01-SEA
船に乗るのは久しぶりだし、最後に乗ったのは客船だったなと考えながら船体に裂かれて行く波を眺めている。潮の香りと風とが清々しい開放的な気分を呼ぶのだが、それが地から浮くことはなかった。クヲンは密輸船の上にいる。
リンガルトは宣言通り復讐にいきり立つ少女を止めなかった。あれ以来taffeeに彼女が来なかったのに加え、もう口出しするつもりもなかったためクヲンもクヲンで何の行動もしていない。であるにも関わらず彼女が紛れた密輸品を乗せる船に乗船しているのは、それも全て、リンガルトのせいである。クヲンは自分ではそのつもりはなかった。
欧州製のキャラメルを一粒口に、包み紙はカーゴパンツのポケットにそれぞれ順番に押し込んで、再度船の縁に肘をつく。普段の彼なら包み紙は海へ捨てているところだが、密貿易者達は辿った道に落とし物をしていくのを嫌うため、下手にそういったことをすると後で色々と面倒なことになる。ただでさえ、恐らくは死んだことにされている人間の所属証を使って彼らを騙して乗船しているのだから行動には十分注意しなければならない。
上着の内ポケットに入っている携帯電話が振動して、取り出してみる。この携帯を持たせたのはリンガルトなのだから彼以外に掛けて来る者がないので、そう急ぐ理由はない。手慣れていないため両手で持ち、通話ボタンを確認して左の親指で押す。
「何(Was)?」
「それ何語(What language is it)?」
白々しい。そう思い溜息をつくものの、この数日間ずっと彼はこうだったので早々に諦めて英語に切り替え、「何か御用でしょうか、オーナー?」と不必要に恭しく問い直す。オーナーは笑い声こそ立てなかったが楽しげな声音で「様子はどうだい」と現状を問うた。
シェスカを止めはしなかった彼だが、後は追っていたらしい。四日前の昼にろくな説明もなしにカウンターにばらまかれた無数の資料は、どうやら彼女の調べた資料と同じもののようだった。中にはクヲンとの会話中に書き下していたメモの内容が打ち込まれたものすらあった。PRIMARY COLOR のピンクについて調べたもの。付近の輸入菓子を販売する店の一覧。つまりもう結構以前から彼は動いていたことになる。呆れるほかない。
資料から次の彼女の行動を読んで、いくらかリンガルトから情報を店の品物で買いながら船まで特定し、捨てたと思っていた組織の所属証を一晩かけて持ち物の中から探し出し、密貿易の商人と取引した。もうこういったことに関わる気はクヲンにはなかったし、リンガルトにもどうしろと具体的に言われたわけではない。けれども彼はここまでを期待していたはずだ。いいように使われているようで癪だが、それなりに恩もある。だったら使われてやるつもりでいた。
「特に異常ないよ」クヲンは答える。
「それはよかった」
「それより、本当にこの船に乗ってる? 間違ってたとか言わないよね?」
「それは確実だよ。なんなら探してみるといい」
船が一度、何かに乗り上げたように大きく跳ねた。乗せている荷に一切触れないことは乗船の条件の一つなので、それでは先ほど行儀良く包みをポケットに仕舞った意味がなくなる。相手に見えないことはわかっているがあえて否定のハンドアクションをして、やめとくよ、と返しておいた。「変に家捜しして喧嘩になるのは御免だ」
クヲンは冗談めかすしリンガルトは笑っているが、実際笑い事ではない。睨まれたら死んでもおかしくない場所に、クヲンは立っている。大人しくしていればよっぽど大丈夫だが、だからといって当たり前に帰れる旅ではないのだ。
何度か脳裏を過った事実が再びちらついたついでに文句をつけておこうと思い立つ。
「それにしてもさ、大事な店番を危険にさらすなんてどういうつもり?」
彼は“クヲン”を輸入菓子店の店番に据えたし、それ以前の少年が捨てられることを推奨していたようだった。後者は特に汲まれる必要はなかったが、心配はないのかと戯れたつもりでクヲンは言う。その戯れに便乗するような調子でオーナーはさらりと「あはは、わかってないのかい? そのために君を拾ったのに」なんて返してきた。船がまた跳ねる。
「は?」
「こういう時に動ける戦闘要員がいると助かるなぁと思ったんだ」
受話器を一旦耳から離したクヲンは、携帯電話を非常に渋い顔で見つめた。
「やあ、クヲン?」
「……オーナーのそういうとこ、大嫌いだ」
どうせただの冗談に過ぎない。彼の言うことの大半は滑稽さを纏う為のもので、たとえば先ほど「探してみるといい」と言ったのだって口先だけの提案だ。本当に奨めているわけではない。
けれども、言っていい冗談と悪い冗談がある。自分は物事に執着しないけれど、彼のことはそれなりに頼りにしているとクヲンは知っていた。それを彼も知っているということも。ふてくされて縁に大胆に寄りかかったので、船体の汚れとお見合いする形になる。「それより、気をつけておくれよ」心なしか激しくなった波を泡立てる音に受話器からの声が軽やかに踊るから、その悪気のなさに腹立ち、しかし悪態を溜め息に変え身体を起こした。こんなことをいちいち気にしていたら彼とはやっていけないのだ。
