A-07話 絶望
*** 東京 ***
「なぁ!?やっぱおもろいだろこれ!」
「ハハハッ。やばくねここ。マジうけるわー」
「ってそれ俺まだ見てねぇんだからネタバレすんなよ!」
漫画雑誌を手に卑俗な笑いが起こる。
「てか渡邉8時から予定あんじゃねぇの?」
「は?……やべっ!もう7時過ぎてんじゃねぇか!もうちょい早く言えよ!」
路地裏に怒気と小気味よさが混じった声が響く。
「あーもうせっかく東京まで来たのに面倒くせぇ。こっからあそこまでどんだけかかると思ってんだよ」
「乙ー」
満月が彼ら三人を照らしていた。
ビルの間から見える月が、やけに大きく見えた。
渡邉が大通りに出ようとその路地を抜け出そうとした時、影が、彼の前に立ちはだかった。
「あ?お前誰だよ?どけよっ!」
その影は、苛立ちを見せた渡邉の前に立っていた。
ボロボロになった服の上からフードを被っていた。
濃い影の中、一番星のように一閃する眼光が、鋭く渡邉を射抜いていた――
「よう…久しぶりだなあ……」
重い重い重力が――
渡邉にのしかかった。
「は…!?なんでお前が!?
なんでお前がいるんだよ――
――鶴喰!!」
鶴喰!?、オウム返しにそう叫んだ渡邉の取り巻き達に、寒風吹きすさぶ。
「……ずいぶん、楽しそうじゃねぇか」
鶴喰が言葉を吐いた。
「……は?何がいいてぇ…」
渡邉が返した。
けれど、その『は?』には、先ほどの攻撃性は、どこにも見当たらなかった。
鶴喰は彼らを、そして自らを嘲笑するように呟いた。
「よくある決まり文句さ。俺を殺した後の飯は、美味かったか?、と聞いているんだよ」
……沈黙が、流れた。
「不味かったか?
……ならば俺もだ。
俺はあの時死んでから、一度も飯がうめぇと感じたことはねぇ。
空腹はある。飯は欲しい。
だが、そこには気の休まるところなど、どこ一つねぇ。
飯の時こそが最も狙われる。
無限に走り続ける緊張。
痛覚は叫び、頭は悲鳴をあげる。
不安を心の奥底で叩き潰し、必要な本能と理性だけを揺さぶった。
……そんな辛酸を、てめぇは味わったのか?」
汗が、一直線に流れていく。
訳が分からない。
けれど渡邉たちにそう言わせない迫力がそこにはあった。
戸惑いと恐怖と焦りが飽和する汗が、ただひたすら渡邉たちの顔を滑っていく。
「し、知らねぇよそんなこと!」
ようやく出た声は、それだった。
「し、知るかってんだ!
あの後、何があったかしらねぇが、あれは俺らが悪いんじゃねぇ!
お前が勝手に道路に飛び出したんだろ!?
だから、俺らがそんな気にすることなんかねぇんだろ!?」
勢いがあった。
だが、そこには勢いしかなかった。
不意に、嘘つきは早口だ、という言葉が、渡邉の脳裏をかすめたほどだった。
「あぁ……そうだな。確かにてめぇらは、俺の死に感傷し哀悼する必要はねぇだろうな」
「…そ、そうだろ?」
「あぁ。てめぇらは、そんなものじゃ、済まされねぇ」
鶴喰は今目の前にいる渡邊たちにいじめられていた時のことを思い出して言った。
ふと気が付けば通りには誰もいない。
薄暗く照らしていた電灯が、チカチカと点滅した。
衝撃が彼らを襲い、ついに渡邉の堪忍袋の緒が切れた。
「あ!?
お前、言うわせておけば……さっきから何様のつもりだ!
俺たちを怒らせに来たのか?
