけなくて済む。それはおまえも助かるだろう」
「それは」とジュディは一歩退き、顔を背ける。「まあ、いいだろう」
「我々が前に出ることで、アントワーヌ船への攻撃も減らせるでしょう。リリアさまの御身を守る意味でも、貴船には後方に下がっていてもらいたいのです」
「ヘンダーソン卿のお心遣いは嬉しいのですが……」とリリアはいうが、
「いや、実際的な作戦だ。おれたちが後方にあって敵を牽制すれば、前線にいる二人も戦いやすいだろう。他に幾つか、こちらの条件を話しておきます」
魚雷は正面、二百メータあまりの射程しかなく、一度撃つと、二度目を放つまでには数ミニン、要するに数分の時間を必要とする。
「十ミニンは見ていただきたい」
甲板に倉口があるとはいえ、そこから手動の巻き上げ機とクレーンで丸太二本を引き上げるのは時間がかかる。
「敵をぽんぽん落とせると思ってもらっては困るということです」
「かしこまりました。肝に銘じておきましょう」ヘンダーソンは中折れ帽をわずかに浮かせ、「我々は周囲の偵察をしてきましょう。ジュディは救助の手伝いをしているといい」
「あたしに命令するな」
彼女は一足早くアントワーヌ船を離れ、大クリフトフ号を波間にやってしまった。
「仕方がありませんね。偵察は彼女に任せて、わたしが救助を手伝いましょう」
初めからジュディに偵察させるつもりではなかったのか、と思わせるほど落ち着き払った態度に、ユウは嘆息を漏らした。海賊という人種は、どうも一癖ある連中が多いらしい。
アントワーヌとヘンダーソンで百人に及ぶ海賊を回収したが、なにがあったのかわからず呆然とする者、助けられて靴を舐めるほど感謝する者、素直に負けを認めてうなだれる者など、様々あったが、等しく戦意を失っているといっていい。彼らには不戦を誓わせ、あとから来た王国船数隻に詰め込んでエルサドルへ向かわせた。
その間に日は没してしまっている。空にある星の明かりだけで船舶が群れで動こうとすれば当然同士討ちの危険があり、敵味方動くに動けない。王国方は、ジュディの大クリフトフ号も含めて一塊となり、監視の目を置いて宿営することとした。
船舶は錨を下して、平静な海の上に浮んでいる。しかし、その中は決して平静ではなかった。この日の成果と浮かび上がった課題、それらを消化して、新規の作戦を立案し、明日、明後日の戦場に向かわなければならない。王国軍のそれぞれの船を任された指揮官らは、総大将のクロイツェル伯爵の乗る旗船に集められた。その雰囲気がどうしようもないほど暗かったという。なぜなら、彼らは彼我の戦闘能力の差を歴然と知らされたからだろうし、アントワーヌと王国方についた海賊船がなければこの日のうちに壊滅していたという自負があったからだ。しかし、自分たちが立たされた状況を客観的に見、それを認めたあたり、彼らは冷静かつ、一流の戦士といわれる王国軍出身らしかった。
当然、アントワーヌも、この会議に呼ばれている。リリアは出立の前に、ユウの部屋の扉を叩いた。彼は昼間の救助活動前後から甲板を下りて、部屋に閉じこもっている。
時々、こうして厭人的な性質を示す時があるから、リリアとしては困る。
「ユウさん、じきに会議が始まります。入ってもいいでしょうか?」
「むううう」と、中から呻きとも了承ともつかない声がして、ともかく、リリアは扉を開いた。ユウは足を組んで椅子に腰かけ、腕を組んだまま、闇の塊ともいえる窓外を、そこに映る自分を眺めているのかもしれなかった。
「ユウさん、じきに会議が始まります」とリリアは先ほどと同じことを繰り返した。「たぶん、なにかしら意見を求められると思いますが」
