05-SKY
飛空音。
波や風に紛れて、かすかに聞こえた気がした。感覚が戻って来ているのか幻聴か判断しかねたが、目を懲らして空を見回すうちにそれが確かなものになってゆく。隣のシェスカがどうしたのかと問い掛けてくるのを無視して、その腕を掴み立ち上がらせる。「痛い」きぃん、という音。飛行機?と彼女が口にするころにはかなり顕著で、しかも通過していく距離ではなかった。腕を掴んだまま木々の間を目指して走る。シェスカが制止の声をあげる。
「ちょっと、何っ?」
「飛行機がくる」
「どうしてこんなとこ、」木の根か土に足を取られてバランスを崩した。咄嗟に支える。「こんなとこ入ってくの」
小さな岩を一段上がると砂浜から急に山になったような島だった。先程まではどんな危険があるかわからなかったので無闇に入るつもりはなかったが、方向のわからない相手から身を潜めるにはここしかない。僅かに抵抗しているのか慎重に傾斜を上っているのか歩みの遅い彼女をもう少しだけ無理矢理奥まで引きずって、しゃがみ込んで耳を澄ます。何、と隣で繰り返したシェスカも少し声を潜めていたから、隠れるための行動だということはわかってくれたらしい。
機体は上空を通らなかったが島を縁どるように弧を描いて飛行したらしく、先程まで二人がいた浜の辺りで轟音を鳴らしに来た。どうやるのかは分からないが降りるかもしれないと判断して、機動音が煩いうちに岩を挟んだすぐ近くの浜まで移動する。段差が少し高かったがクヲンは飛び降り、少女が降りるのを補助する。それに素直に従いながらも彼女は「助けじゃないの?」と問うてくるから皮肉っぽく笑ってやった。「世の中そんな甘くない。」
岩影に身を寄せる。シェスカは倣ってくれたがしゃがみ込んでいたので立つように指示する。しながら、これらの判断は本当に正しいかという不安があった。転げるように生き延びることがあんな平和ボケした国の、体力もろくにない少女に出来ると思えない。木々の間で駆け回ることがなかったから思わず浜に出てしまったが、あそこでじっとしていたほうがよかったのではないだろうか。——否、どっちみち足跡で見つかる。それに万一彼女の言う通り助けだった場合に気付かず帰ってしまわれても困る、と思って、口角をあげた。世の中そんな甘くないって。
機動音が完全にとまり、搭乗者が降りるような音がするまでにクヲンは辺りの様子とシェスカとを見、やっぱしゃがんでて、と頼んだ。「うずくまって、その岩の角の方を向いて、いいっていうまで動くなよ」似たような条件は経験したはずだ。なんとかなる、と自分に言い聞かせて岩影から出るために静かに左手に移動する。三歩目に踏み込んだ足が意外と深く砂にとられ、滑るようにバランスを崩して身を縮めた。同時に発砲音が岩を小さく削る。自分の運動量を計算しながら「やめてよ!」と悲鳴をあげて、降参の恰好をしながら岩影から飛び出た。クヲンがいた場所のような社会ではいたいけな子供、などという言葉は鼻で笑われるし、国によっては成人扱いされる年齢だからほぼ無意味な悲鳴だったが、相手がどういう文化圏の人間か分からないから自分の見た目は使うに越したことはない。手を挙げて応じれば話をつけてみるが、応じないのであれば、戦う。
相手は銃こそ降ろさなかったが、発砲はしてこなかった。話せる。かもしれない。暗いので相手の表情までわからず、話せなかったときのために挙動に注目していたかったのもあってそれがどんな人物かまで推測しようとはしていなかった。しかし、直前まで一切の隙を見せなかった相手は急に緊張を解いたかと思うと、目を眇めるような仕種を見せ、何か呟いた。異様ではあったのでクヲンは助けを請うていいのか判断しかねていたが、セーフティーを解除してあるはずの銃を持った手を、思案するためか口元にやるという端から見たら危なっかしい仕種をした相手がやがて意を決したように言葉を寄越した。
「六つ」
どきりとする。覚えがあったからだ。
何に覚えがあるのか思案し、その言葉を店で聞いたことがあると気づき、人物まで思い出して、嘘だろ、と漏らす。声にも聞き覚えがあった。
「……千五百円、」
躊躇いながら答えると彼は即座に銃を仕舞い、合図するように軽く手を挙げて歩み寄ってきた。戸惑いつつも、一応友人にカウントされている彼の右手を音を鳴らして掴む。久しぶり、と笑みかけると、ミントも少し嬉しそうだった。こんな偶然があるだろうかとまだ落ち着かない気持ちでいたが、偶然ではなく“彼”が手引きしたのだと考えれば有り得る話だと思い、納得はした。ただなんとなく気持ち悪さが残る。
何をしているのかという問いに冗談のつもりで「遭難」と肩を竦めたが、そういえば事実である。彼は笑い、R2でいいなら乗せていくと後ろの機体を親指で示した。助かる。それは事実なのでそう伝えたが、一方で困ったとも思った。——シェスカがアフリカへ行く必要がなくなってしまった。クヲンはくだらない嘘はよくつくが、ばれない嘘にはそんなに自信がない。言わなければ気付かないだろうか。それらしいやりかたを決められないまま、もう一人構わないかと問う。人による、と最初に彼は言った。ひやりとする。
「でも、タフィーの連れ添いなら特別に誰でも乗せてやるよ」
