はじまり
私は大学に入学した当初、降り始めた淡い雪のような喜びが体中にまとわりついていた。しかしこれらの幸福は束の間のもので、もろく崩れ去った。大学生活を何か豊潤な花畑に囲まれ、見たこともない美的なものや景色に人に囲まれてそこで永久に語り合う、そういう言ってみれば甘ったるい、空想的なものが私の頭の片隅にあった。
私は朝から深く眠り込み、まどろみのなかにいた。スマホがアラームを鳴り響かせ、私の部屋に反響した。私はのっそりと死体が起き上がるように寝ぼけなまこを擦りながらゆっくりとベッドから起床した。リビングに向かう途中、時間を確認した。6時04分、自分が今この世に生きているのがわからないくらい辺りは静まり返っていた。母や父はまだ寝ていた。私は気怠く、自分の耳の近くにハエが素早く飛び交うのを手で払い除け、顔と髪の毛を洗った。髪の毛をドライヤーで乾かすと、パンをオーブントースターに入れ、紅茶のティーパックをティーカップに入れ、沸騰したお湯を注いだ。パンをトースターから取り出し、皿に乗せ、冷蔵庫からマーガリンを出し、テーブルについた。退屈だった。いつも通りの毎日が待っている。大学の講義に出て、電車に乗って、また家に帰ってくる。そしてまた電車に乗り、大学に行く。その繰り返しだった。全ては単純で予想され、味気なかった。紅茶を啜っても何の味もしなかった。予想され尽くした映画を何回も見ているような気分だった。何もかも灰色に見えた。紅茶は血のように気高くて、どこか今の私とはかけ離れたものを見るかのようだ。
食器を片付け、歯を磨き、着替えて、自転車の鍵をもって家を出た。外は今までの世界が嘘のように晴れ晴れとしていて、私の陰気じみた、暗鬱な気分を嘲笑しているかのようだ。
「お前は何に支配されているんだ」
ポツリとつぶやいた一言もすぐさま煙のように消え去った。こう自分の気分を低下させる天候のおかげで私はうんざりする空を憎んだ。この鈍く、澱んだ空は全てを排除する。陽気さというものは陰気な者にとって一種の嫌悪の対象をもつ。しかし、そこに何らかの肉体的生動や利己的主張か見られない場合、私は静かにそれを受け入れるだろう。
自転車置き場に行き、自転車の鍵を解除し、サドルに飛び乗り、自転車をこぎだした。空には鮮やかな空と雲間の太陽、私の脳髄にこれほど力強く、昂然とした生があっただろうか。自転車をこいでいるとき、私の身体に降り注ぐ濃い光線は少なくとも私を不愉快にはしたが、快楽をも与えた。思想や文学とも一線をなし、強烈に正反対だが、無条件に私を支え、緑豊かな山々を見るときのように心が広大で、ゆるやかな心境にさせた。私は自転車と自分の体を合わせて、一つの肉体のようなものと化していた。私にはこの瞬間、自分の存在が何者で、証明などしていなくてもよかった。人間が自分の証明を欲するのは自分の意義が不安定で、曖昧としており、実感していない時である。私は自転車の停留所に自転車をとめ、駅に向かった。辺りは出勤中のサラリーマンが駅から大量に飼い慣らされた獣たちが自分の餌を求めてくるように皆、急いで出て行った。私はいつ見てもこの光景の無気力な惰性な習慣に押し流されていった集団なのだと感じていた。なぜこの人達はいつまでとこんなに軽く扱われた生に必死にとりすがりついているのか私にはまるで分からず、一つだけ知悉できたのはこの地から湧いてでたような人々は死に怯え、どうすることもできず、一つの現実という哀れな世界に取り残された被害者という意味で私と彼らの合い通ずるところを見つけ、私の心臓を軽くしたとは言えないが、少なくとも私の器官の正常なのを判断した材料となった。私は生まれてから一度も力の化身なるデモーニッシュじみたものを見たことも味わったこともないが、この巨大な、互いの利益など無知で、ただ己の欲望の概念性を求めつつ、このように一個の巨大な鎧なように私の眼前を立ちふさぎ、足早に過ぎ去る黒い軍隊は一個の死の幻影、いや膨大な死者の歴巡に見えた。
私がこの黒い流れに逆らい、駅のホームにたどりつくと、電車の到着アナウンスが流れた。私は一番遠く離れたホームで電車を待った。この場所から逃げ出したいというむなしい抵抗であったし、人々があまり近寄ってこないのではないかと人を恐れた気性から出たものでもあった。私の向こう側には巨大なテレビモニターが今日一日の起きた出来事を解説したりしていた。それは不気味な明るさを醸し出していた。
電車が轟々とうなり声をあげて、私の前を通過し停車した。降車した乗客がぞくぞくと足早に消え去ってゆく。私も後ろに誰かの気配を感じ取ったので、急いで飛び乗った。私は大学に向かうため、この腐り果てた21世紀に電車に乗っている。車内は乗客が多かった。ほとんどの人はスマホを見つめ、飽きるほど夢中で浪費していた。私は電車のこのなんとも言えない閉鎖空間が嫌だ。
一時間経つと、目的の東京駅に着き、ここから乗り換えなくてはならない。この行程に何の意味があるのかわからず、足を疲労させ、みるみる肉体の気力も消えてゆき、残るのは魂なき情熱、体はボロボロになってゆく。そして私はあの影の軍団となってしまう。この幻影めいた生命あふれる肉体を何かの秩序ある巨大な壁に向かって体当たりするなどありふれたことだろうか。私は壁に向かってひたすら進むのを知っていた。この運動靴の土色や黒じみた汚れは私にこびりついたものを具象化したのである。行き合う人々、女も男も飛沫あげる波に負けじと抵抗している。私はまだこの人々に向き合うのはひどく目眩を覚えている。自分の心の中に抑え込んでいた不快な包装物は明快だが、同時に硬く、私には不可解に思われた。