なにか案はないか、と暗にほのめかしている。が、ユウは窓外を見つめたまま、背もたれに体重を乗せ、椅子の前足を揺らしている。
「昼間にヘンダーソン卿と話していたくらいのことでよろしいのですか?」
焦れたリリアがいうと、ユウは椅子を黙らせ、
「おれたちだけでも勝てるかもしれない。しかし、どうだろう」
まぶたを閉じて、前にのめったのは、誰に問うたわけでもないだろう。自らに問いかけているのだ。
「わたしたちだけでも勝てるかもしれません」とリリアはいった。「でも、勝てないかもしれません。ユウさんになにか腹案があるのなら、皆さんに聞いていただいて、皆で考えるのが筋なのでは?」
ユウは椅子を蹴って立ち上がり、
「正しいことをいった」とリリアを振り返る。「おれ一人で考えても解決しない。要は王国軍が賛同すればいいし、しなくてもいい。彼らに一任しよう」
行くぞ、と颯爽と部屋を出て行って、ついていくリリアも大変だった。
○
翌朝、王国海軍三十隻あまりの船団は漏れることなく、北上し、中央列島の真ん中に錨を落とした。四方には小山のような島が点在していて、それぞれに海賊民の住む街があり、港湾口がある。その水域にはもちろん四方から入れるものの、最大の入口を王国軍が封鎖したといっていい。
このことは、まだ海洋をさまよっていた海賊たちの目に日の出とともに見つかり、旭日の輝きよりもあからさまに彼らを憤怒させた。この上のない挑発である。彼らは自分たちの得意分野において、素人同然の相手に喉元に刃を突き付けられて、その上に錨まで下ろされ、動く気はないよ、とまでいわれている。心底罵られていると、船員の端々までが信じて疑わなかった。
「これを一蹴してやろう」と海賊たちは決した。列島の喉元、といっても、敵の浮かぶのは海洋の真中であり、潮流があり、その潮流は小島の乱立によって縦横に流れを変え、非常な複雑さをもっている。海賊たちはその流れがどの季節、どの時間、どのように流れて、どこに流れ込み、どの岩に当たって、どんな飛沫を上げるかというところまで把握している、絶対の支配下であった。
「ぶち殺してやる、ぶち殺してやる」と合唱するように、海賊らの船が王国船団に向かってゆく。彼らは海洋に吹き荒ぶ偏西風をつかまえて東走し、この辺りを流れる最も早い潮の流れに乗って、王国船団の横腹をつくようにして朝日眩しい海面を疾駆した。
王国軍側の慌てふためく様子を想像して悦に入っていた彼らは船を進めるにつれて激しい緊張に襲われてきた。
敵が、動かないのである。
一隻の船も微動とすることなく、錨を下したまま、その場を動こうとせずに、海賊船団に舷側を向けて、ただ海面に浮んでいる。
なぜ逃げないのか、と海賊側が戸惑い始めたときに、その衝角が、王国船の脇腹に激しく食い込んだ。二隻、三隻、と立て続けに、王国船団の密集地へ乱入してゆく。
それから、各船は様々な戦いを催すことになるのだが、例えば、一隻の船上を写してみよう。
衝角攻撃を受けた王国船は、海賊船に鉤爪をつけた縄を放って引き寄せたという。その手際の良さは日々の業務をこなす如く整然としていてそつがなかったともいう。狼狽える海賊船に王国兵が続々と乗り込んできて、激しい白兵戦が繰り広げられた。そこに、白い尾を引く、水晶のような刀身の一振りを持った少年がいたという。王国船の上甲板にいた彼は平然と海賊船に降り立ち、その真っ白な剣を抜くと襲い掛かってきた五人の海賊たちを瞬きのうちに斬り殺していた。こともなげに歩く彼は幽鬼の気を漂わせ、海賊たちは恐怖に震え、居たたまれずに襲いかかれば斬り殺され、ある者はひざまずいて許しを請い、ある者は海に飛び込んで必死に泳ぎ、発狂したように船内を逃げ回る者もおり、ともかく、幾ばくもなく戦意を喪失したのだった。
