第三巻 王国騒乱編 四章 群青の世界
四章 群青の世界
覚えておいでだろうか。
この巻の冒頭で、天ノ岐ユウはアントワーヌ領を離れ、ヘリオス教会領に旅立っている。
彼の夏の思い出は、王国継承戦争に直接関わってこないため、中略してここまでやってきた。しかし、自走船を手に入れようとする段になって触れないわけにはいかない。この世界における交易のこと、海洋のこと、帆船事情、諸々のことを、
ユウはこの二ヶ月ばかりの船旅によって右のことを頭ではなく心で会得し、自走船を渇望するようになるわけだ。
ついでに、二つ、三つ、この世界の真理に触れる話と、彼の前に腐臭を立ち込めさせる新たなる障害についてもやや触れたい。後者二つは、ずうっとのち、数年後に大きな問題となって彼の前に立ちはだかることとなる。その前章である。
ともかく、都合、この章のはしりは巻の冒頭の時期にまでさかのぼる。
天ノ岐ユウがヘリオス教会医療団を教会領まで送迎するために、アントワーヌ船に向かうところから始まる。アントワーヌ船はコルト領西端の大港湾都市エルサドルに碇泊していた。
季節は夏の始まり、海青く、緑深い時期である。
○
エルサドル、という町は、ユウがこの世界に来て以降、帝都以来の感動と衝撃を彼に与えたかもしれなかった。
低湿地を灌漑することによって辛うじて建設された感のあるこの海洋都市は歩道というのがほとんどなく、馬車や荷台は主要道路が一、二本、町をかすめるようにあるっきりで、主要な移動手段は、水路、なのだ。
アントワーヌ領から小舟に乗り込み、アタカ川の緩やかな流れに乗って、ゆるゆると下ってきたユウは、ラッパ状に広がってゆく河岸の左右に白煉瓦の町並みが所狭しとひしめき合っていること、それも赤瓦の軒が川面にかかるほど迫り出している奇景に目を見張り、次いで、橋の架かる太い水路はもちろん、建屋の影のほんの狭い水路からも小舟が、それも途切れることもなく現れ、アタカ川河口を行き交っているのに驚いた。この都市の物流は、町中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた群青の道がほとんどすべてを補っている。
「これが、エルサドルかあ」
王国に陸路で入ってきたユウは、スキとクワと剣しか振っていなかったために、国土の西端にこれほど大規模な町があることをすっかり忘却していた。元々、彼が南行を決意したのはコルト候がリリアと親しいという以上に、ここに内海を囲う三大陸の富が集積されているというタモンの話が決め手になったにも関わらず、必然に駆られたこのときまでエルサドルを訪うことがなかった。
「確かに、帝都に匹敵するかもしれない」
それほどの賑わいがある。ここが商都だというのなら、物資の循環は帝都以上であろう。工業都市の帝都がいかに計算し尽くされて造られているとはいえ、無数の人間の欲望の具現である商業は計算をしのぐ。
「ありがとうね、ハルちゃん」とフランが隣で水面を覗き込むハルにのしかかるようにして抱きついた。「ありがたいね、ありがたいね」
「ちょっと、フラン先生、重いです」
「わたしはそれほど重くないけどね」
小舟といっても中央に船室のある二、三十人乗りの船で、乗員のほとんどは部屋の中にいる。二人はユウに付き合っているのか、強い日差しの下に出て川面を覗いたり、指先を浸したりして遊んでいる。
「ユウさまも本当にご一緒しますの?」とハルが寄り添ってきた。頬を擦るほど迫り来るその顔面を片手で押し返してユウは頷いた。
「ああ、行く。おれがここにいても仕方がない」
リリアに外交を、ジェシカに内政を、ロックスに開墾と農業を、エイムズに軍務を任せておけばいい。タモンが諜報をして、全体のバランスを取ってくれるだろう。そのことを聞いたリリアは愕然とし、自分も行くと喚いて仕方がなく、説き伏せるのに一昼夜を要したが。
リリアもユウが異邦者であり、同じく異邦者と目される伝説の英雄、ジョゼに興味があるのも知っている。そのジョゼが昇天したとされるサンマルクを見てみたいという感情も理解しているだろう。一方、アントワーヌは軌道に乗り始めたばかりで、王国、コルト、コントゥーズ、エルサドル、様々調整しなければならない相手がいて、それができるのがリリアしかいない。連れてゆくわけにはいかない。自然、別行動、ということになる。
泣く泣く納得したリリアはユウに抱きつき、
「帰る方法がわかったからって、急に帰らないでくださいね」と釘を刺し、別れ際には泣きながらハンカチを振って、まるで今生の別れのようになってしまった。
ユウも帰る手段がわかったとて帰るつもりはなかった。ご存知の通り、彼はアントワーヌに帰ってくる。
ヴォルグリッドに勝つ。
その目的を果たさぬ限り、この大地を離れるわけにはいかなかった。
いずれレオーラ大陸西部の政情は荒れ狂うだろう。そうなればその渦中に飛び込むのも、ユウはやぶさかではない。むしろ、飛び込むつもりでいるし、その騒乱を待ち望んですらいる。その前に噂の巷を見ておきたい、というところか。
「広い世界に、文字通り漕ぎ出すのだ」
彼が突然立ち上がって、船体が大きく揺れた。
○
「下刻作用というのがあるんだよ」とユウはアントワーヌ船の舳先に立って説教を垂れた。「氷河期になると陸上の氷床が成長する。氷床が成長すると水分が吸い上げられて海面が下がる。陸地の部分が増えるわけだ。その低い陸地の部分を河川が削ってゆく。そのあと、氷河期が解消するとどうなるか。河川のあった場所の海底は深く抉れているわけだ。ここ、エルサドル湾はそうやってできた、のかもしれない」
ちなみに、東京湾は完全にこの作用で抉れて深くなっている。いまの航路は古い河川の上を通っているらしい。
この世界の話に戻る。
右手にはわずかばかりの砂浜と、その背後にのたうつ大草原。左手には水平線があり、その上に青の濃淡を乗せているのは丘陵と呼ぶべきか、山脈と呼ぶべきか。そういう凹凸がアントワーヌ船の背後、南から北まで、ぬうっと伸びて、彼らの前途に蓋をするように垂れている。
「あれが、かの有名なエルサドル半島ですわ」とハルが得意気にいう。「あれがあるから、エルサドルに内海の大波が入り込んできませんの。ゆっくり船を留められるわけですわ」
「実に美しい景観だ」
エルサドル半島の突端は頑強な黒岩の産地として有名だった。以前、アントワーヌがアタカ川分水路の造営に使った大岩の産出地もそこである。
「玄武岩なんだよ」とユウはいう。「おそらくレオーラ大陸とその南のアナビア大陸が昔はひとつで、下から溶岩流が湧き上がってきて、二つに割ったんだ。それがレオーラ大陸南方にある海峡で、その溶岩の名残がエルサドル半島なんだろう」
地球でいうと、アフリカの大地溝帯に近いものをユウは想像している。アフリカ大陸も遠い将来紅海南端のジブチ辺りからケニア南端辺りまで、南北に割れて、細い海が出来上がるはずだ。
「溶岩といえば」とハルが北方を指さした。「内海の真ん中、それこそエルサドル半島の直線状に火山の列島があって、海賊の根城になってますわ」
「レオーラ大陸西岸に山脈が少ないのを見ると、沈み込み帯の列島じゃないだろう。内海の下にはプルームがあるのかもしれないな」
プルームとは巨大なマグマ溜まりのことである。特に大きなものはハワイやアイスランド、南太平洋、アフリカ大陸にあって、継続的に溶岩を湧き出させ、黒い砂の島を点々と作っている。面白いのはハワイ諸島が西に押される太平洋プレートの上にあるため、噴出する火山島も西に押され、東西に長い列島を作っていることだ。これを辿っていくと、天皇海山列という列島にぶつかる。これが南北にのびている。ということは、かつて太平洋プレートは南北に動いていたらしいことがわかる。ここの地質を調べれば、それがどれくらい昔のことだったかもわかる。
「それ、わかってどうしますの?」
「自然の驚異に感嘆するだろう?」
「海を渡っていれば嫌というほど自然の驚異に感嘆させられます」
波に翻弄され、風に吹かれ、降る雨は容赦なく、日が出れば熱射に焼かれる。
「航海とはそういうものです」
「後悔しないようにしないとね」
「ユウさま、本気でいってますの?」
だとしたらちょっと正気を疑います、と距離を取られる。
それから二人は船室に入り、航路と周辺地形の確認をした。
「東のレオーラ、南のアナビア、西のコスヨテリ、この三つの大陸に挟まれた内側の海をユーステア海、通称内海というわけです」
逆三角形が南北に重なったような形のレオーラ大陸とアナビア大陸。その西方に長方形型のコスヨテリ大陸がある。大雑把にいうと、これがアステリアの所要な文明の生活圏だった。
「ヘリオス教会領サンマルクはここ」とレオーラ大陸南東端を指さした。「わたしたちはエルサドルから」と、次はレオーラ大陸南西端を指さし、ぐる、とアナビア大陸の南端まで回してサンマルクに辿り着いた。「こういう航路でサンマルクを目指します」
「ここは?」とユウはレオーラとアナビアの間、三角形の重なり合いの間にある狭い海峡を指さした。
「そこはクリフトフ海峡といって、西からは通行できません」
「なぜ?」
「東からの潮流の激しさ、南から吹く風の激しさに押されて大型帆船はまったく先に進めません」
東から一方通行で押し寄せる海流は白波立つ濁流のように強力で、その上空は通年で南方からの熱風が吹いている。
「完全に亜熱帯高気圧下ということか」
「それがなにを意味しているのか、わたしにはわかりませんが、西側からクリフトフ海峡に入ろうとすると、入口でどうしてもやや南に舵を取らなければならなくなる都合、風に押し返される上に潮にも流されてどうにもなりません。いままで何十隻、何百隻という船が挑戦して来ましたけれど、そのほとんどが座礁してしまって船舶の墓場ともいわれております」
「ほとんど、というと、渡り切った人がいるの?」
「それが天才航海士クリフトフです。彼の名前を取って、クリフトフ海峡と呼ばれているわけですわ」
それが百年前。そのときの船はアントワーヌ船より三回りほども小さなものだったという。
「真っ当な航海士はそんな危険を犯さずに、アナビア南方から迂回していって、帰路クリフトフ海峡を泳いでくるのです。アナビアにも多くの町があって、交易品も充実してますから、商家にとっては無駄な道のりにはなりませんわね」
天ノ岐ユウの夏はこのように広い世界の香ばしすぎる匂いを嗅ぐようにして始まっている。
○
船はエルサドル湾を出、一路西へ、それから南へ。
海はアナビア大陸の北東端にある岬を越えて内海のくくりを終える。そこから先は外海と呼ばれる亜熱帯の大海洋、リエイ海であった。
眼前には蒸気に煙る海洋がどこまでも続き、右手には沙漠が、沙漠を越えれば植生の乏しいサバナ地帯、その奥が熱帯雨林。船はさらに南方、赤道を越えてまだ南に下り、灼熱の大地を迂回しようとしている。
その過程でユウはいくつもの町に寄港した。
エルサドル半島を越えてすぐ、アナビア北部では灌木の茂る砂の町に降り立った。黄色っぽい砂埃の下に白漆喰のような壁を備えた小奇麗な建屋が密集している。路地が多少入り組んでいるのは風避けと砂が町に入り込むのを防ぐためだという。店舗のショーケースには宝石と見紛うヘリオスフィアが並んでいた。
「これが天然物のヘリオスフィアの美しさですわ」
赤、青、緑、黄、それ自体が光り輝いているようにきらびやかな、親指ほどの大きさの石材が並んでいる。
「確かに、美しいものだ」女性でなくとも感嘆するだろう。
アナビア北方はエールの純度が極めて高い天然物スフィアの名産地らしい。
リリアの指輪を飾る石を思い出した。この輝きに比べると、確かに、人工ヘリオスフィアは色がくすんで、例えるなら路端に落ちている長石。あのくすみがすなわちスフィアの質の悪さであり、能力の低さだといわれれば、実にわかりやすい。価格も人工物とは比較にならないが。
他にもタペストリーや絨毯などの毛織物、陶器の類も豊富で、王国とやや趣の異なる造形は異国の文化を感じさせた。異国といえば、やはり住民の様子だろうか。褐色の肌に白い裾の長い一枚布に見える衣服をまとい、頭のは同様の布を巻いて頭髪を守り、という感じの人で町は賑わっていた。肌を刺すという言葉が比喩ではないほどに強烈な日差しの地域では肌の色が濃い方が有利、というのは、地球の人類と同じ特徴を感じさせる。地球人とレオーラ近郊の人類はよほど似通った構造をしているらしい、とユウは観測している。同様の地域に同様の人類種が生きていればまた似通った文化が生まれるのかもしれない。
それと、体を包む熱風に含まれる甘い匂い。
「タプタピという植物からね、すごくたくさんの砂糖が取れますの。ここの甘味は胸が焼けるくらい甘いですわよ。なんにでも砂糖を混ぜますの。ちょっと常軌を逸してますわ」
国には固有の臭気というものがあるらしい。文化と習慣によって醸造されたものなのだろう。
「暑いからエネルギーがほしくなるんだろう」
少し南下すれば茫漠たる砂沙漠になる。こういう地域では生きているだけで途方もないエネルギーを使うのだろう。だから基本的な栄養素の砂糖を好む、とユウはいう。確証はなにもない。適当に言ってる。
ハルは散々虚仮にしていた砂糖を買い貯めていた。
「これが王国で高く売れますの」
代わりに王国産の食材、嗜好品を売り捌いてゆく。
食材は船底に備えられた冷蔵庫に保管されているから、まったくの生鮮に近い。これがヘリオスフィアの力だ。
機械の能力はピストン運動と回転による物理的な動作を得意とするが、ヘリオスフィアは空間に新しいエネルギーを生成する化学的な干渉を得意としている。一見、アステリアの技術は地球に大きく劣っているように見えるが、実際のところは非常に近いところにあるのかもしれない。ただ、方向性が異なるだけではないか、とユウは思う。
船はさらに南へ下ってゆく。
アナビア大陸中部は沙漠が広がり、一個の山脈を抜けると、唐突に鬱蒼とした森が姿を現す。
熱帯雨林というものだ。
赤道直下、高い湿度と多量の降雨、惑星の中で最も強い日照量のために巨大化した植物が密生する一地帯のことだ。アステリアでもその例に漏れず、空気は肌に絡みつくほど湿って重く、それにもかかわらず身体中の水分が絞り出されるような熱量がある。しかし、身体から絞り出された水分は蒸発することなく、衣服をじっとりと濡らして身体を重くするとともに心も重くする。日照量、降水量、植物量とともに、不快指数も世界一だ。
内陸の樹木は二、三十メートルは下らず、その二抱えもありそうな木肌には蔦が絡まり、苔が生え、土壌は多雨によって流出し、剥き出しになった岩肌には波打つ板を立てたような根が這い回っている。葉から発散される耐えがたいほどの蒸気に、森林は濃い青色に煙って見えた。
「根板という奴だ」とユウはいう。「降雨の多い、土壌の貧弱な、例えば岩盤地帯なんかだと、樹木は地面との密着力を上げるため、それと、多くの水分を直接得るため、こうして大きな根になりやすいという。土壌が豊かなら、根が細くとも土壌が幹を支えてくれるし、団粒中に保水力があるから、どちらも気にしなくていい」
「こういう植物なのではなくて?」
「これの種を持って帰ったとして、王国じゃこれほどの板根にはならないだろう」
黒い岩石が剥き出しになった地面にのたうつ板根、その間をユウは這い廻って隣の木に移り、根元に生えたキノコを遠目に観察して、そばの木の枝で突きつつ、別のところに密生する苔の、表面に手ひさしをかざしたりして、突如立ち上がった。
「奥へ行こう。もっとなにかあるかもしれない」
「そりゃ、あるでしょうよ、あり過ぎて困るくらい」
一年を通して鬱蒼とした熱帯雨林の中は正体不明の虫から爬虫類、鳥盤類や不定形生物、いわゆるスライム、アメーバ状の生物までいて、彼らがまた未知の攻撃手段と毒素を備えているから、密林に入って無事に出てこられる可能性は限りなくゼロに近い、という。
「それでもユウさまが行きたいというのなら、お止めはしませんけれど、リリアさまにはよろしくいっときますわ。南の国でバカして散ったと」
「例えここで奥を目指したんだとしても、それはバカではなく英雄的探求心といってほしい」
「そういう言い草がバカなんです」
ユウは巨岩の上からひょいひょい飛び降り、ハルと並んで海岸線に向かっていった。
二人を始めとしたアントワーヌ商船一行は熱帯雨林観察のために船を停めたわけではない。ここにも町があるのだ。
