第8話 「闇に消えた怪人」
空はもう充分に暗くなり、その証拠に小さな星がくっきり光るのを確認することができる。とうとう道草だけで夜になってしまった。俺にはわずかな時間もない。時間はないが、この場を離れるわけにも行かず、一人またうーんと唸りながらトイレの入口付近で檻の中のライオンのごとく右へ左へ行ったり来たりの動作を繰り返していた。夜空を見上げながら、ふと色々な面倒臭いことすべてをあの黒い底なし沼に沈めてやりたいと思った。沈める……か。これは我ながら名案だ。
俺はペンキを真っ黒になったTシャツにたっぷりと付け、トイレの壁中をくまなく塗り始めた。うんこの部分だけが黒いのなら、いっそのこと周りも全部黒くすればいい。今、俺の頭上に広がる大きな空が教えてくれた。もう迷いはない。こう吹っ切れるとペンキ塗りも実に楽しいものだ。白を黒に塗り潰してゆく気分は初めて女を抱いた夜の、まるで一国の王になったかのような昆布のような気持ちにさせてくれる。
すべての壁を塗り終わってから思ったのだが、うんこの部分は思った以上に隠れていないし、そんなことどうでもいいぐらいにトイレの中が大変なことになってしまった。頭が割れそうになるようなこのペンキ臭。周辺住民から異臭騒ぎで駆けつけられるのも時間の問題だろう。しかも俺は便器や床、溝の中までなんとも綺麗に黒一色にしてしまった。用を足しにここへ訪れた人々はさぞかし驚きおののくことだろう。トイレの中のあらゆる物を黒くした結果、俺の裸体も真っ黒になってしまっており、これは朝を迎えるまでに家に帰っておかなければ洒落にならないぞと一人考え込んでいた。
しかし、参った。こんなトイレ、もう75年間は草木一本も生えないであろう。器物損壊罪決定だ。俺は自分の意志とは反して次々と罪を重ねていっている。これだけの罪を抱え込んだまま捕まっては死刑以外の道はない。俺は捕まるのか!?
最悪の事態を考えると俺はいてもたってもいられず、先ほど盗んできたダイナマイトを手に取りトイレ自体破壊することを決意したわけである。
「俺はお前をやる」
俺はトイレに向かってこう言い放った。口だけではない。俺は本当に行動する男だ。最近の若い奴らは口ばかりでかくて行動が伴わないのがやたら多い。言葉よりも行動がいかに大切かということを知らしめるためにちょうど良い話がある。
俺には昔二年ほど付き合っていた彼女がいた。当時の俺はマンモスの痩せているやつのように痩せていて、それが凄くコンプレックスに感じていたのだが、その彼女には
「私はガリガリが好きだ」
と言われたので、
「ほら嘘をつけ」
と俺が疑いをかけると、
「嘘ではない。この通り、ガリガリマッチョが好きだ」
と言われたので、俺は、
「ガリガリマッチョなんかのどこがいいのだ」
と荒げた声で問うと彼女はしばらく考え込んだ後に、
「腰がひきしまっているところが良い」
と答えてきたので、
「じゃあ何故腰がひきしまっているところがいいのだ」
と再び問うと、
「良いものは良い。あなたは私の思想の自由を破壊している」
とまで言われたので、
「そうか。そこまで言うのだから本当に好きなんだろう」
と彼女をちらっと見ながら呟くと、彼女は無言の頷きをした。そんないかにも今の決まりました的な空気をこの器の小さな俺がすべて受け入れるわけもなく、
「まあ、俺はガリガリマッチョはまっぴらごめんだがな。あとその無言の頷きはやめろ」
と言い放った。
彼女は鼻毛を鼻の奥から他人にも見える位置まで引っ張る動作を何度か繰り返しながら、
「だから男は嫌いなんだ」
と言って風呂に入って行った。
「ガキめ」
と俺は頭の中で彼女を切り捨てた。
その夜、俺は彼女が寝静まった後に一人起きてきて隣りの部屋で腕立て伏せを始めた。これは後で聞いた話なのだが、彼女は実はまだ寝ていなかったみたいで、俺が腕立て伏せをしていたのをちゃんと知っていたのである。彼女はさぞかし感動したであろうと思っていたのだが、俺の腕立て伏せをする時の息つかいのせいでまったく寝れなくて大変腹が立ったと言われた。俺はそれ以来、一度も腕立て伏せをしていない。