うそ
コウが小学校から下校したとき、自宅のベランダからサッシが開いているのが見えた。コウはアパートの1Kに、母親とふたりで暮らしている。父親はいない。母親によれば、すでに亡くなっていると聞いている。母親は近所の缶詰工場に勤めていて、出かけるときは戸締りをおろそかにしなかった。ふたりが住む部屋は1階なので、戸締りの用心はよそ以上に必要だからだ。だから、コウは開いているサッシに気づいたとき、母親がいつもより早く帰宅しているのだと思った。今は6月の半ば過ぎ、窓を開けなければ暑くて息苦しい季節になっていた。
コウが扉を開くと、玄関の三和土に黒い男物の靴が目に入った。大人の履く大きな靴だが、まるで子供が無造作に脱ぎ捨てたように乱雑だった。コウは『あのひと』がまた来たのかと思いながら靴を脱いだ。コウの考える『あのひと』とは、先週ここに押しかけて来た男のことである。
男は誰かを探しに来ていた。コウは宿題をしながら、男の対応をしている母親の声を聞いていた。母親がコウに聞かせたくないように小声で話しているのが、かえって気になったのだ。
――あのひとはここにいません。私たち、ずっと前に別れたんです。
――だがな、あいつに身内らしいのはもう誰もいないんだ。あいつが頼れるのは、あんたしか残っていないんだよ。俺たちはなぁ、ただ、あいつを見つけたいだけなんだ。こそっと俺たちに教えてくれるだけでいいんだ。本当は知っているんだろ?
――本当に知らないんです。もう8年、連絡も取り合っていません。本当です。
――奥に居るの、あいつの息子だよなぁ。ちょっと呼んでくれよ。坊ちゃんにも尋ねたいんだ。
――やめてください! あの子は全く知らないんです。あのひとと別れたのは、あの子がまだ赤んぼのころだったんです。顔すら覚えていないんです!
――8年連絡を取っていないってことは、そうなるのか……。わかったよ、今日は引き下がるがね。また、立ち寄らせてもらうぜ。そのときまでに、あいつの居場所で思い当たるところを思い出したら教えてくれないかな。いや、思い出したら、そっちから連絡くれていいんだぜ。名刺を渡しておくよ。この番号に電話くれるだけでもいいんだ。電話では『三頭の哲』を出してくれと言えば俺につながるからよ。
――こんなものを渡されても……。本当に知らないんです! あ、待って……。
――それじゃな、また来るぜ……。
男は言うだけ言うと立ち去ったようだった。コウがそっと玄関をのぞいてみると、母親は玄関にへたりこむように座っていた。手には男から押しつけられた名刺が見えた。
母親は必死で隠していたが、コウは父親が死んだという話が嘘であることに気づいていた。家のどこにも父親の遺影が置いていないし、お盆やお彼岸のときに墓参りに行くことも無い。父親の存在を示すものが一切残されていないのだ。小さいときは漠然と信じていたが、小学校に上がったあたりから、これらの違和感から母親の嘘だと気づいたのである。しかし、コウは真実に気づいていることを母親に知らせなかった。正確には知らせたくなかった。サンタクロースの存在と同じように、彼は父親の死を信じているふりをしてみせていたのだ。そのため、母親と『三頭の哲』とのやりとりを耳にしても、コウは衝撃を受けなかった。コウにとっては、父親がいなくなった事情の一端が見えてきただけだったのだ。コウは母親の目を盗んで名刺を調べてみた。そこにはカタカナで長い社名と男の名前が印刷されていた。男はどうも金融関係の仕事をしているらしい。コウはそれで事情のすべてではないにしても、おおよそのことを理解した。少なくとも父親は現在も生きていて、『三頭の哲』たちから逃げているのだろう。『三頭の哲』は借金の取り立てでコウの父親を探しているのだ。
コウは乱雑に脱いである靴を並べ直すと、部屋に足を踏み入れた。部屋には男がひとり座っていた。その男の顔を見て、コウの表情が曇った。『三頭の哲』の顔は、この間のときにのぞき見て覚えている。しかし、今ここに居るのは、まるで見覚えのない顔だったのだ。
「お。帰って来たか」