なんでもないように言うので、クヲンは苦笑いした。「仕事は真面目に熟した方がいいよ」心にもないことを言いながら岩影まで戻り、至極素直にクヲンの指示を守っていたらしいシェスカの肩を叩いて名前を呼んだ。怯えた様子で振り返った彼女は、もういいの?と問うてくる。送ってくれるのだと伝えながら両手をとり立ち上がらせると、彼女は少し戸惑ったような様子を見せていたが、やがて「世の中って案外甘いのね」と嫌味としての冗談だか安心して出た真面目な感想だかよくわからない調子で言うので適当に相槌を打った。甘い辛いの問題ではないだろうと思ったからだ。
ミントのところまで戻ると、彼は二人分のスペースを作るために搭乗席の後ろ側を整理しているようだった。
「忘れてたけど、途中どこにも寄らないよね?」
「寄らないよ。盛大な寄り道の最中だからどこ行ったっていいんだ」
それはそれでどうなのだろう。
機体に潜らせていた頭を出してシェスカを認めたミントは、何か母国語で呟いたけれどこちらには何も言ってこなかった。クヲンの服の袖を掴みながらではあったが、シェスカが「よろしく」とそれなりに毅然とした態度で挨拶をするので余計なことを言わないかとひやひやする。R2人?という問いが飛んで来たので、正直に答えてよいのかと伺いを立てるようにこちらを見上げたシェスカの代わりに肯定する。あまりこちらとは目を合わせない、人によっては失礼だと感じる態度で早々に搭乗席に座ろうとしながら、ミントはシェスカの挨拶に応えた。
許可が出たのでシェスカから後ろの荷を積むためのスペースに入ってもらう。行きも帰りも荷物扱いだね、という冗談を思いついたが詳しい経緯をミントに聞かれたくないので黙った。箱の中は漁らないようにと本当に禁じるつもりがあるのか疑うようないい加減な注意が飛んで来るのに、二人は各々了解する。
「…待って」
クヲンが足を突っ込んだタイミングでミントがそう言った。どうしたのかと問うが、母国語で何か呟くだけでしばらく返してくれなかった。
「おんな」
やがてそんな単語を口にして、彼が搭乗席から浜に降りる。「そいつなんか変な物持ってない?」どういうことかわからなかったが、あまりよろしくない展開なのはなんとなく感じた。喉が渇く。
「変な物って、たとえば」
「……反応してる」
具体的になんなのか彼もわかっていないのか、躊躇ったような間の後そう言った。「たぶん、女」
上半身だけ機体に入り、出来るかぎりシェスカに近付いて小声で問う。
「シェスカいつもと違うもの持ってない?」
「なに?」
「いつも持ってないようなものあるんじゃないの?」
聞きながら、それがどんなことかを考えた。ミントの“戦闘機”の中で、「反応する」ものを持っているシェスカ。反応とは何に示されるものかと言えばレーダーか何かに違いなく、そのレーダーは索敵の役割を果たすはずのもので、それを彼女が持っているというのはつまり。
シェスカは少しの間眉間に皺を寄せて考えたが、やがて自分の胸元を見下ろし、次いで服の中から紐に繋いで首にかけた何かを取り出した。親指の先ほどの大きさの巾着だ。
「おじいちゃんが、お守りにって」
「よこして」
半ば強引に首から外させて、外に出てから巾着の中身を確認する。口のない、二センチ四方の厚いビニール製の袋に密閉された小さな機械が転げ出てきた。電話で最後に聞いた言葉を思い起こし、舌打ちする。袋を爪で裂いて中身を取り出し、これを持たせた真の人物への怒りを注いだ全力で海に投げ捨てた。「反応は?」ミントが搭乗席の方を確認する。「消えた」
「あいつぶっ殺してやる」
ひとりごちたドイツ語に青年が振り向いたけども、コメントはなく「行くよ」とだけ言う。返事はせずに後ろ、荷の入った箱を挟んでシェスカと対角線上の位置に乗り込んだ。
機体が鳴り出し細やかな振動を与えてくるのに身を委ねながら考えた。彼には一般並の記憶力と判別能力しかないので、この機体が昼に見たものと同じだと断言はできなかったものの、“彼”と「友達」であるはずの彼女の祖父が持たせた発信機入りのお守りと、人を食ったような昼の言動を思うと狙ったのだとしか思えない。加えて、ミントは仕事帰りなのである。
ねえ、とシェスカが声をかけてくる。
「返して」
巾着のことだろう、と分かったので投げて寄越す。その重みに違和感を感じたのか、彼女は巾着を指先でつまみ、開けたのかとかなりきつい口調で問うてきた。
「開けたよ」
「お守りって開けちゃ駄目なのよ」
そういう文化なのだろうとわかるから余計に奴の思い通りだ、と苛々した。開けて捨てた、と言ってやると、意外にも彼女は特に反論せず「そう」とだけ答えてまた首に掛けていた。理由があることは分かったらしい。聡い。今は好都合だったが面倒臭いとしか思わなかった。
ある程度高度が上がって機体が安定してくると少しは騒音が減った。ミントはしばらく操縦に徹していたが、少し首をこちらに向けて問うてきた。
「聞かないんだね」ドイツ語だった。
「…何?」
「俺が何してんのか」
仕事の内容や、先ほどの反応のことや、ここを訪れたことを疑問に思っただろうに、とそういう意味合いであることは理解する。彼はそんなこと気にしない人間だと思ったし、それを言うならお互い様だったので「聞かない」と答えた。
シェスカがこちらに向かって何の話か問うたのを、ミントが適当にはぐらかす。とはいっても、互いのことは聞かない約束だ、というような当たらずとも遠からずな言葉で、しかもシェスカを上手い具合に納得させたから侮れない。