さらに王国船団の後方中群にあって、この戦場をぐるりと迂回してきた船が二隻、アントワーヌの旗をはためかせて前線に現れた。彼らの放つ魚雷は、海賊船を一隻、二隻と打ち抜いて沈め、この貴族船を攻撃しようと近づく船は周囲を回遊していたジュディとヘンダーソンの船から弩弓で撃たれ、火炎瓶、火矢を投げ込まれて火災を発し、はたまた衝角で突かれ、その多くが戦線を離脱してしまった。
日が高くなるころには、昨日まで海洋を制していた郎党の船舶は、鹵獲されたものを除いて、すべて海底の土砂に突き立っていた。
○
「アントワーヌの天ノ岐ユウ殿は噂以上の勇猛にして豪胆なお人ですな」
祝勝会、といっても、船員はもちろん、捕虜にも食事を分け与えたために、各船司令に供された食卓も典雅なものとはいいがたい。その席で、総司令官のクロイツェル伯爵がリリアに笑いかけた。
「敢えて横撃を受けろといわれたときも驚いたが、天ノ岐殿自らその先鋭に立つといわれたときにはもっと驚きました。いやはや、豪胆なお人だ」
ユウの献策とは、王国船は動けない、ならば動かず敢えて横撃を受け、それによって敵を縛り上げて白兵戦を展開する、という恐ろしく物騒な策であった。
当然、その過程で多くの犠牲が出るし、うまく敵を拘束できるものとも限らない。ただ、衝角攻撃というのは一度食い込ませれば敵船から舳先を抜くのは容易でなく、その間に鉤爪を使って船同士を拘束できると推測した。さらに、その王国船を盾にして、アントワーヌ船を始めとした主力を敵の初撃から守り、前線が停滞したところに投入、一息に決戦を仕掛けようとした。
これにヘンダーソン卿が太鼓判を押したのだ。衝角攻撃の最大の威力は、当然、船舶の破損だ。その次が船員の動揺だという。人的損害はさほどではない。問題は、攻撃をされたという敗北感とその攻撃してきた敵が勢いに乗って襲撃してくるという精神的な負担が大きいのだという。敢えて衝角攻撃をさせるというのなら、こちらの防御は万全に取れるし、気力も充実するだろう。その後の白兵戦であれば精強と謳われる王国兵が海賊無勢に後れを取るとは思われない。
多くの王国船司令官も白兵戦では絶対の自負がある。例えば、海賊と陸地で戦ったのなら負ける気はしない。なによりこの指揮者たちが恐れたのが、敵と一度も刃を交えずに帰還することであった。あれだけ華やかな式典をして今生の別れと覚悟して航海に出たのに、ただ海を漂っただけで帰ったとなれば羞恥のために生きてはいけない。戦場で死んだ方がいい、という思想が強かったようだ。戦場での恥、が王国騎士の最も忌避とするところだった。
「我々はアントワーヌ卿と天ノ岐さまに戦場を作っていただいたことに感謝しています」
と、一人の司令官が頭を下げ、それに追随する数も並みではなかった。
「わたしたちは献策をしただけで、それを決断し、実行したのは皆さんです。感謝していただくこともありません」
といったリリアの声は弾まない。ユウが船倉で頭を悩ませていた理由がわかってしまった。この作戦は激しすぎるほどの戦いを前提としている。味方は強大な一撃を食らうのは絶対で、その後の作戦では敵味方多大な血を流すことがわかっているし、事実、そうなった。海賊はもちろん、王国兵も海に沈んだ人の数は知れず、甲板からこぼれる血は滝のようでもあった。もしかしたら、アントワーヌと海賊船だけで戦っていれば、これほどの犠牲は出なかったかもしれない。
ほう、とリリアはため息をついた。