葦葺きの屋根と簡易な木造の高床式は通気と地面からの湿気と害虫・害獣の侵入を防ぐためだろうが、その軒が一律に低く、背が高くないユウでも背伸びすれば、深く張り出した屋根の骨組みに手が届く。そういう建屋が重なるように建築されて、大通りなどという計画性もなく、人一人通れる路地が立体的な蜘蛛の巣状に広がって、南北の海岸線の数キロを覆い、奥行きは熱帯雨林のジャングルに抉り込むようにして、むしろ、熱帯雨林の樹木上にも大きな鳥小屋のようにして住居を作っているから、この辺りの繁栄と人口密度は推して知るべし、といったところだ。
凄まじい喧騒がある。どこまで行っても五十人余りの人間が大きな声でお喋りしているような状態だ。おそらくレオーラ大陸内には比肩する町がないだろう。その喧騒を発する人々を見て、ユウも上陸直後は驚嘆した。ここに繁栄している文明はユウが知っている人類種ではない。
「小人族ですわ」とハルは人差し指をふりふり、説教を垂れるようにしていう。
背が極めて低く、ユウの腰ほどまでしかない。肌は茶褐色や黄色が多く、まるでヒマワリの花弁のような鮮烈な色合いの者までいる。骨格も背骨などはやや丸く、手足は細く、腹は膨れ、いわゆる餓鬼とか、ゴブリンというのに近いかもしれない。
彼らは友好的すぎるほどに友好的で、旦那旦那、と流暢にユーステア語を話し、ユウの足元に寄ってきて、恋人同士が身を添わせるようにしてまた話す。その語感は王国で聞くのとさして変わりもない。
「旦那、うちの店に寄ってかないかい? 安くしとくよ」
「うちの店の飯は美味いよ、寄ってかないかい?」
「これはいらんかね? うちの職人が丹精込めて作ったんだ」とムンクの叫びみたいな木彫りの彫刻を押し付けられる。
「いや、いらんよ」と一人断るうちに十人が寄ってきて、旦那、旦那、と圧迫してくる。その垣根をかき分けて進むしかない。
「こんな人類がいるとは……」ユウは額の汗を拭うが、この汗は暑さのせいではないかもしれない。「いったいどういうことなんだ?」
「レオーラと各大陸の内海に面する地域に生活している、わたしたちと同じ人類は共人族と呼ばれていて、他に、ここ、アナビア大陸カンナロウ山脈以南に居住する小人族、コスヨテリの西方の巨人族、南のガムル大陸には天界族と呼ばれる人々が生活していますわ」
「巨人族と天界族までいるの?」
「巨人族の生活圏は主要交易路から遠いので、あんまり交易もありませんが、会いに行こうと思えばそれほど苦労もありませんわ。でも、天界族は別。中央大海をさらに南に下って、雷の異常に多いゴステア海を渡ったさらに先にいる、といわれているだけで、大陸があるかもわかりませんし、これが天界族という人にも会ったことがありません。まるでこことは違う天上の世界にいるようだから、天界族、というわけですわ」
「この世界はおれの想像を絶している」とユウは笑い、「そのガムル大陸に、誰も向かおうと思わないのか?」
「そりゃ、思う人はたくさんいますわ。でも、帰ってきたのはほんの数人、それも島の影をようやく確認しただけで、ほとんどは海獣に呑み込まれるか、雷に打たれて炎上沈没するかした仲間を見て逃げ帰ってきた連中、というわけです」
「未知の大陸かあ」とユウは両手を重ねて揉み合わせ、「そういう話を聞くと、ワクワクするなあ」
「どうしても行くっていうのなら、小舟に乗ってお一人でどうぞ。リリアさまにはよろしくいっておきますので。南の海で藻屑になったと」
「確かに、この事業はまだまだ無謀かもしれない」と顎を撫でるユウを、ハルが訝しみ、
「まだって、いつか挑戦するつもりですの?」肩を竦めて、「本当にバカ野郎」
アントワーヌ一行はここで砂糖と王国からの商品をいくらか売り捌き、無数の木の実を買い入れている。
「香辛料ですわ。これが砂糖の何十倍の価格で売れますの。ここまで来るのはさすがにちょっと遠いですものね」
香辛料を輸入するためだけの船がエルサドルにはいくつもあり、五家がそれぞれ数隻ずつ抱えているというのだ。五つの家が互いに牽制し合ってバランスを取りながら王国内の流通を管理しているらしいが、小人族に流れ込んでくる富は少なくなく、彼らをレオーラ人に近しくしているのはその富の影響ともいわれている。
「元々は巨人族も小人族も共人族も抗争をしていたそうなんですが、ジョゼがエールを再生させたときに協力し合って、以来、ジョゼが決めた領域を守って生きているのです。人は内海近郊とレオーラの大地、巨人族はコスヨテリ西岸、小人族はアナビア大陸カンナロウ山脈以南。あとは商業的なつながりがあるばかりですわ」
「へえ」とユウは蒸気に煙る太陽を見た。「英雄ジョゼか」
ここにもその偉大さが現れている。
高台の上に立つと遠く北方にそびえるテーブルマウンテンが青霞の中に望める。あれがカンナロウ山脈、白っぽい空の天上で輝く太陽と広い海洋に浮ぶ大きな金床の雲、深緑の木々の奥にも黒々とした雲が発達して、雷鳴が見え隠れしていた。ふと、冷たい風が吹いてくる。清々しい風が、ユウの肌をなぶっていった。
「雨が来そうですわね」
ハルは風になびく髪を押さえて、小さく見える波間を眺めていた。
「広いな」とユウは呟いている。風を受けて、両腕を開き、「この世界は広い」
レオーラ大陸を東西南北駆け抜けて広い世界を見たつもりでも、アステリアの中のほんの指先にも満たない僻地を這いずっていただけに思える。この広大な青さに比べれば。
「そうですわね」と意外にもハルが優しく笑う。「広いです、この世界は」
ユウも笑って肩を竦めた。その肩に小さな雨粒が落ちる。
「帰ろう、風を引いてもいけない」
頷いたハルと一緒に高台を降りて船に戻る。雨粒は徐々に強くなって、船室の丸窓を叩いていた。
アントワーヌ船は北回帰直線はとっくに越えて、赤道も越え、南の回帰直線を目指している。濛気を発して霞む海面を、南へ、南へと駆けている。
本来なら、険しい船旅である。
外に出れば、あまりの熱に汗も引くことがない。しかし、船室に戻ると、ごうごうと音を立てて冷房がかかっている。ヘリオスフィアで冷気を召喚しているのだ。赤道直下の熱気のために鬱屈することもない。フランなどは、内海を越えて以来、船室に閉じこもったまま、甲板に出るなど狂気の沙汰だといってはばかることがない。
「こんなところ、人間の生きていける環境じゃないわ」
ただ、怪我人や病人が出ると、瞳に怪しい光を宿して、治療しつつ観察している。ユウは、おれと同じ穴のムジナだな、と思ったりしている。そのうち、事故を装って患者を増やし、自分のサンプルにしやしないかと心配になる。
ユウは船旅慣れしていなかったが、ヘリオスフィアの恩恵を被って、まったく苦がなかった。冷房も、冷蔵庫もあり、節制しなければならないものの、苦痛を覚えるほどの忍耐が強いられることもない。
「これがスフィアの力か」
なしには暮らせないわけだ。
自室の座椅子に腰かけて、団扇で自らを仰いでいるうちに、汗は引き、熱帯の蒸気によどむ海原を小さな丸窓から眺めていた。
〇
エメラルドグリーンの海と、真っ白な砂浜、出航以来ついて離れない蒸気に煙る群青の空、その下に火山島がひとつ、どっしりとそびえている。陸地を向けば遥か彼方霞む空に鋭い頂を連ねた峰々があり、手前にはなだらかな丘陵と豊富すぎるほどに萌えた緑。石灰岩を用いた純白の建屋がその樹冠の合間に顔を出し、砂浜手前にある白漆喰の堤防の手前まで張り出して、その軒の下には商店の賑やかな看板が並んでいた。その看板の前を行く人の通りは分厚い壁と見紛うばかりだった。
「これがサンマルクか」
短艇の舳先から飛び降りて白砂を踏んだユウは手ひさししながらも、日差しの眩しさに顔をしかめた。
このサンマルク近郊は開発が避けれられているために大型船を入れる港湾がない。船は沖に留め、こうして短艇で浜に乗り上げるか、川を遡って船着き場を訪ねるかといったところだろう。サンマルクには中央にマルコ川という中規模の河川があり、この河川がラピオラナ山脈からの土砂を運んでこの町の多くを形成したのだが、遡上して町の中央部、さらには四方にのばされた水路から船着き場を経由して町内の観光をすることもできるというわけだ。
しかし、この街のなんと眩いことか。建材からも、砂地からも照り返しがあって、目を開けているのも辛い。王国やスレイエス、ましてや帝国などとは全く乖離した世界ではないかと思わせるほどの空気がこの白浜に匂うほど充満していた。
匂う、といえば、実際の匂い、鼻腔をくすぐる要素の中に、懐かしいものがある。
「線香臭い」
「香木の匂いでしょう」
ユウに続いて砂浜に降りたハルは、白いワンピースの裾が波に濡れるのを気にして片手は端をつまみ、もう片手には真っ白な日傘があり、傘の縁にあるレースの装飾がくるくると回っている。いつもホットパンツに近い恰好をしている彼女には珍しい。
「神に清純な匂いを捧げている、とか、巡礼者たちの身を清めるためだ、とか、いいますわ。長い距離を無一文で渡ってくる奴も多いですから、臭いがすごいんですの。気にならないように、町の中には香木の匂いを満たしているって、そういう話です」
「ははあ、なるほどねえ」
巡礼地としてはよくあることかもしれない。
「ところでユウさま」
ハルが身を寄せてきて艶やかに目を細め、口元をほころばせる。
「なによ?」
「なにって」一歩、二歩、と下がり、爪先を立ててくるりと一回転した。スカートの裾が柔らかく舞い上がって、彼女の白い足を覗かせていた。裾が落ち着くとともに、華やかな笑みを見せる。「ほら」
「いまの話は法螺を吹いたってこと?」
「ユウさま」と、閉じられた日傘の石突きが空を巻いて襲い掛かってくる。ユウはそれを軽々避ける。
「危ないじゃないの」
「淑女をおちょくる奴は重罪ですわ」
「重罪って」
「ユウくんがいけないわ」
二艘目に乗っていたフランが白衣と金髪をたなびかせて砂浜に降り立った。久しぶりに彼女の動いている姿を見たかもしれない。
「わたしが判決を下します。ユウくんは有罪」
「ほおらね」とハルが喝采する。「フラン先生は素敵ですわ」
「可愛いよ、ハル」
「あれ?」とハルが振り向き、「いまなんていいました? さらっといったでしょ」
「ところで、先生はこれからいかがするおつもりです? ここで寝ているわけではないでしょう?」
「ちょっと、ユウさまったら」
「わたしは司祭さまに報告に行かなくっちゃ。川を遡ってもいいのだけれど、ユウくんに町を案内するついでに歩いていくのもやぶさかじゃないわ」
「ご一緒してよろしいので?」
「ハルちゃんさえ許してくれれば」
「だって、ハルちゃんよ」
ハルは不機嫌な顔を隠すことなく、
「ユウさまがそれで教会と癒着できるなら」
「癒着かよ」
「せいぜい、司祭さまのご機嫌を取ってご贔屓にしてもらえるように頑張りなさい、ユウくん」
「なんだかイヤになってきた」
頭を掻いていたユウの足は船に向かっている。その襟首をつかまれてハルに引き戻され、蹴り出された。
〇
「ようこそ、おいでくださいました。ヘリオス教会医療団を統括する、司祭のパーシヴァルと申します」
大理石状の壁と油脂を塗った木床の、清潔な一室はごうごうと冷房がかかっている。そこでユウの両手を握った男は、一組織の統率者としては意外に若い。ユウと一回りも違わないだろう。黒髪を短めに整え、髭も丁寧に剃っていて、肌はやや浅黒く、肉体的にも壮健で顔の皺も少ない。立ち上がればユウよりも頭一つ高く、肩幅も広く、握った手の感触から、なにかの武術でも嗜んでいたのではなかろうか、という雰囲気を感じさせる。浜辺でサーフボードでも抱えていれば女性を騒がせるほどの器量があるだろう。ただ、フランには彼の美貌もあまり関係なさそうで、部屋の隅にある籐椅子を揺らしながら、すでに舟を漕ぎかけている。
この南国に似合う、颯爽とした感じを漂わせて、パーシヴァルはいう。
「帝国のフローデン候失脚と、その御息女の王国入りの噂はここサンマルクにも届いておりました。なんといってよろしいのか、言葉も見つかりません」
「いえ、帝国でのことは、もう過ぎたことです。アントワーヌは未来しか見据えていません」
「実にご立派なことです。我々もお力をお貸しできればよろしいのですが」
「教会が帝国の膨張を止めることはできないのですか?」
「帝国のしていることは帝国内だけのことですからね。我々が口出しをすることではありません」
事実、いま現在、帝都は帝国内の貴族を蹂躙しているだけで、その凶刃は他国にまで及んでいない。
「しかし、彼らはいずれアンガス公国に攻め込んできます」
教会領と北方で国境を接する国家のことだ。彼の国が攻め込まれるというのは自明以上に常識的な視点だった。
「そう思われますか」と問うパーシヴァルに、ユウは頷いた。
「間違いありません」
「例えそうなったとしても、教会領は静観することになるでしょう。もちろん、戦争は我々の望むものではありません。ですが、皇帝陛下は敬虔なヘリオス教徒でありますし、教会への寄付も並みではなく、帝国内での教会建設や布教にも力を入れてくださっております。これでは我々から強く発言することができません」
「しかし、アンガスが負けることがあれば教会領も危ういと思いませんか?」
「たぶん、帝国がアンガスを落とし、教会領を侵したとて、教会領は武器を取りません」
「それほどまでに?」帝国への信用があるのか。
「陛下が敬虔なヘリオス教徒である以上、我々を弾圧はしないでしょう。であれば、ここが陛下の統治下になったところで生活が大きく変わることもない、と枢機卿連中は判断するでしょう。いま現在、教会領の中には親帝国派がかなりの数いるということです」
ジョゼ時代に、宗教と民族の問題が一掃されたらしいレオーラ大陸において、その筋の弾圧が皆無であり、心配もない、ということだ。あくまで、アステリア人においての話だが。非アステリア人に関わることはこの限りではない。のちに触れる。
「市民の魂はジョゼとともにあります」とパーシヴァルはいう。「我々アステリアの民は死後エールに還り、世界を循環して、天界に至る、といいます。ジョゼはすでに天界にいて、我々を導いてくれる、と使徒の一人は語っています。天界のことが定まっている以上、人の世の支配者などどうでもよいのです」
その投げやり的な人生観のために、サンマルクはわずかに農業を嗜んでいるだけで、産業、特産というものがまったくなく、ほとんど観光業一本で生計を立てている。領内全土が聖域であるために過度の開発を教会自身が差し止めているせいもあるが、エドワードの苛烈さと対比してどうだろう。同じ宗教だろうか。陰陽の差があれど、未来だけを指向し、徹底して過去の一切を顧みない、という点では共通の思想なのかもしれない。
「信仰の形は人それぞれ、いえ、風土が出る、ということですかね」ところで、とユウは身を乗り出した。「ジョゼって、天界にいるんですか?」
「興味がおありですか?」パーシヴァルの目元がほころぶ。と、目尻にしわが寄って、実年齢の意外な高さを窺わせる。「ヘリオス聖典の中にも色々な言葉があります。天界、天域、中天、星天。天、というのは、我々の見ているヘリオスオーブの筋がある青い空のことではなく、こことは異なる別の世界、神の世界、という意味です。我々の死生観は、先ほどお話した通り、ヘリオスの教えに従う者はエールに還り、天界へ。従わない者は土に埋もれ、魔障という怪物になり、暗黒の世界を永久に漂うことになるといわれています」
「魔障、というのも、少し聞いたことがあります。ジョゼがエールを解放したときに戦った怪物たちだとか。実際、いたものですか?」
「難しい話です。魔障という言葉が初めて文献に登場したのが、およそ千五百年前。そして、千年前、ジョゼによって消滅、または封印されたことになっています。ですが、そのころの地層から、それらしい生き物の死骸がまったく発掘されていないのです」
「では、そういう動物がいたわけではないのですね」
「それが、なんともいえないのです。不定形族のような遺体の残りにくい生き物だったかもしれないし、別の説によれば、ヘリオストープと対極をなすような、目には見えないなにかだったとも考えられて、それがヘリオスオーブのように凝り固まったのではないか、ともいわれています」
「ははあ」とユウは革のソファーに背をもたれさせた。
地球でも、カンブリア時代より前の生物は軟体動物だったために、化石、というものがほとんど残っていないという。そのため、生物種も地質年代も甲殻生物の出現したカンブリア時代と先カンブリア時代で大きく二分される。魔障がたった千年前であるのに比べて、カンブリアの節目は五億四千年もの大昔になるが。
「考古学部に行けば、もっと詳しい情報が得られると思いますよ。そのことはわたしよりフランセスカの方が詳しいかもしれない」
「そうなのですか?」
「彼女の同期に一人優秀な子がいて。訊けば教えてくれると思いますよ」