男はコウを見るなり声をかけた。テーブルの前であぐらをかいて、赤ら顔で見上げている。背の低いテーブルの上にはどこかで買ってきたらしいビールの缶が並んでいた。ビールを飲みながらタバコを吸っていたらしい。缶のひとつから白い煙が昇り、あたりにタバコの匂いが漂っていた。
「どなたですか?」
コウは静かな声で尋ねた。自分に危害を加えるような者なら、コウが入って来るなり何らかの行動を取っているだろう。それなのに、男はのんびりとコウを見上げたまま話しかけているのだ。今すぐの危険はないはずだ。
男はコウの落ち着き払った態度に目を丸くした。「お」と声をあげると、手にしていたビールの缶を一気に飲み干した。男は空になった缶をテーブルに置くと、手をひらひらと振ってコウに座るよう促した。コウは首を横に振って座らなかった。
「どなたですか? ここはぼくの家です」
「何だ、ずいぶんとしっかりしたガキだなぁ。まだ8歳ぐらいだろうに。ほんと、これが俺の子かね」
男の言葉に、コウはどきりとした。この男は今ハッキリと「俺の子」と言った。では、目の前にいる見知らぬ男はコウの父親だということになる。
「その様子じゃ、俺のことをまるで知らないみたいだな。実はな、俺はお前の父親、父さん、パパなんだよ。わかるか? まぁ、最後に見たときは、こーんなに小さかったからな。俺のことを覚えていなくても当然だがな」
男は両手を自分の肩幅ぐらいに広げてみせた。コウが赤ん坊だったころの大きさを示しているようだ。コウは男の話を聞いてみる気持ちになった。コウは男の向かいに回ると、腰を下ろして正座した。その様子に男は呆れた表情を見せた。
「えらく行儀がいいな。自分で言うのもなんだが、俺の子って感じがしねぇな。俺の種でこんなのが生まれると想像できねぇわ」
コウは黙って父親と名乗る男を見つめた。コウは子供にしては目鼻立ちが整っていた。いずれも母親譲りと言えるものだ。しかし、こうして男の顔を見ていると、顔の輪郭や眉の形など、コウが男と似ている部分を見出すことができる。コウの父親だと断言するのはまだ早いかもしれないが、男が嘘を言っているようには思えなかった。
コウは父親が突然現れた理由を考えた。『三頭の哲』によれば、父親には頼れる者はいない、あるいはいなくなったらしい。進退窮まった父親は、かつての妻を頼ってきたのだ。母親は連絡を取り合っていないと言っていた。このアパートには、小学校へ上がる前に引っ越した。父親が知っているはずがない。どう探したのか、ふたりの住所を調べてきたのだ。そこまで考えて、コウはあることが気になった。
「ここにはどうやって入ったのですか?」
それを聞くと、男はコウから視線をそらすと頭をかいた。「げ、玄関から扉を開けて入ったに決まってるじゃねぇか。か、カギはかかってなかったぜ」
それは嘘だ。母親が今日に限って戸締りを忘れるはずがない。男の態度から見ても、真っ当な方法で入ったとは思えない。コウが暮らすアパートはかなり古いものだ。手癖の悪い者であれば、こんなアパートに侵入するのは造作もないのだろう。
……お母さん。このアパートじゃ、いくら戸締りしても意味がないみたい……。
コウは心の中でため息をついた。しかし、そのことを『おくび』にも見せなかった。
「それで、ここに来た用事は何ですか?」
「お前、父親に対して他人行儀だな、まったく」
男は不機嫌そうな声で言った。
「用事は何ですか?」コウは重ねて尋ねた。
「帰って来てやったんだよ、ここに。嬉しいだろ? 今まで一緒にいてやれなかったけど、これから一緒にいてやれるんだよ」
男の答えに、コウは不快なものしか感じられなかった。10歳にも満たない少年に、男の意図を正確に読み取るのは難しい。しかし、それでもコウは男の中に相手より優位に立ってやろうとする男の卑しい根性を感じ取っていた。男の言葉の端々に現れていた「してやる」。したくないことをわざわざするのだという態度を男は見せている。しかし、コウは父親がいない寂しさを感じたことがなかった。物心ついたころから母親とふたりきりの生活で、それがコウにとっての当たり前だった。コウにしてみれば、この男は要らないものを無理やり買わせようとしているものだ。
