その背中を見送って
短編となります。SVB大賞として書き下ろしましたが、普通に娯楽として楽しんで貰えたら幸いです。
「今回もイマイチだった」
冬から春へ、季節の変化がやって来た。
「そう。どうしてかしら」
田舎の駅の待合室。三つ並んだ席の左端、彼はいつもそこに座る。
「なんか、生きている感じがしない、だとよ」
私は彼の隣を一つ空けて、右端の席に座った。
名前は知らない。いつも同じ待合室の席にいて、同じ時間帯の電車に乗る。
私は仕事に行くために。彼は美術大学に通うために。
知っているのはそのくらいだ。
「美術ってさ。上手い下手も大事だけど、そこに何を込めるか。何を表現したいのか。それが重要だって、毎っ回言われるんだよ」
「そうね。私もそう思うわ」
「言いたい事は分かるんだけどさ。じゃあ、何を表現したいかって自問自答するわけ」
「ええ」
彼は天井を仰ぐ。表情は見えない。
「表現したいものを、描いていない」
彼曰く。描きたい物が、分からないのだと言う。だから、デッサンも、油絵も、何故だか陳腐な物に見えるのだと言う。
「自分でも見た時に、なんか止まってるなぁって思うんだよ」
「止まってる?」
「生きてる絵はさ、動いて見えるんだ。躍動感的な」
それはなんとなく分かる。
たまに美術館に行ったりすると、動き出しそうって思う作品に出会う事がある。これは生きている、そう思わせる作品。
「俺の絵は止まってる感じ。だから、なんかイマイチ」
なるほど。そこに繋がるわけか。
「でも、絵は、美術は好きなんでしょ?」
「すげー好き」
私からしてみれば、それだけでも素晴らしい事に思える。私は学びたい事もなく、ただ、生きるという目的で毎日電車に乗る。会社に行き、仕事をして、帰ってきて眠る。そんな私からしたら、彼は輝いて見えるのだが。
「例えば、嫌いな物を描いてみるとか」
「嫌いなもの……?」
「私は専門的な事は分からないけど、絵を描くって、好きなものだけじゃないでしょ?」
「……」
「嫌いなものを描く事も、その気持ちの表現っていうか……」
彼は目を丸くして私を見つめた。
「あぁ、そっか。そうだな、うん」
「なんか役に立った?」
「あんたが描きたい」
「はい!?」
今、私嫌いな物を描くって話したよね?
「変な意味じゃねーよ。ただ、漠然とあんたが描きたいと思った」
美術学んでる人ってこんな実直なの? そんな突然、名前も知らない女を描きたくなるの?
「今度モデルになってよ」
「え、えぇ……」
真ん中の空席を乗り越える勢いで前のめり。ちょ、近い!
「裸じゃないよ?」
「当たり前でしょ!」
「ははっ、ねぇ、考えておいてよ。絶対綺麗に描くからさ」
「押しが強い。……でも、ちょっとだけ考えとく」
「やった! あ、電車来そー」
彼は立ち上がる。待合室を出ようとした所で、私は彼に話しかけた。
「私、今日は一本遅らせて行くから」
「そうなの? じゃあまた明日」
座ったままその背中を見送る。電車がプラットホームに到着し、彼は電車に乗り込んだ。ああ、彼の名前をまた聞き忘れた。いつも忘れてしまう。しかし、また明日になれば、知る事が出来るのだろう。日常だったはずの光景に、少し変化が顔を出した。そう思ってほんの少し口角が上がった。