話題の当人はすでに寝息を立てている。
「あとで訪ねてみます」と返したユウは中空を見上げ、「しかし、興味深いものですね。遺体の残らない悪魔」
学術的に興味のある存在だ。が、パーシヴァルにとっては実際的な問題らしい。そうでもないのですよ、と彼は自嘲気味に笑う。
「魔障、という存在の正確なところがわからないために、ゴルツィオ救世団のような輩がのさばってしまうのですから」
「ゴル、なんです?」
「ご存知ありませんか?」
驚いたらしいパーシヴァルの端正な顔からやや色が失せた。
「帝国でも、王国でも、耳にしたことがありませんね」
「まあ、確かに、大陸北部や西部ではそれほど大きい組織ではありませんから、あまり気にする必要もないといえばないのですが……」
「この辺りでは気にしなければならない組織ですか?」
「天ノ岐さんは特に承知しておいていただいた方がいいでしょう。我々の恥をさらすことになってしますが」
パーシヴァルはまたにこやかな表情に戻って、
「簡単にいうと、武装原理主義者の集まりです」
「過激派、ということですか」
「そうです」とパーシヴァルは頷く。「ジョゼは魔障がこの世界に二度と侵入しないように世界壁を展開し、アステリアを守った、と聖典にあります。この世界壁、を文字の通り、壁、と認識し、壁を越えてくる者のすべてが害悪であり、アステリアに仇を為す者であり、それを排除するのがジョゼの意思を継ぐことである、という思想の一派です」
「なんとなくわかります」とユウは神妙な顔をした。あまりいい気分ではない。「要するに、異邦者も異形者も、世界壁を越えて召喚されてきた者はすべて敵、という考え方ですね」
「元はジョゼも異界から召喚された者であるというのが聖典の一節にもあり、ある以上、異邦者も異形者も悪ではないのですが、彼らにいわせれば、その記述に対する認識が間違いで、ジョゼは元からアステリアの民であり、ただ大震動によって出現した土地、つまり現在のノルン山脈近郊で暮らしていただけの人である、というのです。純アステリア人、特にレオーラの民こそがジョゼの正統血統であり、アステリアを守護する役目がある、と彼らはいうわけです」
「民族浄化思想はどこにでもあるものですねえ」
ほんの数ページ前にしたためた非アステリア人に対する差別のことだ。
ナチスドイツ、ルワンダのジェノサイド、中国のチベット・ウイグル自治区。地域による人種の差別は、地球に比べればアステリアは穏やかな方だ。生物が生活圏を独占支配しようとするのは魂に刻まれた宿命なのかもしれない。例えば、オーストラリアの固有種ユーカリは油が多く含まれていて、その油によって山火事を起こし、消し炭となった大地に繁茂するという。
「天ノ岐さんは自らが異邦者であることを公言していらっしゃる」
「月のない夜には気をつけろ、ということですか」
「まあ、そういう恐れもある、ということです」
ゴルツィオ救世団と天ノ岐ユウが全面的な抗争に突入するのはずっとあとのことになるのだが、その端緒がこの会話の直後に開かれる。もう少し、帝国対王国の対立や海の話からも逸れて、狂信者たちと太古の怪物たちの話を続けたいと思う。
○
ジョゼが昇天した場所、というのは、ここ、と地面に×印をつけられるほど正確に伝わっている。その聖なる点の周りにジョゼを慕う者たちが集い、集った者たちはジョゼの愛したアステリアの大地と人民を守るために活動を始めた。それがヘリオス教会の始まりであり、サンマルクの始まりであり、聖なる点の上に立つ大聖堂カンピオラの始まりであった。
いま、その聖なる一点の上には円卓状の岩石がひとつ据えられていて、その周囲数メータは芝生に囲われ、さらに外殻は石畳を敷いた広場となり、その広場がヘリオス教会の主要施設に囲われて、カンピオラ、という一大拠点を形成している。
「昔は説教壇に使っていたそうよ」というフランの声を、ユウは聖なる点に蓋をする石壇に体ごと張り付きながら聞いている。
昼間の暑気が嘘のように去り、虫の鳴く音が耳に優しく、岩肌の冷たい感じが肌に柔らかく染み渡る。手のひらでぺちぺち叩いてもビクともしない。
ほお、とユウはため息をついた。
「説教壇、ですか」
「いまじゃ上に登るのは禁止されているけれど」
「花崗岩の岩塊のようです」
高さはユウの身長よりやや高く、円周は二十歩ほどだろうか。
「確かに、巨岩ではありますが、珍しいほどの大きさではありませんね」
この日はまさに、ユウが気をつけるよう戒められた、月のない夜であった。
二人は、教会の考古学部にいるフランの友人を訪ねていた。が、目的の人物がフィールドワークに出ていて、空振りに終わってしまった。手持ち無沙汰になって、ふらふらと聖堂内を案内してもらっていたのが、いまは日没を迎えている。
「もう帰りましょうか」とフランが大きなあくびをした。「ハルちゃんがお待ちでしょう」
「それもいいかもしれませんな」
花崗岩の感触を一頻り楽しんだユウは芝生から離れ、石畳の広場を渡っていった。
周囲を囲う教会の施設群は渡り廊下で繋がれていて、その下にピロティがある。支えている列柱にはランタンが下げられ、ぼんやりとした橙色の光とともに、淡い燐光をちりちりと散らして美しい。
「いままで考えたこともありませんでしたけれど、フラン先生にも帰る家があるんですね」
「バカいってんじゃないわよ、あるに決まってるでしょう。風雨を友達にして生きてるわけじゃないんだから」
「ご家族もご一緒?」
「一人暮らしよ」
ちら、と流れたフランの視線に、艶めかしさがあった。
「来る?」
「行きません」
遠くで鐘を叩く音がした。二人はそちらの方を向き、
「火事かなんかですか?」
「あれは騎士団の緊急出動の合図よ」
「ああ、教会騎士団」
すでにユウの足は鐘の音の方へ向かっている。歩調も早い。
「以前、元教会騎士団の方にお会いしましたよ。吉村さんという方」
「ああ、あの、拙者は武士である、で有名な吉村くん」
「ご存知ですか?」
「ご存知もなにも、医療団の護衛をしてくれてたからね。ちょくちょく顔を合わせてたわよ。まあ、合わせてたっていっても、向こうがすぐ逸らしちゃって。女は寄るな、って感じで、聖職者より聖職者してたわよ、それとも、わたしが嫌われてたのかしら」
フランは、うひゃひゃ、と楽しげに笑う。
「たぶん照れていたんですよ。あの人の元の世界に、フラン先生のような金髪碧眼の美女はいませんでしたからね」
「美女だなんて、嬉しいこといってくれちゃって」肩ごとぶつかってきて、「なんで吉村くんの故郷のこと知ってるのん?」
「同郷でした。時代はだいぶ違いますが」
「へえ、異世界も狭いものね」
馬のいななく声と、石畳を叩く蹄の音がドロドロと聞こえてくる。薄影のように、騎馬の群れも見えてきた。
「なにかあったのですか?」とユウは駆け寄って、一人の若い鎧兜の騎馬に声をかけた。
「誰だ、おまえは?」
「誰と訊かれると困りますが……」
「わたしの弟なの」とフランが背中からのしかかってきて、首に手を回してくる。柔らかな胸が背中にめり込むほど押し付けられる。ぎょっとしたものの、ユウは努めて平常心を保っていた。一方で、目前の男はあられもないほどに狼狽えている。
「フラン先生の弟さんでしたか」
「仲良くしてあげてね」で、と話を紡ぐ。「なにかあったの?」
「はあ、山の方で賊徒が出たようです。おそらくは救世団じゃないかと」
「救世団」とユウは繰り返し、「噂のゴルツィオ救世団ですか。おれも行きます」
いずれ襲われるのなら、襲われる前に敵のことを知っておきたい。個人の戦闘能力、組織としての質や特徴、過激派とも呼ばれる所以になっているだろう残忍性、その他諸々、接触して得られる経験は百聞に勝る。
「ダメですよ、危険ですから。相手は殺しも厭わない連中です」
「弟くんも剣士なの。結構腕が立つんだから。それに教会騎士志望だものね」
ねえ、と笑顔で吐き出される吐息が耳朶に当たって、ユウの肌を粟立たせる。
よくもまあ、適当な嘘がボロボロと出てくるものだ、とある種感心しながら、ユウは頷いた。
「実はそうなのです。現場の仕事を窺えたら幸運だなあ」
「この子、きっと足手まといにならないから、連れて行ってあげて」
彼は決断を口にする瞬間まで唸っていたが、最後には首肯していた。
「先生がそういうなら」
ユウはすでに名も知らぬ騎士のうしろ、馬の尻に乗っている。
「じゃあ、弟くん、死なないようにね」
「せいぜい気をつけますよ」
馬は駆け出したものの、無駄話のためにずいぶん時間を食っている。他の騎士らはとっくに集合していたようだ。ユウと背中合わせで手綱を握る彼は、指揮官らしい男から激しい罵声を浴びせられていた。
「遅いぞ、貴様、どこでなにをしていた」
「も、申し訳ありません」
と平謝りする彼の声を、ユウは本人の背中に隠れながら聞いていた。
○
「巡回の者たちから、ゴルツィオ救世団らしい影が西の山に大挙して向かっているとの報告があった。ここには異形者の集落がある。奴らの狙いはそれだろう」
その山は、教会領の東部を遮るラピオラナ山脈からわずかに離れていて、独立峰といっていいかもしれない。百メータばかりの小山だった。山、というより、古い砂丘が砂浜の拡大とともに海辺から遠ざかって木々が繁茂した、という感じだ。土壌もそれに近くて、腐葉の下は砂地である。
この小山の山頂付近に村があり、登攀路は三手ある。そのため、兵を三つに別け、三ヵ所を封鎖しながら救世団を追い込んでゆこうという作戦である。
「一人も逃がすな。人間と思しきものは全員捕らえろ。異形者も一緒で構わん」
厳しく訓示され、三手に分けれている。ユウは西からの一隊に紛れていた。斜面のふもとで下馬し、広葉樹の密生する森林の傾斜を灌木に隠れながら駆け登ってゆく。足元に灯したヘリオスフィアの明かりだけを頼りにした進軍であった。
「誰だよ、こいつ」という剣呑な声が前から漂ってくる。
「フラン先生の弟さんだってよ」
「フラン先生の?」と発した声音からは剣呑さが消えて、いまでは媚びの色まで帯びている。「弟くん、わたしのうしろに控えていなさい、危ないから」
「はあ」
「それとお姉さんによろしく」
「はあ」
兵の練度は決して高くない。速度も遅く、隊列にも乱れがあり、隠密行動であるにも関わらず軽率な行動が多い。明かりを灯さねば進めない樹冠の下とはいえ、照明の位置がわずかながら高く、明るく、多い。手甲具足の音もやや耳に届くし、私語すらある。騎士という戦士階級といえど、明確な仮想敵のない集団はこの程度のものかと思わせる。アントワーヌの農民兵と同等か、下の練度だ。
一介のテロリスト相手にこれほどの重装備が必要なのか、とユウは思う。訓練を受けた戦士であれば素人同然の相手に後れを取るわけがなく、ましてや奇襲を仕掛けようというのである。額当くらいをしただけで剣も抜刀し、山を駆け登ってテロリストに一撃した方がいいのではないかとユウは思うのだが、彼らはそうではないらしい。
ゴルツィオ救世団というのはそれほどまでに手練れの集まりなのであろうか、とユウは首を傾げて、また遅々として進まない進軍にも苛ついている。彼らにとって異形者の被害など、所詮他人事なのかもしれない、そのぶんの必死さが足りないのでは、などと思ったりもした。
とはいえ、ここは教会領、ユウが口を出す領分ではない。関係のない人間が出しゃばって、どうこうするほど癪に障るものはないのである。
彼らの職に対する尊厳を慮って、ユウは最後尾からのそのそと、枝をかき分け、時には肌を引っ掻かれ、葉を落としては踏み散らし、前が詰まれば花の香りに心を鎮め、彼らの不用心な明かりを追ってゆく。
その何度目かの停止中、甘美な花弁の香りの中に、饐えた鉄の臭いが混じった。
山上から風が吹いている。風に乗って、遠吠えのような声もする。
ユウは白剣を抜き放ち、立ち竦む教会騎士らの傍を駆け抜けていった。
「お、おい、君……」
「もう戦闘が始まっているんですよ」
あたふたと、甲冑の音を鳴らして後続が追随してくる。が、重装備では厚手の上着を着ただけのユウにまったく追いつけない。
藪の向こう、ユウの眼前にちらちらと見えてきた赤い光は炎のきらめき、それが黒い煙に煽られながら揺れていた。建屋が崩れ、火の粉を上げる。炭の臭い、血の臭い、肉の焼ける臭い。
悪臭に顔をしかめたユウは灌木の隙間から漆黒の亡霊を見た。
黒い布を頭から、外套のように被って、目元だけをくり抜いた亡霊のような姿が、四つ、まさに幽鬼のように業火の中で輪を描くようにして立ち尽くしていた。四人の中心に誰かがいる。
「ど、どうか、助けてください」と訛りの強い口調でいった、その誰かの頭が飛んだ。胴は横倒しになったまま動かない。
ユウは足元に転がっていた石を火事場に放り込んだ。木材の上に落ちて、大きな音を響かせる。四人の視線は不意にそちらへ移り、藪から飛び出したユウを捉えている者はない。
一番手前にいた黒布の脇の下辺りを一刺し。白衣の下に防具がないことを確かめて、ユウは死体から白剣を抜き、大きく飛び退いた。同志の一人が倒れたのを知り、黒衣の三人は散開して彼を囲い込もうとする。ユウは彼らの様子を冷えた目で見つめていた。
左右の二人は鉈を片手に下げ、正面の一人は斧を中段に。
「一歩」とユウは地面を指し示し、「前に出た奴から殺す」
右にいた鉈が殺到してきた。
上段から振り下ろされようとした鉈を迎えるように白剣を振るい、二本の腕を断ち切った。さらに踏み込んだユウは黒布の胴を一閃、黒衣の上半身が飛んでゆく。さらに背後から斧が、袈裟斬りに来るのを屈んで躱し、振り向きざまに踏み込んで地面から突き上げるような刺突を左胸に一撃、突き通す。鉈のもう一人が震える刃物を両手で抱えているのを見、ユウは白剣にぶら下がった死体を蹴り飛ばして、死肉から刃を抜いた。
「消えろ」とユウは腕を振るう。「おれの前から消えろっ!」
一声怒鳴ると、鉈を捨てた男は一目散に森の中へ飛び込もうとし、しかし、そこから登って来た教会騎士の刃の前に両手を上げてひざまずいた。
「弟くん、勝手に行っちゃいけないよ」
「ぐずぐずしていて、死ななくていい命が死んでいるのです」
ユウは四人に囲われていた遺体の傍にひざまずいて、その身体を調べた。服は着ているものの、布地から覗く手足の体毛は肌が見えないほど濃く滑らかで、指先の爪は鋭い。肘の内側やその延長線上に覗く皮膚の質感は人よりなお張りがあり、わずかな光沢も帯びている。
「やはり異形者か」
二足歩行の獣人、という雰囲気の特徴だが、異世界からの放浪者という境遇は同じ。その同胞をむざむざ殺されている。
ユウの体毛が逆立ち、歯を軋ませている。
「これ、弟くんがやったの?」などと呑気な話をしているのは教会騎士団の面々だ。黒衣の遺体を検分している。「すごいもんだなあ」
「おれはあなたたちの仕事を代わりにやっただけです」
憤りのままに振り返ったユウの視線に騎士らは身を震わせている。
「あなたたちがあんまり……」
「いやあっ!」
と、鳴った叫び声が聞こえたとき、ユウはすでに疾駆していた。騎士の数人がついてくる。村外れともいえる林道の空地に三人の黒衣たちがいて、中央の一人が屈んでいる。左右の黒布がユウたちに気づき、向かってきた。得物はクワとこん棒である。
ユウは駆け抜けるまま、クワを持つ黒布の胴を抜き、棍棒の脇を駆け抜け、屈み込む男に一太刀、浅く斬りつけた。敵の接近に気づいた黒布は転がって致命傷を避け、鉈を片手にユウへ振り向く。そのままゆるりと立ち上がり、鉈は上段へ。潔く踏み込んできた斬撃をユウは一歩退いて躱し、下段に落ちた敵の手元を叩いた。
鉈とともに、ぽとぽとと数本の指が落ちる。
なにが起きたのかわからないまま、起き上がった目だし布の顔面をユウは蹴り抜いて、転がってゆく敵を見送りもしない。
「大丈夫ですか?」とユウはうずくまる異形の影に声をかけた。が、首元からの出血が甚だしく、すでに息がない。胸になにかを抱えている。
「子供か」
胸にすっぽりと抱えきれるほど小さな、黄色い毛に覆われた子供だった。額の生え際からのびた毛髪は背中までを覆い、肘の方まで覆っているらしい。やや尖った鼻先といい、針の柔らかいハリネズミを連想させる。
その小さな身体がずいぶんと血に汚れている。震えも酷い。しかし、子供を抱えた死体の腕は筋肉が硬直し、開きがたい。愛の力だということはわかる。それがこの子を守ったのだ。が、ここに放っていくわけにはいかない。まだ敵がいるだろう。
ユウは白剣をそばの地面に刺して、思い切り死体の腕を引いて、胸を開かせた。
「ああ! ああ!」と小さな身体が絶叫する。
「大丈夫だ。おれたちは味方だ」
「生存者か」と教会騎士も駆けつけてくる。
