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幻想剣客史譚  作者: りょん
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第一巻 回天編 一章 回天

     一章  回天


「もう我慢ならない、親父を斬って捨てるしかない」

 というのが、このころの天ノ岐ユウの口癖になっていた。

 これが言葉の比喩ではない。

 彼の生家は古くからの剣術道場で、真剣の一本や二本は珍しくない。その一振りを手に取って、父に斬りかかったことも、週に一回とか、二回とか、そういう頻度であった。彼がマスコミの餌食にならなかったのは、その腕が父より数段劣っていたからにすぎない。勝負を挑むたびに、この男はカエルの轢死体のように呻いてのびるのが常であった。

「今度こそ」と毎回いう。「今度こそ負けない」と。

 果たして、この物語の始まりがどこにあったのか、天ノ岐家の始祖のことから、彼の少年時代、彼が成長する過程で得た友人や教訓のことなど、様々書き連ねるつもりだったが、割愛して、直近のことから書き始める。

 天ノ岐ユウの友人が、美人局にあった。

 助けを求められたユウは、嫌々ながらも人情のために現場へ出向き、相手と交渉し、辛抱強く説き伏せようとした。どうか、無体なことはしないでくれ、と。落ち度はこちらにもある、しかしそちらにも多少はなかろうか、と、辛抱強く言葉を重ね、理解を得ようとした。辛抱を切らしたのは相手の方だった。拳を握って襲い掛かってきた。ユウは黙って殴られることを良しとせず、その拳を躱して殴り返し、徒党を組んでいた相手の仲間数人も半生半死にして病院のベッドで眠らせた。

 ユウとしては誠心誠意、真心をもって説いたつもりだった。それが通じず、結局、こういう形になってしまったことに心を痛めて、拘置所の中で内なる神に懺悔し、改心の誓いを立てながら夜を明かした。

「こういうことはもうしません」と、拘置所の非常口の明かりに誓いを立てたわけだ。

 しかし、翌日、身柄の引き取りに来た父の言動はどうであったろう。

 ユウは多くのことを学んだ。

 ああ、こういう罵詈雑言もあるのかと学び、他人に対する圧力のかけ方を学び、いかにしたら的確に効率よく相手の心を抉り出し、切り裂き、ずたずたのナメロウのようにできるのかということも実地で学んだ。ほんのりと目尻を濡らしながら、心のナメロウを口にしたユウはその味に頷いた。昨日誓約を立てたばかりの内なる神にも食わせてやった。わかるだろ、この味が。

「おおお」と痺れるほど吠えた。「親父を斬って捨てるしかない」

 小さい歯車が重なって力を伝え、次第に大きな歯車を動かすように、小さな運命の変転が、やがて三千世界の天地を回転させてゆく。のだが、いまは身の丈百七十センチメートルと少し、体重は六十キロ程度の、中肉中背の日本人、天ノ岐ユウ一個の足を回転させて、彼を家の庭の隅にある蔵へ向かわせていた。

 このナマコ壁と白漆喰で出来た妻入りの蔵には、先祖伝来の家宝からテレビショッピングで買って使わなかった健康器具の類まで、天ノ岐家の歴史が包括されている。当然、刀剣も、十本、二十本と置かれている。ユウの目的はその中でも至上の一振りとされる家伝の宝刀であった。

「おれが親父に負けるのは剣のせいだ」と豪語する。弘法こそ筆を選べ、と数多の分野のプロフェッショナルはいう。わたしは弘法ではない、だが筆は選ぶ、とユウはいうのだ。

 蔵中はカビ臭く、埃っぽい。

 懐中電灯で照らすと、埃に散乱された光路がはっきりと浮かび上がる。その埃を吸いつつ、吸っては咳き込みつつ、ユウは無数の櫃が収められた棚の合間を半身になって進んでいった。

 そろそろと通路を抜けて、上階に繋がる梯子の下まで行き、これを登り、切妻屋根の裏に入った。そばにあった天窓を塞いでいた木板を懐中電灯の取っ手で叩き開け、光と新鮮な空気を取り入れた。

 外の空気はいい。頭の中が明白になる。

 清々しい気持ちで、ユウは視線を薄闇になった一間に向けた。くるくると楕円の明かりが踊っている。一方の三角の頂点下に仏壇があるのを見つけた。三十センチほどの仏像が屹立している。

 ユウは気安く近づいてひざまずいた。

 この木彫りの、優しげな女人のような顔をした像の頭だけが、この蔵中で埃をかぶっていない。先祖伝来の守護神であって、父が人知れず掃除をしているからだろう。これの裏に『宝剣』が封じられている、と一子相伝され、嫡子であるユウも聞き知っていた。絶対に外には出すな、とも聞いている。が、今日ここで抜いたところで敷地内で役目を終える予定だから、まあ、よろしかろう。

「今日から世話をする人がいなくなりますが、申し訳ありません」

 手を打ってから、仏を退かし、こまごまとした装飾も外し、壇そのものも床に降ろし、後ろに立てられた櫃を柱からひったくるように剥がした。かたいくなった蓋を力任せに開く。と、一振りの、反りの浅い漆黒の鞘に封じられた刀が収められていた。

「これが、白剣」

 と、父は呼んでいた。

 ユウは懐中電灯を床に転がし、刀をつかんだ。

 鯉口を切る。

 外光を反射して、きらり、と閃いた刃の向こうが透けて見えた。不思議な刀剣である。しのぎから峰の一帯まで、真っ白だ。まるで、金属というより水晶のようだ。

 ほお、とユウはため息をつき、

「すごい」

 呟くようにいった。

 凄まじき刀剣は空気中の水分を吸って凍てつかせるというが、まったくその通りだった。眺めているだけで、血が冷たくなる。

 抜き放とうとしたそのとき、刃が鞘に触れ、

 カチカチ

 と音を立てた。

 刀身が震えている。いや、この蔵自体が揺れている。

 みしみしと建材が軋み、埃と木屑が降りかかってきた。震度にして、三もなかろう。

 静まるのを待ち、白剣を鞘に収めて梯子を降りた。降りたところで開け放していた入口に人影を捉え、ユウは白剣の柄に手をかけた。

「父さん、今日こそ引導を渡そう」本人のいないところでは親父親父と宣っていながら、本人を見つけると父さんである。「お覚悟」

 ユウが白剣を腰だめにやって鯉口を切るのを見、父の細い目が見開かれた。

「おまえ、その剣を……」

 一転、父が険しい顔を見せ、そばの長櫃を引き寄せたからユウはぎょっとした。

 父に真剣を持たれたら殺されるかもしれん。殺そうとしていたのに、いざ殺されそうになるとこれだから困る。

 やるか、やらないか、逡巡の隙間に、

「ユウ、それはおまえが持っていろ」

「は?」

 父はいうが早いか、引き寄せた櫃を乱暴に開け、紙に包まれた黒鞘から剣を抜いた。中段に構えた刃を蔵外に向ける。

 父の背中の向こう、巨大な黒い影があった。いや、影ではない。黒い西洋甲冑そのものだ。黒い獣、双角の生えた犬のような意匠を凝らした西洋甲冑の巨躯がある。片手に刀身の黒い片刃の剣を下げ、一歩、一歩、と日差しの中を闊歩してくる。

 奇妙なことに、その片手に下げられた黒刀は自らの存在を誇示するかのように、ゆらゆらと黒色の陽炎を宙に残しながら、彼の足跡を追っている。どういう理由で発しているのか、ユウもやや疑問に感じたが、そのような些細なことは一瞬で吹き飛んでしまった。

「はっ!」と気合を発した父が駆け、黒い刃と刃を交えて入れ違ったのだ。甲冑は具足を軋ませて踏み込み、肩から一振りを下ろす。

 鉄の擦れる音も凄まじく、黒剣は父の剣のしのぎを激しく削った。父は腰に吸い付けるような八双の構えのまま、黒い衝撃を受け止めて、逆に体ごと押し込んだ。その瞬間、白銀の切っ先が宙空を突いた。

 くるくる、と黒い兜が蒼天を飛んだ。

 甲冑が背後に下がったのは三歩だけだった。三歩目、具足が力強く土を削って、薄い埃を舞い上げていた。

「やってくれるな、じじい」

 低く野太い声である。

 浅黒い肌、後ろに撫でつけた赤い髪、えらの張った四角い顔、琥珀色の瞳に興奮の灯が宿っているのがユウにもわかった。

 頬には血が、口元には愉悦が、はっきりと滲んでいる。

 甲冑の男は半歩下がり、剣を中段に据えて切っ先を寸分も動かさない。対した父も中段で、呼吸の気配すら感じさせない。

 じり、と男の鉄具足が父ににじり寄る。

 じり、じり、……

 両者踏み出す。

 剣戟の交わる音が響き、火花が発した。二人の位置が入れ替わり、黒い刃が振り下ろされ、

 パッと血煙が舞い、父の体が膝から崩れ落ちた。

「良き、戦士だった」

 どお、と音を立てて地に伏せる父の身体。鎧の男は二歩、退き、琥珀色の瞳をユウに据えた。口元を緩める。

「貴様……」

 ユウは白水晶の剣を抜き放っていた。切先が足元に垂れている。

「良い覇気だ」と黒騎士がいう。「もっとこっちへ来い。そのように狭いところでは存分に戦えまい」

 黒騎士はさらに下がってゆく。手は頭に、指先は赤髪を撫で整えようとするが叶わず、毛先が垂れてくるのは乱戦の激しさを感じさせる。

 ユウは自らの呼吸が荒くなっているのを察し、深く吐息を吐いている。

 頭が熱い。

 さらに深呼吸を繰り返して歩みを進め、父の屍を越えてゆく。致命の刃は、右の肩口から斬り下ろした見事な一撃である。口元から血を流す父の白い顔を見、眉間にしわを寄せたユウは日差しの下で黒騎士と見合った。

 おれが越えるはずだった。

 おれが越えるべき壁だったのだ。

 それを、この男は……!

 日輪の下に晒された白剣の軌跡が真っ白な尾を引いた。中空に円弧を刻み、中段に静止して、遅れた残像がそれに重なる。

 黒騎士の剣も、同様、黒い尾を引いて刃の軌道を露わにしながら、中段にピタリと止まった。半透明の切っ先が宙にかたまったように動かない。

 褐色の顔が愉しげに歪む。

 こいつは殺す。

 想いを一にして、腰を落としたユウは踏み込んだ。

 白の軌跡が彼を追う。

 敵の切っ先に白剣の切っ先を乗せ、間合いを詰める。男の膂力に押されても踏み締めた足は粘った。ほとんど鎧と密着し、喉元めがけて突き出そうとしたとき、脇腹に衝撃が走った。目が白黒する。

 殴られたらしい、とわかったときには黒剣に押されて、ユウはうしろにたたらを踏んでいた。次撃、横合いから斬撃は受け止めたものの、簡単に体ごと吹き飛んでしまい、地面を転がって、細かい砂を舐めていた。

 つ、強い……。

 すぐさま立ち上がったものの、膝に力が入らない。

「まだ若いが、これも戦場の習い」

 黒騎士は剣先を垂らし、ただ冷徹な目を光らせていた。

「死んでもらう」

「ふざけるな」

 ユウの足は地を踏み締める。白剣を中段に据えた。

「おれがおまえを殺す」

「ほお」

 一定の距離を置いて、円を描くように歩く二人。黒騎士の剣はするすると上段に上がってゆく。

 呼吸が浅い、とユウは思う。先の一撃で体が万全でなくなっている。

「ぬん」

 気合を発した黒騎士の一振りが頭上から落ちてくる。遅れた反応では白剣を盾にして受け流すのが精いっぱいだった。一歩退いても、黒の甲冑が迫ってくる。

「ぬん」

 さらに一、二撃、白剣で受け流し、呼吸の整う間を稼ぐ。

 剣闘には、肉体と精神が整い、重なる一瞬がある。

 その一瞬に賭けて、斬る。

 白剣が黒い刀と擦れ、長大な火花を上げた。

 弾かれたユウの体がよろめき、足元が定まらない。上段に構えられる黒い刃。

「覚悟っ!」

 甲冑の一声が耳に響く。スイッチを押されたように、深く息を吐き出したユウの爪先が地を捉えた。

 いま。

 黒の刃を翻ってかわし、白剣を斬り上げる。

 短く切断された赤い毛髪が宙を泳いだ。

 次いで振り下ろした白剣が敵の刀を音高く受け止めた。

「やってくれる」

 男の弾んだ声と生気の漲った瞳を見据える。

「良い戦士だ」

「てめえ、叩き斬ってやる」

 間合いを取り直し、再びの接近、刃を交える。腰を落とし、剣を肩に負って、振り抜いた。

 火花が散る

 刃が悲鳴を上げる。

 軋んで響く。

 ゆらり、

 と景色が歪んだ。

 めまいに襲われた気がして、ユウは甲冑と間合いを取った。

 気分は悪くない。むしろ高揚していて、不調など欠片も感じない。

 が、景色が歪んでみえる。

 黒の剣が来る。両者、大上段から打ち合う。さらに空間が歪んでゆく。

「こ、これは……」

 ユウは二歩、三歩とうしろにたたらを踏んだ。

 剣を交わらせるたびに景色が歪む。空間そのものが歪んでいるのだ。

「はああっ!」

 さらに迫ってくる黒刃を受け、ユウも剣を振るう。

 一際強い打ち込みを交えた瞬間、ぐるりと世界が回転を始めた。


     〇


 激しく風を切っている。

 落下している。

 暗闇の中を。

 いや、違う。暗いのは目が慣れていないせいだ。無数に散りばめられた星の輝き、銀河のきらめきがユウの全身を包んでいる。その暗闇の中をひどい速さで落下している。

 頭上の方向に白が一筆、弧状に走り、その中心から白日の昇るのが見えた。青い海と、白い雲の筋、赤地に緑を散りばめた大地の美しさ。自然の色彩が、日差しに刷かれて燦然と浮かび上がってくる。

 なんと美しい星だろう、などと思っている暇はない。

 落下している。凄まじい速さで、凍えるほどの風を受けながら、この天空から滑落している。

 ユウは薄手のワイシャツとジーパンのまま、片手に白剣を握ったきりである。寒風に晒された肌が裂かれるように痛み、呼吸も苦しい。この高度では酸素などないに等しいだろう。が、まだ生きている。

「小僧」と呼ばれ、視線を巡らすと、宇宙の背景に紛れていた黒い甲冑の姿を見つけた。

「てめえ」と身を翻したユウの身体は、加速度を増して落下してゆく。

「くう」と呻いて、身体を大の字に広げた。全身で風をつかまなければ滑落してゆく。しかし、どうせ墜落死するなら隣の男を斬ってからでもいいのかもしれない。

 ふ、と隣を見ると、黒甲冑は長大な黒い帯を引いて、ユウの方へ向かって来る。奴の頭上に掲げた黒剣が彗星のような尾を黒々と引いて、朝焼けの空に薄墨の五彩を重ねていた。

「わざわざ叩き斬られに来るとは」

「底の知れんバカだな、貴様は」

「なにを」

 地上で吹けば簡単に人を飛ばすような風の中に二人はいる。当然、叫び合うだけで、身動ぎのほとんどができない。しかし、ユウは動こうとしてバランスを崩し、また滑落してゆく。

「くっそー」

「白剣を使って風をつかめ。その剣はすでにソルを吸い始めているぞ」

「そる?」

 片手の白剣は、なるほど、先ほどより色濃く白色を呈し、引かれる尾も濃く、長く、輝かしくも見える。

 流れ星が二つ、モノクロの軌跡を並んで描いて、惑星の縁を舐めてゆく。

「しかし、斬る」

「愚か者め」

 ユウは白剣を振るう。

 ようやくわずかに空中での身の振り方に慣れてきた。奴のいう通り、白剣の尾に推力のようなものがある。そのためにユウは手足を振り、全身を回転させながら、黒甲冑に襲い掛かった。

 上段から襲撃する白刃を、黒い尾が引き受ける。さらに、肩に乗せた白刃を振り下ろして、二合目、それを打ち返した黒剣が横合いから来る。これを回転しながら受け止めたユウは弾かれて、方向感覚を失ったままずいぶんと宙を転がった。視線を振ると、黒い甲冑は親指ほどの大きさになっていて、黒剣の尾だけを長大に大気圏の外まで伸ばしていた。

「ここで必ず叩き斬る」

 白剣を翻し、再度近づこうとしたユウは思わぬ妨害を受けた。

 虹色の光である。

 正確には、赤、青、黄、緑、紫、水色、その他、無限の色に輝く光の粒が宙に無数の数わだかまって、一本の帯を形成し、遥か地平の向こうまで伸びていた。その帯がすぐ足下にあった。

 ぎょっとしたユウは手足を振って、回転しながらその帯を避けた。

 とてつもなく大きい。

 一本の虹色に輝く大河が、中空を流れている。そして、帯ではなく管だったらしい。擦過していく過程で、その縦幅も見た。十メートルや二十メートルは下らないだろう。左右を見ると、同じような管が枝分かれして、時には交わり、この青い空に血管のように張り巡らされていた。

 上空にはこういう現象もあるのだろうか、とユウは思った。彼の想像を超える気象現象である。

 これが何事なのか考え、ぼんやりとその光の大河の前後を眺めているうちに視界を失った。雲に入ったのだ。

「ああ」と苛立ちを口走ったときには、すでに黒騎士の姿を見失っている。雲中突き抜けて、前後左右上下を見渡しても、虹色の大河、黄色い太陽、青い空と白い雲、近づく黄土の大地の他にない。

 大気は熱を帯び始めている。ただ、風はすこぶる強く、向かい合えば息もできない。

 生き残るのが先、と断じたユウは、白剣につかまった。意外な揚力がらしいものがある。徐々に上体を立たせ、しまいには足を乗せるようになった。サーフィンのように白光が空をつかみ、風に乗っている。

「これならいけるかもしれない」

 直立していても、その体勢はかつてないほど安定して、後方の切っ先を踏んで剣を立てると向かい風を受けて速度も落ちる。ただ、あまり立てすぎると白剣が飛んでいきそうになる。爪先のさらに先にある柄をつかんで足元を確かめた。

 あわよくば着地できるかもしれない。しかし、まだ早い。速度が。景色は走馬灯より早く行き過ぎてゆく。

 旭日は右手方向にある。だから、進行方向は北。北へ向かっている。

 冠雪した山が青霞の奥で壁のように広がっている。その上空がきらきらと輝いていたのは美しい。が、そこより北に降りれば凍死は避けられないだろう。

 ユウは体を傾けた。

 白い尾は円弧を描いて、白亜の稜線に分け入っていく。凍結した岩稜を撫でるように過ぎ、輝くような積雪にシュプールを描いて斜面を下っていった。

 やがて断崖に突き当たり、舵を切って南に向かい、足下の川面をしわぶかせながら速度を落としていた。

 断崖は典型的な柱状節理だった。簡単にいうと、溶岩だまりが冷えて岩塊になるときに起きる、規則正しいひび割れのことをいう。白い岩塊がカーテンのひだのように連なっていて美しい。

 舞い上がる飛沫が温かい。湯気も立っている。どうやら温泉らしい、と思えば、節理のことと考え合わせ、かなりの量の溶岩塊がまだ地下に温存されているのではないかと想像させる。

 あまりの絶景に、ほお、とため息を吐いていると、いつの間にか反対側も同様に節理の壁になっていた。目を疑った。疑ったために三度見直した。両側ともに十数メートルもある岩のカーテンで、激流が当たって砕ける裾には岸には近いところに岸辺があるとも思えない。

