08-MAN
彼が少年を見つけたのは、違法に国境をくぐったその日のことだった。
少年はこの国の中等教育を受ける年齢に見えたが、その子供達の流行りからいくらか遅れた服装をしていて、外を歩くのが億劫であるような丸めた背で自分の身を守りながら、国の要所をうろついている。頬は遺伝的に元々白いはずだが薄汚れて、眼だけは鋭く活きていた。リンガルトは単に興味を抱いたのであって、彼の身の上を心配したりだとかいう慈善的な感情を持った覚えは一切ない。面白いことを探しているだけであったから、あえて想像もしなかった。
警備の濃い正門へ少年が向かおうとするのを彼は引き止める。少年ははっとして懐に手を突っ込んだのでその腕を軽く押さえるように触れた。「まさか、僕に会いに来たわけでもあるまい?」相手は奥歯を噛み締めてきゅっと眉根を寄せる。ここでは所持が禁止されている道具を向ける先は予め決められているはずで、それは場所を考えれば見当をつけるのは容易である。警備員の目がこちらを向くのを視界の端に捉えて、リンガルトはわざと少年を隠すように肩を抱いた。服でも買ってあげよう、などと戯言を口にしながら無理に歩みを進める。少年は、押し黙ってやがて歩調を合わせた。
少年を引き連れたまま当初の目的地へ向かった。バスの中でも歩く間もさして面白くない世間話を繰り返したが、少年はずっと黙っていたので一方的に聞かせる形になる。反応を示したのは西ユーラシアのある国で起こった発砲テロの話のときだけで、反応といっても何か緊張感のある面持ちをしただけだったからやっぱりリンガルトが一人で喋っていた。
到着した小さな建物の前には人がいた。男の背面の駄菓子屋、正確には輸入菓子屋なのだが、そのシャッターは閉じられている。ドラマ性がないなと勝手な評価をつけ、ただし閉じられたものを開く瞬間はファンタジックだ、とひとり笑む。少年は相変わらず静かである。
店の前の男との手短なやり取りの後、シャッターの鍵を受け取る。男はそれでその場を去ってゆき、店の前に二人が残された。
「さあ、早速開けてしまおうか。ここにはひとつしか入口がないらしいからね」
鍵を弄んで、鍵穴に差し込む。そこまでしてリンガルトは一歩離れ、少年の背後から両肩を掴み、勿体振るように耳元で「開けてご覧」と指示する。少年は、たいへん胡散臭そうにこちらを睨んだ。嫌いな表情ではない。それなりの見識と子供らしさを備え、かつ反抗を行動に移すまでのものではない中途半端に従順である、絶妙なかおだ。察しの通りリンガルトは少々性格が悪い。そんな彼が予感した通り、少年は大人しくシャッターを開ける。力があるらしく、軽々と開け放った。
店の中身を見た彼はそのときぽつりと言葉を漏らした。「お菓子の家だ」鼻で笑う音もついていたから皮肉なのだろう。その様子もリンガルトはいたく気に入った。
「君にやるよ」
訝しげに振り返った彼を置いて入店する。勘定台の裏の通路に靴を脱がないまま入り、すぐ左の座敷の襖を開けた。警戒心からか嫌々なのかそろそろと後に続いた少年が三和土を踏み越えようとするときを見計らって「靴は脱ぎなさい」と声をかける。
「日本建築は基本的に土足禁止だ。」
言いながら自分の履くブーツの爪先を廊下に打ち付ける。
表は店だけれども裏にはきちんとした生活空間がある。ただし、最近は使われていなかったらしい。先ほどの男は鍵を渡すまでこの店の店主だったが、父親から押し付けられただけでやりたいことが別にあるんだそうで、住まいも別で持っていた。リンガルトはここを買い取ったのである。
少年には風呂に入ってもらった。あまり清潔感のある肌でなかったのと、他にも理由がある。
「何、この、服」
