09-TAFFEE
左の店はテナントが入っておらず完全に無人だったから、クヲンはそこのポストに店の鍵を入れている。
泣き疲れて眠ってしまったシェスカを、迎えに来た彼女の祖父に返し、ついでに乗り合わせたバスで運賃を借りて帰ってきた。彼は孫があの場所に帰ってくることやクヲンのことも人から聞いたのだと言っていたから、どうせまたオーナーだろう。
二人して裸足だったため、学校を出る前に校内から室内用らしい運動靴を二つ拝借した。ミントはその前に自分の国に帰って行ったのだが、彼が搭乗席に座る前にシェスカはこちらを向かせ、一度ミントの頬を叩いた。音は軽いものだけれど、自分だったら相当痛い。次いで苦味を噛み締めるかのようにミントの腹に縋り付き、日本語で何事かを喋った。相手の返答を得ると涙で赤くなった可愛らしい目が彼を睨んで、強い口調を向ける。「絶対にネアを忘れないで」。
シャッターに鍵を差し込み、回す。もう惜しみなく日を掲げた空が憎たらしい。ろくに寝ていないから早く布団に潜りたいが、風呂にも入りたい。どちらにしようか思案して、入浴の準備を整えるだけの気力が残っているようだったら入ることに決めた。要は、直前の気分次第である。
いつかのようにシャッターを開けた。そもそもシャッターを閉め切っていることは珍しいから、この瞬間はいつもあの日のことを思い出す。すべて捨てるつもりで、R2に来た。なんでもよかったのだ。リンガルトが一体何者でも。
店の中身を見た彼は、戸が施錠されているかを確認する。されていた。
「……オーナー。勝手口の場所今度改めて教えてくれない」
戸を開けてそう告げる。勘定台の男は、あまり陽気な顔はしていなかったが、やがて形ばかりの溜め息のような笑みを零し、出入口はそこだけだと最初に教えたのにねぇ、と呟いた。そんなわけないだろう。ならばどうしてオーナーが中にいるのか。言及をしながら定位置につく。肘はつけそうになかったから横を向いて腕を組んだ。
良い旅は出来たかな、少年。問い掛ける背中は妙に湿っぽい。たいへん、らしくない様子である。
「最高だよ。お陰で全然眠れなかった」あながち嘘でもない返答に自分でも満足し、満足したから早く寝かせて貰えないかとも思った。思っただけで、勿論彼と話すべきことがいくらかあったから席は立たない。帰還おめでとう、と面白くもなさそうに呟く彼にしかめた面を寄越し、感動的だろ、と言ってみせる。
「何しょぼくれてるのさ、オーナー」
シェスカは生きている。ミントも無事に帰った。売り子もこうして戻ってきた。彼が不親切に与えてきた要求はある程度達成したように思うのだが、予想に反して反応が悪い。やあお疲れだったね死んだかと思ったのに君にしちゃよく頑張っちゃって、え、寝る? やだなあこれから店開きじゃないか。これだと思っていた。いつも思うが自分の描くリンガルト像はなかなかそれっぽい。とはいっても今現在別の像をクヲンは目の当たりにしているのだけれど。
成長、とぽつり漏らす彼を見上げる。シルエットは黒々としている。「成長できたようで何よりだ」。
「成長とは何を指すと思う。変化を漏れなく成長とするならば衰退の定義に疑問が出る。君が成長だと思ったその変化が実は衰退である可能性はゼロではないね。ここに来た当時君は何も求めず何も恐れない顔をしていた、非常に便利な状態だった。それが今や欲と恐怖に束縛されて、なんと不自由なことだろう。改めて考えてごらん少年。君のこの度の変化を、果たしてなんと呼ぼうか?」
しんと水をうった様な店内は、キャンディストアというよりも何か神々しい選択の場になったような感覚がした。……けれど、正直な事を言うと彼の言葉の前半は、突然饒舌になったことに対応しきれず取りこぼしてしまっている。そろそろ重たい頭に鞭打ち出来るかぎりの思考をさせ、リンガルトの意図を探る。
すべて捨てるつもりでここへ来た。何も求めないなら、何も恐れないなら、便利である。確かにそうだ。R2で過ごした数年に加え今回のことで認識した感情は完全に弱点である。これをなんと説明するか。