 どうにもならない、と思ったときに、足元で衝撃があった。岩を踏んだのかもしれない。大きくバランスを崩して、咄嗟に白剣の柄を取り、身体は受け身を取れないまま川面を二転三転、転がってそののちに水中に没した。

「ぶは」と波間に出て、大きく一呼吸した、その音に激流の音が重なり、耳を苛んでいる。幻聴ではない。どどど、と下流が止まない雄叫びを上げている。

「ご冗談を」

 笑うしかない。

 白剣が片手にあることを確かめ、足にやろうとしてできず、すでに身は宙に投げ出されて、瀑布の中を落ちていた。

「うわあああああっ!」

 今度こそ死ぬ。恐怖が彼を叫ばせた。

 いや、と白剣を握った。まだだ。瞳孔が開くのを感じる。

「死ねるか、おれが死ねるかっ!」

 咽喉が裂けるほどの絶叫が迸る。手足を振るう。白剣を頭上から斬り下げた。

 ど、と激しい水柱が上がる。とともに、ユウの身体は水中に没した。


     〇


 チチチ、と鳥のさえずる声を耳にして、まぶたの下では日の眩しさを覚えた。

 温かい日差しの中で寝返りを打ち、滑らかな布地に頬を擦りつける。

 全身が気だるい。なんでだろう、と考えて思い当たり、跳ね起きた。

「ひゃ」

 と、女の子の声がした。枕元に一人、いる。ユウより少し年下だろうか、小さな手を口元にやって慄き、大きな目の中にある小豆色の瞳をくるくると回しながら、ユウのことを見つめていた。

 すぐさま気を取り直したらしい、せかせかと瞳と同じ小豆色の髪に手櫛を通し、赤と黒を基調にした民族衣装風の服の裾と襟を正している。少し咳払いをしてから、革のコルセットの前で小さな白い手を組み合わせ、涼やかな、でも愛らしい声を出した。

「ご気分はいかがですか?」

「いかが?」ユウは寝台の上で両手をさまよわせ、厚みのある毛布をつかむと中を覗いた。足がある。「生きてる」

「あのう」と彼女は左右に身をよじりながら、視線を床板上で踊らせ、「川に落ちてきたんですよ、崖の上から」

「ええ、そこまでは記憶にあります」ユウは笑い、「あなたが助けてくださったので?」

「ええ、わたくし、リリア・アントワーヌと申します。ここはフローデン領主邸、みんなはアントワーヌ邸と呼んでいます」

「領主?」とユウは首を傾げた。時代錯誤の感がある。「どこの国の?」

「どこって」リリアは驚いた様子で、「ここはエクシリア帝国の、フローデン領です」

「帝国?」

 ユウの知識の中で、帝国とは皇帝の治める国家のことで、地球上では唯一、日本の天皇のみが皇帝と呼ばれている。しかし、彼女はここが日本ではない、という。

「しかし、日本語がお上手ですね」

 彼女の顔が、アングロサクソンか、フランクか、ノルマン辺りの顔立ちに見えたから、ユウはそういった。海外に行ったことのない日本人の天ノ岐ユウには、その辺りの細やかな違いは分からないが、ともかく中央以北の欧州系だと思った。

 細かくいうと、真っ白な肌、桃色の小さな唇、ふっくらとした頬は淡く色づき、肩口にかかるくらいの頭髪はキューティクルも美しく、丸い頭の上で窓から差し込む日差しを受けて天使の輪を描いている。

 そう、端的にいうと、天使というのに近いかもしれない、彼女の印象は。

 死後に目の前に現れ、手を引いて天界へ導いてくれるのが彼女のような少女であればいいな、と思う。もしや、やはり死んだのではないか、とも思う。天使に導かれて、この洋館風の天国に連れ込まれたのかもしれない。

 少女は天使のような顔の眉間に深々と渓谷のような皺を刻んで、首を傾げていた。

「にほんご、ですか? わたしはユーステア語しか話せませんけれど」

「それはおかしい」ユウはさすがに笑ってしまった。「なにか齟齬が起きている」

「齟齬?」と今度は小さな顎をつまんで思案の様子を見せた。と思う間もなく、目を丸くして、両手を打ち合わせた。「もしかして、異邦者の方ですか?」

「いほう? なにそれ?」

「この世界ではない世界から呼び寄せられた、人の形をした生命のことです」

「この世界ではない世界から呼び寄せられた?」

「あまりに言葉がお上手なので、気がつきませんでした。異邦者の方はほとんど言葉が通じないといいますから」

「どういうことなの?」

「順を追って説明しましょう」

 リリアはきれいに油脂を塗布した床をするすると歩き、窓枠に手をかけて、押し開いた。爽やかな風の中に、肌を刺すような冷気がまだある。匂いがするのは、樹木の香り、だろうか。

「あの、虹色の帯が見えますか?」

 ユウが空から落下するときに見た虹色に輝く光の管のことだ。地上から見ても、青空に虹色の筋が入っているのが窺える。

「ええ、見えるけれど」

「ヘリオスオーブと呼ばれるものです。ヘリオストープと呼ばれる小さな生き物が空気中にいて、寿命が果てると空に昇って寄り集まるようにしてかたまり、ああやって目で見えるようになります。ヘリオスオーブは時間とともに分解されて、ソルと呼ばれるものになります。ソルはあらゆる生命の根源とも呼ばれていますが、特に植物には重要な栄養になります。植物は小さな動物が食べ、小さな動物を他の動物たちが食べ、動植物が死ぬとヘリオストープによって分解されて、ヘリオストープはまた空に昇ります」

 ユウが黙って異世界の食物連鎖の話を聞いていると、リリアはスカートに下げた皮のホルダーのボタンを外し、「これです」と手のひらに収まるくらいの丸い宝石を取り出した。きらきらと、この石自体が赤色に淡く輝いて見える。

「ソルは地中で結晶化して、スフィアとなります。かつては採掘でしか手に入らなかったのですけれど、最近は人工のものが多いですね。こうして、自然を操ることができるのです」

 石が緑色の光を発し、唐突に吹き出した風に煽られたユウはまぶたを閉じて唇を引き締めた。扇風機の中風くらいの威力がある。

「なにをしたんだ?」

 目を開けると、リリアの得意げな顔があった。

「これが晶術です。ヘリオスフィアを手にして詠唱、つまり、心に念じるだけで水を出したり、火を起こしたり、風を起こしたりできるのです」

「おれでも?」

「話に聞いたところでは、異邦者の方は晶術を扱えないといいますけれど」ちら、とユウの様子を窺う素振りを見せ、「試してみます?」

 リリアから石ころを受け取り、手のひらの上で転がすが、一向に反応がない。彼女も寝台に乗り上げて、ユウに身を寄せるようにして教えてくれるが、まったく効果がない。

「なんていうんですかねえ」と少女は悔しそうにいう。「スフィアの中のものを取り出すような、そういう想像力が大事なのです。普通、アステリアの人は触れるだけで石が反応してくれるんですけれど」

 ユウには、なによりも彼女から漂って来る甘い香りが気になって仕方がない。触れずとも、肌の温もりを感じるほどに近いし、吐息の圧も身を震わせるし、ちょっとユウの男の部分が頭をもたげそうになる。一方、彼女は気にしたふうもなく、言葉を連ねている。ユウへの教授に熱中している。

「おわかりですか? あの……」と少女の上がった瞳とユウの瞳がぶつかって、彼女は頬を染めて飛び退いた。「や、やはり、難しいようですね、異邦者の方では」

 こほこほ、とわざとらしい咳ばらいをして、また窓辺に向き直った。

「ヘリオスオーブの中にも結晶化したソルはあって、時折空間を歪めるほど強大な力を発現させることがあるそうです。その『時空震』に巻き込まれた異世界の方がアステリアに呼び寄せられて、異邦者となるのです」

「じゃあ、その時空震っていうのに、もう一回巻き込まれれば、元の世界に帰れるの?」

 え、とリリアは目を丸くしてあからさまに戸惑う。あの、その、といいよどんで、

「わ、わかりません。時空震によって召喚される、というのは仮説で、時空震自体、誰も見たことがありませんから」

 ごめんなさい、と申し訳なさそうな顔をする。「お力になれず」

「いや、いいんだ」

 ユウは手を振る。振ってから、腕を組んで、まぶたを閉じ、考え込んだ。

 そんなことが起こり得るものだろうか。深く考えたものの、答えが出るわけがない。彼の知らないことが起こっている。知らないことは考えてもわからない。

「魔法の世界ってことか」と呑み込むしかない。

「いいえ、違います。晶術です」とリリアに食い気味に否定されたものの、ユウにはもっと大事なことがある。

「ところで、おれと一緒に剣がなかったかしら?」

「ありましたよ」

 リリアは人差し指を立て、部屋向こうのチェストの上に置かれていた一振りの剣を鞘ごと胸に抱えた。

「これですね」

「おお」と、ユウは受け取り、鯉口を切った。白刃が日差しに輝く。水浸しのはずだったが、鞘ぐるみ乾かされて、きれいに拭き込まれている。

「珍しい素材ですねえ」とリリアも感嘆する。「実に立派な一振りです。水晶か、スフィアのように見えますけれど、ユウさんの世界の素材なのですよね」

「この剣じゃ晶術とやらは使えなかった?」

「使えるわけないじゃないですか」とリリアはユウの正気を疑うように笑う。「晶術を使えるのはヘリオスフィアだけです」

「そういうものなのね」

「そういうものなのです」

「ところで、この世界でも、剣は一般的なものと見える」

「そうですね。一般的な武器です。剣、槍、弓、戦斧、他にもいろんな武器があるらしいですけれど、わたしはその方面にあまり詳しくないので」

「剣が一般的であれば、よほどの剣士がいるんだろうね」

「それは、いますよ」とリリアは指を三本立て、「まず一人に、エドワード帝。ここ、エクシリア帝国の現皇帝陛下です。第二に、陛下の客将であるヴォルグリッドさま。黒い鎧と漆黒の剣を振るう、大陸一の剣士ともっぱらの評判です」

 ユウの大きくなった目は、まぶたを降ろし、沈思黙考に入った。リリアは三人目の話をしているが、ユウの耳には入っていない。

 ヴォルグリッド。これに間違いない。この世界のどこかにいるだろうとは踏んでいたが、まさか同じ国の、皇帝の客将をしているとは。

 必ず殺す。

 ユウの内心に黒い炎が灯り、渦を巻いた。

「ユウさん?」とリリアが声をかけてきたのを、ユウは首を振って、穏やかに返した。

「いやね、おれもいつか剣を交えてみたいって思っただけさ、そういう強敵たちと。おれも一介の剣士」といってから首を傾げた。「というほどの仕事もしていなかったかな」

「ではなにを?」

「強いているなら学問の徒かな」

「学問」と絶叫のように発したリリアの瞳がきらめいた。ユウの方がぎょっとしている。「詳しく伺いたい」とベッドの上まで身を寄せてきた彼女は自らを省み、再び頬を赤らめて引き下がっていった。咳払いして、乱れたスカートの裾を直す。

「少し取り乱してしまいました」

「すぐに取り乱すね」ユウと会ってからの短い時間で、三度、服装を整え直している。

「違うんです。ほんの少しなのです。どれも一回に数えられないくらい、わずかに心が乱れただけなので、問題ではないのです」

「なら良いのですが」

「ユウさんは少し意地の悪い方かもしれませんね、初対面の方にいうのは難ですけれど」

「おれのような聖人君子を相手にいう台詞かしら」

「でしたら、もう少し聖人君子ぶりを発揮してもらいたいものですが」

 リリアはスカートの端を取って、辞儀をし、

「少し長話をしてしまいました。もう少しお休みになられますよね」

「そうだねえ」と呟いたユウは、身体の節々に痛みがあるのを感じ、「お言葉に甘えようかしら」

「かしこまりました」と彼女は微笑む。その紐を、とベッドの脇に垂れている紐を指さした。「引いてくだされば、いつでも参りますので」

 失礼いたしますね、といった彼女が出ていくのを見送り、ユウは布団をかぶった。白い刃の鯉口を切る。

「殺してやる」

 あの男はこの世界にいる。

 不敵な笑みを思い出した全身の血が沸騰して体を熱くする。その熱が魂の奥で渦を巻き、衝動となって口からこぼれそうになるのを、ユウは枕に頭を押し付けて堪えた。

「この剣で、必ず斬る」

 ユウの激情と思考のすべてはその一点に向かっている。ここがどんな世界であっても構わない。

 奴を殺す。


      〇


 ユウは皇帝とヴォルグリッドのいる帝都を目指すことを決めた。帝都に入り、ヴォルグリッドを討つ。しかるのちに元の世界へ帰る手段を講じる。

 そのためには情報を得なければならない。

 ここ、ディクルベルクの位置、敵がいるだろう帝都の位置、どれくらいの距離があって、どれくらいの時間がかかり、どのような気候の変化があって、装備はいかに準備すればよいのか。そういった類の情報を集める作業に取り掛かった。

「帝都は遥か東にあります。ここからはおよそ一千キオメータあるといいますね」

 メータ、はこの世界の長さの単位だそうだ。ユウの身長を測ると、メートル法より少し小さく出たから、一メータは一・一メートルくらいかもしれない。この世界の巻き尺がどれくらい正確に造られているのか問題だが、およそその程度ということだ。それに千倍という意味のキオをつけてキオメータとなる。

 他にも時間、体積、重さなど、地球と微妙に異なる単位はいくつかある。差異が微妙なのも理由があるが重要ではないので、いまは触れない。ひとつ、触れておくとすれば、日月年の時日を現わす単位と億千万など数字の位は日本と同様に扱う。

 帝都までの距離は一千キオあるという。一千百キロ程度だろうか。しかし、長距離になればなるほど、その正確性は疑わしくもある。

 ともかくすべて信用するとして、帝都までの距離は一千百キロ。一日五十キロ歩いたとして、二十二日。ちなみに、この世界の一日は、ユウの体感で、地球とそれほど違いはない。

「一年は三百六十日、十六か月、ひと月が二十三、二日くらいです」

 先日春分が過ぎました、ともいう。

「一年は春分から次の春分まで、一月は月の満ち欠けを元に決めたそうです」

 春分とは、昼と夜の時間が同じになる日のことをいうが、一年を通した昼夜時間の違い、というのは、地軸の傾きと星の公転によって起こる現象だ。

 惑星を極地から極地へ、南北に貫いている中心線を地軸というが、これが恒星に対して垂直だと、一年を通して日照時間は一緒。四季もなければ、春分秋分もなく、一年を区切る意味もおそらくない。一方で、この異界アステリアには一年を通して、日照時間の差異があり、四季もある。つまり、地軸が傾いている。

「南の国なら四季もありますが、この辺りだと夏と冬しかありません」

 それも半年が土も凍る冬で、残りの半年を過渡期と夏で分け合っているという。

 二人はいま、アントワーヌ邸の図書室に向かって、長い廊下を歩いている。領主邸というだけあって、とてつもなく広いのだ。屋敷というより城といった方が、語感が近いかもしれない。

「あっちが玄関、あっちが客間、あっちが貴賓室、あっちが居間で、あっちが食堂……」

 さらに執務室、浴室、日光浴室、喫煙室、調理場、トイレがひとつ、ふたつ、みっつ……。そのたびに通る廊下は、端から端が見通せず、中央に雲を踏むような赤絨毯が延々と敷かれていて、足音もしない。窓から屋敷の全容を眺めようにも向こうの棟、あちらの棟、似たような建築物が視界を遮って自分がどこにいるのかを教えてくれない。

 まあ、それはいい。図書室の話である。リリアがそこの観音扉を押し開いた。

 紙の匂いが噴き出してくる。

 ユウの身長よりよほど高い本棚が同心円状に配された吹き抜けのホールは三層。木材と製紙の匂いが入り混じり、遠く、本棚の向こう、吹き抜けを貫いたアーチ窓から注ぐ陽光が幻惑するように白々と木床に差している。

「地図はたくさんあります」

 吹き抜けの円周に沿うようにして配置された階段を登り、降り、細い鉄柱を繋ぎ合わせた手すりから吹き抜けのホールを見下ろし、そこに差し込む長大な三角の光線とその中で踊る塵の様子を眺めたりしながら、あちこちの書棚から冊子を集め、一階の書棚の奥にあった卓の上に並べていった。そばに大きな窓があって外光に晒された紙片が眩しい。

 ユウがいるのはレオーラという大陸だった。ユーステアという海洋を他二つの大陸と一緒に囲っている。その海洋を通称内海と呼び、三つの大陸は三大陸と呼称することが多いという。三大陸は互いに交流していて、人と物の行き来は多い。が、そこまで話していると果てしないため、ここではレオーラ大陸だけをクローズアップする。

 レオーラ大陸は北を上にしたメルカトル図法的に描くと、逆三角形をしている。最北の国家がエクシリア帝国。さらに北には東西に長い山脈があり、以北に文明はない。

「クロッサス山脈といいます」とリリアはいう。「空は凍り、大地は氷河に覆われ、夏は日が沈まず、冬は日が昇らず、大型の肉食獣が跋扈する、世界の果てといわれています。そんなところに人は住めません」

 氷河、というのは、一年を通して溶けない氷床、つまり天然の氷の中でも動いているもののことをいう。動いていないと万年雪という。一日を通して日が沈まないのは白夜。逆に日が昇らないのは極夜。極端にいえば、地軸の先に太陽があると、極地にいる人にはあたかも太陽が沈まないように見える。これが白夜。極夜はその逆。北極星が動かないのも同じ原理だ。が、北極星は実際動いていて、数億年単位で他の星に取って代わられたりする。

 この土地は相当の極地ということだ。どれくらいの極地かというのは太陽の高さを計れば正確に求められる。特に春分点の太陽の高さから九十を引けば、そのまま緯度になる。

 リリア曰く、春分点を通り過ぎたばかりだというから、いますぐ外に出て太陽の南中高度を計れば、それなりに正確な緯度が割り出せたことだろう。緯度を計りながら南下して、何キロで何度太陽高度が下がったかわかれば、惑星の円周がわかり、自ずと体積、表面積もわかる。昔はこの方法で赤道から極点までの距離を測り、一千万分の一したのが一メートルの定義だった。だから、地球の円周はちょうど四千万メートル、つまり四万キロメートル。もっというと、メートル法を考案したのはイギリス人で世界の多くがその基準に倣った。にもかかわらず、イギリスはヤードポンド法を使っている。不思議な話である。

 話が逸れた。

 リリアは、帝国東方の話に移っていて、指先も地図上を東に流れている。

「中央荒野、と呼ばれる不毛地帯が、ここ、わたしたちのいるフローデン領領都ディクルベルクと、帝都の間に横たわっています。ここに人の定住はなく、町や村と呼べる地域は皆無です。別のいい方をすれば、中央荒野の西端にディクルベルクがあり、東端に帝都があり、二つの町が帝国東西を結んでいるのです」

 帝都は大陸北部のほぼ中央にあり、ユウたちのいるディクルベルクはやや西寄り、ディクルベルクからさらに西へ千キオの樹林地帯を走るとレオーラ大陸西端の海に行きつく。帝都から東はまた千キオほど荒野と樹林地帯が続き、南北に長い山脈を越えて他国に入り、さらに数百キオ走ってようやく海、レオーラ大陸東端である。

「おかしい」とユウは首を傾げた。「こんなところに帝都があるのか?」

「ありますよ。おかしなことはありません」

「おれの世界の常識が通じないのか。普通、これだけ内陸だと寒すぎて生活は非常に厳しいはずだ」

 内陸は昼夜の寒暖差が激しくなる。例えば、薬缶を火にかけてお湯を沸かす。お湯は容易には温度が上がらない。しかし、空になった薬缶はすぐに熱くなる。このように、固体の方が温度が変わりやすい。冷えるときも同様だ。海がなく、陸地しかない内陸部は温度変化が激しい。特に高緯度の冬季は北の高気圧が発達して、凄まじい北風が吹き、簡単に死ねるほど寒くなる。