それに、男の本当の目的は別にあるだろう。これまで8年もの間、まるで何の連絡もしてこなかったのに、ずっと身内だったようにとつぜん現れたのだ。こうも馴れ馴れしい態度には相手に甘えてやろうとする気持ちもあるのだろう。ぼんやりではあるが、コウは男からそんな気持ちを嗅ぎ取った。コウの父親は借金取りに追われている。そんな男がここへすり寄る理由は子供でもわかる。この男はコウの母親にたかるつもりなのだ。母親は応じるだろうか? 応じるだろう。コウとのふたりきりの生活を守るために。自分たちに関わらないよう頼むために。男はいくらかの金を手に入れれば、それで満足してその場は引き下がるだろう。しかし、金が無くなれば、また顔を出すに違いない。このやり方でずっと金を手に入れられるのだ。そのせいでコウたちの生活が苦しくなろうと、この男はまるで気にはしないはずだ。
――ここから出て行ってもらおう――。
コウは決心した。たとえ実の父親であっても、この男はダメだ。母親に会わせてはいけない。何が何でも、この男には立ち去ってもらわなければならない。母を守るために。自分と母との暮らしを守るために。
「何だよ、なに黙っているんだ?」
男の声は怒気を孕んでいた。年端のいかない少年の目に、自分への侮蔑がのぞいていたからだ。ここには自分と少年のふたりしかいない。暴力的な状況になれば、結果は明らかだ。男はコウを怯えさせようと脅しをかけたのだ。首をすぼめ、凶暴な目つきで睨んでいる。
ここで、コウは男にとって予想外の行動を取った。コウは背筋を伸ばして、こう言ったのだ。
「すみません。さっき言われたことを考えていましたので。おじさんは、ぼくのお父さんだとおっしゃいました。でも、僕にはちゃんとしたお父さんがいます。ここでお父さんとお母さんの3人で暮らしています。それで、どういうことかわからなくなったんです」
「お父さんだぁ?」
男はびっくりしたような大声をあげた。首をすぼめていたのが驚きで伸びあがっている。
「な、何、適当なこと言ってんだ。嘘なんか言うもんじゃねぇ!」
「うそじゃないです。おじさんこそ変なうそをついています」
コウはあくまで落ち着いた声で応じた。あまりに落ち着き払った態度に、男はコウから視線を外した。男の視線はうろうろと部屋中を動き回っている。
「い、いや、お前の言っているのが嘘だ。俺は本当のことを言っている!」
「うそじゃないです」
「じゃ、じゃあ、お前の本当のおとうさんってのは誰だ? 名前を言ってみろ!」
コウはすばやく答えた。「きむらてつひろ」。
「きむら……てつ、ひろ? 誰だ、そりゃ。やっぱり、お前、適当なことを言っているだろ!」
男は勢いよく言うと、思い出したように玄関を指さした。
「郵便受けの苗字は『きむら』じゃなかった。俺と結婚する前のあいつの苗字だ。ほら、適当なことを言ってると……」
「お父さんとお母さんは、苗字をべつべつにしてるって聞きました。ふーふべっせいだって」
『夫婦別姓』という言葉は、たまたま知っている言葉だ。担任の女性教員が、夫と違う苗字であると自己紹介で話していた。そのとき教員が口にした『夫婦別姓』という言葉を、コウは覚えていたのである。
「夫婦別姓? 小さいのに難しい言葉知ってんな。じゃあ、お前のお父さんってやつは、お母さんと籍を入れていないってことなのか?」
コウは首をかしげた。本当に『籍』という言葉の意味がわからなかったのだ。男もそれに気がついて咳払いをした。
「ええっとだな……。お前が言うお父さんと、お前のお母さんは結婚していないってことなんだな?」
「そうなんですか?」
「お前が言ったことだろうが!」
