竜皇女と婚約者 1
竜皇女と魔技術師( https://ncode.syosetu.com/n2081hj/ )の続編です。
静かな室内にペンが走る音だけが響く。
「……ひま」
背後で何か聞こえたようだが、無視してペンを進める。
書類を書き終え、ペンを置く。
そのタイミングを見計らったように、再度、声がした。
「……ねぇ、ひまぁ」
「そうか。私は忙しい」
声だけで答え、出来上がった書類の束を机の上で整える。
「何で、自分の部屋でまで、仕事してるのよぉ」
不満を露わにした声と共に小さなクッションが飛んで来るのを、片手を上げて受け止める。
「邪魔をするなと言った筈だが」
「邪魔するつもりなら、机を投げてるわよ」
振り返ると、本当にテーブルを持ち上げようとしていた。
木製だがそれなりの重量感があり、実際にも見た目通りに重いテーブルは、大の男でも一人で持ち上げるのは難しい。女の腕で持ち上げるなどほぼ不可能だ。
ただし。
それが『普通の』女ならば。
「……私の部屋の調度まで壊すな」
溜息と共に、クッションを投げ返す。
常識の遥か上空に棲息するこの女にとっては、机一つを投げ飛ばすことくらい、恐らく魔法術を使うまでもなく容易い事なのだろう。
アルスティア・イル・セルス・リュドラ。
大陸の三分の一を支配する大国、魔導帝国リュドラスの皇女にして皇太子。
世界に最後に残った二柱の神の一方、紅の竜帝の末裔。七〇〇年振りに現れた竜。再臨した神。当代最高の魔法術師。
讃える言葉は数あれど。
「むー」
目の前にいるのは、拗ねたようにクッションを抱える女が一人。
神の威厳など欠片も無い。
神であろうと、竜であろうと、身近な人間にしてみれば、常識の枠に爪の先ほどしか掛からない、なまじ能力があるだけに何をやらかすかわからない、非常に迷惑な存在である。
「クラウスのばかー」
再び、クッションが投げつけられる。
子供かお前は。
何故か、私――リュドラス宰相首席秘書官クラウス・リセルスト・ジュロンは、この皇女の婚約者であったりする。
生まれは王子だが、リュドラスにとっては属国にも近い小国で、しかも非嫡出。生家を出て、リュドラスの家臣となった所までは、計画の範囲内だったはずだが、そこから先は誰が何処で何をどう間違ったか。
それとも、これがあるべき道だったのか。
今の所、一部――この女のもう一つの姿を除けば、とりあえず大きな不満は無い。
此処は、城内に与えられた私の部屋。
リュドラスに帰国し、宰相の首席秘書官に復帰してからは、通常の業務が当然のようにあり、その他にも城を出ていた間の埋めあわせもある為に、やらなければならないことが山ほどある。
その他にも、今後アルスとの結婚と共に副宰相、次期宰相となるために、宰相カルナー様について学ばなければならないことも多く、最近は睡眠もろくに取れていない。
率直な所、アルスを構っている暇は無いのだが、あまり機嫌を損ね過ぎると、何をしでかすか分からない。
下手をすれば国家を超えて大陸規模の問題になる。
仕事の邪魔になるので、執務室には入るなと言ってある。本人もその程度はわきまえているらしく、流石にそこまで来たことは無い。
というよりも、アルスにとってほぼ唯一の敵わない存在であるカルナー様の拠点、宰相執務室は鬼門であるらしく、余程の事が無い限り近寄ることもないというのが現実らしい。
その代わり、此処、皇宮内に与えられた私の私室には自由に出入りさせている。
そもそも、皇女の来訪をこちらから断ることが出来ないというのが現実だが。
もっとも、私は部屋でも仕事をしているので、アルスはただその辺で、暇そうにしているだけだ。
書類を確認し封筒に納める。
これをカルナー様に提出すれば、一区切り付くはずだ。
封筒を手に立ち上がる。
「……まだ、仕事?」
隣に立ったアルスが、顔を覗き込んできた。
明らかに拗ねている。
空いている手で頭を軽く引き寄せる。
「これを提出すれば、一区切り付く」
「で、入れ替わりにまた大量の書類を受け取ってくるわけでしょ?」
半眼になって恨めしげに呟く。