 ちなみに、海があると、海から温度の変わりにくい風が流れてきて、陸地の気温を安定させてくれる。他にも、海には湿度があって陸地の植物を育ててくれるし、食糧となる海洋生物もおり、生活に欠かせない塩もあり、船による交易もしやすい。基本的に、海に面した方が古今東西、都市が発達しやすい。

「極北の内陸というのは、一国の都を置くのに適してない」

 ふ、とリリアは意識を停止したような顔をしてから、「そうですね」と呟いた。

「非常に寒いそうです」

「歴史的な理由かしら? どう見ても、肥沃な土があって、食料が豊富に手に入り、安楽な暮らしができて、ここを都市にしよう、と意気込む地形ではない。むしろ、森林地帯でなければツンドラか、もしかしたら沙漠になっている地形だ」

 ええ、とリリアは目を細めて戸惑っている。

「た、確かに、中央荒野はほとんど沙漠といっていいところですけれど、わたしも帝都には行ったことがないのでなんともいえません」

「もし、大きな川が流れていても四方になにもなければたかが知れているし、農作をするにも適しているとは絶対にいえないし、貴重な資源でもあるのか、でなければ、どうも狂っているとしか……」

「とにかくここにあるのです」

 リリアは前のめりにいい、ユウの抗議を断った。

「わたしのしたい話まで到達しませんよ」と垂目がちの目尻を吊り上げ、両腕をパタパタを振った。「日が暮れますよ」

「お、おお」とユウは圧倒され、「では、お先をどうぞ」

 話を促した。リリアは少しヒステリーな気があるのかもしれない、などと思っている。自分に相手をヒステリーにさせる要因があるとは露ほども思わず。

「では」と頷いた彼女の顔はまだ渋い。「ここからさらに南東方向に進むと、ヘリオス教会領というところがあります」

「教会領?」

「ヘリオス教という、三大陸に多くの信者を抱えるアステリア最大の宗教団体の総本山です」

「宗教の話か」

 民族の基礎哲学といって良かろう。この世界の人間の性質を知るには近道かもしれない。しかし、リリアは、そうではない、と首を振る。

「ユウさんは人の話の腰を折るのがお上手ですねえ」

「別に意図して折ってるわけじゃない、適宜感想と相槌を打ってるの。聞き上手なんだ」

「勘違いです」

「勘違い? いや、おれは聞き上手だ」

「それも勘違いですが、わたしのしたい話が宗教のことだと思われたのも勘違いです」

「互いの理解に齟齬がある、人間性とか」

「このままでは話が逸れて元に戻れなくなりそうなので、教会の話に戻りますね」

 とリリアに微笑まれて、ユウはとりあえず口を閉じた。

「ヘリオス教最大の聖人はジョゼという方です」

「やっぱり宗教の話じゃないか」

 リリアの瞳から光が失せた。睥睨されて、ユウは黙る。

「ジョゼは」と彼女は続けていた。「千年前、このアステリアに降臨し、異界からの破壊者である魔障を葬り、異界との境界である世界壁を創造し、世界にソルを呼び覚ました伝説の英雄です」

 ユウは良い子然としてまだ沈黙している。その英雄が、と問いたいところも黙っている。「そのジョゼが」とリリアは気持ちよさげにいい、

「異邦者だというのです」

「ほお」とユウも思わず声を上げた。両手は喝采している。「おれと同胞か」

「人々は彼に敬意を払い、それまでの文化を捨て、異邦者である彼の文化に倣ったとか。私たちの使う言葉も彼から授かった文化のひとつであるといいます」

「リリアのいう、ユーステア語の語源は日本語だというのか?」

 一人称、二人称、文章構造はもちろん、名詞も同じものが多い。米、麦、塩、砂糖、雲や海、犬猫や馬などはほぼ同様の生物を指し、この世界でも生育している。馬など、ここレオーラ大陸の主な移動手段で、時には荷駄を引き、馬車を引き、その肉を食い、毛は楽器や筆記用具に、糞便は肥料として用い、蹄鉄は幸運のお守りとされ、麦米、ヘリオスフィアはなくとも、馬さえあれば生活できるとまでいわれている。

 話がまた少し逸れたが、

「このレオーラ文化の基礎を作ったのがジョゼなのです」

「そいつが日本人かもしれんということか」

「そいつではありません。ジョゼです」とリリアの声も視線も厳しい。でも、と続けたときにはずいぶんと柔らかくなっていて、両手の指を胸元で突き合わせていた。「ユウさんはジョゼと同じ世界の出身ということですね。なんと素晴らしいことでしょう」

「しかし、千年前っていったか? 千年前となると」

 平安時代後期。ユウの時代とまったく言葉の扱いが違う。違うはずだ。

「ヘリオスオーブの召喚は時間と空間を超越するといいます。はるか未来の人物が過去に現れることもあれば、原始の人が未来に現れることもあると、ある研究者の方はおっしゃっています。ジョゼが、ユウさんの世界の、未来か過去か同時代か、どこから来たかわかりません」

「それで、その人はどうしたの?」

「レオーラ大陸南東の地で昇天したそうです。その地はいまでは聖廟が築かれ、ヘリオス教の聖地となっています。サンマルク、というところですよ」

「昇天てなんだ? 死んだのか? 元の世界に戻ったのか?」

「わかりません。昇天、としか、聖典に書かれていませんもの。考古学者の方に伺えばまた違った話も聞けるのでしょうけれど」

「詳しい人はこの辺りにいないの?」

「教会の牧師さまがいるにはいますが、神学者の方です。史実にお詳しいかどうかは……。歴史ならサンマルクか、王国のリライトという学術都市をお訊ねするのがよろしいかと存じます」

 そのときはご一緒したいです、とキラキラした目にいわれてこの会話は終わった。

 彼女を始めとしたレオーラ大陸と周辺大陸及び地域の人間の九割がヘリオス教徒なのだという。しかし、この話は本巻にあまり関わりがないので、隅に置いておく。彼らの言葉が千年間、あまり変化していないのも理由がある。あるのだが、これはずうっとあとで本編に関わってくるため、これも隅にやる。

 ともかく、これだけの散策を経て、ユウは帝都を目指せる知識を一通り得た。

 言語は通じて、文字は読めない。地図に書かれていた地名を判読できなかったし、何冊か適当に拾い上げた本も同様だ。西暦二千年前後の日本語と類似言語なのだろうが、活字は幕末か戦国の文章のように崩されていて判読が難しい。文化的、文明的には十六、七世紀くらいのヨーロッパ。食事も麦とイモを主食とし、その他生鮮野菜など、どれも美味で、なんら違和感がない。

 なにより幸いだったことは、機器の発達である。蛇口をひねれば水が出て、窯に付いた梃子を引けば火がついて料理ができる。

「晶機というのです」とリリアはいう。「スフィアが内臓されていて、詠唱の不得手なアステリアの方はもちろん、本来スフィアを扱えない異邦者の方でも、この晶源を押せばその晶機特有の能力だけ発揮できるようになっています」

 晶源と呼ばれるボタン一つで照明はつくし、風呂に水が溜まってイイ湯になる。

 こういうところは西暦二千年辺りの日本とさして変わりない。例え一人で帝都に到達しても、金銭面はともかく、日常生活において不自由しないということに救われた。

 気候は寒冷、帝都は東方一千キロ、不毛地帯を駆け抜ける。発つのであれば春か夏、でなければおそらく足の速い冬に呑まれ、旅路の半ばで凍死する。服装は厚めに、不毛地帯に中継地と狩りが期待できないため、食料品も多めに。できれば馬がほしい。荷物も積めるし、移動も早い。ユウは父に仕込まれて乗馬はお手の物だ。

 次は、そういう装備を整える。


     〇


 アントワーヌの城下は、領主邸を起点にして西方へ、乳を流したような石畳の街道が葉脈のように広がっている。その葉脈を縁取っているのは切妻屋根の民家と商家だ。総木組みの、西洋のおとぎ話に出てきそうな家屋は大きな枠組みを同一に、各家庭の異なる臥梁や台輪を外観のデザインに活かしたり、壁の色を変えたりしながら、間口を、ずらあ、と通りの向こうまで並べている。この景観には文化財的な美しさがあった。

 まだ町には雪がだいぶ残っている。日差しを受けた積雪はその表面を輝かせながらじっとりと湿り、切妻の屋根上にあればぽたぽたと縁から雫をこぼし、その一滴一滴もまた輝いて街並みを照らしていた。

「いい町だ」

 ユウはアントワーヌ邸の楼塔の上にいて、右の景色を傍観していた。腕を乗せた石壁は冷たく、吹く風も冷たい。日は高いが、吐く息は白く、土と木と融けゆく氷の匂いに紛れて散ってゆく。季節はまだ春の戸口だ。

 リリアから借りた黒い布の外套は誰かのお下がりらしいが、サイズはぴったりだ。厚手の生地は防寒というより防風だろうか。少し着込んだ気配がありながら表裏がきれいで、丁寧に使われていたのが察せられる。少し煙の匂いがするのは、男の影を思わせるが、

「父のです」

 毛皮で丸くなったリリアは四方を順に指さした。

「東が帝都と教会領、北はクロッサス山脈を挟んで氷結大地、南はファブル自治領とスレイエス公国国境があり、その先は大国シリエス王国、そこがレオーラ大陸南西端に当たります」

 北にはクロッサス山脈の険峻が青霞の中で連なり、東には色を失った短草と灌木の枝だけが辛うじて立っている白茶けた大地が地平の向こうまであり、南には古い石壁が点々と砂煙の奥の奥まであって、昔は一繋がりの長大な堡塁を築いていたのだろうことを窺わせた。当然のように、諸外国との国境線らしい施設は見えない。国境まで一千キオは下りません、とリリアはいう。

「しかし、大変なところに建てたものだなあ」

 このアントワーヌ邸を、である。

 おそらくクロッサス山から続いているのだろう高台の突端にある。東西は斜度五十に近いような絶壁に挟まれ、南だけに辛うじて昇降のできるつづら折りの坂がある。ユウはのちにこの坂を降りることになるが、馬車を引く馬も息を切らせる急坂だった。

 これらを確認する間、ユウは手すりのない胸の高さの塀から身を乗り出していたわけだが、その身体をリリアが必死に引っ張っていた。

「危ないですよ」

「大丈夫だ。落ちたらそれもおれの天運だろう」

「それを大丈夫とはいいません」

 ぐいぐいと外套を引くが、彼女の膂力と体重では一向重りにはならず、ユウが落ちていれば一緒に引きずられていただろう。

一通り見渡し、ユウはようやく身を起こした。そこでリリアも彼から身を離し、赤くなった顔を揉んでいる。

「資材はクロッサス山からの石材と西の森から切り出した木材だろう」

 西に広がる町の向こう、荒野を挟んださらに奥に木々のざわめきがある。南から北まで、隙なく並ぶアレは、いわゆる北方針葉樹林帯タイガという奴だろう。

「石材をこの台地を辿ってもってくるのも難業だが、西の森から資材を持ち上げてくるのも至難だな。こういうところに建物を作るというのは、普通砦かなにかだろう。でなければ狂人だ」

 地球で唯一、ドイツのノイシュバンシュタイン城は美観のためだけに山岳部に建てたという。もちろん、狂人が建てた。

「そうだろう?」とリリアを見る。「どうした? 顔が赤いぞ」

「なにもかもユウさんのせいです」リリアは額の重そうな汗を拭い、「先日、父に訊きました。帝都があそこにあるのも、アントワーヌ邸が高所にあるのも、東のアンガス王国と戦った名残なんだそうです。南の城壁の遺構もそうです。二十年以上前は中央荒野を国境にしていたそうですが、前帝のヘンドリッヒさまが、ここ、ディクルベルクを前線にして、中央荒野東部に侵出し、その侵出基地がいまの帝都だそうです」

 しかし、アンガス王国も滅んだわけではなく、いまはさらに東にある。現在、二国の国境は、レオーラ大陸東部でこの大陸を南北に別つラピオラナ山脈上にあるそうだ。

「たったの二十年前か」

「最近は大きな戦いがあったとは聞きませんが、現帝のエドワード陛下も軍備を整えていて、東を狙っているそうです」

「この世界も安泰じゃないな」

 しかし、とユウはいう。

「どう攻め落としたものか」

「え」とリリアは目を丸くする。「なにをですか?」

「アントワーヌ邸を」

「ちょっと」と愛らしい顔をしかめ、「攻め落とさないでください」

「いやいや、そういう想像しちゃうじゃん。城に来たら」

「そうですかねえ」

「おれならどう攻めるかなあ。東西は壁がキツいし、南もアントワーヌ方に圧倒的に有利。相当の被害を覚悟しなきゃならないだろう。なら北口かな。北上して、とにかく台地に登るか」

「ならわたしは北口を封じます。これでユウさんもおしまいです」

「おいおいおいおい」とユウは肩を竦め、「そういうのを後出しという」といいつつ、「でもおれは夜襲にするから、きっと気づかれない」

「わたしはかがり火も焚いて、夜も警戒しますもの」

 でも、とリリアは続ける。

「これはアントワーヌ邸の本当の姿ではないそうです。古い砦は、抜け穴から城壁まで、軍事関連施設の尽くを破壊して埋め尽くし、いまの屋敷を建てたそうですから」

「なぜ?」

「陛下に反逆を疑われないように、軍事施設を取り壊したのです。治安維持のために兵を抱えてはいますが、籠城して戦うことを想定していないそうです。わたしが家を継いでも、防備は施すな、と父からいわれています。修繕すら許可が必要で、勝手にすれば家を取り潰されます」

「この遺構がボロボロなのも、それか」

「そうですね、あまりに広範に及んでいるから壊し尽くせなかったのでしょう。一部だけ、帝都との交流のために切り拓いていますけど、全部というのはお金がかかり過ぎます」

「そりゃそうだ」

 町並みの中には風車があり、煙突があり、前者は北にあってクロッサス山脈を向き、頻りに羽根を回している。後者は南にあって、せっせと空に陽炎を放っていた。

「あれは」とリリアは南を指さし、「あの南の煙突は、人工ヘリオスフィアの工場です。北にあるのは、そのスフィアや麦をすり潰す臼を回す風車です」

「スフィアをすり潰すの?」

「田畑に撒くのです」

「田畑に撒く?」

「以前、少し話しましたけれど、植物の育成にはソルが必要不可欠なのです。ですが、この辺りの土にはソルが圧倒的に足りません」

「なぜ?」

「ソルはヘリオストープから作られます。ヘリオストープはあらゆる生物の死骸を食料とします。暖かい方が生物量が多いです。草花も、虫も、爬虫類、両生類、不定形類、鳥盤類、あらゆる生き物が熱帯地域の方が圧倒的に多いのです。ですから、ヘリオストープも温帯以南を好み、この辺り、亜寒帯は非常に少なくなり、ヘリオストープが少ないということはソルも少なくなるわけです。ソルが少なくなれば植物が少なくなり、植物を食べる動物も少なくなり、草食動物を食べる動物も少なくなり、動植物が少なくなると、またヘリオストープが減ってゆく、という悪循環が生まれているのです。なので、この辺りは作物を育てるのに、スフィアの粉末を撒く、というひと手間を加えないといけないのです。スフィアは大気中のソルを集めて固化したものですから、粉末にすればソルを大地に還元したのと同じになります」

「スフィアの粉末を撒く、か」

 ソルとはなにか、をユウは考えている。極小微生物なのか、ウイルスに類似しているのか、特定の原子構造を持つなにかなのか、それとも、ユウのまったく想像もできないこの世界特有の物質なのか。どれにしても、分析する手段をユウは持たないため、答えは得られそうにない。

「難しい問題だ」

 ユウが呟いたのを、リリアは勘違いしたらしい。「そうです、難しい問題です」と頷いて、別の話を始めた。

「いまのディクルベルク、いえ、ディクルベルクだけでなく、アステリアという星全体が、非常に冷却化されています」

 という。それもただの冷却化ではないのです、と指を振る。ただの冷却化だと思っていたら甘いですよ、といわんばかりに指を振る。

「ソルはあらゆる生物の起源であると同時に、空気中にあって地域の熱を保つ力があるのです。この星で生物が発生するにはソルが持つ熱がいる。つまり、この星の生物はソルがなければ物質的にも熱量的にも生きられないし、ソルもソルによって構成された生物を必要とする」

 ユウは沈思黙考している。

 ソルで構成されていない自分は、この世界ではどうなるのか、と思う。異邦者という生き物が認定されていて、数多生きている、というのなら、ユウ自身生きていくのになんの問題もないのだろうが、しかし、違和感が拭えない。ソルとはなにか。広い地平線を眺めながら考えている。

 それで、とリリアは傍らで話を続けていた。

「人々はスフィアを見つけました」

 ひとつ、息を落ち着けて、さらにいう。

「スフィアは人の欲望を叶えます。願うだけで火が起こり、水が湧き、気温の寒暖も解消される、奇跡の力を手に入れたのです。しかし、無限に使えるものではないのです。石の純度に依りますが、どんな高純度のスフィアでも使い続けていれば消耗して詠唱できなくなります」

 無限ではないのか、とユウは口中に呟いた。リリアには聞こえたらしい。「そうです」と頷いていた。

「無限ではありません。使っていればただの石に成り果てます。処分して新しいものを求めなければならなくなります」

 とリリアはいう。

「スフィアは元々鉱山を掘削して手に入れるもので、とても高価なものでした。それが人工的に生み出せると判明したのが百年前、高温高圧の釜の中に岩石を入れ、自然空気を吹き込んで大気中にあるソルを吸着させるんです。これによって、鉱山を採掘することでしか得られなかったスフィアが、安全に、簡単に、天然ものに比べればだいぶ稚劣ですけれど、地上のどこでも手に入るようになったのです。しかし、弊害もあります」

「弊害?」

「工業的にスフィアを作れば作るほど大気中のソルがなくなって、寒くなるんです。ここ、アントワーヌ邸があるのは高台の上じゃないですか。この高台も元は氷河があるためにできた地形だそうです」

 氷河地形というと、モレーンやエスカー、ドラムリンなど、フィンランド、ノルウェー、ドイツなど、ヨーロッパ北部に多い。地球では一万年前に直近の最低温期、通称、最終氷期があったのだが、そのころは北ドイツ辺りまでは氷床に包まれていたという。日本でも氷河地形は高山に多く見られる。カールというのは氷河の重さに削られた斜面のことをいい、その先端には氷河によって運ばれた砂礫の丘陵、モレーンがあったりする。

「氷河地形は、いまのシリエス王国南部辺りまで見られるそうです。この星の八割方が氷河に呑み込まれていた時代というのがあったということですね」

「スノーボールアース仮説というのがある」とユウはいった。「氷河期になると極地が凍り、氷は白色だから日差しの熱を吸収しにくくなって、加速度的に冷えてゆき、いずれ全球が凍結するらしい。温暖期はそれと逆のことが起きて、爆発的に気温が上がる。火山活動との連動もあるけれど……」

 あくまで地球の話だし、全球凍結に関しては諸説ある。例えば、ポールシフトや銀河系の影響、どちらも宇宙線が激しく降り注いだという説だ。地球が過剰に宇宙線を浴びると、諸々の化学反応があって大気中の塵が増える。大気中の塵が増えると、それを核にして水滴が集まり、雲が増え、日差しが遮られる。白い雲は地球の高い位置で日を反射する。自然、地球表面が冷えて、凍結へ向かう。温暖期に向かうのも雲の消失や宇宙の状態に影響されているのではないかともいわれている。