「無事です。怪我はありません」暴れる体を押さえつけて、ざっと調べたところによると無傷だった。
「弟くんはその子を連れて下がれ」と肩を叩かれる。「ここはもうおれたちに任せろ」
目線を絡めて駆け出してゆく騎士たちを見送り、ユウは登山道を封鎖している一隊の方へ、小さな命を抱えながら走ってゆく。
「外傷はなし。内蔵の損傷もなし。至って健康体よ、肉体的にはね」
医療部の待合室に、白衣をなびかせて入ってきたフランがいう。
「かなり興奮してたから鎮静剤を使ったけれど、わたしたちとは違う生き物だからね。このあと異常がないといいけれど」
「歯痒いものです」とユウは革張りの座椅子にほとんどのけ反るになるようにして腰掛け、視線はまぶたを薄く開いただけで、どこともなく床の方をさまよっている。「おれが先行すれば被害は少なくできたかもしれない。しかし、ここは教会領ですから、おれにはなんの権限もない」
「そうねえ、教会は騎士といっても、軍ではなくて、治安部隊だから。他の国でいうところの警史に近いかしら」
「帝都の警史なら、おそらくもっと上手くやっています」
「そうかもしれないけど」と苦笑するフラン。ユウは目を逸らし、
「詮のないことをいいました」
「まあ、教会騎士の練度が低いのは事実だからね」
フランが隣に腰掛けて、柔らかい椅子の表面が沈んでゆく。
「それとも、ユウくんが鍛え直してくれる?」
「おれにそんな暇はありませんよ」
ユウは反動をつけて起き上がり、その精神まで起き上がらせた。
「おれにはやることがありますから。船の様子を見に行かないと。またハルに罵られる」
「あの子はどうするの? あなたの拾ってきた」
「おれは教会の手伝いをしただけです。他の生存者たちと一緒ですよ」
「そういうならそれでいいけれど」
「ではまた」
ユウは医療部を飛び出して、冷えた蒸気の凝る夜を駆け抜けてゆく。町の灯は消え、砂粒を撒いたような星の空にヘリオスオーブの筋が交錯していてやたらと眩しい。
「ゴルツィオ救世団か」
野放しにしておきたくない。そういう感情が胸の中で悶えるほどに唸りを上げている。奴らを狩れ、と叫んでいる。しかし、とユウは思う。おれには先にやるべきことがある。あくまで、彼はアントワーヌの天ノ岐ユウである。冬の帝都を脱したときから決まっている。そのために、夜の町を駆けている。
○
アントワーヌ船で一泊したユウは、昼を回ってからカンピオラを訪ねていた。
相変わらずの蒼天には薄霞がかかるだけで、烈々とした日差しが白亜の外壁を照り返してとどまることを知らない。日陰と日向の温度差は一入である。そのためか、カンピオラには日陰が多い。ピロティ状の建築様式が点々とある他、建物のぐるりを囲う回廊にも円柱を連ねた広いひさしがかかっていて日光を避けられる。その回廊の外れを、ユウはフランと連れ立って歩いていた。
「その後、医療部はどうです?」
「どうもこうも、怪我人の山よ」寝ぐせのある髪を掻き上げて、苦虫を噛み下しているような声音でいう。「異形者の人たちはいいけれどね、救世団の連中まで生きている以上見殺しにするわけにはいかないからね」
「お忙しいところ申し訳ありませんねえ」
「いいのよ。めぼしい案件の処置は終わったから。ユウくんを送ったら帰って寝る」
ここ、ここよ、と欠伸をしながら二枚扉を叩いた。応答もないまま、押し入ってゆく。その白衣にユウもついていく。室内は所々をパーティションで区切っているものの、書類の積まれた事務机の乱雑さは覆い隠せるものではなかった。
「ああ、フラン先生」と書類を抱えていた一人が道を譲ってくれる。左右のデスクも立ち上がろうとして、中腰のまま挨拶をしている。
「いいのいいの」とフランも手を振って、「マグちゃんは帰ってきてる?」
「来てますよ。今朝帰っていらして、そのまま奥にこもり切りです」
するする、とフランは奥に行く。そこの扉を蹴破るように、
「邪魔するわよ」
と軽率に入ってゆく。手前に作業台がいくつか並び、奥と左手は棚で満ち、右手にある北向きの小さな窓だけがこの埃っぽい部屋の唯一の明かりであった。
「マグちゃん、マグちゃん」とフラン先生は左右を見遣る。「どこ?」
のそ、のそ、と動く影があるのをユウは視界の片隅で捉えた。左手の棚の陰、床の上を黒い影が這い寄ってくる、その全く未知の世界からひねり出された幽体のような雰囲気に、ユウの腰も引けてゆく。
ざ、ざざざ、と這い寄ってくる黒い塊は外光の下でもやはり黒い。
「よ、妖怪の類ですか?」
「人間の類よ」
「珍しいですねえ」と黒い塊が舌っ足らずな声で喋り出した。真っ白い手の甲が下の方から湧き出すように現れて自らフードを剥ぐと、甘い顔が現れた。三つ編みにした亜麻色の髪が肩の前でそよと揺れている。
おや、とユウは目を見開いた。
非常に若い、というより、幼い。ユウやリリアより少し下に見える。漆黒のマントで包まれた小柄は丸く、頬は血管の筋が窺えるほど白い。とてもではないが、フィールドワークをしていた子の肌には見えない。そのもっちりとした頬を捏ね回して、彼女はいう。
「お若い、と思われました?」
「え、まあ、そうですね……」フランと同期と聞いていたが、事実か疑わしくなってくる。
「よくいわれます」
眠たそうなまぶたの間にある茶色の瞳をほとんど動かしもせずにユウを見、ほんの、本当にわずかに薄く、小さな口元の端を緩めた。
「フラン先生の、なんでしょう? 彼氏の方ですか?」
「わたしの可愛い弟の……」
「弟でも彼氏でもありません」ときっぱりいう。「天ノ岐ユウと申します」
「おやおや」と眠たげな眼がほんの少しだけ大きくなった。「あの、アントワーヌの俊英といわれる?」
「俊英……」
「噂には聞いております。失脚したアントワーヌの御令嬢を救い、剣の腕は大陸三傑に並ぶとか」
「噂など当てになりませんよ」
「町の噂がわたしの口を衝いて出たまでのことです。実際のところはこの目で見て確かめて、とおっしゃるのでしょう?」
眠たげな目を自分の人差し指で指し示している。
「まあ、そういうことですかね」
「ところで、その天ノ岐さんが、このようなところに何用でございましょう? 領地運営と戦争に役立ちそうなものをお探しなら、相当難儀なところを選びましたね」
「それは」と話の接ぎ穂をフランに譲ろうとしたが、彼女は椅子を並べてその上に横になっていた。すでに寝息を立てている。マグの顔色も良いとはいいがたいから、もしかしたら、教会領の人々は睡眠時間が足りなくなるほどの過剰労働を強いられているのかもしれない、などと妄想してしまう。
「おれはジョゼに関して、伺いに来たのです」
「ああ、天ノ岐さんは、異邦者の方でしたっけ。わかります」
「元の世界に帰る手段があるのなら、知っておきたいのです。帰るかどうかは別にして」
「元の世界に帰る手段はありません」
「え」とユウは耳を疑った。ここまではっきりいうとは。「マグさんは相当優秀な方だと伺ってきましたけれど、その知性をもってしても? 欠片も可能性がない?」
「わたしのことをどう聞いていらっしゃったのか、定かではありませんが、わたしの知性に関わらず、アステリアから人為的に世界壁を越えて異世界に物を送る技術は過去から現在に至るまでのいつのどこにも存在しません」
のちに聞いた話では、マグには卓越した記憶力があり、教会が所有する、または調査をしたあらゆる文献と遺跡の情報が彼女の頭の中にあるというのだ。彼女が知らなければ誰に聞いてもわからない、ということだ。
その才女がいう。
「エールを扱う技術は、いまから千年前のジョゼの時代が全盛です。以降、人々はエールの乱用を恐れて、その技術を放棄しているのです。放棄して数百年でその技術のほとんどは失われ、人々は原始に近い生活に戻ったといいます。巨人族や小人族は現在でもその生活を続け、人類族だけが、第二次ヘリオスフィア文明ともいわれる時代を享受しているわけです。その発祥が三百年前。いまのシリエス王国の始祖ククルス・ヴィルヌーブが再興した、といいます」
「ジョゼ時代は、超古代文明、ということですか」
「そういっていいでしょう。いまの時代からはちょっと想像ができないほどのエール技術があったと思われます」
しかし、とマグは話を紡ぐ。
「向こう側から人が送られて来る以上、こちらからも人を送れるはずで、それの再現性が高い以上、人にも再現できるはずです。ですが、いまの文明がジョゼ時代に追いつくのに百年かかるとして、さらに数十年の時間が必要になると思いますね」
「その前に、おれの寿命が尽きます」
「異世界から来た方の寿命がどれほど持つか、それも定かではありませんが、アステリアの人間は平均およそ六十から七十年くらいですね。百五十年生きたという記録はありますけれど、なにかの勘違いではないかといわれています。他にも、植物に似た体の異形者の方がいて、これは五百年近くも生きていたそうです。結局、火事で焼死したそうですが」
「お詳しいですねえ」
「それはともかく、わたしがいいたかったのは、その超古代文明時代をして、異世界に渡った、という明確な記録がない、ということです」
「唯一、ジョゼの昇天のみ、その可能性があると?」
「可能性だけなら、それが唯一ではないのですよ」と彼女はいう。
「唯一ではない?」
「先ほどもいいましたけれど、明確に、異世界に渡った、という記録がないだけで、他にも数人、それに近い記述があります。ジョゼ時代の末期に魔障消失とエールの再生があったのはご存知ですね?」
「ええ、知っています」ジョゼは魔障を封印し、エールを再生させたために不世出の英雄と呼ばれているのだ。
「その前後、数人の人間が不審な消え方をしています。正確に名前を挙げると、カリギュラ、ジオ、デイドロ、の三人。彼らは常にジョゼと行動を共にしていて聖典にも、その他文献にも、頻繁に名前が出てきて、ヘリオス教会でも聖人のうちに数えられるくらいの大人物です。それがエール再生の少し前から、唐突に消えてなくなるのです」
「死んだのではないのですか?」
「そういう見方をする方もいらっしゃいますけどね、果たしてどうか。彼ら、三人の最後の記述は回りくどいものが多いのです。ジョゼ周辺の人間の最後は割とこざっぱりと書かれているにも関わらず、彼らだけは文章がやや異なることが多い。まあ、その特殊性が、彼らをヘリオスの聖人に加えさせる所以なんですけれどね」
「どういうふうに違うのです?」
「では、その一節をご紹介しましょう」こほん、と小さな咳払いをしたマグが手のひらを差しのばす。「ブラフアラクルアルスアエウメモーナクエウェルアルケルオ……」
「なになになになに?」戦いたユウは身を退いた。「どうしたんです、急に?」
「オンクータ原書と呼ばれる、いまのヘリオス聖典の元になった教典の一節です。古代レオーラ語で書かれていますから」
「おかしな電波を受信したのかと思いましたよ」ユウは怪訝な顔をする。「あのですね、おれは古代レオーラ語がわからんから、原文いわれても困ります。翻訳とか、概略とか、そこんところ詳しく教えてもらえたらありがたいのですけれど」
「翻訳はできますけど、わたしの意識が介入してしまうので正確な情報ではなくなりますよ。訳された言葉は又聞きですし、直訳では意味が通らないこともしばしば、雰囲気でしか訳せない単語もどうしてもあります。細かい表現の機微、正確な情報を得るには、自分で原文を読む以外にありません。さらにいえば、そのころの風土や習慣、文化も学ばなければ古典に限らず、文章の理解というのは不可能です。この、エール再生前後で、言語体系や文化がまったく変わってしまったのも、現代に情報が残りにくい原因の一つですよ」
頬をぷうーと膨らませるのは不機嫌になっているらしい。
「かろうじて現代の各地域に残っている伝承と資料を繋ぎ合わせて、疑似的に言葉を復元させましたが、果たして正解かどうか、古代レオーラ人に会うまでわからないのです。会えないとは思いますけど。しかし、わたしには、古代語にどんな不便があったのか、わかりませんね」
「おれは、それほどの信仰と人心がジョゼに集中していたのだと聞きました」
「おそらく、それが正解なのでしょうが、なにからなにまでを捨てた、彼らの行動は間違っています。どれほど尊敬する人物がいたとしても、己の過去を捨てるべきではありません。積み重ねてきたものを覚えているから、人は同じ間違いをしないようになるのです。人が同じ過ちを繰り返すのは、過去を、歴史を真面目に学ばないからです。人間なんて単純でバカな生き物なのですから、放っておけば堕落して安易な手段を取って死滅するのは目に見えています」
「辛辣ですなあ」
かつて、皇帝エドワードも似たようなことをユウに話していたが、やはり人の怠惰と安易な手段を忌避するところにヘリオス教の教えがあるらしい。
「ともかく」とユウは続けて、「おれはマグさんの意見を聞きたいですね。ジョゼは昇天したという。マグさんは、その三人は昇天せず、死にもしなかったという。ならいったいどうしたのか」
「扉を開いた、といまの聖典には記載されています」
「扉?」
「魔障との決戦のために扉を開いた。先ほどわたしが引用した文章は、いまの教会の聖典の中でそう訳されています」
「決死隊ってことかしら? それ以降、その人たちは出てこない、と?」
「教会もそう受け取っています。ジョゼのために血路を開いたのだと。戦争でいえば決死隊かもしれませんし、研究分野でいえば発見とか検体になったとか。要するに、彼らの犠牲によって光明が見えた。こういう解釈です」
「マグさんは、それに納得していらっしゃらない?」
マグ曰く、この一文だけでも二十三個の単語と接続詞等で出来上がっているらしい。さらにその単語一つずつに二、三個、多いものでは五、六個、前後の語句から修飾を受けるのか、受けないのか、その辺りでも解釈が変わり、前後の文脈の影響も考慮すると複雑さは無限大だという。
「だから、安易に直訳しても意味はないのですが、わたしが思うに」といって、なにかに気づき、言葉を濁した。
「思うに?」とユウが促す。
「いまから、わたしのいうことを、鵜呑みにされては困りますよ。あくまでわたしの私見であって、答えではありません」
「わかっていますよ。そう焦らさんでください」
「ではいいますけど」こほんと一息して、「彼らは、異世界の扉を開いて、そこから別の次元に旅立ったのではないか、と、わたしは思うのです」
「彼らが? 異世界の扉を開いた?」
「そう解釈できますし、そう解釈した方が合理的なところがあるんです」とマグは肩をすくめていう。「ですが、何度もいうように事実ではありませんし、一個の可能性で、もし事実であったとして、彼らが異世界に渡った技術はとっくに消滅しています。天ノ岐さんは、わたしがアントワーヌの俊英だといって、噂は信用ならない、と否定なされた。わたしの話は一千年以上昔の噂をあやふやな知識で再現しているだけのことです。その不確かさ、お分かりですね?」
「わかります、よくわかります」とユウは神妙に頷いた。「歴史というものが、それほどあやふやで、真摯に向き合わなければならないものだと、よくわかります」
「でしたら良いのですが」ほふ、とマグは一息ついていた。「ほとんど間違いないことは、ジョゼはエールの研究者や技術者ではなかった、ということです。あくまで戦士であり、政治家であり、一団体の統率者で、いまの天ノ岐さんと同等の役職だったと思われます。もし、ジョゼがアステリアから世界壁を越えたのなら、その技術は以前からアステリアに存在していたか、その直前に生まれたか。生み出し、運用していたのなら、それはカリギュラであり、ジオであり、デイドロが扱っていたでしょう。彼らはエールの研究者であった可能性があり、エールに関する知識はジョゼ以上だったはずです。もし、本当に、天ノ岐さんが故郷の世界に帰りたいのでしたら、ジョゼとともに、彼ら三人のことも調べることをお勧めします。あくまで、ジョゼ時代の先端技術を保有していたのは、彼らです」
「なるほど」とユウは感嘆する。「実に、おれの見識が狭かった。マグさんのおっしゃる通り、物事は安易に決定しない方がいいし、視野は広く持った方がいい。以後、気をつけましょう」
「ええ。わたしは天ノ岐さんの幸福を祈っております」と微笑んだのか、嘲笑したのか、よくわからない笑み見せて、「また、いつでもお訊ねください」
これを潮に、フランを起こしたユウは、彼女とともにこの部屋を後にしている。
ずいぶんと長いこと、アステリアの中世史を語ってきたが、お察しの通り、このことが遥かののち、天ノ岐ユウの運命を扼するほどに重くのしかかって来ることになる。
○
