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Development.  作者: 外並由歌
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02-BOY


 ドアの開く音がする。

 少年は息を詰めて、部屋へ帰ってきた彼女に乗り移ろうとした。

 ウェーブのかかった短い茶髪を幾度か振り、そこにある椅子に腰掛けると足を組む。革製のジャケットのどこかからタバコを取り出し、火を付けた。吸う。長く吐き出す。ここまではいつも見事なまでに同じ行動だった。肘をテーブルにつき、顎を手の甲に預ける。長い間がある。何か考えているのだろう。何を考えているのだろう。気付くな、と少年は念じる。念じた途端、ついと視線を向けられる。

 英語で何か呟いた。英語で言うということは、少年に向けたものである。しかし聞けなかった。聞き返すこともできず、面倒になって、(そこには誰もいません)と心中で呟く以上のことはしなかった。


「黴が生えそう」


 次の呟きはそういったものだった。彼女は立ち上がり、少年の元まで来ると威圧的に見下ろしてきた。ババァ、と少年は罵りたくなる。右足の爪先を一度だけ床に打ち付けたあとに、その湿っぽいのを出しなさいよ、と要求してきた。言いたいことはまるでわからなかったが、半分茶化すつもりで舌を出してやった。彼女は自分の母語で歌うように何か言いながら、マッチを擦る。「燃やしたら黴は死ぬかしらね。」

 少年の顎にマッチを持たない手を添えた。もう何をするつもりなのかは大体わかったが、顔を逸らしたりすれば今度はどこに火をつけられるかわかったものではないので大人しく舌を突き出していた。


 咳を我慢するのだが、我慢した分ひどく噎せた。口内を火傷するくらいだと高を括っていたため急に息が苦しくなったことに対応出来なかった。鼻先に火の消えたマッチ棒が転がり、その向こうに先程と同じような格好で椅子に座る女の足が見える。何かぶつぶつ呟いていて耳障りだ。

 もっと遠くに扉が見える。出られると思ったことはない。「出られる」と言って扉を開けた者たちが皆蜂の巣になったのを見てきたから諦めた。同じく、家に帰りたいと泣いてばかりだったものたちは仕事をまともにこなせないから敵に撃たれた。だから家のことは忘れるようにした。与えられた場所を自分の生きる世界だと認めねばならないことを、彼は八つで覚えてしまった。

 口に火傷と、肺も焦げたりしているのかもしれないな、と少年は考える。左のこめかみを殴られて血が出たし、腹や腿には蹴られた痛みと痣が絶えないし、右足の小指は一回折られたことがある。こうして少年の教官(かいぬし)に与えられたものを数えることと、わずかな素材から面白くもない冗談を考えることくらいが彼にとっての自由で、あとはひたすら従属するのみだった。


「それで、他の言語は一つくらい覚えたの?」


 煙草の先を灰皿で潰しながら彼女は言った。最後に会ってから現在までに講義に曳いていった覚えがあるとでもいうのだろうか。覚えようがないじゃないか、と少年は思った。

 まだ、と答えると長い溜息が聞こえる。また何か言っている。独り言と愚痴が多い。(もうしってるけど)

 二年も三年も同じ教官でいい加減飽きてしまう、と、時々仮に考えてみるが、曰く彼女は「優しい」らしいし、実際ゲリラどころではない状態になって待機室にやってくるものもいたため、まだ自分は幸せなほうだとその都度結論づけて様々な不条理は飲み込んだ。

 今もそういう思考を巡り終わって、申し訳程度に寝るのをやめる。それが何になるわけもないのだが。

 彼女は一通り呟き終え、どんな基準でかは知らないがいつも相当長い時間を費やす吸い殻の先を捏ねくり回すことも済むと立ち上がった。寝台に膝をかけ、寝転び、そのまま寝付く。何もせずにそうして寝てしまう日もあったが、先程のように何かしらの暴力、厭味を受けることのほうが格段に多い。騒ぐとそれはそれで殴る癖に、いくら静かでいてもいないことにされないのが彼にとっては苦痛だった。

 彼は彼女が怖かったのである。

 彼女が寝たのであれば自分も寝なければ睡眠時間がない。彼女が寝てから自分が寝るまでの時間が少年は一番安心したが、眠ってしまうことには怯えていた。眠れば起きるときがくる。必ず彼女は蹴って起こそうとする。痛いのには慣れたつもりでいたけれど、暴力を振るわれることそれ自体に説明しがたい不快感がある。同じく、暴力を振るうことにも。そんなことを静かに考えて、少年は膝に顔を埋めた。面倒だ。色んなことが、とても。

 具体的にどうなりたいかが非常に不明瞭で、ただそうやって膝を抱いている。そのまま寝付く。


 夢を見るときはほぼ決まって両親が出てきた。優しく温かい夫婦だというイメージがそのまま保たれた彼らと、一緒に出掛けたりする。そのときは何も気付かないで簡単に外へ足を踏み出してしまうが、街を歩いている内に段々、妙に身体に緊張を覚えるようになる。次に視線。ときに前方から歩いてくる、ときに隣を歩いている、ときにガラス張りの店から出てくる、その視線を発する女性が誰か思い当たったときに、失敗だったと思う。穏やかなわけがないから、外に出てはいけなかったと。

 爆発と銃声が起きて、あわてて身を隠した。役立たず、とその女性——教官がドイツ語で吐き捨て、珍しく本人直々に応戦に向かっていく。自分の手にはナイフ。ああ、両親を守らなければ。少年も陰から飛び出して、親を探した。見つけた二人を庇って腕を伸ばし、逃げろ、と叫んだ瞬間に、いつも、初めて自分が人を殺せる意義を見つけた気がする。けれどそれも刹那で、返事のない両親を訝しんで振り返ると、彼らはかすかな怯えも含んだ軽蔑の眼差しを少年に、ただ静かに送っているのである。

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