男はコウの言っていることを嘘だと決めつけなくなった。コウの話をすっかり信じてしまっているのだ。『夫婦別姓』という言葉を知っているくせに、両親の関係を把握していないのはいかにも年端のいかない子供らしい。それにおどおどしたり、取り繕ったりするような、いかにも嘘をついているようなところを見せていない。男の知る限り、子供が嘘をつくときは態度でわかるものだ。何せ、自分も子供のころがあったわけなのだから。男が子供のころ、自分の嘘がバレていたのは自分の態度に「嘘」が見えていたからだ。コウにその「嘘」が見えないのだ。だが、もし、男がもう少し「しらふ」であれば、もう少し観察力があれば、コウの嘘など簡単に見破れたはずである。この部屋には、父親と住んでいることを示す服や持ち物などが一切無いからだ。ただ、コウがあまりに自信たっぷりなため、男はそこまで頭が回らなくなっていたのだ。
「……まぁ、いい。要は、あいつは、その男と結婚していないってことだからな。そうだよ、俺は離婚に同意なんてしていない。俺と籍は抜けていないはずなんだ……」
男の言葉は最後のあたりでつぶやきに変わっていた。コウの存在を忘れたように独り言をつぶやいているのだ。しかし、男は急に我に返ると、コウに顔を向けた。
「ところで、その『お父さん』ってのは何をしているんだ? サラリーマンか? どかちん(※土木工事従事者を指す)なのか?」
コウは首を左右に振った。
「違います。お父さんは金融業の仕事をしています」
「金融? 銀行員か?」
「銀行じゃありません」
コウは立ち上がると、部屋の片隅に歩いていった。そこには母親の鏡台が置いてある。その引き出しを開けると、一枚の小さな紙を取り出した。母親がコウに見せないようにして仕舞い込んだものである。コウはその紙を男の目の前に置いた。
「お父さんの勤め先は『サントー・ファイナンス』です」
男は目を大きく見開いてテーブルの上を凝視した。コウが置いたのは一枚の名刺だった。
「さ、さ、『サントー・ファイナンス』……!」
名刺の効果は絶大だった。男の額から大粒の汗が流れだし、目にはこれまで見られなかった怯えの表情が浮かんでいた。
「お父さんは、会社で別の呼び名があるそうで、会社では『三頭の哲』と呼ばれているそうです」
今度は男が飛び上がるような勢いで立ち上がった。
「『三頭の哲』! きむらてつひろの『てつ』って、あの『哲』のことなのか! あ、あいつ、『哲』とデキちまったってことなのか!」
男の表情を見て、コウは自分の嘘に後悔し始めていた。男は完全に怯え切っている。男の顔から浮かぶ恐怖、そして、絶望。自分の嘘がここまで男を追い詰めることになるとは思いもしなかった。男が二度とこの家に立ち寄らないこと。コウが願っているのはそれぐらいで、せいぜい嫌な思いをさせられれば、それで良かったのだ。だが、コウはあくまで嘘をつきとおそうと思い直した。もう少しだ。もう少しなんだ!
男は額の汗を拭うと、ポケットに右手をつっこんだ。タバコの包みを取り出し、1本くわえたが、すぐに口から離すと苛立った様子で空き缶に放り込んだ。
「お、お父さんは、いつ、家に帰ってくるんだ?」
コウは壁に掛けてある薄汚れた時計に目をやった。
「いつもなら7時過ぎぐらいに帰って来ます。最近は、お母さんのほうが帰りは遅いです」
コウは、『三頭の哲』と先に鉢合わせになることを暗に示した。
「そ、そうか……。ふたりとも帰ってくるまで時間がかかるな……」
時計の針は4時過ぎを指していた。
コウがぼんやりと時計を眺めていると、男はコウの頭に手を置いた。
「きょ、今日は、ほかにも、用事があって、そんなに、待って……いられ、ないんだ。用事を……片づけて……から、また、顔を、出すよ……」
コウは頭に置かれた父の手の感触に、少し泣きそうになった。それでも、コウは落ち着いた表情を崩さなかった。
「じゃあ、おじさんが来たことを伝えておきます」
男はコウの頭から手を離した。慌てたように両手をぶんぶんと振る。
「い、いや……、わざわざ話さなくていいよ。よ、用事が片付かなかったら、こ、ここに来られないかも……しれない、から……」
「わかりました」
コウは深々とお辞儀をした。ゆっくりと頭を上げると、そこに父親の姿はなく、アパートの扉が閉まる『バタン』という音がコウのところまで響いていた。