まさか……また繰り返しに来たのか?あのリンチを」
渡邉は心の奥底で罪悪感を感じていた。
一介の不良が殺人という罪に耐えられるはずはなかった。
どこかで、この罪から逃れようと必死に目を背けていた。
だが、そんな彼の前に鶴喰という張本人が、傷一つなく現れた。
鶴喰に何かが起こったということは、渡邉にも分かったが、それでもやはり解りはしなかった。
人間というものは滑稽なもので、絶望する程大きい壁を目にすると、目の前にそれよりも小さい壁を置くことで絶望を誤魔化すのだ。本人には小さい壁しか見えておらず、その小さい壁を乗り越えようとその壁向かって走っていく。そうして知らないうちに、人は絶望に近づいていくのだ。
それは、渡邉にも適用された。
渡邉はこの場を乗り越えるために、本質的には解決されないであろう小さい壁を設置した。
それが、鶴喰を武力でもって倒すということだった。
渡邉の眉間に深い影が灯る。
渡邉が拳を構えた。
「俺らに啖呵切ったことを後悔させてやる!」
渡邉の拳が、一直線に飛ぶ。
風を切る音が迫った。
「単純なんだよ……」
くしゃくしゃになったティッシュを避ける。そんな涼しそうな顔で鶴喰はその拳を避け、そう呟く。
渡邉の目は見開かれた。
右。左。右。左。
渡邉の手が鶴喰の顔めがけて襲う。
「くそっ!なんで当たんねぇ!」
「動きが単調。フェイントの一つもありゃしねぇ」
攻撃を避けながら、渡邉の耳元でそう囁いた。
「お前!ぜってぇ許さねぇ!」
そう唾を吐いて、渡邉は近くに落ちていた木の角材を拾い上げた。
重さを確認するように角材を振り回し、息を吐いて呼吸を整えた。
腕に力を。
脚に力を。
全身で、振りかぶる。
バットのように横振りで。
されど、当たったのは、コンクリートだった。
「かっ!?」
壁からコンクリートが、太い釘のように生えていた。
それが、鶴喰を角材から守っていた。
「どうなって!?」
汗が、渡邉の汗が、ひと目で分かるほどに、流れている。
焦りが、増していた。
「なぁ?知ってるか?」
目の前で口が開かれる。小さく開いたその口は、その大きさに反してなんでも吸い込んでしまいそうな空漠さがあった。
「"運命"ってのは、偶然で起きたことが、対象の人生にとって重大だと判断されたとき、"運命"って呼ばれるらしい。
勤勉な努力家が"運命"によって不幸な目に逢い、何の価値もなくただ徒に人生を延長しているやつに"運命"は幸運を呼び寄せることもあるんだとさ。
おかしいと思わねぇか?
俺にだけ理不尽は降り注ぎ、てめぇみたいな糞野郎には愉しみが待っている。
こんな現実を許している世界は、おかしいと思わねぇか?」
「う、運命!?
そんなのただの運だろ?
あってないようなもんじゃねぇか!」
壁のコンクリートが、木がにょきにょきと生えるかのように動き、辺りに暗い色を落としていた。
「もし、
今まで俺に降り注いだ理不尽が"運命"というのなら、
今からてめぇらに降り注ぐのは、"宿命"だ。
もし、
"運命"が偶然の産物だというのなら、
"宿命"は必然の産物だ。
俺は、"宿命"で"運命"をぶち壊す!
"運命"を認めてねぇやつに、"運命"を超えることはできない!
"運命"とは、乗り越えるためにある!!」
言い終わった瞬きの一瞬――
渡邉の取り巻きたちが鶴喰の背後をとっていた。
そして何かを拾う。
見れば彼らの手には、頑丈な鉄パイプと敵意が握られている。
一切の躊躇なし。
そんな趣で鶴喰向かって迫ってくる。
足音がパーティーのように盛大に鳴った。
「くたばれぇ!!」
「気をつけろ?その鉄パイプは既に『指定』済みだ…!」
鶴喰にぶつかるのか、ぶつからないのか。
そのどちらかかも分からないほど絶妙なタイミング。
鉄パイプは高熱で溶けたかのように、鶴喰を避けるようにしてぐにゃりと曲がった。
自然と彼ら二人の顔に戸惑いの顔が写される。
その隙をついて、鶴喰は二人の衣服に手を伸ばした。
「指定」
『指定』された二人の衣服は、彼らを糸で引っ張り壁に叩きつけた。
その壁には、あの針が生えており、それは彼らの背中を貫通する。衣服に赤いシミが広がっていく。鉄パイプが乾いた音を立てて落ちた。消え入るようなうめき声をあげて、彼らの腕はだらしなく重力に従った。
『経験値が許容値を突破しました。鶴喰様のレベルが1から3に上がります――』
頭の中に音が響く。
選抜の時、何度も聞いた声だ。
緊張と安堵をもたらす、あのアナウンスだ。
「神が言ってた通りだな……レベルが上がるごとに使える異能が増えるんだったか」
「あ!?お、お前何しやがった!」
渡邉が、闇夜に怯えた子犬のように吠えた。ブルブルと震えた足が、子犬の様相を一層強める。
「なんだ?この惨劇を見てまだ逃げねぇのか。いや、それとも逃げる度胸もねぇのか?」
「う、うるせぇよ!お、お前、こ…こんなことして許されると思ってんのか!」
「許される?
誰に?
よもやあの憎たらしい神でさえ俺を裁く権利はねぇ」
「ああ!!
な、なんでだよ!なんでなんだよ!
なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけねぇんだよ!
俺が、そんなに酷いことしたかよ!
俺よりもっと悪いやつらがいるだろ!!
なんで俺がこんな目に!!」
「被害者ぶるんじゃぁねぇよ。
言ったろう。これは"運命"でなく"宿命"だと。
もし俺と再会した第一声が『申し訳ない』の一言なら、未来は変わってたかもしれねぇ。
選択権があったのに関わらずそれを無視し続けたお前が悪い。
それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけだ」
アスファルトの針が、一斉に渡邉の腹を刺した。体には無数の穴が空いている。血が絶え間なく吹き出たあと、その穴には深淵のような濃い黒が巣くった。
仰向けに倒れた渡邉。
そして頭の中で響いたアナウンス。
その両方を横目で流し、俺は路地の角に目を向けた。