座敷に戻って来た彼の第一声はそれだった。元の服と取り替えておいたものを彼はちゃっかり着つつも異議は申し立てるらしい。さっき買ってやったじゃないかと答えるが、途中どこにも寄っていないから単なる冗談だった。少年は顔をしかめる。
座ることを勧めると胡座をかくリンガルトから距離をとって腰を下ろした。癖なのか、両膝を立てて抱いている。この年齢の男子にしては少ししおらしすぎるが、これまでの環境を考えれば仕方ないのだろう。
おもむろに、店の話をはじめる。この店を譲り受けて自分が店主になったこと、しかし多忙なので経営にはあまり携われないこと、そのために売り子が必要なこと。
「ここで働いてくれないかい、エリック」
親切めいた笑顔を向けるが、悪戯も含まれている。“エリック”は何度目かのしかめっ面をみせたけれども、どこか不安そうな色も携えていた。
「……Erich。ドイツ読みだから。なんで名前」
「ああ、すまないね。僕はドイツ語だけはちょっとよくわからなくて。となるとファミリーネームは?」
「Heisenberg。だからなんで名前」
「エーリッヒ・ハイゼンベルク。うん良さそうな名前だね。響きはまあまあだ」
「…、オーナー」
嘆息の聞こえそうな声音が、何故名前を知っているのか問うている。それを笑って、持ち物を改めさせて貰ったよと答えた。「君の『構成員証』に書いてあった」
「聞かれたら“会員証”だって答えるように言われた」
「ああ、名のある孤児救済の団体のね。つくりは似ているけど下線が若干足りない。あとホンモノには“後見人”なんて記さないんだ。それは君の上司の名かな?」
「……」
いけ好かない女性だったよねえ、と話を掘り下げてみるけれど嫌な顔しかしなかった。さしずめその上司にもう帰ってこなくていいとでも言われたんだろう。あの組織は“飼い犬”に見切りをつけると特攻といって差し支えない任務を課す傾向がある。要らない駒に無茶をさせて相手の反応を見るのだろう。その良し悪しは別として、癖の悪いグループだという印象が一般的にある。特に被害を被っている地域の人間曰く、あれは単なる吹き溜まりなんだそうで、解体しきらない限りどれだけダメージを与えても意味がない、らしい。これらは全て裏社会の話なので本当の一般人となればそんな話は知らないのだが。かの組織が打たれ強いのは吹き溜まりの反抗意識の強さの問題ではなく、単にエーリッヒのように連れ去った子供を使っているのだから当然とも言える。
どうせ行くところはもうないんだろう、そう指摘して、これから仲良くやろうじゃないかと握手のために手を差し出した。気まぐれだったが白い手袋を外して黒い肌をさらす。エーリッヒは仏頂面で思案するようにリンガルトを見つめていたが、やがてその手を取った。白と黒の対比が明るいのを、彼はじっと観察するようだったから目を細めて「黒人は珍しいかい」と聞いてみる。相手は短く否定した。そのときふと、リンガルトは過去にかけられた言葉を思い出す。
(成長、ね。してみせようか)
実のところ。彼は白人に苦手意識がある。
名前は、と問う少年に、与えられた姓を答える。「ファーストネームを聞いてるんだ」不服そうにいうのにとぼけてみせるが、さっきミスターがついていたと切り返され思い出す。そういえば確かに店の元持ち主に「ミスターリンガード」と呼ばれていた。
「綴りはLから?」
「Rからさ。Ringard」
「リンガルト」
即座にドイツ読みをする。多分今後もそう呼ぶつもりなのだろうと予想できたので、好きにしたらいい、と寛容な大人の振りをした。正直読みなどどうでもいい。地域によってはそう呼んで来る知り合いもいるのだ。
エーリッヒはちょっと笑ってみせた。それから、今の名前が嫌いだから別の呼び方を考えておいてと小生意気に言う。
仲良くやれないこともなさそうである。