「へえ」と目を丸くしたのはリリアの方である。「ユウさん、物知りですねえ」

「物を知ってるくらいのことで自慢するな、と昔の人はいっていた」

「そうなのですか?」

「物は知っていて、それを使わない限りゴミであるんだと。故人曰く、知って同時に行動しなさい。おれはスノーボールアース仮説を知っている。けれど、実生活に生かす術を知らない。だから未熟である。知っているだけで偉そうにしている奴は最悪の屑だともいう」

「非常に厳しい考え方ですね」とリリアは眉をひそめて、ひそめつつ続ける。「アステリアの最終氷期はたったの千年前、そのころは極度にソルが欠乏し、この大陸南部までは氷河の下。全球凍結するともいわれていたそうです」

 当然、氷河の近くなど人を始め、あらゆる生物の生存できる環境ではない。ユウはレオーラ大陸の広さを知らないが、この大陸の大半に生命の存在しない時期があったということだ。それもわずか千年前のこと。

「そのソルを」とリリアは天を拝むようにしていう。「解き放ったのがジョゼです」

「ジョゼ、か」とユウは嘆息する。噂の聖人か。

「ジョゼは魔障という怪物を世界壁の向こうに封じるとともに、星の心臓といわれるところでソルを解き放って最終氷期を終わらせたといいます」

 なるほどね、とユウは思う。魔障や世界壁のことは彼の知識の埒外だが、最終氷期を人為的に終わらせたといわれれば聖人と呼ばれるのもわかる。確かに救世主だ。

「いままた、この土地は作物がまったく取れない不毛の地になりつつあります。簡単に氷河に包まれますよ」

 そして、リリアは自嘲気味に笑った。

「大気中のソルがアステリアの気温を保っているのがわかったのはたったの二十年前。南のシリエス王国、一般に王国というとこの国ですけれど、その国ではスフィアの生産量を規制しているそうです。南の諸国はそれに準じています。しかし、帝国はもはやスフィアなくして生活は成り立ちません。冬は寒すぎて暖を取らなければ凍えて死にます」

 でも、と発したリリアの声は意外に明るい。

「わたしたちは絶望したわけではありません」

 彼女は小さな手を打ち、

「階下に戻りましょう。見ていただきたいものがあります」


     〇


 アントワーヌ邸に一つだけ、異質な扉があるのはユウも気づいていた。木製のものが多い中で、その両開きの扉だけが曇りガラスでできていたのだ。

 その異質な扉の前に立ったリリアは、「ここです」と一言告げて、全身で当たるようにして扉を開いた。瞬間、噴き出してくるねっとりとした空気。濃厚すぎるほどの緑の臭いと、ふんだんに含まれた蒸気の温もりにユウは顔を背けた。「うお」と思わず呻いて、片手は顔の前にかざした。

 右に黄色、左に紫、頭上を通る蔦から赤い花弁が垂れ、正面には生垣が張り巡らされて、その前で左右に別れた赤煉瓦の道筋をかたどっている。そのどれもが、格子張りのガラス壁から差し込む淡い日差しを受け、無限にも思える色彩を萌やしていた。

「わたしと母が手入れをしている温室です」二歩、三歩と先を行ったリリアが後ろ手にして振り返った。「すごいでしょ?」

「ああ、すごいなあ」

 あちこちに視線を泳がせるだけで、押し寄せてくる情報の多さにユウの頭がまだついていかない。

「あそこから温風を出して、これで土壌に水を与えています」

 あちこちに四角い木箱が四脚で立てられていたり、花壇の周りには鉄製の管が這わされていたり。

「これも晶機というやつか」

 ユウは配管に触れて、そのかたさを確かめ、傍にオレンジ色の花弁も見つけ、顔を近づけて鼻腔を蠢かせた。

「いい香りがする」

「そうでしょう。ここの施設はおっしゃる通り晶機で管理されています」

 リリアもそばの花弁の一枚に触れ、

「温度、湿度、気圧、水量と水流、堆肥と肥料の具合、土の状態、葉っぱの様子や茎、花が咲いているものはその様子も観察します」

 意外に科学に密着した思考法をしている。ユウが思っている以上に、この世界の科学工学は発達しているのかもしれない。

 どこかから音楽まで、クラシック調の音色が聞こえる。見ると、リリアが壁際のヘリオスフィアに近づいて片手をかざした。石から発する緑色の光が収まるとともに、弦奏楽も収まってゆく。

「そんなことまでできるのか?」

「覚えさせた曲を再生させているだけですけれど」ユウの方に向き直り、「ある説によると、音楽を聴かせた方が育成が良くなる、とか。でもここじゃあまり変化が見られませんでした。植物種によるのかもしれません」

 ユウはヘリオスフィアの評価を決めかねている。もしかすると、想像を絶する万能性があるかもしれない。

「一説によると」とリリアは植物園を歩きながらいう。

「スフィアはユウさんたちのように、別の世界から物質を引き出しているのではないかといわれています。なにもない空間から水が湧き出すのではなく、空間に切れ目を入れて、異世界にある対象物、例えば、水などを引き出している、というのが有力な学説です。それだと増える一方に見えるけれど、自然界ではこちらの世界の物質が知らない間に別の世界に飛ばされて帳尻があっているんじゃないかともいいます。誰も証明していないんで、空論ですけれど」

「ははあ、面白い考え方をするものだな」とユウは感心した。

 この世界は奇跡に頼らず、何事にも理論と合理性を求めているようだ。別の世界から来る生き物がいる。これは紛れもない事実、なら、別の世界から来る物質またはエネルギーもあるはずで、晶術とはそれを利用しているのではないか、という論法だろう。理論を立てて実証しようとするのは、地球の科学信奉と変わりない。

「ここの土はディクルベルクの土です」と、彼女はいう。「堆肥、腐植、ソル、その他鉱物などの土壌改良剤、色んな配合を試して、このように美しい花を咲かせています。別棟には麦の試験場もあり、そちらはディクルベルクの四季を再現しながら、各種肥料の配合が試されていて、それを参考に農地に適用されたり、品種の改良をしたりしています」

「意外にちゃんとしてる」

「意外ではありません、わたしはちゃんとしてます、ちゃんとしていなかったことがありません」

 リリアは不服そうにいったのもつかの間、両手を握って胸に抱えた。

「この土地をもっと、緑いっぱいの大地に戻したいんです。ジョゼが世界にソルを取り戻したのが千年前、その直後、この辺りは湿地で、わたしたちのご先祖さまが開拓して豊かな牧草地にしたそうです。小麦を植え、お米も植えて、世界最大の穀物地帯でした。それが、ここしばらくの冷却化現象のせいで、ソルは死に、水は枯れ、草木も生えない不毛の地になってしまいつつあります」

 ですが、と訴える彼女の舌はさらに熱を帯びてゆく。

「この世界は有限です。植物を構成する物質も、動物を構成する物質も、人を構成する物質も、すべて同じもので、大地と空とその間にあって、循環しています。かつてこの大地にあった緑も、空を漂って、またわたしたちの体の中を巡って、この星のどこかにあります。必ずある。消えたわけではない。だから、わたしはあきらめません。いまの時代は、偏っているだけだと、人と、大地と、空に偏って、地上の世界を圧迫しているだけだとわたしは信じています」

 わたしは、とリリアは繰り返す。

「ご先祖さまがわたしたちに残して下さったこの大地を、必ず、緑豊かなものにしてみせます。アントワーヌの名に賭けて」

 ユウはオレンジ色の花弁から目を離し、リリアの祈るような仕草をひたと見据えた。

 上天に這わせた蔦の葉の重なりの合間から差し込む日差しが、彼女を煌々と照らしていた。


      〇


 どおおん、と音を立てて、温室のドアが跳ね上がった。

 誰かと思えば、細身の女が一人いて、凛々しい瞳で四方を見渡すとユウたちを見つけ、革のブーツの音も高く、煉瓦道を渡ってきた。貴族らしい青のジャケットの背中で茶色のポニーテールが右に左に揺れている。近づいてくる顔は整っていて、美しいといっていいかもしれないが、いまは険しく歪められていた。

 彼女を捉えたリリアの目にも闘争心のようなものが宿って見えた。

「ジェシカ」

「いいのです、リリア。なにもいわないで」

 低く片手を上げただけでリリアを制し、ジェシカと呼ばれた女はユウの前に立った。手を腰にやり、膨らんだ胸を張って、ややのけ反るようにユウを睥睨している。身長はわずかにユウの方が高いかもしれない。

「貴様がリリアの匿っている犬か」

 かち、と鯉口の切られる音がしたのは白剣の鞘からだった。リリアがユウに飛びつくようにして押しとどめた。

「初対面にしてはずいぶんなものの言い様です」片腕にリリアをぶら下げなら、ユウは女を睨んで返す。「人を愚弄するというのは、それなりの覚悟あってのことと思ってよろしいか」

 ふ、と女は口元だけで嘲笑し、

「三下が、リリアの庇護にあるからといって調子に乗るな」

 二歩下がったユウは白剣の柄に手をかけた。その手にリリアの小さな手が重なる。

「ユウさん、どうか収めてください。ジェシカも、ユウさんはわたしの賓客です。無礼な真似は許しません」

「許されなくて結構。どこの馬の骨ともしれない虫はここで斬り捨てます」

 ジェシカも半歩、大きく下がり、腰に帯びた長剣の柄に手をかけた。そのまま引く抜くと、鈍色の鋼鉄が日の光に輝いた。さ、と中段から最上段に移る。

 ユウはリリアを押し退け、白剣の柄を握った。

 長剣は音高く振られ、瞬間のちには煉瓦道の上を転がって、別の音を立てていた。白剣の残像が縦横の円弧を重ねて、ジェシカの首元に収束してゆく。

「命を拾ったな」

 ユウは彼女の耳元に囁き、直立して愛刀を鞘に戻した。

 ど、とジェシカの膝が折れる。思い出したように、腫れた手の甲を握っている。

「つ、強い……」と呟いたのはリリアの方だった。芝生の上に尻もちをついていた彼女はスカートの埃を払って立ち上がり、「ジェシカ、自業自得ですよ。ユウさんが強くて慈悲深い方だったから大事には至りませんでしたけど、このようなこと、二度と許しません」

「う、ぐ……」

 呻いたジェシカは瞳を潤ませたかと思う間もなく立ち上がって駆け去っていった。

「なんだったんだ?」

 ユウには茶番があったようにしか見えない。

「ジェシカ・クレイクスといって、日ごろからわたしの護衛をしてくれている子です。前々からわたしがユウさんのお世話をしているのが気に入らなくて、この際、不満が爆発したのでしょう」

 リリアは転がっていた長剣を拾おうとしたものの、重くてできず、代わりにユウが持ち上げて日差しにかざした。なかなかの業物に見える。

「ユウさんにお怪我がなくてなによりでした」リリアはユウに向かい直り、「家臣の無礼、どうかお許しくださいませ」

 丁寧に頭を下げるのをユウは素っ気なく見送り、

「別にいい。過ぎたことだ」

「それにしても、ユウさん、お強いですねえ。ジェシカもアントワーヌ家臣団では弱くない方なんですけど」

「そうか。彼女もこの世界では弱くない方か」

 ユウはジェシカを基準にこの世界の剣豪のレベルを推し量ってみた。教えを乞うような達人を探すのはずいぶんと時間がかかりそうである。

「いったいなにをしたんです?」

「抜刀と同時に柄で彼女の小手を打った。それだけのことだ」

「それでジェシカの手が腫れていたんですね」

「骨が折れているかもしれない。加減をしなかったから」

「たまにはいい薬です。いっつもぎゃあぎゃあうるさいんだから。その点、ユウさんには感謝しています。あの子の命も拾ってくださいましたし」

「最悪、二度と剣を握れなくなるかもしれない」

 え、とリリアは目口を丸くして、ジェシカが出ていった方を眺めた。

「あ、あとでわたしが見ておきます。あの子のことはユウさんはお気になさらず」

 先ほどから、あの子、あの子、とリリアはいうが、ジェシカの方が絶対に年上に見える。

「ユウさんはすごいです」とリリアは指先を合わせた。和やかな笑みを浮かべて、「なんでも知っていて、実戦にも使えるんだから」

「おれにいわせれば」とユウは首を振り、「リリアの方がすごいよ。おれは全球凍結の説をいくつも知っているけれど、それを使ってなにかをしているわけじゃない。最悪の屑の部類だ。でもリリアは違う。知識があって、研究して、この大地に緑を増やそうとしてる。実際、すごいと思うよ」

 ぎょっとしたリリアの瞳がきらきらと光を帯びて、頬を紅潮させてゆく。あまりの嬉しさからか、全身を震わせて、

「ユウさんは意外に優しい人かもしれませんね」

「意外ってなんだよ」


      〇


 この日、ユウは金槌を片手に、アントワーヌ邸の下、石壁の遺構の上にいた。しゃがんで、壁面を撫でている。

「なにをするんです?」

 リリアがやや前にのめると、その滑らかな髪が彼女の頬を撫でて垂れた。

 彼女が隣に平然といるのが不思議でたまらない。

 ここは屋敷の外、高台の下の遺構の上だ。護衛の一人もいない。彼女は一領主の娘であり、いうなればお姫様に相当する。にもかかわらず、彼女は頭巾をかぶっただけで、ひょこひょこを屋敷の門を通り抜けてしまった。それでいいのか、とユウも思ったがなにもいわなかった。家には家の事情があり、軽々に口を出すものではない。

 そのリリアは白い指先にこぼれた毛先を引っ掛けて、耳にかけていた。

「なんですか?」と、ぷっくりと膨れた唇を蠢かせながらいうリリアから強いて目をそらしたユウは石壁を指でなぞった。

「おれの見た限り、この石は火山由来だ」

「ん」とリリアは眉間にしわを寄せた。「わたしはあまり詳しくないので……」

「離れてろ。破片が飛ぶぞ」

 リリアが三歩下がるのを認め、ユウは金槌を振りかぶった。石壁の角を叩く。数度繰り返すと、親指の先ほどの破片が零れ落ちた。

「見ろ、この光沢。黒雲母と石英、カリ長石も含んでる。典型的な花崗岩だ」

「カコウガン、ですか」

「この石はクロッサス山から運んできたな?」

「わかりませんけど、ディクルベルクの石材はほとんどクロッサス山だと思います」

「おれがここに来る途中、クロッサス山の上を見てきたけれど、柱状節理があった。きっと花崗岩だったんだろう。それで、いまなお温泉が噴いている、というのなら結構活発な火山だな」

「そうなのですか?」

 リリアは空を見上げている。

「クロッサス山の北は氷結平野」

「はい」

「その向こうは海か?」

「海です。一年を通して凍結しているそうですが」

「その海岸線は、山脈に沿うようにしてあるか?」

「ある、といわれています。海岸線が長すぎる上に、探険先が過酷なため、正確な調査はされていませんけど」

「典型的な沈み込み帯だ」

 プレートテクトニクスが起きている。海洋がレオーラ大陸の下に沈み込んで、山体とその下のマグマを形成している。

「花崗岩というのは大陸地殻を溶解して上昇したマグマが地中でゆっくり冷え固まった岩石のことをいう。構成物の粒子が大きくて、白っぽく見えるのが特徴だ」

「はあ……」とリリアは眉を八の字にしている。

「これが」とユウは花崗岩を指先で叩いた。「ここにある、ということは、この星を構成する物質も原理も、おれの星と大して変わりないということだ」

「は」とリリアは目を見開き、「なるほど」と顎をつまんだ。「ユウさんの世界と、この世界は違う世界ですから、構成物質と物理法則が異なる可能性があったということですね」

「花崗岩のありそうなところに花崗岩があった。他にも、この星の地形を当ててみせよう。例えば、緯度三十度付近は広大な沙漠になっている」

「はいはい」とリリアは頷く。「その通りです」

「しかし、大陸西海岸に限られる。沙漠の北は牧草地か穀倉地で、東海岸は森林地帯。沙漠の南は熱帯雨林、つまり密林化している。なるほど、それで王国は王国と呼ばれる力があるのか。ちょうど穀倉地だろう。食うのに困らない。一国が発達するわけだ」

 ユウのいうことは地球における地学の原則だ。繰り返すようだが、大陸西岸は乾燥し、東岸は湿潤になり、緯度三十度付近は沙漠化し、その北は短草が優位になり、南は熱帯雨林。順に海流の大循環、トラパー循環で説明される。ちなみに山ができるのはプレートテクトニクスだけでなく、プルームテクトニクスにもよる。

「確かに」とリリアは難しい顔を傾げ、「その通りな気がします。大筋には」

「おお」とユウは立ち上がって絶叫した。

 なんと美しい星だろう。

 アステリアの歴史は知らない。だが、おそらくは何億年という年月を重ねてきたことだろう。その時間の中で、空が対流し、大地が動き、海が流れて、世界を変転させてきた。その変転の中を生物は懸命に生き、時に翻弄され、それでも命を繋ぎ、いまここで己となって結実している。

 あの山も、この風も、いつか降る雨も、ここに戯れる砂の一粒さえも世界の変転の結果であり、すべてに意味があり、意図があり、あたかも人知の及ばない誰かが芸術を描いたようにも思え、またその人知の及ばない誰かが意図の先にある温かいなにかへ人類を導いてくれているようにも思え、ユウは感動に身を震わせていた。

 世界は美しい。この砂一粒にも意味がある。

 自分がひどくちっぽけに見え、しかし、紡がれてきた命の偉大さにも打ち震えて涙が込み上げてきた。小さな単細胞生物から海洋生物を経て、陸地に上がり、哺乳類の一部は手足を発達させて文明を築き、助け合い、殺し合い、分かち合いながら今日まで来て、自分を作っている。その歴史の、命の連鎖の、生きて、未来に次の命を押しやろうとする力の、なんと尊いことか。

 こうして人は宗教に目覚めるのかもしれない。しかし、ユウはそうならなかった。知的好奇心が打ち勝った。

 この世界のすべてに意味があるというのなら、おれがここへ呼ばれてきたことにも意味があるのか。ヴォルグリッドが現れたことも、天ノ岐家が代々白剣を継承したことも、父が死んだことも。

 知りたい。

 そのすべてに意味があるというのなら。

 砂煙にかすむ白土の荒野は果てなく、青空の向こうまであり、この世界にある無限の可能性を内包しているふうにユウの目には映った。

 ところで、一連の感動がユウを襲って、その喜怒哀楽は表面に出ている。リリアは隣にいて、彼の変化のわけがわからず、ただあたふたとしていたという。


      〇


 それから数日、ユウはさらにディクルベルクの中を歩き回った。

 愛らしい木組みの建屋に挟まれた、石畳の道が主要街道だ。黒い石を脇道に敷き、白い石を中央に敷き、前者を歩道にして、後者を馬や馬車が通るらしい。蹄の音も軽やかに、ユウの目にも見慣れた、馬、という生き物が荷台を引きながら行き過ぎてゆく。歩道にもうかうかしていると肩をぶつけるくらいに人がいて、意外に賑やかだった。沿道にある建屋は先に書いた通りに瀟洒で、街灯もガス灯を思わせるお洒落な佇まいをしていて、なにもかもが愛らしい。

 異世界、というより、中世ヨーロッパにタイムスリップしてきたような気分である。道行く人の服装も、そのころの、麻や絹、なめした革など、色合いも白でなければ褐色や黒などの自然色が多く、その時代らしさが出ている。

 町が途切れても街道は続いている。西へ。そこを馬車と旅人がやってくる。両側は果てしないほどの平地だった。畔と畝がある以外、この星が丸いとわかるほど、地平線まで真っ平に出来上がっていた。