そこまで考えたが、大してこの作業に価値を見出だせなかった。まどろもうとする脳は本人にとっての無駄を排除する。なんだ、考えるまでもない。
少なくとも今の俺の方が生きてるよ。軽口を叩く程度の返しをして噛み損ねた欠伸を利き手で処理した。ぼうっとしているとかちかちと何か音がして、音のもとを辿ると見覚えのない時計があった。古めかしいが最近磨いたようにつやつやしていて、妙に秒針の音が大きい。文字盤の上のほうに扉のようなものがあるから、時間になったら鳩が出るかもしれない、とか思っていたら、がちっという少々心臓に悪い音を立てたかと思うと実際に鳩が出ては鳴いた。それにあわせるように、真横の男が笑いだす。この男が大笑いしていると少し不気味だ。いつかに体験したが、湿っぽいよりはマシだったのか、以前とは違って安堵している自分にも気付く。
リンガルトは勘定台から下り、一度だけ振り返ると、今になっておかえりを言った。そのまま店を出て行こうとするので制止したが、ひとまず休みなさい、などという彼には似合わないもっともなことを言われたので驚いてしまって店内に縫いとめそこねる。仕方なく、クヲンは店を施錠し布製のブラインドを下ろして座敷に上がった。
かなり深く眠ったのか目覚めたときには完全に時間の感覚がなかったし、夢が現実の反芻のような内容だった為に自分のいる場所がどこなのかもよくわからなかった。島にいたような気がするのになぜ視界に和室が広がり、オーナーに覗き込まれてるのかをかなりの時間考え、寝ぼけていたことに気付くと多少気分を悪くし、布団の中で反転する。「おやおや、まだ眠るのかい。君は睡眠に貪欲だね!」いつもの彼の声が追撃してくる。うるさい。
布団に顔をうずめながら「だから勝手口どこ」という言葉を投げかけるが笑って誤魔化された。
「そういえば、客が来ているよ、店員さん?」
「休ませてよオーナー」
普段だったら貴重な客だから少しは融通を利かせるものの、きちんと店はしめたはずだし今は全く営利に興味が湧かなかったので、相手にする気はなかった。しかしクヲンが文句をつけた丁度そのあとくらいに店の戸が鳴るのが耳に届く。蹴ったために響いたような穏やかでない音で、流石に飛び起きた。去年の春に立て付けをよくしたばかりなのだ。あわてて外に出られる服装に着替えて店に駆けつけ、ブラインドを上げると、ガラス戸を隔てて見知った顔が片手を振り上げてるのを見た。元気だな、内心呆れながら彼女に声をかける。「立て付け悪くなってたら修繕費貰っていいかな」戸の鍵を開けると、おそらく殴る為に上げていた腕は下ろして、シェスカがハニーブラウンを揺らしながら入店する。
「何店じまいしてるの」
「君こそよく今日のうちにこんなところまで来たね」
「一日経ったわ。昨日の夜は熱を出して大変だったけれど、もう平気よ。クヲンって意外とヤワなのね」
それは、君が予想以上に頑丈すぎるだけだ、というのは喉から咄嗟に出なかった。しかし、一日経ったというのには驚く。そんなに眠っていた実感がないので、そういえば時計があったのを思い出し振り返ると鳩がけたたましく鳴いた。時刻は一時二十何分かを指している。思わずカウンターの後ろまで駆けて、廊下に身を乗り出し座敷に向かって叫ぶ。「オーナー、あの時計壊れてるでしょ!」座敷から白い袖が伸び、同じように白い手袋をつけた手がひらひらと振られた。返事のつもりだろうか。
シェスカがこちらまで歩み寄り、リンガルトもいるのかと静かに問うた。そのままの格好で引っ込む腕を見、眉間に皺を寄せながら肯定すると、彼女は小さくため息をついた。何でも、祖父からあの『お守り』の中身と出所を聞いたらしい。文句を付けたいなら早いうちに捕まえたほうがいいよとシェスカを振り返り座敷を肩越しに指すが、そんな気力はないと返された。確かに、と調子を合わせるのに彼女は「そうは見えないわ。時計なんかに文句つけてるんだもの」と呆れた表情をするから、お互い様だなと笑う。
要件を聞くと、相手は少し戸惑うような間をおいた。
「……今回のこと、何もお礼をしていなかったから」
「……」