ファー、ファー、と低く、長く、鳴く鳥の声が聞こえる。
この声はアントバという鳥が日付の替わりを教えてくれているのだ、とハルが話してくれたのを思い出す。大陸中央以南であればどこにでもいますわ、と彼女は話していたけれど……。
「待って、ユウくん、もっと優しく……」
「優しくっていわれても、そろそろおれだって我慢の限界です」
「ダメだったら、こんな、わたし……」
「いいですか? もう行きますよ」
「ユウくん、そんな、激しくしないで……」
彼女の火照った体が身じろぎして、収まらない熱と柔らかな肉の感触を押しつけてくる。背中に乗りかかってこぼれるほどに広がる胸の豊かさ、手のひらにあるのは張りのある臀部の弾力、掴み上げた指を押し返す滑らかな肌の温もりを感じる。
ぐい、とユウは手の内にフランの尻肉の感触を確かめつつ、全身を揺すった。背中にある柔らかな膨らみがそれに合わせてふるふると震え、形を変える。
「ユウくん、待って……」
「今度はなんです?」
「……吐きそう」
「ちょっと、人の背中で吐かないでください!」
転がるようにしてユウの背中から降りたフランは排水口の前に屈み、したたかに呻いた。
「大丈夫ですか?」彼女の背中をさする。
「大丈夫そうに見えるなら、ユウくんの目はヤバいわよ」
「それだけ喋れるなら大丈夫そうですね」
「次に呑むときこそ、ユウくんを破産させ……」
いいかけて、排水口に顔を埋める。「ぐげええ」
「先生のお命の方が破産しそうですよ」
「うっさい。ほら、しゃがんで」口元を袖で拭い、もう片手はユウの袖を引いている。
「仕方がないなあ、もう」
しゃがんだユウの背中に倒れるようにして乗りかかってくるフラン。細い腕が首に巻きつき、豊満な肉体を押しつけてくる。それがえらく熱く、酒臭い。ぐっと鳴らした喉の奥からアルコールの濃い吐息を漏らす。
坂の上の料亭で一杯やり、隣の居酒屋で二杯やり、さらに隣へ……、というふうに杯を重ねてこの有り様だ。ヘリオス教員の宿舎は下の平地にあるというから、一歩歩けば坂を転げ落ちる心配のあるフランを背負い、深い夜の中、罵倒し合いながら、少しずつ、少しずつ、時には嘔吐を挟んで海辺を目指している。
「バカ、もっとゆっくり降りてっていってるでしょ」
「ずいぶんゆっくりですよ、一段一段丁寧に」
「嘘つき、スゴい揺れるからわかるんだもんね」
「いまのフラン先生は一人で立ってても揺れてるでしょうが」
「吐くわよ」
「投げ捨てて行きますよ」
「この非人間め」はあ、と臭うため息を吐き、「なんでこんなことに」
「それはおれのセリフですよ」
しかし、フランが飲み過ぎるのもわからなくはない。ヘリオス教会領の食事は美味い。というか、ユウの舌に合う。主食の米の炊き方も日本に近いし、麺料理も汁が多くて楽しい。風土によるものだろう。大陸は、惑星内の諸々の大循環の都合、西側に寒流が流れるのが常だが、東方は暖流が流れる。温かい潮は当然雲を作りやすく、雨を降らせやすい。そのぶん陸地は湿り、あらゆる場面で水分が多く、水分を頼りにする植物も容易に増える。地図帳を見ると、深い森林地は大陸の東方、砂漠地帯は西方に広がる。レオーラ大陸を始めとした、アステリアの大陸たちも同様であった。
「ここを離れたくないのは山々ですが、おれは明日の朝には船で出ますから。先生にもしばらくお会いできなくなります」
「また」と切ない調子の声が耳元で鳴った。「会いに来てくれる?」
ぎょっとして振り向いても、フランの顔は見えず、
「まあ、来るでしょうよ、そのうち」
「待ってるから」
ユウは一時どもりながら、ええ、と低く呟いた。
一筋、夜空を削ったような月の下をとぼとぼと歩いている。
フランの家、というのは、教会職員独身寮らしい。まるで角砂糖のような三階建てのアパートであった。それが二つ、三つ、並んで建っている。他にも似たような建物があちこちにあるともいう。
「ほら、ついに着きましたよ」
「希望の光だあ」
ごろごろと背中の中でのた打つ成人女性ほど面倒なものはないな、とこのとき思った。
「我が家は、我が家は……」
「フラン先生、静かにしてください。もう住宅地です。近所迷惑ですよ」
「わたしは静かですう」
「面倒だなあ、もう」
「耳、噛んじゃうぞ」
「やめてください」
「うへへへ」
アパートの間を歩きながらフランの家を探していると、ふと一件の扉が開いた。ずいぶん怒られるんだろうな、と内心覚悟したが、どうやら違ったらしい。
「天ノ岐さん、夜分遅くまでご苦労さまです」とマグが顔を出した。
「あら、マグさん。夜分にご迷惑をおかけします」
「いいえ、こちらこそ、同僚がご迷惑を。あとはわたしが引き取りますので」
「よろしいんですか?」
「彼女の家はすぐそこです。わたしの隣」
「ははあ、なるほど。では、部屋まで運びます。一人で歩くこともできないお荷物ですから」
「ユウくんたら、独身女性の部屋に入るなんて、やらし」
マグが開いた扉に荷物を放り込むだけにして、扉を閉めた。
「では、マグさん、おれは明朝王国に発ちますが、また必ずお会いしましょう」
「ええ、またいつか」と小さな手を振る。「そういえば、お伝えしようと思っていたのですが、ジョゼがアステリアに召喚されてのち、最初に本拠を構えたところをご存知でしたか?」
「いいえ、知りませんけれど」ユウは素っ頓狂な顔でいう。「考えたこともありません。ノルン山脈の近くですか? 確か、ジョゼはノルン山脈のあたりに召喚されたのだと聞きかじったことがありますが」
「ファブルです。王国の北方にある自治領国、領都はファブニールという、石と砂の町です」
「ファブニール」
「そのさらに北方に、大きな遺跡群があるんですよ。教会が保存しようとしていて、わたしも近々出張するかもしれません」
「マグさんは本当に尊敬に値する女性です」とユウは彼女の小さな手を握って、力強く振った。「博識で、勤勉で、淑女としての節度もあり、優しさもおありで。できれば、アントワーヌ領に来ていただいて、力を貸してほしいほどです」
「ですが、わたしは教会に奉職している身ですから」
「大陸西部にいらっしゃった際には、アントワーヌ領をお訊ねください」
「ええ、必ず」
ユウは一笑し、
「では、お元気で」
○
翌日、ユウはアントワーヌ船に乗ってサンマルクを出、西に向かう海流の上にいた。
「今回は、ちょっと儲かっちゃうわね」
甲板に置いたパラソルの下、デッキチェアに寝そべったハルは真っ白な生足を組み替えていた。
この世界でも、水着が発達しているらしい。ハルが着るビキニと、ユウの世界のそれの区別はあまりつかなかった。日焼け止めもあるらしい。ずいぶんと粘度の高い白濁した液体を手足に塗り込んでいる。
いったいどういう素材で出来上がっているのか、桃色の水着をまじまじと観察してみたが、よくわからない。
「ユウさまの変態」ハルが胸を抱えて身をよじる。
「バカ野郎、おれは学術的興味で見てただけで」
「女体を?」
「なわけないだろ」
「ユウさまのお部屋でならもっと観察してくださっても良くってよ」
「よくない」
ユウはきびすを返して、手すりに身を寄せ、海面を見た。
真っ黒な潮が流れている。プランクトンの少ない南方の透明度の高い海に特徴的な温かな潮だ。それが西へ、西へと流れている。アントワーヌ船は帆を畳んだまま、その流れに淡々と乗っている。
南北幅数キロしかない、狭隘かつ長大な海峡、クリフトフ海峡である。
青い空とそこに巡らされたヘリオスオーブ、筆で刷いたような白雲、南には砂に霞む赤茶けた大地が広がり、北には緑の肥えたレオーラ大陸。岩壁では黒っぽい岩礁が顔を出し、波とぶつかっては泡立たせ、ところによってはエメラルド色の激しい渦を巻いている。
この景色の中、いくつの色があるだろうか、自然の醸す原色、すべてがここに揃っているのではないかと思わせる。
「実に美しいなあ」
「わたしが?」
「おまえではない」
「ユウさまったら素直じゃないなあ」
細い腕が首に回って、柔らかな体が背中に押し付けられて来る。その白々とした腕を、ユウは握って、
「おまえが男だったら、このまま腕を引いて海の中に投げ落としてるところだった」
「ちょっとやめて!」とハルが激しく身悶えしたところで、腕を放すと、彼女は脱兎のごとく傘の下に逃げ戻って、そばのタオルを引き寄せていた。ユウは手すりを背にして、ハル越しに南のアナビア沙漠を眺めている。赤々とした砂の丘陵が遠くに波打って、その表面が風の波紋を刻んでいるのすら見えそうだった。
「ホント、ユウさまったら、悪党なんだから」
「この辺りは南風かな」
「一年中、沙漠からの風が吹いてますわ」
「潮は東から西に、風は南から北に。帆船はその二つに逆らえない、か」
本来、帆船は向かい風でも進むことができる。例えば北風が吹いていても、北東に進路を取ることはできる。そののち、北西に進路を取れば、元の位置から真北に移動している。ここでも南風をうまく使えば南や東、クリフトフ海峡の流れを遡上できる可能性はあるが、複雑な海底構造と狭い海峡幅が極めて難易度を上昇させている。
いまこうしていても、見事なまでに西からの船が来ない。一方、西走する船は隊列をなすようにして、この甲板から見渡した限りでも、十数隻ある。
「アナビアの沙漠は完全に亜熱帯高気圧下の沙漠だな」
少し、このあたりの大気循環について触れる。
例えば、地球の中で最も日照量の多い地域はどこかと言われれば、赤道直下になる。日照量が多いということは平均的に気温が高いということで、基本的に最も暑い。暑い空気は周りの空気より活動的で上昇しやすい。つまり上昇気流が生まれやすい。気象学的には低気圧となり、雲を作る。これが熱帯低気圧。厚い雲がすぐに生まれて降雨となり、併せて降り注ぐ日差しを相まって巨大な樹林地帯を作る。低気圧がどこまでも広がるわけではないのは周知の事実で、その周辺は相対的に気圧の高い地域、高気圧に覆われることになる。下降気流が発生し、気流が下がるということは強制的に空気中の水分が地上に送られ、新たに上ってくることもない。つまり、雲ができずに、降雨が極端も少なく、結果、乾燥しやすくなる。
二千二十年現在の地球の気候では赤道付近に熱帯低気圧を作る帯があるのは当然で、その端にある高気圧帯は緯度三十度付近、亜熱帯高気圧と呼ばれ、サハラ砂漠やオーストラリアの直上である。日本もその亜熱帯高気圧に近いが、側近を流れる暖流の影響があって、湿潤環境にある。というか、大陸東岸にある地域はみんな同様の恩恵を暖流から受け取っている。大陸東岸を暖流が流れるのも海洋循環のルールなのだが、すでに大気循環の話が長くなっているので、いまはそれに触れない。
ちなみに、亜熱帯高気圧から吹き降ろす風は東西南北に流れてゆくのだが、この北へ向かう風が地球の自転の影響で東の方向へ湾曲されてしまう。それが偏西風。ということで、緯度四十度から六十度くらいまでは偏西風帯と呼ばれるわけだ。気候の変動があれば、亜熱帯高気圧の位置は上下するし、偏西風帯も上下する。現在の春夏秋冬でも上下するのだから、かつてあった温暖期や氷河期では極端なほどにそれらの地域は変動したことだろう。熱帯地域から亜熱帯までの低気圧と高気圧の循環を、ハドレー循環と呼ぶ。地球はこういう環境の中で成り立っている。
アステリアでは小人族の町が熱帯地域にあり、アナビア大陸北部が亜熱帯高気圧下にあり、高気圧の隣には低気圧が発達しやすいもので、クリフトフ海峡からは如実に上昇流が発し、雲を作る。その雲がレオーラ大陸南部を潤し、またアナビア大陸から北上してくる風は東に曲がり、王国上空で偏西風となる。ヘリオス教会領も亜熱帯高気圧下にありながら、日本や東南アジア同様、大陸東岸を流れる暖流の影響でかなりの湿潤環境にある。
こういう気候の中を、ユウは船に乗って上下していたのであり、アステリアのダイナミックな大気循環を体験したことにもなった。そして、いまは東からの潮流と、南の亜熱帯高気圧から吹く風にあおられている。
「ユウさまはまたクリフトフ海峡を遡ることを考えていらっしゃる」と、ハルは薄く笑い、「船に喫水線というのがあるでしょう。海面の上と下の境目に引かれる線のことですわ。これが深いと、当然、潮の影響が強い。船が重ければ喫水は深くなりますわ。空船なら、もしかしたら、アントワーヌ船でもクリフトフ海峡を渡れるかも。でも、空船で渡る意味がありませんものね。交易に出るのに片道だけの物品しか乗せられないのは、ずいぶんな浪費ですわ」
「喫水が深くなければなんとかなるのか?」
「軽く、喫水の浅い船であれば、スフィアの力で動けますわ。事実、アタカ川の一部地点は、この方法で渡船していますし、この辺りの漁船も同じ方法を使ってます。しかし、交易船ほどの規模の船ではまず無理です」
「なんとかしたい」
「誰もが思ってますわ。帝国、王国はもちろん、エルサドル五家も、自走船の研究開発に莫大な資金を投入しております。この数年のうちに完成するといわれていますが、一向、その兆しが見受けられませんけどね」
「つまり、好機だ」ユウは卓を叩いた。「幸い、おれにはおれの世界の知識がある。それを実現できる技術者を探す」
「あらあら、ちょっと面白そうですわね」とハルは手の甲を口元に持っていって、「技術者を集めるなら、王国の学術都市リライトが世界一ですわ。自走船はエルサドルの富とリライトの知識から生まれるだろう、ともっぱらの評判です」
「王国のリライトか」
このとき、ユウは内燃機関を造ろうとした。その夢を実現する技術者を探すために、王国帰還後はリライトに直行するつもりでいた。しかし、国王急逝の報を受け、この計画は頓挫していた。それが王国王位継承紛争の終結とともに、マルティエス砦湖畔で再燃することになる。
結果からいうと、彼の内燃機関は完成しない。むしろそのバカさ加減に嫌気がさして、また人生を見つめ直すことになるのだが、それもこの船上の会話から半年も先の話だ。
○
そして、話は前章の続きに戻る。
王国王位継承紛争はアドリアナ方の勝利で終結。王国軍はゴルドバ城塞周辺の各砦に常備兵を戻し、主力は各地へ帰還していた。アントワーヌの兵も領内へ撤退し、天ノ岐ユウとタモン、リリア、アンジュの四人だけが王都にいる。タモンは情報収集に走り、リリアは王城に、アンジュは変わらず伝令をしている。
「クラインさまの裁判ですけれど、お聞きになりました?」
アンジュは公営宿舎に取ったユウの部屋の扉を開くなりいった。
「アンジュさんよ」
「なんです?」
「君は家に帰らなくていいのかい?」
アンジュは国粋派という身元を隠さなければ逮捕される可能性があり、そういうバカなことをしたことが実家に露呈したら父親に殺されるという理由でアントワーヌに身を寄せていた。継承紛争で勲功を立てた彼女からはその危険も去っただろうから、こんな雑用をする必要はない。
「元の貴族さまに戻った方が気楽でしょう?」
「それが、そのことも聞いてくださいよ」と手を振って困ったように笑う。「それがですね、リリアさまにもいわれて、一度ご実家に顔を出しておきなさいって。父母が心配するからって。で、帰ったんですよ。それで事の顛末を話して、いまはリリアさまの護衛をしています、といったんです、父と母に」
「世話役ではなくて?」
「なにいってんです。わたしはリリアさまを暗殺者から守るために、こうして変装してお傍に寄っていたのです」
「そうなの?」と訝るユウに、アンジュは「そうなのです」と力を込めて返す。
「でね、それをいったら父上ったら大喜びで。ほら、アントワーヌっていったら、帝国の大貴族ですし、コルト候やアドリアナ陛下とも昵懇で、いまや王国民の話題にのぼらない日はないじゃないですか」
「じゃないですかっていわれても困るけど」
「わたしみたいな場末の貴族からすれば雲上人ですよ、本来」
「それも知らんけど」
「それで、わたしの株も爆上がり、絶賛急上昇中です。生まれてこの方、あれほど褒められたこともありませんでしたねえ」
「おまえの褒められた歴もどうでもいいよ、帰るのか、帰らないのか」
「ユウさんはせっかちですね」とアンジュはいい、「それでね、ウチのことはいいから、リリアさまのお傍付きを続けなさいって。本当はわたしも王国騎士士官候補だったんですけど、リリアさまが陛下に取りなしてくださって、正式にリリアさまのお傍付きになったわけです」
「波乱万丈だなあ、アンジュちゃんの人生も」
「ユウさんほどではありませんけどね」腰に手をやって笑い、一頻り部屋の空気を震わせると、「ところで、最初の話ですけれど、クラインの判決、聞きました?」
「終身刑になっただろう」
「そうなんですよ」とまた笑う。「でも、ランボランユじゃないんですよ。遠島だそうです」