「ぜーんぶ、ディクルベルクの耕作地です」とリリアは頭の上で腕を回し、身体も回し、二回りほどしてようやく止まった。

 クワを持って耕している人もいるし、荷駄を引いている人もいるし、世間話をしている人もいる。馬もいる、犬もいる、農具を引いている家畜は羊かなと思ったけれど、少し首が長い。アルパカに近いかもしれない。黄ばんだ白毛の下にある筋肉は充実しているらしく、重機を身体に結びつけ、力強く引いている。

「主な作物は麦と、イモ。小麦は春に蒔いて秋に収穫します」

 いわゆる春小麦だ。地球では冬小麦、つまり、秋に種を蒔き、冬を地中で過ごさせ、春に芽吹かせて、夏に収穫する。冬小麦の方が生長期間が長く、そのぶん粒が大きくなるので、収穫量が多く、生産量も多い。ただ寒冷地だと種が冬を越えられないため、春小麦を育てる。

 ユウとリリアは畑地を歩き回り、草本、地力を確かめつつ、あちこちの人々と言葉を交わし、犬と戯れたり、アルパカ状の獣の首を撫で回したりしている。マゴ、という家畜だそうだ。

「どう思われました?」

「ふかふかしたいい毛皮だ」

「いや、そうではなく」リリアは眉間にしわを寄せ、「畑地のことです」

「土のことなら、まったくいいとは思わない」

 畑地の土は白茶けた塊がゴロゴロとしていて、指先でつまんで力を入れると砕けて細かい砂になった。

「おれの常識では、あれで小麦は育たない」

 土壌改良をしているわけだ。あのような粘土質では小麦の生産にはまったく向かない。

「ですよね」とリリアも困ったように笑う。「昔は冬小麦どころか、米まで収穫していて、その穀物生産量は大陸一、世界一ともいわれていました。ですが、いまは春小麦も圧迫されて、主要作物はイモ類に転換しようとしています。そんな畑地になにか助言はありませんか?」

「助言ねえ」ユウは頬を撫でて嘆息している。「おれよりもここで研究しているリリアの方が博識な気もするけれど」

「ディクルベルクの直近の問題は水不足です」

「水?」

「ディクルベルクはクロッサス山からの湧き水で成り立っていました。それが枯れつつあります」

「はは」とユウは乾いた笑いを発し、「湧き水の枯渇は一に凍結、二に地震、この二つで地下構造が変わって流路も変わったか。他に流路のシルト化、つまりいままで砂礫だった層が水を通さない粘度層に変わって土中の通気浸透性が消失するかしたわけだ。クロッサス山の水量が変わった可能性もあるけど、まあ、無視していいだろう」

 氷河があって世界が寒冷化しているというのだから、水量がないということはないだろう。凍結の可能性は捨てきれないが。

「粘土層かもしれません。ディクルベルク近郊の粘土質は年々増えています」

「粘土層の開墾は腐植を多く与えながら短草を育てるとか、深く掘って地下にあるまともな土を表層に持ってくるとか。シルト化を招くのは土中菌類と植物量の不足だろう。違うのか?」

「植物量の不足はわかります。粘度層に植物の根を伸ばさせて土地をほぐし、その植物が枯れればそのまま腐植にするというのでしょう。ですが、土中菌類、というのは……」

「知らないか?」

 緯度経度、その他物理的な用語はジョゼ以来の一千年間残り続けて通じやすいのかもしれないが、生物的な用語は進化の過程が異なるため、通じにくいのかもしれない。なにより、菌類は目には見えない生物だ。発見も遅れることだろう。いや、もしかしたら、ソルに代用されて、菌類は存在しないか、それに近い状態になっているのかもしれない。

「庭園に行こう。おれも確かめたい」

 アントワーヌ邸に戻り、ユウはふかふかの黒土を指先で丁寧に掘り返してみた。小さなピンク色の花の根本だ。

「見ろ」とユウはヒゲ状の根を指さした。「根っこに白い粒がくっついているのがわかる。これが根菌だ。植物の根に集まって、植物から栄養素を貰いつつ、与えてもいる」

「これが菌ですか」

「普通は目視できない。砂の一粒より小さな生物だ。それが、こうしてコロニー、つまり、密集していて初めて目視できる」

 土の中を凝視しようとするリリアの顔が意外に近くて、ユウは身を引いた。その場所を彼女に譲り、横にずれたユウは別の場所の土をまた丁寧に、根を傷つけないようにしながら掘ってゆく。

「見ろ。ここに糸状の塊がある。菌体はこうして土中にあって、植物同士のネットワーク、つまり近隣植物同士の情報と栄養交換の架け橋になっている。その過程で菌類は養分を得るわけだ」

 ただ、土の中に埋没している。通気がよく、保湿がよく、土が団粒、つまり、ゴロゴロとした柔らかい状態でなければ、この菌類は発達しない。嫌気性菌という酸素を必要としないものも存在するが、植物と共生しているのは好気性菌が多いだろう。見る限り、このアステリアでも同様らしい。その観察に、ユウはホッとする思いだった。もし菌類がいなければ、地球とアステリアではまったく生態系が異なる、ということになる。

「おれの星で生物が発生してから三十八億年。最初に生まれたのが、こういう微生物だ、たぶん」

 初期生物というのは生存していた痕跡が消滅していて、どういう形状かは定かではないが、種々の微生物に近かったのは事実だろう。ちなみに、四十億年ほど昔の岩石にも、生物が作り出した物質の痕跡があり、生命発祥は四十億年より前ではないかともいわれている。

「こういう生き物が創った環境に、植物が生まれ、動物が生まれた。だから、彼らがいない環境では植物も動物も生きてはいけない。逆にいえば、彼らを大切にしていれば、生物にとって心地いい環境は成立する。おそらく、アステリアでもそうだろう」

「なるほど、なるほど」と頻りに頷くリリアの顔は土に汚れていたが、それも気にしていないようだった。「ヘリオストープに近いもののことですね。こういう生き物がヘリオストープ以外にもいるだろうというのは示唆されていたんですが、まさかこうして目視できるなんて」

 さすがは異界の知識です、と、興奮したのだろう、頬を赤らめている。

「ですが」ともいう。「まだディクルベルクの水不足が解消されたわけではありません。これがどう育つのか、わたしにはまだわかりませんが、都合よく喫緊の水不足を解消してくれるとは思えません」

「そりゃ、土中菌類だって育成期間が必要だし、育成するのに水が必要なはずだ」

 しかし、万に一つ、水もいらないという可能性もあるかもしれない。ユウはまだこの星の生態系のことをなにも知らない。

 生物がいて、人間型の生き物がいて、重力があり、光があり、熱があって、風があり、昼があって、夜がある。それは同じであっても、知らない生物が田畑を耕し、ヘリオストープなどという未知の存在もあり、天には虹色の橋がかかっている。一概に前の世界の常識が通じるとは考えていない。すべてを疑わなければならない。科学の基本であるが。

 水の話に戻る。

「最寄の川から水を引いてくるのが無難なんだろうが」

「最寄の川はクロッサス川です。この川はとても濃い温泉で、農業には向きません」

 アルカリ性なのだという。この世界では、アルカリ、とはいわないが。

 ユーステア語では、日本でいうところの横文字というのをあまり使わない。コップやグラスのガラス製品もレオーラ人は『ぎあまん』と表現する。アルカリ性も、苦、という。石鹸や炭酸、アルカリ性物質は口にすると苦いからだろうが、この辺り面倒だから以後横文字に翻訳して書く。

「最初はいいのです。ディクルベルク近郊の土壌が多少酸性なため、中和されます。ですが、温泉水を使い続ければアルカリ成分が蓄積します。そうなるとどうにもなりません。以後、使い物にならない土壌になります」

 放置土壌が酸性になる、というのは二酸化炭素のためだから、そのことで大気組成のおおよそもわかる。が、ユウが呼吸できているという時点で、地球と大気組成があまり変わらないというのもわかっている。大気中に二酸化炭素がないと、人はめまい、貧血を起こす。生きていけない。

「ヘリオスフィアの力を使えば、水は出ます。ですが、費用対効果の面で優位とはいえません。農業にはあまりに大量の水を必要とするからです。大気中のソルがないと植物が育たないのに、水分供給用のヘリオスフィアにまで使えば、二、三年のうちにディクルベルクは氷河の下です」

「例えば、ここに水があるとする」ユウは中空を指さし、「ヘリオスフィアでこれの味を変えられるかどうか」

「はあ」とリリアは眉をひそめた。「たぶん、できると思います」

「と、すれば、酸性水を呼び出すことも簡単なはずだ。水で中和するよりずっと効率がいい」

 普通、pH、水素イオン濃度というが、中性の水は七を示す。酸は一から七までの間、アルカリは十四から七までの間。この水素イオン濃度を七に近づけようとすると、一上下させるのに十倍の水を必要とする。五百ミリの酸の水素イオン濃度を一上げようとするれば、五リットル、二リットルペットボトル二本半。何百リットルのアルカリ溶液を中性にして使いたいとすれば、何千リットルかの水を最低限用意しなくてはならない。しかし、酸塩基を混ぜて中和する場合はこれほどの液量を必要としない。弱アルカリを強酸で中和するならほんの数滴で足る。その化学反応の過程で生成されるのは、水とちょっとした塩類、ユウが想定する実験の場合、温泉水由来の析出物だ。

 アルカリ性水溶液というのは先ほども少し書いたが、苦い。酸性溶液というのは酸っぱい。酢などがそれにあたる。つまり、酸塩基は味に出る。味を変えられる、とすれば、酸性水、アルカリ性水を召喚できる、ということだ。

 ヘリオスフィアは冷房暖房、音楽を奏で、火器にもなり、消火器にもなり、給水機にもなる。その万能性をユウは知りかけている。酸塩基の中和くらい容易だろうと察した。

「なるほど」とリリアは手を打って跳ね上がった。「ひとつの可能性ではあります」

「ではやってみるといい」

 ユウはヘリオスフィアが使えないので、他人事のようにいった。が、リリアが彼を引き止めた。

「ユウさんにも手伝っていただきたいのです」

「けど、おれにはヘリオスフィアが使えない」

「大丈夫です。馬には乗れますか?」

「多少はな」

「ならクロッサス川まで行って、川の水を採取してきていただきたいのです。いま邸内に試料がありません」

「そういうことなら」ユウにとってもクロッサス川の後背にある山岳には興味があった。この世界の様子がもう少しわかるかもしれない。「一向に構わないけれど、場所がわからない」

「ジェシカをつけますわ。あの子ならこの辺りのこと、なんでも知っています」

「あの女か」

 庭園でのいざこざ以来顔を合わせていないが、どういう顔をして会えばいいのか、わからない。

「わたしは実験の準備もありますし、さすがに馬での外出は人にバレるので、家の者の許可を取らないといけないんですけど、たぶん取れないから」

「しかしなあ……」

「これを機に仲直りしてください。二人がいがみ合っているのはいたたまれません」

「ハードルの高いことをいう」

「その、はーどる、というのは美味しいものではなさそうですね」

 などといいながら、結局ユウは頷いた。


      〇


 一陣の風になる、というのは、こういうものなのかもしれない。

 ユウはあぶみを踏みしめ、手綱を繰った。蹄は高鳴り、吹きつける風は力を増して、熱を放つ人馬の肌から温度を吸い取るほどに奪い去ってゆく。

 心地よい。

 全身に押し寄せては行き過ぎる世界とリズム。

 ほんのわずかな湿り気を帯びた空気、その中に満ちる遠い緑の気配、足元を霞ませる白の砂塵。

 極北の春の雰囲気。

 かすみの中に紛れるように植物たちは点々と集落を作り、根本から伸びる無数の葉茎を宙に垂らして、この乾燥地にも命の息吹はあるのだと感じさせる。

 すでにディクルベルクの街は南東に遠い。ずいぶんと走ってきた。

 しかし、前を行くジェシカとその愛馬は脚を緩めることなく疾駆している。ディクルベルクを出て以来、距離が縮まらない。

 速すぎる。

 ユウは騎乗馬の首下に手を添えた。栗毛色の毛が深い。地球でいうところの馬より、毛は深いかもしれない。などと思いながら、彼の脈を取った。いいリズムに思える。呼吸も深く、肌から滲む汗の具合も瑞々しい。

 馬のせいではなかろう、この遅れは。

 こいつはもっと走れる。走りたがっている。他の馬の尻など見て走れるか、という気概を感じる。サラブレッドに劣らない馬体と筋骨に漲る力は滴るほど温存されている。それを解き放てとこいつはいっている。激しくいなないて。

「気が合う」

 ユウは汗を振り払って、腰を浮かした。手綱を激しく繰る。

 ぐん、と速度が伸びたが、眼前の背中は、むしろ遠ざかってゆく。

 追いつけない。

 二騎は競い合って丘陵を登ってゆく。その天辺の先に到達したジェシカは馬首を回していた。頂上を前にして、ユウは歩調を緩め、顎から滴る汗を拭いなら厳しい傾斜を登ってゆく。それを認めたジェシカが先を急ごうとするのを、ユウが声を上げて引き止めた。

「ちょ、ちょっと待て。わかった。おれが悪かった。今日は負けを認める」

 手を振ると、ジェシカは全身から力を抜いた。険しい眼差しを向けてくる。

「はあはあ」

 息を切らしながら、ユウとその馬はようやく丘陵の頂に立った。西から指す日差しが眩しくて、一瞬視界が失われた。顔をしかめながら手ひさしして、眺めた景色の色合いに、ユウは知らず息を呑んでいた。

 芝と苔の、緑色の絨毯が一面に広がっている。うねる丘陵が波濤のように連なり、岩石の群れが列を成したり、輪を成したり、時には重なって、緑の絨毯の上に整然と幾何学模様を描いているのも美しい。点々と小さな黄色や白の色合いは花の花弁であろう。その群落の向こうには針葉樹の樹冠が霞みながら揺れていた。

「これが極北の春」

 ユウは感嘆するように呟いていた。

 ジェシカが無言のまま、蹄を鳴らした。ユウもそれに続く。今度は駆け足程度の速度だった。

「あのときは悪かった。加減ができなくて。手は大丈夫か?」

 平気そうに馬を御している以上、手は完治しているのだろう。が、他にあまり話すことがない。

「あれ、初めて見たよ。構造土ってやつだろう?」

 砂礫の描く幾何学模様のことだ。

 寒い地域、土が湿っていると、その水分は凍って霜になる。石の下にあっても水は凍る。凍ると膨張する。水は凍ると液体のときより大きくなるのだ。水とは、摂氏四度で最も密度が低くなる不思議な液体で、化学的な分類でも通常液体ではなく、特殊液体に分けられている。四度以下で膨張する理由は分子構造にあるのだが、ともかく、その氷が融解を繰り返すと同時に石が上下して揺れ、前後左右に動く。すると集まりやすい場所に周辺の石が集まってゆき、やがて幾何学模様を描くようになる。摂氏零度前後を行き来して氷の凍結融解を盛んに繰り返す極地帯に多い。日本国内では高所、森林限界辺りでよく見られる。

 こういうことが起こるなら、水の挙動も地球と変わりないと思っていい。人の心の挙動も同じかもしれない。ジェシカは景色とユウへ 交互に一瞥をくれただけで関心を示さなかった。

「なあ」とユウはなおも食い下がる。「温室でのことは謝るから」

「謝らなくていい」

 低い声でいって、振り向きもしない。

「あれはわたしの実力不足だ。おまえが謝ることはない」

 ユウはまばたきを繰り返して、彼女の背中を眺めている。むしろ、と彼女はぼそぼそと続ける。

「わたしが悪かった。いい過ぎたかもしれない」

 かもしれないではなくて、明らかにいい過ぎていたが、ユウは反駁しなかった。賑やかに笑って、

「いいってことよ。お互い様ってことかな」

「おまえにはわからないと思うが、リリアはディクルベルクに、いや、フローデン領にとって大切な方だ。フローデン候の一人娘で領主継承権を持つのはあの子しかいない。あの子になにかあればアントワーヌ家は取り潰しになり、わたしたち臣下は浪人する以外にない。意味がわかるか?」

「わかる」

 住む家も職も失い、放浪の身になるということだ。

「そのリリアが、川に落ちていたという理由だけで、見ず知らずの男を匿い、その世話を一人でしていると聞けば、その家臣団が気が気でなかったのは頷けると思うが、どうだ?」

「わ、わかる」

 ユウは自分のことながら、頷くしかなかった。例え、一国の姫でなくても、娘が同じ状況になれば両親ともに心配することだろう。犬猫ではないのだ。娘を拘束し、男の寝ている部屋の扉をぶち破って寒空の下に叩き出してもまったく不思議ではない。なぜ、リリアの両親がそう命じなかったのかの方が、考えてみれば不思議だった。

「あの子はな」とジェシカはまだ言い募る。「体が弱くて、ずっと風邪気味で、北の大地じゃ生きていけないとまでいわれてたんだ」

 ここを離れて南の王国へ療養に行っていたらしい。それがここ数年、王国帝国間の関係悪化のため呼び戻されたのだという。

「だから、あの子には無理をしてほしくない」

 リリアが貧弱なのはユウも知っている。膂力は皆無に等しいし、足がまったく遅いのも知っている。いつか、楼塔の上でユウの外套を引っ張って力んでいたとき、重い汗をかいていたのは冗談ではなかったようだ。もしかしたら、あのままバッタリいって、ポックリいっていたかもしれない。

「しかし、心配しすぎじゃないか? 結構大丈夫そうだぞ。気を遣いすぎると逆に良くないってこともあるし。運動して大丈夫なら、ある程度鍛えないと」

 ちら、とユウを見たジェシカは前に向き直った。

「もういいだろ。話すことは話した」

「いや、しかし」

「やだ」

 ジェシカはいい、

「話したくない」

 馬体が一気に加速してゆく。

「おいおいおいおいおい」

 仕方なく、ユウも駆ける。

 案の定、まったく追いつけない。


      〇


 先には針葉樹の群落があり、樹冠は見上げるほどの高さにあり、枝葉が重なり、鬱蒼といっていいだろう。木立の間に辛うじて覗く太陽は樹林の醸す湿気に淡く歪み、桃色の光を豊かな腐葉の上に落としていた。

 かたい土道にも木の根が張って、さすがに二騎とも速度を落とした。

 しばらくの森林浴ののち、梢が唐突に途切れた。目の前は礫の壁だ。礫を辿って天に向かえば、青空の中に雪冠を頂いた一峰が、黒い岩壁の起伏も意外なほど鮮明にしてそびえていた。

「あれがクロッサス山かあ」

 ユウは馬上寝るようにして空を仰ぎ、そこに漂う霧の水滴が目に見えるほど大きいのに気づき、また波濤の砕ける音を遠くに聞いた。ふとした拍子に鼻腔をくすぐるのは、豊かな水の発する匂いだろう。

「下流の方に川港がある」とジェシカは西の方を指さしていう。「いずれ海に流れ出る。そこにはヴェンセントという港湾都市があって、内海に通じている。海に行くまでの間にもいくつかの町があって交易もできる」

「しかし、船で川を下って帰ってこられるのか?」

 船が川を遡れるほどの自走力があるのか、とユウは暗に問うている。ジェシカはむっとして、

「ディクルベルクの主要な商品は麦と材木だよ。材木でイカダを作って川から流し、下流で解体して売り、売り手は陸路で帰ってくる。他にもヴェンセント辺りから交易を続けて、ディクルベルクを終点にしている人間も多くて、帰るのに使っていたりするんだよ。そこのところは色々だ」