「それで、賠償の件だが」とクロイツェル卿が言い出した。「当然、海賊には王国船と近海に与えた影響を鑑み、相応の金額を請求しなければなるまい」
「お言葉ですが」とリリアが口を挟んだ。「いま、海賊島は我々と同盟を結んだジュヌビエーヴ卿と、ヘンダーソン卿の支配下にあります。つまり、海賊島は我々の同盟組織であり、そこに賠償を請求しようというのは道理に反します」
会場がざわめきに揺れる。
「ですが、戦争の費用、特に今回の海戦にかかったものは尋常ではありません。船の買い入れに、物資の積み込み、人の雇用やその他武装の数々。これを王国内だけで賄おうとすれば国政が傾く。いくらかは海賊組にも負担していただかなくてはなりません。賠償というより、戦争費用の一部でも肩代わりしろといっているのです」
この男の言葉は果たして誰の意見か、とリリアは勘ぐる。アドリアナはこの海軍に王国の体現者たちの資本が流れ込んできていると話していたが、この饐えたような臭いは彼らの臭気だろうか。
「賛成しかねます。海賊島に殖産がありません。金のないところから金を搾ろうというのは典型的な圧政です。味方をしてくださった方々の心が離れましょう」
「しかし、わたしには王国議会から海賊側と交渉する権利が与えられています」
「金銭のことを一言でも口にすれば同盟関係にヒビが入ります。わたしたち、アントワーヌはジュヌビエーヴ卿とヘンダーソン卿の、王国内での庇護者であると自負しております。彼らの心を踏みにじる行いは断じて拒否します」
クロイツェル卿はため息をついて、その大きな体を背もたれに埋めた。
「アントワーヌ卿、わたしにも、王国民の生活を守り、税を納めてくれる彼らを納得させるだけの成果が必要なのです。そのためには金銭が必須です」
一理あるために、リリアも怯む。彼の立場上、王国民の納得が第一なのだ。
「では、ひとつ、提案しましょう」とクロイツェル卿は卓の上に指を組み合わせた両手を置いた。「海賊との交渉は今日明日に行う予定ではありません。明後日までに金銭以外の成果を王国民に示せる、というのなら、わたしも無理強いは致しません」
金銭以外の成果。戦勝によって王国にもたらされる明確な利益を、金銭以外で挙げろ、といわれても、リリアは頭を悩ませた。
「よろしいですか?」とクロイツェル卿に念を押され、
「かしこまりました。すぐに案をお持ちします」
と、アントワーヌ船に戻るなり、ユウの部屋を叩いた。
「ユウさあああん」とほとんど泣いている。彼は昨日と同じように、椅子を漕いでいたが、その足を止めてリリアの話に耳を傾ける。
「というわけなんです。わたしは同盟してくれた彼らのためにも、この戦いで犠牲になった方々のためにも、海賊島の方々に負担はかけたくありません」
スカートの膝を握りしめ、涙ぐみ、
「だから」と吐くようにいう。「なにかいい案を出して」と。
「そんな猫型ロボットみらいに」
「それが名案ですか?」
「リリア、利益のことは利に敏い連中に聞くべきだ。幸い、この船にはそういう奴らが多い」
リリアはピタッと泣き止んで、
「なーるほど」と手を叩いた。「ハルさん、ハルさん」と船内を駆け回り、彼女を見つけるなり抱きついて、かくかくしかじか、
「なにかいい案はありませんか?」
「リリアさまったら、ここがどういうところか、まったく理解していませんの?」
ハルは呆れたようにいう。
「どういう、というと?」
「ここは内海のど真ん中。西にはレオーラ、東にはコスヨテリ、南にはアナビアがあり、潮流の中心点にあるんですわ」
「というと?」
「ここを交易の中心点にすればウハウハってことですわ」
「うはうは?」