「遠島ねえ」
「まだ場所も決まってないらしいんですよ。知ってます? 王国って北は王都、西は商業都市があって、東は避暑地、南は行楽地なんですよ。どこをとっても、罪人を送る、という感じの地域じゃありませんよね」
「内海の中央部付近に島があるって聞いたけれど、そこはどうなの?」
「内海の島?」アンジュは瞬きを繰り返してから思い至ったのか、全身を震わせた。「ユ、ユウさんたら、ご冗談を。内海の中央列島は禁忌の地です」
「禁忌?」ユウは身を起こし、アンジュを見据えた。「海賊がいると聞いたけれど、禁忌の地なのか?」
「ユウさんはまだまだアステリアの風土史に無知ですね」とアンジュに哀れむような眼を向けられて、ユウはムッとする。
「中央列島というのは鬼の住む島なんですよ」
「鬼?」
「それはそれは、恐ろしい鬼です」とアンジュは真面目な顔でいう。「中央列島に近づいて沈められた船は数知れず、数年前にスレイエスが数十隻の水軍を擁して討伐に向かったのですが、帰ってきたのはほんの数隻。それもボロボロの状態で、海に浮かんでいるのが不思議なくらいだったとか。後日、スレイエスの地には塩漬けにされたスレイエス将校たちの死体が送られてきたそうですよ、きゃー」
と両手で口元を覆っている。
「ずいぶん楽しそうだな」
「楽しくありませんよ、おっかないでしょう」
人差し指を振り、
「他にも、中央列島に近づいた船はその島を望遠して、逆さ吊りにされた人間の死体を見たという噂もあります」
「それはずいぶんとおっかないねえ」というユウは気がない。「でも、それほど恐ろしいところなら、罰としてはちょうどいいんじゃないの?」
「鬼を引き連れて復讐に来るかもしれません、クラインのやつが……」
「それも楽しいじゃないの」
「楽しくありませんよ」
「ともかく、列島全島に鬼さんがいるわけではないでしょう。適当な一個に放り込んでおけばよろしい、とリリアにいっておけ。それほど恐ろしいというなら、アントワーヌが船を出すともいっていい。それと、これがアントワーヌから出た案だとわかると角が立つから、陛下からいってもらった方がいい。リリアと陛下が二人きりになるときはある?」
「ああ、午後のお茶のときなどは、ありますねえ」
「では、そのときにでも、それとなく伝えてもらえれば」
「わかりましたけれど」アンジュは頭を抱えて「ユウさんは滅茶苦茶なことを平気で口にするんですからねえ。アントワーヌの人たちは大変でしょうよ」
「ほほー」とユウは嘲笑して、「それは認識しています」
アンジュがぶつくさいいながら公営宿舎を出て行ってから数日後、クラインの内海送りが決定したとの報が王都を駆け巡り、民を震撼させた。
「へ、陛下がそこまで本気だったとは……」
「アドリアナさまも恐ろしい方ですわ」
などと、街角では噂が絶えない。
ユウの認識では、中央列島にはレオーラ大陸と同じ人間がいて、商業船を襲っている、という程度のものだった。ハルがそれくらいの調子で話していたからだ。もしかしたら、本当に鬼という生物が中央列島にいるかもしれない。
「おりません」とタモンはきっぱりという。「鬼、というのは、コスヨテリ西方に在住する巨人族の罪人を現わす言葉であって、中央列島にいるのは我々と同じ、いわゆる共人族です」
「それがなぜこれほどの恐慌を呼ぶんだ?」
「レオーラではよく子供がいうことを聞かないと、鬼が来るよ、といって怖がらせるものなのです。元々、鬼というのは巨人族の罪人といいましたが、それと中央列島の野蛮人たちが混同されているのが現在の状態でございます。レオーラ大陸沿岸部であれば、それほどの思い違いも少ないのですが、内陸に行くほど、この傾向は強くなりますな。なにせ、王都にすら海を見たことのない人間がいますからの」
この後、ハルからも同じ回答を得てのち、ユウは宿の女将さんと世間話をしている。
「中央列島というのは、それほど恐ろしいところですか?」
「恐ろしもなにも、バケモノの巣窟だっていうじゃないの。ユウさんだって聞いたことがあるだろう?」
「聞いたことはございますがねえ、それでも人でしょう?」
「それが違うらしいんだよ」と女将さんは声をひそめた。「真っ赤な肌をして、目がぎょろぎょろしてて、身長は三、四メータは軽々あって、小舟も棍棒の一撃で沈めちゃうんだって」
「それはバケモノですなあ」
その後、酒場などを回って数人に訊いたが、ほとんど変わりない話の連続であった。人間とは周囲の論調に引かれやすいのか、一度刷り込まれた情報は刷り込まれたという意識もないままに鵜呑みにしてしまうのか、ともかく、そういう生物らしい。
「女将さん、長々とお世話になりました。おれはそろそろ行かなければなりません」
「あらあら、戻ってきたと思ったら、忙しいんだねえ」
「東奔西走というやつでございます」
「王都に来たら、また寄っていってねえ」
手を振る女将さんに手を振り返し、ユウは小雨の中、セキトを西へ飛ばした。
○
クラインの内海島送りが決定する、その過程の話である。
「確かに」とアドリアナは最初、渋い声で難色を示していた。「中央列島の南端は王国の漁師たちも使っているといいます」
「定住している人たちはいないのですね」リリアは宙を眺めながら呟いていた。「わたし、中央列島には鬼が住んでいるのだとばかり」
「大型の人類はレオーラとその近海にはいません」とアドリアナはきっぱりという。「エルサドル半島の先の小島は、中央列島勢との緩衝地帯、といったところです。王国の民が海の向こうまで進出したとして、その土地を維持することも、進出した人たちの命を守ることも、いまの王国の海軍力ではままなりませんから、その事業にはまったく手を付けていないのです」
仮想敵が海の向こう側にいないいま、王国の海軍力というのは遭難者を探す程度の組織しかなく、船舶同士火花を散らして戦う、という域にはまったく達していないという。
「海賊たちも、王国を警戒しているのか、エルサドル半島付近に接近してこようとはしません。王国側もいたずらに彼らを刺激しようとはしてきませんでした」
それを、とアドリアナは歯を噛みながらいう。
「その拮抗を、兄とその監視兵をエルサドル半島の向こうに送ることによって崩してしまうかもしれません」
アドリアナはさらにいう。
「陸戦では勝てる自信があります。海賊と戦うことになって、エルサドルの町に被害が出ることはないでしょう。しかし、彼らの商船が交易に出たとき、襲われる危険が高まることになります」
「そういう、危惧があるのですね」と、リリアはまだぼんやりと中空を眺めていた、その目をアドリアナに向け、眉をしかめた。「いやあ、申し訳ありません。ユウさんが適当なことをいって」
「いいえ、いいのです。天ノ岐さまがおっしゃる通り、王国内のことだけを考えれば、中央列島に兄を送れば済むことです」
曇天の空に鋭い視線をやった、その顔が険しい。
「わかりました」とアドリアナは神妙に頷き、「これは王都にある組織だけで決められることではありません。エルサドルにも一報してご意見を伺いましょう」
エルサドルの大商家タッソー老はこの報を受けて、すぐさま五家を招集、議会を開いた。
「わしは良いと思う」とタッソーはいう。「そろそろ王国の民の目を内海に向けさせるべきだ。いまの時代になってまだ、鬼の住む島などという者がおる。これはよくない。奴ら海賊は我々と変わらない共人族であり、襲っているのは我々の富であり、王国の富だ。そろそろ王国は本腰を入れて、それを守ることを考えるべきだし、考えさせるべきであろう。その一手として、今回のことは吉報である」
即日議決を得て王都に伝わり、王都の司法卿もこれを認め、クラインの幽閉地が決定された。
「現地の方にはもう連絡をして、建屋その他の準備を整えているとのことです。護送の方はリリアに一任しますので」
「はい、アニーのお兄さま、必ず無事にお連れいたしますわ」
クラインの護送隊列とともに、リリアも王都を去っている。
○
アントワーヌ船は現在、商船として用いられているが、元は貴族の私艇であったために貴賓室や居室は瀟洒なものが揃っている。高貴な階級の人間を乗せるのになんの気苦労もなかった。
その貴賓室の扉を、ユウは叩いている。
薄く開いた扉の向こうにいた守備兵はユウを一瞥して、彼を中へ導いた。部屋の奥、エルサドルの波止場を眺められる飛び出し窓の前で、一人の男が椅子を揺らしていた。ユウに気づいたふうであったが、まったく振り向く様子もない。
「お久しぶりです、クライン閣下」
「まさか」とクラインは椅子の揺らぎを落ち着けて、ようやくユウを見た。「ぼくを捕らえたその張本人が、こうして恥ずかしげもなく現れるとはね、思ってもみなかったよ」
クラインが守備兵に視線をやるのを見、ユウからも彼に合図を送って、席を外させた。部屋の中には二人だけがおり、ユウは手近な椅子に、ど、と腰かけた。
「クラインさん、とお呼びしてよろしいですか?」
「いいよ。ぼくはなんの爵位もない、一般平民だから」
「そんなそんな、お人が悪いなあ、おれが剥奪したわけじゃないんですよ」
ユウは愛想笑いをして、
「別に、おれはクラインさんに恨みがあって戦争に参加したわけではありません。帝国と親しくなられると、アントワーヌの身が危ういために戦っただけで、むしろ、帝国と同盟を結んで王国の延命を図ろうとしたクラインさんの政治姿勢には同調するところがあります」
「わたしが戦ったのは、王国民に己の無知と脆弱さ、世界の広さを思い知らせ、国威を発揚させるためであったが、脆弱さを思い知らされたのはわたしの方だった。うぬぼれて侮り、準備を怠り、アントワーヌという駒を見落とした」
「国威の発揚、ですか」
「集合晶術を用い、王国軍を壊滅させることで帝国にはこれ以上の技術があり、それを知らなかった人民に無知を教え、改めてわたしが彼らを導き、いずれ帝国を上回る国力を得るつもりであった。そのためには、一度王国軍を壊滅させなければならない。その役目がファブルや帝国であっては占領される可能性もあり、王国に再起の目はない。だからこそ、アドリアナに挙兵させ、わたしが叩くはずだった。そういうことだ」
「なるほど」とユウは呟いた。その音は、クラインの口から聞くべきことを聞いた満足に満ちていた。「いいたいことはわかります。しかし、おれにはアントワーヌを守る、という信念がある」
「ぼくはその信念一個に負けたのさ」とクラインは片手で宙を扇ぎ、「どうせ、この船に乗ることになったのも、君の手引きだろう? アニーが、中央列島なんて、気のきいたところを思いつくはずがないよ」
「おれはいずれ海賊の力も借りたいと思っているのですよ」
「ほう」と初めて、クラインの眼鏡の奥の瞳が淡い光を灯した。「なかなか興味深いことをいう」
「いずれ、帝国と戦いになったとき、海上封鎖できるのは有利でしょう? ところが、王国には海軍力がない。これでは逆に封鎖されて戦略の取り方がないわけですよ。ファブル、スレイエス、海上の三方から攻め込まれたら、ただでも厳しい戦いがより厳しくなります」
「そうなる前に一つずつ帝国の腕を切り落としていく、ということか」
「いずれ、スレイエスも、ファブルも、別個に叩いて、海上を封鎖すれば、帝国は干上がって戦いにもならないかもしれません」
「そうかもしれないが……」クラインは片手で卓の上に頬杖を突いて、片手はその指先で天板を叩いている。「いったい、どうやって海賊たちと仲良くなるつもりなのさ?」
「戦って勝ちます」
「この船でか?」と嘲笑して、「無理だ」
「そう思いますか?」
「例え集合晶術を駆使しても無理だね。彼らは百戦錬磨の海の戦士だ。潮を知り、風を知り、地形、気象、海の生物の様子まで熟知し切っている。一歩、海に出れば彼らの庭といっていい。君は利口なようだから、海上の地の利の優位性がどれほどのものか、理解していると思うが?」
「そりゃね、地の利は向こうにあるでしょうよ、しかし、おれはこれから自走船を作るのです。その機動力と集合晶術の威力でもって、海賊に立ち向かうのです」
「自走船」とクラインは眉をひそめる。「どうやって?」
「例えば、水が沸くと蒸気が出るじゃないですか。その圧力を利用して歯車を回したり。火薬の爆発力でピストンを回したり」
「そういう研究も、あるにはあるが……」
「あるんですか?」といったユウの声には少なくない驚きがあった。「すでに内燃機関が」
内燃機関は原始的な装置で、地球でも簡単な蒸気機関なら紀元二桁年に実証されているという。
「この世界にあっても不思議ではないか」とユウは顎を擦りながら呟いている。「しかし、実用化されていません」
地球でも実用化が千八百年頃なのである。
「それは、実用化する必要がないからだ」とクラインはいう。「君の世界がどういう状況であったのか、ぼくはわからないが、この世界ではスフィアの方が様々な面で効率が良く、研究する価値、投資する価値がある。君がいうように、蒸気機関には相当の力があるのだろう。しかし、それにしても十年や二十年の研究で得られたものではないはずだ。我々もヘリオスフィアは古くから使っていたが、研究、という段階に至ったのはつい最近、人工的にヘリオスフィアが生成できるようになってからのち、ここ三、四十年間くらいのことだ。さっきもいった通り、蒸気機関の可能性は認める。しかし、ぼくらはスフィアの方が可能性があると信じている。だから、蒸気機関はあまり発展していない」
ユウは息を詰めて、鼓膜を揺する声に耳を澄ませていた。
「そ、そういうものでしょうか……」
「研究というのは、好きなものを追求することだけれど、技術発展というのは需要に比例するものだ。スフィアには需要がある。蒸気機関にはない、いまのところはね」
「恐ろしいことです」
「なにが?」
「あなたの知性が」ユウは立ち上がって卓を叩き、「クラインさん、アントワーヌに力を貸してくださいませんか?」
「はあ?」と片眉を下げて、背もたれを軋ませた。「ぼくを負かしたアントワーヌに? なぜ?」
「あなたの才能を眠らせておくのは、王国にとって果てしない損失だからです」
「褒めてもらえるのは光栄だけれども」
「それがですね、ウチには法律関係に強い事務官がいないのです。いまはコルト候に寄りかかっている始末です。それに数字に強い人間もいなくて。そりゃ、商品の数や金の出入りは計算できますし、家の設計図を描いて縄張りして建築することだってできます。しかし、どこに誰と何をどれくらい置いて、いつどれくらいなにが消費されて、どれくらい補充しておけばよいのか、とか、予測計算する人がいない。要するに兵站に関わるところ、事務方の辺りに途方もない弱さがあるのです。今回、王国王位継承紛争は後方に王国軍がいましたし、短期決戦になるのはわかっていましたから、大した問題にしませんでしたけれど、これから各地方に散っていったり、数か月を要する戦いになれば、数字に強い事務向きの人間がどうしても必要になってくるわけですよ」
どうしても、とユウは繰り返して、卓を激しく叩いた。
「おれには、クラインさんの才能がほしい」
ユウはクラインの丸くなった目と視線を絡めて、じっと見返していた。眼鏡の奥の瞳は窓外に転じられて、部屋には沈黙が張り詰めてゆく。
「ぼくには」とクラインは呟き、さらに充分な一考の間を置いてから「ぼくにはそういう自由はないはずだけれど」
「なぜ、おれが人の少ない中央列島にクラインさんを送るのか、その意味は理解しているはずです」
「君も人が悪いな」と再び考える仕草をし、「まあ、そうだな」とまた呟く。
「では?」
「一つ、条件がある」
「どういう?」
「リライトに一人、会いたい人物がいる」
「会いたい? 女の人ですか?」
「なにをバカな」と一笑に伏し、「もし、君がその志を持って、その一人を説得してアントワーヌに引き入れることができたんなら、ぼくは君に協力しよう」
「どういう人です?」
「ヘリオスフィア研究科で、ぼくと同期だった技術者の男だ。間違いなく、王国で最も才能ある人間の一人だ」
「技術者? もしかして……」
「彼はヘリオスフィアによる大型船の自走原理を確立させている」
「本当?に」とユウは喝采を挙げて両手を打ち鳴らした。「す、すごい、すごいことです、そんな人がいるんですか?」
「いる。いるけれど、ひとつ問題がある」
「問題?」
「信じられないくらいの偏屈者なんだ」
○
リライト。
王国きっての学術都市というだけあって、その筋の施設の大きさと数は途方もない。王立高等学校、同研究所、同大図書館はリライト三大建築と呼ばれ、敷地面積はどれも外周を走れば一日の運動に足りるであろう。その他、私塾、貸本屋、学生向けの飲食店の数も並みではなく、住居はアパートふうの集合住宅ばかりで、一軒家はすこぶる少ない。