「ありがとう。命も助けて貰ったし、私の人間性も守ってくれた」
まっすぐな瞳にはもう怒りはちらつく様子がない。
シェスカはあの女にはならない。なりようもないことを、クヲンは知る。
思わず笑みがこぼれて、彼女に訝しげな顔をさせた。
「その髪型、よく似合ってるよ」
さらに相手は眉根を寄せていう。「また伸ばすわ。長いほうが好きなの」
礼を言うためだけにこんな場所まで来たのかと問うと、彼女はそれなら日を改めることを告げ、この後にネアの家に行く予定があると付け加えた。「仇には平手打ちしましたって?」「馬鹿いわないで。お線香をあげに行くのよ」ジョークの品が悪いことを責められるが後見人たちは皆ブラックジョークが好きだから仕方がないだろう。肩をすくめて誤魔化して、意味を汲めなかった二言目について言及する。
「R2にいるなら日本文化くらい知っていてもいいんじゃない」
「シェスカはR2が好きなんだ」
「R2育ちだもの」
興味でその外見はどこからのものかを聞いてみると、母親がキーウィ出身なのだと話してくれた。出身は新大陸だとか、両親はそちらで働いていることだとか、ある程度自分の話をしてからふいに顔をしかめ、違う、と呟く。どうして自分ばかり手の内を明かしているのかと文句を言われて、今日の目的にはクヲンと会話することも含まれているのだろうと勘付き、素直に情報を披露した。名前をまだ聞いていない、と言われたけれど、それについては最後まで教えなかった。シェスカは断念する様子を見せたがまたの機会にと話していたから諦めていないのだろう。聞いても無駄だと笑っても、なにやら気丈な笑みを見せるだけだった。
彼女は踵を返す。「また来るわ」何か買っていってよ、と言うのに対して、手持ちがないことを理由に断られた。少しは粘ってみたもののシェスカはあっさり帰ってゆく。ため息をついて椅子に腰掛け、店内を見渡した。案外明るい。もう少し暗いような気がしていたけれど。
背後から床を打つブーツの音がして、声をかけられる。「随分仲良さげじゃないか。僕に話したことない昔話までして」
「いい加減靴くらい脱ぎなよ」
「もう廊下を下りたからいいだろう?」
よくない。
「オーナーは話さなくてもどうせ知ってるだろ」
痩身の男はカウンターを回っていくからいつものように台の上に座るかと思ったけれども、地べたに腰を下ろして台を背もたれにするように座った。覗き込んでみれば楽に立てた膝の上に腕を預けている。彼が身をよじってこちらを見上げたので、クヲンは席に戻った。
ああ、残念だなあと嘆息するので続きの言葉を待ってみたが、どうやらそれはまだ前の話にかかったものらしい。黙っていたら「僕のほうが仲いいと思ってなのにな、あーあ」と大人気ない声をあげた。別にいいよと呟くと僕はよくないんだよと即答される。それを言うのなら、リンガルトこそクヲンにもっと自分の情報を喋るべきではないかと思ったので伝えてみる。
「今回の仕事の目的もちゃんと聞いてないし、ファーストネームだっていまだに知らない」
「それくらい想像でなんとか」
「なるかよ」
短い笑い声は確かにいつも通りに戻っていた。落ち着かないのも困るのだが、色々ひた隠しにしている面を引き出すチャンスを失ってしまった気もする。なんとかそういう糸口をつまむために一応あがいてみてもいいかもしれない。昨日の会話を思い返す。思っていたよりもあのとき眠かったのか具体的な形は掴めなかったが、確か成長の話をしたような気がした。今更だが、この度の経験は「成長」という言葉の枠に入るのか怪しいように彼には感じられる。それが拍車をかけるのか、尚のこと記憶はあまり論理性を持って出てきてはくれない。自分の記憶力にがっかりして、もう少し学校には行ってみたほうがいいかもしれないと思った。
上手く話題を振ることが出来るのか逡巡していたら、ふとオーナーが誰かの名を口にした。戸惑い、「何それ」と問うと、相手は笑う。
「僕の名だよ。」
視点のために勘定台から見えるのは彼の足くらいだった。それを見つめながらスペルを頭の中で考え、ヴィルヘルム、と呟く。親友は笑って、好きに呼ぶといいと言った。