「なるほど」

 この世界の交易船は川を遡るほどの力はないと考えていいのかもしれない。

 歩みを進めると木板の看板が幾つかあって、あちこちの方向を示している。が、ユウはその字がイマイチ読めない。

「浴場の案内だ」と、ジェシカは左から右に指先で円弧を描き、「あっちは共同浴場、女湯、男湯、岩盤浴。あっちはアントワーヌ家の隠し湯だ」

 ユウの方に視線だけを寄越して、

「おまえはアントワーヌ家の湯殿の傍に流れてきて、引っ掛かったんだよ」

「アントワーヌの湯殿に」

「リリアが入浴中で、それはもう大騒ぎだったよ」

「え」

「覗き魔じゃないか、ぶち殺すか、波間に沈めようって声もあったけど、リリアが押さえていまに至る。おまえがあんまり惨めに流れてきたからリリアが同情したんだろう。雨の中に打ち捨てられた犬猫と一緒さ」

 は、と鼻で笑ったジェシカはそれ以上なにもいわなかった。ユウから返す言葉もない。彼を屋敷から叩き出したかった理由がもうひとつあったわけだ。もしかしたら、アントワーヌ家臣団の総意だったかもしれない。しかし、どう頭を捻っても、そのときの記憶がユウの中にない。気絶していたのだから仕方がないが。

 馬は樹林の出口に置いて、さらに上流、アントワーヌの湯殿の方へ、礫の退けられた細い道を徒歩で行く。

 ユウの身長を大きく上回る巨岩の傍を通過して、仄暗い岩の裂け目に身を潜めてさらに奥へ。斜面を登って、「おお」とユウは声を上げた。

 どうどうと飛沫を上げながら流れ落ちる滝の壮観を目にし、また白泡を立てて下ってくる急流を足下に見た。白く煙っているのは、湯気のせいか。気持ち、気温も高いようである。

「あれがクロッサス山から落ちる温泉滝、か」

 クロッサス瀑布とでもいおうか。高さ二、三十メートルはあろう。広くはない流路から豊かな水を滝つぼに落し、吹き上がる水飛沫は霧となって天地を覆い、水面を打つ音は耳を苛み、肉体すらも圧す。名瀑といっていい。これだけで観光客を呼べる。

「夏になればもっと水量が増える」

 ジェシカは素っ気なくいう。雪解け水が増えるのだろう。日本でも初夏まで雪の残る山は多い。極北の大地ならもっと遅い、というより、ここより北は永久凍土だ。

「あの上から落ちたわけだ、おれは」

 よく生きていたものだ。いや、それ以上に、何キロメートルか上空から落ちてきているのだが。

 二人は河原に降りてゆく。大きな岩の合間に砂がたまって、白浜を作っていた。透明な波が打ち寄せては砂に染み込みつつ、引いてゆく。その水を革袋に汲み取った。温かい。確かに温泉のようだ。場所によっては四十度近くまであるかもしれないし、もっと高くなるかもしれない。あちこちに湧出しているらしい、川底からの気泡も見られた。お湯に触れると、肌がぬめり気を帯びる。アルカリ源泉の特徴の一種だ。確かに、リリアの観測は正しそうである。

 ジェシカは早くも帰ろうとしているが、ユウは花崗岩の岩塊に立ったまま、川向こうの岩壁を眺めていた。

「おい」とジェシカが肩越しに睨んでくる。「なにしてる? さっさと帰るぞ」

「褶曲がある」

「しゅうきょく?」

 簡単にいうと、波打ったように見える地層断面のことだ。

「プレートテクトニクス的な力に押し込まれて曲がってしまった地層だ。あそこには断層もある」

 正断層と逆断層、横ずれ断層があるが、岩盤にどのような力が加わったかで変わってくる。引き離されれば正断層、押し込まれれば逆断層や横ずれ断層。

「もっと近づこう。面白いことがわかるかもしれない」

「そうだな。もっと近づくといいよ」

 心無い瞳に背後を取られて、ユウは足を止めた。

「なんだ? 行かないのか?」

「いや、なんだか嫌な予感がする」

「遠慮することないのに、ほら」

 ジェシカの突き出された手のひらをひょいと避け、ユウは花崗岩の上から浜に下りた。

「なんだよ、おまえを元の世界に帰してやろうとしたのに」

「おれは川から生まれたわけじゃない」

「しかし、飛び込んでみれば案外別の世界に行けるかもしれない」

「いーや、行っちゃいけない世界だろ」

 いい合いながら帰路を一緒に駆けている。


      〇


 翌日のこと、ユウは人の気配で目を覚ました。

 薄ぼんやりとまぶたを開けると、枕元にいる人の影が窺えた。

「ユウさん、お目覚めになられましたか?」

「なんなの? もう朝?」まだカーテンの向こうは薄暗い。「まだずいぶんと早いじゃないか」

「ごめんなさい、少し早かったですね」とリリアはサイドテーブルの上にある水差しからコップにこぽこぽと音を立てながら水を注いでいる。「もう一度お休みになられる前にお水でも一杯、いかがですか? 口の中を洗うのもよろしいかと存じます」

「うう」と唸りながらコップを受け取ったのは反射であった。ある種の催眠状態だろう。コップを受け取って一息に飲み干す。

「ありがと」

「いいえ、なにほどでもありません。お味はいかがでした?」

「美味しかったよ」

「ホントに?」

「うん」

「きゃーーーっ!」と唐突に黄色い歓声が上がったから、ユウの眠気も吹き飛んだ。瞬きを繰り返し、

「なにどうしたの?」

「ユウさん」とリリアは水差しもコップも卓の上に放るようにして投げ出し、ユウの両手を握った。「実験は成功したんですよ、水を出すよりずっと高効率なんです」

「なにが? どういうこと?」

「ユウさんがいま飲んだのは川の水です」

「川の水っ!」

「昨日の昼間取ってきてもらった温泉をヘリオスフィアで成分調整したんです。すごいですよ、スフィアから水を出すよりも三分の一以下の効率で真水に近い状態にできるんです。これは画期的なことです、世界が一変しちゃいますよ」

「その前におれの健康が一変しちゃわないかしら」

「一変したら教えてください。飲み水に使うのに改めて検討しなければなりませんから」

「お、おお」と受けるしかなかった。

 身体の心配はないのか。今日のリリアの無邪気は貴族的な血ではなく、マッドサイエンティスト的な興奮がさせているのかもしれない。

「すぐさま企画書を準備しなくてはなりませんので、これにて失礼」

 リリアはトコトコと、ゆっくり走りながら部屋を出てゆく。ユウは腹をさすって寝台の中にもぐりこんだ。

「まったく、もう……」

 あとで聞いたところ、初めはリリア自身が飲もうしたのだという。しかし、それをジェシカが制止して、ユウにお鉢が回ってきた。

「おまえが飲めばよかっただろ」

 とユウはジェシカに苦情を垂れた。だが、彼女は笑った。

「わたしが飲んでも公平な判断ができないだろ。川の、それも温泉の水だって知ってる」

「そうかもしれないけど」と腕を組んで唸った。「これは一本取られたなあ」

 今朝のユウのことである。寝台に入ってなお、お腹をさすっている。


      〇


「三丁目の二十六番地です」とリリアはいう。

 ディクルベルクの、葉脈のように広がる街並みは、指に当たる部分の南から一丁目、二丁目……、と続き、間接に当たる部分が東から一番地、二番地……と続く。番地の若い方が高級住宅とそれに類する商店が並び、数字が大きくなるにつれて民家も商品も安価になり、最外殻には畑が広がる。ちなみに、ディクルベルクは最盛期に南へ拡大していて、一丁目より南に八、九、十……と新市街が続いている。

「三丁目、二十六番地に製材所があるんです」

 フローデン領議会は温泉水に関して大規模実験をすることを決め、その施設の建設から運用まで、リリアに一任することも決めた。

 施設といっても四角四面な建物ではない。温泉水を遊水地に引き込み、そこで実際に田畑に撒けるレベルの水を大量に生産できるのかという野外実験施設を想定している。妥当な結果が出れば、そのまま浄水場としての役割を果たすことにもなる。

 ディクルベルクでは、屋内外に関わらず、施設建設には土建屋の力が必要で、彼らに仕事を依頼せねばならず、リリア自らが赴こうというのだ。

「ディクルベルクの主な建材は木材です。伐採と建築はいくつかの業者がありますけれど、製材所は限られているため組合管理になっています。製材所に行けば、それらの事業を統括する組合があって、伐採工とも、大工とも連絡が取れます」

「なるほどなあ」

 ユウはリリアに特に請われて同行している。

 漆器のように黒く塗り込んだ屋根付き馬車の中での会話だ。二人掛けの席が向かい合わせになった四人乗りというが、隣にいるリリアとも、向かいでしかめっ面をしているジェシカとも、膝すら触れないほど広い。緋毛氈を敷いた座椅子が柔らかく、肌触りもよく、いまは稼働していないが冷暖房も完備だという。

「ヘリオスフィアを用いているのです」とリリアはいう。

 それはともかく、見えてきた製材所というのが途方もなく広い。途方もなく広いと思っていたアントワーヌ邸が二、三個入る広さだというから、この北方の地方都市がいかに林業に力を入れているか、並みではない。

 その途方もなく広い製材所は木柵で囲われている。その囲いを一部取り払っただけの貧弱な境目が正門と呼ばれており、その横にある実にこじんまりとした、横五歩、縦七歩ほどの広さしかない掘立小屋がこの広大な施設を管理する事務棟なのだという。

「なんというみみっちい建物」とユウは驚いた。「敷地の広さにあってない」

 のちに聞いた話では、彼らは話し合いがあると外で行うものだから、こういう建物の必要性がないのだという。ただ、外から人が来たときにわずかに用いる程度だから、六畳一間の土間があるっきりでいいのだという。ただ、普請にだけは心を砕いていて、押しても引いても、殴っても蹴っても倒れそうにない頑丈さがあった。建築技術の高さを窺わせる。

 その六畳一間の土間に、長卓を挟んで向こうに五人、アントワーヌ側に四人の人がいる。アントワーヌ側の一人は御者兼記録係だ。狭いったらない。

「話は聞いてるぜ」と製材所側の中央の男が卓に前腕を置くと、身を乗り出すようにしていう。

 ロックス、と名乗っていた。ここを取り仕切っている男だという。見たところ二十歳を少し出た程度だろうか。茶色い髪を覆う垂れ耳付きの帽子から上着、ズボンまでが灰色の毛皮で、頬には赤い土を薄く塗って粗野な感じがすこぶる強い。これものちに聞いたことだが、赤土は日焼け止めなのだという。肌はいま日焼けが習慣となって浅黒いが、幼いころは白磁のように白かったのだとも自称していた。

「ディクルベルクに温泉を引くって話だがよ」とロックスは嘲笑うようにいった。「おれはこれでもアントワーヌさま贔屓だからよ。協力はしたいんだ。しかし、みんな納得するかなあ? ここまで水路を作るとなると、結構な規模の工事になるから、この施設の半分以上を止めなきゃならねえぜ。町に材木が卸せねえから商売のできねえ奴も出てくるだろうし、家の建てられねえ奴も出るだろうし、あちこちの修理だって後回しになっちまう」

「温泉を引くって……」

 ははは、と組合側の左右から失笑とも嘲笑ともわからない声が湧く。

「まあ、それなりの金を払ってくれるっていうんならよ、受けなくもねえが、下の奴らまでを説得せさるにはかなりになるぜ」

「事前連絡がうまくいっていないようで、訂正させていただきたいのですが」とリリアはこのむさ苦しい一室で顔色ひとつ変えず、咳払いだけひとつして、「わたしは温泉地を造りたいわけではありません」

 アントワーヌ邸の温室でユウに語ったこと、ディクルベルクの未来のこと、この河川工事がどれほど画期的なことで、どれほどの命を助けるのか、どれほど町の寿命を延ばすのか、この一念に帝国とアステリアの未来がかかっていると、語るリリアの言葉は徐々に熱を帯び、顔は赤みを帯び、一語発するたびに舌は衰えるどころか滑らかになってゆく。

 組合側の四人は驚くとともに、若干引いていた。その中で、ロックスの瞳だけが徐々に潤いを乗せ、大粒の涙を流し始めた。頬の赤土がドロドロと溶ける。

「リリアさまがそこまでおれたちのことを思ってくれていたなんて」嗚咽混じりにいい、「一も二もねえ。引き受けます」

 周囲がざわつく。

「ロックスさん、勝手に決めては……」

「バカ野郎」と立ち上がったロックスの椅子が盛大に倒れる。次いでほとばしった語気の激しさに、一同押し黙った。「この人はな」とリリアに無遠慮な指先を向ける。と、隣のジェシカは黙っていられないはずだが、眉間にしわを寄せただけで堪えていた。

「この人はな、本気でおれたちと街のこと、それどころじゃねえ、この星全体のことまで考えていらっしゃるんだぜ。おまえたちの中に、街のことまで考えてたやつらが何人いるよ? こうすりゃもっと良くなるとか、もっと人が来るとか、おれに話したことのあるやつがいるか?」

 問われた側は顔を見合わせるだけで応えない。

「いま立たずしてなにが男か。おれたち男は子供も産めねえんだから、女子供のために命を粉にして働くしかねえんだぜ、婆ちゃんがいってた」

「そりゃそうかもしれませんが……」

「おれはな、この人に命を賭けるぜ。文句をいうやつは表に出ろ。腐った頭を覚まさせてやる」

「ええ」とリリアの方が驚いた。「ぼ、暴力はいけませんよ、穏便に。穏便に」

 その日一日、組合中で話し合いが行われたようで、結局翌日には色よい返事がアントワーヌ邸に届いた。

 別に大してこじれた話でもないし、詐略があったわけでもない。しかし、この大陸の運命を変転させる、天ノ岐ユウとロックスという男の出会いがここにあった。


      〇


 河川工事は日を置かずに始まっている。が、ユウはその現場へ出向かなかった。

 河原の岩石を退かして側溝を掘り、針葉樹林を伐採して溜池を造り、その溜池からさらにいくつかの支流を造り、支流の先にも溜池を造り、支流の底にスフィアを敷き詰めて接触した温泉を真水に戻してゆくのだ、とリリアはいっていた。実地の初期実験では一本目、二本目、三本目と複数本建設した支流それぞれで、設置するスフィアの量、質、操作の程度を調整して実用に近づけていくのだとも話していた。

 ヘリオスフィアの仕事でユウが手を貸せるところは一つもない。支流の掘削など、単純な力仕事であればできることもあるだろうが、それ以上に彼に適う仕事が生まれたのだ。

 アントワーヌ兵の稽古である。

 ジェシカを叩き伏せたことが、どこから漏れたのか。以来、ユウに剣を挑む者が数人となくいた。噂の発信源はリリアではなさそうだし、ジェシカ自らがいうはずもない。もしかしたら、誰もジェシカを打った覚えがないのに彼女が傷ついているのを見、素性の知れない剣士、つまりユウに目をつけたのかもしれない。単純に、なにも知らず、彼の実力を試したい猛者が挑んできたのかもしれない。

 ともかく、挑戦の都度、相手を叩き伏せていたら、ユウに師事する者も現れた。

 ユウとしても剣の腕を磨いておかなければならないから稽古をつけるのはやぶさかでない。まだ己の腕ではヴォルグリッドには勝てないと確信していた。

 いつも決まった時間に調練場へ出、剣を振るい、数人に稽古をつけているうちに志願者の数は増え、ひと月あまりのうちにディクルベルクに駐屯する三千の兵の中で剣を志す者二百人ばかりが彼の元へ集った。

 帝国の主武装は槍と弓、剣はその次になる。国土の広い帝国は主な移動手段が馬であり、民は馬に強い愛着を抱き、決戦も騎馬同士の激突になることが多い。そのため、馬上有利な長射程武装、槍と弓が愛される。乱戦になれば剣の活躍もあるのだが、やはり三番手、といったところだろう。アントワーヌ在中三千の兵の全員が興味を持つことではない。

 それでも二百が集まり、日々研鑽を積んでいる。そのさまを見て、自分より腕の立つ人間はいないな、とユウは密かに思った。

「ディクルベルクで最も腕の立つ剣士はどなたです?」と訊いたりもした。

「そりゃ、ジャフリー卿でしょう」

 と数人がいったため、ユウはそのジャフリー卿のもとへ行った。というより、このジャフリー卿はすでに調練場にいて、ユウとも木刀を交わらせていた。齢四十くらいだろうか、鼻の下に小さな口髭を乗せ、髪を総髪にし、顔には歴戦の猛者を思わせるしわが深々と刻まれて剣呑な雰囲気かと思えば、声をかけると意外に柔らかい。

 ユウより頭ひとつ大きい彼は異邦者の少年と話せば見下ろす形になる。だが、そのバリトンは敬意の音を含んでいた。

「わたしの腕など、天ノ岐殿の相手にはなりませんよ」

「そのような弱気では困りますよ、おれの鍛錬にならない」

「恐ろしい方だ」

 ははは、と陽気に笑い合ったりする。

 実際、ジャフリー卿は強い。中肉の肉体はしなやかな筋肉に包まれて、俊敏な上に膂力もある。しかし、ユウが脅威を感じるほどではない。一万回剣を交えても負けることはないだろう。

 アントワーヌ兵の練度では四、五人に同時かかられても苦ではなく、これから先は十人、二十人と数を増やしていかなければ己の鍛錬にはならない、と思ったりした。

「天ノ岐殿はまさに三傑の一角を成すほどの腕前ですねえ」

 稽古のあと、汗を拭っていた兵士の一人がにこやかにいっていた。

「三傑?」

「帝国のエドワード帝、その客将ヴォルグリッド、南のウッドランド共和国のキンケイドという三人がレオーラでも一等頭抜けた剣士であるといわれています。天ノ岐殿はその一角に立てるほどの腕ですよ、きっと」

「三傑、ですか」

 ヴォルグリッドの腕はやはり大陸でも常軌を逸していると認識されているらしい。

 まだ勝てない。

 できることなら、エドワード帝やキンケイドという剣士で腕試しをしてみたいものだが、無理だろう。エドワード帝はその官位の通り、皇帝であり、会うことはままならず、キンケイドのいるウッドランド共和国というのは大陸南東、ディクルベルクから中央荒野を横断して帝都を経由し、南に下った遥か先にあるという。ざっと三千キロから四千キロの距離がある。物理的に遠い。

 ここで人を育てて、育てながら自らを鍛えてゆく他手段がない。

 かつて、ユウの父が持論をのたまっていた。戦士の道というのは死中にあるのだという。死を前にしていかに平静でいられるか、それが実戦において生死を分かつという。

 例えば、刃物を向けられて平静でいられるか、銃口を向けられて平静でいられるか、崖の縁に立って平静でいられるか。あらゆる死の瀬戸際に立って平常心を失わないことが、剣闘を始めとした戦場で、戦闘術以上に重要になる、と、いまは亡き父が持論を述べていた。平静であってこそ死中において常時の能力を発揮できる。平静でなければ慌てふためき、慌てたままに死んでゆく。死中に活あり。しかし、活を見出すには平静さが肝要である、というのだ。そのためには常に自らを死中に置き、死と戯れ、慣れ親しむ。

 ユウは幼児のときから死の瀬戸際に追い込まれるような、地獄の訓練を課せられてきた。世に明らかになっていれば幼児虐待で、父は捕まっていたことだろう。

 しかし、その教訓が彼を今日まで生かし、活力を与えてくれている。

「もう一度、やろう」

 ユウは白刃での稽古を日常的に行い、七日七晩身一つ無補給の行軍を行い、別の日はクロッサス山に挑んで返り討ちにされたり、絶壁を素手で登ったり、温泉水の激流に身を浸したり、と、一見剣道とはかけ離れた訓練を己に課した。