「王国だけが海賊との同盟国として、宿泊所その他をタダで借りられればそれ以上の利益はありませんわ。それに、海賊たちの航海術はお金に代えがたいですし。黄金の一つも奪えなくても、この場所と海賊たちとの盟約だけでエルサドルの商人たちは喝采を叫びます」
「ハルさんは天才です」とリリアが先に喝采を叫んで夜を騒がしくした。
翌日、この提案を聞いたクロイツェル卿は難しい顔のまま頷くのであった。
○
海賊島での戦後処理、男手を多く失った島民への物資補給など、様々な事務と援助を行って、王国海軍がエルサドルに帰還したのはひと月後、港湾都市に夏の湿った潮風が吹く季節だった。その岸壁にはおびただしい数の人々がいて、熱狂的なまでの歓声が上がっている。
当然といえば、そうだろう。長らく中央列島を支配し、他の組織の干渉の尽くを退けてきた海の王者ともいえる海賊を討伐したのだ。内海勢力の一等にシリエス王国が躍り出たといっていい。総司令であるクロイツェル卿はもちろん、昨今の人気著しいアントワーヌ、その当主たるリリア・アントワーヌへの歓迎は非常なほどであった。参謀であるユウについてはほとんど生ける伝説的な存在になりつつある。理由は、公の場にまったく姿を現さないからだ。
「どういうお顔なのかしら?」
「噂ではとてつもない美男だとか」
「剣の腕もエドワード帝や黒騎士を一蹴するといいますわ」
「一度でいいから拝見したいわあ」
と街角の婦女子たちが噂しているのを聞いて、ユウは胃を痛めたりしている。もし顔がバレて失望されたときの彼女たちの眼差しを想像すると死ねる。
ユウは帰港してくる船の群を、波止場の群衆をかき分けながら見るともなしに眺めていた。一隻、二隻、と港に入り、奥の方にあるアントワーヌ船を民衆が見つけ、大きな歓声を上げる。ユウは短艇に乗り込んで、一足先にそばの漁村へ乗り上げて、いま、ここにいる。
フェルロテア社屋に入ろうとした途中、興味本位に人混みに紛れてみた。下手すると、圧死するほどの人手だ。足を踏まれるのは当たり前だし、肩を押されるなど生易しいことで、隣の人の上げた腕に頬を叩かれ、左右の肉体に挟まれて体が浮き、意図しない方向に運ばれることもあった。
「大変な人手です」
ただでも古ぼけた服が破れかねない。糸のほつれなど、顧みながらクラインの執務室に入った。
「これだから人前に立つのは嫌なのです」著名になればこの人混みが当たり前になりかねない、というのは自信過剰かもしれない。「ところで、こちらはいかがでした?」
「いかがもなにも、なにもないよ」とクラインは陶器のカップを回して、注いだ紅茶の香りを嗅ぎながら、「船もないし、人もいないし、金もないし。あるのは借金と書類だけだ」
「クラインさんがいて、実に助かります」
いなければ借金も書類も放りっぱなしだった。
「ところで、君に手紙が来ている」
「ファンレターですか?」冗談交じりいうが、そういう類の手紙は少なくなく、特に確認する必要はないのだが、有益な情報がないとも限らないので、すべて別の人間が開封して中身を調べている。ユウのところに届くのは知り合いのものしかない。「どなたからです?」
「ヘリオス教会嶺医療部のパーシヴァル氏からだ」
「パーシヴァルさんから」フラン先生の上司に当たる方だ。以前、教会嶺を訪ねたときに顔を合わせ、友好を結んだ一人だ。「どういった内容でしょうねえ」
洋形四号程度の大きさの封筒の蝋封を解き、三つ折りにされた中身を開いて目を疑った。その異変にクラインも気づく。
「どうしたんだい?」
「て、帝国がアンガスに進軍しています……」
ついにこのときが来たか。
手紙を持つユウの手が、震えている。