……確かに、この所それが繰り返されている事は事実だ。
「帰ってきてから、全然構ってくれない」
ぽつりとした語り口とは裏腹に、魔導器が魔力の高まりを感知する。
「これ以上、放っておかれたら」
すっと左手を顔の高さに上げ、薬指で紅に煌めく指輪に手を掛ける。
「暴れるわよ」
……おい。
「……そんなに婚約破棄したいか」
仕方がなく、用意していた封印の言葉を紡ぐ。
指輪を外そうとしていた手が、ぴたりと止まり。
「うぅぅ」
半泣きになって睨みつけてくる。
それでも、周囲の魔力は不安定に高まったまま。
軽く髪を撫で、溜息を吐く。
これはそろそろ限界かもしれない。
「提出したら、休暇も申請してくる」
「申請したけどダメだった、とか言ったら本当に暴れるわよ」
眼が据わっている。
困った事に本気らしい。
これはなんとかカルナー様を説得するしかないだろう。
「ご苦労。では次は……」
「少々、休暇を戴きたいのですが」
書類の束に手を伸ばしながらの、カルナー様の言葉を遮る。
「もう音を上げるのか?」
その様子が妙に楽しげだ。
最近の殺人的な仕事量は、やはり技量を試されていたものらしい。
「私よりも、むしろ向こうが限界の様です」
私も、これ以上はこのペースが保てる自信があまりないが、それ以上に。
カルナー様が眉間に皺を寄せる。
「暴れると宣言しています」
追加で伝えると、皺はいっそう深くなった。
「指輪の効力は」
「有効ですが、外そうとしていましたので」
「うむ」
椅子に身を沈め、眉間を揉みほぐしている。
「それでは仕方あるまいな。此処まで持ったのが奇跡というべきか」
深々と溜息を吐かれた。
「明日の朝議までに、被害無く治めておくように」
「かしこまりました」
カルナー様に一礼し、執務室を出ようとすると、控えめに扉が叩かれた。
「誰か」
「コハクでございます」
誰何の声に答え、入って来たのはコハクだった。
紅竜軍第三特務部隊第一小隊副隊長に加え、皇宮においてはアルスの側近女官も勤めるコハクは、上着は詰襟の軍服を少々柔らかな印象に改良したものに特三のエンブレム、それに踝までの四つ襞のスカートという、軍人と女官を折衷した服装をしている。
「第三特務部扱いの事件の報告書をお持ち致しました」
書類の束をカルナー様に渡すと、コハクが私に向かっておずおずと口を開いた。
「あの、クラウス様。お忙しい事は存知上げておりますが……」
言いたいことは、想像がつく。
「これから時間が出来た。アルスは後宮だな?」
「はい。あの……女官達が怯えて近づけない程になっていらっしゃいますので……よろしくお願い致します」
そこまで酷いのか。
カルナー様も頭を抱え、私に向かって軽く手を払う。
「クラウス。被害が出る前に早く行って来なさい」
「はい」
一礼し、執務室を出る。
……さて、どうやって機嫌をとったものか。
「さて、儂も休憩にするか。コハク。茶でも呑んでいきなさい」
「よろしいのですか?」
「『副宰相』が予想以上に優秀でな、大分楽をさせてもらっているよ」
「ですが……」
「こちらが難題を選んで渡していると言うのに、あまりにも難なくこなしてくるのでな。まったくもって、可愛げが無い」
「……そういう問題でしょうか」
「陛下も相変わらずクラウスが気に入らないらしく、朝議で難題を吹っかけようとまともに政務をやっておられるし、殿下も城を破壊されない。全く、この上ないほど役に立ってくれているよ」
宰相は上機嫌で、執務室に隣室する休憩室に歩いていく。
「……」
では、それ以前はこの城はどこまで大変な場所だったのだろう。少し頭痛を覚えながら、コハクは大人しく宰相に付き合うことにした。
他の者を呼ぶまでもないとコハクがお茶を淹れ、穏やかな香りに互いにほっと一息吐いて、そして。
「……あ」
何かを思い出したのか。コハクが呟いて口元を押さえた。
「どうした?」
「……今、アルス様のお傍付きは、ヒスイです……」
微妙な沈黙が降りる。
「あの男も、あれさえなければな……」
宰相は少し遠い目をして呟き、今頃後宮で起きているであろう事態を、あえて考えないようにしながら、一口お茶を啜った。