「ここが学術都市リライト」
久しぶりに空が抜けて、青さがある。にもかかわらず、広い目貫通りには、指で数えられるほどの人数しかいない。ゴーストタウンの感さえある。
「昼間はみんな学問に励んでいるんだよ。夜は酷いものさ」
街角の陰に隠れていたクラインがいう。頭から外套を被っている上に、目元を仮面で隠していて、顔色もはっきりとしない。
アントワーヌ船は舵が故障していることにして出航を差し止めている。その隙にクラインを連れ出し、留守の間の貴賓室はタモンに任せ、たったの二人で三日ばかり馬を駆けさせてここまで辿り着いた。あと、クラインの脱走を知っているのは、船の管理をさせているハルだけである。あの女は、利のためであれば多少の危ない橋は渡るところがある。
「味方すら騙すとはねえ」
「リリアに嘘をつかせると、彼女の品位に関わります」
アントワーヌの威光にも関わってくる。
「悪党はおれ一人で良いのですよ」
「はは」とクラインは薄く笑い、「君はぼくに似ているかもな」
来い、とクラインは街陰の濃い方へ足早に歩いてゆく。ユウは駆け足でその背中を追っていった。
町の様子は王国好みの象牙色の石壁に赤瓦の屋根。通りの石畳も象牙色で、表面はなめしたように美しい。その足元がなんだろう、徐々に荒めの凹凸を現してゆく。併せて、ひさしも深くなり、道は細くなり、壁は圧するように迫ってきて、路上の日差しはまったくないほど暗くなってきた。やや広い通りに出ても建物の陰で薄暗く、なにやら饐えた臭いまでするのは気のせいではなさそうだ。床壁は所々、黒ずみ、赤黒い染みもあり、落書きなどはないところの方が少ないかもしれない。路端に数人がたむろしてしゃがみ、笑みを浮かべて手を振っているものの、その瞳は焦点が合っていないように見える。
「これはなかなか」治安の不安になるところである。
「学問の都といっても、若者の集まるところだからね。どうしてもああいう輩がいて、こういう地所が生まれる」
「こんなところに王国一の天才が?」
「彼も世を儚んだ類の人だから」
空が細い。暗い路地の軒の合間に見える細い青空が、ごうごうと唸りを上げていた。綿雲が風に煽られながら流れてゆく。
ふ、と視界を前に戻すと、クラインの姿がない。
「クラインさん?」
「こっちだ」とクラインが建屋と建屋の間から顔を出した。半地下に降りる階段があるらしい。細長い石壁の廊下の片側に点々とヘリオスフィアの灯火があった。
陰気でカビ臭い。
「なにをぼんやりしていたんだ?」
「別に、なにというわけではないですけれど、空を眺めていたんです」
「空?」ちら、と空を見遣り、「なにか珍しいものでもあったのかい?」
「なにというわけもないといったでしょう? ただ、空で風が巻いているような気がしたから」
「風か」とクラインは笑う。「大きな換気扇があるはずだ。その音だろう」
「換気扇?」
「大きな窯のね。あいつはまだ生きてるらしい」
「窯を焚いているんですか?」
「焚いているらしいね」
クラインは半地下の廊下を歩いてゆく。適当なところで足を止めたのは、左手に扉があったからだ。薄闇の中でやや見にくいが、なかなか重厚な黒鉄の扉だ。
「ちょっとやそっと叩いても反応がないでしょうね」
「そうだ。ちょっとやそっと叩いても反応がない」
クラインは傍においてあったらしい柄の長い金槌を両手にしていた。片手を柄の端に、片手を槌の傍に据えて、力の限り、鉄扉を叩いた。凄まじい反響音が廊下にこだまし、耳を弄する。ユウは耳を塞いで、喧騒が行き過ぎるのを待った。これほど叩くものか、といささかの驚きをもって、クラインの狂乱を眺めていた。
「おい」と金槌を降ろして、クラインはいう。
「いるんだろ、カルヴァン。さっさと開けろ」
ぎ、と音を立てて、薄く鉄扉が開いた。血走った片目がぎょろぎょろと廊下を窺って、目の前の人物を見つけたらしい。
「誰だ?」としわがれた男の声がいう。
「ぼくだ、クラインだ」
髪をやや振り乱しながら仮面を剥いだ彼の顔を認めたのか、声と台詞から本人と断じたのか、血走った目は驚愕に揺れた。
「てめえ、死んだもんだと思ってたぜ。戦争に負けたって聞いたからよ」
「恩赦があったのさ。しかし、これから島流しだよ」
「そうか、そりゃよかった。元気でやれよ」
じゃ、と捨て台詞を残して、閉じようとする鉄扉の下に、クラインは金槌の柄を忍び込ませた。鈍い音と木片を散らせた。
「話がある。ここを開けろ」
「イヤだ」
「ならば致し方がない」
といったころには、クラインの手元が光って、その光は鉄扉の間に吸い込まれていった。閃光と悲鳴が漏れ出して、もうもうと煙が噴き出してくる。すぐにクラインが鉄扉を引き開いた。
「大人しく開けないから、こういうことになる」
「こういうことをするから失脚するんだぜ、このド畜生が」
煙の中で四つん這いになった男は寝間着なのだろう、緩い綿の上下を着て、せき込んでいる。床に落ちたメガネをかけた顔は病的なほど青白いが、腕や足の骨格は細くとも筋肉の張りがわかるほど発達している。配管整備などの力仕事の意外と多い、いわゆるヘリオスフィア技師にはよくある体つきだ。
しかし、陰気な部屋だ。
明かりは廊下よりわずかに明るい程度しかなく、三方の石壁は煤けて、残りの一方はどういうわけか土砂が積んである。中央には貧相なテーブルが一卓、椅子が二脚。隅に設えられた棚にあるガラス器具やらなにやら、実験道具だけが、美術品のように美しく並んでいる。
奥に扉が二つ。右手は入口と同じ鉄製、左手は木製。
「右手に実験室があり、左手が住居なんだ」とクラインが応えたのは、住人が黙然としていたからだ。「彼はカルヴァンという。前にもいったけど、大学のヘリオスフィア研究科で、ぼくと同期だった」
紹介された彼はすでに椅子の上。素足を突っ込んだサンダルの裏を見せるように足を組んで、腕も組み、憮然としたまま俯いている。
ユウは残りの一脚をクラインに譲って、二人の対面を眺めていた。
「彼は天ノ岐ユウ」とクラインが紹介してくれる。「聞いたことがあるだろう? コントゥーズの傍に領地を得たアントワーヌの差配人だ」
「だから?」カルヴァンはまだまぶたを開くことすらしない。
ユウは半歩前に出、
「あなたがヘリオスフィアを使った自走船の理論を持っていると聞きました。ぜひ、アントワーヌの力になっていただきたいのです」
アントワーヌのこと、帝国のこと、船のこと、商社のことを聞いたカルヴァンは細い、というか、鋭い目をわずかに開き、鼻からため息をこぼした。
「船のことなどおれに訊くな。おまえが考えろ。おれは考えないクズとは話をしない」
「彼は彼なりに蒸気機関がいいのではないかと考えたんだ。しかし、それではこの世界では成功しにくいと、ぼくが諭してね」
「なるほど、ただのバカではないということか」とカルヴァンは嘲笑する。「世の中に液体と呼ばれるものは数あれど、水、というのは特殊な部類に入るんだぜ。とてつもなく沸点が高いし、温度も上がりにくい。その蒸気で歯車を回し、船を動かそうとするととんでもない量のエールを消費する。残念だが、真っ当な手段とはいいがたい。油を発火させれば多少効率が良かろうが、半端な炉ではすぐさま吹き飛ぶ。それだけの製鉄技術がアステリアにない」
「さすがに、お詳しいですね」
「当たり前のことをいうな」と吐いただけでそっぽを向いてしまった。代わってクラインが応じる。
「実際のところ、船舶の自動化も、高圧炉も、燃料の研究も、大学、研究所を始め、エルサドル五家でも行われているんだ。炉の研究は人人工ヘリオスフィアに必要だし、燃料の研究はヘリオスフィアの代替品として研究されている。船舶においては現行、後部にスフィアを置いて、風や水を召喚し、任意の方向への推力を得るという方法が主だ」
「そういうことはハルから聞いたことがあります。喫水が深いと水の抵抗が増え、必要な推力も多く、現行の手段では無理だと」
は、とカルヴァンは鼻で笑って、またそっぽを向いた。爪先は頻りに床を叩いて、椅子の足が上下している。
「どうするのです?」
「既存の方法でいい」
「でもそれでは推力が足りないと」
「晶機というのがある。照明や冷暖房がそうだが、元はひとつの起動機で複数のヘリオスフィアを稼働させる装置のことをいう」
「そうなのですか?」とユウはクラインを見る。
「ひとつの晶源で複数の明かりがつくというのは、そういうことだ」
確かに、ユウは帝国のアントワーヌ邸でも、王国のバーナード邸でも、シャンデリア状にヘリオスフィアが配された晶機が晶源ひとつで灯るのを見ている。
「では、複数のヘリオスフィアを連結させて使え、と?」
「そう思うならそうすればいい」と応じるカルヴァンの顔は不愛想で、とてもユウが正解を言い当てたとは思えない。
「実験をしたいのは山々ですが、おれはヘリオスフィアが使えませんからねえ」
「ぼくの口からいわせてもらえば」とクラインが笑いながらいう。「百点満点中五十点だ」
「まったくダメ、ということですか」
「ヘリオスフィア一個ずつの起動では足し算の出力しか得られない。一方、掛け算の出力が得られる詠唱方法を集合晶術というわけだ。集合晶術を行使する晶機はまだ発明されていない」
「あと五十年はかかるな」
「しかし、自走船は五十年も待たなくてよろしいのでしょう?」
「おまえの頭でもな」
「辛辣ですな」ユウはやや呆れ始めている。「後生ですから、教えてくださってもいいでしょう?」
「塗ったんだよ」と唐突にクラインがいう。
「塗った?」
「ヘリオスフィアは小さな粒になっても、その効果を失わない。例えば、指輪につけるくらいに加工しても詠唱できる」
「確かに」とユウは顎をつまんで唸る。リリアの指輪もマナクリスタルで、詠唱も充分できる。「細かいヘリオスフィアを塗料に混ぜて船底に塗れば晶源一個で船底に推力を得られるわけですね」
「そう」とクラインが頷いた。「あのときは水を弾かせたっけ?」
カルヴァンは唇を尖らせたまま、応えない。
「あのときっていうと?」
「大学のときにそういう課題があったんだ。自走船作成の課題だったけれど、どういう構造が最も高効率かって話さ。だいたい、みんなスフィアを船尾のどこに配置するか、とか、船上に覆いをかぶせる、とかだったけれど、カルヴァンは画期的でねえ」
「違うな。他が無能だっただけだ」
「カルヴァンが話さないからぼくからいうけれど」とクラインが話を預かる。「晶源に細工すると、スフィアが水を弾くようになるんだ。その方向も任意で決められる。例えば、前方から後方へ、水を弾くようにする。そうすると反作用によって、船体は前に進む。しかし、前方にはまた水があるから、これを後方へ押し退けようとする。水がある限り、塗装が剥げない限り、永遠に進み続けるし、喫水が深くなっても、海水と船底の接触面が増えることで、むしろ船は加速する。この方法なら既存の技術で、船舶を改造する必要もなく、かつ、高効率で航行できるわけさ」
「はああ」とユウは感嘆した。「そんな方法があるのに、なんでいままで黙ってたんです?」
「あの課題はカルヴァンがいじけて提出しなかったんだ」
「おれはいじけたわけじゃない。あんまり世間がバカだったからだ」
「こういうんで、仲間内だけで実験したのさ。結果は圧倒的だった」
大学にある池に両手に抱えるほどの大きさの木船を浮かべて実験したそうだ。相手は当時高効率とされた船尾にスフィアを備えたタイプ。スフィア塗装船は向かい風をつかむだけの帆をむしり取って、ただの材木と同じ形をしていたという。結果を目の当たりにした仲間たちは歓声を上げ、手を叩き合い、しかし、カルヴァンだけが気に入らなさそうに、憮然と腕を組み、クラインたちはその背中を叩いて、喜びを分かち合おうとして怒られたともいう。
セピア色の景色の中に、若かりし日のクラインやカルヴァン、その仲間たちの姿が目に浮かぶようである。
ふと、ユウは目頭が熱くなるのを覚えた。己の無知さ、軽率さ加減に、である。
ユウは西暦二千年あまりの地球の方がこの世界より技術的に優れていて、地球の原理原則を応用すれば様々な改革を起こせるものと思っていた節がある。だが、違った。自惚れである。
この世界にはこの世界の原理原則があり、それをまた学び、吸収し、応用していかなければベストな手段は得られない。それも理解せず、蒸気機関や内燃機関の話を恥ずかしげもなく、得意気に話していた己を呪った。
なんと恥をさらしたことか。その無様な恥知らずの言動を思い返すと反吐が出る。クラインたちの思い出と、この世界の技術発展に貢献してきた億千の英霊たちに侮辱の泥を塗ったような気さえしてきた。
「おお、おれのなんと間抜けなことか」と愚劣さを罵り、声を上げて泣いていた。
この世界に来て以来、何度かこういう思いを繰り返している彼である。
「なんなんだ、こいつは」
「ぼくもよくはわからないが……」
で、とようやく気持ちを切り替えたユウは、目頭を押さえながら、震えた声を出した。
「それ、実用化されなかったんですか?」
「考案者がこれだからね。みんな胸の内に仕舞ったわけさ」
「おれは勝手にしろっていったのに」
「あのとき、この技術を使って起業しようという話もあったが、ぼくは実家のことがあったし、カルヴァンもこれだから、ついに果たせなかったな」
しみじみというクラインを前に、ユウはテーブルを叩き、
「おれがやります」と気炎を上げて、鼻水をすすりながらいった。「おれが、二人の夢を実現させます」
「あのな、よく聞いてなかったみたいだから改めていうが、おれの夢ではない」
「いいじゃないか。バティントンやレナードだって、いまから声をかけても集まってきてくれるよ」
「集まってもいいが、おれはまったく関係ない。勝手にやれ」
「では聞きますが」とユウは前のめりにいう。「カルヴァンさんの夢とはなんです?」
卓上の二人は見つめ合って、カルヴァンは俯いた。クラインだけが力なく笑っている。
「地中からエールを抽出しているのさ」
〇
「地中からエールを抽出するんですか?」
ユウは首を傾げる。
「人工ヘリオスフィアは空気中のエールを使うのだと聞きました。天然物は採掘されてるとも聞きましたけれど、抽出というと、それとも違うんですね?」
「彼は地中にあるエールを使って、人工ヘリオスフィアを造る研究をしているのさ」
「ははあ」とユウは顎を擦る。「なんとなくわかってきましたよ」
エールがアステリアの気温を保っていることはユウも知っている。作中でも何度か出た。人工ヘリオスフィアの製造は空気中のエールを大量消費する。そのスフィアは人の生活の中で火や水に形を変えて消化されるから、エールは減る一方である。そのために凄まじい勢いでアステリアは冷却されているのだ、とよく結論される。
「地中のエールを使えれば、それがない、と」
「エールは地中にも蓄積されていて、凝集すると鉱石に吸着する。植物は土中に吸着されているエールを吸い上げているわけだ。少量のエールならどこの土にも含まれている。総合すると、気中より地中のエールの方が多いともいわれている」
「しかし、抽出方法がない、と」
「そういうことだ」
「それでアステリアの環境を守ろうとおっしゃる」
ユウがいうと、クラインとカルヴァンは目を合わせて、カルヴァンは嘲笑しつつ目を伏せた。クラインが身を乗り出して、
「環境を守るとはなにか、という話になる」
「なにといわれても……」
「ユウくんは賢いから知っているだろう。それと、君の前いた世界とこの世界がさほど変わらないらしいのも、君の発言からよくわかる。ということは、環境が長い歴史の中で一定していないことはわかるね?」
「当然わかります」
「アステリアでは氷河期があり、温暖期があり、いまは温暖期だ。植物発生、つまり、地上生物発生以来、数億年、これほど気温が高かったのはほんの三割の期間に満たない。つまり、惑星の記憶的には、いまはまだ暖かすぎる。ジョゼがマナを解放して以来一千年の間ね。アステリアは、人間でいえば、ずっと平熱以上だ」
ユウはぎょっとし、目を見開いた。
「わかりますか、そういうことが」
「植物の化石を見れば容易にわかる。気温と大気組成によって彼らは呼吸の方法を変えているからね」
クラインは組み合わせた指を膝の上に置き、
「大衆が守るといっているのはこの温暖期のことだ。果たして、温暖期とは、アステリアにとって自然な状況かどうか」
「正確じゃない」とカルヴァンが組んでいた足を解き、卓にのめった。「観測史上最も気温の変化が激しいと予測している状況のことを恐れている」
「それはぼくもわかってる」とクラインは手のひらをかかげ、「いまは話を簡単にしたい」