 ときには意識も朦朧とし、幻覚が見えることもあり、果たしてこんなことに意味があるのか、と自問したりして、泣く日もあった。が、なんと、驚いたことに、その過酷な訓練についてくる変人がアントワーヌ兵の中に数人となく、いた。互いに助け合い、励まし合い、攻め合い、しのぎ合い、まさに切磋琢磨、生き抜いた彼らは総勢五十余り、アントワーヌの特殊部隊ともいえる勢力に成長してゆく。

 このことがのちにアントワーヌにほんの少しの幸運をもたらすことになる。


      〇


「おや、ジェシカじゃないか」調練場に行くと、いつもはいないはずの女がいた。「リリアのストーカーをしてないなんて」

 リリアは今朝も早くから河川工事現場に向かっている。

「なんだよ、ストーカーって? 決していい意味ではないのだろうけれど」

「人に際限なく付きまとって不快感を与える人物のことを……」

 いってる途中に抜剣されて、身を引いたユウの眼前を白刃が抜き上げられてゆく。

「なんだよっていうから教えてやったのに」

「殺す」

 上段から振り落とされた剣をかわしたユウは間合いを詰めて手刀を放った。び、とジェシカの手首を打つ。と、剣がこぼれた。

「くっそー、なんなんだよ」手首を押さえながらジェシカが奥歯を軋ませる。「ちょっと強いからって調子に乗るなよ」

「いや、悪かったよ、ほんの冗談のつもりだったんだ。戯れだよ」

「戯れでもいっていいことと悪いことがあるぞ」

「だから謝ってるじゃんか。この通り」と手を合わせて平謝りするが、手を合わせるのがこの世界の謝罪のポーズなのか、ユウは知らない。地球でも、裏返したピースサインや、親指を立てたポーズに侮辱を感じる国が結構ある。浅はかにジェスチャーをするのは危険であるが、このときは幸いにも、争いにならなかった。謝るのなら、とジェシカは渋々刃を収めた。

「ところで、実際、今日はリリアの護衛じゃないんだな」

「うむ。今日は外征があるんだ。そちらに配属された」

「外征?」

「南の方で賊が出るんだと。その征伐に向かう」

「ほほう」この大地を踏んで以来、初めてのアントワーヌ兵の兵らしい仕事を目にする。「そういえば、今朝からなんだか忙しそうだと思ったんだ。戦の準備とはこういうものか」

「なにが忙しそうだよ、知ったふうなことを」とジェシカはため息混じりに、「戦といってもほんの小さなものだぞ。敵の数は百とか、二百だというから、こちらも千も出ないはずだ」

「百人の野盗というと、結構なものに思えるけれど」

「それほど大きくはないさ。大きければ千にも、二千にもなる。前にいっただろう? リリアになにかあればわたしたちは浪人するしかないって。そういう没落貴族が何家かあるんだ。路頭に迷って、タチの悪い奴らを吸い込んで野盗に身をやつすのさ。軍人のなれの果てだよ」

「厳しい世界があるものだなあ」

「おまえも来るか? 馬にも乗れるし、剣の腕も立つし」

「おれは人を斬ったことがないからなあ。足手まといさ」

 殺生はヴォルグリッド一人に限ると決めている。

「じゃあ、二、三日空けるが、リリアには手を出すなよ」

「なにいってやがる」

 そうしてジェシカとともに、ユウが日々剣を教えている大半の兵がディクルベルクを発った。

 人がいなくなると寂しくなる。いつも人に賑わっていた広やかな施設では、その感慨も一入だった。

 いつもの稽古をこなしたユウは昨日から数日は休息日にすると決めていた。さすがに連日の訓練は身に応えるし、質にも関わる。それに今日は人もいない。

 手持無沙汰になったユウは一路北へ。セキトと名付けた愛馬にまたがり、丘陵地帯に向かった。リリアが丹精込めている工事現場を覗こうと思ったのだ。ちなみに馬はもらったわけではない。ユウが勝手に一頭を決め、名前を付けて頻々と乗り回しているだけだ。こういう男の出入りを許している辺り、アントワーヌ一家の寛大さが窺える。

 道中、製材所の前を通りかかり、

「おお、客人」と見覚えのある男が大きな声を上げて手を振っていた。

「おや、ロックスさん、こんなところでなにをしているんです?」

 土建屋は現場にいっているものだと思っていた。

「おれたちだって、ずっと工事現場にいるわけにはいかねえよ、別の仕事がある」

「別の仕事?」

「森の手入れに行くのさ」とロックスはいう。「草を刈ったり、枝葉を整えたり、倒木を始末したりするのさ。放っておいても森は育つが、手を入れた方がきれいな森になる。特に冬の間は様子を見に行けねえからよ、いまの季節はどうしても外せないし、仕事も多い。リリア嬢にいって、特別に外れてきたってわけさ」

「ほほう」とユウは感嘆し、「森の手入れねえ。話には聞いていたけれど」

「興味があるなら、客人も来なよ」

「客人というのはいかがなものでしょう?」

「アントワーヌの客なんだから、敬意を払ってるのさ」はは、と屈託なく笑う。「剣の腕が相当立つって聞いたぜ? 木を切ったりするのはどうなんだい?」

「なかなか面白そうじゃあないですか」

 殺生がないのなら刃物を扱うのも一興である。


      〇


 ポドゾルという地質がある。極北の針葉樹林地帯に多い地質だ。

 針葉樹の葉は常緑でも毎年落ちる。一年葉、二年葉、三年葉などあって、古い順に毎年落ちる。落ちるけれど、冬の寒気の中では微生物が充分に育たずに、この落葉を充分に分解しない。地面に溜まる一方である。この大量の朽葉は放っておくと酸を作る。その酸が土中の、本来植物の栄養素となる微量金属成分を溶かして流し、漂白してしまうのだという。従って土は濃厚な酸性。もちろん、畑地には向かない。向かないのだが、驚いたことに、針葉樹は他の植物を駆逐するために敢えて土壌を己に有利な酸性にしているともいう。土壌を酸性にする植物は他にも結構いる。いるどころか、およその植物がそうだ。自分の都合にいいように土壌環境を作り変える。菌根菌も共犯する。放置土壌の酸性化は二酸化炭素要因が多いが、植生のある土壌も酸性化する。結局、彼らも生存競争をしているということだ。大昔、微生物の話になるが、彼らは自らの力で環境を変えすぎて大量絶滅したという説もある。人も植物も微生物も、行く末は変わらないのかもしれない。

 それはともかく、ディクルベルク西の針葉樹林地帯。針葉樹とそれを拠り所にする苔または地衣類が密生している一帯である。足元は深い落ち葉の層で、柔らかく、弾性に富む。

「しかし、ここは……」ユウは地べたを這いずり回って、根掘り葉掘り、地質を窺っている。「ちょっと違うかもしれない」

 土はやや濃い褐色で、饐えた臭いもない。指先でこねると、わずかな粘り気もある。

「いい土壌のようです」

「それは落ち葉を拾っているからさ」とロックスはいう。「落ち葉を放っておくと、地面の下が真っ白になるが、ある程度拾い集めておけば健康な土壌が維持できる」

 そのための森の整備だという。

「実際、ここより北の森の地面を掘ると、白っぽい層が出てくるぜ」

「落ち葉集め、ですか」ユウは手と衣服についた埃を叩いて払い、「肥料や燃料にするんでしょうね」

 生ゴミや糞尿と落ち葉を混ぜて発酵させれば良い堆肥になるだろう。

「その通り」とロックスは一笑する。「それ以外にも、おれたちの仕事は、落ちた枝葉を束ねて整地したり、もう少し温かくなれば肥料を撒いたりもする。材木と落ち葉をもらったぶん、返さなけりゃならないからよ」

 植物というのは、なにもないところから生えるわけではない。植物は炭素や窒素、その他元素で構成されていて、それらがなければ成長しない。身体を作らなければならないのだから、身体を作るのに必要な部品がいるのは当たり前だ。

 普通、落ち葉や野生動物の糞尿が分解されて、そこに含まれる様々な元素が土壌を肥し、ミミズを始めとした土壌動物が耕して、豊かな大地を育んでゆく。樹林の中は夏は日差しが遮られたり、葉の水分が蒸発されたりで冷涼な気候が保たれ、冬は林立する木立が壁となり、風を遮って冷え込まない。生物にとって快適な環境が守られるようにできている。そして、その保護された動物たちがまた森を作ってゆく。

 緑の香り、土の匂い、清浄な原始の空気のその冷たさが、肉体の内外を粟立たせる。自然の力を受けた身が打ち震えている。

「美しいものです」

 一説によると、樹林が有害な菌を寄せ付けたくないために、葉から滅菌物質が放出されていて、森林の空気が清潔に保たれているらしい。彼らは誰かを守ろうとしているわけではないかもしれない。それでも、完成されすぎた世界の優しさとでもいうような力が、ユウの身を震えさせていた。

 樹冠からこぼれる蒸気に散乱された光は柱となって神殿の柱のように降りそそぎ、腐葉の上を這いずる小さな昆虫の様子を照らしていたりした。その光は枝葉を踏んで音を立てるユウの下にも平等に落ちている。

 ロックスはいう。

「おれたちは森に生かされてる。奪うばかりじゃいけねえよ」

「生かされている、か」ユウは呟いて枝を拾った。明らかに朽ちている。が、腐敗臭はない。「いい森です」

「そうだろう、そうだろう」とロックスは陽気にユウの背中を叩き、「ところで、兄ちゃんは斧を振れるかい?」

「振ったことはありませんが、大丈夫だと思いますよ」

「それは面白い」

 親指を立てて、一本の大木をさした。

「冬のうちに傷ついた老木はいまのうちに倒しておく。知らないうちに倒れて若木を傷つけちゃいけねえからよ」

 本来、老木も根を通して若木に栄養を与える役目を担っている。伊達に若木の頭上を樹冠で遮っているわけではない。若木をゆっくり育て、強靭な幹を作らせているのだ。それと、よほど傷つかない限り、自然林の中で倒木など心配する必要はないし、老木に見えても老い先短いかどうか、人間には到底わからない。彼らは何百年、何千年も生きる能力があるのだから容易く老いたとはいいがたい。万一、倒れたとしても、その倒木は森の栄養になる。持ち出しも自然の循環を乱すことになる。だが、ロックスたちも木材は必要だ。それを得る順序を選ぶなら、傷ついた老木から倒し、また森を育てる、という話だ。

 右に左に、斧を振るって幹を叩く一団があり、とーん、とーん、と牧歌的な音を響かせている。あちらでは落ち葉を集めて袋に放り、こちらでは枝葉を集めて例のアルパカに似た生き物に積んでいる。

 樹冠には積雪もあり、時折、白い塊が音を立てて落ちてくる。北の針葉樹林は雪の重さに備えて、枝先を下に向けやすいといわれているが、この森も例に漏れなかった。樹木の根元によく円形の残雪がある。その山をユウは踏んだ。

「たまには剣以外の刃物を使うのも一興だろう」

 一本の斧を両手にした。

 分厚い峰の端に白銀の刃を備えた四角い鉄塊。その重りを肩に乗せ、徐々に腕にのばし、腰を捻って、木製の柄を背中に回した。す、と息を吸い、遠心力を味わうように解き放つ。

 とーん、と一際高い音を鳴らした。やや遅れて歓声が鳴る。いつの間にか、四方の職人たちも手を止めて、観衆となっていた。

「やるじゃねえか、客人」

 ロックスと数人の観衆は手を叩いて笑っていた。

「これくらいは難ないですよ」

 とーん、とーん、と軽快に叩いている。額から汗が滴る。あと数回も叩けば倒壊しそうなところまできて、「待て」と声をかけられた。うしろを振り返ると、真剣な顔のロックスがいて、左右の人は生唾を呑んでいる。

「ダンタイケイだ」

「ダンタイケイ?」

 ロックスたちの視線の先を見遣ると、白い綿毛のようなものが地を這っていた。ずんぐりむっくりした寸胴の塊が、のろのろと動いて、こちらに来る。徐々に大きくなるその図体は、とても綿毛などという言葉に収まる体躯ではないということがわかった。体長にして、五メートル、体高にして三メートル、そこらの小屋ほどもある。

 毛玉の中で、真っ赤な瞳がキトキトと動き、ユウを映したものの、瞬きを繰り返しただけでそろりと逸れた。目の下には二本の曲牙があり、牙の間から獣臭い呼気を湯気にして吐き出し、やや上に張り出した豚のような鼻は臭いを探してヒクヒクと蠢き、背中は日差しを遮って、濃厚な影をユウの頭上から落としている。

 デ、デカい。

 逃げ出そうとしたユウは、隣にいたロックスに腕をつかまれていた。

「ダメだ」と彼は低声を出す。「ゆっくり、奴から目を離さずにあとずさるんだ。刺激しなけりゃ襲ってこねえ」

 蹄の足が持ち上げられて、ユウの目の前の残雪に突き立てられる。巨大なイノシシか、毛むくじゃらのサイに近い生物なのかもしれない。

「ゆっくりだぞ、客人、ゆっくり、ゆっくり……」

 二人で、一歩、一歩、確実に後ずさる。

 一方のダンタイケイは二人に見向きもせず、落ち葉の中に顔を埋めて、懸命になにかを食んでいた。あとで聞いたところによると、雑食で、肉も食べれば、木の実も食べるという。食事の最中なのだ。

 右も左も、荷物は放置し、物音を立てずに白い背中を見据えたままあとずさる。徐々に距離が開いてゆく。ほとんど一同が安堵したときである。

 メリメリ、と弾けるような音が森に響いた。

 誰もが息を呑んだろう。ユウだってそうだ。いまさっきまでユウが叩いていた幹が風に揺れて……。

 どお、と音を立てて、倒れた。

 勢い、木の葉が舞い上がり、その舞い上がった木の葉の中で、ダンタイケイの振り返ったつぶらな瞳が殺気を帯びていた。

「逃げるな」とロックスは一声叫んだが、すでに大方の人間は背を向けて走り出している。「バカ野郎」

 静止しているユウとロックスのそばを、白い毛皮が疾風を巻いて過ぎ去ってゆく。その先を追ったユウの目は、人一人が高々と木立の中で舞っているのを捉えた。続いて悲鳴が樹冠を揺らし、獣の雄叫びがこだます。

「親方」と六人の人が斧や鉈を片手に集まり、ロックスと視線を交わらせて頷いた。「客人はそこにいな。危ないぜ」

「ちょっと」と声をかけたときには、七人は走り出していた。ロックスが懐から取り出した笛が、ぴいい、と甲高い音を鳴らした。ダンタイケイは空を見据え、左右を見遣り、音の在り処を見つけて狙いを定めた。

「叩くつもりなのか?」

 正気の沙汰ではない。思いながら、すでにユウも白剣を抜いていた。宙に純白の軌跡を刻みながら、七人を追い、ダンタイケイを囲い込む八人目の人になった。

「客人?」

「おれもやります」

「おいおいおいおい」とロックスはなにかを続けようとするが、ダンタイケイの突進を躱すのに精一杯であった。ユウは腐植の上を転がってゆく。白毛の巨体は木立の間を駆け抜けて、一本の大木にぶち当たった。止まったかと思えば、そうではない。

 めりめりめり、

 と、一本の大樹が倒壊してゆく。なにするものでもなく象牙の牙が向き直る。

「ぶほーー」と長い吐息を吐いて、腐食を蹴散らしながら一直線に向かって来る。

「足を狙え」

 ロックスが笛を吹きつつ叫び、ユウを含めた七人がダンタイケイの左右から接近してゆく。

 暴力的なまでに腐植を揉み潰す蹄に接近して狙えというのだ。殺人的な所業である。

 だが、とユウは心の中に唱えた。

 それも良かろう。

 知らず嗤っていた。

 白剣が激しくきらめく。

 それに応じたのか、白毛の獣は一心にユウを目掛けた。

 殺し合うか。殺し合いか、これが。

「客人っ!」

 ロックスとその仲間たちは、救済に入ろうとしたものの、二つの激突に圧されたように足を止めて呆然と眺めていた。

 ユウは跳ねている。そのまま白毛の巨体と交錯した。

 ぱ、と鮮血が散った。

 身を翻したユウは腐葉の上を滑りながら着地し、間合いを斬って白剣を鞘に納めた。

 ダンタイケイの巨体は駆けながら傾き、腐葉の中にめり込んで、倒れたときには、どお、と大きな音を立てた。残ったのは枯葉の降り注ぐ森閑だけ。

 うおおおお

 と鳴った歓声が激しく森の中をこだましている。


      〇


 恒温動物は北に行くほど巨大化する、という。あくまで同種のものを比べたときの話だ。本州で生息するツキノワグマより、北海道のヒグマの方が大きいし、極圏にいるシロクマはもっとでかい。ベルクマンの法則という。体積が大きいと体温が保ちやすいのだ。人間でも体の大きい人の方が暑そうだ。寒冷地では保熱効果を大きくするために大きくならなければならなかった。大きくならなければ凍死するしかなかった。そういうわけで恒温動物は寒冷地の方が大きい。変温動物や昆虫などに関してはこの限りではない。変温動物だと外環境の影響を受けにくくするため、温暖地方の方が巨大化するのだという。例えば、池の中に毒素がある。小さな体だと身体中に毒素が回るのが早い。大きな体だと表面積はそれほど変わらないのに体積ばかりが増えていって、全身に毒素の回るのが遅い。その間に分解したり、中和、排出したりして環境に適応するわけだ。逆ベルクマンの法則という。立方体を増やしながら計算すると、表面積の増加に対する体積の増加率がわかりやすい。

 ユウもこのことは耳で聞いて知っていた。

「しかし、あまりに大きすぎるなあ」

 こうして冷静に遺体を見ると、巨岩と変わらない。押しても引いても動かない、その巨体が目の前でバラバラに解体されてゆく。

「今日はタンケイ肉祭だな、大将」

 ロックスに肩をどつかれる。いつの間にか呼称が『客人』から『大将』に変わっていた。

「なんですか、その呼び方」

「なんですかっておれたちの大将だぜ、あんた。まさかたった一人でダンタイケイを仕留めるとはなあ、しかも刀の一本だぜ。こいつもトンでもねえ怪物だと思ってたが、もっとひでえ怪物がいるとはよ。信じらんねえぜ」

「天秤が、ちら、とこちらに傾いたのでしょう」

「天秤がどうしたのか知らねえが」とロックスは闊達と笑う。「今度、喧嘩があったら、おれたちの大将はあんたで決まりかもな」

「決められても困りますが」

「次の喧嘩はぜってえ負けねえなあ」

 諸手を上げて向こうの台車に歩いてゆく。元は回収した資材を乗せるために用意したものだ。いまはダンタイケイに突き殺された木こりらの遺体と蹄に踏みしだかれた肉片を乗せていた。

「おれの不手際だ。謝るにも謝り切れねえな」

 毛皮の帽子を胸に据え、頭を下げる、ロックスの姿をユウは黙って見つめていた。周囲も作業を止めて立ち上がり、遺体に向かって頭を下げていた。粛然とした雰囲気が森林の中に満ちてゆく。

 淡い日の差す梢の向こう、遠く、鳥のさえずりだけがあった。


 その日、ディクルベルクに帰るなり、ロックスは遺族の方々を訪ね、地に額を擦りつけるほど頭を下げて謝罪したそうだ。翌日には組合長を辞任するといい出し、周囲が止めて事なきを得た、という話を聞いたのが数日後だった。辞任を差し止められるほどの人望があったらしい。ユウ自身、彼に悪感情はない。むしろ、好感を抱いている。ロックスの陽気な性格と感情の過多なところは信じられるし、業を共にするには相応しい男だとも思える。