コウの母親が帰って来たのは5時過ぎである。彼女は工場からいただいた缶詰を手提げ袋に入れていた。彼女が勤める工場では、検品で必要な重量を満たさなかった缶詰を従業員が持ち帰ること許していた。少しでも廃棄コストを下げるためだ。育ち盛りの子供を抱える彼女にしてみれば、この配慮はありがたかった。魚を調理するのが不得意ということもあり、サバの味噌煮などの缶詰は、家計だけでなく献立においても助けになるのだ。とは言っても、コウの母親は週に何度も缶詰を出すことに申し訳ない思いを抱いていた。コウは好き嫌いを口にする子供ではなく、わびしい食卓でも不平ひとつ言わずに平らげていたからだ。
――今度、お給料もらったら、コウを連れて、どこか美味しいものを食べに行こう。あの子は食べたいものを言わないけど、そのときは好きなものを思いっきり食べさせてあげるんだ……。
母親はそんなことを考えながら扉を開いた。そのとき、コウは汗を流しながら掃除機をかけているところだった。コウは母親の姿に気づくと、掃除機を自分の背中に隠した。
「お、お帰りなさい。は、早かったね……」
「いつもの時間じゃない」
母親は部屋に入ると、時計に目をやりながら言った。
「そ、そうだね……」
コウは部屋の中を見渡した。テーブルに散らばっていたビールの空き缶は、袋にまとめて入れて町内のゴミ集積場に捨ててきた。台所の窓を開けて換気を良くすると、無香料の消臭剤を部屋中にまいて父親とタバコの匂いを消した。テーブルの上を丁寧に拭き、床に落ちていたタバコの灰を掃除機で吸い込んだ。床の掃除はおおむね終わっているが、父親が訪ねてきた痕跡を完全に消すことができたのか、コウはそれが不安だった。
「あなた、何で急に部屋の掃除なんて始めたの?」
母親もコウと同じように部屋を見渡しながら尋ねた。築何十年も経っている古アパートだから、壁も襖も薄汚れている。コウがどこかを新たに汚したとしても、母親はその痕跡を見出すことができなかった。
「ちょ、ちょっと、部屋をきれいにしようかと……」
母親はコウの頭をなでた。
「ありがとう。でも、正直に話して。あなた、何かやったの?」
「な、何も……」
「お隣さんが遊びに来たんじゃないの? あの子とはしゃいで、部屋を汚したりしたんじゃないの?」
母親は隣に住む小さな男の子の顔を思い浮かべて尋ねた。コウはその男の子と仲が良く、部屋で一緒に遊ぶことがあったのだ。
コウは、はっとした顔になると母親の胸に顔を埋めた。そして、その姿勢のまま小さな声で「ごめんなさい」とつぶやいた。
母親はコウの頭を優しくなでた。
「いいのよ。別にたいしたことじゃないんだから」
コウは顔を上げることができず、「ごめんなさい」と繰り返した。
母親はコウの頭を愛おしげになで続ける。彼女は笑みを浮かべながらつぶやいた。
「ごめんなさいするなら、次から嘘なんてつかないこと。お母さん、あなたの嘘なんて簡単にわかっちゃうんだから……」
この作品のレシピ:
これまでで一番短い物語だが、一番工夫を凝らしている。この物語は一部を除き、固有名詞を使っていない。主な登場人物は、『父親※あるいは男』、『母親』、そして、主人公である『コウ』である。固有名詞を避けることによって、家族という一番緊密な関係も記号化するだけで距離が生まれる。家族であっても、つながっていると思っていても、厳然たる「距離」は存在する。この物語には、それが暗示されている。当初は「コウ」も「少年」で進めていたが、空々しさが強くなったので、含意的な漢字表記ではなく、カタカナ表記で「コウ」とした。この物語のコウは、「孝」であり、「巧」であり、「高」にも通じる。ほかにも、いろいろな「コウ」を思い浮かべることができると思う。それについては読み手の自由である。「物語を読む」のに、そのような自由を妨げようと思わないからだ。
表題の通り、「嘘」がテーマである。最近、政治家や芸能人がつく「嘘」が非難の対象となって、ネットで騒がれてはいるが、個人的に「嘘」には善悪などないと考えている。非難すべきは「嘘」ではなく、「嘘」をつくことでどんな不正を行なうのか、あるいは不当な利益を得ようとしているのか。そういうことではないだろうか。この物語では三者三様の「嘘」を描いた。この嘘まみれの物語に、僕は非難すべき「嘘」を見出すことはできない。