ユウに向き直って続けていう。
「これで、環境を守る、という言葉が無意味なことはわかったと思う。しかし、このままでは人間がこの世界で生きていくには苦労が多いだろう。正直な話、生活環境を良いように整えなければならない。気候の変動を緩和させて、人間と自然の間で、いかに折り合いつけるか」
「そのために地中からエールを抽出しようとしているのですか」
カルヴァンが口を開きかけたが、かろうじて黙り、顔を背けた。クラインはそれを見て笑い、
「この男は世界を救おうって善人でも熱血漢でもないよ。ただ自分の理論の実証と知的好奇心のためにしているだけで、地上に出ないのは人間が嫌いだからだ」
「なるほど」とユウは頷く。こういう質の人間は得てして大衆がバカに見えるものだ。だから人を嫌う。
「大衆の九割までが、無知なのにそれを補おうともせず、怠惰で傲慢で、大きな声を出すだけの我儘な無能者の集まりだと彼は思っている」
「違う」とカルヴァンは手のひらを振り、「九割九分九厘だ」
「こういう男だ」クラインが呆れたように肩を竦める。
「おれがいってることは間違ってるかもしれない。あいつらが結局正しいかもしれないよ」とカルヴァンはクラインに詰め寄ってゆく。「おれが奴らがバカだといってるのは人から聞いた話を鵜呑みにして、一切の検討を怠っていることだ。少し考えれば、最善の自然環境というのは、人類がなにもしないことだ、ということはわかる。それが自然という定義だからだ。それをバカな人間たちは自分たちが自然よりすぐれたものを作れるとか、管理できるとか、不可能な妄想を押し広げて干渉しようとしてまたややこしくしている。この世界を何億年生きて合理化された流れに、数千年の歴史しかない人類がその叡智を賭けたところで、勝てるわけない。それに、自然環境というのは人の助けなど必要としていない。自活できる。どんなに崩れたように見えても回復できる、というか、その崩れた状態もまや自然環境だ。回復などない。人間はそれをまったく理解していない。にもかかわらず、いらないことを平気でして、したり顔をするバカ野郎どもが嫌いなんだ」
「しかし、人類は生きていく以上、環境をどうにかしなければいけないでしょう?」
住む家もいるし、田畑も作らねば、最低限の生活もままならない。これに各種インフラと利便な機器も現代社会には必要になってくる。世界に干渉しないというのは現実的に不可能だ。
それをいわれて、カルヴァンはムスッとして卓に頬杖をついた。口元はかたい。その様子を見たクラインは、
「昔は人工物を徹底的に破壊し、地中に潜って地上には草木が繁茂するのに任せればいいと話していたが」
「あれはおれの間違いだった」とカルヴァンはため息をつき、「まだ若かったな。人工物の破壊はいい。人工物は世界の循環から外れているからな。しかし、地中の環境がわからないまま地中を開拓すればまた不測の事態が持ち上がる。環境を考えるなら、人工物を徹底的に破壊した上で、花鳥風月を友とし、採集生活するのがいいだろう。それならある程度の知見があるから予測もできる」
「徹底している」
「しかし、おまえはこうして地下に住んでるじゃないか」
「おれは環境保護にはどうしたらいいかと訊かれて答えたまでで、おれが実践するとはいってない。おれがそれほどの善人でもないし、熱血漢でもないのは知ってるだろ」
「では、本当に、学術的興味だけで地中のエールを再循環させようとしているのですか?」
「おまえ、バカか。再循環じゃねえ」とカルヴァンは怒声を発す。「地中のエールはすでに循環している。植物に取り込まれたり、火山の噴火とともに噴出したり。循環であれば、おれたちが手を下すことはなにもない。おれが目指しているのは、その数年から数千年の循環を待てないせっかちな人類のために、少しだけ埋蔵されたエールを分けてもらおうとしているだけだ。気中と同じく、地中のエールを搾取しすぎれば、また世界の均衡が崩れる。植物は育たなくなるし、おそらく水も汚れるだろう。水をきれいにしてるのは極小生物とそれに近い生態系だ。彼らは水中のわずかなエールも糧にしているはずだ。土から溶け出したエールも、な。それがなくなれば彼らは死ぬ」
ど、と小卓に前腕を乗せ、
「この世界に大切なのは均衡だぜ、アントワーヌのお偉いさんよ」
ユウの目頭が熱くなり、はぼろぼろと床を濡らすほどの涙を流した。卓を囲う二人を慄いている。
「おいおいおいおい、なんだよ、いきなり」
「こ、こんな人が王国にいて、埋もれているなんて」
ユウはカルヴァンの思想に感動したのではない。他に迎合しない、むしろ、罵って恥じず、理論を追求し、追求した果てに組んだ持論を揺るがさず、非難されてもなびかず、地下に固陋することも辞さない痛烈さに感動したのだ。
「おれは好きで埋もれてるんだよ、てめえに同情される謂れはねえぜ」
「そういうことじゃなくて、おれがこれほど激しく共感したってことですよ」
ユウは卓を叩き、
「カルヴァンさん、おれと一緒にその夢を叶えませんか?」
「イヤだ、おれは一人でやる」
「しかし、金には困るでしょう」
ぐ、と呻いたカルヴァンはそれでも顔をしかめたまま、
「金は調達できてる。おまえに心配されることじゃない」
「どうやって?」
「そりゃ、こんな街だから、色々と修理しなきゃいけない機材もあるし」
「自走船を造って彼らに稼がせるのもいいと思うけれどねえ」とこれはクラインである。試すような、意地の悪い顔をしている。
「おれは誰かに命令されるのがイヤなんだよ」
「カルヴァンさんはおかしなことをおっしゃる。おれはカルヴァンさんを師と慕うだけのことであって、命令するわけではないのです。なんなら、ここから出ずとも、時折おれの話を聞いてくれて意見を聞かせてくださるだけでも良いのです」
「イヤだ。おれは金より、一人でいる自由を買う」
「意固地だなあ」
「おれはカルヴァンさんが、うん、というまでここを動きません」
「なに?」とカルヴァンの目に火花が散った。「おまえ、不法侵入しておいて出て行かないつもりか」
「ぼくの記憶では、君、ここの居住届けを領主館に提出していなかったけれど、いまはどうなの?」
「そういう雑事に人生を使ってるから、無能が増えるんだよ。おまえらの国政が間違ってる」
「ともかくおれはここを動きません」
「勝手にしろ、このクソどもが」
ユウは言葉の通り、この煤けた一室で待ち続けることになる。
ユウは食うものもなく、飲むものもなく、日の入りも出もなく、時間の感覚を失ったまま、ただ座禅を組んで時を費やした。
カルヴァンはユウの目の前を行き来し、時折一瞥しただけで声もかけず、クラインはヘリオスフィアの照明の下で書籍を読み耽り、時折思い出したように仮面をつけて外に出、しばらくすると帰ってきて、椅子の上で睡眠を取っている。
「おい」とカルヴァンから声をかけられたとき、どれほどの時が過ぎていたのか分からなかった。すでにユウの頬はこけ、肌からは張りが失われている。
「おまえ、これ以上ここにいると死ぬぞ」
「それも良いでしょう。死体はカルヴァンさんの炉の中にでもくべてください」
「ダメだ。人間は水分が多すぎて炉の温度が下がる」
おい、とカルヴァンはクラインに目を向けた。クラインも書籍に落としていた目を気だるそうに上げる。
「おまえ、とんでもない奴を連れてきてくれたな」
「ぼくも、彼に初めて会ったとき、世の中にはとんでもない奴がいるものだと思ったよ。いや、彼は異邦者だから、一般の、世の中、というのとはちょっと違うけれど」
「異邦者か。道理で頭がおかしいわけだ」
しかし、とカルヴァンは腕を組んで首を傾げる。
「こいつ、異邦者のくせに、なんでアントワーヌなんぞの参謀をしているんだ? 一朝一夕の恩義かい? それとも権力が楽しくなったかい?」
「復讐のためです」
意外だったらしい言葉に、二人は目を見合わせて、ユウの次の言葉を待った。
「おれの父は、ヴォルグリッドに殺されています。その借りを返すために、まずアントワーヌに身を寄せました。そこでヴォルグリッドには容易く近づけないと知り、アントワーヌを助け、その機を探っていました。アントワーヌの一子、リリアのことが気にかかったとはいえ、おれの中心にあるのはヴォルグリッドを討つことです。奴を超え、奴が斬った父を超えることが、おれがアントワーヌの参謀を続けている理由です」
「こいつはたまげた」とカルヴァンは頭を掻く。「おまえ、親子で召喚されたのかね?」
ユウはまぶたを開き、ちら、と質問者の顔を窺い、再びまぶたを閉じた。
「父が殺されたのは、前の世界です」
二人は瞬きを繰り返し、クラインに至っては本を卓に預けて席を立った。
「それはあり得ない。アステリアの人間が外に行き、しかも、戻ってきたということになる」
「ヴォルグリッドには、それができるらしいのです」ユウは背後に横たえていた白剣を引き寄せ、鯉口を切った。「この白剣は、通常の剣ではありません。おそらくはヘリオスフィアに近い素材でできています。しかし、おれが使わない限り、その真の力を発揮できません。黒剣はヴォルグリッドが握っています。この二刀になにかしらの秘密があり、異世界間の行き来を可能にさせたらしいのです」
「見せろ」
白剣をひったくるようにして取ったカルヴァンは刀身を抜き、卓の上、晶機の明かりの下に置いた。明度を上げ、食い入るように、刃を眺めていた。クラインも彼に頬を寄せるようにして魅入っている。
「刃は水晶のように見える」
「ぼくも、ユウくんのこの剣の異常さには気づいていた。スレイエス製の鉄鋼剣を一撃で断ち切っている」
「水晶をこういうふうに成形するのも至難だが、水晶の剣で鋼鉄を断つのは無理だ」
「では、純粋なヘリオスフィアの結晶だというのか? それも剣の形に成形された? それは不可能だ。ヘリオスフィアの純結晶を作る技術はまだないし、ヘリオスフィアへの細工はともかく、成形するなどと」
「できない。もっと別の世界の遺物じゃないのか? おい、ユウ。この剣の一欠けを寄越せ」
「ダメですよ。それがないとヴォルグリッドに勝てません」
「ヴォルグリッドも同じ剣を持っているのか」
「噂には聞いたことがある」とカルヴァンは剣を鞘に戻しながらいう。「極北の黒騎士、とかいう奴だな?」
「ヴォルグリッドは晶術が使える。れっきとしたこの世界の人間だ。その彼も持っているなら、この世界の物質と技術である可能性は高い」
「おれにはわからん。もっと調べてみないことには……」
「ヴォルグリッドはジョゼの遺産だといっていました」
「ジョゼの?」二人の顔が紅潮するのがわかった。
「こ、これは歴史的な発見かもしれない」というクラインの声も震えている。「ジョゼが昇天したのち、ユウくんの世界に行き、彼の家に伝わったのかもしれない」
「ヴォルグリッドの家にも一本を残して、か」
「そうかもしれない。もしかすると、ヴォルグリッドの一族にはジョゼのなにかが伝わっているのかもしれない。ジョゼ時代なら、マナクリスタルの純結晶を作ることも、成形することもできたかもしれない」
「憶測でものはいえない」
「しかし、仮定は必要だ」
「仮定か」
二人は考え込んだまま、沈黙してしまった。
「おれは」とユウはいう。「帝国と戦う中で、ヴォルグリッドに勝ちます。ヴォルグリッドはジョゼの遺産を蘇らせ、その力を手に入れるつもりでいるようです。おれはそれを阻止したい。そのためにアントワーヌに身を寄せていて、だから彼女たちに挫けられては困るのです」
「そのために自走船がいる、というのか?」
ユウは顎を引くだけを答えにした。
一時の沈黙ののち、カルヴァンは重い口を開いて、
「いいか?」と念を押す。「おまえはおれの下だ。おれに命令するな。それと、おれの服装その他はおれの自由だ。金の分配その他のことはクラインに任す」
「ということは?」とユウは身を乗り出した。
「自走船の設計、おれがやってやる」
「やったぞ」と叫んで立ち上がったユウは、そのまま頭が真っ白になってぶっ倒れてしまった。
〇
天ノ岐ユウが地下にこもってから出てくるまで、四日の時が経過していた。それから体調が回復するのを待って、馬を飛ばしてエルサドルに帰りついたユウを迎えたのはリリアの怒声であった。
「十日ですよ」と髪を逆立てて地団太を踏んでいた。「いったいいままでどこに行っていたんですか!」
「まあまあ、そう熱くならないで」
「誰の口がいってるです」もう、と項垂れ、「せめてどこに行っているかくらいのことは誰かに教えておいていただかないと。ユウさんはアントワーヌにとってかけがえのない人なのですから」
リリアはユウの胸にしがみついて、顔を埋めた。
「心配させないでください」
「悪かったって」
リリアはユウの胸に頬擦りして眉をひそめ、また胸に額を擦りつける。
「ちょっと痩せました? どことなく、お顔もしゅっとしたような……」
「諸事情あってね」
「ユウさま、ユウさま」とハルも駆けてきて、ユウに顔を寄せてくる。「例の件、いかがです?」
「うむ。船を船渠に入れよう」
「さっすがでございますわあ」と喝采を叫ぶ。なにも知らないリリアはそれを眺めて小首を傾げていた。
エルサドル入りをしていたカルヴァンを船渠に招き、アントワーヌ船に手を加えること数日、再び海上に浮いたこの木造帆船はまったく変わり身していなかった。が、中身は違う。
この日、海は空を映した青に輝いていた。東西南北、陸地の陰も失った海洋の真ん中で、ユウは一声を上げた。
「カルヴァンさん、お願いします」
「おお」と不愛想にいってから後部甲板に立って、舵を握った。
「あの人はどなたですか?」とリリアが海風に揺れる髪を押さえながら訊く。
「人伝手に訊いて会ってきた晶機技師の人だ」
「技師の人に会ってきていたのですか? ということは、もしかしてリライトに?」だとしたら、と両手をバタつかせ、「わたしもご一緒したかった」
「まあまあ、今回は非常のことだったんだ」
「帆を畳みなさい」とハルが左右に指示を飛ばしている。「綱の結びを確認して。甲板はきれいに拭いて。その他備品は所定の位置に」
ユウの背中にのしかかり、
「さあ、ユウさま、今日は記念すべき日ですわ。うしろの方がきれいに見えるそうです。ご一緒しましょう?」
「ハルさん、帆を畳んでしまうんですか? こんなにいい風が吹いているのに」
「おーほほほほ、リリアさま、もうこの船に風など必要ないのです」
「必要ない?」リリアは眉を上げていた。感づいたらしく、頬を紅潮させると、後部甲板に駆けていった。ユウもハルを振り払ってそれに続き、最後尾で手すりから下を覗くリリアと並んで波立つ海面を見遣った。ハルも遅れてやってくる。
「あれは、舵の修理ではなかったのですか?」
「さあ、どうかしら」
「うふふ、どうかしら」
「どうしてハルさんは知っていて、わたしには教えてくれないんです? 不公平です」
「それをいわれても、どうしたものか……」
「リリアさまには申し訳ありませんが、そういうことなのです」
「そういうこと!」
身を寄せてくるハルに、リリアの驚愕に見開かれた視線が飛ぶ。
「どういうことでもないから」
「ユユユユユウさんたら……」
「こういうロクでもない女の話を鵜呑みにしてはいけないよ、リリア」
「まあ、ユウさまったら、ロクでもないだなんて、あんなに将来を誓い合った仲なのに」
「将来……!」
「おーほほほほ」
リリアの顔が赤くなったり、青くなったり、忙しい。
「痴話喧嘩しているところ悪いが」と声をかけてきたカルヴァンにユウは向き直る。「準備ができたぜ。晶源を入れるぞ」
「はい、お願いします」
ぶわ、と船底から発した緑色の燐光が海面を揺らして、甲板から下を覗く一同の顔を照らし出した。
ゆるゆると、波のない海上を帆を畳んだ船体が滑るように進み始める。
「す、すごい」と呟いたリリアは、手を打って飛び上がった。「すすすすすごいです、帆を張っていないのに」
「成功ですわ、ユウさま」とハルの頭突きが脇腹に炸裂する。「これで大富豪確定です」
「それは知らんけれど」ハルを押し退けたユウは、カルヴァンの手を取った。
「カルヴァンさん、本当にありがとうございました」
「おれはおれのためにやっただけだ」
カルヴァンは舌を打つようにいって、ユウの胸板をつついた。
「おまえとは色々と約束をした。忘れるなよ」
「ははー」とユウは闊達と笑い、「当たり前じゃないですか」
後部甲板の真ん中に立って、ユウは舳先を見つめている。
「おれはこの船で天下を取る」
胸元に拳を握り、
「この船の軌跡を、そのままアステリアの歴史に刻み込んでやる」
黄緑色の輝く軌線を描いて、アントワーヌの船は静かな海上を行く。
了