 それらの余事が片付いたころ、アントワーヌの一隊が南征から帰還した。兵舎に向かう隊列の中ほどには檻を乗せた台車があって、十数人の男女が押し込まれていた。その車が十台もあろうか。

「東方のモルダリー領の貴族だよ、といっても、いまじゃ見る影もないけどな」とジェシカはユウに話した。「なんでも、重税に苦しんだ領民が武装蜂起して、鎮圧はしたが、皇帝陛下はモルダリー伯の爵位を剥奪、しかし、伯爵は従わず、皇帝陛下に対して蜂起。惨敗して中央荒野を渡り、西に逃げてきたのがアレだよ」

「東方から渡ってきたのか? 結構過酷な道のりだと聞いたけれど」

「この季節なら簡単だろうよ。それほど寒くないからな。けど、もう少しするとクロッサス山から水が流れてきて、川ができたり、湖ができたり、それも年によって形が違うから迷路状になって、迷うと食料が尽きて餓死することになりかねない」

 季節河川とか、涸れ川とかいうものだ。特定の季節のみに出現し、特定の季節には消失する河川である。地球ではアフリカに多いが。この後、ユウは中央荒野で盛んに訓練を行うのだが、そこはジェシカのいう通りの地形を成していた。星も読めず、時間も読めず、方角を決定する手段をまだ心得ていないユウが、安易にこの年に仇討ちに出ていれば、餓死していたかもしれない。

 しかし、このときのユウはジェシカの話を噂半分に聞いている。

「彼らも皇帝に反旗を翻すというのも勇猛というか、蛮勇というか」没落貴族を眺め、「勝ち目があるの?」

「東方に大きな反帝国勢力があるんだよ。それを頼ったんだろう」

「反帝国勢力?」

「家を取り潰された貴族は皇帝を討とうとして帝都に向かう。しかし、一人で討つのは無理だから徒党を組む。だから人材は豊富なわけさ」

「なるほどねえ」

「それだけじゃないぞ。東側は帝国と敵対してる国が多いから、援助を受けやすいんだ。南にはウッドランド共和国。東にはアンガス王国。これに、少し離れるけど、レオーラ南西にあるシリエス王国を含めて、反帝国の三国同盟という」

「それほど嫌われているのか、大陸中から」

「二十年前にラピオラナ以西からアンガスを駆逐したから。それが膨張思考なんだとよ」

 笑わせるよな、と実際、ジェシカは鼻で笑う。

「元々ほとんど人の住んでないところなんだぜ、中央荒野とラピオラナ山脈の間は。陛下はそこに人を移住させて、人の住める土地にしたかっただけだろうに」

「大陸の中で、帝国は孤立しているわけだ」

「孤立しているわけじゃないさ。帝国南西国境、つまり、中央荒野以西の南国境だ。ここに東西に分かれて二つの国がある。西がスレイエス公国、東がファブル自治領。この二つは帝国同盟で、南のシリエス王国に睨みを利かせている。あとは大陸南東端にヘリオス教会領があるが、これは中立勢力だ。ウッドランドとシリエス王国の間にいくつか小国があるが、王国におんぶにだっこだから、数に入らない」

「ははあ」とユウは嘆息する。「おれはまだこの世界の地理が頭に入っていないよ」

 地図を読もうにも、言語から学ばねばならない。

「それで」とユウは馬に引かれた檻が通り抜けたあとの轍を指さした。「彼らはどうなるの?」

「まあ、帝都に送ることになるんじゃないか? でなければここで斬首だろう」

「厳しい世の中だなあ」

 檻の中を思い出すと、どうも乞食のようなボロをまとった者たちばかりであった。アントワーヌが武装を解除させたのだろうが、それにしても貧相ななりをしていた。野盗に身をやつす、とは、ああいうことか。

「反乱ひとつでアレとはね、貴族の明日も知れないな」

「世継ぎ不在でもああなる」とジェシカはいう。「だからリリアになにかあっちゃ困るんだよ」

「民衆の反乱は起きないか」

「バカいうなよ。リリアが街中歩いて陽気に手を振り合ってる世の中だ。間違っても反乱なんて起きないよ」

「しかし、他所の町とか村とかまではわからないだろう」

 ディクルベルクのあるフローデン領はとても広いとユウは聞いている。村町は五十二あり、馬で周回しようとすればふた月はかかるという。

「反乱は常に地方で起こるという」とユウはいう。

 日本の、戊辰の役も西南の役も鎌倉幕府も地方で起っている。一度敗れた足利尊氏が態勢を立て直したのも地方だし、天草の乱も九州。地方というか、ほとんど九州だが。中国の王朝、殷を倒した周は都からはるか西、水滸伝で宋を脅かした梁山泊は都の北東、数百キロ離れていたという。

「まあ、ここ帝国では、東の帝都に叛徒が集まっているらしいけれど」

 他人事のようにいうユウに、ジェシカは「うーん」と頬を掻いて、

「まあ、大丈夫なんじゃないか?」

 と、不安なことをいう。


      〇


「地方の情報はそこに配している地方官からのものしかありませんよ」

 ジャフリーがいう。稽古後の世間話であった。

 レオーラ大陸の国家は、基本、上を親と敬いまた慕い、下を子と思っていたわる。その思想が二百五十年前のシリエス王国の建国とともに発生し、大陸全体の主従関係に浸透している。親は子を信用するものであるから、監視機関など立てない。そういう習性が出来上がっており、税の取り立て、治安維持など、王は諸侯に、諸侯は各地を差配させている貴族と官史に、任せっきりで、取り締まる癖がない。この世界の、貴族、というのはそういう習慣の中で成り立っている。ただし、不正や不祥事が見つかった場合の処罰の方は時代と地域によって異なり、帝国においては徹底している、ということだ。

「おれは、それを信用していていいものかどうか、と思うのです」

 当たり前のことだろう、とユウは思う。ジャフリー卿は驚いたように眉を上げてから厳しい表情に戻り、体ごとユウに向き直った。

「天ノ岐殿。まだこの世界のことをよくご存じないようですから、敢えてお話しますが、身内の身辺を探るような真似は卑劣な裏切りであり、騎士道に悖る行いです。仲間とは、無条件に信じ、命も預けて恥じない者のことをいうのです」

「立派な騎士道です」

 ユウは淡々という。彼のいいたいことはユウも理解している。

「しかし、物事には優先順位というものがあります。果たして、ジャフリー卿の騎士道とは、主家を守ることなのか、仲間を信じることなのか」

「それらは両立しないと?」

「ジャフリー卿が仕えるフローデン候は」と、ユウはいう。

 リリアの父であり、ここフローデン領の領主であり、ユウも時折会うが、いつもにこにこと人の良さそうに笑みを浮かべて、口角も高い、中肉中背のどこにでもいそうな中年紳士だ。

「彼はさぞ立派な騎士道の持ち主なのでしょう。だからこそ、深く家臣を信じて止まないことでしょう。であれば、侯爵閣下は目をつむって歩いているようなものです。手を引いている家臣たちを信頼し、その身を委ねているでしょう。決死の覚悟があるのかもしれません。目の前に穴が開いていれば共に落ちると決めているかもしれない。その穴を指摘する義務が、誰かにあって然るべきではないかと思うのです」

「わたしにその責務を負えと?」

「それはおれの決めることではありませんが」

 ジャフリー卿のこめかみがヒクヒクと脈打って見えた。が、彼は腕をかたく組んだまま俯き、次の言葉はなかなか口にしない。

「しばらく」とようやく吐き出した。「しばらくお待ち願いたい」

「おれは少し訊きたかったから訊いただけのことで、これ以上の回答は必要としていません」

「では、わたしからひとつだけ」と人差し指を立て、「もし、わたしが決断をしたのなら、お力をお貸しできますか?」

 はは、とユウは笑う。

「おれはまだしばらくここを離れられません」

「それを聞けて良かった」

 と、ジャフリーも笑う。

 それから数日ののち、ディクルベルクの行政区画に、諜報局の看板が立った。

「閣下も地方のことはずいぶんとお気にかけれられておられたそうです」と、ジャフリーはいう。「しかし、閣下から内偵のことを口にするのは憚られたのでしょう。アントワーヌ議会は渋っていた雰囲気を醸していただけで、ほとんど満場一致を見ました」

 侯爵家が地方を疑うことはしないが、侯爵家の配下が地方の監視が必要であると説き、それを議会が決定すれば執行しないわけにはいかなくなる。まあ、その議会もフローデン候を忖度しているのだろうが。暗黙の領域を慮らねばならない、大人の事情だ。

 ともあれ、諜報局の立ち上げが決まり、地方へ巡視隊を発することになった。巡視隊は変装し、地方の不平と不満を集めて中央に報告する役割を果たす。得られた情報は地方官の不正を防いだり、反乱の芽を出来るだけ穏便な手段で摘み取ることに用いられる。組織の性質として後ろ暗い雰囲気があるが、そういう部署があることもその事務所の場所も公開して、地方を巡視しているということも公表している、至って開放的な組織にした。ただ、巡視に関してやり方と期日を明らかにしない抜き打ちによる調査をする組織ということだ。

 人選は提案者のジャフリーが局長となり、その部下はアントワーヌ駐屯兵の中から彼自身の目で選ばれた。繊細で神経質そうな人間や、政治や金になんの興味も持たない、例えば、馬に一途な人間などを特に選んだ。彼らは、ものを穿って深部まで観察し、その目は貴族、平民の格差に囚われることもなく、客観的な事実を報告してくれることだろう。そういう期待を込めた人選である。

 ユウの発案から二週間と経たず、彼らは地方に散っていった。

 さらに二週間後のことである。

「南方に不穏な動きがあります」

 と報告が上がってきた。

 ある農民が不作を訴え、生活の苦しいのはアントワーヌのためであると周囲に火をつけて回り、その火は徐々に大きくなりつつあるという。

 フローデン領南隣の領地には工場が立ち並び、ヘリオスフィアを生産して、その売買によって巨富を得ている。しかし、フローデン領は農業と林業が主要産業という姿勢を一切崩さない。作付けは年々厳しくなっている。このままでは我々の生活はままならず飢える他ない。すべては工場の建設を許可しないアントワーヌに責任がある、という怒りがフローデン領南方の民の中にあるという。

 この報告を聞いて議会は慄然とした。

「まさか、このような火種があるとは……」

「恐ろしいことだ」

「か、閣下、いかがいたしましょう……?」

 領内の工場建設要件を緩和するのか、ということである。

 フローデン候の応えは、否、であった。

「フローデン領は帝国最大の穀倉地であり、その存在意義は帝都を始めとした各都市への物資輸送にある。我々がその責務を放棄すれば多くの帝国民が飢えることになるだろう。よって、農作に不利になる政策は採用しかねる」

「しかし、工場の方が利益を上げる、民の生活を助ける、というのは事実です」

「クロッサス川の研究の様子を見てからでも遅くはあるまい。この研究が年内に実を結ばなければ状況も変わるはずだ。それを見届けてからでも遅くはあるまい」

 と決定された。

「たたたたたたた、大変なことになりました」

 リリアがユウの部屋に飛び込んできたのは、議決の出たその日のことである。身振り手振り、慌てた四肢が宙に残像を刻んで見えた。

「わたしの、いえ、わたしたちの研究の意味合いがだいぶ変わってきてしまいます」

「なにも変わらないだろう。元々フローデン領のため、帝国のため、アステリアのためって語ってたじゃないか」

「そ、そうですけど、こんな重荷を背負わされることになるとは……」

「重荷を背負わずに経費を使い込んでいたのか」

「そうではありません」とリリアは怒る。「そんなわけないじゃないですか」

「じゃあ、いいじゃないか。いずれ領主になるんなら、いい試験だ」

「そ、そうかもしれませんけどお」とリリアは眉をひそめつつも首肯していた。「確かに、ユウさんのおっしゃる通り、目的は変わりません。変わっていません」

 おお、おお、と唐突にリリアが咆哮したからユウの方が驚いた。

「わたし、やりますよ。絶対にこの研究を成功させてみせます」

 瞳が燃えるとはこういうことをいうのだろう。小豆色の瞳がぎらぎらと光を放ちながら陽炎のように揺れている。

「おお、そう。それならいいんだけど、気合入れ過ぎて倒れないように」

「なにを倒れることがありますか。これほど活力に溢れているわたしが。おおおお、こんなに高揚して来たのは生まれて初めてです。いまならなんだってできる気がする」

 やります、やります、と喚いている。両手で扉を音高くはねつけて部屋を出て行った。

 あの様子なら重荷に潰されることはなかろうが、しかし、物事の終わったあと燃え尽きてぶっ倒れないか。

 まあ、それも良かろう、とユウは自室の椅子にふんぞり返って、ディクルベルクの春を窓から眺めていた。


      〇


 さらさらと、ディクルベルクの町に清流が流れている。

「できるものだなあ」

 例の議決からほんの二ヶ月ばかりで町の東方に側溝がのびてきてしまった。一本だけだが、枝分かれして周辺の田畑を潤している。

「これがディクルベルクの力です」

 リリアは無表情のままいう。というより表情を操る余力がないといったところだろうか。ユウがアステリアに来て以来、今日は最強とも思える日差しである。もう外套もいらない。そんな気候の中、リリアはジェシカの差しかけた日傘の下で青い顔を晒していた。連日の工事指揮の疲弊が溜まり、このざまである。ジェシカは何度となく外出を控えるよう説いたが、リリアは頑として受けず、今日の開通式を見届けに来ていた。

「リリア、このあと死なないようにな」

「し、死にませんよ、おかしなこといわないでください」

 わたしにはまだ夢があるんですよ、と胸元で拳を握っている。

「まだまだ用水路の数は増やしますし、町には井戸を引いて、近くに温泉施設も造り、みんなの憩いの場所にして、旅の人たちにもたくさん来ていただき、ディクルベルクはかつての栄光を取り戻し、フローデン領は帝国一豊かな土地になるのです」

 笑っているらしいが、疲労のせいか、ずいぶんと不敵な色が濃い。

「さあ、もうご満足でしょう」とジェシカが促す。「屋敷に戻りましょう」

「そ、そうね。まだ明日もあるものね」

 ふらふらとしながら屋敷の方へ向かってゆく。

「明日があればいいけれど」

 ユウは二人の背中を見送って、用水路の周辺を歩いてみた。日和も手伝い、右も左もお祭り騒ぎである。卓を並べ、酒を開け、料理を出し、吹奏を奏でて歌い踊っている者たちまである。

「町のやつらは大満足だよ」とロックスが木製のジョッキを振り回しながら喝采していた。「これで今年からは収穫も期待できるぜ」

 風車ではヘリオスフィアの粉末を作り、西の針葉樹林の落葉と町の廃棄物で肥しを作り、人の力で大地を耕して、いつか世界はよみがえる。クロッサス川から得られた真水を使えば、草花が育ち、ディクルベルクは息を吹き返すのだ。

「どれもこれもアントワーヌさまの一族あってのことだ。おれがリリアさまに命を賭けたのは間違いじゃなかったぜ」

 ど、と叩くようにしてユウの肩を抱く。

「ディクルベルクの未来は明るい」

 と話していました、と、ユウは兵舎に戻って、町で見たことを思い返している。

「町の人々の印象はおおむね良好のようです」

「わたしが見たところでも、そのようでした」

 ジャフリーが頷いている。

「閣下はこれを受けて南部にヘリオスフィア工場を建設するようです」

「結局建てるんですか?」

 以前、建設の許可を出すのか、出さないのかで問題になっていたはずだ。

「あれは要件を緩和をするかどうかの議論でしたからね。今回は緩和せずに当地が要件を満たしたということで建設するのです。これからはヘリオスフィアの生産量を増やさなければならないのは確実ですから」

「政治というのは回りくどいものですね」

「法を軽んじれば国が乱れます。容易く書き換えないことと順守すること、例外を出さないのは肝要ですよ」

 ともかく、とジャフリーは話を継いで、

「これによって南方での不満も霧散してくれることでしょう。二、三日で領内には噂が広まり、諜報の報告も上がってくるはずです」

 彼の言葉の通り、三日後にはディクルベルク蘇生の噂が各地に広まり、それに対する民衆の反応が報告されてきた。

「西部では同じ機構の導入が、南部にはヘリオスフィア工場の建設が期待され、領民たちは端々に至るまで歓迎しております」

 クロッサス川は西に向かっており、いずれ大洋に流れ込む。その間に多くの河川が合流するにしても、フローデン領内ではまだまだアルカリ成分が濃い。だからフローデン領西部ではディクルベルクと同様の浄水システムの導入が期待されているのだ。一方、ディクルベルク以東以北は中央荒野にあたり、町がないため、その方からの報告はない。

「これでアントワーヌも安泰でしょう」とジャフリーはホッとしている様子であった。

「しかし、ひとつ気になることが……」

 発言したのはアインスという二十歳ばかりの局員だ。諜報員としては肉体的な特徴がなく、馬の得手であるため、飛脚の役を担っている。

「先日のアントワーヌへの反発の件、事の発端は数人の農民に集約されることがわかっています。その者たちの動向を特に探ってみたのですが、どういうわけか姿が見えないのです」

「姿が見えない?」とユウは首を傾げた。「なぜ姿が見えないのです? どこかに移民でもしたんですか?」

「村を出たようです。奇妙なことはその手際です。一夜のうちに家財を残して姿を消して、東西南北、どちらへ向かったのかも定かではありません。知り合いの者に訊けば、昨日までは陽気に酒を飲み合っていたのに翌日には一言の挨拶もなく消えていたという始末です」

 ジャフリーは明らかに狼狽えていた。

「どういうことだ? 天ノ岐殿はどう思われます?」

「怪しいですね」とユウは他人事のように首を捻る。「どういう人間なのかは調べたんですか?」

「身元を調べましたが、それもまた怪しいのです。彼らはここ二年以内に移民してきた者たちで、帝都アンタレス、ヴェンセント、コリオリなど、様々な町の出身者だと自称していて、当然、初対面の者たちであったようです。それが同時に姿を消した」

「複数の町から来ている、となると、事実かどうか、確認するのは人手と時間がだいぶかかるでしょうね」

「そうですなあ。コリオリの村など、片道にひと月、調査にひと月かかるとして、早く見積もっても三か月は見ねばなりますまい」

「彼らの生活態度は品行方正、借財があったわけでもなく、誰かに追われているという雰囲気もなく、誠実で、村民らは心底から信頼していた様子です。だからこそ村人らが煽動されたわけで。我々調査班では、彼らがなぜ姿を消したのか、理由を察することもできません」

「天ノ岐殿は、どう思われます?」と問うジャフリーの顔は険しい。

「ここが諜報局という部署である都合、彼らには悪意があると見た方がいいかもしれませんね。世の中に白はなく、黒と灰色しかないといいます」

「悪意、ですか」

「有体にいえば、アントワーヌ転覆を狙う組織がある、ということです。敵が個人ではなく複数で情報の操作をしていた。それが集団で姿を消した。それなら彼らが撤収して身を寄せるところがあり、そこにも後衛部隊ともいえる複数の人間がいて、ひとつの組織になっていると見ますね、おれなら」

「我々の職務上、そう考えるのが正しいかもしれませんな」

「果たして彼らにどれくらいの悪意があったのか。火遊び程度だったのか、度胸試しだったのか、捕縛されて命を失うのも覚悟の上だったのか、定かではありませんし、東西南北どちらに行ったのかわからないし、どういう信念を持った組織なのか、アントワーヌの内にいるのか、外にいるのかもわかりません」

「組織立って動いていたのです。遊びということはありますまい。いえ、それ以上に、遊びで許されることではありません」

 卓の上に両膝を突いて手を組み合わせたジャフリーの目に強い決意の色が漲っていた。


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