「気をつけることなんて、船の縁に背を預けてうずくまってればほとんどない」
そうじゃない、という言葉の直後だった。
きぃん、と、遠くで何か音がした。
「渡航自体が安全に為されるとも限らないということさ」
音の方を見る。小型の飛行機がこちらまで来ていた。その目的が何なのか。嫌な予感しかしなくて咄嗟の判断で縁をステップに海へ飛び出した。
同時に背後で轟音。やっぱり、という思考は波に呑まれる。水から頭を出すと、船の一部が破壊されていた。あの飛行機が爆弾を投下したことは確かだが、幸い威力は小さかったようで船は辛うじて原形を留めている。
ただ、船は傾いでいた。波の上に二、三、木箱が浮いている。荷の詰んであったらしい場所に大穴が空いていて、そこから輸入品らしき武器類が海へ滑り落ちてゆき、代わりに海水を招き入れていた。(…まずい、)あそこにはシェスカが隠れていたはずだ。船室か、海の中か。二通り想像して、背筋に嫌な感覚が走る。
どこにいるのか探しに泳ぎだそうとしたとき、先ほどの飛行音が折り返して来ていることに気付いた。顔をあげる。黒い何かが落とされるのを見る。
潜ったクヲンの体を海が揉んだ。誰かに教えられるまでもなく、爆弾の威力が先程より大きいことがわかる。もう一度波間から様子を見ようとすると、目の前に死体がひとつ浮いていた。男だ。それを避けて、顔をしかめる。
久しぶりだ。
嫌だ。
辺りを見渡す。頼りにする破壊された船の片をかえながら、店に来たハニーブラウンを探す。死んでいたり、まだ生きていそうだが腕が足りないのかまともに泳げていない貿易者達は眼中にない。ただの重たい塊になった船が先程から視界に入るが、沈む際に小さな渦を作るかもしれない。小さいといえど気をつけるに越したことはないのだが、それ以前に見つけなければならないものを見つけていない。浮き沈みする物体、物体、物体。
「!」
ひとつだけ、いじらしさを纏うもがきを続ける頭を見つける。板にしがみつくものの安定しないのか腕から首にかけての筋肉に力が入りすぎている様子で肘を滑らせては転倒し、細くて白い腕で空や水を掻く。あんなにただの少女なのだと思うと、気が抜けたし笑いそうにもなった。しかしその直後板を掴み損ねたその腕が波にのまれたものだから、慌ててそちらへ泳いでいく。
身を軽くするため容易に脱げるものは捨てて潜り、用を為さない動きをしながら沈んでいくシェスカの手首を握る。強く目をつむっているから突然他人に触れられたことに驚いたようで抵抗されたが、宥めようがないので無理矢理海面へ向かった。手のひらだけ水上にあげてやると、シェスカは抵抗よりも酸素を求めることを優先して自分からクヲンを支えに顔を出したので、そこを抱き留めて水を吐き出すのを待つ。あらかた落ち着いてきたところで次に彼女は腕から逃れようと暴れ出した。「待っ、シェスカ!」痛い、と訴える。相手は相手ではじめ、日本語で何か言っていたが(おそらく依頼の類だと見当はついた)やがて自分の名を呼ばれたことに気が付いたのか声に心当たりがあったのか、ふと抵抗をやめこちらを見、「クヲン…?」と幻を見るような顔で呟いた。
「よく名前覚えてたね」
「……なんで?」
「会ったの一回だし、忘れてもいいんじゃない」言いながら近くの浮き板を手繰り寄せ、シェスカの手を落ち着かせる。
「違う…違うわ、なんでこんなところにあなたがいるか」
「無茶しといてよく言うよ」
訝しげな表情をする彼女の肩を抱いて、クヲンは船とは別な方向に泳ぎ出す。火薬が駄目になっているはずだから狙撃されたりすることはないにしても、許可なく乗り込んでいたシェスカを真っ先に助けたのだから何か物理的に文句をつけられても可笑しくないので出来ればはやく密輸関係者からは離れたい。
戸惑いながら彼女も気休め程度のバタ足を始めたようだが、そのなかで、まさか助けに来たのかとクヲンに問うた。一瞬なんの冗談かと笑いかけたが、確かにこれらの行動はそのまま「助けに来た」と言っていいものであると気付き内心驚く。護衛というかバックアップというか、そういうつもりで来ていたからそんなヒーローみたいな認識をされるとは思ってもみなかった。タイミングを逃したため返事はしなかったが、同じくらいにシェスカの足の動きが重いのをみつけてこの機会に話題を変えてしまう。
「シェスカ靴脱いで」
「何?」
波音で聞こえなかったらしいので改めて靴を履いたままであることを指摘し、体を支えておくから脱ぐように伝えた。それに対して彼女は「でも」と躊躇う様子を見せる。「せっかく運動靴で来たのに」だからなんなのかはよくわからない。
「そのままじゃ沈むから陸用装備は意味ないと思うな」